[52] 行ふべき道-1 |
- 山ちゃん1952 - 2013年01月12日 (土) 21時39分
行ふべき道 龜岡叢書第十編 大正9年11月20日発行 谷口 正治 はしがき 「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神やまもらん」云ふ古歌がありますが、まったくその通りであります。しかしながら「誠」とは何ぞや、「誠」を養成するにはどうすれば好いか、「改心」とは何ぞや改心するにはどうすれば好いか、と一歩突込んで考へて見ますと、吾々は世界の終末、最後の審判の日が刻々と近づきつつあると云ふ現在に於て、なほ日暮れて道とほしの感なき能はずであります。自分で「誠」でゐるつもりでも「誠」でなかったり、改心したつもりでその實改心が出來てゐなかったりすれば、祈ったからって神は充分の御守護を下さらないと思ひます。世界の終末に際して~示の改心に從ふと從はないとは我等の生死の分岐する所であります。 されば余はここに大本~諭の中(うち)より、それ等に關する~訓若干箇條を選んでそれに余一流の註釋は偉大なる国祖~の~智のまにまに錄されたる至幽至言なる御筆先に比べますと、瓦と玉とを比較する程の遜色がありますのでどうも神諭を冒涜するような気がして思ふやうに筆が伸びないのです。 その中(うち)に余は疲れて了(しま)って机に凭(よ)り掛ったまま眠って了ひましたが、眼が覺めてふと机上に置かれた聖書を披(ひら)いて見てゐると余の纂(あつ)めてゐた大本~諭とぴったり符節を合する章句が、悉く披くに從って余の前にフヰルム(※フイルム)のやうに展開して來るのであります。余は聖書研究者としては四福音書のうちの一書すら讀過したことのない全然の素人であるのに、~啓の來る時には、繙くに從って欲する章句が自ら披かれて來る習慣があるのであります。 この編纂も要するに~啓のまにまに纂められたものであって肉體的自分の努力でもないことを申添へて置きます流石に耶蘇聖書は耶蘇及びその信徒たちの靈感を基礎として書かれたものだけに、吾々大本~諭を註釋に優ること萬々だと思はれます。 耶蘇聖書は最後の審判のやがて來るべきを説きその時の用意のために如何に實行すべきかを示してゐるのであります。以て相互の教訓が全く符節を合するのは當然のことだと思ひます。 編者識 ※は山ちゃん記載
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