【広告】楽天市場からブラックフライデーセール11月21日から開催予定

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

◆書き込みルール   ◆TOPへ戻る   ◆其の弐へ   

Counter

[131] 祈り合い神想観
管理人 - 2013年01月30日 (水) 14時15分

童子様のブログにて興味深いご文章が書かれていたので、
謹んで転写させていただきます。
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/folder/626266.html

實相の完全な世界 ― 祈り合い神想観
 

 『祈り合い』というのは、悟りの先達が壇上に数名坐りまして、祈って戴く人が壇の下におりまして、そして互に精神と精神とが感応する。人間は普通、個別的な肉体であると考えられているのでありますけれども、決して個別的な肉体ではないのであります。


 実は、心の世界ではですね、つながっているんです。一つの神のいのちが、皆さんの魂となりいのちとなって宿っているんだから、その神の霊なるものを、握り飯みたいに別々に細かくわけて、それで仕切りをこしらえて折詰にしたようなのが人間じゃないんだ。肉体はこうして個別的に現れているけれども、一体の存在であるわけなんです。


 『祈り合い神想観』というものが、効果があるということは、先達が、祈って頂きたいという人の実相をじっと観るんです。実相というのは実の相(すがた)です。神様の御霊は、この地球世界でなければできない色々の体験をするんです。それを体験するために地球という宇宙天体の一つに肉体という宇宙服を着て天降って来たのがこの人間であるわけなんであります。


 それで、この互いの心と心、いのちといのちは通い合うものである。そして皆のいのちの中には完全な実相というものが宿っているのであるというわけなんですね。この世界、肉眼に見える世界には、赤い過激派の策動やら色々の爆弾騒ぎやら、ストライキやら色んなもがあるけれども、そんなものは、途中からできた雲みたいなもので、常住の青空のようですね、実相があるわけです。


 仮に青空と言いましたが、青空なら何もない静かであるけれども、何もないそれが実相かと言うとですね、実相はそういう空なるものではないんです。仏教の先生方の中には実相は空なりと、空とは変化無常の相(すがた)であるというような説明をして、何だかこの実相というものがあるやらないやら見えない、青空があったってあるやらないやら、我々には働きがわからないのと同じような具合になってしまって、仏教の実相というものに対する具体的な考えがないわけなんです。


 それで、生長の家では、この実相という世界は、現象世界よりも、もっと具体的な世界であると、こういうように説いているわけでありまして、説いているだけじゃないんです。実際にその完全な相(すがた)をこの『祈り合い』によって現わして行く。そして病気の人も祈って頂くと治るし、貧乏のような境涯でもですね、心が変化すると実相の完全な豊かなる相(すがた)がそこに現われてくるということになるわけなんです。


 具体的な美しき世界が実相の世界なんです。その美しき、楽しき健康なる実相の世界に皆さんの生命は、今、現に生きているんですよ。現象界は影の世界で、そこに実相が本当に現われている人は、ごく少数ですが、しかし、皆さんは可能性としてこれからあり得る相として実相世界のこの美しき、楽しき有様が、皆さんの生活の中に実際にあるんです。


 今、あるけれども観なければ現われない。その現われないのは今までの迷いの業、それが邪魔しているわけなんです。迷いの業が邪魔して、そして完全の相をそのままに観ないわけなんです。それは自分が業の力に縛られて、自分だけの力では業を脱出することができない。それで我々が、おこがましいけれども、先輩としてですね、悟りの先輩として、実相の、皆さんのいのちの中にある実相の完全な相を拝ませて頂く、観させて頂く。心をしずめて、そしてじっと既にある相をして、一心に観つめさせて頂く、これが『祈り合い神想観』であります。


 それで、私が中央に、私と家内〈谷口輝子先生〉が招神歌を歌いまして、そして龍宮の大神の祈りを致します。そして大神から力を授かって、そして完全な実相を観させて頂いて、その実相の完全な相を皆さんが意識の中に目覚めさせて頂いて、意識の中に目覚めたらそれは現象世界に種となって段々開いて来て、それで皆さんの住む世界が変って来る。それで肉体の健康も変って来て、病気の人は病気が癒え、老衰の人は老衰に倒されることなく、完全円満な実相の世界を送ることが出来るようになる。そのためにこの『祈り合い神想観』をさせて頂くことになっているのであります。

