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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[894] 『 生長の家 』誌 昭和25年5月号法語 谷口雅春先生(1)〜(31)【完】
明鏡 - 2014年05月01日 (木) 10時50分



【 目次 】


一日の法語  吾は常に平和と安静と明朗である

二日の法語  吾は吾を唯幸福にのみ導き給う神を信ずる

三日の法語  物事を良くするのは心配によってではない

四日の法語  吾れ神と共にあり、何を恐れんや

五日の法語  自分を害する人にさえ其の幸福を祈れ


六日の法語  復活の力は「 赦し 」から出て来る

七日の法語  消極的な考えを捨てよ

八日の法語  不幸を数えるよりも幸福を数えよ

九日の法語  感謝と愛念をすべてに送れ

十日の法語  神の扉は暴力では開けない


十一日の法語  内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ

十二日の法語  不幸と見えるものは 「 過ぎ行く 」 波である

十三日の法語  汝(なんじ)の舌にて善き言葉のみを語れ

十四日の法語  吾が真実の自分は 「 神の子 」 である

十五日の法語  敵はないのに敵と見るな


十六日の法語  神の子たる貴方(あなた)の幸福は自身以外の誰も奪うことは出来ぬ

十七日の法語  難問題の解決は神にゆだねよ

十八日の法語  すべての事物は結局は最善の結果へ向かう

十九日の法語  神を憶(おも)えば、神は人を憶う

二十日の法語  赦(ゆる)してただ信ぜよ


二十一日の法語  神は吾が重荷を軽からしめ給う

二十二日の法語  汝を害する物は自分自身以外にない

二十三日の法語  神は犠牲を要求し給わぬ

二十四日の法語  神のみが実在である

二十五日の法語  祝福は祝福をよぶ


二十六日の法語  他を自分の思い通りにならせてはならない

二十七日の法語  彼らをあるが儘(まま)ならしめよ

二十八日の法語  困難の時には凡(あら)ゆる物に感謝合掌せよ

二十九日の法語  神に対して汝(なんじ)の心を投げかけよ

  三十日の法語  いくら忙しくとも一つ一つ片付けよ

三十一日の法語  神は最善の道を知り給う




[904] 一日の法語 〜 十日の法語
明鏡 - 2014年05月20日 (火) 09時48分


【 本文 】



【 一日の法語  吾(われ)は常に平和と安静と明朗である 】



外界に如何(いか)なる混乱状態が起って来ようとも、

吾(わ)が内には 常に平和と安静と明朗とがあるのである。


吾は今凡(あら)ゆる外界の混乱と不幸と心配とを

自分の心から完全に捨てるのである。


不幸も、混乱も、心配も、唯(ただ)現象の世界のものであって

実相の世界には存在しないのである。


そして実相のみが実在であるから、すべて不幸も心配も実相でないから、

それはあるかのようにみえても存在しないのである。


吾は如何なる場合にも神の方へ心を振り向け、

現象界の不調和に心を捉(とら)えられるということをしないのである。




【 二日の法語  吾は吾を唯幸福にのみ導き給う神を信ずる 】



外の世界に如何なることがおこって来ようとも、

吾は吾を唯幸福に導きたまう神のあることを信ずるのである。


吾々は現在の状態を人間の努力によって変化しようと

力む必要はないのである。


「 吾が業は吾がなすに非(あら)ず天地(あめつち)を貫きて生くる み親の力 」 と、

信ずるのである。


どんな時にも神に頼って居(お)れば

神がその時その場に適当なことをなすべく導いて下さるのである。


これを信ずるが故に吾は常に心の平和と安静とを保ち得て、落ち着いて何事もなすが故に

如何なる暗黒をも光に変ずることができるのである。




【 三日の法語  物事を良くするのは心配によってではない 】



如何なる不調和に見え、それは正しくないと見えるような出来事がおこって来ようとも、

私は決して心配したり いらいらしたりすることはないのである。


そこに何があろうともそれをよくする力は

自分の内に宿っているのである。


それを良くする方法は

それを心配することではないのである。


「思い煩い」を唯 捨てて

神に任せるがいいのである。


ある詩人は唱(うた)っている。

「 吾は吾が戦いを戦えるに非ず、神とともに歌を歌えるなり 」


何事をするにも神とともに歌を歌う積(つも)りで

明るくすることが大切である。




【 四日の法語  吾れ神と共にあり、何を恐れんや 】



まず吾々は今 眼の前にある状態を

祝福しようではないか。


それが自分を害するものだという考えを

捨てようではないか。


今 眼の前にあるものは

過去の想念の影であるのである。


それはある様に見えているが

