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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[928] 【新天新地の神示】
輪読会 - 2014年06月15日 (日) 20時21分

見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼の覆ひをとれ、われは新しき智慧である。
新しき生命である。
新しき宇宙である。
新しき光明である。
われ臨(きた)つて此の世界は既に変貌したのである。
既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しうを)は滅し、病ひは癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。
神秘を見て人々よ、目覚めよ。
覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。
われは存在の実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈(ひ)を点ずるものである。
悲しみに泣き濡れた人々よ。
いま眼を上げて吾が光を受けよ。
汝の悲しみは喜びに変わるであろう。
病める者よ、いま病の床より起(た)ちて、わが生命を受けよ。
われを拒(こば)むな。
われを信ぜざる者は已むを得ぬ。われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。
われ汝等に『神想観』という観行を教えたれば、それを為せ。
われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。
なんぢ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思え。
なんぢら二人ならば、われを念じて吾れと倶に三人なりと思え。
悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。
そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであろう。
信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けようがないのである。
汝の心の疑いがわが救いの波長に合わないからである。
遠くにいて救われている者もあるが、近くにいて救われぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。
もっと兄弟たちに、『生長の家』を伝えよ。
神の愛は貰い切りではならぬ。
頂いたお陰を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。
『生長の家の神』と仮に呼ばしてあるが、『七つの点燈者』と呼んでも好い。
七つの教えとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教えで新しき生命を得るのだ。
わが教えはどんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。
教えの太宗(もと)であるから宗教と云うのである。

(昭和六年五月六日神示)

[929]
輪読会 - 2014年06月19日 (木) 07時04分


《講 義》


●新たに生れること

 誰でも新年といいますと、新たに生れ更(かわ)った気持がするのであります。新たに生れるという気持ちがするのでありますが、何時の間にかその新年が古年(ふるどし)になつてしまいまして、この年頭の新たに生れるという感激を、忘れてしまう傾きがあるのであります。

 それで私達は、この年頭に当りまして深く人間神の子の自覚を、潜在意識の底の底まで植えつけて、そして一年中神の子の自覚を失わない様に深く真理を刻みつけて置きたいと思うのでありまして、それで毎年年頭に、恒例として講習会をやっているのであります。

 さて、宗教とは一体何であるか、という話をしたいと思うのであります。宗教というものは病気を治すものだと思っている人も中にはある。それですから、もう医者にかかっても薬の力でも治らないときに、"新興宗教へでも行こうか"と思ってやって来る人もあるのですけれども、宗教というものは、所謂(いわゆる)「病気」という「肉体の病」を治すものではないのであります。


●宗教の本質は何であるか

 宗教というものは一体何でありますかというと、先ず、自分とは如何なるものか、それを明らかにする所の教えが宗教であります。ソクラテスは、汝自らを知れと言ったのでありますが、汝自らを知るという事が宗教であります。

 或いは、新たに生れるというのも、それも汝自らを知る、という事にほかならないのであります。今迄は人間は肉体の子であると思っていた。そして物質の塊(かたまり)がここに生まれてきているのが人間であると、こう思っていたのでありますが、

「人間というものは、そういう物質の塊ではないのだ」という事を自覚して、人間自らは如何なるものであるかという人間の実相を知る事が宗教である訳です。

 人間自らは如何なるものであるか。キリストはお父さんがなかったですね。大工ヨセフというのは名目上父としてありましたけれども、聖母マリアは、そのヨセフとの許婚(いいなづけ)の間に、まだ結婚しないのに妊娠して生れたというのですから、キリストは幼い時から「自分のお父さんは誰であるか」という事に思い悩んだに違いないのであります。

 それで遂にイエスは自分の父は、天に在します神である、という事を自覚して、自分は「神の子である」という事を言ったのであります。これがキリスト教という宗教の基であります。こういうように宗教というものは、汝自らを知る、という事なのであります。

 お釈迦さんも、生まれると直ぐ七歩あるいて、というのは七という数は完成の数ですから、自覚を完成してという意味でありますが、一方の手は天を指し、一方の手は地を指して、"天上天下唯我独尊"と言ったんです。これが仏教の肇(はじめ)である。

 天上天下唯我独尊ということは――宇宙で自分が一番勝れた所のものである。言い換えると自分は"神の子"であるという事です。「人間は神の子であって、素晴らしい存在だ、肉体から生まれたものではない」という自覚を得られたという訳なんです。

 尤(もっと)もこれは象徴物語であって、いくらお釈迦さんでも、オギャーと生まれるなり歩き出して、そして天を指し地を指して「天上天下唯我独尊」という訳にはゆかないと思いますけれども、

 これは七歩あるくということは、七は完成の数でありまして、自覚を完成したら、人間は天上天下唯我独尊だ、ただ我れ一人尊し、我は神の子であり、最もすぐれたる存在であり、自分は宇宙の中心だという事がわかったというのであります。


●仏陀(ほとけ)とは何であるか

 さて宗教の定義は、自分自らを知ることの自覚を得させる教えだという事であります。その自覚を得たものが仏という訳です。仏というと、「あの人は死んじゃった。ああ仏さんになった」なんて言いますけれど、そんな仏さんじゃないんです。

 尤もあれを或る意味から言うと仏であります。人間は肉体を現している間は、肉体というものに縛られているのであります。従ってまた物質の法則に縛られているのです。飯を食わなかったら腹は減るし、余り働き過ぎたらくたびれるし、眠らなかったら辛い、‐‐‐‐いろいろ肉体的な縛りというものがあるわけです。

 霊魂が肉体を抜け出したら、そういう肉体の制約から、解放(ホトケ)される訳です。そういう意味に於いて肉体の死んだ人は仏でありますけれども、しかし霊魂が肉体を脱(ぬ)けても、肉体を脱けたという事を知らずに、解放されないのがいるのであります。そういうのを亡者というんです。

 つまりまだ解放されていないんです。自分自身を「天上天下唯我独尊」の自由自在の存在であるという事を知らないで、そしてやっぱり肉体の中にいて苦しんでいる、という様な妄覚のままで霊界に行ってしまう。

 この状態は永遠に続くかどうか判らぬが、ともかく霊魂が霊界に往っても「何々という病気で苦しんでいる自分だ」というその想いが続いている間は、亡者である。「亡びたる者」である。

「亡びたる者」というのは、肉体があると思って亡びないと思っているのですけど、魂の方は亡びている。つまり、人間みずからの生命そのものが、自由自在である神の子であるという事を自覚し得ないのでありますから、その自由自在の霊なる存在を悟らんから、「霊なる存在」が亡びたる状態であるから、いわゆる「亡者」である、という訳であります。我々は亡者じゃいかんですよ。

 今言いました通り、肉体が生きておっても肉体が自分であると思っている者は、霊性の自覚がないから或る意味から言うと亡者である。肉体というものは、これは恒(つね)に亡びるものなのであるからです。

 肉体は亡びるものであって、偉そうに言って百五十歳長寿会に入会しておったからとて、それでも、それ一杯ギリギリ生きていても百五十年だ。宇宙の長い生命と比べたら、実につまらんものであって、皆「亡びるもの」mortal(モータル)と言いますね。

 それが不滅のものというもの「亡びない者」immortal(インモータル)というものになる事が必要なんです。それが即ち亡びる者から亡びないimmortalというものに生まれ更るのが、これが「新たに生れる」ということである訳です。

 宗教を定義して、「宗教というものは個生命(個人個人の生命)が宇宙大生命と一体(ひとつ)であるという事を悟らせる教えが宗教である」という風に定義する人もある。この定義は無論正しい訳であります。

 これは「汝自らを正しく知ったとき」自然に自分という「個」の生命が宇宙生命という「全」の生命との関係がわかって来るのであります。

 自分の生命(いのち)というものが、単なる肉体に宿っている五尺何寸、十何貫というような――中には五十貫も目方のある、この前日本に来たプロレスのキング・コングみたいな人もいますか――それでも十何貫にせよ、五十貫にせよ、いずれも有限であって、やはり「亡びる者」であります。

 如何にキング・コングでも、力道山にやられる。その力道山も終には誰かにやられる時が来るであろうし、またやられないでも死ぬ時も来るであろうし、人間が肉体だと見ている限りは、人間は所詮は亡びる者、亡者である。

 そこでこの「亡びる者」から「亡びない者」に移り変わらせ、人間は肉体ではない、久遠の生命であるという事を自覚せしめるのが、宗教である訳であります。だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるという事を自覚する教えが宗教である、という訳であります。


●「七つの燈台」の意味するもの

 さて、聖経の巻頭に「七つの燈台の点燈者の神示」という言葉が出ているのでありますが、ここに生長の家は一宗一派ではないということが、ちゃんとこの神示に書かれているのであります。

「我は七つの燈台に燈を点ずる者である」と生長の家の教えを創(はじ)められた神様がみずから言っておられるのであります。

 この「七つの燈台」という言葉は、キリスト教の新約聖書の一番終りに『黙示録』というのがありますが、その第一章を披いて御覧になりますと次のように書かれているのであります。

 「我振返りて我に語る声を見んとし、振返りて見れば七つの金の燈台あり。また燈台の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔のごとく、その足は炉にて焼きたる輝ける真鍮(しんちゅう)のごとく、その声は衆(おお)くの水の声のごとし。その右の手に七つの星を持ち、その口より両刃(もろは)の利(と)き剣いで、その顔は烈しく照る日のごとし。−−−−彼その右の手を我に按(お)きて言いたまう「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ嘗(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり‐‐‐‐」

