[930] 【大調和の神示】 |
- 輪読会 - 2014年08月03日 (日) 08時49分
「大調和の神示」
汝ら天地一切のものと和解せよ。 天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。 天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。 汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。 われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。 汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。 神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。 天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。 本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。 怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。 感謝し合ったとき本当の和解が成立する。 神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。 天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救の念波を能(よ)う受けぬ。 皇恩に感謝せよ。 汝の父母に感謝せよ。 汝の夫または妻に感謝せよ。 汝の子に感謝せよ。 汝の召使に感謝せよ。 一切の人々に感謝せよ。 天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。 その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。 われは全ての総(すべ)てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。 われは此処に見よ、彼処(かしこ)に見よと云うが如くにはいないのである。 だからわれは霊媒には憑(かか)らぬ。 神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。 われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。 われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処(そこ)にわれは顕れる。 (昭和六年九月二十七日夜神示)
《 講 義 》
汝ら天地一切のものと和解せよ。 天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。 天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。 汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。 われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。 汝らの兄弟のうち‐‐‐‐本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。 怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。 感謝し合ったとき本当の和解が成立する。 神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
「感謝という美徳はあらゆる美徳のうちで最高の座に置かるべきものである。ただ愛のみはその上の座に就くものである」とリチャード・ヒューウィット氏は言っています。 しかし私の考えでは、感謝も愛がなければ本尊のない立派な伽藍堂の如しと言いたいのであります。飛田給の練成道場へ来て、皆が合掌して修行者を迎えてくれる。最初はそれを滑稽そうに思う人もあれば、"あれは狂人(きちがい)の集りだろうか、自分は瘋癲(ふうてん)病院に来たのであろうか"などと考える人もあるが、
そのうちに全体の雰囲気に感化せられて、一緒に合掌するようになったり、そうした雰囲気の中にいることが天国浄土にいるような気持になる人もあるのであります。そして合掌し合掌されているうちに病気の治る人もあり、ヒロポンや麻薬の中毒が治って注射の悪癖から離脱する人もあるのであります。
しかしこの合掌を形だけ真似てみて、その形だけを形にあらわしていて、実際に感謝の意を心に持たない場合には、その合掌は虚礼であり虚飾になるのであります。
そもそも此の生長の家の合掌行持は、感謝と尊敬と愛情とから来る自然発生的なものであって、人為的にそのような行持を定めたのではないのであります。
それは私が地方へ講演又は講習に行ったとき講壇に立って「皆さま、よくいらっしゃいました。有りがとうございます」と合掌して御礼を申上げてから話す習慣になっていた。
