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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[272] 続々『真理の吟唱』 準備稿
童子 - 2013年05月27日 (月) 13時18分

 昭和45年『真理の吟唱』  昭和59年『続真理の吟唱』 が出版されましたが

 それらに未掲載の“祈りの言葉”がまだまだ沢山あります。


 奇妙な“祈りの言葉”を創作発表されて有難がたっている場合ではなく

 谷口雅春先生に啓示された“祈りの言葉”を大事にすべきです


 『光の泉』誌に発表された『日々読誦毎月真理経』から少しづつ集め

 来るべき『続々真理の吟唱』発刊に向けて・・・・・。



 
 「一月であなたを自己改造するすばらしい方法をお伝えしましょう。

 それは『光の泉』を枕元におき、眠りに入る前の十五分間と朝目が覚めた直後のまだ何も頭に浮ばない十五分間に、この頁を開き真理のコトバを繰返し繰返し読むのです。

 その原理は、真理のコトバで潜在意識 〈心の奥に隠れているあなたをあやつる心〉 の中の暗い心をすっかり明朗化してしまうからです。  またこの時間は潜在意識の感受性が一番高い時間です」

[273]  『神の愛を実現する言葉』
童子 - 2013年05月27日 (月) 13時51分


 我は神の最高の自己実現であり、万物の霊長として地上に降誕せるものである。 それゆえに、我は完全円満にて万徳兼備の理想的な実相を具えているのである。 我は宇宙遍満の神のうちに住み、我が内に神は満ち充ちていたまうのである。 神わがうちに在り、われ神の内にあり、神と我とは完全に一体の生命を形成しているのである。 神は内からも外からも、上からも下からも、右からも左からも、前からも、後からも我を囲繞(とりま)き我を護っていられるのであるから、如何なる逆念も、如何なる呪詛(のろい)の念波も我に近づくことはできないのである。



 神は愛であり給う。 神われにやどりたまうてわが生命(いのち)となり給うがゆえにわれもまた神の愛に満たされ、すべてのものを神の愛をもって愛するのである。 愛は天下無敵である。 真実の神の愛を実践するところに敵はあり得ないのである。 愛すれば愛は必ず還って来て一層大なる実(み)を結ぶのである。 



 神の愛が今脈々として自分の内に波打っているのである。 如何なる不調和も起り得ないし、如何なる争いも起り得ないのである。 愛は如何なる紛糾をも調和ある姿に修正する神秘的力をもっているのである。 すべての善きものは調和から生れるのである。 調和のあるところに天国が存在するのである。 神の愛はわがうちに満ち、愛は一切を調和たらしめ、調和は天国を現実にするのである。


 天国の中には一切の善きものが整っているのである。 愛は地上に天国を現前せしめるがゆえに、一切の善きものは、愛の満つるところにあらわれるのである。 これより後(のち)、わが家に一切の悪しき事起ることなく、一切の憂えあることなく、一切の病いあることなく、一切の醜きものあることなく、一切の争いあることなく、ただ喜びのみ、ただ調和のみ、ただ平和のみ、ただ美しきもののみ充満するのである。


 愛は一切の暗黒を消すところの神の光である。 愛の輝きのあるところに憎しみは消え、悲しみは消え、敵対観念は消え、争いは消え、更に病気すらも消えるのである。


 病気は愛の欠乏から来ることが随分あるのである。 愛する者を失ったために起る悲しみ、愛せんとして愛する対象のない寂寥感、愛する者に裏切られた失意落胆 ・・・・・ しかし本当の愛は決して裏切られることはないのである。 裏切られた感じを受ける愛は、執着の愛であり、報いをもとめる愛であり、手垢のついた愛のみである。 執着していた愛の対象に逃げられたり、愛に報いを求めたのに報いが得られなかったりするから裏切られたと感ずるのである。 ただ与えるばかりの純粋な無我の愛には裏切られるというひとは決してないのである。 われ今日、今よりただ純粋無我の神の愛をもって人類に奉仕せんことを誓いたてまつる。 ありがとうございます。



