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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[2] なぜ、こんなに『鎮護国家』が大切な理由 〜霊界通信を通して〜 
マリーゴールド - 2012年12月29日 (土) 22時29分


合掌 有難うございます。

 生長の家“本流宣言”掲示板の3786番に、“信徒連合”さまが掲載下さっておられます、「霊界通信」の御投稿でございますが、生長の家が『鎮護国家』を掲げていくことの重要性が記されていると感じますので、以下に再掲載させて戴きたいと思います。


 “信徒連合”様の御承諾を戴くことなく、再掲載をさせて戴くことを、お許し戴きたく思います。よろしくお願い申し上げます。


 大変私事となりますが、私は高校生時代ほぼ毎日のように、ご文章に出て参ります、木曽先生のご自宅に伺い真理のご指導を戴いておりました。真心いっぱいのご指導と愛国のお話を懇切丁寧に御指導を戴いた事を思い出し、目頭が熱くなってまいります。


 木曽先生や英霊の御霊様方が、本流の皆様に「鎮護国家を頼むぞ」と仰っておられるようにも感じます。


 それでは以下スレッドに再掲載させていただきます。よろしくお願い申し上げます。


       感謝 合掌 再拝



※生長の家光明掲示板への投稿と重複致しますので、あらかじめ御了承ください。


[3] “信徒連合”様の投稿です。
マリーゴールド - 2012年12月29日 (土) 22時33分


日時:2011年08月08日 (月) 08時06分
名前:信徒連合


<終戦の日・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その六>



      [ W ] 護国の英霊はかく語りき(霊界通信体験記)



 この霊界通信体験記は、広島県尾道市西土堂の木曽正人氏が記され遺されたものであります。氏はその後、天上界に移られたそうでありますが、氏の霊魂の許可を頂きまして、この貴重なご体験を皆さまにお伝え致したく存じます。



<< 昭和五十三年六月末頃より、私は地元の「三都新聞」編集長の小林嘉雄氏から、フィリッピン・レイテ島への戦没者遺骨拾集と慰霊を兼ねた「日比友好使節団」の団長を勤めてくれないかとの勧誘を再三うけていた。しかし、私自身、当該地に直接関係がないこと、また市議会議員としての重責等、多忙で承諾できなかったのだが、私の他に適任者がないと週に二、三回の強引なまでの勧めに、遂に渡比する決心がついたのだった。ところが私の出発直前になって熱心に説得してくれた当の小林氏が急に入院され、十月二十七日の早朝、氏の訃報を受けたのである。「木曽さんが団長を引き受けてくれてよかった、私の役目はおわった。」と彼は亡くなる前、細君に語られたとの事であった。私をフィリッピンに眠る英霊たちの慰霊に是非行かせたいとの一念に生きて下さったのであろう。小林嘉雄氏に心からなる哀悼の意を表するとともに、後で起きた大感動を想うとき、深く感謝の意を捧げるものである。


 顧みれば、私が満州の関東軍に従軍していた昭和十九年当初、フィリッピン防衛と現地応援のため、機械化部隊の隊長として着任するばかりになっていた二日前、急遽、内地の学校付転任を命ぜられ、突然の事とてことのほか残念でならなかったが、私の原隊である福山四十一連隊の一部を中心に編成された炭谷部隊は、レイテ島に進出し、悲涙の下に全滅したのである。嘗ての日、転任を命じられなかったならば、今の私はなかったであろうことを思うとき、運命の神の御業か、私に英霊供養等の事をせしむべく残され給うたか、感無量、叉、私をかく導き護り下さる産土の神と、吾が御先祖様に深く感謝の意を表せざるを得ないのである。




 運命のビリヤバ部落へ


 昭和五十三年十月十九日午後一時四十分、私たち一行はフィリッピンに向けて成田国際空港を出発した。龍宮住吉本宮落慶の直前であった。当初四十一名の団員はコレラ騒ぎ等で逐次減少し、終には十名となり、更にルソン島で八名になった。

            
 マニラ空港には七時着、更にセブ島を経て翌二十日レイテ島タクロバン空港に到着、当初予定した「日比平和の集い」には参加出来なかったが、マルコス大統領夫人宅のレセプションに出席し、翌二十一日朝より、ジープにて炭谷部隊及び他の部隊の戦跡慰霊に出発したのである。


 タクロバン市西方約四十キロのトンガ河、更に西南方二十キロの通称五一七高地、リモン峠激戦地跡に到る。此処で炭谷部隊は多くの戦死者を出し、且つ、弾薬、食糧の欠乏、マラリヤ等の病魔に冒され、ついに「天皇陛下万歳」を絶叫して全員壮烈な自決を遂げたという。
 

 次々に遺骨の拾集と慰霊祭を行い、私たち一行は十時十五分、リモン峠から西方九十キロのビリヤバ部落に入った。ここは日本軍各部隊が大集結、激烈な戦闘の末に多数の部隊が全滅し、実に七千名にも及ぶ戦死者を出した運命の地である。山麓に位置するこの地には既に二基の慰霊碑、五十近い卒塔婆が立ち並び過去の慰霊の跡が偲ばれた。私たち一行も持参の品々を供え慟哭の祭典を挙行したのである。