それは感謝の念の自然的表現としての合掌礼拝であったのである。名古屋の公会堂で、私がそう言って合掌してお辞儀をしたときに「あのお辞儀の仕様がよいから、それで生長の家のすべてはわかった」と言って入信した人もありました。
或る晩、私は大阪難波の駅に立って、ハッキリとは覚えていないが、多分高野山の講習会へ行く途中であったと思う。大勢の信徒に見送られながら、私は電車の中に入って行って、手を掉(ふ)る人、お辞儀をする人、懐かしそうな愛情のこもった眼つきでジッと私を見詰めている人、今逢ったばかりなのにもうこの電車が動き出したら別れねばならないかとじっと目に涙をためて見送る人‐‐こういう愛情と尊敬と感激の洪水に迎えられ見送れられている私は、もう感謝と感激との念で一杯になって、此処でも私は自然に合掌して「ありがとうございます」と言いながら、見送るすべての人々に眼で黙礼していたのでした。
すると、突然、一人の菜っ葉服を着た労働者風の男が、 「あなたは谷口先生じゃありませんか?」と言った。 「ええ、谷口です。」 「ええ、そうですね。私は中の島の中央公会堂で先生の講演会をきいたことがあります。その時、先生は演壇に立って聴衆に向かって合掌なさいました。その合掌と同じ合掌を私は今見たので、ああ、あの時の谷口先生だとわかったのです。
あれから後、私はある事情で刑務所へ往っていました。そして最近、帰って来たのです。そしてどうして生活しようかと思いまどっていたところです。そしたら今その先生の合掌を見て、これで生きよう、これが本当の生活だと気がついたのです。
先生、私は先生の合掌で救われました。先生、私に先生の手を握らせて下さい。握手して下さい。私は先生の合掌で救われたのですから、先生の手を握って、その感触の記憶を永久に持ち続けて生活して行きたいのです。」
一句々々の言葉は覚えていないが、こういう意味のことを切実な調子で言って、その労働者風の男は私に手を差し出した。私は合掌していた手をほどいて、その男の手を握った。
私はその時どういうものかドストイェフスキーの小説の中に出てくるアリョーシャという宗教的な青年のことを思い出した。しばらく握手したままでいた。その男は涙ぐんでいた。 「この人は救われたのだ。よかった!」と私は思った。私の眼の中が熱くなるのを感じた。
この時の話はずっと以前『生長の家』誌の何月号かに「合掌の権威」として書いたことがあるのです。また講演の時に話したこともあります。
この出来事は戦前のことでありましたが、その後も私は、講演会場や、停車場の送迎の信者たちの挨拶にこたえるために「合掌」と「ありがとうございます」をつづけていたのでした。
戦争が終わってから二年目でしたか、今飛田給の道場になっている建物を買うことになりました。最初あの建物は、道場にするよりも無痛分娩産院にするつもりだったのであります。
というのは日本の敗戦の結果、占領軍の上陸となり、色々と性問題が複雑になり、その結果、眼の色や、皮膚の色や、頭髪の色の種々雑多な子供が生まれることになり、それを恥じたり、出産後の足手まといになることを恐れたりして、胎児を闇から闇へ葬る例が非常に多くなったのであります。
人工流産又は堕胎の罪悪について及び母性保護の上からの諸問題についても、色々に論じられているのでありますが、兎も角、既に胎内に宿っている生きた人間(胎児)を殺して出すということは、殺人の罪を犯すものであるということは明らかでありますので、
私は「妊娠して困っている人は、堕胎するまでに生長の家へ来たれ、無痛分娩をさせて、あとの胎児の養育は引き受ける」という新聞広告をして、堕胎される筈の子供を助けようと思ったので、そのための産院として、飛田給の建物を経営するつもりだった。
それには産婦人科の医学博士で、元満州興安病院の副院長をしていられた徳久克己さんが、郷里の高知市に帰って、開業していられるのを抜擢して、飛田給無痛分娩産院の院長になって貰うことの承諾を得ていたのである。
その頃私は飛田給道場を購入する費用を得るために、四国全土をこまかく講習旅行をしていた。愛媛県だけでも川之江、今治、新居浜、宇和島と四個所を巡講していた。その頃小永井(あきら)君が私の随行者になっていたが、新居浜のある誌友の宅にとめて頂いたとき、その夕方小永井君は、
「午後六時から誌友会がありますので、先生よりお先に夕食を頂きます」 こう言って次の間で、その家の御主人と一緒に食事をしていた。午後六時は夙(と)うにすんでしまったけれども、一向食事が終った様子はないのである。
そのうちに私は上廁(じょうし)したくなったので、隔ての襖をひらいて便所に行こうとすると、次の部屋で小永井君は御主人と一緒にすこぶるご上機嫌で、杯を重ねているのである。その頃は終戦の直後で、建築面積に統制があって、出来るだけ建物を制限しなければならなかったので、廊下なしで次の部屋を通って便所に行くような部屋の設計になっていたのである。
「君、誌友会へ行かねばならぬ時間だよ」と私は言った。そして、私は自分の部屋へ帰って来た。 私はこれは誠に困ったことだが、どうしたら好いかと考えた。次の日の講習会は、川之江であった。
私は川之江へ着くと、一通の本部宛の手紙を書いた。何か要件を書いたのだけれども、別に小永井君の飲酒の問題に触れた内容のものではなかった。