                 『光の泉』誌 37年7月号


[278]  『法則に拠って幸福を招く言葉』
童子 - 2013年05月30日 (木) 12時21分


 神は宇宙を貫く法則であり給うのである。 この世界は法則の支配する世界である。 法則の支配する世界とは、換言すれば神が支配し給う世界だということである。


 われは “神の子” である。 われは “神の子” であるということは、われわれ自身が “法則の子” であるということにほかならない。 それゆえにわたしは常に法則に対して従順であるのであって、決して法則に逆らうことはしないのである。 完き自由は法則によって得られるのである。


 この世界には愛の法則が支配しているのである。 愛の法則は宇宙に於いて万有引力としてあらわれているのである。 すべてのものは愛によって結びつき、愛によって形をあらわすことができるのである。 愛の法則は一面に於いて 『与える法則』 としてあらわれ、他面に於いて 『受ける法則』 としてあらわれるのである。 それは “与える” ことによって “受けられる” という “相互むすび” の法則である。 されば私は決して与える事なくして受けようというような吝(まず)しいことを思わないのである。 私は常にゆたかに人のため国のため公けのため神のために心を与え、資を与え、身を挺して人類の幸福増進に尽すのである。 それゆえに、わが神より与えられたる分量もまた豊かであるほかはないのである。


 この世界は、まことに法則の支配する世界であるのである。 心に想うのが形にあらわれるという法則が支配しているのである。 今日(こんにち)以後、決して私たちは、乏しき事、貧しき事を思わないのである。 私たちは神の子であるから富むよりほかに仕方がないことを常に念じて、自己の有てるあらゆるものを、人々を生かすために、人々を愛するために働かすがゆえに、自然にゆたかに富が集って来るのである。


 この世界は法則の支配する世界である。 私たちは法則を素直に守るがゆえに、法則は常に私たちに幸福を齎(もたら)すばかりであるのである。 この世界には “類をもって集る” という法則が支配している。 明るき事を思えば、明るいものが集って来、暗い事を思えば暗いものが集って来るのである。 それゆえに私は常に明るき事のみを想い、暗きことを考えないのである。 それゆえに私は常に豊かなる事のみを想い、乏しき事を考えないのである。 それゆえに私は常に健全なる事のみを想い、不健全なことは決して考えないのである。


 わたしたち家族はすべて “光の子” である、 “神の子” である。 今その自覚を一層明かにして、善きもの、美しきもの、喜ばしきもの、健全なるもののみわが身辺に呼び寄せるのである。 われ等一同を “神の子” として産みたまいし神に感謝し奉る。 ありがとうございます。


                『光の泉』誌 38年6月号

[282]  “神の子” たる実相を顕現する言葉
童子 - 2013年06月03日 (月) 13時17分


 神は宇宙に満ちていられる普遍的存在であらせられるのである。 神の満ちていられない処は宇宙の何処にもないのである。 その神の力が私たちの内に満ちているのである。 その神の生命が私たちの生命となって宿っているのである。 その神の智慧が私たちの本当の智慧である。 その神の愛が私たちの本当の愛なのである。 それゆえに私たちは “神の子” と称せられるのである。 私たちは “神の子” であるから、あやまりなく神の生命をあらわし出しさえすれば健康であり、本当の智慧をあらわし出しさえすれば決して躓きは無く、本当の愛をあらわし出しさえすれば、執着の愛欲にまどうことなく、すべての人々を調和した状態にあらしめるよき智慧があらわれて来るのである。


 人間の生命は、神の生命であるから、霊的存在であるのである。 霊的実在が “人間” そのものであるのである。 人間は肉体ではなく、人間の表現の道具であり、使命遂行の道具が人体なのである。 だから人体は、使命を遂行し、最も美しく自己表現するために適当に手入れをすることが必要であるのは当然であるけれども、肉体の欲望に身をゆだねることは、却って肉体の手入れとは逆になるのである。 肉体の欲望は、肉体それ自身には叡智がないから、その欲望に身をまかせるとき、必ず行き過ぎになって、却って肉体の破壊又は没落にまで導くことになるのである。


 われは神の子であり、 “神の子” として自主権をもっているのであるから、肉体の欲望に引き摺られて身を誤まることは決してないのである。 自分は肉体の霊的主人公として、肉体の欲望を適当に調節し、これを支配して、肉体を完全なる “神の子” の使命遂行の道具とするのである。


 今や、 “神の子” たる私たちは、その精神も肉体も一致して、 “神の子” たる使命を遂行し、神なる大生命の御心を自己の心として崇高にして、清く、しかも豊かにして逞しき生活を営むのである。 私たちは “神の子” として生活のあらゆる場面に於いて神の叡智に導かれたる正しき行動のみをおこなうのである。


