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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[330] 『無門關の日本的解釋』
童子 - 2013年07月11日 (木) 07時43分

 ※このスレでは、聖典及び書籍を谷口雅春先生及び高弟の文章で紹介してゆきます

 



 ◆無門關の日本的解釋 (昭和15年)


 ・・・・今から十二三年前だったと思いますが、谷口先生に、『無門關の日本的解釋』の改訂版を出させていただきたいと申上げたことがあるんです。


 勿論、根本的なものに少しの変更も必要ないんですが。 あの中には、軍人の話とか、あれは硝煙弾雨の中で書かれた煙硝の臭いがする日本の戦争の真只中で書かれたんですから。 その臭いは、時と処によって違うから何とかして先生に書き改めていただいて、人時処に合うようにしていただけたらどうでしょうか。 大へんな名著ですから、皆も要望しておりますので ―― と申上げたんです。


 そうしましたら先生は、今の時勢はこんなままで止まっておるべきではない、必ずこの本はそのまま、改訂する必要なしに出せる時が来るんだから、わしは全面的に書き換えて時勢に合うようにする気はないよ、 とお許しにならなかった。


 その後も、一、二回申し上げたんだが、まだ少し早かろうといって、お許しにならない。


 ところが、我々が奮起して、さっきの玉置(和郎参議院議員)さんのお話のように、皇室の尊厳を護る運動をやり、いろいろやっている内に、歴史は我々が主体となって動かしたものも含めて、大きく動いて、愈々出版ということになってもう一度読みかえしてみると、殆ど改定することに出せるんですねえ。


 さすがに先生だと思って、さき頃お山でお詫び申し上げたがね。

             田中忠雄 生政連会長  (『生長の家』誌 40年新年号)



 《註:『無門關解釋』として昭和三十九年十一月二十二日に発刊》

[331] 『無門關解釋』
童子 - 2013年07月11日 (木) 09時09分


  『あなたはもっと尊い』   伊東 種



 あなたはあなたが思っているよりも数倍も価値高く、偉大であり、立派である。 したがって自由自在な生活が出来て、日々よころびに満つるものである。 ――  こう、今あなたが問われて、『はい、そうです』 と間髪を入れず応えられるでしょうか。


 この答えにあなたが戸惑うとすると、あなたは自分自身に大変申訳ないことをしているのであります。 あなたは自分の値打を小さなものに限定しているからであります。


 宗の無門關禅師の提唱を集録された 『無門關』 は、古来禅宗における、奥義の書として伝えられているものであります。 その 『無門關』 では、人間が、『仏』 であることを真向に立てて、四十八則にわたって、その秘伝を示してしるのであります。


 先ず 『唯佛與佛』 と、仏が仏にひびいてゆくことから始まります。 私たちが人間の側から仏を見ているものですから、大切なところで本来のものを見逃しているのであります。 『実相である仏の側から仏を見る』 ここがわからないと、あなたの本当の値打が出て来ないのであります。



 谷口雅春先生はこの禅門第一の書を 『日本人』 のために生きた真理として解釈されたのであります。 その切れ味たるや、まことに見事なものであります。 独立独歩の無門關解釈なのであります。 禅門の大師家でもここまでは解き得ないと思われます。


 あなたが 『腹を立てて』 世の中を見れば、世の中全体が 『腹を立てて』 いることになるのであります。 『病む心』 で見ればまた 『病む心』 になって写るのです。 唯佛與佛の大光明の地上天国でありますのに、自分から何々という眼鏡をかけて、限定した動きのとれないものにしているとすれば、本当に自分自身にとって申訳ないことであり、勿体ない次第であります。


 『無門關』 の頌に 『大道無門、千差路有り、此の關を透得せば、乾坤に独歩せん』 とあることは有名でありますが、自分の心に関所を作って、つまり何々の眼鏡をかけて、あれでなければ、こうでなければと、 『我』 の関門を作っていては、はじめから門をとざしているので、実相の大道は開けない。 この 『門』 を自分のものとしてしまえば、道はどこにも開けているので、天地一杯の自分だけだという次第です。 唯佛與佛、ただ仏の充ち満ちた実相浄土ばかりであります。


    吾が生くるは吾が力ならず
    天地を貫きて生くる祖神の生命

 『みおやのいのち』 があなたに充満しているのであります。 これは 『われ祈れば天地応え』 『われ動けば宇宙動く』 いのちの根源となっているのであります。 あなたは肉体で生きているのではない。 今の肉体のままで 『天地一杯に生きて永遠に新しいみおやのいのち』 があなたに詰っているのであります。


 谷口先生は 『無門關』 を、ぴたりとあなたの心の中に生かされて、活気臨々、大勇猛心が湧出して大歓喜の自己開顕にまで導かれています。 禅門難解の第一義書が、心憎いまでに説示されて、大道無門があなたの日々の生活の中に出現する。 また愉しからずやと叫ばないではいられない。


 ただお互いに注意したいことは、この書を読むと人間ぎりぎりの大切なところが分るようになって来る。 これを形で、つまり精神の高等数学でも解いた気になって得々となることがあってはならないことである。 新解得道したとき ―― 自分のものになり切ったとき生命の實相が本当に生きて、あなたと不二一体であることを知るでありましょう。



 


