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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[674] 『生長の家』昭和24年11月号法語 ( 1 ) 〜( 30 )【完】
明鏡 - 2013年11月01日 (金) 08時32分




 『 生長の家 』 昭和24年11月号 法 語 谷口雅春 大聖師 



  一日の法語  わが内に生き給う神

  二日の法語  実相に不調和は存在しない

  三日の法語  神の愛に満たされていると云うこと

  四日の法語  神の智慧 吾を導き給う

  五日の法語  神を生活に実現する時が喜(よろこび)である


  六日の法語  神はわれに善き考えを吹き込み給う

  
  七日の法語  想念は運命の別名である

  八日の法語  人生問題を解決するのが宗教である

  九日の法語  人間は本来老いないものである

  十日の法語  過去は 『 今 』 祝福に変貌する


 十一日の法語  『 今 』 は神が生きる唯一の機会である

 十二日の法語  明日は必ず祝福されたものである

 十三日の法語  吾は祝福されたるものである

 十四日の法語  吾れ祈れば天地こたう

 十五日の法語  貧乏はケチな想念の反映


 十六日の法語  今心の中に 『 実相の富 』 を描け

 十七日の法語  われは無限供給の世界を見る

 十八日の法語  神はわが心の暗(やみ)を照破し給う

 十九日の法語  神と共に行為する者は常に機会がある

 二十日の法語  信仰を深めるには


二十一日の法語  今、自分は強いのである

二十二日の法語  神と交通するに静処を求めることはいらぬ

二十三日の法語  吾は心の目をあげて神をほめたたえる

二十四日の法語  吾は吾が生活を神の上に築く

二十五日の法語  吾は神の最高実現である


二十六日の法語  世の中に行き詰りはない

二十七日の法語  吾は一切の人を神の子として拝む

二十八日の法語  自分は霊体である

二十九日の法語  神には凡ゆる解決法がある

   三十の法語  吾がうちに宿るキリスト



※ 原本の法語は、つながっておりますが、読みやすく改行しております。




[675] 24-11 一日の法語  わが内に生き給う神
明鏡 - 2013年11月01日 (金) 08時46分



吾は神の子である。

神は吾が親さまであり給う。


神は吾らの目に見えないけれども

吾らを常に護り給うているのである。


外見がどうあろうとも吾は吾が親さまである神に、

完全に信頼し全託して、神の守りを信ずるのである。


吾は一分間と雖(いえども)神が絶対であり、

その守りが絶対であるという信念をすてないのである。


すべての吾が言葉と吾が行いとは、

それ自らでは何事もなす力はないのである。

吾が言葉、吾が力は神の絶対力の表現であるから、

始めてそれが無限の実現力をもっているのである。







[681] 24-11 二日の法語  実相に不調和は存在しない
明鏡 - 2013年11月02日 (土) 14時47分



神はすべてである。だから すべては一体である。

一体であるから すべては調和するほかはないのである。


不調和なものは 何一つ存在していないのである。

不調和にもし見えるならば それは私の迷にすぎないのである。


自分の心の迷を去った時に、凡ゆる事物が 調和したる状態に現われるのである。

神は調和であるから、吾々もすべての人々と調和しなければならないのである。


人々と調和しないでいるなら、調和の教を説いている生長の家の信徒であると

名乗りをあげる資格などないのである。







[682] 24 - 11 三日の法語  神の愛に満たされていると云うこと
明鏡 - 2013年11月03日 (日) 12時57分



神の愛は 宇宙にみちてい給う。

神の愛は 吾が内に宿ってもい給うのである。


神の愛は み空にも地の下にも、凡ゆる方角に前後左右に、吾をとりまき、

吾を包んで、内にも外にもみちみちていられるものである。


吾は神の愛から逃れることはできないのである。

されば 吾はどんな場合にも困るということはないのである。


だから 自分は完全に自由であって、どんな苦悩も、

