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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[817]  延命十句観音経の意味について
明鏡 - 2014年03月05日 (水) 20時07分



延命十句観音経の意味について

『 生長の家 』 誌 昭和32年5月号 「 信仰相談室 」 谷口雅春先生



[ お訊ね ]


有難うございます。私は大阪阿倍野道場にて先生の御教えを受け、

御高徳をお慕い申しているものでございます。

毎朝 永谷(ながたに)先生の早朝神想観に参加させて頂き、

未熟ながらも精進させて頂いているものでございます。


さて、私 神想観中 雑念が起って仕方がございません時、

亡父が観音様を信仰致しておりまして、毎早朝 大声にて、丹田に力を入れ、

延命十句観音経というのを繰返し繰返し唱えておりました。

幼い頃の事とて意味の解らぬままに聞き憶(おぼ)えました御経でございますが、

これを父の声を偲びつつ(私が十七歳の時亡くなりまして、私は現在三十七歳で

ございます)唱えておりますと、不思議に雑念が払われます。


しかし本当の意味がわかれば余計に嬉しく存ぜられます。

誠に誠に恐れ入りますが、意味をお教え下さいませ。



観世音(かんぜーおん) 南無仏(なーむーぶつ) 与仏有因(よーぶつうーいん)

与仏有縁(よーぶつうーえん)  仏法僧縁(ぶっぽうそうえん) 

常楽我浄(じょうらくがーじょう)  朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん)

暮念観世音(ぼうねんかんぜーおん) 念々従心起(ねんねんじゅうしんきー)

念々不離心(ねんねんふーりーしん)。


               合掌 (大阪、阿部あやこ) 



※延命十句観音経は、『聖経 甘露一切を霑す』の『 顕浄土成仏経 』附録 に所収されております。

※「 観世音菩薩は仏教諸宗共通の護法の菩薩なれば 終りの 「 称名念仏 」 の次に

附録の 「 延命十句観音経 」 を読誦せられるがよろしい。」

※原文は、旧漢字および歴史的仮名遣いになっております。

※御経の読み方(ふりがな)については、所持の御経を参考に長音ーを入れております。




[ お答え ]