 今、私たちは “神の子” として、わが内に “神” が宿り給い、われを無限の叡智にて導き給うことを自覚するのである。 その自覚は、毎日の聖典読誦と神想観の実修と共に、毎日一層深まることになるのである。 それと共に私たちの行動は、現象の起伏や擾乱に惑わされることなく、一挙手一投足ことごとく肯綮(こうけい)に中(あた)るのである。 私たちは、神の最高の自己顕現者であり、常に神の祝福がわが全生命とわが仕事とに行きわたっていて、私たちの行くところ、凡ゆる点に不調和なく、常に天国浄土が地上にあらわれるのである。 爰に深く篤く神の祝福に対して感謝し奉る。




                     『光の泉』 40年6月号

[283]  『病気を消滅せしめる言葉』
童子 - 2013年06月04日 (火) 13時52分

 
 人間は神の最高の自己実現である。 その全存在を貫いて神の無限の生命と、無限の癒す力とが充ち満ちているのである。 全身の一切の分子、細胞、組織、器官ことごとく神の無限の智慧によって最も調和ある姿に組み合わされ、完全な健康を保っているのである。


 神のつくり給うた人間には病気などはないのである。 神は肺結核も造らないし、胃癌や肺癌も造らないし、その他如何なる病いも造り給わないのである。 神の造り給わない病気は、如何に存在するかのように見えても、実際は存在しないのであるから、消えてしまうほかはないのである。


 神のみが一切の創造者であり、神は善・円満・調和・美であるから、善ならざる病気は存在しないのである。 円満完全ならざる病気は存在しないのである。 不調和なる病気は存在しないのである。 美ならざる病気は存在しないのである。 神は、 『創世記』 に示されてある通り、天地の一切のものを造り給うて、その造りたるすべてを見給うて 「甚だ善し」 と宣言されたのである。 神の宣言に虚偽のある筈はなく、神の宣言に間違いがある筈はないのである。 神の宣言によれば、神のつくり給うたすべてのものが善であるのであるから、悪なる病いは存在する筈はないのである。


 人間は神の最高の自己実現であるから、一点の悪のけがれも無いのである。 全存在、全細胞、全組織、全器官ことごとく神の智慧につらぬかれ、秩序整然たる自働操縦装置になっており、神の愛は全心身を貫き、全心身を被覆して完全に護ってい給うのであるから、如何なる悪霊も逆念も細菌も黴もビールスも人間を侵害することはできないのである。 誰でもこの真理を病人に対して朗読して聴かせるか、精神を統一して徹底的に念じてあげるかすれば、病気は必ず癒えるのである。 “癒える” というよりも、本来無い病気であるから、真理の光に照らされて消えるということになるのである。


 人間は神の最高の自己実現であるから、本来完全円満であるのに、どうして不完全な病気、不幸、災難等の不完全な姿があらわれて来るのだろうか。 実相は完全円満であるから、それは鏡の如く玲瓏と輝いているものであるから、鏡にどんな姿でも映るかの如く、心に思うどんな姿でも、具体的に幅もあり奥行もあるかの如く映るのである。 鏡に花園が映っている時には、鏡全体が花園になってしまったように見えるけれども、鏡全体はその “映る姿” に化(な)った訳ではなく、 その “映る姿” が鏡にしみついている訳でもなく、 鏡は依然として “映る姿” を離れて銀色(ぎんしょく)燦然と輝いているのである。 それと同じく人間の肉体に如何なる病相があらわれようとも、人間の実相はこの鏡の実相が、完全円満にして映って見える姿に何ら煩わされていない如く、外にあらわれている病気に何ら煩わされる事なく完全円満調和にして健康であるのである。 この真理を教え給いし神に感謝いたします。 


              『光の泉』誌 37年9月号

[286]  『わが実相の金剛不壊を悟る祈り』
童子 - 2013年06月05日 (水) 05時09分


 神は全宇宙に遍満し給う大生命であらせられるのである。 神は全宇宙に遍満して欠けることなき存在にましますが故に、無限であり、無際涯であるがゆえにわたしの内にも満ちていたまうのである。