重みも背負わされるということはないのである。


神は 我を包んで常に守り給う。

吾は又すべての人を愛し すべての人は吾を愛するのである。






[683] 24 - 11 四日の法語  神の智慧 吾を導き給う
明鏡 - 2013年11月04日 (月) 11時38分



吾は神の智慧に導かれて 常に安全の道を歩むのである。


吾が人生の行路に如何なる障碍(しょうがい)物が横たわっていようとも、

吾は 波長の共鳴の原則によって、困難には自然に触れず

ただ善きもののみが集まって来るのである。


神の智慧は 人々を導いて吾に幸福をもち来らしめ給い、

吾は又 神の智慧に導かれて 人々に幸福をもち来すのである。


幸福を人に与えるもののみ又 自分も亦幸福を与えられるのである。

吾は その真理を知るが故に、常に人々に幸福を与えてやまないのである。





[684] 24 - 11 五日の法語  神を生活に実現する時が喜(よろこび)である
明鏡 - 2013年11月05日 (火) 03時49分



吾は 愛と信仰と勇気と 神より頂いた無限の生命力とによって

自分自身の幸福を創造するのである。


吾が中(うち)に宿る完全なる 「 神の生命 」 の実相を表現する時、

わが生命は 平和にみたされ、調和にみたされ、喜にみたされ、

生き甲斐を感ずるのである。


生き甲斐とは、神が神であるその実相を現わした時が

喜の感じであるのである。

吾は 神を表現することに喜を感じ 生き甲斐を感ずるのである。


神は 愛であり智慧であるから、

吾は 愛を実現し 智慧を実現することに生き甲斐を感ずるのである。




[685] 24 - 11 六日の法語  神はわれに善き考えを吹き込み給う
明鏡 - 2013年11月05日 (火) 21時55分



吾は神の子である。

神はその無限の智慧より、常にその善き考えを吾々に注ぎ給うのである。


吾は神より吹き込まれたる善き考えに常にみたされているのであり、

それを実践するごとに自分は成功し 又人々に幸福を与えることができるのである。


神の世界には智慧と愛と喜と無限の生命とがみちみちているが故に

神をこの世に実現した時 それらの善きものが現実に現われずにはいないのである。


神より与えられたる賜物は 常に雨降る如く、豊に流れ入るのである。

吾はそれを自覚するが故に幸福であるほかはないのである。





[686] 24 - 11 七日の法語  想念は運命の別名である
明鏡 - 2013年11月07日 (木) 00時46分



人は自分自身を信ずる通りの所のものに

自分自身の運命を決定するのである。


不安動揺限りなき心の状態では、

不安動揺限りなき有様が現われて来るほかはないのである。


吾々は不安を去り、取越苦労を避け、恐怖心を去り、

如何なる場合にも 唯(ただ)幸福のみが来たるを

信じて待たなければならないのである。


信じてまてば 必ず道は開かれるのである。

現象界に物が実現するためには 必ず時間の要素がいるのである。


時間の要素を忘れてしまって、今 種を蒔いて置いて、

翌日芽がでないからといって 神の存在を疑うようではならないのである。





[688] 24 - 11 八日の法語  人生問題を解決するのが宗教である
明鏡 - 2013年11月08日 (金) 16時26分



釈迦は 生老病死の四つの苦しみを

人生から除去せんがために出家をしたのである。


生苦とは 生きている苦しみ、生まれる苦しみ、

生みの苦しみ、生存競争の苦しみ経済難の苦しみ、


家庭不調和の苦しみ、愛する人に別れる苦しみ、

あいたくない人にあわねばならない苦しみ・・・等々である。



それはまことに現実の苦しみなのである。

これを解決するのは釈迦キリストの第一の原因であった。


仏教が現世利益を排斥して この苦しみの解決を後回しにしている問題は

釈迦の本道を行くものとはいえないのである。





[689] 24 - 11 九日の法語  人間は本来老いないものである
明鏡 - 2013年11月09日 (土) 15時11分



生老病死の苦しみの第二は 老苦である。

老いて見苦しくなる苦しみ 老いて体が不自由になる苦しみなどである。


何故吾々は老いなければならないのであろうか。

