[532] 『神は愛也』というのに、何故神想観では『神の無限の智慧の海』からはじまるのか |
- 童子 - 2013年09月26日 (木) 14時52分
『神は愛なり』 という語から連想して、私たちが神想観の実修をするときに、先ず 『神の無限の智慧の海、神の無限の愛の海、神の無限の生命の海 ・・・・・ 』 というような順序で念ずるようにしているのは、順序が間違っているのではないか。 先ず 『神の無限の愛の海』 と念じて、その次に 『神の無限の智慧の海 ・・・・・ 』 という風に、 “愛” を先に念ずべきではないか、という投書があったのである。
この投書者は非常に頭のよい人で、時々よい質問を投げかけて下さるので、釈尊に対する阿難尊者の役目をして下さるのである。
この問題に就いての詳しい解明は、ページ数が限定されている箴言の中で詳記することが出来ないが、要するに頭脳智によって、 “神” の本質を分析的に解明しようとせられたところに間違いがあるのである。
即ち、神の本質を “愛” と “智慧” と “生命” と・・・・・ という風に分解し、 “愛” と “智慧” と “生命” というような別々な特質が集合して出来ているのが如来であり、神である。 その集合要素の秩序的順位はどうであろうかと考え、そして “愛” は “智慧” よりは優先すべきものであると結論せられたのである。
しかし “神” はそのように “愛” と “智慧” と “生命” との混合体又は集合体ではないのである。 神の本質を人間の頭脳智によって分解・分析しては、 “神” そのものの本質は見つからなくなるのである。
それは 『無門關』 の公案第八則にあるところの、奚仲が “車” を分解して部分として何か捜しているという。 “何を捜しているのか” と人が問うと、奚仲は答えて、“車は何処へ去ったか” と捜しているという。 “部分” に分解すると “全体” は逃げてしまって、それを捉えることはできないのである。
“神” とか “如来” とかいう絶対者は、 “愛” と “智慧” が対立しながら混合又は融合している存在ではあらせられないのである。 それでは相対者であって絶対者ではなくなる。 “神” は絶対者であるから、名辞によって限定しがたきものであり、 “愛” とか “智慧” とか相対的な名辞をもって限定したら、却って “神” の本質はその人の理解から逃げ去ってしまうのである。
つづく
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