                           谷口雅春師 

(昭和53年11月24日 龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕斎殿落慶大祭での御指導)


[133] 祈り合いは外注ではない
童子 - 2013年01月31日 (木) 12時46分

 管理人様 ありがとうございます


 某掲示板にて

 祈り合い神想観は神想観の外注、アウトソーシングだ

 と書かれてあったのを見て

 いくら亜流を名乗る投稿者にしても

 こうまで教えが歪められたのかと愕然とした思いでした

[158] 祈り合い神想観 〈その2〉(童子様ブログより)
管理人 - 2013年02月19日 (火) 15時08分

 汝らのうち病める者あらば、吾が教えの先達の許に来りて祈りを乞い神想観の指導を頼め。吾が教えの先達は吾がことばを受けたるものならば、彼の言葉汝を癒さん。・・・


 汝らのうちに病める者あらば互に祈り合うべし。互いに祈り合うとき、吾が力汝らの上に来らん。自己が癒されることを祈るはなお自己の利害にとらわれていることもあり、互に祈り合うとき愛の心あらわれ、神の霊波そのままに汝らの上に感ずべし。病める人のために、その人を訪れて、祈り、且つ神想観をなすべし。祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、いずれも神の霊波に波長の合わぬ波動なりと知れ。


 地方の信者たち互に団結して祈り合え。家族同士互に祈り合うべし。祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず。神の力なり。本(もと)を忘るべからず。愛をつくし合い、敬虔を竭し、誠を竭し合い、神を敬すべし。

 この世界は光と迷いの反影が交錯してあらわれている映画なれば、迷いを一日も早く消すが世の苦難を救う唯一の道なり。


                『懺悔の神示』 (昭和七年八月十二日神示)

[159] 祈り合い神想観 〈その3〉 やり方 (童子様ブログより)
管理人 - 2013年02月19日 (火) 15時09分

 『祈り合い神想観』というのは、その原則として言いますと、司会者が 「この中で病気を治して貰いたいという人がおりましたら、こちらの側に坐って下さい」と言って、「治して貰いたい人」 を一方に集めます。

 それから、「自分は治して貰いたいことはないが、誰かのために祈って治して上げたい人は、その向こう側に集って下さい」と言って、互に向かい合わせに坐らせるのです。

 そして治して貰いたい人は、“神の無限の癒す力、今自分のうちに流れ入って、自分の全身に神の癒す力が光明燦然と輝いて、満ち満ちておって一切の自分の病気は消えて行きつつあるのである。既に病いは消えました。有難うございます” と念じて、今、これらの親切な人の祈りによって癒す力が流れ入る有様を心に凝視しつつ念じるのであります。

 一方、それに向き合掌している「治してあげたい」という側のグループの人たちは、  “神の癒す力がこれらの人達の上に天降り流れ入って光明燦然と輝いて、一切の迷いを消し、一切の悪を消し、本来の実相の完全な相を現しつつあるのである” とジイーッと深く心に念じつつ治して貰う人々に光が天降って、光明が満ち満ちて、既にそれらの人々が癒されている有様をできるだけハッキリ心に描いて念じて上げるのであります。


 こうして治して貰う側の人と、神の癒しを祈ってあげる人との二群に分れて祈ります。 『二人して祈れば何事にても成就する』 とイエスが教えたのは、こういう意味に於いてであります。人数は二人よりも多い方が想念の集積で効果が多いのであります。

 受ける方と、与える方と、つまり陰陽の電気の流れみたいなものであって、その与える方と受ける方と、電気でいえばいわば、プラスとマイナスの電気が祈りによって接続されることによって、その癒しがなお一層よく完全に行われるようになるわけであります。


 神示は次のように仰せられております。

  『互に祈り合うとき愛の心あらわれ、神の霊波そのままに汝らの上に感ずべし』
                                    (つづく)


                  谷口雅春師 『光の泉』誌 

[161] 祈り合い神想観 (その4) 純粋の愛他の祈り 童子様ブログより
管理人 - 2013年02月20日 (水) 06時39分

ただ自分だけが治して貰いたいつもりで、「神の癒す力が流れ入っている」と念ずるのでは、それは「自分が治して貰いたい」というだけですから、一種のいわば利己主義の心が幾らか働くのであります。