誌友の饗応にのせられて、旅行先で時間を狂わしてしまうようでは、小永井君が私の随行者としては不適当であることは明らかである。私は小永井君の名誉を傷つけないで、そして私の随行からはずしてしまおうと考えて、その本部宛の手紙を小永井君に渡して、 「君、急に本部に要事が出来たから、この手紙をもって本部へ行って、××さんに渡して下さい。大急ぎだから、今晩の夜行で――」と言った。そして「これから先の随行は高知の徳久さんに頼むことにする」とつけ加えたのでした。
川之江の次の旅程は、徳久博士の住地であり郷里である高知だったのです。徳久博士は満州からの帰還後、医師開業の傍(かたわ)ら、毎週一回は講演会を開くことにし、その宣伝用ハガキを自費で発送し、弘光君と一緒に『精神科学』という雑誌を発行したりして、光明思想の宣布に、火の玉のような熱をもって尽しておられたので、
戦災を蒙(こうむ)って誌友がチリチリバラバラになっていた高知市にも、新しい誌友が増加し、また古い信徒も集まって来、その時、私が海草中学で講演会をひらいたときには、約千三百名の聴衆が、あの広い講堂を埋めたことでありました。
高知の講習会が終ると、私は徳久博士を随行者として諸方をまわって約九日間、同氏と生活を共にしたのでありましたが、その時の私の生活の雰囲気から、徳久博士は「合掌」というものを体得されたのでした。
その頃戦災を蒙った多くの都市では、水も燃料も不便で、雪の降るある街で誌友の宿に泊まったときには、畳三分の一畳ほどの湯船に、ぬるい湯が底に少し残っているのを、合掌してジッと拝んで私は入浴したものでした。
徳久博士はそのとき上京して来て、飛田給の建物を実地に見、いよいよそこに移り住むことになられてから、私の最初の案の通り、無痛分娩産院をつくるべく、占領軍の総司令部に交渉したが、係りのアメリカ大尉である女医は「宗教による無痛分娩アイ・ドン・ノー」と言って許可しなかった。宗教は宗教である。医術は医術である。それを混同してはならないという意味のようであった。
徳久博士が、お産は、心の持ち方で無痛になる、ということをいくら説明しても、それは受け容れられなかったのである。それで結局、人工流産児救護の無痛分娩産院創設の私の計画は頓挫したのであります。
その結果、成人を「神の子」として新生させる飛田給練成道場ができ上がった。そして徳久博士が主導者となって、私に博士が随行した時の合掌の雰囲気を練成修行の行持にとり入れて、現在の練成員の合掌感謝行がはじまったのであります。
その後、生長の家が全国的組織のある信徒百万を超える愛国宗教団体であるから、もしか、全国的に反米闘争に決起でもするおそれがあるといかぬというので、きびしい調査が行われ、合掌はその秘密結社のメンバーが、相互に同志であることを表示する合図であると認めて、内偵中であるという情報があるから、
合掌をやめたらどうだという伺いがあったが、「そのうちに真相がわかるから止めないで、やりなさい」と、私は断じて合掌感謝を継続させることにしたのでした。
そのような釋(わけ)で、合掌感謝行は単なる形式的行事ではないのでありまして、心の中に本当の感謝が湧きおこることが大切であります。
感謝の感情が自然に湧き出でて、私の合掌と「ありがとうございます」の感謝の言葉が出て来たのでありますが、心身相関の理によりまして、笑えば「おかしくなる」と同じように、本当に感謝の格好をして合掌し、感謝の表情をつとめてして「ありがとうございます」と言葉で唱えていると、実際心の中にも、「ありがたい感謝の念」が湧き出て来るのであります。
しかし、そうした「合掌」と「感謝語」の形式からのみで感謝に入るのでは、どうしても付焼刃の感謝になりがちであります。
そこで形式から入るほかに、真に吾々が感謝すべき無数のものにとりまかれているということを読書、又は講演、座談等によって知らせることが必要なのであります。
そこで、講師は吾々を取りまいているすべての事物が、吾々自身製造したものでもないのに、ふんだんに与えられている事実を指摘してそれに感謝するように誘導するのであります。
吾々は五分間も呼吸しなかったら死んでしまう空気を無限に与えられています。日光がなかったら生活できないのに、日光が与えられています。
視力がなかったら、吾々はどんなに不便だか知れないのに、色を視、形を視る力を与えられています。単に視る力だけではなく、美を感じ、美を味わう力を与えられています。
自分の今着ている衣服は、その生地も繊維も、自分で造ったものでもないのに、それによって寒暑に適応することができ、皮膚を保護することができます。
水は自分たちの生活に一日でも欠くことのできないものでありますのに、ふんだんに湯水を使うことができるのであります。
色々の不自由もありましょうけれども、吾々はその不自由を数え上げて、心に不平の感情を起すよりも、既に与えられ、既に受けている、恵みを思い起こして感謝するようにしたならば、その方が心が楽しいではありませんか。
光と闇とがある場合、闇の方に殊更(ことさら)に向いて、「暗い、暗い」と不平を言うよりも、明るい方へ振り向いて、「何と輝かしい世界だろう」と感謝し讃嘆する方が、心が愉(たの)しく生活が愉快になるではありませんか。
こうして心の中に感謝すべき内容を充分思い浮かべて、その感謝の内容の表現として、「合掌」して「感謝語」をとなえるとき、その「合掌」がその感謝の言葉が生きて来るのであります。
