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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[427] 神想観の祈りと米国光明思想(1) (1)〜(5) 【完】
明鏡 - 2013年09月11日 (水) 22時39分

『 白鳩 』誌 昭和二十二年五月号より  谷口雅春先生



米国光明思想家グレーン・クラーク氏の祈りは、

『 神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え 』( Lord fill me with Thyself)と云うのであります。

ディヴァイン・サイエンスのヘンリー・ヴィクター・モルガン氏と協同して光明思想を宣伝している英国チチェスター市のヘンリー・トマス・ハンブリン氏の著書にも同じ言葉が書かれています(昭和二十二年当時)。


メタフィジカル・ヒーリングでは、神の生命をわが内に流れ入らせて、神に任せきってしまえばもう我(が)の計(はから)いで思い煩(わずら)うことは要(い)らないのです。


「わがわざはわが為すには非ず」して、おのずから神の祝福の流れにある自分を見出すことが出来るのであります。


それは生長の家の招神歌第一首の『生きとし生けるものを生かし給える御親神(みおやがみ)、元つみたまゆ幸(さきは)え給え』という所と全く一致するのであります。


招神歌は自分のみで実修するときは高声で朗唱する必要はありません。『生きとし生けるものを生かしたまえる神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え』と云う心で念ずる。そして静かにその文句を繰り返し念じて、今ここに神の生命が生きているのだ。自分が生きているのではない、神の生命が生きているのだ。有難う御座います、有難う御座いますという心になるのであります。


その気持ちは唯(ただ)感謝だけで他の気持ちは何もなくなるべきであります。


何とか他に自分の注文(ちゅうもん)をして、祈りをしなければ効かんように考えたり、神様も私の願いに気がつかないかも知れない、私を忘れていらっしゃるかも知れないなどとか思って『神よ吾を覚え給え』などと祈る宗派もありますが、之(これ)では神を信じていることにならないのです。




[428] 神想観の祈りと米国光明思想(2)
明鏡 - 2013年09月11日 (水) 22時42分


本当の信仰は、神様に全部をまかす。神様に全然『自分』という牙城(がじょう)を明け渡すのです。すっかり神様に城を明け渡してしまって『今神様のみがここにまします』と深くそれを思念する心境に達するのです。


『わが生くるはわが力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)』と云う、招神歌の第二首がそれであります。


この歌の心を深く繰返し念じます。すると自分の生きているのが自分の力でないことが判(わか)るのですから、わが一挙手一投足が神様の御心のままでありますように、自分の生活の一瞬一刻が、神様の生活の一瞬一刻でありますように、斯(こ)う云う祈りの心が起ってまいります。


そうすると神の生活が、吾々の一挙手一投足にあらわれ、生命の世界の素晴らしい荘厳さが生活に、今此処(ここ)に内からの催(もよお)しと外からの催しとで実現する境に達するのであります。


尤(もっと)も神様は自由でありますから、その生活はどんな形で現れるかも知れない。それは吾々の予想しないような順序を以(も)って外の境遇から推し進めて来られるかも知れない。どんな風に現われて来ようとも、至善なる神様からは悪いことが出てくる筈がない、


若し悪く見ゆることが出て来たなら、吾々の過去の方向の間違った生活又は心が転回する為の自壊作用として現れるのであって、吾々は決して恐れることは要らないのです。悪と見ゆることは皆迷いの自壊する為に現れるのであります。それは唯(ただ)真理が実現する為に出て来るのであります。


それは恰(あたか)も今まで間違った方向に歩いていた者が壁に打衝(ぶつ)かって自ら向きが変わるようなものである。悪いことは自然に消えてゆくのです。出て来ること、皆よい事だと信ずるのが、神への全托であり、自分がなくなる事であります。そうなると何でも有難く何でも美しく、何にも求めるものがなく、任せ切りの本当に澄み切った心境になるのであります。




[440] 神想観の祈りと米国光明思想(3)
明鏡 - 2013年09月14日 (土) 11時57分


何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。神は総(すべ)ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。自分は幸福であるより仕方がない、自分の周囲には有難いことしか起りようがない、自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると感じられる心境に達するのであります。


その心境を呼び出す歌が第三首の招神歌『わが業(わざ)はわが為すに非ず、天地を貫きて生くる御親神(みおや)の権能(ちから)』であります。自分が為すのは、神が為し給うのだと云う心境です。神我一体です。


神我一体となるためには、『我』と云うものがあって、『神』と対立していて、この二つが結びつくのでは駄目です。自分を全然、神にまで自己滅却して、神への無条件降伏をなしたとき、進駐軍が入ってくるように神が入って来て、神のみになってしまってそのときに出て来る『我は全智全能で何でも出来る』と云う大きな自覚こそ本当であり、『我』が残っていて『我は全智全能だ、何でも出来る』と考えたら増上慢(ぞうじょうまん)であります。


だから、吾らの祈りは『神の生命を吾に流れ入らしめ給え、吾に神の生命を、智慧(ちえ)を、愛を実現せしめ給え。私の一挙手一投足が、神様、あなたの生命の実現でありますように』と云うようでなければならない。


