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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[30] 谷口雅春先生はノーミート・ノーフィッシュだったのですね。
管理人 - 2013年01月09日 (水) 23時07分

谷口雅春先生著「若人のための78章」より
マリーゴールド様が光明掲示板で謹写して下さったご文章より
抜粋させていただきました。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1025

>平気で魚類の骨に附いている肉をほじくって食べるような私達は
>とても聖者の足許にも近寄れない無慚無愧の人間である。
>私はこれを愧じ、出来るだけ生き物を殺して食べないようにしたいと思う。
>また殺されたる生き物の死骸をも食べないでおりたいと思う。
>絶対に、動物食をとらなかった私の青年時代の
>純粋な理想家としての私を振返って見て、
>もう一度、そのようになりたいと私は思うのである。

谷口雅春先生は、魚にも尊き愛をもっておられたのですね。
今日の夕飯は焼き魚でしたが、複雑な思いで食べさせていただきました。
骨粗しょう症を実母に持つ私は、おかずに魚を抜くことはできないのです。
また、母は
「あなたも骨粗しょう症にならないようにカルシウムをとりなさいよ」
と言います。困りました…
と思ったら、次のコメント
「動物食の問題と“観”の転換NEW (5417)」に答えが書いていました。

>しかし、一番大切なことは、
>その食べられる犠牲になる動物に対してお詫びをすることよりも、
>自分の生活がどちらを向いているかということが大切なんです。
>自分というものがいつも人を救うために、愛を実現するために、
>生活している人であったならば、その人に食べられて
>その人の生命の中にとけこんで人を救うエネルギーになるということは、
>その犠牲になる食物も間接的に人を救うていることになるから、
>その動物の魂も救われるということになる。
>この事が肝腎ですね。
>
>ところが、
>その人がただ利己的に生活するために自己の身体が肥えるために、
>或は達者になって性欲をみたすために、
>動物の生命が犠牲になって食べられるのだったら、
>その犠牲になった動物は救われないということになる。
>
>だからまず第一に必要なのは、
>自分の生活がどちらを向いているかということ、
>即ち、利己的生活をしているか、
>愛他的生活をしているかというその根本を決めることが必要ですよ。

>〜谷口雅春先生御著書 『第二青年の書』P173より〜

谷口雅春先生はなんとも理解しやすく、お説きになっています。
また先生はいつも「強制」をされた書き方はされません。
そういうお優しいところをお慕い申しております。

[33] ありがとうございます。
マリーゴールド - 2013年01月10日 (木) 12時02分

管理人様

私の投稿を転写下さりありがとうございます。

私自身も、雅春先生の御文章に魂を救われております。

丁度、光明掲示板でノーミートのスレッドで、色々な話題が盛り上がっており、谷口雅春先生の思いを再認識したいと、スレッドを立てさせて貰いました。

後で、気付いたのですが、本流宣言掲示板においても、“伝統”様が同様のスレッドを御投稿されてらっしゃいました。本流宣言掲示板で、「肉食」で検索かけるとヒットしてくると思います。(光明掲示板でも御投稿あったように思います)

うちは、育ち盛りの子供が、頻繁でないものの、肉料理を欲しがります。
我が家は、何でも戴く家庭ですが、今一度、自らの心がどの方向に向いているか省みて、生命に感謝の気持ちを大切に戴きたいと思います。

合掌再拝









[34] マリーゴールド様
管理人 - 2013年01月10日 (木) 22時24分

合掌 ありがとうございます。

早速光明掲示板にて「食肉」で検索してみたら、
一番にマリーゴールド様のコメントが出てきました。

>一番いまの我が家に大切なことは、
>食材の生命をいただく感謝やその食材を作られた方や、
>トラックでスーパーに運んで下さった方や、
>いただく食材を通しての数多くの方々への感謝の気持ちです。

本当にその通りだと思いました。
何事にも「合掌して、ありがとうございます」という感謝が大切だなあと改めて思いました。

それから、魚を食用にする場合のことが山ちゃん1952様のブログに
雅春先生の御著書である『心と食物と人相』から引用されていました。
http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201301090001/

><魚を食用にする場合には>

>けれども、魚になると事情が大分ちがう。
>魚を捕るという場合に、魚はきっと逃げる。
>彼らが「どうぞ食べてくれ」と言って口に入ってくるなら
>それは平気で食べても彼ら自身の自由意志を満足させるのだから罪悪ではない。
>けれども、魚は殺されることを嫌って逃げる。
>そういう逃げるものを追って、つかまえ、殺して食べるということは、
>愛にそむくことである。
>だから、愛深き人は魚をすらことさらに食すべきではないと考えられるのである。
>しかし、ここに自然の調節の問題がある。魚などは一尾が何十万という産卵をする。
>なぜそんなに多く産卵をするかというと、
>その大部分は稚魚の間に同類相食んで大量に殺されるのが勘定に入っているからである。

>したがって、稚魚の間には痛覚神経が発達していない。
>痛覚のないものは、それを殺して食べても残忍でないという理論も成り立つ。
>それは、我々の髪の毛や爪の場合でも判る。
>魚の種族を繁殖させてやりながら、種族の意志を尊重し、
>何十万も孵化する稚魚が一定の大きさに達したときにそれを捕獲して食べることにして、
>大きく成長して死を恐れ、痛みを強く感じるようになってから捕獲して
>食べることは差し控えるほうがよいのである。
>しかし、この場合も「殺してもよい」という意味ではなく、
>稚魚のときは比較的残忍性が乏しいから、
>やむを得ずそういう魚肉を食べなければ栄養にならぬというような信念しかない人は、
>次善のはからいとして、そういうものを食べるほうが増しであるというに過ぎない。

小学生ぐらいの時に父に連れられて魚釣りに行ったことを思い出しました。
釣り針にミミズを付けて魚の餌にしたこと、釣れた魚の口を傷つけたこと、
深く反省して、ミミズさんと魚さんに謝罪します 合掌。



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