過去のものにすぎないのである。


それはすでに ないのである。

ないものに心を捉えられるな。


そこから新しいものが

生まれて来ようとしているのである。


新しきものは 自分の掌中にあるのである。

自分の手に於いて 神が働き給うのである。


神は今日ここにましますのである、自分の中に。

されば吾は何を恐れんや。




【 五日の法語  自分を害する人にさえ其(そ)の幸福を祈れ 】



神はすべてを良くし給う力である。

神の力が自分より完全にそそぎ出(い)でるためには

まず吾らはすべての人を赦さなければならないのである。


すべての人を赦して、而(しか)して後に

神に対して凡ゆるよきものを願う所の祈りが

神に対して波長が合うのである。


十字架の中からキリストが復活した様に

吾々も亦(また)凡ゆる苦難の中から復活することができるのである。


キリストは自分を十字架につけた者さえも決して呪(のろ)わず、

「 神よ彼らを赦し給え、彼らはなすことを知らざるなり 」 といって

彼を害した人の幸福さえも祈っているのである。




【 六日の法語  復活の力は「 赦し 」から出て来る 】



神の愛は永遠に変わらないが、

人間の心が変わって神の愛に

波長が合わなくなるだけである。


キリストが十字架から復活した様に、

凡ゆる不幸の中から復活する力が

自分の中に宿っているのである。


吾はすべての人々を赦す度毎(ごと)に

吾自身が赦されるのである。


神はすべての罪をすでに赦し給うたのである。

自分も亦すべての人を赦したのである。




【 七日の法語  消極的な考えを捨てよ 】


時として吾らは 自分自身を弱き者と考え

自分の様なものは とても健康になれないとか

とても成功できないとか 消極的に考え勝ちなのである。


かかる消極的考えを捨てよ。

吾々を不幸にするものは外界の状態でも、

時代の流れでもないのである。

それは自分の心が消極的に傾いていることである。


これらの消極的な心の態度を克服する時、

直ちに積極的な働きが自分の内から生まれて来るのである。


而してかかる消極的な考え方を克服する道は

何よりも人間が神の子であるということを知ることである。




【 八日の法語  不幸を数えるよりも幸福を数えよ 】


吾は神の子であり、神の子が自分の実相であり、

そこから健康が湧(わ)いて来、

インスピレーションが湧いて来、

日常生活についての色々の導きが得られるのである。


吾が内に宿る 「 神の子 」 が

人生を指導する 「 生きている力 」 である。


「 私は神の子だ。私は神の子だ 」 と

常に間断なく心の中に宣言せよ。


それが自分の中に宿っている神の子を

導きだして来る もっとも良き方法である。


凡ゆる神の祝福が神の子には

与えられているのである。


まず不幸を数えあげるよりも、

幸福を数えるようにすべきである。




【 九日の法語  感謝と愛念をすべてに送れ 】


自分の目の前にあるすべての事物に

感謝と愛念を送ることは、

そのすべての事物を完全ならしむる所の

もっともよき方法である。


自分の目の前にあるすべての人々に

感謝と愛念を以(もっ)て祝福することは

自分自身が祝福されることになるのである。


自分の与えたものがすべて自分にかえって来るのであって、

人を害して自分が利益を得ようと思っても、

それは無駄にすぎないのである。


自分は今日から凡(あら)ゆる事物に

感謝と愛念を送り、


さらにすべての人々に

感謝と祝福の念を送るのである。




【 十日の法語  神の扉は暴力では開けない 】


まず神の扉を開くことが第一である。


神の扉は 暴力では開けない。

我(が)の力でも開けないのである。


それは感謝によって開かれ

愛念によって開けるのである。


与えれば与えられる。


自分がまず与える心を

おこすことである。


「 神よ、私はあなたに

私自身を与えます。


私の肉体を 私の心を

私に属する凡ゆるものを

あなたに与えます。


私の肉体をあなたの欲し給(たま)うが如(ごと)く

お使い下さい。


私の心をあなたの み心のままに

お導き下さい。


私の仕事をあなたの管理の下に

お導き下さいませ 」


こう 真心から祈ることが必要である。




[905] 十一日の法語 〜 二十日の法語
明鏡 - 2014年05月20日 (火) 09時52分



【 十一日の法語  内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ 】


吾々が救われるのは

吾々の実相によって

救われるのである。


神の子である所の

すでに救われている実相を

認めることが必要である。


神の子をくらます様な何事をも なすな。


自分にいる所の 「 神の子 」 をくらましては

自分自身は滅びるより仕方がないのである。


吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、

凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。


吾に宿る神の子は、

自己に宿るキリストであり、

内在の仏性である。


それに目覚めることが第一である。




【 十二日の法語  不幸と見えるものは 「 過ぎ行く 」 波である 】


何事か自分を傷つけるものがおこって来たならば、

それを唯(ただ) 「 過ぎ行く姿 」であると観ぜよ。


全(すべ)ては波動的順序をもって前進する、

下にくぐった波は必ず上に上(のぼ)る。


「 愛する者の死 」 があっても悲しんではならぬ。

悲しまない模範(てほん)が見せてある。


彼は本当には失われてはいない。

いずれも波である。

一層高き世界に上らんがために

一時 姿を消したにすぎない。


神の み手に於(お)いては

何ものをも 未だかつて失われはしない。


すべての悪く見えるものは すぎ行く。

そしてよきものが顕現する過程である。




【 十三日の法語  汝(なんじ)の舌にて善き言葉のみを語れ 】


汝の舌によって憎みの言葉を語るな。

悪しきことを語るな。

人を呪(のろ)う言葉を語るな。


汝の心に悪を思うな。

怒る勿(なか)れ。

憎む勿れ。

そして唯 実相のみを見よ。

これ汝らが神によって救われんがためである。


神は無限の愛であるから

何ものをも憎み給うことなく、

怒り給うことなく、

永遠に吾々を祝福し給うているのである。


常に神にふりむけ、

そして愛の言葉のみを語れ。

人のよきことのみを語れ。


かくれたる所にて

凡ゆる人々をほめよ。


それが自己に於いて

神を現わす所の

最善の智慧である。


誰かが自分の心を傷つけようとも、

それは かつて自分が誰かを傷つけたことがあるからである。




【 十四日の法語  吾が真実の自分は 「 神の子 」 である 】


吾に宿り給う 「 神 」 が本当の自分である。


神は遠い所に ますますのではなくして

今ここに自分の内に

凡ゆる善を与えんがために すでに い給うのである。


全能の神が自分の内に宿っていて、

もし自分がそれに振り向きさえするならば、

いつでも神は吾がために働き給うのである。


常に神は働き給うているのであるのに

気づかずして、神からはなれて 自分の我で

物事をしようとするから失敗が現われて来るのである。


神は吾にその生命を

投げ入れ給うたのである。


それ故に吾も神に吾が生命を

投げ入れるべきである。




【 十五日の法語  敵はないのに敵と見るな 】


何人(なんびと)かが あなたから幸福を取り去り得ると

あなたはお考えになりますか。


すべて不幸な境遇は、自分の外(ほか)にある物が

自分から幸福を奪い去る力があると思う所から生ずるのである。


然(しか)し乍(なが)らあなたの幸福は本来あなたのものであって、

外にある何ものによっても奪われるということは決してあり得ないのである。


あなたの幸福が誰から奪われるかも知れないとあなたが恐怖する。

そしてあなたが相手を敵と認める。敵はないのに敵を認める。

想像の敵が具体化して遂にあなたを不幸に陥れることになるのである。




【 十六日の法語  神の子たる貴方(あなた)の幸福は 自身以外の誰も奪うことは出来ぬ 】


この世界は神の造り給うた世界であるから

何事も恐るべきものは真に存在することはできないのである。


他の人が何と云おうと、何をなそうと、

彼らが吾々自身の幸福を奪うことはできないのである。


人間は神の子であるから、

神の子には幸福がつきものであるのである。


神は全能であるから

神が神の子に与えた所の幸福を

他(ほか)から奪うことはできないのである。


吾は常に神とともに生き、

神とともに働きつつあるのである。


すべての幸福は

自分のものであるのである。




【 十七日の法語  難問題の解決は神にゆだねよ 】


右すべきか左すべきか決定することの

できないような難問題に面した時には、

直ちに神にふりむく事が必要である。


神の智慧は曲れるを直くし、

くだけたるを完全ならしめ、

傷つきたるを癒やすべき道を知り給うのである。


かかる際には

「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力湧き出でよ 」

と念ずることが必要である。


この言葉を数回念じて 心を平静にしていると

自然に適当な智慧が 自分の中(うち)に湧き出て来て、

如何なる難問題も解決されることになるのである。




【 十八日の法語  すべての事物は結局は最善の結果へ向かう 】


もし吾々がここが神の世界であり、

凡ゆるものが自分を祝福するために

共同作用を営みつつあるものだということがわかるならば、


