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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[866] 生長の家家族の祈願及び修養@
伝統 - 2015年10月15日 (木) 19時32分

《生長の家の意義と誕生について》

      *「生長の家とは如何なるものか」(P3〜8)より

これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。
生長の家の家族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書が
これに書いてあるのであります。順々にそれを説明いたします。


   《『生長の家』の誌友および読者はすべて「生長の家」の家族として
    この祈願に従いて、生活し、修養し、おのおの隣人を照らす
    燈台たらんことを期す。》


ここに書いてありますとおり『生長の家』の誌友および読者すべて生長の家の
家族というわけでありまして、これから述べる祈願および修養の道しるべに
従って生活し、そうして隣人を照らす燈台となろうという光明の大願をもって
各自の生活を出発せしめるのであります。

そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが
修養雑誌を出したその雑誌にたまたま付けられた名前ではあったのですが、

しかしながら本当の『生長の家』というのはこの雑誌の名前ではない、
といってまたわたしの個人の家の名前でもないのであります。

「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするので
ありますけれども、『生長の家』というのは『大宇宙』ということであります。

「生長の家」というのは創造することで、
いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。

だから大宇宙のことを『生長の家』と申しますので、この大宇宙に満ちている
生命創化の法則を研究し、その法則を宣べ伝えて、広く人類を教化しようという
目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されています。

 
「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。

で、この「実相世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。
仏教では「寂光土」という言葉を使っているのであります。

これはその形容がなんとなく静的すぎる、ちょっと眠たいようなあんまり
平和すぎるような、活気のないような言葉でございます。

わたしは実相世界を形容するのに、
そのように活気のない言葉を使いたくないのであります。

無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはある
のでありますが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では
「実相浄土」の無限に光明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことが
できないきらいがありますので、、

われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、
活気溌剌たる少年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』と
いい、仏教では「寂光土」を現わしているのであります。

                    
『法華経』の「寿量品」の「自我偈」には「衆生劫尽きてこの世が焼け尽くると
見える時にもわが浄土は壊せず」ということが書かれているのであります。

が、その衆生がこの世を焼けつくると見、憂苦が充ち満つると見ても、
そういう憂苦満ち破壊満つると見える娑婆の世界は、活動写真のような、
念の化作した偽存在の世界であって、

本当の世界には天人が伎楽を奏している美しい堂塔伽藍が建ち並んでいる
実に立派な世界、これが寂光土である、そういうふうに書いてあるのであります。

寂光土といえば空な何もない静のほかには、何もない世界かと思ったら、
天人が伎楽を奏し歓楽が満ちている、喜びが満ちている、美しさが満ちている、
無限の智慧が満ちている、無限の喜びが満ちている、無限の楽しみが満ちている
世界だと書いてある。

そういう実相の浄土を称して寂光土というのには相応しくないような気がする、
やはり無限創造、無限伸展の世界と言いたい、無限「生長の家」だと言いたい、
それでわれわれはこの実相の浄土を無限創造の「生長の家」と言うのであります。

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して現われたのが、
地上の「生長の家」であります。
皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、
文章に――その言葉の響きの現われたのが、最初この『生長の家』という雑誌
であったわけであります。

その雑誌は最初、昭和5年の1月に本当は誕生したのであります。
その前年の12月に、わたしがちょうど関東大震災受難後2回目の泥棒に
遭いまして、すっかり物がなくなって、

それが機会に無一物の「今」のうちに無限の力が宿っていることが本当に悟れて、
「今」起たなければ、「今」生きなければ生きる時機(とき)はないのである、

現象的の条件が備わってから自分の使命を遂行しようというふうな、
そんな“あ”ま“い、”ま“だ”る“っ”こ“い”ことを考えているような
ことでは本当の生きる道はない、

「今」の一瞬にいっさいが包蔵されているから、「今」欲することに取りかかろう
という大決心をいたしまして、12月にさっそく家を移転してそれから
執筆を始めまして1月元旦には最初の第1号が出たのであります。