 宇宙の一切存在は、神より出でたるものであるから本来完全なのが、互に調和しているのが本当の姿なのである。 それをわれわれは 『実相』 と呼ぶのである。 その完全なる実相は、完全なるが故に何物にも制約されることはないのである。 時間にも、空間にも制約されることはないのである。 それ故に神のつくり給える完全なる存在の実相は、時間・空間を超え、時間空間内のものをのみ視るわれわれの肉眼には見えないのである。


 時間・空間面にあらわれて来たものは、時間に制約せられ、空間に制限せられているが故に、それは絶対完全と謂うことはできないのである。 制約せられ、制限されたるものは、実在の世界の存在ではなく、時間を縦枠とし、空間を横枠とした額面上に描かれた芸術作品ともいうべきものなのである。


 それゆえに現象世界の一切のものは、超時空の実在界の存在を時間空間の画面に表現されたる絵画の如きものである。 それは実物ではないのである。 実物は表現の奥にあるものである。


 現象界の一切のものは実物ではないといっても、それは単なる虚像ではないのである。 それは “有限” の画面上に表現されたる “無限” である。 “有限” をもって  “無限” を表現するためには必ず象徴の姿をもって表現されるのである。 それゆえに現象のこのわが肉体は象徴に過ぎないのである。


 それは象徴的表現であるが故に、芸術作品に上手下手があるが如く、まことに完全に、 “有限” の肉体に、 “無限” の完全さを象徴し得る人もあるし、まだその表現が未熟であって、自己の有限の肉体に “無限” を表現することが出来ないで、不完全を表現して、病気を表現したり、日常生活に不完全な失敗の姿を表わす人も往々あるのである。


 されど吾々は決して失望することも落胆することもしないのである。 たとい過って失敗を表現したり、病気を表現したりしても、それは象徴が不完全に表現されているだけのことであって、わが “実相” は、変ることなく、常に神の子として、霊身として、仏として、如来身として金剛不壊であり、汚れることなきものであることを知るからである。 現象は青空の表面に浮かぶ雲の如く、心の気圧配置によって始終その姿を変ずるけれども、現象の浮雲(ふうん)の彼方に、常住の蒼空があるように、わが真実の “我(われ)” ―― 実在としての我(われ) ―― の実相は、常に変ることなく円満完全なのである。 私は今このことを悟って、わが心静かにして調和し、まことに聖経に示されたる如く円相的自由を備えて、何物にも何事にも心引っかかることなく担然自若なのである。 神よ、あなたがこの真理を教え給いし事に満腔の感謝を献げます。 ありがとうございます。




               『光の泉』 47年2月号

[291]  内在の神性を自覚して幸福になる言葉
童子 - 2013年06月07日 (金) 06時01分


 すべての人間のうちには “神性なるもの” が宿っているのである。 それを釈尊は 『一切衆生悉く仏性あり』 と喝破されたのである。 これはキリスト教に於いては使徒パウロの 『最早や吾れ生くるにあらず、キリスト吾れにあって生くるなり』 の自覚と同一である。 この場合の “キリスト” とは二千年前ユダヤに生れたる一個人としてのキリストが吾れの中(うち)にあると云うのはないのである。 “久遠常住の真理” そのものなるキリストが、全ての人間に宿っている ―― それをパウロは今自覚したと云う意味である。 仏教的に謂えば、“久遠の仏性” が自分の内に宿っていて、それによって生かされているのだと云うことを自覚したと云う意味である。

 この自覚を得ると共に、パウロは偉大なる奇蹟を演じて、使徒行伝第十六章二十六節にあるが如く、牢獄の扉さえも自然にひらいて自己解放を遂げたのである。 宗教的自覚の尊さは信ずる者に自己解放を得しむるところにあるのである。 この自覚を、日本的又は神道的に謂うならば、 『最早われ生くるに非ず、天照大御神われにあって生くるなり』 の自覚である。 この自覚によって黒住教の教祖黒住宗忠は自己解放を遂げて、医師から断然見放された瀕死の結核が忽ち癒えたのである。