人間は神の自己実現として永遠に老いず死なざるものでなければならないのである。


吾々の肉体細胞は常に新たに新しき養分によって造られているのである。

年齢の上では、かりに五十歳六十歳というけれども、

吾々の肉体細胞は常に新たに造られたものなのである。


だから老衰はあり得ないことなのであり、

それをあるかの如く現わすのは

自分の心が老いてくるからにすぎないのである。





[690] 24 - 11 十日の法語    過去は 『 今 』 祝福に変貌する
明鏡 - 2013年11月10日 (日) 10時21分



吾は今日を祝福するのである。

過去を祝福し 未来を祝福し、すべての日を祝福するのである。


何故ならすべての日は神様に護られているからである。

吾は凡(あら)ゆる所に、凡ゆる事物に、一切の経験に、

神様の驚くべき愛が、導きが みたされていることを知るのである。


私の過去の生活が如何に辛きものなりとも

私はそれを祝福するのである。


過去は 「 今 」 の一点に於いて生きた姿に変貌するのである。


すべての過去は今生きていて吾をして、神の祝福を知らしめ給うたのであるから

過去あっての 「 今 」 であり、 「 今 」 過去は生きているのである。






[691] 24 - 11 十一日の法語  『 今 』 は神が生きる唯一の機会である
明鏡 - 2013年11月11日 (月) 22時20分



「 今 」は過去と未来とを一点に現在ならしむる所の瞬間である。

永遠が 今の一点に 流出口(ぐち)を見出(みいだ)しつつあるのである。


今 神が生きる唯一の機会である。


過去は現在に生き 未来は現在によって生きる。

どんな過去も無駄なものは一つもなかったのである。


自分はもう過去のことについて決して悔いない。

自分はもう過去の事について思い患らわない。


過去にありしすべてのことよ、

過去にありしすべての人々よ、

私は諸君に今お礼をいうのである。


もう今争いもなく、憎みもなく、

唯(ただ)感謝と喜(よろこび)と祝福とのみがあるのである。






[692] 24 - 11 十二日の法語  明日は必ず祝福されたものである
明鏡 - 2013年11月12日 (火) 20時28分



自分は明日を祝福する。


もう私は未来のことについて思い患ったりしないのである。

何故なら未来は、今と等しく神のものであるからである。


神は吾が内に生き、吾が周囲に生き、すべての事物の内に生き、

ありとしあらゆるものは 善きことの外あり得ようがないからである。


吾れ神を知りしより後、神は常に吾が護り手であり、

無限の愛と、無限の智慧と、無限の供給とをもち導き給うのである。


時々刻々に 神の愛にとりまかれ、

神の智慧に導かれ 神の供給に溢(あふ)れているのが自分である。






[693] 24 - 11 十三日の法語  吾は祝福されたるものである
明鏡 - 2013年11月13日 (水) 17時48分




吾が念ずる言葉は、常に吾が祈りである。


神に於いては凡ゆる事は可能であり、

すべてのことはすでに潜在的に与えられているのである。


吾が祈りは、神がすでに潜在的に与え給いしものをよびだす力となるのである。


吾が祈りの言葉は、無限に噴出する井戸の水を汲(く)み出す所の

釣瓶(つるべ)のようなものであるのである。


その釣瓶が大きければ大きい程、

多量の恵の水を汲み出すことができるのである。


自分は今日から小さいことを考えないのである。

自分は自分の釣瓶を出来るだけ大きくして

神の無限の供給を汲み出すのである。





[694] 24 - 11 十四日の法語  吾れ祈れば天地こたう
明鏡 - 2013年11月14日 (木) 20時52分



神の霊は宇宙一ぱいにみちみちているのである。

自分の上にも、下にも、右にも、左にも、前にも、後ろにも、

あらゆる所にみちみちている。


私は ただそれに対して呼びかければいいのである。

その呼びかけが言葉の力であるのである。


吾祈れば 天地応(こた)え、吾動けば 宇宙動くのである。

自分の祈りは今 神の御意志と完全に調和しているのである。


だから 神の祝福の波は、自分の祈りに波長が合うが故に、

神は 常に自分にとって一番よきものを実現させて下さるのである。