ちょうど、その頃のは、わたしの著書の読者や、友人の雑誌の書いた
わたしの文章を読んだ人でよく手紙をよこしておられたような人たちが
150人ばかりありました。

その150人の人たちに、新しく印刷した雑誌『生長の家』をお送りした
のであります。千部印刷いたしましたけれども、知っている人は150人ぐらい
しかない。

そうして、弘めようといってもむやみに無駄に振り撒くわけにもゆかない、
因縁のない人にあげて紙屑にされるのもつまらないことである。

それで、150人ぐらいの人たちに2、3回ぐらいずつ上げて、誰か知人に
やってくれませんか、いくらでもほしい人には上げますからというふうな
具合にして送っておったのであります。

それがちょうど昭和5年の1月の初めのことでありましたが、納本後2カ月の
余裕を持たして創刊号の発行日は3月1日として印刷しておいたのであります。

『キング』や『日の出』は発行日の前月5日頃の出る、
『生長の家』は前々月末に出たといううようなことになっていた。

というのは、最初の創刊号によって誌友を獲得して、どれだけの部数が出るか
だいたい見当をつけてから次の号を出したいので、1ヵ月のうちに誌友を獲得する
ことはとうていできないので、その間に2ヵ月間の余裕を置いておきたい、

とこういうのでその年の1月の終わりごろの納本された雑誌に3月1日発行と
日付して出しておったので、公の創刊号発行記念日は3月1日ということに
なっており、これが、3月1日なら時候もよいので、春季の生長の家記念日と
後に定められることになったのであります。


ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びの勝てる、
光に満てる実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたので
あります。

そうしてその言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」と
いうことになったわけであります。

むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友
あるいは読者には限らないのであります。

本当に実相の浄土を地上に生きる人、
この人はむろん生長の家家族であるわけであります。

だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち実相の浄土を
地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす
光となり、おのおのの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、
こういうのがわれらの祈願の第一条の標識であります。
                 
             <感謝合掌 平成27年10月15日 頓首再拝>

[868] 《各宗教に対する生長の家の立場》〜その1
伝統 - 2015年10月16日 (金) 03時39分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P8〜11)より


    《われらはあらゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、
     他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことをを期す。》

 
いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみな
この世の光となろうとする使命をもって生れているのでありまして、
電燈の光も、ガス燈の光も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとく
これ照らさんがために現われているのであります。

照らさんがために現われているけれども、おのおの用途がちがう。

小さな懐中電灯は小さな懐中電灯として用途があり、
大きな五百燭光の電燈はまた五百燭光の電燈として用途がある
というわけでありまして、

床下の小さなところを照らすのに、五百燭光の大きな電燈で照らしてみよう
とするとかえって邪魔になるというふうになるわけであります。

それで小さな電燈もわるいものでなければ、大きな電燈もわるいものでない。
あるいは電燈の笠の形にも、スタンドの形にもいろいろある。
そしてそのどれにも特殊な美しさがある。

けれども、その特殊の美しさもそれを用いる部屋とか、
あるいはその光を求める場所とか、それぞれに応じて適当な形をし、
適当な美しさを備えているのがよいのでありまして、

部屋の中へつけるような装置の、構造の電燈が、いくら恰好(かっこう)がよい
からとて玄関へぶら下げてみても、かえって変な格好になるし、

あるいは四畳半の部屋にこういう大講堂につけるようなシャンデリアを
装置してみてもこれまた眩しくて、書物を読んでも、紙面が光って
かえって読めないということになるかもしれないのです。

そういうわけで、光(ひかり)というものは照らす役目のものであるけれども、
いろいろの程度の光やいろいろの形の燈具(とうぐ)がまた必要である。

あるいはX光線のような人体を透視するような光も必要である。
あるいは紫外光線のような、目には見えないけれども、
われわれに有効な働きをするところの光もまた必要である。

目には見えないからこいつはなんの光もないのだとこういって
ある光を排斥してしまうということはできないのであります。


こんなわけで、この世の中のあらゆる宗教は、おのおの総ての電燈は
照らす光として働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、
人の心を照らす光の輝きをしているのであります。


それに、いちいち相手をけなして自分ばかり善いのであると、こういうような
宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。


宗教は要するに愛を説くものである。
愛とは、仏教でいえば慈悲と申しますが、キリスト教でいえばたいてい愛という。

愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きです。

すべて生物および森羅万象を、その形骸である物質的方面から見ると、
自と他の対立したように分かれているけれども、
本来一つのものであるということを知ることが愛であります。

