[735] 対立的信仰から絶対一元の信仰へ |
- 明鏡 - 2013年12月12日 (木) 21時56分
対立的信仰から絶対一元の信仰へ
現世の生活を幸福にしたいと思いながらも、「現世」を「実相の世界」と対立させている限りに於いては、現世は不完全であり、対立の世界には摩擦は不可避のものとなってしまうのであります。
現世の問題に心の法則を当て嵌(は)めて、旨く処理してやろうと云う考えは、或る程度成功するけれども、全然は調和したものとはならないのであります。
現世を幸福にする“ため”にその手段として「実相の世界」の完全さを観想すると云うのであれば、現世を実在の世界として考えているために本当に「実相一元」「光明一元」「本来悪なし、本来不幸なし」になり切らないのであります。
大抵の人は、真理への入門当時は、病気を治したい、経済を豊かにしたい、家庭を調和したい、この程度の現世利益的ねがいで来るのであります。
しかしやがて、「治すべき病気本来なし」「貧乏本来なし」「本来家庭の不調和なし」の実相を体得するに至るでしょう。
現世利益をねがう信仰の弊害
現世利益をねがう信仰と云うものは、真理をもって物質世界を支配し、物質的オカゲを得ようとするのであるから、「物質あり」の観念をぬけ切ることができない、其処にどうしても「光一元」になり切れない憾みがあります。
従って、物質世界の一高一低の波動に支配されることが免れがたいのであります。 それは現世利益が整うたときには、天にも昇ったような高揚したよろこびが続くかと思えば、現象世界の波で現世利益が低下したときには奈落の底に落ちたような失意落胆がおこりがちです。
このような一高一低変化動揺きわまりなき状態を克服するには、物質世界を真理によって支配しようと云うような対立二元の考えを捨てて、ただ真理のみの実相世界、ただ光明のみの実相世界―それのみを“ある”として、それのみを見詰めて、常にそれを感謝する生活を送らねばならぬのであります。
併し、そうすれば自然に現世利益が求めずとも随伴するのでありまして、それは親鸞聖人作の『現世利益和讃』にある通りであります。
現象の波を超えて
「わが国は此の世の国に非ず」とキリストは言われたのであるが、「此の世の国は唯影に過ぎざるなり」と『甘露の法雨』には喝破されているのであります。
「唯影に過ぎざるなり」と云う喝破は、「此の世の国」即ち「現世」の完全なる否定である。現世の完全なる否定のみが、実相完全の世界の全肯定となります。
そして実相完全の世界の全肯定は結局、その影を現象界にうつして、現象界が整うのであるけれども、「現象世界が整う」と言うと、忽ち現象世界へ心を執着させて、「宝の車」(現象の善きものの譬)を馬(実相の動力)の前にむすびつけて、「宝の車」を走らせようとするならば却って「宝の車」はいっかな進まず、「現象少しも思うままにならぬ」と歎かなければならぬようになるのであります。
現象の波に乗って、経済状態がよくなったからとて、それは信仰の高い証拠でもなければ、悟りの深い証拠でもないのであります。そう云う経済状態の良さは現象の波に乗るだけであったら、いずれは波の下降するときには深く奈落に沈むことにもなります。
霊的実在とお蔭との関係
法華経に三車火宅の譬(たとえ)があります。火宅はやがて滅びて行く現象世界の譬であり、三車は現象世界の「宝の車」であります。現象世界の宝に執着している限りは、火宅は焼け落ちて、その下敷になって死ぬるほかはないのであります。
しかし、火宅の下で「現象界の宝」のもてあそびに熱中している子供(幼稚な魂)を救い出すには別の玩具(やがてくだけるもので、本物ではないお蔭)を与えるほかはないのであります。
これが或る種の宗教で得られる現世利益です。しかしそのお蔭は玩具であって実物ではないのであるから、やがて壊けるときが来るのであります。その壊けるときに信仰を墜(おと)してしまうようでは、本当の信仰ではありません。
すべてのお蔭は「影」であるからその本源は霊的実在の世界から来るのであります。 そして、お蔭は霊的実在を把握させるための方便にすぎないのであります。 いつまでもお蔭にしがみついて霊的実在を忘れたら本末顛倒になります。
新版『 真理 』 第8巻 信仰篇 ( P22 - P25 ) 谷口雅春 大聖師
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