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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[575] 『生長の家』昭和24年12月号法語( 1 )〜(31 )【完】
明鏡 - 2013年10月05日 (土) 15時38分



『 生長の家 』 昭和二十四年十二月号 法 語(一日〜三十一日) 谷口雅春先生



  一日の法語  予言をする宗教は真の宗教ではない

  二日の法語  真の解脱者を作るのが宗教の使命

  三日の法語  真の自由は物質の無を悟って得られる

  四日の法語  貧乏になる心的原因

  五日の法語  人間を立派に飾ることは立派な神殿を作るのと同じだ


  六日の法語  物質有限観を維持する限り貧乏は美徳である

  七日の法語  果樹は豊かに実ることが美徳である

  八日の法語  貧しい人は却って人に厄介をかける

  九日の法語  豊かなるべき者が豊かでないのは盗罪である

  十日の法語  美しくなることは神の御心である


 十一日の法語  既に阿弥陀仏と一体である

 十二日の法語  真に愛することは実相を礼することである

 十三日の法語  わが願いを神の沃地(よくち)に播種(はしゅ)せよ

 十四日の法語  諸君の祈りは成長しつつある

 十五日の法語  何事が起ろうとも唯(ただ) 「 善 」 のみが前途にある


 十六日の法語  人類の運命が熟して来るには色々の経験が要(い)る

 十七日の法語  天地一切のものと和解すること

 十八日の法語  「 そのまま 」 が一等好(よ)い結果を生む

 十九日の法語  自分で工作せずに運命自身に工作せよ

 二十日の法語  自己の運命を良化するには


二十一日の法語  神を常に憶念すること

二十二日の法語  不幸を口実にしてはならぬ

二十三日の法語  症状に感謝せば病いは消える

二十四日の法語  「 甘露の法雨 」 読誦(どくじゅ)の功徳

二十五日の法語  安心して大生命に委(まか)せること


二十六日の法語  子宮筋腫も 「 甘露の法雨 」 で治る

二十七日の法語  子宮癌も 「 甘露の法雨 」 で治る

二十八日の法語  懺悔の心が病いを癒す

二十九日の法語  懺悔やまいを癒す

 三十日の法語  懺悔は心の浄化である

三十一日の法語  過去を除夜の鐘と共に放つ日





[576] 24-12  一日の法語  予言をする宗教は真の宗教ではない
明鏡 - 2013年10月05日 (土) 15時42分



真の宗教と云うものは予言などをして人をおどすものではないのである。


予言をきいて、それによって行動し、自分の生活の安全を保とうと考える如きは、

自分の生活の自由を他の人の言によって左右されるものであるから、人間を一人の

権威者の前にひれ伏さしめて、其の人を一人の権威者の前に奴隷とならしめるものである。



宗教の真の使命は人間を解放して何者にも縛られないようにするものであるから、

予言などで、人をおどすことなどはないのである。





[577] 24-12  二日の法語  真の解脱者を作るのが宗教の使命
明鏡 - 2013年10月05日 (土) 15時43分



真の宗教は人間の実相を知らしめ、人間の実相が何物にも縛られることなく、何物にも害されることなく、金剛不壊の存在であることを自覚せしめ、彼を真に解脱者ならしめる機能を有しなければならぬ。


真の解脱者とは所謂(いわゆ)る「ホトケ」であって一切の束縛からほどかれたるものである。


少量の御賽銭を供えて大量の功徳を得ようとするが如きは宗教ではないのである。
少許(すこしばかり)の資本で大量の利益を得ようとするのは、一種の取引か、然(しか)らずんば、
一種の投機である。


