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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[431] 神想観の諸段階とその功徳(1) (1)〜(7)  【完】
明鏡 - 2013年09月13日 (金) 00時25分

『生長の家』誌 昭和三十四年八月号より  谷口雅春先生



生長の家の誌友は是非とも神想観を怠(おこた)ってはなりません。

スター・デーリーは斯(こ)う言っています。

「禅定(ぜんじょう)的神想観(Meditation)は若(も)しきわめて完全に行われたならば、それは一種の芸術と謂(い)い得るであろう。


それは音楽や絵画の如く必ずしも特殊の形式に執(とら)われる必要はないのであるが、すべて美が形として表現されるときには、それぞれの根本的法則があるように、


メディテーションを行うにも一定の法則があり、その法則が完全に行われるときには、意識の高揚を体験することができるのである。」


このようにスター・デーリーは言って、その根本法則を次の七つの段階に分けて示しています ー



一、決意


二、心身を放下すること。(緊張を解くこと)


三、精神を本尊に集中すること。

(デーリーはCentralizationという語をつかって次の“精神統一”と区別している。彼は瞑目(めいもく)中の眼球を上目附(うわめつき)に額(ひたい)の上方を視(み)つめるつもりでキリストの姿を描いて、それに精神を一点に集中するのである)



四、精神統一。

(Concentrationである。精神集中が一層強力となり純化されて、一切の雑念が消える状態である。目の裏が蒼空(あおぞら)のような感じとなる)



五、祈りの言葉の黙念。

(本尊に対して欲する事物を念ずる)



六、欲する事物の成就せる有様を持続的に瞑想する。



七、既に成就せりとの強烈な自覚。





[432] 神想観の諸段階とその功徳(2)
明鏡 - 2013年09月13日 (金) 00時28分



最初の「決意」と言うのは、「吾れ神想観をなす。これを為し終らざれば一歩も退かず」と云う決意をなすことが必要なのである。聖書にイエスが“神の子”の悟りに入(い)り給うたときに、「四十日、四十夜、断食して、後に飢えたもう。試むる者きたりて言う、


『なんじ若(も)し神の子ならば命じて此等の石をパンと為らしめよ』答えて言い給う『人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず、神の口より出(い)づる凡(すべ)ての言(ことば)に由る』と録(しる)されたり」とあるのは、


イエスが徹底的に神想観をなそうと云う決意の示しがあらわれているのだと言わなければならないのであります。


「四十日四十夜断食して後に飢えたもう」と云うのは四十日四十夜断食して神想観をした後に、飢餓感が甚(はなは)だしくなったという意味であります。「飢えたもう」と云うのは必ずしも“腹が減った”と云うような軽い意味ではありますまい。


たんに腹が減るだけなら、一二日断食しても腹は減っているのです。だからこの場合の「飢え給う」は、たまらないほど飢餓感が激しくなったことであります。


その時にサタンが出て来て、「お前はそんなに神の子だったら、此(こ)の石をパンとして食べたらどうですか」と言ったというのである。


併(しか)しイエスは「唯今(ただいま)、神想観中」と言うわけで、「神の口より出づる言葉を今受けつつあるのである」とて、そのような肉体的飢餓感の誘惑を退けて、「神の言葉」を念じつづけたのであります。





[447] 神想観の諸段階とその功徳(3)
明鏡 - 2013年09月15日 (日) 20時38分



メディテーションにとって次に必要な根本的法則は、肉体的及び感情の緊張を脱落させることであって、これを道元禅師は「身心(しんじん)脱落・脱落身心」と云う語で表現されたのであります。これも最初から完全に行われるにはきまっていないのであります。それは坐禅をやってみた人々の経験によって明らかであります。


スター・デーリーは次のように謂(い)う ー

「メディテーションは易々加減(いいかげん)に出来るものではないのである。それは世界中の芸術中の最大の芸術である。だから、それを実修する人に極度のきびしい鍛錬(たんれん)が課せられるのである。


仮借(かしゃく)なき自己の性格に対する自己批判と懺悔(ざんげ)が必要なのは言うまでもないが、この芸術を完成せずには置かないと云う決意と、忍耐と失敗につぐ失敗や、もうどうしたら好(よ)いかわからない杜惑(とまど)いにも屈せずに、どこどこまでもやり遂げる“精進努力”と謂(い)う価いを払うということなしには、その“手ほどき”さえも得られないのである。


メディテーションの深い境地に於いては、人は“自分自身”に直接対面するのである。

安光(やすびか)りの安価なニセ物の自分が露呈せられる。善良なクリスチャンにありがちな極内密(ごくないみつ)の虚栄心のニセモノがニセモノ中の最も恐ろしいニセモノとして浮び上って来る。


今まで平気で語ったゴシップが恰(あたか)も殺人罪の如く思われて来る。今まで思わず口をついて出た人の悪口がガラガラ蛇のように恐ろしいものに思われてくる。


告げ口することが恰(あたか)もジャーコール狼の出現のように見えて来る。そして人を審判(さば)くことは恰(あたか)も夜襲うて来るハイエナのように見えて来る。」と言っている。



こうして自己批判が徹底して今までの自分の行為や心境に直接対面してそれらが徹底的に否定され懺悔(ざんげ)されて来るのでなければならないのであります。


つまり神想観で実相を完全に観じるようになるまでに、私たちは浄瑠璃(じょうるり)の鏡の前に立ったように心を静めて自己の過去の心の汚れを徹底的に浄化して置くことが必要であるのであります。





[448] 神想観の諸段階とその功徳(4)
明鏡 - 2013年09月16日 (月) 00時08分



この自己の徹底的批判は神想観又は祈りを繰返しているうちに益々峻厳(しゅんげん)になって来るのが普通で、私が『聖道(しょうどう)へ』の中で書いておいたように、一切の肉食が残忍な行為に見えて来、呼吸するさえも多くの微生物を殺していると云う反省にまで発展して来るのであります。


