[437] 神想観についての心得書き |
- 明鏡 - 2013年09月13日 (金) 17時42分
『 神想観についての心得書き 』
谷 口 雅 春 先 生
『 光の泉 』 昭和三十五年十二月号
セオソフィー(霊智学(れいちがく)と訳す)と云(い)うブラバッキー夫人と云うヒマラヤに
住んでおった非常に霊能のある人が始めた宗教があります。
それとの医学的の関係を書いた本を私が最近(昭和三十四年)『 靈智醫学(れいちいがく)と治病 』と
云う翻訳書で出しましたけれども、あのセオソフィーの一派の教祖さんでアメリカに居りま
したアリス・A・ベーリー夫人と云うのがあります。この人は一昨年死にましたけれども、
この人は大変霊能の高い人でした。
それがこの“ 精神集中のために、必要なる練習の仕方としてあげた所の方法 ”は、
これが神想観の時にも非常に参考になるので、紹介いたします。
神想観の時にも斯(こ)う云うような気持でおやりになるが良いと思うのであります。
それで次に引用したわけであります。
( 一 ) 肉体を安らかに どこにも凝(こ)りのないように統制する
「 凝りがない 」と云うことは、「 だらしない 」と云うことではありません。
生長の家では、一番正しい坐り方にあることが、どこにも凝りのない姿勢であるとして、
尻を後方に引き、前方にある膝(ひざ)と尻とで背骨を載せる三角の台たらしめ、
其(そ)の上にちゃんと柱である背骨が立って、重心が一定の処(ところ)へ落ち着いて
一番楽で長時間疲れない姿勢と云うのが、あの生長の家の神想観の正しい姿勢であります。
普通西洋人はあの坐り方が出来ないものでありますから、椅子にかけて凭(もた)れても
良いですけれども、日本人は『 詳説神想観 』に説明してあるようにして坐る方がよろしい。
坐禅の姿勢などは、大体あれと同じ姿勢で尻を後方に引いて背骨を立てる姿勢でありますけれども、
坐禅は印度(いんど)に発達した坐り方であります。
印度はあんまり温かいから坐っている内に居眠りを催すことがある。
だから居眠っても、坐禅の結跏趺坐(けっかふざ)というあの太股(ふともも)の上へ足先を挙げて
組み合わし三角の座にする姿勢でいると、ひっくり返らないのであります。
それですから、あの結跏趺坐の坐り方をします。しかし婦人があの姿勢をしていると熱帯国では
蛇が往々婦人の要所に侵入してちつをつきやぶることがあるので、半跏趺坐(はんかふざ)と
言って一方の片先だけを太股の上にあげ、他方の足の踵(かかと)をもって要所をふさいで坐ると
されています。日本的な神想観の坐り方は万全の坐り方で、どの点からも隙(すき)がありません。
( 二 ) リズミカルな規則正しい呼吸をできるだけ静かにゆっくり行なう
これは呼吸だけの調整でありますが、神想観では念ずる言葉と呼吸とをちゃんと調和 して、
息を吸う時には、「 神の生命(いのち)流れ入る 」 と念じ、その息を吐くときには、
徐々に吐くために腹部に力を入れて張り出 し 「 満たされている 」 感じを誘導 し
「 神の生命に満たされ、生かされている 」 と念じます。
( 三 ) 自分の肉体、感情体、及び精神体のすべてが自分の脳髄をアンテナとして
宇宙霊の流れ入る所の流入口となり、わが想念によって全身心が浄められ、
それによって支配されると感ずる
「 感情体 」 と云うのは、「 幽体 」のことであります。それから「 精神体 」と云うのも、
やっぱり“ 想念の体 ”であって“ 幽体の表面 ”の方であります。
“ 感情体 ”の方がもう一つその奥の方に在るのであります。
我々の体(たい)は、大別すると肉体、エーテル体、幽体、霊体の綜合体(そうごうたい)で、
その中心に本体と云う実相の、「 現象以前の本体 」があるので、各々の体は 本体の周辺に層を
成していると考えてよろしい。
もっと細(こまか)く分ければ いくらでも分類できますけれども、“ 感情体 ”及び“ 精神体 ”と
云うのは“ 幽体 ”のそれぞれの層であります。そして肉体は現実的な感覚を司ります。
その肉体と幽体との接着(つなぎ)のハタラキをするのが“ エーテル体 ”であります。
その“ 幽体 ”は眠っているときなどに幽界に出遊することがあります。
また、眼が覚めているときでも、多少一寸横へ寄ってズレている事がある。
つまり肉体とピッタリ重なり合わないで、一寸(ちょっと)‘ だぶって ’いるように見える。
そう云う所から、それを英語でダブル(double)と言います。
肉体と二重写しのようになって見えるので、「 複体(ふくたい)」と日本語で名称づける場合も
あるのであります。
神想観の時には、この肉体および感情体並びに精神体が、自分の脳髄をアンテナとして、
自分の全体に宇宙霊を流れ入らしめるように感ずるがよい。
そうして宇宙霊によって自分の全存在が浄(きよ)められるように感ずるとよろしい。
( 四 ) 意志の力により、ある一定の言葉を心に念じて それに精神を集中する
生長の家では、「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」 と云う語(ことば)が
基本的な神想観に於ける念ずる言葉でありますが、それをじーっと念じて
意識朦朧(もうろう)としたり、無念にならないで 意識をはっきりとその言葉の意味に集中するのです。