宗教というものは取引でもなければ、投機でもないのである。




[578] 24-12  三日の法語  真の自由は物質の無を悟って得られる
明鏡 - 2013年10月05日 (土) 15時48分



真の解脱は物質の無を自覚し、自分自身を物質と観ずる心から解脱し、

自分自身を神通自在の神の子と自覚することによって得られるのである。



従って、般若心経には、観自在菩薩が、五蘊(ごうん)皆空と照見し、

色(しき)、受、想、行、識の五つとも皆空(みなくう)であると観じて、

色(物質)にもわずらわされず、受想行識の心のハタラキにもわずらわされず、

自由自在になったことが書いてあり、

三世(さんぜ)の諸仏もこの方法によって悟りをひらいたのだと書かれているのである。



この世界を物質という不可入性と不可抗性とを持った物質と観ずる限り自由はない。




[581] 24-12  四日の法語  貧乏になる心的原因
明鏡 - 2013年10月06日 (日) 10時14分



人間は神の子であるから、自由自在であり、貧乏などになるべき筈(はず)のものではないのである。それだのに何故(なぜ)貧乏になるかと云うと、自分で自分を限るのである。


自分で自分を限るのに二種あり、第一は自分は貧乏の運命をもっている、迚(とて)も金持などになれないものだと云う劣等感である。


その次には、清貧礼讃(らいさん)の気持であって、富んだものは一種の搾取であり、神から喜ばれないものであり、天国へ行く妨げになると云うような考えである。


然し神の子であり、神の最高実現であるところの人間が富んで悪いと云う理由はないのである。




[582] 24-12  五日の法語  人間を立派に飾ることは立派な神殿を作るのと同じだ
明鏡 - 2013年10月06日 (日) 10時16分



神を立派な神殿をきずいて祭り、仏を立派な仏閣に安置してまつるのが宗教的行事だとして尊ばるべきことであるならば、神の自己実現であり、生ける神である人間をどれほど立派に飾り過ぎても悪いと云う筈はないのである。


立派な神殿を造ったり、立派な仏閣をきずいたりすることが、仏を供養し塔廟(とうびょう)を建立する功徳になるならば、人間自身を立派に飾り、供養することも同様の功徳があると云わなければならぬ。


それだのに多くの人間は立派に飾ることを功徳なる行為だと思わないのは間違いだと云わなければならぬ。






[583] 24-12  六日の法語  物質有限観を維持する限り貧乏は美徳である
明鏡 - 2013年10月06日 (日) 10時18分



この世界を物質で出来ていると云うような唯物論的世界観をもっている限りは、物質と云うものは有限であるから、一人が多く富めば、残りは少くなり、多くの人の頒(わ)け前が減ってしまう。


従って物質有限観の唯物論的人生観をもっている限りは、自分が富むだけ他の人類から搾取していることになる。


従って唯物論をもっている限り、聖者は自己を出来るだけ所要物質乏しく最低限度の生活を維持しようとしたのは当然のことである。


併(しか)しながら、物質は必ずしも有限ではないのである。心を変えることによって作物の収量でも殖えて来る。





[585] 24-12  七日の法語  果樹は豊かに実ることが美徳である
明鏡 - 2013年10月07日 (月) 10時32分



或る果樹園の果樹が大いにみのったからと云って、隣りの果樹園の貧弱な果樹から
決して奪ったと云う訳ではない。


それは天の恵み、地の恵みをより多く受け、吸収することが出来たからである。
これは横取り即ち搾取では決してないのである。
横取りは悪いけれども竪(たて)取りは決して悪いことはないのである。