吾々は 現在目の前に進行している出来事が

どんな不幸の様に見えても

それについて思い煩う必要はないのである。


もし吾が心の平安が害(そこな)われるということがあるならば、

その瞬間ふりかえりて光明面に

心を転じさえすればいいのである。


それには

「 すべてのものは 共同作用を営みつつ 吾が善を成就しつつあるのである 」

と繰り返し繰り返し心に念ずるがいいのである。




【 十九日の法語  神を憶(おも)えば、神は人を憶う 】


如何なる現象の困難に面しようとも、

それについて思い煩わないものは幸いなるかな。


彼は神に祝福されたるものである。


神を思い出せば

神の光を受けるのである。


すでに光は与えられているけれども

思い出さないのは

神に対して波長を合わさないのと

同じことである。


神が常に吾と共にあり、

吾が内に宿って い給うこと

ラジオの波が到(いた)る処(ところ)に存在するのと

同じことである。


然(しか)し波長を合わさなければ

放送は きこえない。


それと同じく神が常に内にとりまいているけれども、

吾々が神を思いださない限りは

その恵みを完全には受け取ることはできないのである。




【 二十日の法語  赦(ゆる)してただ信ぜよ 】


唯(ただ)信じさえすればいいのである。

信ずるとは 如実に神が今此処(ここ)、自分の内に

働いていたまうことを知ることである。


信念は 神に対して波長を合わす。

「 神さま、神さま、神さま、神さま・・・」 と百遍千遍

暇があれば神に対してよびかけよ。


神は 常にあなたにこたえ給うであろう。

神は決して罰をあてる恐しい地獄の鬼ではないのである。


神は赦しの神である。

愛の神である。


唯、自分が人の罪を赦していないと、

自分には「赦し」の波長が受けられない。


困難の時に神によびかけるだけでなく、

平和の時に神に対してよびかけよ。


神は汝(なんじ)の愛深き父である。



[906] 二十一日の法語 〜 三十一日の法語
明鏡 - 2014年05月20日 (火) 22時41分



【 二十一日の法語  神は吾が重荷を軽からしめ給う 】


あなたにとってどんなに難しくそれが見える時にも、

神にとって難しいものは一つもないのである。


どんな病気も神なら治すことができるし、

どんな借金も神なら払うことができるのである。


自分の体を 神の体だと思え。

自分の仕事を 神の仕事だと思え。


神は 弱き体をも 力士の如(ごと)く 強くならしめ、

貧しきものを ソロモンの如く 富ましめることができるのである。


今日、一日を神の仕事の番頭であると思いて業務を励め。


重荷を自分で負うな。

重荷は神に委(ゆだ)ねよ。


然して平安であれ、心安かれ。




【 二十二日の法語  汝を害する物は自分自身以外にない 】


何ものも何ものもあなたを害するものはないのである。

自分が心の中に 「 害するもの 」 を認めさえしなければ

この世界にあなたを害するものは一つもない。


「 知らずして害された 」 という人があるかも知れないけれども、

本当は人間には、その潜在意識に於いて 「 知らないもの 」 はない。



知り乍(なが)ら自然と害を受ける様な所へ

自分の位置を持って行くのである。


それは自己処罰の考えからも出て来るし、

自己犠牲の心からも出て来る。


他が害するのではなく

自分自身の 「 受難の心 」 が自分を害するのである。



※ 何ものも何ものも・・・「 何者も何物も 」の意。




【 二十三日の法語  神は犠牲を要求し給わぬ 】


犠牲が必要であると思い、

受難が必要であると思うのは、


神が造り給うたこの世界に

何か足りない所があって


自分の犠牲や受難によって

それを補うてやらねばならないのだというような、


神の創造の完全さを信じない増上慢の心から

生ずるのである。


神の造り給うた此の世界は、

人間の犠牲によって補わなければならないという様な

そんな不完全なものでは決してないのである。


犠牲も要らず受難も要らず、

唯 神の完全なる生活を営ましめんと欲し給うのが

神の み心であるのである。




【 二十四日の法語  神のみが実在である 】


吾々を動きのとれなくするのは恐怖心である。

他物でもなく他人でもないのである。


蛙(かえる)は 蛇にみつめられると、

自由自在に逃げる力はありながら、

恐怖心によって自分自身を縛ってしまい、

蛇の餌食(えじき)となる。


多くの病人は自己の内部に、

生きる力、回復する力をもちながら、

恐怖心のために生活力を縛ってしまい、

病気の餌食となってしまう。


吾々は色々の意味に於いて自分を縛る恐怖心を

多少とも もっているものであるが、

それは まだ全身全霊が 「 神のみが実在である 」 という真理を

深く自覚していないからである。