たとえば、われわれが子供を可愛いと思うのはどうして可愛いのであるかというと、
それは自分から出たものである、本来自分と一つのものであるという気持がする
から自分の子供が可愛い。

ところが、他人(ひと)の子供は何となしに自分から出たような気がしない。

すでに悟った人は別でありますけれども、肉眼で見たところ、どうも自分から出た
ような気がしない、自分と一体であるような気がしない、それで他人(たにん)の
子供はあまり可愛くなくて自分の子供だけは可愛いという鬼子母神のような
かたよった愛になるのであります。

つまり、愛というのは自分と他とは一つのものであるということを知ることが
愛であります。

この愛というものを宗教の上に押し広げてゆきます時には、

《自分の宗教と他の宗教とはやはり一つのものである。ということがわかった時に
はじめて宗教と宗教とが愛によって結ばれるということになるのであります。》

すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体である
という実相を知らせ本当の相(かたち)を悟らせるために現われたところの
この宗教が、宗教同志仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、

あいつはわるい、あいつを撲滅しなければならない、あいつが栄えたら
わしの方の宗教が栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、
争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われたという
目的に反(そむ)くわけであります。


かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、
どれだけ他(ほか)にあってもよいのであります。

自分は自分で光ればよいのであって、他(ひと)はまた他(ひと)で光ればよい。

人類も多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現れて
これを照らす、五百燭光の電燈がありさえすれば、懐中電燈は要らぬというわけでは
ない、太陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。


             <感謝合掌 平成27年10月16日 頓首再拝>

[872] 《各宗教に対する生長の家の立場》〜その2
伝統 - 2015年10月17日 (土) 04時58分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P11〜12)より


生長の家では決してたの宗教をわるくいわないのであります。みんな結構である――。

真宗の方が来られると、真宗ですか、阿弥陀様を信心されてたいへん結構でございます、
阿弥陀様をせいぜいしっかり信仰しなさい、こう申し上げるのであります。

しかし、阿弥陀様を西方十万億土の彼方に一国の城主のごとく一つの境界をめぐらして、
そこに王様のようにしているようなそんな小さな阿弥陀様だと思いなさんな。

尽十方無辺の世界に満ちているところの限りなき無礙光であり、大いなる生命である
この無量寿の仏様を本当に見なさい。

これが真宗の本尊で、本当の救いは、この尽十方無礙光如来と本来一体であることを
知ることにある、と真宗の人にはお話するようなわけであります。

             <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

[873] 《各宗教に対する生長の家の立場》〜その3
伝統 - 2015年10月17日 (土) 04時59分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P12)より

あるいはまたクリスチャンの方が来られると、
ああキリスト教の神様は非常に結構な神様である。

キリスト教の開祖であるイエスを、たんに二千年前にユダヤに生まれ、そうして
磔刑になって、三十三歳で死んでしまった、そんな生まれて死んだような、
そんな小さな肉体的存在だと思いなさんな、

久遠の昔から生きている真理の顕現 ―― これが本当のキリストである。
キリスト自身「アブラハムの生まれぬ前より我は在るなり」といわれている ――

これが本当のキリストですが ―― あんたはもっともっと深くキリスト教の奥まで
入って、もっともっと大きくキリスト教の教祖を生かさなければなりませんぞ、
というふうなぐあいに申し上げるわけであります。

             <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

[874] 《各宗教に対する生長の家の立場》〜その4
伝統 - 2015年10月17日 (土) 05時00分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P12〜13)より


あるいは神道の方が来られるとしますと、

天照大御神といわれる神様は、たんなる有限存在としてある過去の年代に、
ある短い寿命をもって生れられ、今はすぐに在(いま)さずして、ただわれらの
追憶を満足さすための記念としてお祀りしてあるというふうな、
そういう短い寿命の神様だと思いなさんな。

天照大御神とは高天原すなわち「光明遍照の実相世界」に遍満する万徳円満の
大光明である、その万徳から一切の生物が生まれ出た。

しかし、動植物はその万徳の一部分を表現しているにすぎない。
その万徳を完全に体現して生まれ出たのが人間である。
だから人間の男性を日子といい、女性を日女という。

だから人間は神の全徳の最高顕現として実に尊いのであって、その元の大元の
大きな生き通しの遍満十全の御徳、これが、天照大神様である。

たんなる、過去の存在ではない、たんに過去の存在を記念するためにのみ祭祀し、
奉るというようなそんな小さな神様ではない。

本当に今もありありと生き通して、久遠の昔から今に至るまでありありと
生き通しておられ、われわれに生命を幸延えたまい、われわれの生命を生かして
いられるところの天地遍満の無限の天照、無限の生命の根源が、天照大御神様である。