吾々は良き 「 受け手 」 となることが必要である。


そして竪から神の豊かなる恵みを受けるようにならなければならない。
自分が貧しくなることが美徳ではない。


果樹はゆたかに実ることが美徳である。







[589] 24-12  八日の法語  貧しい人は却って人に厄介をかける
明鏡 - 2013年10月08日 (火) 00時32分



豊かに実りたる果樹は人類に、より多く与えることが出来、人生を豊かにうるおす

ことが出来るが、貧しくて実らない果樹は人類に何も与えることが出来ない。

農人の世話をかけるばかりである。



これと同じく豊かなる富を実らせた人間は、人類に貢献することが出来るが、

貧しき者は人類に厄介をかけるばかりなのである。



何故人間が貧しくなるかと云うと、その人間は他から搾取されたと思っているかも

知れないが、善き考えが浮かばなかったことが原因である。

善いと思ってしたことが失敗に帰したのである。





[596] 24-12  九日の法語  豊かなるべき者が豊かでないのは盗罪である
明鏡 - 2013年10月09日 (水) 08時04分



人類に益を与える良い考えが富に変化するのである。富の本質は「好(よ)い考え」である。

好い考えを考えついて人類に益した者が富むのであって、泥棒が千万長者になったためしは

ないのである。



だから「善き考え」を起した者が富んでも、それは人類を益した功績として豊かに

むくいられるのは当然であるのである。



豊かに実るべき蜜柑(みかん)の木が豊かに実らないことは、人類からそれだけ富を奪って

いることになるのであって、貧しいということは、時として人類から奪う盗罪となることが

あるのである。





[598] 24-12  十日の法語  美しくなることは神の御心である
明鏡 - 2013年10月10日 (木) 09時16分



美しき花を咲くべき薔薇(ばら)が美しい花を咲かせないのは、それだけ人類から美を奪っていることになるのである。人間は、花よりも鳥よりも尚(なお)、美しくあるべく、最高の傑作として人間を作り給うたのである。