 この「人の子」というのは、じつは「神の子」であって、イエス・キリスト自身が、常に自分を「人の子」と言っておられた。そして「我れ嘗て死にたりしが」とあるのは、一度は十字架にかけられて死んだように見えたが、ということであります。

 それで「人の子のごとき者」というのは、イエス・キリストのことであることがわかるのであります。肉体のイエス・キリストは三十三歳で磔にかかりましたから、老人ではないのでありますが、それが復活して、久遠の古りたる無始の昔からの存在として白髪の老翁の姿を以って、この七つの燈台の間を歩んでおられるのであります。

 ヨハネから見たら、どうも人相が「人の子」即ちイエスに似ているけれども、老人の姿でありますから、どうもイエスではないかも知れない、それで「人の子そのもの」と書かないで、「人の子のごとき者」と書かれているのであります。

 ところが、その人の子のごとき者は、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、世々限りなく生く。また生と死との鍵をもてり」と仰せられているのであります。

 白髪というのは老人の老いぼれという意味ではなくて、また今漸(ようや)く三十歳になったばかりのイエスであるという意味ではなしに、久遠の昔から永遠に続いている生き通しの生命を象徴した「白髪の老翁」というわけでありまして、決して老いぼれのお爺さんという意味ではないのであります。

「久遠の生命」というのは百五十歳位の数えられる長寿ではなくて、無限の長寿というものを象徴した白髪の老翁の姿で示されたので、その「頭と頭髪とは白き毛の如く雪の如く」白衣(びゃくえ)を足先まで垂れた姿であらわれられたのであります。

 これはヨハネというキリストの弟子の中で、一番霊感の秀れた弟子が、キリストが磔けになりましてから、ローマ帝国の迫害を受けて、パトモス島という小アジアの小島へ流されて居ったときに、神に祈っておりましたら、霊感的に、目は瞑っておっても眼の前に、七つの燈台の有様が見えて、白髪の老翁の姿がその間に歩みたまうのが見えたというのであります。

 その白髪の老翁は「我はα(あるふぁ)でありω(おめが)であり――始めであり終りであり、生と死との鍵をもてり」と宣言したもうたことによって「宇宙の根源の神」であるということが明らかであります。

 その神様が出て来られたので、ヨハネはその威厳にうたれて、そこに平伏(ひらふ)してしまった。そして「死したるものの如くなれり」と聖書には書かれています。

 単に土下座したというくらいのものではないのであって、地面に平伏してしまって、もう再び起きあがる事は出来ないという様な状態になった。そのとはき"吾はαなりωなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり"とこう言われた。

 この神様が、生長の家の神様であって、「七つの燈台に燈を点ずる者」でありたまうのであります。キリスト教的に言えば、「久遠のキリスト」であります。

 肉体のキリストは三十三歳で死んだけれども、「本当のキリスト」は、久遠不滅であらせられるのです。『生命の實相』の中には真理と書いて、「キリスト」とフリ仮名を付けてある箇処が所々にあるのであります。

「キリスト」というと、三十三歳でハリツケになったユダヤ人の男の事だと、こう思っている人もありますけれども、あれはキリストの応化身であって、肉体的にある時代に適するように応じて現れた姿であって、「本当のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終りなく、宇宙に充ちている所の真理そのものである訳なのです。

 その真理そのものは久遠不滅であるから、初めであり終りであり、永遠に不滅である、というので白髪の老翁の長寿の姿をもって人格化して出て来られている――こういうことになっているわけであります。


●内にやどるキリスト

 さて、新たに生れる問題でありますが、キリストの弟子のパウロという人が言っておりますが、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあって生くるなり」この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。

 自分という肉体的な存在が生きているのではなくて、「キリストわれにあって生くるなり」という所の自覚を得ることが、新たに生れることであります。

「谷口先生はキリストの再来である」なんておっしゃる人もありますけれども、キリストは真理であり、普遍的な存在でありますから、私だけがキリストの再来じゃない、皆さんすべてにキリスト――即ち真理が宿っているから、パウロと同じように「キリストわれにあって生くるなり」という自覚を得るならば、みなさんは「われキリスト」の自覚を得られたのであって、キリストの再来であるわけなんです。

 諸君(みなさん)、「汝自らを知れ」というソクラテスの言葉を、深い意味に於いて如実に知ってですね、「自分というものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、キリスト我にあって生くるなり」と自覚するんですね。これを忘れるから不可(いか)んのですよ。

 これが根本問題であって、戦争が起こるのも、人類の一人一人がキリストだということを忘れているからですよ。自分が「愛」そのものであるところのキリストだという事を忘れているところに、色々の争いが起り、奪い合いが起り、色々面白からざる事が起って来るのであります。

 自分がキリストであるという事を忘れて、自分は「煩悩の猿(ましら)」であると、ダーウィンの進化論などから、人間は獣類の子孫だなどと思って、人間が神の子であり、キリストであるという事を忘れている――そこに一切の混乱の源があるんですよ。

 仏教では「キリスト」と言わないで「仏性」と言うんです。つまり自分に宿っている所の仏性――仏なる本性がキリスト教では「内在のキリスト」であります。

 日本的に言えば「ミコト」なるものであります。何宗にも偏らない用語(ことば)を使えば「真理」と言うべきであります。神道でもキリスト教でも仏教でも同じ事です。

 生長の家は万教帰一であります。だからこの講習会に集っておられる方々には、色々の宗教の方々がおられる。仏教各宗の方もおられるし、キリスト教の各派の人もおられる。或いは教派神道の方々もおられる。

 こうして色々の宗教の人が生長の家に来て教えに触れられる。すると、"自分の信じておった宗教の神髄は本当はこういう意味であったのであるか"という事が判って、その宗教が本当に有りがたくなるのが生長の家であります。

 それで、自分は燈台だと言わないで「七つの燈台に燈を点ずる者」というのであります。

 七つは完成の数でありまして、一切を包容する意味であります。燈台というのは、世を照らす光であって、世の光となる宗教の象徴であります。

 ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光であるはずの宗教が眠っていて、その法燈が消えているのであります。もう大分目が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠っておって、燈がついていなかったのであります。

 だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本当に目覚めさせて、如実に人間を救う事が出来たのでありますけれども、

 それが段々弟子から弟子へ伝わり、それが「又弟子」に伝わりしていく中に、教えが段々水増しをするように迷いで薄まって、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあって、中身は別物が入っていたり、あるいはレッテルは「仏教」と書いてあって、中身は釈尊のお説きになった真理がない水だけが入っているというような宗派ができて来ました。

 そして、そういう中身の異なるものを「キリスト教」とか「仏教」とか言って売っているという様な事でありますから、教祖が出現せられた時代にあらわれていた奇蹟があらわれなくなった。

 そしてその奇蹟があらわれないことを弁解するために、奇蹟のあらわれる宗教を、治病宗教とか新興宗教とか言って攻撃しておれば、自分の宗教が偉いように見えるだろうと思うような間違いを犯して、テンとして恥じないようになって来たのであります。

 イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗教にあきたらないで出発 した新興宗教であって、奇蹟が続々あらわれていたのであります――ところがその法燈が途中で消えていたのですから、人生という航路を行く舟が難破するというのは、無理がないというわけであります。

 そこで神様が、それに燈を点けなければいかん、という訳で、世を照らす光の燈台である各宗の教えに、生きた火を点ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。

 燈をつけるのであって、決して各宗の燈台を壊すのではないんですから、安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやって来いとは言わないのであります。

 皆さんの信じていられる今迄の宗教そのままで、それに本当に世を照らす事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらわれた神さまは『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好いという風に「新天新地の神示」に示されているのであります。

 生長の家は前に申しました通り、凡ゆる宗教に真理の光を点ずる、その代りにその各々の宗教が光を放って人類を救ってくれたらもうそれで宜しいので、「自分の宗教に入れ、そうでないと救われないぞ」などとは言わない。

 そこで生長の家の教えによって、自分の祖先から伝わっていた宗教の真義がわかり、こんな有難いものかと感心して、自分の家の宗教に帰ってゆく。それを生長の家では留めもしない。それで生長の家では割合信者として留まっている人が少ないのです。

 その少ないのが浄らかなんですね。少ないのは自慢にならんけれども、他の宗教のように、名前が悪いから家族が死ぬぞとおどしたり、途中でやめたら神罰が当ると脅したりしない。

 その代り集まっている人は、みな立派な人で、本当にこの教えこそ純粋の教えであるという事を知って、そしていつまでも離れずに、そして他の人に布教して下さる。そういう純粋の人ばかりが生長の家の信徒として居られるのであります。

 言わば、生長の家は一宗一派ではない、あらゆる宗教は、宇宙唯一の救いの本尊からあらわれた七色の放射光線みたいなもので、その色は各々異なるけれども、皆それぞれの宗教に救いがあることがわかるから、仏教がその人の先祖からの宗教であっても、今までお墓詣りもお寺詣りも、一遍もした事もないような人でも、生長の家に入ると、お寺詣りも、お墓詣りも盛んにするようになる。

 実際にそうなるのですから、有りがたいのであります。私たちは、こっちへ引き寄せるんじゃなくて、向こうへ引き寄せる。そういうような教えが生長の家である、という訳なんです。

 宗教というものは、「汝自らを知らせる」ものであることは既に申しましたが、「人間は神の子である」という事が判りますと、人それぞれに「神の子」である実相があらわれて来るのです。実相は神の子で完全ですから、その完全さが出て来るのです。