 本書は戦時、『無門關の日本的解釋』 として出版され、ひろく感動を与えた名著でありますが、ずっと絶版となっていたものであります。 時至って、谷口先生の加筆改訂のもとに、生長の家三十五周年記念出版として刊行されたものであります。



 ※註:伊東種氏 ・『生長の家三拾年史』を編纂
           彫刻家 『天を指す手』・『佛手柑』 の作品は本部で見られたと思う
           随筆集・『無韻の美』

[342] 『日本人のための国史』 叢書
童子 - 2013年07月23日 (火) 22時33分


 日本の実相顕現運動には、民族の生命の一貫した流れを知り、我らの先人の辿った具体的な相(すがた)を知ることが大切であります。

 ところが戦後の歴史書は、概ね日教組の講師団体の者の手になり、殆ど全てが日本侮辱の国籍不明のものであった。

 日本を建て直すには日本民族の本来の精神に立還り本当の日本歴史を国民に送らねばなりません。


 二月には、いよいよ村尾次郎博士の 『民族の生命の流れ』 上巻と、

 中村菊男博士の 『満州事変』 が発行されます。


 曇りなき史眼によって歴史の如実の実相を観ることにより、今日の日本人が民族的に過度の劣等感に陥っていることを救わねばなりません。

 日本弱体化の占領政策の根本に青少年の思想的骨抜きを図る屈辱的歴史教育があったので、多くの青少年は日本に生まれたことを屈辱だと思っているのです。

 そこから自暴自棄的な青少年の非行が始っているのです。

 私たちは正しき歴史教育を復活することによって青少年 ―― 次代の日本の担い手を正しき自覚に導かねばなりません。

 その目的によって刊行されるのが、この 『日本人のための国史』 叢書です。


 また村尾博士は歴史教科書の左傾化を身をもって防いだ文部省畑の歴史家であり、新教連や生長の家青年会にもしばしば出講して頂いた同志であり、 中村氏は綜合雑誌 『自由』 等で活躍している気鋭の政治学者で著書約四十冊、戦後の左傾歴史の書きかえに意欲をもやしていられる方です。

 この国史叢書発行の趣旨に協賛して青少年を持つ御家庭には是非一本をお備え下さい。


  
                『明窓浄机』  40年新年号

[344] 『聖道 (しょうどう) へ』
童子 - 2013年07月25日 (木) 21時36分


 私たちは結婚すると亀岡町矢田町の家に移った。 塀の高い家で薄暗く陰気であった。 

 その家の庭で私は 蛇が蛙を呑んでいるのを見たのであった。 蛙が大きすぎるので、蛇はそれを一ぺんに呑み込むことが出来ないで、半分蛇の口からハミ出している蛙が両脚をはねて、もがきながら苦しむ有様は何とも可哀想で見ていられなかった。

 私は棒で蛇の頭をブンなぐって蛙を吐き出させてやろうかと起ちあがりかけたが、やめた。 「蛙を逃がしてやったら蛇は何を食べて生きるだろう。 餓死するかも知れない」 と思ったからだ。



 その時、私は大本教の本尊神が、国常立尊という地球の創造主であり、従って地上の人間の創造主でもある。 それが一度八百万神に衆議一決排斥されて地球の東北、ウシトラの方角の片隅に幽閉されて 「艮の金神、鬼門の金神、祟り神」 の悪名をつけられていたのが、明治二十五年になって地上の主神として復権して、綾部を地上の高天原と称して其処に出現し、出口なをと称する老婆を霊媒として自動書記的にその教えを書き出したのであることを思い出した。

 その大本教の神様が地球の創造主であるならば、地球上の生物が蛇と蛙との関係のように、弱肉強食、殺し合いの罪を犯さなければ生きられないような悲惨な世界をつくったのは、大本教に出現した其の神自身に責任があるのではないか。 しかも、その神は自分の責任を棚にあげて、人間ばかりを責めて、神の心にかなわぬ人間を天変地変で皆殺しにするなど残酷無比のやり方で、慈悲の慈もない、そんな神は存在する筈はないと私は思い出した。

 そして大本教をやめることを決意し、毎日講話をつづけていた道場に出講しないことにしたのであった。



 その頃私の心には 「神は愛なり」 という考えが芽生えつつあったのであり、この世界の殺し合いその他の悲惨は神が造ったのではなく、生物自身の “迷いの心” の具象化に過ぎないのであるから、神創造に責任はないのである。 神は常に無限の愛をもって、その恵みと愛と智慧とを人間に送ってい給うけれども、 “迷いの心” によって波長を合わせないものは、神の恵みを受けとることが出来ず、人間自身の想念の具象化として、本来ありもしない不幸や病気をつくりつつあるのだという佛教の唯神所現的信仰または無明縁起的な思想に移りつつあるのであった。


 
 当時の以上の思想を論文集にまとめたものが、谷口雅春選集にある 『聖道へ』 という論文集である。




 この現象世界は愛ふかき神の創造ではあり得ない。 こんな残酷物語のような 「殺し合い」 の弱肉強食世界を創造したような 《神は無いのだ》 という 『神の否定』 が前提となって其処から生じた 「愛の神の肯定」 が生長の家の信仰の出発点になっているのである。




             『生長の家』誌  45年11月号 



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