[112] 改革のエネルギーは、うそつき≠ゥらは出て来ない ― 恩田木工物語 ― |
- 童子 - 2013年01月19日 (土) 15時09分
光明版ではチキンの話題で盛上がっているようですが・・・
田中忠雄講師の『雄峯夜話』〈『生長の家』誌53年4月号』〉から3〜4回に分割して。
『うそを言わないこと』
恩田木工(おんだもく)の名は、信州長野方面ではよく知られ、その素晴しい業績はながく言い語り継がれてきたが、ひろく全国的に知られるようになったのは、今から三十七年前の昭和十六年に岩波文庫本『日暮硯』が出て版を重ねるに及んでからであった。
『日暮硯』は恩田木工の業績を記録した極めて短い小冊子にすぎないが、彼の政治家的人間像があざやかに描きだされていて、むかしはかかる政治家のありけるよと感歎せずにはいられない。
正直にいうと、じつは私は最近までこの名高い書物を見たことがなかった。ときたま、人の口から恩田木工の名を耳にすることはあっても、『日暮硯』を手にしたのは、去年の秋だった。これほどのものを、ながく手にしなかったのは、甚だ迂闊で、いささか恥かしいような気がしてならない。
私の家の近処に住む谷さんという人、この人は真言密教の修行者で会社で停年になったら直ぐに坊さんになる決心であるが、昨年の秋、是非これをお読みなさいと言って置いて行かれた書物、それがこの『日暮硯』であった。
時は九代将軍徳川家重の頃、信州松代藩は藩主真田信安の政治がルーズで悪臣がはびこり、贈収賄が横行し、そのうえ千曲川の洪水が打ちつづき、地震の被害も大きく、財政は極度に窮乏していた。
信安の子幸弘が松代十万石を継いだとき、まだ十三歳の少年だった。しかし、この藩主がずば抜けて英明だったので、十六歳のとき、恩田木工を登用して藩政の改革と財政の立て直しを断行せしめた。このとき木工は藩の重役の末席にあり、まだ三十九歳だったが、この人物を見込んで藩政を一任し縦横に腕をふるわせたのは名君の器量というべきであった。
藩主幸弘は恩田木工登用の腹をかため、江戸表にて親族会議を開いて承服せしめ、然る後早飛脚をもって重臣らを非常招集し、その際恩田木工を必ず同道せよとの命令を発した。
この評定の場で幸弘は、自分も若いし恩田も若いので、汝ら老臣の協力が必要であると言って、一同を納得させた。
このとき恩田は、この大任には堪え難いと答えて辞退申しあげたが、幸弘の言うには、「わが藩の窮乏は幕府にも知れわたっており、たとえ汝の力及ばずして財政の立て直しができなくても、汝の失態にはならぬ。この際、辞退に及ぶは不忠というものであろうぞ」と。
そこで恩田は一大決心をして、「この役をつとめるには、ここにお集まりの重役や御親類が私の申すことにたいし、そうではないと異議を言われては何もできませんゆえ、拙者の申すこそに背くまじきことを書付で提出願いたい。そのかわり拙者に不忠の儀あれば重罪に処していただく旨の誓紙をお渡しする」と提案し、藩主の前でこれを実行した。
恩田が信州に帰って、第一にやったことは何であったか。藩政は紊乱し、百姓一揆が頻発し、この時代にはめずらしい下級武士の同盟罷業まで起こっているまっただなかで、彼はまず何から手をつけようとするのか。
〜 つづく
|
|