 いくら「完全さ」が内部にあっても、それに気付かないと出て来ないのです。この世界――見られる世界――感覚にて感じられる世界は、認める事によってそれはアルとはっきり出て来るのであります。認めなければ、有れども無きが如しであります。

 体験として存在の世界に出て来ないのです。西田哲学でも「見る事は働く事である」と言っています。生長の家では「見る事は創造(つく)る事である」と言うのであります。

 例えばいくらご馳走が此処にあっても、見なかったら御馳走が有るやらないやら判らないのです。今日のように太陽が輝いておっても、眼をつむっておったら暗いのであって、光は体験としては「無」に過ぎない。

 だから心の眼を開いて、この世界の実相をみよというのです。世界の実の相を如実に見、そして人間の実の相を如実に見ることが必要なわけであります。

「新天新地の神示」に、
 「見よ、吾れ既に天地を新たならしめたのである。」
 とありますが、これは既に現在完了になっているところに注目しなければなりません。
 現在既に、新たなる天地があるというのであります。これから吾々が天国を創造るのでもなければ、極楽を拵えるのでもない。神は、

 「見よ、吾れ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の覆いをとれ。」
 と仰せられているのであります。だから眼を開けばいいのです。心の眼をひらいて神様の智慧を戴き、生命を目覚めさせて、既に今此処にある天国浄土を見ればよいのであります。つづいて「新天新地」には、

 「われは新しき智慧である。新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。」
 神様は智慧であり生命であり、宇宙であり、光明であると書いてあります。"われ(神)は新しき宇宙である"とあるのでありますから、この宇宙というのが別にあって、神様がその宇宙から生れたのじゃないのであります。神様そのものが宇宙なのです。

 何故「新しい宇宙」かと言いますと、これは別に"今日新たにこしらえた宇宙"という意味ではないのであって、今迄の古き観念の世界が、間違いの想いで想像されて、この世界は汚れたる世界、暗黒の世界、闘いに充ちた世界、病気貧乏充ち満ちた世界にあらわれていたのであります。

 そういう過去の間違いの観念であらわれていた世界が古き世界であって、そういう間違いの想いをすっかり、洗い浄め、捨て去ったとき、永遠に、時間なき始めから、時間を超えた無始無終の限りなき新しい世界が、すでにそこに有ることがわかるのであります。
        、、 
 既に其処にあるのであって、常住の新しき世界が、新たに出来た新しき世界ではなくて、久遠常住に新しい世界が其処にあるのであります。爰(ここ)に、「新しい」というのは、神示に、 
  「われ臨(きた)って、此の世界は既に変貌したのである。」 
 と仰せられている通り、「既にある新しき世界」が、既に常住の天国浄土として、存在しているけれども、今まで眼の覆いがしてあって、その存在に気がつかなかったのです。

 既に今此処に実際立派な実相世界があるのに、心のカーテンが、心の眼の前に暗幕として垂れておって、その存在が見えなかったのであります。それが古き「無明(まよい)のフィルム」なんです。

 この古きフィルムをパッと除き去ると、いままで暗黒の世界を見ていた人間にとっては、「新しき世界」がそこに現れて来るのですけれども、「新しい」といっても、今はじめて気がついて見るのだから「新しい」のであって、既にそれは初めからあるのです。

「初め」といっても、時間を超えた「初め」であって、『黙示録』には「吾は初めなり、終なり」と神は仰せられている通り、初めも終りも超越的に包容している久遠無始無終の永遠にある世界が新天新地であります。

 然し今まで古きカーテンで蔽われていましたから、私たちが眼の蔽いをとったら、そこからパッと新しき智慧が出て来る、新しき生命が出て来る、新しき宇宙が出て来る、新しき光明が出て来ることになるのであります。

 それで、神は"吾れ臨(きた)って此の世界は変貌したのである"と仰せられる。七つの燈台に燈を点じて、無明の暗黒を消してしまわれたら、この世界の相が変って、至美至妙の"善き世界"が現れて来るのであります。それで、その"善き世界"が忽然とあらわれて来るのが、恰も神秘的に奇蹟的に見えるのであって、これを神示には、

 「既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ。」
 と示されているのであります。 

 この無明の暗幕が取り去られた結果、信徒や誌友たちに色々の奇蹟みたいな体験があらわれて来るのです。

 神秘というのは、人間智慧では分からぬような不可思議な現象であります。そういう神秘が現れて来るから、それを見て先ず心の眼を覚ませと仰せられているのです。つづいて神示は、

  「覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。われは実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈を点ずるものである。」
 と示されていられるのであります。多くの人類は今なお魂が目覚めないで、悩み苦しみ憂い等が充ち満ちた悲しい夢を勝手に見ているのであります。

 心の眼を瞑って心の瞼の裏に、悲しい夢を見ているけれども、"眼を覚まして存在の実相を見よ"と仰せられているのです。更に、

  「悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。汝の悲しみは喜びに変わるであろう。病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。」
 こう示したまうているのであります。私たちは悲しみに泣き濡れる必要はないのです。ただ眼をあげて、神の光を見れば、喜びに変わるのです。

 既に人間の実相は、自性円満であって、既に完全にまんまるく欠くる所がないのです。それなのに迷いのカーテンによって蔽われて、存在の実相を見得ない、だから「目の蔽いをとれ」と頻(しき)りに仰せられるのです。

 ではその蔽いはどうしたら除(と)れるかというと、心の眼を上げて神の智慧を受けるのです。神は、「われは新しき智慧である」「存在の実相を照らし出すところの智慧である」と仰せられるその智慧の光によって、既に完全円満にまんまるい、病も苦しみも悩みもないところの人間の実相を見るならば、今まで悲しみに泣き濡れていた人も、「汝の悲しみは喜びに変わるであろう」と仰せられるのです。

 仮りにあなたが、今病気をしておられても、病気は癒える。「病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ」と仰せられる。

 生長の家は、決して「病気治し」ではない。始めから完全な人間が「ある」のを、眼の蔽いをして、眼を瞑って、病の夢を見ているのだから、病気を治すんじゃないけれども、病の夢が覚めたら病気が消えたことを発見するのであります。

 そこが宗教家とお医者さんとはちがう。お医者さんなら病気を治すのですけれども、宗教というものは病気を治すのではない。無明(まよい)によって病気の夢を見ておったのを、真理を教えて迷いの夢をさまさせる。するとその夢が消える。

 だから現象的には、どういう経過をとって病気が消えたのか全く見当がつかない神秘現象と見えることがあるのです。

  「病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。われを信ぜざる者は已むを得ぬ。」
 "われを拒むな"と仰せられているところに注目しなければなりません。信じないのは手のつけようがない、これは困りますね。

「縁なき衆生は度し難し」とお釈迦さんは言われたそうでありますが、どうも信じない者は仕方がない。そんなら私は信じないから、永遠に救われないかというとそうでもない。

 それは信ずる「とき」が来るのです。それは福寿草でも梅の蕾でも、開く時が来なかったら開かないのです。だから人間でも魂がまだ幼くして、まだ蕾のように眼が開かない時には、「汝の眼の蔽いをとれ」と言っても、生まれたての"オギャーッ"と生れたばかりの赤ん坊にいくら"目の蔽いをとれ"と言ったとて、お母ちゃんの顔が見えないのですから、仕方がないのです。

 そのときには「縁なき衆生」であります。しかし永遠に縁がない訳じゃない、まだ機縁が熟してこないだけであります。「望みなきに非ず」という訳であります。

  「われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。われ汝等に『神想観』という観行を教えたれば、それを為せ。われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。吾を呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。なんぢ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思え。なんぢら二人ならば、われを念じて吾れと倶に三人なりと思え。悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。そはわれは限りなき大愛であるからである」

 どうしたら神の智慧を受けて心の眼の蔽いが除(と)れるか、神の無限の生命から汲むことができるかと言いますと、神想観をすることが大切であるのです。

 "吾に汲むものは常に新しき力に涸れないであろう"と神はお示しになっておりますが、此の神想観をする事が、神から無限の智慧を受け、生命の流れを汲むことになるので「吾れに汲む」と仰せられているその「吾れ」というのは、神の事でありますが、神は超越内在神でありますから、同時に、「自己に宿るキリスト」であります。時には「久遠のキリスト」という白髪白髯(ぜん)の久遠古仏の姿に現れたりいたします。

 この道場の入口の上に服部先生がお創作(つく)りになった彫像のような――まああれに肖(に)た像(すがた)をもって信徒の霊眼に現れて見える事もあるのであって、このような姿は一人が見ただけではなく大勢が同時同所で見たということもあるから、決して単なる主観的幻覚ではないのであります。

 しかしながら、こうして現れて見える神様というものは、一つの化身(仮りに変化してあらわれられた身体)であって、実相身ではないのであります。

 法身そのもの真理そのものは肉眼に見えない。その代りどこにでも充ち満ちておられて、皆さんの内にも仏性、神性として宿っておられる訳なのであります。

 だから皆さんのうちにキリストが宿っている。これをキリスト教的に言えば、「内在のキリスト」である。しかしそれに気が付かなかったり、気が付いていても呼ばなかったら駄目なのであります。呼ぶことが必要であります。それが神想観です。

 尤も簡単な神想観は、『人生読本』に書いてありますところの、
  「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」
 という言葉を眼をつむって、精神を統一しながらジーッと念ずるがよいのです。
  「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」
 と何遍も繰り返すのであります。

 これを幼い生徒さんが教えてもらって、学校の試験問題が出たときに、どうしてもその回答が思い出せない時に、ソーッと合掌して、"我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ"と、五、六回心のうちで一心にとなえまして、忘れていた回答を思い出したというような体験を発表されたことも随分あります。