その時に唱える言葉を呪文みたいに無意味に繰返して無念無想になってしまって、何らかの霊に
憑依(ひょうい)されるようなことになると、一種の呪術(じゅじゅつ)(まじない)になってしまって
本当の神想観ではなくなってしまうのです。
同じ念ずる語(ことば)を毎日繰返していると、それが習慣的になって、唱えていることばの意味を
本当に想念しないことになるとかえって効果が無いのであります。
その言葉の意味を通して 真に神を想(おも)うところに効果が有るのです。
また、あんまり習慣的に同じ言葉を唱えていると、心に余裕が出来てその言葉を心の一方で
唱え乍(なが)ら、こころの他方では他の事を考えたりします。
「 ああ今晩家へ帰って何を御馳走(ごちそう)こしらえようか 」なんて他方で思い乍ら 、 一方で「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」と念じているという事になるのですから、
そこで、そういう事になってくると別の言葉で念ずるようにするのです。
そうして、最初念じた言葉よりも、もっと深い意味を含んだ複雑な言葉を念じます。
「 如意宝珠観(にょいほうじゅかん) 」 であるとか、「 四無量心(しむりょうしん)の神想観 」で
あるとか、「 観普賢菩薩行法(かんふげんぼさつぎょうほう)」 であるとか云う もっと複雑な
念じ方の神想観をやって、複雑な相(すがた)を眼の裏に描いて観ずるようにします。
その念ずる時に、例えば 「 流れ入る・・・ 」 と念ずれば、ある光体が流れ入るような有様を
眼の裏に描いて、目を閉じているけれども その奥に在(あ)る「 心の眼 」で、じーっと それを
見詰める気持ちになると、意識がハッキリしながら精神が統一し易いのであります。
時には 次のように清浄化され精妙化され霊化されたる自分を念ずるのもよいのであります。
( 五 ) かく精神を集中して念ずる所の言葉は大体次の通りである―
「 吾が本体は、太陽よりも尚一そう光輝燦然(こうきさんぜん)として輝き、雪よりも尚一層清浄であり、
エーテルよりも尚一そう精妙であり、これがわが中(うち)に宿る霊であって、それが本当の自分で
ある 」
セオソフィーのように斯(こ)う云うような意味を念ずると、一層自己が「 肉体 」ではなく
「 霊化されたもの 」と云う自覚を得るに便(ベン)であります。併(しか)し、此(こ)の通りの
言葉と云うように、そんな型に はまった念じ方でなければならぬと云うんじゃないのです。
これを参考に、また『 私はこうして祈る 』の本にある祈り方をするとか、兎(と)も角(かく)、
無意味な呪文を唱えるようなことにしないで、意識の中に意味がハッキリあれば良いのです。
符号的な形式的な思念に流れないで、本当に想念を起しての言葉が必要なのです。
「 如意宝珠観 」や「 観普賢菩薩行法 」などは『 詳説 神想観 』の本に詳しくやり方が説明して
あります。
( 六 ) その次の言葉に精神を集中するのもよい―
「 神は今 吾を見つめてい給うのである 」
これも同様に、言葉を念ずる時 はっきりとその意味を思い浮べながら繰返すのであって、
その想念がふらふらしてはならないのです。
( 七 ) 最後に次の意味の言葉を繰返して精神統一するのである―
「 吾々は永遠の世界に住んでいる。吾が魂の中には言葉に言い表すことのできない、平和が
みちみちているのである。今ここにすべてのものを新たならしめる所の力がある。
今、自分は神と一体であるが故にその力は吾が中(うち)に生き動いているのである 」
以上はセオソフィーの行う精神統一の一端を紹介して、神想観を行うときの参考に供したので
ありますが、アメリカの帰一協会“ ユニティー ”に於いても それぞれ多少異なる所の神想観
(meditation)の思念があるのですが、それらは大体何(いず)れもその原理は同一であります。
そしてその根本は、この実相世界の完全さと実在する「 本当の自分 」の完全さを、いかにアリアリと
心に描いて、それに波長を合わせ現実界に実現するかと云うことで、それが神想観の根本で
ありまして、 応用や変化は無数にありますが、あまり色々やらないで、最初は基本的な神想観を
ミッチリ実修することがよいのであります。
神想観を自分だけやると悪霊につかれるおそれがあると言って 恐れてやらぬ人がありますが
それは意識にハッキリと、神の霊の流れ入る有様を描き、念ずる言葉にハッキリ精神を集中し
ないで意識を朦朧(もうろう)とさせたりするからであります。
又、神想観の始めに 「 招神歌(かみよびうた)」 をとなえて「 守護の天使 」を呼び出しておけば、
そんな恐れはありません。
また本部で允可(いんか)していない先生に、神想観を指導してもらうと馮霊(ひょうれい)に
つかれる危険があると云うのは、その指導者が往々にして人体磁気を修行者に送り
所謂(いわゆ)るマグネタイズして恰(あたか)も催眠状態にならしめることがあるからです。
こんな場合は、指導者につくよりも、『 詳説 神想観 』に説明してある通り、御自分だけで
実修なさるが宜(よろ)しい。
〈 了 〉
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