この親神様の全徳の天体的表現が太陽である。
われわれは太陽に生かされているのである。

われらが神の子というのは親神様の尊い生命の流れを受けて親子関係にあること
である、と申し上げる。

つまりどの宗教の方が来られても、もっともっとその宗教の奥へ這入りなさい、
大変あなたの宗教は結構であります、
こう申し上げてすべての宗教を生かすのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

[875] 《各宗教に対する生長の家の立場》〜その5
伝統 - 2015年10月17日 (土) 05時01分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P13〜15)より


あるいは金光教の方が来られると、金光教の神様は天地金の神といわれる神様である。
天地金の神というと、金の字がついているから、拝んだら金でも儲かる神様である、
こういうぐあいに思って、御利益信心で詣っておられるような人もあるけれども、
そんな“けち”な神様がこの金光教の神様ではない。

金の神というのは「金剛不滅の実相の神様」ということである。
天地遍満の金剛不壊実相の神様、これが金光教の天地金の神であります。

その金の神という名前がついているから、どうぞ金を儲けさしてくださいなんて、
頼む奴には金を儲けさして、頼まぬ奴には儲けさせぬ、そういう依怙贔屓のあるような
神様が金光教の神様ではない。

金光教の神様は、金光教祖がいわれたように「頼まいでもおかげはやってある」
こういわれる。これは面白い言葉である。

頼まいでもお陰はやってある――これは「生長の家」の教えと同じことであります。
すでにわれわれは神の子として、無限者の後継ぎとして神の命じ給えるいっさいの
ものを与えられているのである。

いっさいのものを与えられているのであるから、「頼まいでもおかげはやってある」
とこういううぐあいに金光教祖はその御理解の中で説いておられるのであります。

「たのまいでもおかげはやってある」――それをまちがえて、どうぞ金を儲け
さしてくださいと、頼みに行く先が金光教の神様であるように思ったりしていては
教祖が嘆かれる、

あんたの宗教の本来の教えはよいのだけれども、取りようがまちがっている、
だからもっともっと金光教の奥深く這入ってゆきなさい。
こういうふうに申し上げるのであります。

金光教の教えは実によい教えでありまして、
「神は宮の中におらぬから、わたしを拝みたければ外へ出て拝め」
というふうな徹底した教祖の御理解もあります。

それにもかかわらず立派なお宮をこしらえて、そうして蝦で鯛を釣るつもりで、
わずかなお賽銭を上げて金を儲けさせてもらおうと思って拝んだりしている者が
あるから先般のような金光教の大騒動が起こってくるということになる。

あれは金光教祖の教えではない。
金光教祖の教えは実に立派な教えである。

神は宮の中におらぬ。
天地遍満の金剛不壊実相の神様がお宮の中に、物質という箱の中に入って、
そうしてお賽銭を貰って、お賽銭の多寡によって御利益に大小があるなんて、
そんな馬鹿なことがあるはずない。

それをちゃんと金光教祖は喝破しておられたのであります。
だから「頼まいでもお陰はやってある」とか「疑いを離れて見よ、われらは
神徳の中に生かされてあり」とか言っておられるのであります。

われわれは神徳の中に今、このまま生かされているものを、眼をつぶって
まだ貰っていないようなきがしておる、そうしてどうぞお陰を与えてください。
どうぞお陰を与えてください、こういうぐあいにいっているのです。
だから、金光教祖は「疑いを離れて広き大道を開き見よ、われらは神徳の中に
生かされてあり」と喝破しておられるのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

[876] 《各宗教に対する生長の家の立場》〜その6
伝統 - 2015年10月17日 (土) 05時02分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P15〜19)より

それからまた、たとえば天理教の方が来られますと、
天理教はたいへん結構な教えです、こう申し上げる。

天理王命といわれる神様はこれは天地の理法が神様として
人格化して顕われられたものである。これはたいへん結構な神様である。

生長の家でもやはり天理教のように『心の法則』ということを説いている。
天理教の教えは、生長の家でいう「心の法則」、仏教でいう因果の法則を「理」
として取り扱ったもので、