 横浜で講習会があったときには、それは子供ではなかったけれども、あれは横浜鶴見の日本鋼管に勤めていた大人の工員の方でありましたが、それは戦争中のことでした。何かクレーンの様なものを以って、十数人かかってある鉄製品を引き揚げなければ動かないという様な重い物体を動かす作業をしておったのですけれども、

 そんな事じゃなかなか思うように能率が上がらない。もっと簡単に少人数で引揚げる方法はなかろうか、とその人は考えられまして、その時に、"我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ"と心のうちで繰り返しながら、工場の隅で一心に祈られたのでした。

 するとハッとインスピレーションが来たのでした。その人の頭にいい考えが浮かんだのです。一種の発明みたいなものが浮かんだのですが、それを上役の人に上申すると、それが採用されまして、今まで十数人でなければ動かなかった重量品が、一人で簡単に動かす事が出来る様になったというので、大いに表彰されたという体験を発表されたことがありました。

 これを、"吾れを呼ぶ者は無限の力が内部から湧き出でる"
と神示に仰せられている。その「吾れを呼ぶ」といっても、遠い処にいる神様じゃないのであって、「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と自分に内在したまう神を呼べば、このような力が湧き出て来るのです。

 遠くにいる神様を呼ぶのなら難しいが、自分の内にある神様を呼べばいいのですから、そんな難しい事はないのです。招神歌(かみよびうた)と言いますから、どこか天にでもいらっしゃる神様を呼んでくるのかと思っている人もあるけれども、自分の内から、内在の神を呼び出す歌が、招神歌であります。だから、

  "吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命"
というように称(とな)えてですね、自分の生きているのは自分の力で生きているのではない、ここに宇宙の大神、祖神の神がいるんだという事を自覚する歌を念ずることが、神を招(よ)ぶことになっているのです。また、

  "吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)" と唱えまして、祖神(みおやがみ)の生命がここに宿り、祖神の力がここに宿っているという事を自覚する。

 その自覚の程度に従って、自己の内より無限力が出て来るようになるのであります。だからこれが「新たに生れる」ということであり、新天新地を見出すことになるのであります。

 するとそこに地上天国は実現し、常に一人でいても寂しいという事はない訳であります。何時も神様と二人であり、いつも神様と手を繋いでいるわけであります。

 肉体同士、手を繋いでいたら手が離れることがあるかも知れぬけれども、神様が私たちの魂の中に宿っていられる。すなわち"魂の底の底なる神"と一体なのですから、これはもう離れようがないのであります。唯私たちが神を忘れていると、心の世界では神を忘れたことになりますから、常に思い出して呼ぶことが必要なのであります。

   「悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。そはわれは限りなき大愛であるからである。汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであろう。」

 こう神示のつづきには書かれております。試験場に於いて全然知らないことでもヒョッコリ思い出して書けたという実例もあります。山下陽之助君という少年が神戸にいました。山下乃二子さんという人の息子さんであります。お父さんは山下長三郎さんといった。

 その人は親子とも今も達者で生きておられますが、その山下長三郎という人は、神戸の湊川公園にある衛生博覧会へ往ったことがあったのです。神戸の湊川というと、あの湊川の戦いのあった所、すなわち楠正成の古戦場であります。

 今あそこが盛り場になって、喫茶店や映画館が立ち並んで大変賑やかな所になっております。昭和五年頃、あそこの広場に衛生博覧会というのが開かれた事があったのです。

 山下長三郎さんその衛生博覧会に行きますと、梅毒患者というのは、こんなにグジャグジャとみぐるしい顔になるんだとか、子宮癌はこんな状態だとか、ブド―状鬼胎というのはこういう塊であるとか、色々ないやらしい病気の肉体の腐乱したような姿のものをアルコール漬けにした実物や、実物そっくりの蝋細工でまるで本当の人間の病患部みたいにつくったものなどが、沢山並べてあるのであります。

 山下さんが、そんなものをズーッと見て行きますと、ショーウインドウみたいなガラス張りの陳列棚の中に、蝿の六百倍に拡大した模型が、陳列してあったのです。蝿の六百倍というと、腹の直径が一尺五寸ぐらいの長さがあり、身長が二尺五寸もあるくらいの大きさの蝿であります。

 それに黴菌が付いている有様を、標本に拵えてあるのであります。その蝿の脚の一つ一つに一面に黴菌が胡麻ほどの大きさに拡大されて、付着したように造ってあるのです。それはちょうど菊を栽培していると、油虫とか「ありまき」とかいう小さな胡麻みたいな虫が付きますね。まるであれが一杯付いている様に、蝿の脚全体に、見ても気持ちが悪くなるような具合に黴菌が付いている有様が、巧妙に拵えてあるのであります。

 そしてその隣には、普通の茶碗にごはんを盛った標本が拵えてありまして、それに本当の大きさの蝿が五、六匹止まっている有様をこしらえてある。それを肉眼で見るとわからないが、六百倍にこれを拡大したら、こういうように黴菌だらけになっている、ということを示す標本であります。

 山下長三郎さんはそれを見ると、ゾーッとしたのてです。「あーっ、いやらしいなあ」と思った。それ以来、長三郎さんには食べものに対する恐怖心が起ったのであります。

 それでも御飯は食べておられたのですけれども、恐怖心が起ったのであります。肉眼で見たら黴菌は見えぬけれども、この御飯にもどれだけ黴菌がおるかわからないと思うようになったのです。

 それでも御飯は食べておられたのですけれども、恐怖心が起ると、自律神経に反応過剰が起って、胃腸の働きに影響を起し、胃粘膜に充血を起し、胃液の分泌に異常を来たす。正しい成分でない胃酸が出て来て、胃壁に潰瘍を起すということが、最近の精神身体医学でわかって来たのですが、実際そうなって来ましたのです。長三郎さんは胃潰瘍を起したのです。

 それから兵庫県立神戸病院というのに二ヶ月入院してやっと治った。だけどもそこから退院して来た長三郎さんは、もう御飯が恐ろしくて食べられないのです。御飯にはあんな黴菌が付いていたという観念が消えないので、胃潰瘍が治ってからも、御飯が少しも食べられないのであります。

 御菜(おかず)も勿論そんな固いものを食べたら、また胃潰瘍になって胃袋に孔があくかと思うと恐ろしいので食べられなかったのです。

 そこで何を食べておられたかというと、蜂蜜を五貫目、これが一ヶ月食べる主食物です。その主成分は果糖のような含水炭素でありますが、あれには単に糖分だけではなく、色々の成分が含まれている。蜂はあれを食べるだけで、蜂の皮膚も羽根も、筋肉も出来るのですから、人間にとっても大変よい食品であります。

 その蜂蜜を一ヶ月に五貫目も食べる。しかしそれだけでは足らんというので、いろいろの栄養素を薬店から買って来るんです。ビタミン剤は無論のこと、ポリタミンとかサナトーゲンとか、色々の既に消化済みの必須アミノ酸などを買って来まして、これらの栄養剤がお菜であります。

 蜂蜜を主食物にこれらをお菜にしていると、それらははじめから消化しているから、胃腸に負担をかけないで、大丈夫だという訳であります。ところがそれではどうも元気が出ないのです。

 山下長三郎さんは、まだ私が住吉にいました時に、訪問して来られましたが、顔を見ると緑色の顔をしておられる。普通の人間の血色がないのです。自然食でないから、まだ何かの成分が足りないのでしょうね。身体は割合肥えて目方は十六貫ほどあると言っておられましたが、妙な血色で異常に緑色みたいな皮膚の色をしておられたのであります。

 それで私は「あんたそんなものを食べておったら駄目ですよ。恐れるから胃潰瘍になるのであって、恐れなかったら何を食べても胃潰瘍にはならない。食物が自分を害すると思うから、思う通りに人間はなるのですから、"固い食物を食べたら胃潰瘍になる"という観念を捨てなさいよ。あんたは蝿に黴菌が付いた標本を見てから恐怖心を起して、自分で胃潰瘍を起したんだ。

 蝿なんて何が恐ろしいか。(註・これは今の中共政府が出現していない時の話)支那ヘ行くと、蝿が胡麻をふりかけたみたいに一杯御飯にとまっていても、平気で食べるのですよ。"そんなに蝿がたかっているものを食べたら衛生に悪いじゃないか"と言ってやると、"いや、蝿が喜んで食べるようなものは毒にならんから、蝿が来るので大丈夫だ"と言って平気で食べる。

 なあに蝿なんて恐ろしい事があるものか、蝿がとまった食物をたべて病気になるのだったら、支那人は皆病気になって、今時分は絶滅しているはずだ。それが支那は五億の人口があって世界で一番人口が多いじゃないか。」

 こういう話をして、私は山下長三郎さんの恐怖心を除ったのであります。そして、私は山下さんに「君は一体何が好きだ」と言うと、「酢蛸が一番好きだ」と言うのです。蛸のうでたのを二杯酢でたべるやつですね。「そんなら今日、家に帰って、白米の銀飯を炊いて、そして君の一番好きな蛸のウデたのに二杯酢をかけて食べなさい。なあに恐ろしいことはない。蛸は固い様だけれどもね、君が蛸が一番好きだったら、好きな物は一番良く消化するんだからそれを食べ給え」と言ったのです。

 そしたら山下長三郎さんは家に帰って、病気になってから始めて白米の御飯を食べた。それも一番好きな酢蛸をお菜にして食べたのです。あとできくと、それはもう何とも言えん、極楽浄土で御馳走を食べるより、まだ美味しかったということです。