その過程に於いては私たちの潜在意識の底にひそむ傲慢(ごうまん)な虚栄心と、肉体の自我心とが、今や謙遜(けんそん)に懺悔(ざんげ)せんとする自分に挑戦して来ることがあります。


「誰でも肉食しているのに、どうして肉食しては悪いか」とか、「獣肉を食するのは残酷だと言うが、お前だって魚をくっているではないか。米粒だって生きているじゃないか。」とか云う風に肉体の自我心が言って魂の向上を妨(さまた)げようとするのであります。


また時には内密にただ心のうちに空想で犯していた罪が想(おも)い出されて来て、自分を“不浄の者”として叩(たた)きつけて再び起ち上がれないほどの魂の苦渋を味(あじわ)わすこともあります。自分の不信仰の根の深さがわかって人間的なプライドや自尊心が崩れてしまう時もあります。


こうしてメディテーションを続けている最初の或(あ)る段階に於いては自己の無価値が痛感されて信念が滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にあらされてもう困憊(こんぱい)し切って、血塗(ちまみ)れのたたかいに、もうどうすることも出来ないような心境になることもあるのであります。


若(も)し私たちが、内に潜(ひそ)む「自我の正体」を神が見給う如く見詰め、更にそれを見詰めつつ押し進むならば、私たちは迷いの深さに、とても実相を顕現する見込などはないと感ずるようにさえなるのであります。


しかし優れたる修行者はその中から勇敢に立上ります。「自我の正体」をまざまざと精視(せいし)して、それに対して「サタンよ、去れ」とイエスが言ったように肉体的自我を否定することができます。


併(しか)し、「自我の正体」に対面したとき、それから抜け出すことをしないで、「それほど悪いことでもないや」と、帰って来てくれることを待っている古い肉体我の誘惑の温い腕にいだかれたくなって元の黙阿弥(もくあみ)になってしまう人たちも随分あるのであります。


だから「“どんな事があっても精進努力をつづけて退転しないと云う決意”と云うものが最初に是非必要だ」とスター・デーリーは神想観の過程のトップ事項に“決意”を挙げたのであります。





[449] 神想観の諸段階とその功徳(5)
明鏡 - 2013年09月16日 (月) 00時11分



次に必要な課程は「身心を放下すること」である。「緊張緩和」と言う方が現代人にはピンと来るでありましょう。「放つ」心境になろうとあまりも努力するがために、却って緊張を増すことにもなるのであります。


私が発見した有効な方法は、全託の気持になり、呼吸を調(ととの)え、呼吸に合わせて「平和であれ、静かであれ」と念ずることであります。


或(あるい)は「われ神の生命の洗礼を受く、われ神の生命の洗礼を受く」と念じながら息を静かに静かに吸い、「われ神の生命に浄められたり、われ、新らしき者なりたり」と念ずると不思議に全心身が浄まって最早、罪なき者と云う自覚とともに、「脱落身心、身心脱落」の境地に入るのであります。


肉体だけを力を抜く練習をしましても、心に罪の観念や、力(りき)みや緊張が残っていましては、本当の緊張緩和になり得ないのであります。






[450] 神想観の諸段階とその功徳(6)
明鏡 - 2013年09月16日 (月) 15時13分



こうして身心脱落の心境に入った次には、本尊への精神集注(しゅうちゅう)を行うのであります。スター・デーリーは、キリストの姿を心に描いて、それに精神集注をするのでありますが、生長の家は万教帰一でありますから、キリスト教徒はそのようにして宜(よろ)しいですが、


浄土宗や浄土真宗の人たちは阿弥陀仏(あみだぶつ)の尊像を心に描いてそれに精神集注を行うのもよろしいし、真言宗ならば、大日如来(だいにちにょらい)の尊像又は「阿字(あじ)」を心に描いて、その本尊に精神集注を行うのが宜しい。


日蓮宗の人ならば、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお曼荼羅(まんだら)を心に描いて精神集注すればよろしいし、


今まで信仰なくして最初から純粋に生長の家だけの信仰に入った人や、「実相」の中に一切の本尊が存在すると云うことが理解された人ならば、「実相」の大文字を本尊として心に描いて、それに精神を集注するがよいのであります。


要するに本尊への心の集注によって、本尊の御遺徳によって、一切の雑念妄想が消え去るのであります。





[451] 神想観の諸段階とその功徳(7)
明鏡 - 2013年09月16日 (月) 15時16分

神想観の第六過程である「瞑想」は Contemplationを訳したのであります。「黙念を持続的につづけておれば自然に瞑想になる」とスター・デーリーは言っています。


「黙念」の場合には「吾々は本尊を通して本尊の中で念ずるが、瞑想の場合には吾々の内で吾々を通して本尊が念ずるのだ」とデーリーは注釈しています。


まことに神想観の深い状態に於ける心境を道破(どうは)したものと言えましょう。


「自分」と云うものが「神」と対立していて、「自分」が神に対して「祈る」と云う最初の状態から段々「自分」が神に近づいて行って距離がなくなり、ついに「自分」が神の中に入って念ずる ー まだその境地では、神の中に「自分」と云うものがありながら、「自分が祈る」と云う感じがある限り、神と「自分」と云うものの対立は消滅していないのであります。


それが段々、「自分」が無くなり、「自分」と云うものが神に同化する境地になります。自分と神とが一体になってしまう。


神が自分であり、神がこの肉体の中で念じておられるのだと云う境地になるのであります。これが黙念→瞑想→既に成就せりとの強烈なる自覚への到達と云う順序であります。




               【完】






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