その美しかるべき人間が美しく衣服をつけず、蓬頭(ほうとう)乱髪、殊更(ことさら)に自分を醜くくしている如きは人生から美を奪うものなのである。


神は決して、人間をただ生活出来る物質以上のものを使ったら贅沢(ぜいたく)だなどと咎(とが)めたまうほどケチではないのである。


生活の余剰のところに文化は生じ芸術は生れる。





[603] 24-12  十一日の法語  既に阿弥陀仏と一体である
明鏡 - 2013年10月11日 (金) 01時41分



南無阿弥陀仏は、「 私の生命は阿弥陀仏の生命と一体でございます 」 と唱えること

である。


それは自殺する時に唱えて見たり、死ぬ時にのみ唱えて見る極楽への通用語では無い

のである。今、自分が阿弥陀仏と一体であると云うことを確認する肯定語なのである。



それは唱えても唱えないでも、人間は宇宙遍満の大生命に生かされているのであり、

宇宙遍満の大生命の別名が阿弥陀であるがゆえに、

既に実相においては吾々は阿弥陀仏と一体であり、既に極楽浄土に生活するのであるが、

現象の姿は自覚の程度によるのである。





[608] 24-12  十二日の法語  真に愛することは実相を礼することである
明鏡 - 2013年10月12日 (土) 11時15分



真に愛するということは、その人の肉体のみを愛するのではない。

その人の実相を見て敬し礼することが真の愛である。



相手の一部分のみを愛するのは真の愛ではない。

相手の精神だけを愛するのも真の愛ではない。

相手の容貌だけを愛するのも真の愛ではない。

真に愛するとは、われ自身の如く、相手を愛しなければならない。



相手の運命について深い深切な思いやりを、自分の運命に対して持っている如く

持っているのが真の愛である。

しかも信じて運命を愛するのである。





[615] 24-12  十三日の法語  わが願いを神の沃地(よくち)に播種(はしゅ)せよ
明鏡 - 2013年10月13日 (日) 15時17分




吾が願いを単なる心の表面にとどめて置くだけでは、その願いは

成就するのに遠いのである。


その願いを潜在意識の中につぎこみ、さらに宇宙の潜在意識の中へ

その願いを移植する事が必要なのである。


それには自己の願いを自己のものとして願うだけではなく、

最後に 「 み心のままにならしめ給え 」 と、神にその願いの成否を

完全にまかせてしまうことが必要なのである。


「 自分の願い 」 として握っていた 「 願い 」 の種子(たね)は

自分の掌(たなごころ)の中に握っているだけではまだ発芽しないのである。

神の生命の沃地に投げ出してこそ発芽する。







[617] 24-12  十四日の法語  諸君の祈りは成長しつつある
明鏡 - 2013年10月14日 (月) 10時50分



諸君の祈りがまだ実現しないからと云って、諸君が播いた 「 願い 」 の種は

発芽していないのではないのである。


それは既に発芽しているのであるけれども、まだ、生長の途上にあるのである。


大樹の種子ほど発芽も生長もおそいのである。

小さな物品を求めてそれが得られたと云うような小さな祈りは

それが容易に完成を見るのであるけれども、


人生における大きな自己の全生涯に関するような祈りは、

生涯を通じてそれは実現の途上にあるのであるから、

急ぐことは要らないのである。


人類光明化の如き大事業はそれである。






[624] 24-12  十五日の法語  何事が起ろうとも唯(ただ) 「 善 」 のみが前途にある
明鏡 - 2013年10月15日 (火) 17時03分



二百十日や二百二十日があろうとも、それは却って風媒花(ふうばいか)の稲にとり

豊作をもたらすところの天の恵みであると感謝するならば、

その通りに豊作にめぐまれるのである。



人生にも色々の暴風や台風やあらしがあろうとも、

そんなことで失望落胆してしまってはならないのである。



私は関東大震災に会わなかったら、屹度(きっと)単なる著述家として

つづいていたであろう。



関東大震災が動機で神戸へ移転したのが導きになって

「 生長の家 」 の偉大なる教えがはじまり多くの人が救われることになったのである。







[627] 24-12  十六日の法語  人類の運命が熟して来るには色々の経験が要(い)る
明鏡 - 2013年10月16日 (水) 12時25分



尤も小竹さんと云う人は、名古屋の某大師(だいし)教会でその当時から

三十年前に真言密教の修行で精神を統一中、

黒紋付の羽織に白い着物を着、袴(はかま)をつけた四十数歳位の人が

弘法大師と一緒にあらわれて、 「 汝は既に救われたぞ 」 と云われた、

三十年後になって岡山市の生長の家講習会へ来て見ると、


三十年前、 「 汝は既に救われたぞ 」 と云われた其の同じ容貌の同じ服装の人が