自分はそれに対して今 深い深い信仰をもっているのである。





[697] 24 - 11 十五日の法語  貧乏はケチな想念の反映
明鏡 - 2013年11月15日 (金) 18時34分



光明思想の根本的な教の一つは、

「 類は類を呼ぶ 」 ということなのである。


「 豊かなる想念は豊かなる事物をひきよせる 」 のである。

貧乏は決して人間に与えられたる宿命ではないのである。


それは 貧しき けちな想念の反映として現われて来たのにすぎないのである。

けちな想念の中(うち)には 「 与えることを惜しむ 」 心があるのである。


人に深切を与えることを惜しむ心、

物をなすのに深切丁寧さを与えることを惜しむ心、

自分の労苦をだすのを惜しむ心 ― すべてこういう惜しむ心が

貧乏となって現われて来るのである。


与えれば与えられるのが心の法則である。




[698] 24 - 11 十六日の法語  今 心の中に 『 実相の富 』 を描け
明鏡 - 2013年11月16日 (土) 12時55分


現象界の貧しき姿に今 眼(め)をとじよ。

然(しか)して実相の世界の霊的なる無限の豊さを心に描いてみつめよ。


如何に貧乏が やせさらぼうた姿で、現実に現われて来ようとも、

そんなものは仮りの姿であるから、別に意に介するにあたらないのである。


今 現われている貧しき姿は、過去の吾が 「 貧しき想念 」 の影にすぎないのである。

影をみて驚くことはいらないのである。


吾々が裸であろうとも、今 心中に 「 実相の富 」 を描き 豊なる想念の衣装で

自分を包むならば、たちまち豊かなる姿が現われて来るのである。





[699] 24 - 11 十七日の法語  われは無限供給の世界を見る
明鏡 - 2013年11月17日 (日) 16時47分



静かに静かに、吾は今 神の無限供給の世界をみるのである。

今の現実がどうであろうとも、ただ実相のみが実在であるのである。


神の造り給いし無限供給の実相世界が 今 ここに あるのである。

神は吾らの父であり給い、神の子たる吾らの富むことを喜び給うのである。


神のもちたまえる無限の富の後継者として

吾はすでに無限の富に資格づけられているのである。


唯(ただ)吾等は「 神の子 」なる本当の血統(ちすじ)を知れば好(よ)いのである。

本当の血統を知り 吾神の子なりと名のって出さえすれば

凡(あら)ゆるものは 既に神から与えられているのである。





[700] 24 - 11 十八日の法語  神はわが心の暗(やみ)を照破し給う
明鏡 - 2013年11月17日 (日) 23時44分



神は光りであり給う。


神の光 普(あまね)くみちて、今 自分の心の暗を照破し給うたのである。

自分の心の中の暗は すでに消えたのである。


吾は今 凡ゆる不幸から癒されたのである。


自分の内には 神の無限生命がみちているのである。

神の無限生命は 結局 無限であるから完全である外はないのである。

不完全というのは迷いにすぎないのである。


自分は今 凡ゆる病的観念を投げ出し、凡ゆる苦しみを捨て、

ただ神の無限の力にすがるのである。


「 神よ、唯 善のみなるあなたの み心を吾に於いて実現し給え。

吾が体をして、吾が行いをしてあなた自身の完全なる実現とならせ給え 」





[701] 24 - 11 十九日の法語  神と共に行為する者は常に機会がある
明鏡 - 2013年11月19日 (火) 03時00分



到(いた)る処(ところ)に機会がみちているのである。

自分にとっては機会は無限である。


時々刻々一挙手一投足、神が自分を通じて表現し給わんとする

よき機会であるのである。


自分は神と共に何事をもなすが故に

決して失敗するということはないのである。


神は決して自分の力にできないような難問題を課し給うということはないのである。


どんな難問題と雖(いえども)自分に与えられた問題は

必ず自分の力で解決することができるのである。


なぜなら自分の力は自分の力ではなく 神から与えられた力であるからである。





[702] 24 - 11 二十日の法語  信仰を深めるには
明鏡 - 2013年11月20日 (水) 00時23分



祈りの成就するための最も重大なる要素は 「 信仰 」 である。