あなたが合掌して感謝の言葉をとなえて人生の行路を進むとき、どんな荊蕀(けいきょく)も切りひらかれ、隘路(あいろ)は広い大道となり、調和があなたを取り巻いてくれるのであります。そこにあなたを信頼する人があらわれ、反感をもっていた人も味方となり、讃嘆者となり、協力者となって下さるのであります。
先年、私が上諏訪に講習に往ったときのことであります。私が泊めていただいた誌友のお宅には、浴場の設備がありませんでしたので、その誌友の知人の、その市(まち)でのある方面の親分の邸宅にある、邸内温泉に案内して貰ったのであります。
あとで聞いてみると、その親分は、生長の家の誌友ではない。「自分の友達が、銭湯へ案内しないで、特別に自分の家の温泉に案内して来る生長の家の先生というヤツは、一体どんなヤツだろう、一遍見てやろう」という気持ちになっていたのであります。
私が浴場に入ってある時間がたつと、急に浴場が静かになったまま暫くその静けさが続いているので、一体何をしているのだろうと、その親分は思って、浴場の扉の隙間から覗いてみたのであります。
するとその親分の目に、私が入浴を終って、身体を拭ってから、湯船の方へ向かって、ジッと敬虔な態度で、拝んでいる姿が映ったのであります。ニ、三分間もジッと拝んでいる‐‐‐その敬虔な感謝のすがたにその親分は心を打たれたのであります。
今まで、生長の家に対していだいていた反感がスーと消えました。そして生長の家は立派なものだ、この教えのためには、一肌脱いでも好いというような気がして来たというのであります。
人に見られようと思ってする感謝合掌、形だけを真似てみる感謝合掌、それだけで人の心を打つことはできません。本当に感謝する心になって合掌して「ありがとうございます 」と唱えるとき、そこに無限の功徳があらわれるのであります。
生長の家の発祥と同時に発表した「七つの光明宣言」というのがあります。その第一項に、「我らは宗派を超越し、生命を礼拝し、生命の法則に随順して生活せんことを期す」と書かれております。
生長の家はこの「生命の礼拝」即ち生命を拝むということから出発したので、その行事も生命を拝むことが、中心になっているわけであります。
現在、練成道場になっております東京都調布市飛田給の、あの建物を買いましたとき、子供の生命を拝むことを実践するために、戦後の風紀の頽廃から妊娠した場合、その多くは堕落してしまう。
そのような堕胎して流さんならん子供を救けなければいかん、ということから出発 したわけなんですけれども、ついにそんな無痛分娩産院は占領軍の民生部で許可にならないので、ついに現在の如き練成道場にしたのだということは既に述べたとおりであります。
神様は、そんな赤ん坊を育てたとて、なかなか大人にするまでは時間もかかり大変だから、もう既に大人になった人たちを一遍に「神の子」に生まれ更らせた方が早くて能率がよいではないか、その方が人数の点からいっても、沢山できる、人口に比例して光明化された人数が多くなれば、それだけ世界は早くよくなる、とでもお考えになったのか、自然に飛田給の練成道場ができることになったのであります。
生命を礼拝するのは心で拝んでおったらよいじゃないか、何も手を合わさなければならぬことはないじゃないか、と考える人もありましょうが、本当に礼拝する心になれば、自然に肉体も、礼拝の形をとるのであります。また礼拝の形をして合掌しますと、自然に有難い気持ちもわいて来ます。
こうして生長の家の練成道場における感謝合掌の行持というものは始まることになったのであります。もっとも感謝して合掌して、神想観中に人間の実相を観る、ということは終始一貫変わらざるところのものでありますけれども、
これが飛田給の練成道場へ行きますと、皆職員の人たちや練成に来られた人たちが、道場の入口の所で入って来る人に対して「有難うございます、有難うございます」とやっているのであります。
すると初めて道場へ来た人はびっくりするんですね。「これは瘋癲病院かしら。みんな気狂いが集っているらしい」などと思う人も中にはあるらしいけれども、やがて道場や宿泊室でみんなの中に交わっておりますと、互いに拝み拝まれるうちに、自分の内に宿っている処の「キリストなるもの」内在の基督(キリスト)――内在の仏性が現われてまいりまして、
「有難うございます、有難うございます」という言葉の力によって、ヒロポン中毒も治るし、親不孝も治る、そしてその人に宿っている素晴らしい善さが出てくることになるのであります。
飛田給の道場に「祈りの間」というものがあります。宇治の修練道場にも最近「祈りの間」ができましたが、そうした「祈りの間」という密室で祈る事は、集団で祈る事とはまた別な、神と二人きりの対座が体験されるのであります。
いつでしたか、こういう人がありました。体格の良い青年で、大垣から飛田給の練成道場へやって来たのです。苗字は忘れましたが、何とかヒロシといった。全部の名前を言わん方が宜しい。
というのは、それはお父さんが妾を三人も持っていた、それで名前が判ると、その人の名誉を傷つけることになるというので、神様はフル・ネームを忘れさせたのでありましょう。
そのヒロシ君がやって来て、「自分のお父さんが妾を三人もこしらえている、そういう訳で僕はお父さんを憎んでいるんですよ。このお父さんの生活をよくするにはどうしたら好いんですか」ときいた。