 それっきり山下さんの胃潰瘍の恐怖というものが無くなった。そして大変喜ばれまして、それ以来生長の家に通って来られるようになったのであります。そこで山下さん御夫婦が両方とも生長の家に熱心になられましたら、その息子さんの山下陽之助君も生長の家に熱心になられた。

「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺がありますが、陽之助君は毎晩寝る前に、必ず神想観をするのです。

 その頃、陽之助君は中学の二年でしたかね。何でもその時、学校で国語の試験がありまして、「秋の七草とは如何なる植物か、その名称を列記せよ」という題が出たのであります。陽之助君はそれを五つまで書いたけれども、どうしても残りの二つの名称が判らないのです。

 腕時計を見るとあと五分です。五分間に考えねばならぬ、というので、山下陽之助君は合掌を机の下で、皆に内証でしまして、「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と五、六回念じたのです。するとふーっと思い出した。「ふじばかま」という草の名が想いだされたのです。で、それを書いたのです。

 そしたら後は二分程です。もう二分間に思い出して書かねばならぬ。陽之助君は、もう絶体絶命だ。「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」とまた繰り返し念じました。そしたら「われもこう」という七草の名を思い出したのでそれを急いで書いたのです。

 他の生徒は皆答案を書いて、グラウンドに出た後で、自分だけが残っている。先生はみなの答案を集めて、もう一人残っているからというので、陽之助君のそばに立って見ている。それで愈々(いよいよ)最後の三十秒という時に、「われもこう」と陽之助君が書いたら、傍で立って見ていた先生が、「到頭出来ましたね」と言われたそうであります。

 それから中学の三年の時に、「カラフトのパルプの産額は幾らであるか?」という試験問題が出たのです。今は私もソ連領で知らぬけれども、陽之助君もそれが何千万トンか何百万トンか兎も角判らなかったのであります。

 その時にも「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と念じて神想観をすると、パッと閃くように思い出したというのであります。「汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出ずるに驚くであろう」という神示が偽りでない事が立証されるのであります。

 山下陽之助君は、中学校四年で陸軍士官学校の入学試験を受けたのであります。陸軍士官学校の話をすると、まるで私が軍国主義者みたいだけれども、別に軍国主義を鼓吹するような意味で私は話しているのではない。

 神様の力を呼べば、自分の行きたい所へ行けるし、物事を成就する事ができるという実例としてこの話をしているのであります。その時分の陸軍士官学校というのは―それは大分前の事でまだ大東亜戦争が始まってない頃で、ヒットラーによる欧州戦争は始まっていたんですけど、まだそれ程幹部将校の数が必要な時ではなかった。

 従って陸軍士官学校へ入学の募集人員は極く少なくて、非常に優秀なる生徒以外は入学出来なかった時分であります。しかも中学四年から陸士へ飛び込んで行くなんていう事はなかなか難しかった時代でありますが、陽之助君は、成績が良いので、中学四年で陸軍士官学校を受けたいと言い出した。

 お母さんの山下乃二子さんは入学試験の前の晩に神想観をせられて、「神様私の息子が陸軍士官学校へ入学するのが御心でございましたならば、入学させてやって下さいませ。陸軍士官学校に入学するのが御心でございませんでしたら、どうぞすべらして下さい。御心の如くならしめ給え」と念じて、すべてを神に全托する気持でその晩はお寝みになったのです。

 翌日試験があるんですね。そしたらその晩に乃二子さんは夢を見たのです。その時のドイツの国旗というのは、「ヒットラー・マンジ」で生長の家のマークの中にある様な卍です。その「ヒットラー・マンジ」のドイツの国旗と日章旗とが交叉して翻っている夢を見たのです。

 そしてハッと乃二子さんは眼が醒めた。「アッ、素晴らしい夢を見た!!」というような感じがしている。鮮やかに大きな国旗が、交叉している。何の意味か判らないけれども、余り印象が鮮やかで、どうしてもその印象が薄らがないのであります。

 夢というものにも色々あります。「雑夢」といって出鱈目に、印象が混乱して見る夢、それから「霊夢」とか「神夢」とかいって、神様や高級霊から教えられる夢、現実では到底実現できない希望を、夢で実現する「希望実現の夢」、それから色々潜在意識に抑圧されてある処の感情の迸出口として抑圧感情の象徴的表現をする夢、まあ大体こういう種類の夢があるのであります。

 大体印象が混乱している出鱈目の夢は雑夢ですが、中には希望の実現の夢もあって、現実界でこうしたいと思っても中々出来ないという様なものを、夢の中でチャンとそれが出来ているとして夢を見て感情が満足するのであります。

 また抑圧されたる色々の感情の悩みというものは、大抵性的な悩みが多いのでありますが、それが象徴的な夢の形で現れて来るのであって、これは神経病などを起すので、夢の分析の対象になるのであります。

 ところが、雑夢とか抑圧感情の象徴的夢などは割合に直ぐに消えてしまうのであります。眼が醒めたときにははっきり覚えている様であっても、すーっと消えてしまって、もう一時間もするとどうしても思い出すことができません。

 ところが、この「神夢」とか「霊夢」とかいう夢は、鮮やかな印象がいつまでも続いていて、中々消えないのであります。尤もこれが本当の神様のお示しの夢であるか、どの種の霊の導きであるかという事の区別となると、これはまた中々区別が難しいのであります。

 乃二子さんの見られた「ドイツの国旗と日本の国旗との交叉している夢」は、乃二子さんが神想観をして眠っている間に神様の導きのあるようにお願いして眠った。

 こだ神様というべきか守護神というべきか、兎も角或る神霊が、その念を乃二子さんの脳髄に焼き付くように強く放送したので、それが脳髄に強く印象されて夢に出て来た訳であって、人間の希望や欲望満足の念がこしらえた夢じゃないのであって、神様がワザと知らしてやろうと思って、脳髄に印象された夢ですから、

 それはいつまでも、はっきりと焼き付けられる様に残っていて、時間が経っても鮮明に印象が残っていた訳であります。それは余りにも鮮やかな夢だから、乃二子さんは朝御飯を食べるときにその話をしたのでした。

「昨夜私はこういう夢を見たんですがね。ドイツの国旗と日本の国旗とが交叉している夢だったのですよ」と話しているところへ、女中さんが朝の新聞を持って来て、「新聞を持って参りました」と食卓の上に置いた。

 見るとその第一面に「日独防共協定成立」と零号の最大活字で書いてある。オヤッと思った。それは日本と独逸との協定である。それを息子の陽之助君は見たのです。

「お母さん、その夢はこの記事の夢ですよ!! 日本とドイツとの防共協定が成立したんてずよ」と陽之助君は、夢と現実との符号が面白いので、興味深く感じて、その新聞記事をすっかり詳しく読んだのであります。そして成る程こういう目的でこういう条約が結ばれたのだなと知ったのです。

 それから、その日あった陸士の入学試験場に臨んだのです。そしたら「日独防共協定とは何か?」という問題が出ているのです。陽之助君はそれをチャンとその朝興味をもって読んだのですから、よく覚えているから、それを詳しく書いたのてす。それでその答案は満点です。

 こんな問題の回答は他の教科書やテキスト・ブックを一所懸命勉強していても、書いてある筈はない。その朝の新聞にだけ書かれているのですから、陸軍士官学校では、そういう時局に鋭敏な感覚をもっていて、国家的な問題に興味を感ずる様な者を入学させたいというような意向で、そんな問題を出したのでしょうが、それが全部出来た訳ですから、首席で陸士に入学した。

 これが、「汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出ずるに驚くであろう」という神示の実証だと言えるのであります。

 山下君はこうして、自己の知らざる智慧に導かれて、十八歳で陸軍士官学校にその年の首席で入学したのです。同級生には二十一歳で入学した人もあるし、二十二歳で入学した人もあるのですが、最年少の十八歳で首席で入学して級長になって、他の年上の同級生を整列させて号令をかけていると母親の乃二子さんから聞いたことがあります。

 乃二子さんは神戸にいていつも神想観をするときには、自分の子供即ち陽之助君の実相の完全さのみを観るのでした。自分の子供の実相が、既に完全円満であるその有様を心に描いてずーっと見詰めるように毎日していますと、実に親孝行の真情のあらわれたいい手紙が陽之助君から来るのであります。

 しかし、時には忙しい時もあって、乃二子さんは一週間も息子のことを忘れて神想観をしない事がある。すると、陽之助君から来る手紙には心境が悪い状態が書かれているのです。

 乃二子さんが神想観をして善念を放送するのは神戸からでありますが、その心の波がチャンと東京にいる息子に通じている。こういう様な体験によって、念は空間を超えて感ずるということが証明される訳で、これは非常に面白い体験であると思うのであります。

 この事を応用すれば、子供を好くするということは、決して難しい事ではないのであります。神戸と東京と離れておっても、そういうように母の念によって、子供が良くなったり、悪くなったりするのですから、自分の家庭に一緒にいる子供を、善くしようと思ったら、善念を放送することによって、善くならないという道理はないのであります。

 しかし「善くしよう」と思うのに、どうしても子供が善くならぬという人がいる。これは「善くしよう」と思うから善くならないのであります。

 何故なら「善くしよう」と思うのは「悪い」と思うからであります。「悪い」と思うから「善くしよう」と思うのでしょう。だから「悪い」と思う通りに悪くなる。

 そこで「既に善い」として、「神様の存在の実相を完全に創り給うたのであるから、人間は完全なんだから、自分の息子(あるいは息女)は、既に完全である」と観じて、その「完全」の念を神想観で凝視(みつめ)るがよいのであります。