キリストも 「 もし芥子(からし)種ほどの信あらば

この山に動いて海に入れと云うとも必ずならん 」 と云っている。


又 「 汝の信仰 汝を癒せり 」 ともいっている。


かくの如(ごと)く信仰は、自分の事業が成功するために必要なる唯一の

重大なる要素であるから、

その人の成功と否とは 信仰の多寡(たか)によるのである。


されば 信仰は 如何(いか)にして得られるか。

信念を得た人の話をきくこと。

信仰を得た人の書物をよむこと。

そして神を切に求むることである。




[703] 24 - 11 二十一日の法語  今、自分は強いのである
明鏡 - 2013年11月21日 (木) 20時37分



神は自分の肉体及び精神のすべての力の根源である。

神が根源であるから 決して自分は弱いということはあり得ないのである。


神の無限に強力なる力が自分を常に強力ならしめ健康ならしめ、

永遠に疲労せしめ給うことはない。


自分は今日、肉体的にも精神的にも自分自身の力が有限であるという考えを

捨てたのである。


今 自分は無限の力がある。

ここに無限の富がある。

ここに無限の能力がある。


「 ここに 」 というのは 自分自身の実相のことである。

今ここに自分は 無限の健康なのである。無限に調和しているのである。





[704] 24 - 11 二十二日の法語  神と交通するに静処を求めることはいらぬ
明鏡 - 2013年11月21日 (木) 23時16分



吾々は神と交通するために世間をはなれて静かな所へ

行かなければならないということはないのである。


自分はどこにいても、其儘(そのまま)で神と交通しているのである。

今ここが神の国であり、実相世界であるのである。


自分はこの完全なる実相の中心に坐(ざ)して、今すべての悪を否定するのである。

すべての不調和 病気 不幸 ・・・の存在を否定するのである。


自分は実相の中心座に坐してその中心からサーチライトで照らすが如く

一切の現象界の暗を照らすのである。


一切の悪は消えさり 一切の不幸は消え去り 唯 善のみが存在するのである。




[706] 24 - 11 二十三日の法語  吾は心の目をあげて神をほめたたえる
明鏡 - 2013年11月22日 (金) 23時40分



吾は心の目をあげて神をほめたたえるのである。

神に感謝するのである。


ああ、この無限大なる宇宙よ。

蒼空(あおぞら)に輝く星よ、

その多くは太陽よりも 尚(なお)大きいのである。


蒼空を流れる銀河よ、

それは大いなる太陽達の集団であるのである。


神はそれらをどこから生みだしたのであろうか。

自分は蒼空を眺めて その宏大(こうだい)無辺と久遠悠久とに

驚異するのである。


この偉大なる宇宙大生命が 自分の肉体を生かし給うているのである。

どんな細胞の小さな隅々までも この偉大なる神の力が浸透しているのである。

神よ、有難うございます。





[707] 24 - 11 二十四日の法語  吾は吾が生活を神の上に築く
明鏡 - 2013年11月23日 (土) 19時07分




今日、吾は吾が生活の出発を自分は平和なるものとするのである。

吾は 吾が生活の出発を喜びの上に置くのである。


私が 喜べば全世界が喜ぶのである。

吾 平和となれば全世界が平和となるのである。


まず何よりも自分が浄(きよ)まることが必要なのである。

私は宇宙の中心である。

神がその創造の出口を造り給うた その創造の尖端(せんたん)である。


私は今より後(のち)如何(いか)なるものをも恐れないのである。

神の無限の力と、無限の智慧と、無限の健康とが 今 私に集中しているのである。

自分の判断は 常に正しくして過(あやま)つということは決してないのである。





[709] 24 - 11 二十五日の法語  吾は神の最高実現である
明鏡 - 2013年11月24日 (日) 21時43分




吾は神の子として宇宙の一切のものを支配する権利をもっているのである。

宇宙の一切のものは皆自分の支配下にあるのである。


なぜなら自分は神の子であり、神の最高の具体的顕現であるからである。

吾が内に宿る所の神性は、神そのものと同体なのである。


だから神のもちたまう すべての智慧と力とをもっているのである。

