[436] 神想観は坐禅観法 |
- 明鏡 - 2013年09月13日 (金) 17時39分
『 神想観は坐禅観法 』
谷 口 雅 春 先 生
『 精神科学 』誌 昭和三十年八月号
吾々の団体では神想観と云う精神統一法を実修していますが、これは一種の坐禅観法であって、
各自が 「 神の生命 吾れに流れ入りて 吾が生命 遍(あまね)く法界に満つ 」 底の念を持して
精神統一に入るのであって、誰も互いに相手に術を施(ほどこ)すのではありません。
それは、「 誰倶に打坐して心身脱落し、三昧(さんまい)に入り、遍法界尽虚空ことごとく
さとりとならしめる 」 道元禅師の 「 正法眼蔵 」 にある底の坐禅観法であります。
無論 「 心 」 は波動であるが故に、古来、坐禅に於いても、先輩悟入せる師について倶(とも)に
坐するときは心の波動的影響により、言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんじ)の
悟りを直指単伝することが出来易いので、先輩と倶に一室に端坐して その雰囲気的指導も
受ける事が行われたので、神想観の指導も、それと同じ意味に於いて何十人でも何百人でも
一堂に坐し、特定の修行室に入り得ざるときは、宇宙を一つの堂と観じ、同時刻に坐して、
相互修養の同志又は先輩と共に一堂に参ずる思いをなし、 「 神の生命 吾れに流れ入りて、
吾が生命 遍法界に満つ 」 底の観念を為して 共に倶に精神統一に入ることは悟を進める上に
偉大なる効果があるのであります。
併(しか)しながら これは相互の自覚修養法であって 対他的に施す 「 術 」 ではない、
無論 「 療術 」 である筈(はず)もないし、誰に術を施される訳でもなく、又各地の教化部や
相愛会で神想観に同座するのは無料であって、料金を徴収する訳ではありません。
また それによって病気が治る例があっても それは吾々の功績ではなく その人自身の悟の
功績であり、その人の心のストレスが除かれた結果でもあります。又 治らぬ例があっても
それは吾々の問題ではなく、その人の心の問題であります。
それは白隠禅師が坐禅観法を行って その修行の中途、徹底せずして禅病に罹(かか)り、
その修行の徹底によって病が癒えたのも同じわけであって、その功罪は、自身の坐禅観法の
徹底不徹底にあるのであります。何をやっても下手(へた)にやれば悪結果を得、上手にやれば
良果を収めるのであります。
神想観を正しく行うならば何人も弊害(へいがい)はない。
これは神と人格とが二重人格になって話をするところの霊媒術ではないのであって、
修行者が霊媒になって神がそれに憑(かか)ってくるのでもありません。
神想観中の霊動は まだ其(そ)の人に迷いがあり、迷いの自壊する作用を起しているので
あるとして吾々の仲間では卑(いやし)められています。
本部講堂で何百人一堂に坐して神想観しようとも唯一人微動だもしないのであって、
実に静粛荘厳なものであります。
時に偶々(たまたま)一二名の霊動を起すものがあっても それは神想観そのもののためではなく、
他で嘗(かつ)て何らかの霊術(生気術とか本能療法とか、霊子療法とか、霊媒術とか、
霊動術とか)の伝授又は施法を受けたもので、先師の霊波の影響を受けているためか、
又は本人が霊動をすることを歓迎している場合にもおこります。
神想観は全然危険のないところの最も有効なる坐禅であって、神人融合の徹底自覚に到達せしむる
勝れたる方便であって、自分が霊媒になって神に憑って貰うのではありません。
また神降しや巫女(みこ)のように二重人格式に人間に神が憑って物を言わす霊媒術ではありません。
吾々の仲間では神人分離の考えを迷信として排斥するので、神と云う別のものが人間に憑って来て
物を云うなどと思うこと其事(そのこと)を迷いとして排斥しているのであります。
この事は 『 生命の實相 』の冒頭に 「 本当の神は霊媒には憑らぬ 」 とハッキリ断言してあるのでも
わかりましょう。だから、神が憑って来て手を振ったり霊動を起したり物を言ったりして欲しいと
思ってはなりません。斯(こ)のような状態は禅宗で言う魔境であります。
神想観をして霊動の起る傾向のある人は、霊動の起ろうとする気勢を感じると直ぐ瞑目合掌を止めて、
聖経 『 甘露の法雨 』 を読誦するようにすれば、心の迷いが消えると共に霊動はしなくなるので
あります。霊動の起る人は 合掌瞑目しても霊動のなくなる迄神想観をしないが宜(よろ)しい。
神想観を 「 術 」 であると思って此の 「 術 」 さえ行っておれば 『 生命の實相 』 は読まなくとも、
家庭で家族互に争乱をつづけていても好いと云うわけではありません。
何と言っても生長の家の教(おしえ)の根本は 『 生命の實相 』 の巻頭にある 「 汝等天地一切のものと
和解せよ・・・和解が成立せねば、神は助けとうても争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。
皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に
感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。その感謝の念の中(うち)にこそ
汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの
中にのみわれはいる。われは此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よと言うが如くにはいない
のである。だからわれは霊媒には憑らぬ、神を霊媒に招(よ)んで見て神が来ると思ってはならぬ・・・ 」
と云う教であります。
この教を信じない人又は行えない人々は誌友名簿に登録してあっても、それは生長の家の教の外に
ある者であるから、その人の生活は決して光明化しないのであります。
神懸(がか)りになって二重人格的に神と云う別人格がその人を指導して呉(く)れるように思うのは
所謂(いわゆ)る 「 霊媒に神を招ぶ 」 種類の者で、生長の家の教に背(そむ)く者であります。
これには神などが憑るものではなく、低級霊が高き神霊の名を詐(いつわ)って出て来るので、
それを信ずる時は、嘗て自分が天之御中主神であるとか僭称(せんしょう)した彼(か)の島津治子の
ような事件をも惹起(じゃっき)するようになるのであります。
神と云うものは 内に深く神性を掘って行くときに、其処(そこ)から一如の相で出て来るので、
人格分裂の二重人格的出現ではないのであります。
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