「ああ悪い奴じゃ。悪い奴じゃ」とみつめて「善くなれーッ」と祈っても、そういう祈り方は駄目であります。世間の大抵の親たちは、子供を、「悪い奴じゃ、悪い奴じゃ、悪い奴じゃ」とこう思って、子供をみつめて、そして「よくなれ」と祈っている。それで善い結果があらわれないのであります。

 皆さんが子供を善くしようとお考えになりましたら、先ず、自分の子供を「神の子」として、その完全さを信ずる事が必要であります。また子供は、親の型に嵌めて縛ろうと思うといけません。こうしなければいかんと子供を縛るといかんのです。

 そんなら放任するのがよいかというと、放任するのもいかん。縛ってもいかんし、放任してもいかんのであります。富豪の息子や娘が、放任して自由な生活をさせて置くと、あの『太陽の季節』に出て来る高校生のようになるのであります。

 そしたら、どうしたらよいかということになるのですが、大抵の人はどっちかに偏っている。"子供よ、こうなれ"と思って、親の型に嵌めようと思って、子供を縛る方に偏っているか、あるいは、唯もう子供が可愛いばかりで、うちの子供は神の子で、何事も縛らずに放って置けば好いというので、したいままにさせて放ったらかして置くのです。

 こうして放ったらかして置いたら好くなるかというと、山下乃二子さんが子供のために神想観をして善念を送ることを放ったらかして置いたら、その息子の陽之助君から心境の悪い手紙が来たという実例でもわかりますように、放ったらかして置くだけでは不可(いけ)ないのです。

そんならどうするのであるかというと、子供を信じてその実相の完全さを信じて、それを観ることが必要であります。

「観」とは心の眼で観ることです。子供の実相の完全さを信じて観ないで、放ったらかして置くときには人類全体の無明(迷い)の波動に蔽われて、子供の実相の完全さが隠れてしまうんです。

 だから実相を観ずる事が必要であります。実相の完全な相に於いて相手を観るという事が是非とも必要であります。

「観る」ことは「あらわす」ことでありますから、観れば観られた通りに現れるのであります。

 ところが、大抵の人は、子供をその現象の不完全な相に於いて観て、そうしてその不完全な姿を見て、これは何とかせんならんと思って縛るのでありますから、悪を見るから悪があらわれるという訳で、子供がよくならない事になるのであります。

 家庭で不良の子供とか娘とかいうのが出て来るのは、大抵その家庭があんまり厳格で、そして窮屈に窮屈に、子供を一定の型に縛ってしまおうとする。そうすると息子がその窮屈さを脱したいと思って、家庭から逃れ出て、自由奔放な不良の仲間と一緒に自由な生活を送りたくなる――という様な場合と、

 親が富豪の実業家か何かで、仕事や大人同志の会合に忙しくって、子供の事なんて見て居れないというので放ったらかしてあるような場合とであります。

 こういう時には親から愛されないと思って、他に愛情を求めるから、子供がよくならないのであります。だから子供は余り放任するのもいけませんし、縛るのもいけません。縛らずに、実相の完全さを信じて、その完全さをじーっと観る、という事ですね。これが子供をよくする上に大切なことであります。


●人類光明化ということ

  「信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けようがないのである。汝の心の疑いがわが救いの波長に合わないからである。遠くにいて救われている者もあるが、近くにいて救われぬ人もある。仕方のないことであるが不憫である。もっと兄弟たちに、『生長の家』を伝えよ。神の愛は貰い切りではならぬ。頂いたお陰を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。」

 これは昭和六年五月六日の神示の一節であります。「神の人類光明化運動」と、こう書かれていることを看過してはなりません。

 これは人類を光明化する運動であって、自分だけ幸福になったら、それでもう自分が救われたのだから、それでよいと安閑としているのでは、それはこの神示にそむくところの一種の利己主義であります。

 自分の病気が治った、自分の事業が繁盛して金が儲かった。自分が出世した、地位が上がった。それでもう目的を達したのだから「さようなら」では、一種の利己主義者であって、生長の家の教えにそむく者であります。

 生長の家は利己主義をするように教えている処ではないのであります。だから、「神の愛は貰い切りではならぬ。頂いたお陰を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ」と神示に教えていられるのであります。

 これは光明化運動だから一人じゃ出来ないのであります。体操なら一人で出来るかも知れませんが、運動でありますから、集団的に行なわれなければならぬ。これにはチームワークが必要です。だから、この真理で救われた人は勿論、この真理に共鳴する人は、この運動に協力しなければならないと思うのであります。


●運動の拡大につれて

 私はある時期までは、この真理の普及の費用は、私のポケット・マネーで経営しておったのですけれども、だんだんこの運動が拡大して参りますと、それだけでは運動の費用が足らなくなったのであります。そこで最初は、全然寄付などを仰がなかった生長の家も、任意奉納というような制度が定められるようになったのであります。

 大体、今迄の宗教というものは、その経営を寄付の浄財に頼っておったのであります。法律でも営利的なことで収益を営まないのが、宗教団体の立場になっております。

 ところが宗教が信者の寄付金ばかりに頼っていると、実利的な何事もしないでいて、卑屈に信者から、金を出させるにはどうしたらよいかなどと考えたり、お経を読むのでも、布施の金額でその長さを加減したりする。

 それではいかんと考えまして、生長の家というものは、もっと純粋な動機で人類を救うことをハッキリさせなければならぬというわけで、寄付合力に頼っている坊さんや神主のような生活に陥ってはいかんというので、

 兎も角、私はもう誰にも頼らないことにし、自分の生活は宗教からは得ないで、他に収入を得て生活をして、人類を救う方は純粋に自分の方から捧げるばかりで、人類を救う運動をしようという決心をしたのであります。

 兎も角、そういう発願で出発して出版会社というのを拵えて、出版の利益を循環させて、それを教団の布教費に当てる、信者というものは、少しも献金など出さないで、ただ出版物を世間と同じ値段、または多少割安な定価の書物を買うというだけの事で救われる、そういう事にしたいと考えたのであります。

 出版物の売買はただの商行為であって、「秘伝書」などという名をつけて、特に高いものを売る訳ではない、、宗教だといって税金を免がれる訳でもない。ちゃんと出版会社として税金を納めながら、寧(むし)ろ余処の書物よりも、頁が多くて紙が良くて、そして値段が安い(例せば『生命の實相』は平均四百二十頁で二百二十円である)そういう本を売って、そして人類光明化費を捻出するという案を建てたのであります。

誰でも、月に一冊の単行本と一冊の雑誌ぐらいは買うでしょう。しかもそれらの本や雑誌が必ずしも為になる本ではない。

 ところが吾々の薦める本は内容が素晴らしく為になる本で、読む人が救われ、読者の心の感動の結果、生理作用が整い、病気の治る実例までも頻出する。

 そういう良い本を売って、その収益を布教費用に充てて、講師の給料や、信徒の集会する建物の費用や、布教旅費、事務費、電燈代など、みんな、そこから出すことにしたいと計画し、終戦の前まではそれでやっておったのであります。

 ところが戦争が終わりますと、私は戦争中に愛国運動をやっていたというので追放になった。私が追放になりますと、思想や言論で追放になった者は、出版会社(特に大出版会社は公職という訳で)今の日本教文社に関係することが出来なかったのであります。

 追放者である私が、出版会社を支配するとか、支配権があるとかいう姿があらわれたら、私は執筆停止に命ぜられ、その団体は解散を命ぜられる、という事になっておったのであります。

 そうなると全然出版物も何も出せなくなり、人類光明化運動も何も出来なくなりますから、それで私はもう全然、生長の家教団にも関係しないし、その出版会社の収益を、教団の費用に循環させないという姿をハッキリさせるほか仕方がないことになったのであります。

 それですから私は今の生長の家教団の規則には全然関係がないことになっております。(これは私の追放中の講話である)現在の教団規則には教祖というものは居ない、私は市井の一居士であり、ただの思想家であり、執筆者に過ぎないのであります。

 教団には教主というものはありますけれども、教祖は無いし、法律上何の権利も資格もないことになっているのであります。教団資格には「教主の承認を得て‐‐云々」とあり、理事会で決めたのを教主の承認を得て、万事の事務、教務、宗務が遂行せられることになっております。

 こうして教団の組織の中には、教祖も教え親も創始者もおらん訳であります。それでも、やっぱり、谷口雅春は生長の家の創始者であるから、教団に勢力を及ぼしているに違いないと、当時の進駐軍はみていたので、

 私の勢力をもっているその教団へ出版という公職事業の利益というものを廻して、布教費にするという事になると、やっぱり間接に出版会社という公職を支配しているという事になるから、教団も出版会社も解散を命ぜられるという様な事になる訳で、

 終戦前まで出版の利益を回転することによって布教費を出していたのに、終戦後というものは、全然出版の収益を布教費の方へ廻されないという事になった訳であります。

 そこで出版収益から出る処の布教費が、教団の費用に廻らなくなったので、それで、どうしようかと考えまして、それ以来、私は南船北馬東奔西走して講習会を開き、その受講料によって、人類光明化の費用に充てることにしたのであります。

 それまでは、旅行嫌いの私は、講習会にはあまり地方へ行かなかったのであります。これは皆さん古い誌友の人は、御存知であります。一年の中、大阪または神戸へ一回か二回行った位のものであって、他地方へは滅多に講習になど行ったことはなかった。そして、暑中休暇とか正月とかだけは本部で講習をやっていたのであります。地方の誌友や信徒で、講習を受けたい人は、本部へ夏季休暇、又は正月休暇に、皆やって来るだけの事であったのであります。