吾が力は肉体の力に非(あら)ずして吾に宿り給う所の神の力であるのである。


吾が内に宿る神は吾をしていと豊かならしめ給い、いと健やかならしめ給い、

凡(あら)ゆる問題に快刀乱麻をたつような知慧を与え給うのである。





[711] 24 - 11 二十六日の法語  世の中に行き詰りはない
明鏡 - 2013年11月25日 (月) 18時10分




すべての事情が行き詰って来たと見える時にも、

本当の行きづまりというものは決して存在しないのである。


行きづまりと見えるものは新しき道の開ける始めである。

神の与え給うた好機会が今自分に開かれつつあるのである。


行きづまった時には、神が方向転換を教え給うているのである。

余り昔の習慣に縛られていてはならないのである。


もし神の無限の愛と無限の智慧と無限の力とを信ずることができるならば

どんな変化が起って来ようとも、それは唯 良くなる外に道はないと

受けとることができるのである。





[712] 24 - 11 二十七日の法語  吾は一切の人を神の子として拝む
明鏡 - 2013年11月27日 (水) 12時23分



自分は 今日より後、自分の周囲に近づいて来るすべての人々を

神の子として観(み)る。


すべての人々を 善意を有するもの、悪意なきもの、神から遣わされたもの、

善き友として見、神がかくの如きよき人々を吾々の周囲に遣わされ給うたことに

感謝するのである。


如何なる不作法なことを周囲の人がしようともそれは唯 影であって実相ではないと

知るが故に自分は決してそれに煩わされないのである。


吾は人の過ちに対して寛大であり 人の善に対してほめることに寛大であるのである。





[713] 24 - 11 二十八日の法語  自分は霊体である
明鏡 - 2013年11月27日 (水) 17時01分



自分の体は肉体のように見えても、肉体ではないのである。

自分は霊体である。


自分の細胞の一つ一つは 生ける神の生命のエネルギーの実現であるのである。

それは生命のエネルギーであって、物質ではないのである。


されば わが肉体は物質の法則に支配せられず、物質の法則を駆使して、

神御自身の理念の姿にそれを造りあげるのである。


神の知慧が 常に自分の肉体の全細胞を統一的に支配しているから、

吾が肉体に不調和なることが起ることは決してないのである。


不調和は 唯 自分の心の持ち方が混乱した時これが影をうつすにすぎないのである。





[715] 24 - 11 二十九日の法語  神には凡ゆる解決法がある
明鏡 - 2013年11月29日 (金) 15時19分



人間の頭で考えて、もう解決の道がないと思われる時にさえも

神に於いては解決がないということはあり得ないのである。


神は無限の智慧であり、無限の能力であるから、

必ず、それを善きように解決して下さるに相異ないのである。


暗(やみ)を貫いて光が照り輝く如く、

神の智慧は常に吾が迷を透(とう)して照り輝き、正しき道に導き給うのである。


だから、自分は恐れるということはないのである。

人間の頭脳智で考えたならば、なぜこんな不幸が起って来たのであろうと

疑われるようなことがあっても、神はその事件を通して、

更に一そう良きものへ吾らを導き給うていられるのである。




『 生長の家 』 昭和二十四年十一月号 二十九日の法語





[721] 24 - 11 三十の法語  吾がうちに宿るキリスト
明鏡 - 2013年11月30日 (土) 16時13分



キリストはもう二千年前の過去の人ではないのである。

「 吾行きて 汝(なんじ)らに来たるなり 」 といい給いし如く、

すべての人の内に宿っているのである。


吾が内に宿る所のキリストを通して吾は一切の吾が願いを

成就することができるのである。


吾は神と一体である。

神の子の霊、吾が内に宿り給う。

これをキリストというのである。


「 凡(およ)そ吾が名に於いて求むることは必ず成就せん 」 と

キリストが云い給いし言葉は、自分の内に宿る「 神の子 」の霊によって求めれば

神は一切のものを吾らに対してなし給うということを現しているのである。






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