 “内在の仏性” と謂い、“内在のキリスト” と謂い、“内在の天照大御神” と謂い、名称は異れども、いずれも宇宙遍満の大生命が人間に宿っていて、吾らはそれによって生かされていると云う意味である。 人間は決して肉体だけの力で生きているのではないのである。 肉体の構造が如何に整備されたままであっても、霊魂がひとたび、その肉体を去るときには脳髄は意識を失い、心臓はその働きを停止し、肉体は生命のない唯の物体と化するのである。 これによっても、 『最早、われ肉体生くるにあらず、神の生命(いのち)われにあって生くるなり』 と云うことが理解されるのである。


 “神の生命(いのち)” 又は “仏性” が自分の生命(いのち)の実相(ほんとのすがた)であるからである。 人間は決して病気になったり、不幸災難に遭ったりする筈はないのである。 病気にかかったり、不幸災難に出遭ったりするのは、“内在の神性” 又は “内在の仏性” が 「本当の自分」 であることの自覚が足りないために、迷いによって自縄自縛されて不完全・不自由な相(すがた)があらわれる ―― そのあらわれの相(すがた)が病気又は不幸災難等であるのである。


 今、わたしは自己に宿る神性・仏性があることを自覚し、その神性・仏性はきわめて完全にして、未だ嘗て病まざるもの、不幸災難に遭わざるもの、完全なるもの、死せざるもの、不滅なるものであることを悟ったのである。 それゆえにわたしは今、心安として平和にして如何なる不調和の精神波動にも感応することなく、ただ神の祝福の波、繁栄の波のみを感受し、それを具体化して日々の生活を至上の幸福状態にて生活するのである。 この真理を知らしめ給いし大神に感謝し奉る。


             『光の泉』誌 37年4月号

[296]  『愛を実践する悦びの言葉』
童子 - 2013年06月09日 (日) 02時14分


 愛は世界最大の至宝であるのである。 神の愛は無限に大にして広く私たちを包容して、常に私たちを見まもり給うているのである。 だから私たちは何らの不安も恐怖もないのである。


 私たちは愛を神に受けたのである。 単に受けただけではなく承け嗣いだのである。 私たちの内には神の愛が宿っているのである。 その神の愛によって私たち人類は勿論すべての生きとし生けるものを愛するのである。 愛は愛を呼ぶ。 類をもって集るのが “心の法則” であるからである。 私たちは単に神の愛に包まれているだけではなく、神の愛が無数に姿をかえてあらわれている多くの人々の愛に包まれて生きているのである。


 ああ、愛を与えることの悦びよ、何故なら神の子の本性は愛であるからである。 愛を与えない人は本当に幸福にはなれない。 私は今すべての人々を祝福しすべての人々を祝福しすべての人々に愛念を放送する。 それゆえに私は今幸福なのである。 与える者のみが受ける資格があるのである。 私は、愛を惜しみなく与えるがゆえに、神からと、一切衆生とから送られる愛を受けることができるのである。


 ああ、愛を受けることの悦びよ、私はいたる処に、神の愛の表現である、よき友、よき伴侶、よき協力者を見出すのである。


 愛は自他一体の感情的自覚であるから、人々の苦しみを見れば私自身の魂がいたむのである。 愛は彼我一体の直感的自覚であるから、人々の悦びを見れば私自身の魂が悦ぶのである。 私はつねに人々から苦しみを取り去らんがために努力し且つ働くのである。 私は常に人々に悦びを与えんがために努力し且つ働くのである。


 神はすべてであり、私たちは “神の子” である。 神に於いて、すべての生きとし生ける者と一体なのである。 その一体の自覚が愛である。 人は孤立しては本当に生活することはできない。 人は愛し愛されんことを願うのである。 そして自己の愛する者から、認められ賞讃せられんことを希(こいねが)うのである。 愛されることを望むならば自分の方から先ず愛することを実践しなければならないのである。 私はこの法則を知るがゆえに、常に人々の美点を探し出してこれを認めこれを賞讃するのである。 かくして私に愛は還って来て、私は愛にとりかこまれ、愛に護られ、よろこびと幸福とは常にわがものとなるのである。 神がこの真理をわたしたちに示し給い、その実践を指導し給うことを篤く深く感謝奉ります。