「お父さんの姿は、息子の君の心の相(すがた)が形に現われているんだよ」という事を、その相談を受けた練成道場の徳久博士が教えたのであります。
「だから君が祈りの間で一心不乱に、お父さんが神の子なる相を拝んで、そしておれば治るんだ。家に帰ってからも、お父さんを拝んで、そして実相の完全な相をズーッと拝んだら治るんだ」という事を教えられたのです。
それでヒロシ君は十日間「祈りの間」で一心に父の実相の完全な相があらわれますようにと祈った。それから練成が終りまして、郷里の大垣に帰って、父の放蕩(ほうとう)が治っているかと思って見ると、豈圖(あにはか)らんや少しも治っていないのです。
それから暫くしまして、ヒロシ君はまたニ度目の練成を受けるために飛田給にやって来た。そして徳久先生に「僕はお父さんの実相の完全な姿が現われますようにと祈ったけれども、一向に治っていないのですが、どうしたら治るでしょうか」と言って、もう一度きいたのです。
すると徳久博士は、「それは、お父さんが悪いから治してやろう、と思って、悪をみて拝んでいるから治らんのである」という事を言われました。
「父を悪い悪いと思って、"拝む"という方便を使って治してやろうと思って、それで拝んでいるのでは、これは駄目なんですよ。お前をよくしてやろうということは、お前は悪いということを信じることなんですから、信じたら、信じた通りに現われるのが心の法則です。
だから、"お前は悪いんだ"と念じていると、いくら形では拝んでおっても、心の底では"お前は悪いんだ"ということを念じていることになる。
そして合掌して神想観するのは、本当に相手を尊敬して拝んでいるのではなくて、よくなる手段だと考えてやっている。
お前は”悪い”から”良く”してやろうと、そんな二元的な考え方がいかん。"悪い"という心と、"良くしてやろう"という心と二つの相反する心が相撲を取っておったのでは良くならんですよ」と言われたのであります。
これは病気の場合でも同じことであります。お前は大病だから治してあげよう、と思って思念をするとなかなか治らんのであります。
生長の家の説く所は病気はないんだ、ということであります。キリストが病気を治されたのでも、「お前の病気は重いから治してやるゾ」と言われた事はないのであります。
「汝の床をとり上げて、歩め」という様な式であります。ただ一言「起きよ」と言われる。手の動かぬ人には、「手を伸べよ」と言われる。
イエスは少しも病気の病の字も言われなかったのであります。ラザロが死んで四日たっておっても、「死せるに非ず眠れるなり、起きよ」と言われた。
「ラザロは死んでいるから、生き返らせよう」というんではなかったのです。また、これは大病だから、治してやろうというのでもなかったのです。
病気を見ず、死を見ず、もう一直線に、ひたむきに病気なしの健康の姿を、実相を直視する眼でシューッと観る。そうすると健康の姿がシューッと出てくるのです。
ところが、こう話を聞いているときは"なるほど"と解るのでありますけれども、現実に病気が現われてくるとやっぱり、相当、生長の家の信徒になって古い人でも、病気もあるように思えてくる。
それでそれを何とか治そうと思うのですけれども、"病気がある""自分は重い病気に罹っている"と心で病気をつかむものですから、なかなか治らないのです。
そこで生長の家では、"現象なし"というのであります。現われている象(かたち)を「ある」と思ってはいけない。
本当にあるものは唯"実相"(実の相・すがた)だけであって、現われているのは仮の相だ。仮の相はニセモノで、ウソの相で、本当に「ある」のではない。
本当にあるのでないものは、幾ら現われていても、絶対「ない」んだから、無いものは唯"無い"でよろしいんだ。
それを遠回しにいろいろ説明せねばならぬことはない。そんなものはない。悪い病気も、放蕩の親爺もいくらあるように見えても、そんなものは絶対無い、無いものをアルと掴むからいかぬ。
この事は『あなたは自分で治せる』という本に、般若心経の講義で"色即是空"の話をしたところに、「無い」の詳しい説明があるから読んで頂きたい。
そこで話は元へかえるが、ヒロシ君の親爺がお妾三人拵えている。というのは現象で、実相ではそんな放蕩の親爺は「ない」のであって、実に立派な一夫一婦の品行方正のそして子供に対して、実に深切な、慈愛深い親爺が実在するのです。
それが親の実相である。実の相なんだ。その実相を見ないで、自家(うち)の親爺は悪い、悪いとみなが言う。そしてみんなが「悪い」と、そう思っている。
皆が悪い悪いと言うから、親爺は寂しくなって、どこかに愛情を求めねばならぬという事になる。だから悪いという相を見たら可(い)かんのであります。
それで"祈りの間"に行って、あの憎んでいる人、恨んでいる人と和解する神想観をしなさい――こうヒロシ君は徳久博士に言われて、"憎んでいる人と和解する"時に念ずる言葉を教えられたのであります。
『希望実現の鍵」という本には、いろいろな場合にどういう風な言葉を念じたらよいかということが書いてありますが、これはその中の一つであります。
眼をつむりまして、眼の裏に、相手の姿を思い浮かべて、名前を唱えてその相手を呼び出す気持ちになります。そうして、こう念ずるのです。