講習して下さる ー それが谷口先生だったと体験談を発表された。



これから考えて見ると、私がそう云う宗教指導者になると云うことは

其の当時から予言されていた。

しかしその種が形の世界に実を結ぶためには人生の紆余曲折(うよきょくせつ)を

続けなければならなかったのである。







[632] 24-12  十七日の法語  天地一切のものと和解すること
明鏡 - 2013年10月17日 (木) 15時29分



天地一切のものと和解するということには、神のみこころと和解していなければ

ならぬと云うことが含まれている。


神のみこころにかなわないようなことを幾ら祈ってもかなえられないし、或る程度まで

人間の努力によって目的を達しても、それは結局くだけてしまうことになるのである。


神のみこころと和解するには神と対立があってはならないと云うことが含まれている。


神への無条件降伏と云うことが何よりも必要である。


神への無条件降伏と云うことは、何でも与えられるものに

其儘(そのまま)素直にハイと従うことである。







[636] 24-12  十八日の法語  「 そのまま 」 が一等好(よ)い結果を生む
明鏡 - 2013年10月18日 (金) 20時34分



自己自身の運命を自分自身であまりひとり決めして、

斯(こ)うでなければならぬと頑張ってはならないのである。



植物に枝や葉が出るのに、無理にその枝や葉の出る方向を

こちらから勝手に決めてはならないと同様である。



そのままにまかせておいて、唯(ただ)、肥料と日光とを与え、

吸収すべきものを吸収させてさえ置けば美しい花をひらき、

美味しい実を結ぶことになるのである。



柳に雪折れなしと其の儘に従って置けば

屹度(きっと)よい結果を生むことになるのである。



あまり深く枝を撓(たわ)めると運命の枝が折れる。









[643] 24-12  十九日の法語  自分で工作せずに運命自身に工作せよ
明鏡 - 2013年10月19日 (土) 19時29分



或る大彫刻家の言葉に 「自分の彫刻法は頗(すこぶ)る簡単である。

自分では何一つ工作しないのである。

ただその材料をじっと見ていて、その不要な、それ自身に属しないところを

彫りとるだけである。

すると、忽然(こつねん)として像が浮び出るのである」と云う。



人間の運命も自分で作ろうとはせず、ただ不要なところを省くようにしておれば、

自然に自分自身に属するところの運命が展開してくるのである。



しかも各人に与えられている運命はいずれも素晴しいところのものである。





[645] 24-12  二十日の法語  自己の運命を良化するには
明鏡 - 2013年10月20日 (日) 14時15分



人間の運命は神が彫刻する。


人間の工夫や巧者がはいると、それだけ神御自身の彫刻でなくなるから

不味(まず)いものになるのである。


神が行けと云われるところに人間判断を用いて行かず、

神が止まれと云われるときに、人間巧者を用いて進む。


其処(そこ)に失錯が起り、失敗が起るのである。


神自身の御彫刻にまかせて置けば、素晴しい傑作となるべきものを、

自分の巧者で崩してしまうのである。


目前の利害に拘泥せず、素直に自己の運命を生きるものは

自己の運命を傑作たらしめるのである。






[646] 24-12  二十一日の法語  神を常に憶念すること
明鏡 - 2013年10月21日 (月) 08時50分



「 衆生、ほとけを憶念すれば、ほとけ衆生を憶念したまう 」 と仏典にはある。


しかし衆生がほとけを憶念しなくとも、仏は衆生を常に憶念したまうているのである。

しかし衆生の心がほとけの方へ振向かねば、仏の心と衆生の心と波長が合わず、

それを感ずることが出来ず、それを具体化することが出来ないのである。


されば常に 「 南無阿弥陀仏 」 ととなえ仏をおもい出すべきである。

或(あるい)は常に 「 生長の家の大神 」 ととなえ、神を憶念すべきである。


「 生長の家の大神 」 と申したとて別に一宗一派の神ではない。

「 生長の家 」 とは大宇宙のことである。大宇宙の神と云う意味である。






[649] 24-12  二十二日の法語  不幸を口実にしてはならぬ
明鏡 - 2013年10月22日 (火) 00時22分



人間が幸福になり、無病健康になろうと思えば、

不幸や病気を口実にする心を捨てなければならない。


不幸や病気を口実にして人から憐(あわれ)まれようと思うと、

潜在意識が不幸の運命のところへ自分を引着けて行き、

そして人から憐まれたい目的を達するのである。


病気を口実にして会社を休みたいと思うならばその人は病気にかかるであろう。


多くの人は病気をもって他から同情されたいと思って病気になっているのである。