 ところが、今申しました通り、出版の利益を循環させて、それで布教費をまかなうことが出来なくなったので、ほかに仕方がないから、一つこの布教費用を、私が何とかこしらえなければいかんという事で、ずーっと各地を巡講して歩くことに致しました。

 そしてその講習会の受講料は、全部教団本部に出しまして、これを諸般の本部費用にあてているのでありまして、決して私には一文も入れている訳ではないのであります。

 その頃の受講奉納金というのは、今みたいに三百円じゃありませんでしたけれども、最初は十円でしたが、段々貨幣価値が下がり、物価が上がるので、現在のようになったのであります。

 しかしそれだけでは、やっぱり教団の費用というものは足りない。運動が拡がれば拡がる程、誌友が殖えれば殖えるほど、郵税だけでも大変な額に上る。そのほか事務費も殖えるのです。

 大体赤坂の道場だけであれば、電燈の数だって少ないし、暖房装置も何もない。ストーブは講習会のときには焚くけれども、ふだんは皆さん寒くて慄えておっても、手あぶり火鉢ぐらいで、そんなに燃料の費用なんて要らなかったのです。

 しかし現在の原宿の本部のようなこういう大きな建物になると、電燈をつけてもつけないでも、電気の基本料金というのを沢山とられる。暖房の直接費用のほかに、専門の電気技師や機関士というものを雇用して置かなければならぬということが法律で定められているそうで、そのほか、色々な料金を方々からとられるのであります。

 そういう様な事になって来まして、私が地方へ講習にまわって、受講奉納金を集めて来ただけでは、到底人類光明化運動というものの財源が得られないという事になって来たのであります。

 すべての積極的運動というものには、その運動が拡大するにつれ、どうしても費用が拡大して来るのであります。

 共産党だってやっぱり運動費が要るので、ソ連からその費用が来るという説もありましたけれども、資金カンパというのをやっている。どんな思想運動でもやっぱり運動するのにはみな費用が要る。

 ある宗教では宗祖七百年遠忌の費用に三十億円計上したりしています。今迄それら費用をみんな僕が講習するとか本を書くとかで負担しておった――約二十年間はこうして私が負担しておったのです。これからでも、私だけで負担してやれん事はないけれども、それでは事務や宣伝の規模を縮少して、人類を救うために広く真理を急速に拡げる訳にはゆきません。どんなに努力しても、一人の肉体的な力や資金というものは限られている。

 そこで、この人類光明化の真理というものは、これは神様から知らして戴いて、私が実践してみたところが実際に効果があった。これはもう試験済みである。

 それを私だけの費用だけで弘めていたのでは、宣布の拡大力が減少して、早くひろく人類に普及することができないから、皆と協力してやろうというので、「人類光明化のパテントは、皆さんに譲った」という事にしたのであります。

 こうして皆さんは、此の人類光明化の此の「真理」の発明権を譲ってもらった訳であります。それで今後は私の独占事業ではなく、皆さんと一緒に、此の人類光明化運動は協同してやろうということになったのであります。

あの肥料効果促進の微生物農剤バクタモンの発明権でも、あれを宝蔵農産が譲ってもらったら、その発明権の使用料というのを、バクタモン一俵売る毎に幾円とかその発明家に納めることになっているという事をききましたけれども、私の方は人類光明化運動の発明権を皆さんに譲っても、それはただであります。

 その発明権をもって、皆さんが人類を幾人救われても、私に発明権使用料というのを支払わねばならぬということはないのであります。皆さんは此の人類を光明化するという運動をするところの一大事業の株主になられた訳であります。

 各人が自己の事業として、自らが応分の出資をして、自らの運動として此の「真理」を弘めるという事になれば、私一人の努力でさえもこんなに弘がったのだから、皆さんが私同様に弘めて下されば、谷口が何万人も一度に出て来て弘めるということになります。これなら此の真理は急速に弘まるにきまっていると思います。

 そういう訳でわたしは「生長の家の人類光明化運動のパテントは、皆さんに譲った」という宣言をし、布教の新体制が始まった訳であります。

 こうして此の運動が私個人のものではなく、皆さんのものになりますと、それによって救われる人の功徳、善因善果というものも皆さんに帰って来るということになります。従ってまた皆さんも人類光明化に要する費用の幾分を負担して頂くことになったのであります。

 さて、幾分の費用を負担して、人類光明化運動の皆さんが株主になられますと、株主には株主配当というものが来るのであります。

 もっとも人類光明化の「真理」を幾人に弘めたからと言って、皆さんがお納めになった聖使命菩薩としての会費の割戻が来るというのじゃないのであります。

 人類光明化運動に参加せられた株主たる聖使命菩薩に対しましては、もっと素晴らしい功徳が循環して返って来るのであります。最近までは私が主として功徳を積んでいたのですが、皆さんがそれを分担されることによって、その功徳が、皆さんにも及ぶのです。そこにも、幸福のための黄金律「与えよさらば与えられん」が真実であります。

 そういう後から来る功徳はさて置いて、皆さんの力に於いて、人類が光明化され、救われてゆくことを考えると、ただそれだけでも生き甲斐が感じられるではありませんか。

 今までは、「私の人類光明化運動」だったのが、今後は皆さんの出資と力に於いて人類が光明化されてゆくのですから、救われた人のその功徳というものが、皆さんの子々孫々に報いとして伝わります。

 これは天に積まれたる処の配当金でありまして、銀行に預けた遺産のように、遺産相続ごとに減って行くようなものではありません。それは皆さんのそして皆さんの子々孫々の魂の上に善根功徳として蓄えられるのであります。

 唯今数十万人ある聖使命菩薩がひとつ心になって、此の真理を弘めるということになりましたら、「天界の諸神真理のコーラスを雨ふらし」ということが実現して、これは素晴らしい事になるのであります。

最後に、皆さんが聖使命会に入会して、聖使命菩薩として会費を納めになるときの注意を申し上げて置きます。

 これは神に対して「真心」を捧げるその「真心」の具象化でありますから、唯機械的に納めるよりも、神様に祈って納める方がいいのであります。

 会費を納めると言っても、これは「心の問題」でありまして、形にまでもそれを現したい切実な真心が神に通ずるのであります。だから、この献金によって神様の人類光明化運動に私は参加しているのだという自覚を深めることが大切であります。

 だから、「オイこの金、振替で送っておけよ」と召使に言いつけて機械的に金を出さないで、献金とか聖使命会費とかは、「神様、あなたの運動に協力させて戴きます。どうぞ、この献金が、無駄に使われる事なしに、神様の人類光明化運動に使われます様に。協力させて頂くことを感謝致します。有難うございます」こう言って、お金を合掌の間に挟んで祈ってから、そのお金を送って貰うことにすべきものであります。

 この様にしますと、それは深き祈りとなって、同じ金額でも、その献金は一層効果的に人類を救うことが出来、功徳が多いのであります。

 これに反して、「私は金持ちだから、毎月納めるのは面倒だから、一遍に十万円納めて置こう」という訳で、その十万円を納める時は、敬虔な気持ちで祈りもしますし、功徳の思いも起りますけれども、それ以後、全然それを忘れてしまう。

 神との繋がりの観念を忘れてしまいますと、これは「心」の問題ですから、心の世界に「神との繋がり」が消え、功徳が少ないことになります。

 ですから、なるべく聖使命会費は月に一回は必ず祈って、心に次の如く唱えてですね、御送金になるのがよいのであります。「神様あなたの人類光明化運動に協力さして戴きます。どうぞこの献金があなた様の御心に叶いまして、正しく人類光明化運動に使われます様に、有難うございます」

 本当言うと、毎日十円でも二十円でも「献金封筒」というのをこしらえておいて、それに毎日幾らかずつ節約して、それを、右のように祈りながら、その「献金封筒」におさめ、それを月末にまとめて送金するとか、集金に来て下さる幹部の人にお渡しするとかなされば、毎日「神との繋がり」の自覚を新たにして、一層心の世界に福田をつむことになるのであります。

 そういうように神に献金するということは、神の人類光明化運動に私は協力させて頂いている。だから自分は神との連合体だという自覚を自分自身の潜在意識に植えつけるために必要なのであります。

 ですから、献金はその金額の量によるのではない。神と自分が協同生活をしているという自覚さえ出来ればよいのですから、貧者の一灯でもよいのであり、毎月もしくは、もっと度々の方が、今日も神に協力したという感じが起るので、一層良いのであります。

 毎日十円とか五円とか、皆さんが台所の経費を節約する。さて、今日は何をお菜に買おうかと思っていたのを、"今日はお魚を買ったら思ったより十円安かった。野菜も五円安かった"という様な時に、そうして残った十円、二十円を、あらかじめ封筒でも台所に用意して、その残金をその状袋に放り込んで、それを暫く合掌の中にはさんで、「神様これが神様の人類光明化運動に協力するその運動費になります様に。有難うございます。」こう祈ってから入れておくがよいのです。その合掌と祈りの中に、神と協力関係の自覚が御自分の潜在意識の中にできるのであります。

 ある宗教では、本部から「宝生袋」というのを配布して、毎日献金をすすめていますけれども、そういうものを本部から出すということは、信者を「形」で縛ることになりますから、生長の家ではしないのでありますが、皆さんが自発的に、古い状袋でもいいから、それを台所にでも神棚の傍らにでも置いて、随時に感謝報恩の気持ちの起ったときに、それに余った零細な金を祈って入れてゆくという事にせられると、