 雲集する英霊たち


 雲一つない上天気、慰霊祭は、土肥政男「三都新聞」写真部長の般若心経の読誦に始まり、私の弔辞へと移った。その直後である。快晴の天空の彼方から“ドドド-----ン”という雷鳴が轟き渡り、一行を驚嘆させた。更に弔辞を終える頃、再び雷の大音響が轟いたのである。一同、度重なる現象の不可思議に驚き入るばかりであった。過去に二十七回も慰霊及び遺骨拾集に参加された土肥氏は「実に不思議だ。今まで一度もこんなことに出会ったことはない」とこの時の模様を『三都新聞』に記事にされている。引き続き、各自瞑目合掌の内に祈りを捧げていたそのとき、私は驚天動地の如き体験を得ることになるのである。


 私は心の奥底で、祖国のために奮戦し武運つたなく護国の神と化された多くの英霊を呼び、感謝の誠を捧げるべく一心に聖経『甘露の法雨』を暗誦しながら精神統一していた。いつしか幽明の境を越えたのであろうか、暫くする内に何とも形容出来ぬ柔らかい、ほのかな光が私の全身に投げかけられているような雰囲気にふと眼を開けた。(肉眼をあけたか、心眼で観たものか、今もって不明だが)


 眺めると小高い山頂付近に、柔らかい黄金色に包まれた神か仏か観世音菩薩か、定かには分からない御方が、尽十方に燦々(さんさん)と霊光を投げかけておられる。その両側に何時の間にか入道雲のように(最初は本当に雲だと思った。)横に整然と兵隊姿の英霊が正に雲集して浮かんでいる。その数何千、何万とも知らず、皆ボロボロに破れた軍服に穴のあいた帽子と、見る影も無いほど無残なものでありながら、そのお顔だけは皆二十歳前後の若々しい喜びを満面にたたえて私の方を見ているのである。すると叉、遠方で“ドドド-------“という雷鳴(私には、英霊が口を揃えて歓声を挙げたかに聞こえた)と同時に、中央に居られる神々しいお方の口が動いたと思うや、私の耳元に柔らかい、まるで澄み切った金の鈴を振るような声が聞こえてきたのである。
「よくお出で下さいました。お待ちいたして居りました」と。私は全身にピリピリと電流が流れるような身震いを感じた。信じられない事が眼前に展開されている。!


 そのお方は続けられた。――――

 「この日を長いことお待ちしておりました。今日まで多くの遺族の方々、立派なお寺の住職、政府派遣の方達が慰霊のために幾度となくお出で下さいました。それは嬉しいことであります。しかし、これまで誰一人として私たちとの話し合いの出来る方と会うことがありませんでした。誰かそのような方をと、数年前より想念を送り続けてまいりました。が、ついに本日こうして貴方に来ていただき話し合いが出来る事は誠に有難いことです。」


 私は身に余る感激に唯々合掌し、一心にこの言葉を聴いていた。(もっともこれは帰国後気付いたことではあるが、英霊との交流はフィリッピンへ出発する約二年ほど前より続けられていたのかも知れない。と言うのは、夜半の午前三時から三時半頃になると、私は必ず誰かに起こされていたのである。起きた時は全身に汗をかき、胸の方がびっしょり濡れていたのだ。最初の半年くらいは身体をふき、再度床についていたが、次第に朝六時頃まで眠ることが出来ない状態にまでなってくると、その辛(つら)さは筆舌につくし難いほどで、「生命の実相」を貪り読んだ事もあった。また聖経『甘露の法雨』を仏前で読誦し、一ヶ月ほどは水風呂に入り神想観をし、亀の子たわしで血の滲むほど摩擦もしたが全ては徒労だった。身体は四キロもやせ、気は焦るばかりだった。ところが慰霊祭の旅から帰ると不思議にもいつしかその症状がすっかり消え、ぐっすりと眠れるのである。)

 
 このビリヤバの地で、英霊の「数年前から霊念を送り続けた」と言はれる事と私の身体の現象とを思い合わせるとき不思議な感慨にとらわれるのである。




 祖国の再建を約す


 中央座のお方は、さらに続けられた。「私たちは、過去三十有余年前、祖国のため第一線に参じ、唯々一死奉公、残念ながら武運つたなく、この地に於いて戦死しましたが、今日に至るも、私たちは魂の安住の地を得ることが出来ませんでした。悲しみの中に、今尚戦い、且つさまよっている霊魂の戦友が沢山おられるのです。私たちは今も“此処”に生き続け、祖国日本を護らんと祈念し続けて来ました。何卒、一日も早く、私たちに安住の地を--------貴方を通じて多くの人にお伝え下さい」!!