だからその証拠に自分の病気を人に訴えたくて仕方がないのである。







[652] 24-12  二十三日の法語  症状に感謝せば病いは消える
明鏡 - 2013年10月23日 (水) 08時31分



病苦を人に訴えるな。またみずから呟(つぶや)くな。

言葉は種子(たね)であるから、再び病苦の種子を蒔いているようなものである。


病気の苦痛や症状は実は、過去に種子を播いた 「 誤まれる想念及び感情 」 (即ち病気)が

形にあらわれて消えて行こうとしているものであるから、

症状が出れば出るだけ、消えて行こうとしつつあるのであるから、


「 有りがとうございます。これで私の過去の間違った心が消えて行くのでございます。」

と心の中で一心に感謝していると、そのまま苦痛少く症状が消えて行くのである。





[653] 24-12  二十四日の法語  「 甘露の法雨 」 読誦(どくじゅ)の功徳
明鏡 - 2013年10月24日 (木) 08時51分



今度、九州を旅して教えられたことは、今更 「 甘露の法雨 」 の読誦の功徳の

夥(おびただ)しいことである。



佐賀県杵島(きねじま)郡の医師有森義光さんは、自分の子供のジフテリヤに

何ら血清注射をほどこすことなくして、 「 甘露の法雨 」 を二回読誦して、

そのまま眠ってしまったら、



その暁方(あけがた)大きな咳(せき)をして

咽喉(のど)と鼻とに擬膜が飛び出して 「 お父さん、もう病気治った 」 と云い、

翌日、三里の山道を登山して平気であったと云うことを発表された。



しかしこの体験談で注目すべきことは、有森さんが安心して眠ってしまったことである。






[654] 24-12  二十五日の法語  安心して大生命に委(まか)せること
明鏡 - 2013年10月25日 (金) 00時55分



有森さんが安心して眠ってしまわないで、始終子供の側(そば)につき切りで、

間断なく病気を心配して、その症状に覗(のぞ)き込んでいたならば、

「 甘露の法雨 」 の読誦も無効になっただろうと思われるのである。



心に描くことは形にあらわれるのであるから、

病状に心を集中し、心配してそれを見詰めて心に描いておれば、

次から次へと心が病気を創造するのであるから、病状の消えようがないのである。



心から離して、それを神の愛の御手(みて)の中にまかせ切り、

安心して眠ってしまうほどになるとき、その病状は消え去るのである。



大生命の大海はどんな地上の芥(あくた)も浄化する。





[655] 24-12  二十六日の法語  子宮筋腫も 「 甘露の法雨 」 で治る
明鏡 - 2013年10月26日 (土) 12時58分



有森義光さんは、自分の診断した婦人で、他(ほか)の外科医も、婦人科医も、

子宮筋腫であるから切開手術する必要があると云われた婦人が、



婦人の弟の中島徳一君と云う熱心な生長の家信徒に勧められて、

切開手術することを止(や)めて 「 甘露の法雨 」 を読むことにしたら、



急に大便したいようになって便所でその筋腫を排出してしまって、

腹部の硬結(こうけつ)も苦痛もなくなり、

完全に治ってしまった実例を発表された。



この婦人は再婚した婦人で、先夫は自動車事故でなくなり、

恐らく其の先夫の霊の妄念が子宮筋腫となって凝結していたのが

解消したのだと思われる。







[656] 24-12  二十七日の法語  子宮癌も 「 甘露の法雨 」 で治る
明鏡 - 2013年10月27日 (日) 01時30分



一昨年私が九州を巡錫(じゅんしゃく)して 宮崎市の 「 平和の塔 」 の前で、

多勢(おおぜい)の信徒と一緒に平和の祈りをして その高地から降りて来ると、



小山戒三(かいぞう)氏の奥さんが、その親類の婦人と一緒に来られて

お礼を云われるのである。



「 この婦人は子宮癌で手術しても、もう駄目だと医者から云われておりましたが、

『 甘露の法雨 』 で治りましてこんなに元気で働いております 」 と。



その病気の由来をきくと、その婦人は二十八歳のとき

良人(おっと)に 子供を遺(のこ)して死なれてから、



「 貴郎(あなた)は極楽へ行って結構か知らぬが、

子供を遺してあとに残った私はどうなるのです 」


と恨んでいたのだった。






[657] 24-12  二十八日の法語  懺悔の心が病いを癒す
明鏡 - 2013年10月28日 (月) 00時04分



大体、泌尿器及び生殖器等にあらわれて来る病気は、

夫婦関係の不調和、先夫先妻の関係、三角関係などの心の悩みが、

その心の影として、夫婦関係の機官にあらわれて来るものなのである。



「甘露の法雨」を読んでも、この問題が解決しない限りは

それが治らないこともあり得るのである。