「私はあなたを赦(ゆる)しました。貴方も私を赦しました。貴方と私とは神に於いて一体でございます。私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。私と貴方は神に於いて一体であります。私は貴方に感謝しております。貴方も私に感謝しております。貴方と私は神に於いて一体であります。有難うございます。有難うございます。
こう一通り念じましたら、また始めに返って、「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。‐‐‐‐」こう繰り返して、一回二十分ばかり念じます。
その念ずるときには、眼の前にその人が居られるかの如くに、精神を統一して、相手を赦し、相手と既に愛し合って、相手と既に感謝し合っているその相を、一心に思い浮かべるのであります。
二度目の練成に来たヒロシ君は、徳久博士に教えられた通りに、飛田給の祈りの間で祈られたのであります。それから練成の期間が終って、ヒロシ君は大垣に帰って来ました。
「お父さん只今帰って参りました」 するとお父さんが「お前そこへ坐れ」と言います。「そこ」というのは、床の間の上座の所で、何でもよいからそこへ坐れと言われるのです。それでヒロシ君は床の間の正面の所にお客様みたいに坐りました。
すると、お父さんが、ずーっと下座に行って手をつかれた。そして息子に平身低頭して「ヒロシッ、わしが悪かった。みんな私(わし)の心得違いだった。ゆるしてくれ。これからすべてを改める」と言って、涙をはらはらと流して、お父さんが息子にお詫びをしたのです。そうして三人のお妾は全部解消したのでした。――
こういう体験談を私が大垣に講演会に行ったときに、ヒロシ君自身が皆さんの前で話されたのです。これによって観ますと、"一人出家すれば九族天に生まる"という仏典の言葉は事実であります。
無論それは現象的には、親爺も悪かったかもしれません。けれども、一人出家すればーー一人(ひとり)出家すると言っても頭を剃る事でも、家出をするという訳でもない。自分一人の仏性が現れるー―"仏なるもの"が現れる。
"神なるもの"が現れる、そして、本当に全ての人が神の子であり、仏の命の現成である事が判って、それを深く身に体して実現する心境になったならば、その一人の属する家族全部が、よくなるのであります。
それは治療法でも何でもない。無論、病気治しでもない。これこそ本当の宗教の、宗教的体験とでもいうものであります。古(いにしえ)の聖者が世界のすべての人類のうち唯一人でも苦しんでいるものがあるならば、それは私の責任だと言われたのもそれであります。
最近『生命の尊重』という題の本をお出しになった小牧實秀君の結婚話を大津の薬剤師の方から承ったのでありますが、私は一遍だけあの方にお目にかかった。京都の石川さんのお宅に訪問して来られたのでした。
小牧さんのお父さんは偉い学校の先生をしておられて、息子の實秀さんが生長の家を信ずるという事に、その頃は大反対をしておられた。何でも父には内証で僕に会いに来られたのだと覚えています。
そのとき小牧青年の姿を見ると、実に貧弱な体格をしておられた。一見カルシューム不足の痩せ細った体をした青年だったのです。
そんな青年にどうしてそんな立派な良いお嫁さんができたかと思うのでありますけれども、それは、全く拝む力だと私は思うのであります。
人間の価値は体格や形では計られない。この人は本当に万物を拝んでいる。そして菜食主義者である。菜食主義といっても、単に主義という様なものではない。生命を本当に礼拝するという意味での徹底的に不殺生を行じている聖者である。
普通ならああいうカルシューム不足の体格をしておられる場合、カルシュームがうまく体内に同化するにはビタミンDやリンなども要るから、絶対菜食では都合が悪い。やっぱり魚なども食べなければならぬ。また色々の必須アミノ酸も要るであろうから、動物性の良質の蛋白質を摂取しなければならぬと考えられるのは、小牧さんの父母ならぬとも常識的に考えられる状態だったのですけれども、
小牧さんはそういう栄養を欲せず真剣に、全く真剣ですよ。殺生をしなければ生きられないなら、生きなくとも好いという位の真剣さで菜食を実行して健康になられた。
自分の健康を欲して健康になられた、というのではなくて、生命を拝んで、生命を尊重して、そういう貧弱の身体を捨て身になって、ただ自分の理想を生きて来られたのです。
小牧さんに私がお眼にかかったのは十年も前ですから、今はどんな体格になっておられるか知らんけれども、その貧弱なりし体格で、きわめてはげしい勉強を続けられたと見えて、そのお書きになったものを見ると、なかなか博学多識である。
それから外国語で外国へ論文をお出しになって、ドクター・オブ・フィロソフィーの学位をもっておられ、今は農学博士で大学の先生をしておられる。絶対植物食であるから、平和運動をやっても掛け声ばかりではない。それで諸外国の平和運動の団体へも始終連絡をしておられて、強力な運動をしておられる。
仏の慈悲を実行するというので、蚊すら殺したくない、というので絶対殺さぬ事にしておられる。蚊がとまっても「どうぞお吸い下さい」といっている。しかし余り吸われても困るから、蚊が来ないようにしたらよかろうというので、家の窓には全部網を張ることにせられた。