此の無我の祈りを繰返しているうちに、『神我れに宿り給うて我れとして神のみ業(わざ)を為さしめ給う』と云う自覚が出て来て、神と全く和解した心境になるのであります。


神と対立している間は、神に対してまだ本当に和解していないのであります。神への無条件降伏による神への全的和解の行事が神想観なのであります。


第四首目の『天地(あめつち)のみ親の道を伝えんと生(あ)れましし、生長の家の大神護りませ』は、神想観実修の途中の心境中、悪霊の憑依(ひょうい)などの障礙(しょうがい)の起らないように生長の家の神様の御降臨を願う歌であります。







[444] 神想観の祈りと米国光明思想(4)
明鏡 - 2013年09月15日 (日) 00時03分


皆さんは本当に毎日神想観を実修していらっしゃいますか。一日でも神想観を止めては可(い)けません。誌友の中には教法を聞いたり、聖典を読んだり、或は神に就(つ)いての議論を戦わしたりするのは好きだけれども、神想観をやるのは好きではないと云う人があります。以(も)ってのほかです。


吾々は毎日神想観を修して神と離れない心境になることが必要なのです。でなければ、何時(いつ)の間にか神様から離れた利己主義的な自分と云うものが出来上ってしまうのであります。吾々の日常生活と云うものは、『対立』と見え、『個我』と見え、『物質』と見える世界に棲(す)んでいるのですから、どうしてもそう云う誘惑と暗示に満ちた世界であります。


その誘惑と暗示を放(ほう)って置いてはいけないのです。吾々は一日の中、少くとも一時間以上は(これを三十分ずつ朝晩に分けても好い)神の方へすっかり心を振り向ける時間を作らなければならないのです。その為に神想観はどうしても必要なのです。


米国光明思想家グレーン・クラーク氏は、『君は喜んで価を払うか』(Are you willinng to pay the price)と云っておりますが、此の考え方が米国光明思想の考え方であります。


吾々は生長の家へ来てお陰(かげ)を得た人にも、『価を払え』と云わなかった。これが日本的謙遜(けんそん)であります。それは美徳のようであるが、忘恩的に人間の魂を養成して、お陰を得ると共に卒業者のように脱退する人が出来た。


この点では米国光明思想は『君は喜んで価を払うか』と云い、富の無限供給を得んとするものは得たお陰の十分の一を公けの事に捧げる、そこに無限供給が重ねて来ると云っています。


又、吾々が神様から生命を頂いているとすれば、ただ頂き切りでは可(い)かぬ。一日のうちのある時間は、必ず神様の方へ生命をお返ししなければならない。それが即ち『価を払う』ことになるのだと云っています。


神様は常に吾々のことを思い、吾々の幸福を念願せられて居りますから、吾々も神様を純粋に念(おも)う時間を有(も)たなければならない。これが神想観なのであって、神想観をすることが神から生命を頂いた価を払うことだと説明しています。





[445] 神想観の祈りと米国光明思想(5)
明鏡 - 2013年09月15日 (日) 00時06分


アメリカ式の物の考え方はハッキリしているのであります。

もう一つ『喜んで価を払う』べきは、自分が教えを受けてお陰を受けたならば、そのお陰を人に伝えて教えを弘(ひろ)め、その喜びと教えとを人にも頒(わ)け与えると云うことが『価を払う』ことだと云っています。


信仰の用語も、ビジネスの用語も、『価(プライス)を払(ペイ)する』と云うので、米人式な歯に衣(きぬ)着せぬ朗かな云い方で直截簡明(ちょくせつかんめい)なあけっぱなしの国民性をあらわしていて好いと思います。


生長の家では、神様は罰を当てないと云っている。これはクリスチャン・サイエンスと同じことである。併(しか)し罰は無いとしたらお陰を受けたらお陰の取り徳にして置いた方が得ではないかと思う人が出来る。そういう人に米国式光明思想は『価いを払え』とハッキリ云う。


吾々の生長の家では別に追求しない。吾々の宗教は非常に自由で民主主義である。強制や神罰によって威脅してその人が善を行じても、それは道徳的人格自由の発現でないから『善』でないと云うのであります。


この点ではアメリカの光明思想も類似のことを云っております。ある光明思想家の本には、ホームズ氏もクラーク氏もそうですが、どんな人にも強制的に善を行わしめようと思って祈ってはいかぬ、彼に完全な自由を与えなければいかぬと書いております。


それでは何と祈るかと申しますと、『彼に於いて、神様あなたの御心が成就致しますように』と祈れと書いてありました。唯(ただ)それだけでいいと云うのであります。人間が人間をその思念で強制してはならない。神はその人をよくする道を知り給い方法を知り給う。


彼自身が本当の自由を得たならば、彼の生命は本来神の子であるから自然に完全になると云うのであります。善でも強制することは、いけないと云うのです。アメリカ式自由主義の信仰には仲々深い境地があると思います。




              【完】






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