             『光の泉』誌 36年11月号

[297]  『世界平和を祈りましょう』
童子 - 2013年06月12日 (水) 14時15分

 人間は神の子である。 神は無限のアイディアを有っていられるのである。 神はその無限のアイディアを人間を通して実現せんがために、人間を神の自己実現として生み出し給うたのである。 それゆえに吾らは神の有ち給える無限のアイディアのうちから、自己の欲するものを此の世に実現することができるのである。 神の有ち給える無限のアイディアの中から自分の欲するものを掘り出すための道具が想念であるのである。 自分の欲する事物を既に成就せりという想念を常に不屈不撓に心のうちに保ってそれを放たない者はついに、それを実相の世界から現象の世界に引き出して来ることができるのである。


 私は常に繁栄と健康と幸福との想念とを把持してわが全身をその想念によって満たすのである。 それゆえに私は決して不安は来らないのである。 また恐怖を観ずることもないのである。 わが前途はまことに洋々たるものである。 わが願うこと、希望することは、私の信念を堅く有つ程度に従って必ず成就するのである。 私は片時(へんじ)も 『人間神の子』 という真理を忘れることをしないのである。 『人間神の子』 という真理を把持する者には決して不幸は来たらないのである。 何故なら想念はラジオ・セットの如く類似の波長のもののみを引き寄せてそれを実現するのであって、決して異なる種類の想念を受信して具体化することはないのである。


 
 吾々の心に起したところの想念は決して空しく消えてしまうのではないのである。 それは形にあらわれたときそのエネルギーは、形にあらわすという仕事をして消える。 けれどもまだ形にあらわれない想念は、宇宙のレコードに印象されていて蓄積され、それがある程度以上蓄積されると、それはもう 『見えない世界』 に隠れていることができないで形にあらわれるのである。


 悪しき想念を常に想って蓄積しておくならば、やがてそれは病気や災難や戦争となって爆発するときが来るのである。 それを防ぐ道は、常に反対の平和の想念をもって悪しき想念を中和して置かなければならない。 闘争の想念はそれが蓄積せられるならばやがては戦争を引き起す原動力となるのであるから、吾々は、つねに平和の祈りを神想観のときに祈って闘争の想念を中和するようにつとめねばならないのである。


 この事を行うことは多勢の人々が戦いで死傷しなければならない筈であったところを、戦いをなくして多くの殺生の悪徳を防ぐことになるから、一人や二人の殺人を防止するよりも、もっともっとすぐれた善業をつんだことになるのである。 私はこの事を知るがゆえに毎日神想観のときには世界平和の祈りを祈ることを忘れないでいるのである。


 私たちの平和の思念は宇宙にひろがり、闘争の精神波動を中和して無力ならしめ戦争の発生を不可能にする力があることを信ずるのである。 併しながら私たちは、平和の祈りをする同志を殖やさなければならない。 平和を祈る同士の数が、闘争を呼号する人たちの数よりも甚だしく少ないときは、折角私達の平和の想念も闘争の精神波動に打ち消されないとも限らないのである。


 神よ、平和を祈る同士を一人でも多く集めたまえ、それらの人々に遭わしめ給え。

 ありがとうございます。



               『光の泉』誌 38年2月号 


 

[308] 『新たに生れるためのことば』
童子 - 2013年06月27日 (木) 08時48分


 われ新しき天と地を迎う。 祝福すべきかなこの新天地。 今よりのち一切の悩み、悲しみ、失望、落胆ことごとくなき新天地にわれ生れたるなり。 暗黒は空の彼方に消えさり、新しき光、五彩の虹を放って今この新天地を照らす。 われは一切の過去を放ち去って、この新天地に立ち、この新天地に呼吸するのである。


 生命の満ちあふれたるわが生命よ。 あなたは神のいのちである。 一切の汚れなき清き新しき生命である。 過去の悪しき印象は、青空が飛ぶ鳥のあとを印しないのと同じように、わが潜在意識から消え去ったのである。


 わがいのちは新しき自由と繁栄との世界にはばたくのである。 一切の “悪” は過ぎ去ったのであった。 “悪” は実在ではなく、たんに妄想のまぼろしに過ぎないのであるから、一度過ぎ去った後に、再びかえってくることはないのである。 わが新しき天地は永遠に新しく汚れなく悩みなく神聖であるのである。


 われわれは毎日新生するのである。 毎朝毎朝が新生である。 この新生の最高の瞬間、ポッカリとめざめたその瞬間に、 『私は神の子だ。 素晴しい朝だ。 好いことがきっと訪れてくる』 こう心の中で、又言葉に出して、二十遍となえてから起きるとよいのである。



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