[912] 赦しの祈りは人間を解放する |
- 明鏡 - 2014年05月25日 (日) 13時27分
『 理想世界 』 誌 昭和五十七年四月号
「赦しの祈りは人間を解放する」 谷口雅春先生
1. 谷口雅春先生が 昭和四十五年五月より四十九年十月まで全国にラジオ放送された
『 幸福への出発 』 の 第六六五回放送分 です。
2. 『幸福への出発』の録音筆写に更に加筆されたものが、
「 神性開発・完全健康の原理―聖経『 真理の吟唱 』を講義しながらー」 の御本に
収録されておりますが、本稿は未収録です。
【 神の完全さを内蔵する“神の子” 】
お早うございます。
今日も 『 真理の吟唱 』 のつづきを朗読いたします。
一二九頁、( 聖経版一七六頁 )「 智慧と愛と赦しのための祈り 」 というところであります。
朗読いたします。
『 智慧と愛と赦しのための祈り
私は神の子である。
“神の子”であるということは
神より小さき者という意味ではないのである。
“神の子”とは“神の具体化”であり、
姿形(すがたかたち)の幽(ゆう)なる神が、
姿形の顕(けん)なる神として
自己実現して来たという意味なのである。
それゆえに神のもちたまえる全徳(ぜんとく)を
わが身に体現し得(う)るのが“神の子”なる人間である。
もし、神の完全なる姿を具体化することができなかったならば、
それは完全な神の実相が宿っていないからではなく、
神の完全な実相が宿っていながら、
それを自覚しないからに過ぎないのである。
“神の子”は、神の完全さを、
自己の実相として内部に包蔵するのである。
それゆえに神の完全なる生命はわが内にあり、
それを神想観によって自覚すれば、
その生命力はますます健全となるのである。
また“神の子”なる人間には
神の完全なる智慧はわが内にあり、
神想観によって、その智慧を自覚する程度に従って、
それは自己を導く光となり、
日常生活にも、職業方面にも、あらゆる企画や行動に
決して躓(つまず)くことがなくなるのである。
人間は神の子であり、
神の完全なる愛が自己の内に宿っているのであるから、
私の愛は完全であり、
如何なる人の罪をも完全にゆるして
咎(とが)めることはないのである。
そして罪は本来存在しないのであるから、
その人に罪があらわれているのは、
その人の実相が陰(かげ)になって
隠されているだけであるから、
その人の完全なる実相を観じ、
真理の光をもって
陰の暗黒を消し去るようにしてあげれば
必ずその人の完全なる実相が顕われ、
かつて敵と見えたりし者は
味方となり、自分の協力者となり、
相ともに真理の道を進むようになるのである。
神の愛は全包容的であり、
如何なる人々をも看過(みのが)すということはないのである。
それゆえに神の子なる私の愛も
全包容的であり、如何なる人々をも赦すのである。
唇にて“彼を赦す”というのは容易であるけれども、
私は単に言葉にて「赦しました」というだけではなく、
全精神を以って
すべての人々を赦すのである。
赦すというよりも、
すべての人々の実相を観ずるとき、
すべての人々の実相は神の子であるから、
赦すべき罪もなきことを知って、
その実相の完全さを解放するのである。
本当の赦しというのは、
相手の悪や罪をみとめて、
それを怺(こら)えながら赦してやるというのではなく、
罪なき彼の実相を観じて、
それを解放し顕現させるのであるから、
彼自身がそのまま完全になるのである。
われは今、すべての人間の“神の子”たる実相の完全さを観じて、
この世界がまことに神の創造になる完全世界なる事を知り、
一人として罪人(つみびと)も悪人もなき事を知り、
悦びに満たされているのである。』
【本当の赦しとは・・・】
この中で注目すべきことは、「 罪は本来存在しない 」 ということであります。
そして赦すということは如何なることであるか、ということが書かれているわけです。
それで、「あいつは悪い奴で罪深い奴だけれども、我慢して怺(こら)えてやって赦してやる」というのは
本当の赦しではない、というのであります。
罪のナイところの彼の実相を観じて、