 これに反して、他の人々を治して上げたいという思いが、その会合のグループから起こってくるとこれは全然利己主義じゃなくて、純粋に愛他的でありますから、神の愛の心そのものに波長が合うということになりますから、この『祈り合い神想観』をして、プラス(+)とマイナス(−)と、「与える方」と「受ける方」とがシックリ調和してつながり、電気の陰と陽との結びつきというような神想観が其処に行われるということになるので功徳が多いのです。


 神様の癒しの世界は純粋に愛他的な心が必要なのでありまして、利己主義は、神と自分とを相隔てることになるのであります。だから

   『祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、
   いずれも神の霊波に波長の合わぬ迷いの波動なりと知れ』

と神示には仰せられているのであります。



 「あなたの癒されるために祈って上げますから、幾らくれますか」と欲張ってもいかぬし、「奉納金は幾ら要るのですか、いや、あんなに取られたらかなわんな」と思ったりして金を出し惜しむ心を出すのも、金を貰いたいと欲張る心を出すのもいかぬ。

 
 そういう心が働いたら神様に波長が合わないので効果は少ないのであります。だから

   『祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、
   いずれも神の霊波に波長の合わぬ迷いの波動なりと知れ』

と教えられているのであります。また“懺悔の神示”には、

   『地方の信者たち互に団結して祈り合え、家族同士互に祈り合うべし。
    祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり』  と示されています。



 「癒し」は皆、神りの力ですから、「私があんたを治して上げたから私に御礼を寄しなさい」なんて言うのは、神の御徳を自分に奪いとって神を冒涜することになるのです。

 それは、病を癒し不幸を癒す力は人間にはないのであります。みんな神の生かす力、癒す力に依って、癒されているのであります。祈っても祈らなくても治るという事実があるのは、神の力が常に働いていられるということである。


 一例をあげれば、吾々が怪我をしても中から肉が上がってきて、皮膚が出来てくるというのは、人間の力で出来るものではない。それは神なる内部生命が、肉を盛り上げ皮膚を新たにこしらえて下さるのであります。

 ですから、どんな場合にも、儂が祈ってやったから治ったのだ、儂が治してやったのであるから、御礼を私が貰うのは当り前だなどと思うのは増上慢なのであります。それで神示には

  『祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり。本(もと)を忘るべからず』

と書かれているわけであります。更に神示は訓えられます。

  『愛をつくし合い敬虔を竭し合い、誠を竭し合い、神を敬すべし。
  この世界は光と迷の反影が交錯してあらわれている映画なれば、
  迷いは一日も早く消すが、世の苦難を救う唯一の道なり』 と。


 そういうわけでありますから、皆さんは神を本(もと)として、真理の光を拡げることに依って「迷い」が消え、「迷い」が消えることによって色々の苦難から人々が癒されるのであります。



 しかし、癒されても自分が癒したと思っては神徳を自分に横取りすることになるのであって、「自分はただ天の使いとして、神様のお使いとして光を配達させてもらったのである。自分が功徳を積まさして貰ったのである。有難うございます」と、そういう感謝の心になることが、神様と人間との間の不導体である我欲を取り除き、神様の御力を自分に発顕するための必須の条件になるのであります。


                      谷口雅春師 『光の泉』誌 38年新年号

[162] 管理人さま
童子 - 2013年02月20日 (水) 13時13分

 転載していただき有難うございました。

 『祈り合い神想観』につきましては、

 吉田武利編纂、谷口雅春先生著の『人間苦の解放宣言』に

 具体的な体験談等も書かれておりますので

 皆さまに是非とも、読んで頂きたいと存じます

[163] 童子さま
管理人 - 2013年02月21日 (木) 07時02分

こちらこそいつもありがとうございます。

祈りあい神想観は宇治で一度だけ体験しましたが、
ここまで詳しく説明をしていただけなかっただけに、
今回の童子様のブログはとてもうれしく拝読させていただきました。

何度も読まなければ頭に入らない固い頭をしています(笑)ので、
こちらに転写させていただきました。

今後ともよろしくお願いいたします。

合掌 礼拝

[164] 管理人様 童子様
全く同感 - 2013年02月24日 (日) 22時22分


祈り合い神想観 UPしていただき感謝です。

               合掌



こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。

お名前
メール
タイトル
本 文
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場からブラックフライデーセール11月21日から開催予定
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板