そのときまでは、小牧さんは、自分は生物を殺したくない、だから自分が直接生き物を殺さなくとも、肉食をする人があるので、生き物を補殺することを業とする人があるのだから、肉食は断じてしないと固く決心しておられても、そういう痩せた貧弱な体格をしているから、お父さんやお母さんは、それじゃいかんから魚ぐらいは食べなければ――という訳で、始終父母と争っていたのですが、
小牧さんが蚊も殺すまいと決心して、窓に網を張って蚊を全然殺さぬと決心された時に「それ程の決心をしているのなら」という事をお父さんもお母さんも認められて、「それじゃ絶対植物食でよかろう」と許可が出たのであります。
家族の中で一人だけ菜食主義というのは、別に野菜料理をしなければならぬので、なかなか面倒くさいことですけどね――とうとう父母がそれをお許しになったのであります。小牧さんはそういう立派な人であります。
その著書の『生命の尊重』には元文部大臣の安藤さんが序文を書いておられるが、随分ほめてある。ともかく立派な人です。結婚の前には、生長の家のお陰で、こういう素晴らしい結婚が出来たのだから、谷口先生に感謝の念を送らなくちゃいかぬ、というので、綺麗に『甘露の法雨』を自筆で浄書して、私を祝福するためにといって『甘露の法雨』をニ冊も揃えて私の所に送って来られたのであります。
毎月必ず何人かの人に対して生長の家の雑誌を配ることによって、光明普及につとめていられる。送る相手は知っている人だけでなく、例えば新聞記事などで住所氏名が出ているでしょう。そしてこの人が気の毒な人だと思うと、それに雑誌を無駄言進呈しておられる。それには、「この本を是非読んで下さい。あなたの幸福のために」という意味の手紙を添えておられる。
大学の先生をしていられるので、それほど裕福ではないと思うけれども、この人なら、この雑誌で救われそうだと思われる人を選って、配って上げられるのです。誰もそういう隠れたる布施を知っておられない、これは、陰徳であります。
そういう総ての人の生命を拝むという心境が、余り立派な体格でない方でありながら、あれだけの勉強ができ、人から羨まれるような立派な奥さんが出てくるという事になる因(もと)だと私は思うのであります。
そういう立派な人だからこそ、平和運動をやっても権威がある。平和運動を唱えながら、資金を集めて宴会をひらいて、肉食で舌鼓を打っているようなのとは全然異(ちが)うのであります。
『新生活に関する12の意見』という教文新書にも書かれているけれど、自分が殺すことは当り前だと思っているような心境で、本当に平和なんて出てくるものではない。自分は肉食をしても自分が殺すわけではない。他の人が殺してくれているから、自分は少しも残忍なことにかかわりはない、と耳を蔽(おお)うて鈴を盗むような、そんな心境では、本当に平和運動をやる資格はないのです。
それは時と場合により已むを得ず食べんならん時があるかも知れないけれども、そういう時があったら、それはお詫びをして懺悔の心を起こして食べなければならぬ。「ああこれはうまいなあ。ああこのビフテキは血の滴る様な生ま焼の方がうまいぞ、肉も柔らかいし」なんていって食べる様な事ではいけないと思います。
本当に、すべての業は、その循環が眼に見えないでも、実際は全部循環してやがて結果が眼に見える世界にあらわれて来るものなんであります。
これを、仏教では「因果昧(くら)まさず」と言っているのであります。本当の平和というものは、人類だけが人類中心で他の生物を殺しても好いなどと考えている限りは、実現するものではないのであります。
『生命の實相』の中にも書いてある話でありますけれども、ある二人の坊さんが話しながら東海道を旅して大井川までやって来たということです。そうしたら大井川は出水で渡れなくなっていた。
するとそこへ美しいお譲さんがどこかへ早く行かんならんというので、多分親が危篤だったかもしれない、「これは川止めになってしまったら困る、是非渡らんならん」と思っている時に、その二人の坊さんのうちの一人の禅宗の坊さんが「お譲さん、私が負んぶして渡してあげるから、どうぞ、私の肩に負んぶしなさい」と言って、自分が尻をまくって、河の中へ飛び込んで、御嬢さんを背中に負んぶして、大井川をトットと渡って行ったというのです。
そしたらこれを見ていたもう一人の真宗の坊さんが「あいつ、うまい事しやがった。尻をまくって、その上に若い女をのせて歩いた。あいつは精進堅固な禅宗の坊さんかと思うとったら、あいつは生臭坊主だ。正体を現したぞ。一つあっちへ行ったら、トッチメテやろう」と思いまして、自分も河を渡って行った。
そして対岸へ着くと、先に負んぶして行ったお坊さんは、そのお譲さんを降ろして、お礼を言うのも聞かんふりで、トットトットと向こうへ行ってしまった。
連れのお坊さんは追っかけて行って、「おいおい、貴様は禅宗の坊主のくせにけしからんぞ。あんな若い女を、喜んで背中にのせて、尻をまくって川を渡るやつがあるか。お前は精進堅固な坊主だと思っていたら、よっぽど生臭坊主だ」と言った。
そしたらそのお坊さんが「お前はまだあの女を負んぶしているのか。わしはもうとうに降ろしたよ」と答えた。という意味は、心の世界にいつまでも過去を負んぶしている様な事ではいかんということです。
宗教というものは、心の世界のことですから、心にいつまでもその女のことが気にかかるようではいかんのです。先に渡った坊さまは、何も色情を起こして女を負んぶしたわけではないのです。これは仏の慈悲の心が現れて、今渡らなかったら困るお嬢さんだから、渡してあげたいというので、それで負んぶして渡ったのです。
