[708] 聖経 『甘露の法雨』 読誦の意義と読み方 |
- 童子 - 2013年11月24日 (日) 10時02分
既に二十年も前から生長の家に入信して、祖先のために聖経を誦げていましても、最近になって、やっと意識を恢復した霊魂は、今まで読誦して貰った聖経の恩恵に浴していないで、病念で苦しんでいるのもあるのです。
そして最近やっと目を覚ましたら、生前の病気の記憶がよみがえって病気の自覚で苦しんでいる。 そして自分には医者がどうして来てくれないのだ、と思ったりするのですが、死骸は焼いてしまったのだから、医者が来るはずはないのです。 だから、その霊魂は 「医者がどうして来てくれないんだ」 と思って、親類の人や家族の名前を一所懸命に呼ぶと、その病気の念が家族や親族の人に放送されて、現実世界にいる家族や親族の中の波長の合う人に、その病気の念波がパッと感受される。
そうすると、本来自分の病気でない病気が霊界から放送されて、こちらがテレビ受像機になって、放送された通りの病気を自分の肉体に現しているということになるのです。
ですから、そう云う病人に対しては、そう云う病念の霊魂の迷いを解いてやるために、霊前で聖経 『甘露の法雨』 を読誦してあげることも必要なんです。
然し、すべての病気をみんな迷える霊魂の病念であると還元してしまうと、間違いであって、必ずしも霊界の影響が来ないでも、本人自身の心の間違いで病気をあらわしてる実例も随分あるのであります。 だから指導者たるものは “『甘露の法雨』さえ祖先に読んだら治るんだ” と一概に言ってしまってもいけないのであります。
けれども、ともかく祖先の霊魂は数が多いことでもあり、その霊魂のうちに最近意識を恢復して病念が消えないで苦しんでいるのもあるのですから、祖先に対して 『甘露の法雨』 を読んであげるのは、病気を治すために読むというよりも、 『今まで祖先に感謝したことがなかって申訳がないから、御礼のために聖経を読んであげましょう』 と、祖先の霊魂に対して、感謝をするという積りで聖経を読むように、病人に勧めてあげるとよいのです。
『甘露の法雨』 を読むのは、病気を治そうと思って読むよりも、ただ祖先に感謝の気持で読む方が却って功徳があって治る率が多いのであります。 ただ素直に読みながら、自分もその意味を体得するつもりで読むとよいのです。
何故、聖経 『甘露の法雨』 を “病気を治そう” と思って読むと功徳が少ないかと言いますと、聖経を一遍読んだら “もうどれだけ治っているだろうか” と思って、現象の病気の状態を振り返ってみて、現象の症状がその時まだ消えていないと、 “やぱり治っとらん” と思う。 翌日、更にまた 『甘露の法雨』 を読んで見て、 “まだ治っとらん” と思う。 そして、それを繰返して 「治っとらん、治っとらん」 と念ずる。 こうして我々の感覚によって見える病気の有様を 「ある」 と見て 「病気は‘ある’、‘ある’」 と云う念を積み重ねて行ったら、 『想うことは現れる』 と云う原則によって、ますます、病気は消えないことになり、新たに自分の想念によって病気を繰り返し造ることになるのであります。
だから、「病気を治そう」 と思っては 『甘露の法雨』 を読まないで、 「ただ祖先に対して感謝の念をおこしなさい、感謝の念によって病気が治るのです。 その感謝の念の一環として、祖先に対して 『甘露の法雨』 その他の聖経をお読みなさい」 と云うように指導するのがよいのです。 その感謝の実践が徹底すれば病気が治るのです。
祖先の霊魂というものは、物質の食物を食べて発達するものではないのであって、真理の言葉の念によって放送されると、真理の念を吸収して、霊界に於いて神通力を得るようになるのであります。
すなわち霊魂の霊力が殖えるのです。 これを “魂のふゆ” というのです。 霊魂の肥立ちがよく発達してゆくということは、物質の食物によるのではなくて、“真理の言葉” を送って貰うことによって、霊魂は益々発達して神通力が増加するのであります。
祖先が自己の神通力を増加してきましたら、祖先というものは、子孫を守って、子孫を繁栄させてやりたい、子孫を健康にしてやりたい、というのが其の念願なのですから、祖先の神通力がふえるようにさえしてあげたら、祖先の守りが多くなり、凡ゆる点に於いて子孫が護られ、自然に病気が治るようになるのであります。
そういう意味に於いて 『甘露の法雨』 を読みなさいとお勧めするのです。 “『甘露の法雨』を読んだら治る” というのではなくて、 『甘露の法雨』 は祖先に対する感謝行であって、その祖先が 『甘露の法雨』 に説かれている真理を吸収して、神通力が増したら自然に祖先の守りが十分になるから、病気が治るようになる。 だから、病気が治ったら誦むのを止める、と云うのでは見当ちがいであります。
祖先の霊魂は愈々益々向上するほどよいのですから、これだけ誦んだから、もう止めると云うのでは先祖に対して感謝が足らぬことになります。
従って、 『甘露の法雨』 を読むのも、 “何回読んだら治る” ということは、その人の精神状態にもよるし、祖先から来ている念波 〈精神の波〉 の強弱によるし、業の多い少ないにもよるのであり、祖先の心境の如何にも関係するのであって、一回で治る場合もある。
例えば田口精亮さんが指導した例では、神奈川県高座郡の大和村 〈今は大和市になっていると思う〉 あそこで生まれつきの聾唖があったのです。
生まれつきの不良、又は病気と云うものは、祖先の業又は、自分が生れ変りの前世に犯した業が形に現れているのだから、 『甘露の法雨』 を読みなさい、と言って田口精亮さんが導かれたのです。
その聾唖者の母親は六ヶ月間 『甘露の法雨』 を毎日、祖先の霊前で読んだら治ったのです。 こんな場合、三ヶ月だけ読んで、治らないと、諦めて、 “先生は『甘露の法雨』を読んだら治ると仰言ったが、三ヶ月も読んだけれども治らなんだ” と言ってやめてしまったら、六ヶ月で治る筈の‘それ’も治らんことになってしまう。 この場合は六ヶ月読んで始めて、功徳が円成して治ったのであります。
だからそういう場合に、自分勝手の考えで 「何ヶ月誦んだらよい」 と決めるわけにゆかないのです。 しかも祖先に対する感謝は永久にすべきものですから、“何ヶ月だけ病気治すためにやって、治ったらもう放っといても宜しい”と、いうわけにはゆかないのであります。
肉体は象徴として、どう云う所へ現れる病気は、どう云う心の間違いがあるんだ、ということを指摘してもいい場合もあるのであります。 その問題については別に詳しく申上げる機会があると思いますけれども、余りそればかり指摘すると、現象にばかり引っかかり過ぎて、そして却って、弊害があるということもあるのでありまして、病気は心の影だというのは真実ですけれども、本当は観普賢菩薩行法経にあるように、 『心も無し』 と云うところまで悟りを開かせるように導くのが、最上級の導きであるということになるのであります。
昭和36年 宇治別格本山 新年特別教修会
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