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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[136] 『生命の實相』教室 (その1) 何故、“人間、神の子”でありながら迷いが出て来て悩むのであろうか?
童子 - 2013年02月02日 (土) 16時54分

 某掲示板にて、教を勝手に歪めて解釈して衆人を惑わす書き込みがありまして
 ここは正しく谷口雅春先生の御指導を仰ぎたいものであります。


 昭和45年3月、谷口壽美さん(当時19歳)が同上の質問のお手紙を出されて、
 5月『明窓浄机』にて、谷口雅春先生が御返答されていました





 罪なき者 ―― 本来無罪清浄なる人間に何故、罪の観念が起こるかと言いますと、吾等は本来『無罪』なればこそ罪の感じが起るのであります。

 生まれつき光を見たことのない盲人は暗黒の中にいても、暗黒の感じが起らないでありましょう。生まれつき狭い井戸の中で育って自由を知らない蛙は、広い自由な湖水に出されなくとも不自由を知らないでしょう。 ・・・・・・

 ・・・この『本来の相』でないという自覚が、『罪』の観念であります。それは本来の完全な相を、本来の自由な相を表出せんと喘ぎもとめている心の呻きなのであります。


 吾々の本来の相を炭火にたとえますならば、炭火の上を色々の塵埃で蔽いますと、その塵埃から煙が立騰るでありましょう。“この煙が、罪の意識に譬うべき”であります。本来『火』がなかったら煙は立騰らない、また火を蔽う塵埃がなかったら煙は立騰らない。

 といって『火』そのものは『煙』であるかと申しますと、『火』そのものは『煙』ではありません。塵埃そのものが『煙』であるかと申しますと、塵埃そのものも『煙』でありません。塵埃が滅して『火』そのものになろうとする働きが煙であります。・・・・・


 そのように、吾々の『完全なる實相』そのものは罪なきもの迷いなきものでありますから、“罪の意識は吾々自身の本性にはないものであります。”それは『炭火』そのものからは、本来煙が立騰らないようなものであります。

 ところが『完全なる吾が實相』が『迷い』に蔽われると、その『迷い』を焼き尽すために『罪の意識』というものが立騰って来るのであります。それは炭火の火力のあらわれであり、塵埃を焼き尽して、焔となそうとする働きであります。


 あまり炭火の火力が弱かったならば塵埃に蔽われていましても煙は立騰らないでありましょう。それと同じく『吾が生命の實相』があまり深く眠って了っていては罪の意識は起らないでありましょう。また炭火の火力が強かったら、煙も見ずにその塵埃は焔となって了うでしょう。

 それと同じく『吾が生命の實相』があまりにもハッキリ目覚めていましたなら罪の意識はなしに『迷い』は一瞬にして焼尽せられ、全生活が光明化されて了うでありましょう。・・・・』





 と、『生命の實相』第十三巻 倫理篇上に示されている説明に照らして、「何故、神様は完全な実相世界があるのに、悩み多き不完全な現象世界が恰も 〃あるかの如く〃 現わして人間を悩ませるのであるか」 という惑いは、

 実相の神性の火力が相当強いが故に、その実相の神性を蔽っている 〃迷い〃(塵埃)を将に焼きつくさんとして、その直前に、濛々と立騰る煙のようなものであり、その煙がまだ全部は焔にならない状態だと解することができるのである。

                         〜 つづく

[144] 〈つづき〉
童子 - 2013年02月05日 (火) 20時30分

 道元禅師でさえ、万巻の経巻を読んでも、何故〃本来仏性〃の〈本来真理そのものの〉人間が迷うかわからなかった。栄西禅師にもそれがわからなかったし、明全和尚にもその謎は解けなかった。


 そしてついに貞応二年、明全和尚に伴われて宗の国に留学し、或は天童山に、或は径山に登って名僧知識をたずねたが、機縁いまだ熟せず、ついに自分に納得する師なしと嘆じて、失望の末、帰日しようと思ったが、最後にもう一度天童山に登られたとき、如浄禅師に会う機会を得たのであった。


 如浄禅師の教えを受けてその道場に坐してもまだ豁然として悟るに至らなかった。ところが、嘉禄元年、道元二十六歳の時のことであった。印度の雨期三ヶ月は割合涼しいのであろうか、この期間を釈尊は一定の所に弟子と共に静坐修行せられた、それにならって禅宗では此の期間を〃夏安居(げあんご)〃と称して坐禅修道することになっているのである。

 その夏安居の一夜、一弟子が坐禅しながら居眠りをしていたので、如浄禅師がひどくそれをたしなめられたが、その訓誡の言葉が、坐禅の神髄を道破したもので、側できいている道元の魂を揺り撼かしたのであった。

 道元のの心に“善き師を得た”という感じがはじめて湧き起った。道元は、生れて始めてこんな嬉しい感銘を受けたことはなかった。


 そこで道元は如浄禅師が方丈にお帰りになるのを待ちかねてお迎え申上げて香を焚いて老師を礼拝された。 老師は「香を焚いて私を礼拝するのは何故であるか」とお問いになった。 道元はその時の心境を、「身心脱落し来る」といって答えた。 

[145] (つづき)
童子 - 2013年02月10日 (日) 11時32分

 老師はうなずかれて、「身心脱落・脱落身心」と脱落の境地を語調にあらわして仰せられた。身も心もスッカリ脱け落ちて何も引っかかるものがない。身も心もありながら無いのである。あるものは実相のみなのである。


 “あるものが実相のみ”という自覚が自然に得られたとき、実相の炭火の火力が猛然と強烈になり、炭火を蔽っていた塵芥が一瞬のうちに光り輝く焔となって燃えあがった境地だと『生命の實相』第十三巻の倫理篇上に譬をもって説かれている境地なのである。


 これだけでは、神は完全なる実相世界があるのに、何故現象世界を“あるが如く”現わして人間を悩ますかという問題が完全に解けないかも知れない。その問題については、神はその漢字が“示”と“申”の合字で象徴されている通り、表現活動の主体である。


 完全に自由では、抵抗のない空中に絵を描く如く完全に表現することが出来ない。そこで、その自由を限定して、カンバスの如く時間空間の枠をつくり、その限定の中で表現しようとするのである。それは恰も画家がカンバスに絵を描く藝術の世界みたいなものであろう。



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