そこには色情のシの字もないんです。本当に仏の相が現れていたんだけれども、肉眼で見たら、尻まくって女を負んぶしているというように見えるという訳です。
所がそれを見ていた後の坊主は、それを色情に連関して見て、「ああ、羨ましいなあ、わしもああ出来たらよかったのに、あいつに先を越されてしまった」という風に妄想を起こしのです。
キリストも言われた。「女を見て色情を起こしたものは既に**(確認後掲載)淫せるなり」という訳で、女を見て、そして性欲の感じを起したら、それは「既に**(確認後掲載)淫せるなり」で、心の世界ではすでに**(確認後掲載)淫したも同じ事なんだ。
実際に女に触れないでも、女に性的な感じで触れたいと思ったりすると駄目だ。それも溺れるものを助けてやりたいというので触れるのなら好いけれども、そうではなくて、「あの女に触れたらいい気持ちやろうなあ」なんて、いう風な考えをおこして、「それで触れたいなあ」と思ったとして、しかし、人が見ているから、そういう訳にもいかんし、という訳で、外見は行ない済まして居りましても、これはやっぱり「**(確認後掲載)淫せるなり」という事になる。
心の世界では、こうして"つかむ"というこが罪なのであります。ともかく、つかむという事は、病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。放てば生きる!
吾々がこの世に生まれて、苦しい悲しい悩ましい思いを起し、いろいろの悩みの種になるのは何かというと、「掴む」ことです。
何を掴むかというと、「現象」を掴むんです。「現象」を掴んで、どこそこで、誰が、何時、何をした、何を言ったと掴む。
それは悉(ことごと)く過ぎ去ってしまった時の事なのに、何時までもそれを掴んで、それでああだ、こうだ、ああだこうだ、こう言っているんですね。そのために自分も苦しいし、それによって人も攻撃するから、人も苦しい。そして修羅場を演じている――という事になっている。
だから過去は過ぎ去るものであって無いのだ。過去は無いんだ。「今」しか無いのだ。「今」"しか"と言ったっても、今見えている「現在の悪」があるというのではない。その「今」は、過去・現在・未来に非ざる処の、時間空間を超えたところの、もう一つ奥にある「今」なんです。
「如意宝殊観」という神想観をするときに「吾れ今此処竜宮城に坐して、塩椎の大神より如意宝珠を得たり」と唱える――あの吾れ「今」此処の「今」ですね。
「今」その一切の現象的な時間空間を超えて、吾れ今五官の世界を去って実相の世界に在る。今此処が実相の世界である。現象に、どんな相が現れておっても、その悪い相は「影」であって、本来無いんだ――という訳で、一遍その悪い相に目をつむって、そして、新たなる眼を開くんです。これが新たに生まれ更るでありますね。
「汝の目のおおいをとれ」と神様は仰せられているのでありまして、目のおおいをとってみると、すると今まで嘆き悲しみの充ち満ちていた世界が、親天新地となって現れて見えるのです。
病気は消え、貧しさは消え、ここが実に豊かな天国浄土になっている相が現れるのです。
それにはどうしても「現象の抹殺」という事が必要なんです。「現象の抹殺」といっても、原子爆弾でみんな吹き飛ばしてしまうというのではないのであって、心の世界で、どんな悪しき相があらわれていても、そんなものは実は「幻」であって、本当は無いんだ。「無」だと悟るんですね。
「無」を知ることが大切なんです。「無」の関所を一遍超えなくては、実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。
「無」は何も無いんじゃないのであって、その「無」の関所を超えたときに、無尽蔵のよきものの充つる世界が出て来る。
それにはやはり一切の現象を一応「無い」と断ち切らんといかん。それをキリストは「十字架を負いて我に従え」と言っている。「十字架」というのは抹殺のしるしだ、帳消しですね。「十字架を負って我に従え」だ。その時に「復活」がある。
十字架にかかって、「肉体無し」と一応肉体を抹殺した時、真の生命が復活する。一遍「肉体の存在」を槍で衝いて殺して了(しま)うのですよ。
なるほど宗教というものは――といって他の教団は知らんけれども、生長の家の宗教は一つの峻厳なるものだ。
病気治しどころのことではない。そんな甘いもんじゃないのだ。一遍「自分」を殺さないといかん。十字架に自分をつけるのだ。「肉体なし、物質なし、現象なし」だ。これを「十字架を負う」という。
肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟ったときに、そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを発見することが出来る事になるのであります。
これが「新たに生まれる」ということです。人新たに生まれずば神の国を得る事能(あた)わず」とキリストはニコデモに教えているのであります。肉体を放ち捨て、肉体の利益を放ち棄てたときでないと、神の国を見出すことはできないのであります。
(「大調和の神示」完)
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