 毎月二百円位の聖使命会費は自然に浮いて来ますし、何事も心の世界なんですから、それを出すとき、封筒に入れる時の心の浄まる感じで、功徳のある無いが決まるのであります。必ずしも奉納金出したとて、その出す心如何では功徳はないのであります。

「あんなに役目の人が勧めに来やがるものだから、断りきれないからイヤだが出してやれ」そう思って、感謝の気持も神につながる気持ちもなしに出した奉納金では、その出した金はたとい大金であっても、功徳は違うのであります。

 こういう感謝のない、祈りのない神への協力と一体感とのない出し方では功徳がないという事が判ったら、折角お出しになる金を、そのお出しになる時に、祈りの気持を深めてお出しになったら、功徳が多いということは当然の事であります。

さて、「新天新地の神示」のつづきであります。

  「『生長の家の神』と仮に呼ばしてあるが、『七つの点燈者』と呼んでも好い。七つの教えとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教えで新しき生命を得るのだ。わが教えはどんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。教えの太宗(もと)であるから宗教と云うのである。」

 七つの教えというのは、すでに説明致しました通り、七つは「完成」の数で、すべてを表すのであります。「燈台」というのは、「世を照らす光」即ち宗教であります。「七つの燈台」で「すべての世を照らす光となる宗教」という意味であり、智慧の光によって、迷いの闇を消してしまうところの教えであるということであります。

 イスラエルの十二の分派(わかれ)とありますが、イスラエルっていうのは、五十鈴の川の流れという意味であります。

「いすす」というのは、五十(いす)の鈴の音、即ちアイウエオ・アカサタナ・ハマヤラワ‐‐の五十音によって、全ての言葉のヒビキが代表されますが、神はコトバであり、五十音の展開が万物であり、その万物が「統(す)」によって統一せられる、それを五十鈴というのであります。

 伊勢大神宮の境内に流れている川があります。それを五十鈴川と申しますのは、宇宙の万物を統一する大神をお祀りしてあるのが、伊勢大廟であるからです。

 ※「イスズ」の「ズ」は濁音ではなく、「スス」という重音です。

  日本の神社神社にお祀りしてある神々は、伊勢の大神宮ほか二、三を除いては、ほとんどすべてが人間の霊魂でありますが、伊勢の大神宮には、宇宙の万物を統一する天照大神をお祀りしてあります。

 天というのは「天球(あま)」であって宇宙全体であります。「天球」即ち「宇宙全体」を照らしている大神という意味で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と申し上げます。宇宙本源の神様が仮りに応化して、伊邪那岐大神よりお生まれになった方が、天照大神であられるわけであります。

 神仏混淆時代に伊勢大神宮の奥院に、阿弥陀仏が祀ってあったという考証を誰かがしていられたのを読んだことがありますが、本当にそんな事があったとしても、別に不思議ではありません。

 阿弥陀とは、盡十方世界遍照、盡十方に満つる無礙光という意味でありますから、天照大神という意味と同じ意味であります。

 それを仏教では盡十方無礙光如来と申し上げ、別の名称を、大日如来と呼び奉るのでありまして、十方世界に充ち満ちておられるところの神様であり、仏様であり、「天球」に充ち満ちてそれを照らしたまうところの大神であります。

 そこから五十鈴の流れ、五十音の言葉の流れが展開して、万物が成る(鳴る)のであります。

 これを象徴して伊勢大廟には、五十の鈴が宝蔵されているということを承ったことがありまが、私はまだ拝観したことはありません。

 そこには鈴の言霊(ことたま)が五十音ある。その五十を統べるスの音が鈴(スス)であります。

 ここから五十鈴(イスス)の川の流れが出て十二に分かれ、そしてこれがすべての諸国の民族の本源となったというのであります。だから、イスラエルの十二の支流(わかれ)というのは、五十鈴の流れから発して、世界各民族となったすべての人類という意味です。

『万葉集の謎」という本が出ている。そしてベスト・セラーになっているのでありますが、言語の類似から研究して、日本人は、今ヒマラヤの奥地に残っているレプチャ民族という未開民族の子孫であると言っているのでありますけれども、ああいう言葉の類似というものは、至る所にあるのでありまして、必ずしも万葉集の言葉とレプチャ民族の言葉だけではないのであります。

 大体言葉というものは宇宙に充ち満ちていて、それが事物の相に応じて自然発生するものであります。聖書にある「太初(はじめ)にコトバあり。コトバは神なりき」のあの言葉のヒビキが事物となって現れている。それを表現するのに、人間は自然に発生する言語をもってするのであります。言は事であって、すべてのものは事であり言である。言事不二(ごんじふじ)であります。英語でも神様のことをゴドと言う。

 『万葉集の謎』にはもっと似ていない言語を類似していると指摘して、レプチャ語は万葉集時代の日本語だと結論を下しているのでありますが、この程度の類似を持って来て、同語源だという証明をしようと思えば、レプチャ語をもって来なくても、イギリス語でも日本語と語源は同じだと言うこともできるのであります。

 英語の単語と日本語の単語の類似は『生長の家』誌二月号(昭和三十一年)の明窓浄机に書いて置きましたけれども、これはレプチャ語や英語だけの問題じゃなく、「世界の言語は悉く一つであった」ということが旧約聖書に書かれております。

 言語は事物の内的意義や状態を表現するために、自然に発したものでありますから、共通の発音に共通の意義をもっていたのであります。

 ところがバベルの塔というのを人類がこしらえて、それを高く築いて、ついには天までとどかせるのだといって、高く高く塔を築いていったのであります。

 そうしたら神様は怒りたまうて、人間の我の能力(ちから)によってはどうしても神に到達することは出来ないということの象徴として、そのバベルの塔を壊して、民族を諸方へ散らしたまうた。そしてその時まで、言葉も一つであったと旧約聖書には書かれているのであります。

 世界は最初一民族・一言語であったのが、神によって四散せしめられて、それが十二の民族となって岐(わか)れたのであります。

十二と言っても、十、十一、十二、十三という実数ではないのであります。七つと言い、十二と言い、すべて一周期の完成を指すのであります。

 七つは既に申しましたが、十二は十二ヶ月とか一ダースとか十二吋(インチ)が一呎(フィート)とかいう風に、一つの数が完成して、上位にうつる節であります。

 だから「十二の支流(わかれ)」というのは、すべての分派した人種という意味であります。

 大体事物の発展というものは、三と五と七との倍数が節になって発展することになっています。それで七・五・三を人間生育の節としてお祝いするのであります。

 何でも人間が厄年としてお祝いをするというときは、一つの節になっているときであります。周期の代り目を厄年として祝うのであります。

 十二というのは五と七の和でありまして、一年を十二ヶ月というようにしたり、一フィートが十二インチであるとかいう風にして、一段落を示すのであります。

 わたしたちの厄年も、七・五・三の倍数になっているのであります。女の人は三十九歳が大厄年であると言い、男の人は四十二が大厄年だと言い、あるいは還暦の祝いは満六十歳でやる。やっぱり三の倍数であります。つまりこれらの年は三・五・七の倍数によって展開して行くところの節の年になっているのであります。

 それは兎も角、同じ言語や同じ地名がレプチャ族にもあるから、日本人の祖先はレプチャ人だという結論は成り立たないのであります。

 嘗て木村鷹太郎という人が、天孫降臨の記録にある日本地名とおんなじ地名がギリシャにあるというので、ズーッとその地名を並べまして、日本民族はギリシャ民族である、「タカアマハラはギリシャにある」という説を立てて、『大日本太古史』という分厚い上下二冊の書物をあらわされたこともあります。

 人類の本源はすべて一つの神から発生したのですから、レプチャ民族も日本民族も、本源は同じだと言ってもかまわぬけれども、『万葉集の謎』という本がよくないのは、

 日本民族の祖先はレプチャ民族 だといって、未開のレプチャ民族の子孫だと幾分日本民族軽蔑の意味を含めていうところに、近頃流行の日本蔑視自己侮辱の弊害に引っかかっているというのであります。日本語とレプチャ語が似ているなら、日本民族はレプチャ民族 の祖先だ、と言った方がいいと思うのであります。

 小谷部という人の研究を読んだことがありますが、これはまた別の説を立てています。

 この人は、ユダヤ人は日本民族であるという説なのであります。ユダヤ人の風俗、言語、習慣などの日本人と似ていることを列記して、イスラエル民族は日本民族である。それが十二に分かれて、諸方に散ったというのであります。

 これはバベルの塔が壊されて、諸方へ民族が散ったという旧約聖書の記録にも当て嵌まる訳でありますが、その十二の民族のうちの一番すぐれた民族が、東方へやって来たガド族という民族であったというのです。

 そのがド族が日本の九州に上陸して、日本の国を建てた。それがミガド民族であるというのであります。ミは「御(み)」で美称であって、ガド族を尊称してミガド族になったというので、旧約聖書にあるイスラエルの再建ということは、日本民族の再建を意味するという風に、日本民族の優秀性を説くためにそういう説を立てた人もあるのであります。

 兎も角イスラエルというのは、コトバが神であり、万物これによって成り、人類もこれによって成ったが、コトバは「五十鈴」即ち五十音に展開し、

 それがイスラエル即ち五十鈴の川の流れであり、それが十二の分派となり、すべての民族と別れたが、凡ての民族が此の教えによって救われるのである、とそういう意味が、この神示に示されているのであります。

 別にどの民族が祖先であり、優秀であるという必要もないのであって、すべての民族がこの教えによって、救われるのであります。 

「新天新地の神示」御講義 《完》





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