【 二十五日の法語  祝福は祝福をよぶ 】


腹が立つのは自分が悪いとわからずに

人が自分に害を与えたと思うからである。


「 親和 」 の原理によって

自分と親和力のないものは

一つとして自分に近づいて来る事はできない。


されば他を呪(のろ)う前に

自分自身を省みることが必要である。


自分が人を呪うならば

「 類を以(もっ)て集まる 」 親和の原則によって、

自分を呪い害するもののみが

尚(なお)一層多く集まって来る。


腹が立つ時程

人を呪ってはならない。


敵を見るな。

見ゆるもののために

祝福をなげかけよ。


祝福は祝福をよび、

よきもののみが あなたの周囲にあつまって来る。





【 二十六日の法語  他を自分の思い通りにならせてはならない 】


心が焦々(いらいら)して来る時には、

他(ほか)に対して働きかけるな。

手紙を書くな。


自分の心が平和でない時に

人に対して何事かをしかければ、

その行いにも 手紙にも 言葉にも すべて不調和の雰囲気がつきまとうから

必ず悪しき結果が 相手から反響して来るのである。


そんな時には静かなる所に退いて

何故(なぜ)自分がいらいらしているのか

内省して見よ。


必ずや、あなたは誰(だれ)か他の者が

自分の思う通りにならない結果であることがわかるだろう。


かかる時に 「 自分の思うようにならせたい 」 という我の心を

捨てることが必要である。





【 二十七日の法語  彼らをあるが儘(まま)ならしめよ 】


この世界は神が支配しているのである。神のみが支配者である。


神がすべての人に自由を与えたのであって、

我意のままに周囲の人を支配する様には

造られていないのである。


腹が立つのは己が思う様に人をしたいからである。

他の人をして他の人自身たらしめ、

彼をして彼自身たらしめ、

自分の考えを以て他を強制しようという考えを

捨てた時に始めてこの世の中は、

神が定めた通りに万物が自然に調和して行われるのである。


なるがままにすべてのものを祝福せよ。




【 二十八日の法語  困難の時には凡(あら)ゆる物に感謝合掌せよ 】


四面楚歌(そか)の行きづまった状態を

解放する唯一の方法は

神に振り向くということである。


周囲が如何にふさがっているにしても、

上方は必ず空いているのである。


神に向かう道が

ふさがるということは

あり得ないのである。


神に振り向くとは

神に感謝することであり、

神の造り給うたあらゆるものに

感謝と合掌とを送ることである。


疑わずそれを行ってみよ。

神は如何なる困難の金城鉄壁をも打破して

調和と幸福と豊かさと健康とを恵み給うのである。




【 二十九日の法語  神に対して汝(なんじ)の心を投げかけよ 】


凡ゆる瞬間 凡ゆる所に於いて 

神がましますということは、

凡ゆる時と場所とに於いて

神が吾らを守って い給うということである。


あなたの心を神に対して投げかけよ。

神はあなたに与え給うであろう。


常に神の助けのない世界はないのである。

どこから如何にして

神が吾々を助け給うかはわからないにしても、

神の 目に見えぬ智慧の手が

凡ゆるものの自然なる運行を導き給うて

あなたを本当の幸福に導き給うのである。


神は一切のものを

調和と繁栄と幸福とに導き給う所の

中心的統一者である。




【 三十の法語  いくら忙しくとも一つ一つ片付けよ 】


人生に処して余りに多忙な生活を送っている場合には、

凡ゆる方面の仕事が一時に殺到して来て、

すべてのものを一時に成就せしめなければならない様な

多忙な状態にかりたてられ、

ともすると“いらいら”した気分になりがちである。


こんな時ほど吾々は心を平和にしなければならない。

千手観世音菩薩の千本の手があっても、

心が一つのものにでも ひっかかると

後の九百九十九本は役に立たなくなるのである。


凡ゆる仕事に一時にとりかかるな。

唯(ただ)一つの仕事と思いて一つ終って

次に取りかかればいいのである。




【 三十一の法語  神は最善の道を知り給う 】


忙しい時程

心が落ち着かなければならない。


自分がその仕事をするのだと思ってはならない。


「 わが内に宿る神がこれをなさしめ給う 」 と

心の中に数回唱える様にしてから

仕事をするがよいのである。


わが仕事は吾(わ)が仕事ではないのであって

神がなさしめ給うのであると知る時

それが たとい思う様に行かなくとも

神が今日これを完了せしめ給わないことが

神の み心であると悟ることによって、

仕事が完成しないでも

落ちつく事ができるのである。


汽車にのりおくれたために

危害から救われた人もある。


品物を売りそこねたために、

あとから儲(もう)かる人もある。






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