さきに述べた婦人も亡夫の仏前で、今まで恨んでいたことを懺悔して

お詫びし感謝の心を起して「甘露の法雨」を誦(よ)んだとき、



亡夫の霊も浮ぶことが出来、その妄念の凝結としてあらわれていた子宮癌が

消え去ってしまったのである。






[658] 24-12  二十九日の法語  懺悔やまいを癒す
明鏡 - 2013年10月29日 (火) 08時38分



荒井英太郎講師が佐世保で 「 懺悔の神示 」 を講義したとき、

長い間、脚が硬直していて まがらなかった人が、

脚の関節が柔かになり、自由に動き出したような奇蹟とも見える神癒が行われた。


柔かい心になれば肉体が柔かくなり、その硬直がとけるのである。


懺悔は今まで、

「 これで何が悪いことあるものか 」 と頑張っていた頑固な心が

ほぐれて、やわらかくなり、


「 ああ、済まなかった 」 と今迄(いままで)の悪い心を

打消してしまうのであるから、過去の罪が消えてしまうのである。



みずから 「 善し 」 として 「 病いを起していた心 」 を肯定しては病いは治らない。





[663] 24-12  三十日の法語  懺悔は心の浄化である
明鏡 - 2013年10月30日 (水) 08時58分



懺悔は、自己の心の中に凝結していた 「 間違いの心 」

(精神分析の言葉をかりて云えばコンプレックス)を

洗い流すところの浄化作用を完成するのである。


「 すみません、すみません 」 と両親に今までの不孝の罪を懺悔したとき、

良人は今までの行届かなかった我侭(わがまま)の心を懺悔したとき、

多くの病気は癒されているのである。


「 あなたならこそこんなにして下さるのに、

私の尽くしようが足りませんでした。

こんな不つつかな私でございますのに

こんなにも愛して下さいまして、有り難うございます 」 と、


真に全心全霊、お詫びと感謝とをしたとき病いは癒えるのである。





[669] 24-12  三十一日の法語  過去を除夜の鐘と共に放つ日
明鏡 - 2013年10月31日 (木) 09時00分



今年も愈々(いよいよ)今日で終りである。除夜の鐘は百八つ鳴る。

百八の煩悩を梵鐘(ぼんしょう)の清浄なるひびきによって消し去るのである。


罪はないのである。過去はないのである。過去は過ぎ去る。

来るべき世界は唯(ただ)光明のみである。


然(しか)し罪をつかみ、過去をつかんでいる限りは

過去は消えず、罪も消えないのである。


人の罪を悉(ことごと)くゆるすこと。ゆるすとは放つことである。

掴(つか)んでいる限りは過去も消えず、罪も消えないのである。


今夜私は神想観をして今まで人々に対していだいていたすべての

悪しき咎(とが)める念を放ち去るのである。



「 自分はもう何人(なんびと)をも憎(うら)んでいないのである。

すべての人々よ、過去はないのである。


今まで若(も)し私が皆さんに対して悪念をいだいていたならば お赦し下さい。

私もすべての人々の罪を赦したのである。

その如(ごと)く神も亦 私の罪をゆるし給うたのである。


私は全く新しき浄(きよ)らかな心をもって新しき年を迎える。

さらば過去よ。色々とわが魂の向上のために教えたまいし過去の年と、

その中にあらわれたまいしすべての人々とすべての事件とに感謝致します。さらば。」






[932]
佐渡山 安竹 - 2017年03月24日 (金) 10時43分

『生長の家』昭和24年12月号  法語(一日〜三十一日)谷口雅春先生

以上を拝見しました。
全てがしっくりきました。
貴重なお言葉、ネット上に提供頂き、ありがとうございます。
深く感謝しています。

私は今、日々雑念を解きほぐしています。
今朝も既に、自らの善い行い、良くない行い、沢山見つけました。
日々、反省しています。

少なくとも、ひと月前と今とでは、自分がまるで別人です。
楽になっています。

そうしてようやく、谷口雅春先生のお言葉に巡りあいました。
そんな自分が嬉しいです。

恐縮ながら、私のニーズをささやかにお伝えします。
『安東巌さま』の、生の法話に触れたいです。

場違いな振る舞いでしたら、申し訳ございません。

念のため、私の連絡先を記載しておきます。
458-0039名古屋市緑区四本木115エルグランデ左京山2A
佐渡山 安竹(さどやま やすたけ)080-5104-8359,,,C(ショート)メール届きます。
※本日、スマホの機種変更を行います。
番号、アドレス等は変わりませんが、何かイレギュラはあるかも知れません。

ホームページを運営されているスタッフ御一同様。
スタッフ様が心地よい範囲で、何かヒントを頂けると幸いです。

まずは、つなたい私の文章を読んでくださり、ありがとうございました。



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