 そう語られると、周囲に雲集せる英霊が一斉に頭を下げられた。私も自然に深く礼拝したと思う。滂沱(ぼうだ)と流れる涙に胸つまり、恐らくは一切無の心境から、ふっと我に返り、自問自答していた私である。―――有史以来、初めての敗戦によって大きな痛手を受けた日本国民が、占領憲法、日教組教育、マスコミの扇動等で民族の誇る精神文化は喪失され、靖国神社への天皇陛下の公式参拝は言うに及ばず、その国家護持さえもままならぬ今日である。英霊の申されることは痛いほど心にしみる。しかし、急ぐべき憲法復元改正も靖国神社法案成立も、果たしてこの私一人が動いたとて出来る事であろうか、否、否、不可能だ--------。


 そう思うや、眼前の黄金色の霊光が急に暗くなり、中央座の御方の御姿は薄らぎ、同時に喜色満面だった英霊の顔が落ち窪んでそれは悲しい骸骨に一変したのである。私は驚嘆し、一心に懺悔し落涙していた。“私は間違っていました。祖国再建に全力を尽くします”と絶叫した。その瞬間、周囲は再び元の霊光燦然たる世界にもどり、神々しき御方の御言葉が再び聴こえるようになった。しかし、それからの内容は、生長の家の信徒の私にとり、誠に衝撃的なものであったのである。




 尊師は神であらせられる


「霊界では、これまで祖国の現状を見るにつけ、私たちの死が無駄であったとか、そうではないとか様々な意見があって混乱しておりましたが、この数年間に漸く平定され、今後は現象界が浄化されて来るでしょう。

 そのために世界は非常に危機的な様相を呈して来ます。(この内容も具体的に表現されたが本稿では割愛する)日本もその渦中に包含されるが、祖国の上空は私達、念の力で必ず護ります。」

 私は思わず反論した。「念の力で、その様な事が可能でしょうか?」

 間髪を入れずに厳しい叱責の声。

 「念の力がどんなに強いかは、貴方が一番良く識っているではありませんか。」

 心に飛び込んで来た響きに、私は素直に謝意を表した。

 「しかし、現象の日本国は何と言っても現象界の貴方たちの努力で護るより他に方法はない。私達も勿論応援はします。ところで今、長崎に素晴らしいものが完成しつつありますね。」

 「-------はい、鎮護国家出龍宮住吉本宮という住吉大神の御出御を仰ぐ御社が出来ています。」

「私たちは以前から承知しております。誠に慶びに堪えません。その完成の日を待ちこがれていたのです。さて貴方は谷口雅春(呼びすてにされた)を識っていますね。」

 「はい、私達、生長の家の総裁先生であります。」


 「そうです。しかし、ご存知ですか、あの方は人間の姿をして居るが、実は住吉大神の化身でありますよ。」


 その強い響きの言葉に触れた時の私の驚きたるや、言語を絶したものであり、永年の信仰生活の中でこれほどの感動はなかった。


 嗚呼、尊師は神そのものであらせられる。

 「今後の日本国を護る、その中心になって活動するのは、実に谷口雅春導きになる生長の家の信徒の皆様意外にはありません。確かに自衛隊も必要ですが、まだまだ不十分です。国と国との戦いよりも内部の革命分子の蜂起を未然に防止することに起ち上がって下さるのが信徒の皆様なのです。

 しかし、何と言っても、現在の誌友が二百五十万や三百万では不十分です。少なくとも、一千万人の方々が信徒・誌友にならなければ-------この儘ではこの日本国は名のみ残り、真の日本国は永久に顕われないかも知れません。

 幸いに住吉大神の御顕斎をする御社が建立され、今後は此処が日本国の真の姿を顕す中心となるでしょう。且つ亦、同時に世界浄化の中心の起点となるでしょう。

 以上の事をよく御考慮下さいまして、お帰りになりましたら直ちに是非とも多くの方々にお伝え下さることをお願いします。」

 その言葉が終わるや眼前の霊光はすうっと消えていったのである。



               
 天皇国・日本の実相顕現に向けて


 その直後、私はドキッと心臓が高鳴るような衝撃を受けて我に返った。誰かが私の肩を叩いたらしい。一気に現象界に目覚めたものの、暫くは自分が何処にいるのか混沌としている有様だった。

 霊的対話の時間は定かではない。遺族の方の申されるのもまちまちで、三十分と言う人、五十五分という人も居た。ただ一様に私が立って祈って居たのが、いつしか座して不動になった事を不思議に思っていたとのことである。

 あの時の英霊との対話は夢ではなかったと私は信じている。しかし、現象的にはどうしても納得がゆかず、あれこれ悩み乍ら、いつしか歳月が流れ、英霊達との約束もはたされないままであった。心中、申し訳なさで一杯の日々であったが、今や内外の情勢は、刻々緊迫の度を深めつつある。日本を護るため今、ここで起ち上がって尊師の御心を体し、日本国の実相顕現、鎮護国家、人類光明化運動の実を挙げる時は来たと思う。

 皆様のご批判を仰ぎ、賛意を表していただけるならば、急遽(きゅうきょ)この体験を知って頂きたい。そう念じつつ筆を執った次第である。


           広島県尾道市西土堂町3−13  
                    木曽正人   >>  


          平成23年8月8日
           本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成  合掌



[50] 大切なご文章です。
管理人 - 2013年01月12日 (土) 19時35分

なので、上げさせていただきます。



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