それを解放して顕現させるのが、
それが本当の赦しであるというのであります。
多くの病気は、人を赦さないために現れているのであります。
これは少しく精神分析(サイコアナリシスpsychoanalysis)を勉強した人、
あるいは精神身体医学(サイコアマテイック メディスン psychosomatic medicicine)を研究した人は
大抵知っていらっしゃるでしょう。
多くの病気は攻撃精神というのから起こります。
攻撃精神、あるいは赦さない心というのが病気の原因になるのです。
この頃、テレビの放送やラジオの放送を聞いていると、
赦さないことがいっぱい出てきます。
賠償の要求であるとか、相手を責めることばっかり一所懸命にやっています。
これはまことに地獄相です。
地獄の世界というところは
責めることばっかりの鬼がおる世界なんです。
それで人を責める代りに、
もっと人を礼拝する、拝む心を起すようにしたら、
もっとわれわれの住む世界が
幸福な、極楽みたいな状態になると思うのであります。
人間に基本人権があるということは一体どういうことかというと、
それは神の生命(いのち)が宿っているから基本人権がある、
神のみが絶対の存在者であって、
その絶対の存在者が宿っているから
基本人権という絶対価値あるものが人間に宿っているんです。
その基本人権を認めれば、
それを拝まなければいかんと思うんですね。
それを拝んだら、
その立派な相(すがた)が出てくるんです。
これは本当に仏教の生き方であり、
それから『法華経』の生き方であります。
『法華経』には、こういうことが書いてあります。
「常不軽菩薩品(じょうきょうぼさつほん)」というところに、
常不軽菩薩の不軽というのは“軽んぜず”と書いてありますが、
「われ人を軽んぜず」と言って、すべての人間を拝んだ菩薩の話が書いてあります。
【 如来のいのちを拝む 】
その常不軽菩薩は、相手がどんな罪人であろうと、どんなヤクザであろうと、
そんなヤクザとか不良であるとかというものは
影の、表面のちょいと垢(あか)が付いたような姿であって、
その奥には如来のいのちが宿っているのであるということを拝んだというんですね。
それでどんなヤクザでも拝んだらそのヤクザが怒って、
「 俺を拝みやがって何しやがる! 俺は仏じゃないぞ、
そんなにわしを拝んだって何のことになるか!
要(い)らんことしやがると叩(たた)き殺してしまうぞ!」
と言って石を持ちあげて、それで常不軽菩薩を叩き殺そうとしたら、
常不軽菩薩はその石の届かんところへ逃れて行ってまた拝みました。そして、
「 あなた様は如来のいのちが宿っておられます。
当来必ず如来の実相が現われる素晴しい方でございます 」
と言って拝んだっていうんですね。
そのように全ての人間を拝んだ功徳によって、
その常不軽菩薩がいま釈迦牟尼如来として
今ここに生まれ変わって出てきているのでありますが、
そのようにお釈迦さんは説教されたということが
『法華経』に書いてあるんですが、
どうですか?これが仏教の実践的神髄であります。
生長の家もこの仏教の実践的神髄を実行するんです。
例えば、東京では飛田給の練成道場で
毎月初旬、一日から十日まで、十日間の練成をやっていますが、
その練成道場に修行に来た人がはじめて門を潜(くぐ)ると
そこに練成道場員たちがズーッと並んで拝んでいる。
入って来る人をみんな拝んでいる。
するとはじめて来た人はびっくりして、
“何を拝みやがるんだ”(「有難うございます、有難うございます」と言って拝んでいるから)
“何が有難いんだい!?
みんな(癲狂てんきょう病院で)気違いが集まっているのとちがうか”と、こう思うんです。
ところが練成を受けて、四日、五日目位になると、
自分もすべての人間を拝み出して、
そうして、その拝みが徹底した人は病気が治り出すんです。
人を赦すっていうのは、
罪あるのを我慢するんじゃなくて、
罪はナイという実相を知って、
その実相の如来のいのちが宿っている、その実相を拝み出すんだ。
そうしたら、相手の実相も顕れるし、自分の実相も顕れるんですね。・・・
|
|