御自分の意味の分(わか)らないお経や呪文(じゅもん)のコトバをきいて、

一心(いっしん)にそれに聴き入っていると精神が統一して来て、

心身清浄(しょうじょう)の境地に入(い)ることが出来るのは、

心霊学では 「 音霊法(おんれいほう) 」 と言われているものでありまして、


一心に 「 光明真言(しんごん) 」 をとなえるとか、仏教にある色々の

陀羅尼(だらに)を誦(ず)すとか、南無妙法蓮華経のお題目をとなえるとか、

称名念仏三昧に入るとか云う場合、その唱える大概(おおよそ)の人は

意味がわからないのであって、唯(ただ)、そのコトバの響きにひたすら

聴き入っているのであります。


すると自然に精神清浄となって澄み切り、本当に天空海闊(かいかつ)の

救われた気持になります。


それは何故(なぜ)かと云うと、音霊(おんれい)(コトバ)と云うものは

「 神 」 であり、純粋にコトバだけであると本来清浄であるからです。


その清浄なるコトバを濁(にご)すのは、人間の心が汚(けが)れた意味づけをし、

それに、いろいろ猥雑な連想を加えるからであります。


この意味づけ、この連想がマヨイであります。


だから、その意味づけや連想を去って、ただコトバだけのヒビキに

心が統一されると心が清浄になります。


だから座禅の数息観(すうそくかん)でも、意味のない一、二、三・・・を

心にかぞえて精神統一に入るのであります。


却(かえ)って意味がわかるために、わかった意味から色々の連想が行われて

雑念が浮かぶことになることもあります。・・・・


・・・・この意味に於いて仏教の色々の陀羅尼、真言等は、

ただ音霊(おんれい)として、それに心を集注するとき、

「 コトバは 即ち神なり 」 なるが故に心が浄(きよ)まり功徳があるのです・・・・




つづく




[818]  延命十句観音経の意味について  2-2
明鏡 - 2014年03月05日 (水) 22時26分



・・・次のように私は解釈いたします。


観世音菩薩というのは、「世の中の音」(人の心)を観じて其の通りの姿に

三十三身をあらわす菩薩という意味で、心の通りにあらわれる人間の内在神性であって、

皆様自身の實相が観音様(かんのんさま)であります。


その観音様が 「 南無仏(なむぶつ)」 せられたというのであります。

「 南無 」は 「 帰命(きみょう)」 とか 「 帰依(きえ)」 とか 「 帰投(きとう)」 とか

訳されている語(ことば)ですから、 「 南無仏 」 は、仏に帰命して仏と一体となったということです。


「 与仏有因(よぶつういん)」 とは 「 仏と与(とも)に因(いん)を有(ゆう)する 」 であり、

「 与仏有縁(よぶつうえん)」 とは 「 仏と与(とも)に縁(えん)を有(ゆう)する 」 であり、

つづけて解釈すれば、仏に帰依し仏と一体になったのであるから、自分は仏と同じ因縁(いんねん)を

有(も)っているということです。


生長の家的な語(ことば)で言えば、仏と自分とは一体だということです。


「 仏法僧縁常楽我浄(ぶっぽうそうえんじょうらくがじょう)」 は 「 仏法僧縁ずれば常楽我浄 」 と

読むか、「 仏法僧は常楽我浄を縁ず 」 と読むか どちらにせよ、

兎(と)も角も、仏法僧の三宝(さんぽう)が縁(えん)となって常楽我浄の實相が

実現するというのであります。


仏とは真理を説く人であり、法とは仏の説きたまう教えであり、僧とは 「 僧伽(サンガ)」

即ち 「 教団 」 即ち教えを布教する機関であります。


この三つの宝(ほう)が縁(えん)となって、人間の實相たる 「 常楽我浄 」 があらわれて来ると

いうのであります。


「 常(じょう)」 は 「 久遠不滅(くおんふめつ)」 の意(い)、「 楽(らく)」 はタノシイ、悦びに

満たされている實相の意(い)、「 我(が)」 は ここではニセモノを去った本物の我(われ)であり、

「 浄(じょう)」 は その本物の我(われ)というものは本来清浄で汚れなきものである。

これをさとることが出来るのは、仏・法・僧の三宝(さんぽう)を縁(えん)としてである。


「 朝(あした)にわが實相が観世音仏(かんぜおんぶつ)であることを念じ、

夕(ゆう)べにわが實相が観世音仏であることを念ずる 」 というのが

「 朝念(ちょうねん)観世音、暮念(ぼねん)観世音 」 であります。


そうすると、その 「 念ずる念のままに観世音菩薩は 自分の心の中にあって

心に従ってあらわれたまい、念々(ねんねん)、刻々(こくこく)、心から離れはしない 」 と

いうのが 「 念々従心起(ねんねんじゅうしんき)、念々不離心(ねんねんふりしん)」 であります。


念ずるに従って 心の中から内在の観世音菩薩が浮かび上がって来て、心から離れないと云う

のでありますから、まことに神想観の前奏曲としてお誦(とな)えになるには相応しい短かい

唱(とな)え易(やす)いお経であります。・・・・・



                                            [ 了 ]




[823] 観世音菩薩 われを清め給う
明鏡 - 2014年03月09日 (日) 02時47分



地方講師会長体験談



・・・最近では、生長の家の 縦の真理“ 唯神実相 ” と 横の真理 “ 唯心所現 ” を

水虫が癒された体験などを通して話しています。


私は二十二歳の時、生長の家の信仰に入っていろいろな体験を頂きましたが、

中学卒業後の約七年間、自動車整備士として働いていた時に安全靴の中が

汗ばんだことがきっかけで患った水虫だけは、神想観で“ 神の子・完全円満 ” と

観じても なかなか治りませんでした。


けれども、ある時、基本に返って神想観で祈りました。


「 私は神の子完全円満です。ありがとうございます。( = 縦の真理 )。

私の足に水虫が現れたのは私の心の影でした( = 唯心所現 )。

潜在意識の奥底に、水虫があると思う心があるのを気付きませんでした。

神様申し訳ありません。」


こう懺悔して、「 水虫はそれを教えるために現れた観世音菩薩でした 」と感謝し、

「 生長の家の神様は、“ 観世音菩薩 ” “ 宇宙浄めの神様 ” であり、

今、観世音菩薩が、水虫になるような迷いの念を取り去り、浄め給いて、

私の本来の実相円満完全の姿を現し給う。

ありがとうございます 」


と祈ると、いつの間にか水虫は消えていました。


今、誌友会では、「 懺悔と感謝は全てを癒やす 」 と題して、

こうした体験を話したり、ハガキ大の紙に祈りのコトバを書いて参加者に

渡しています。



おおむね次のようなコトバです。


一、自分の病気を癒やすお祈り


私は神の子完全円満です。ありがとうございます。

その私に○○の病が現れるのは、私の念の影でした。

神様申し訳ありません。

今、観世音菩薩、私の念の迷いを取り去り浄め給いて、

私の本来の円満完全なる実相の姿を現わし給う。

ありがとうございます。



二、相手の問題を癒やすお祈り


○○さん、ありがとうございます。

神の子で完全円満な○○さんが、○○に見えるのは、私の念の影でした。

神様申し訳ありません。

○○さんは、私のどこかにそんな心があることを教えるために現れた

観世音菩薩でした。

今、観世音菩薩、私の心の迷いを取り去り浄め給いて、

○○さんの本来の円満完全なる実相の姿を現わし給う。

ありがとうございます。



この祈りを実践されて、夫婦が調和したり、家出をした孫が家に帰ったり、

孫の寝小便が治ったなどの体験が出ています。







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