一方にはやはり人間本来神の子であって、完全な水晶球のような汚れない
霊(みたま)である、それにちょいと塵がついただけである、
こういうぐあいに天理教祖の「筆さき」の中に書いてあります。

天理教祖の「筆さき」の主なる解釈は『生命の實相』全集「萬教歸一篇」の中に
書いておきましたから見てくださればいいのでありますが、
要するに、天理教も実に立派な教えである。

そんな立派な教えを本当に立派なものにしないで、取りようがまちがって、
そうしてもっともっと一段と低いものに変えてしまった、それが気の毒である。

それで生長の家では天理教をわるくいわない。
天理教は実に立派な教えだが、あなたが今思っているようなそんな下らない
迷信的分子のあるものだと思いなさんな、もっと教えの本体を見て立派なものだと
思いなさい。

金を持ってこなければ御利益をやらぬぞ、
そんなけちを言うような教会宗教だと思いなさんな。
こういうぐあいに申し上げるのであります。

「生長の家」へも時々天理教から、病気が癒らぬので治してほしいといって来られて、
うったえられるのです。

わたしは「あなたは天理教で心の持ち方を教えてもらったでしょう。
そのとおりの心の持ち方になれば、三界は唯心の所現ですから治るんですよ」と
申し上げると、「運びが足らぬと天理教の先生がおっしゃいました」と、
こういうふうなことをよくいわれるのです。

天理教布教師はなんのつもりで、なんの運びのつもりで言われたのか知りませぬ
けれども、その人が言われるには、「あまり運んでおると財産も何もなくなって
しまいますので、もうとうていやりきれぬというのでやめにしました」
と言われるのです。

ところが天理教の布教師が、
「あなたは運びが足らぬ。何もかも神様に上げてしまいなさい。
そしたらあなたは救われるのだ」とこういうぐあいにいわれるのは、
それは真理なのです。

「運びが足らぬ」というのは心の運びが足らぬのです。
心がスッカリと転向していないのです。

「何もかも神様に上げてしまいなさい」ということは、要するに、
「何もかも、神の他のものは何もないということを知りなさい」
ということなのです。

われわれが百万円の金を持っているとして、何もかも神様にお上げしようと
思って、百万円すっかり上げたってまだ何もかも上げたということには
ならない。

やはり着物も着ているし、肉体も持っているし、
いろいろ茶碗と箸ぐらいは持っている。

それをみな、肉体のみんな上げなさいと言ったって、
それはできることじゃないこととなってしまう。

では「みんな何もかも神様に上げてしまいなさい」ということは
どういうことかというと、これは自覚(さとり)である。自覚の転換である。

今までは「そこらにあるものは自分のものだ」と思っておったのだが、
「何もかも上げてしまいなさい」とこういいうふうにいわれて
「本当に全部上げてしまった」ということになると、

今ここにこのままいながら、自分というものは何も無い、本来無一物、
ただ神だけがあり、神のものだけがある。この体も、生命も神のものである
ということが覚れる。

こいつが肝腎なんです。この自分の生きている生命も神のものである。
そうすると、言い換えると自分すら神のものだということになるのであります。

いろいろと財産を持ち運んで行ってその報酬に御利益を貰うのではないのです。
自分が今このまま神のものである。神のほかに何ものない、神のみが実在である。
この自覚こそすべての持ち物をみな神様に上げてしまうということなのです。


「われのもの」であると思っているが、その「われ」というものすら無いものだ
とすっかり何も無くなってしまって、もう“神様だけである”、
神様のみが実在である。

ここに神様がいる、あるいは親兄弟姑さんとか、意地悪の小姑さんとかがいる
としても、そんな悪いように見えるものは、アルように見えても何もない。
みんな神である、神以外のもは一つもない。

そういうことがわかるのが「みんな神様に上げてしまいなさい」ということである。

存在のすべてを神に託したのですから、みんな神に献げたことになる。
所有財産中の一部の百万円や、五百万円や、財産残らず持って行っても
そんなことでは全部を神様に献げたことにならない、
そんな不徹底なやり方ではいけないのです。

もう生きているこの生命の元さえも少しも残るところもなく全部神様に上げる。
そしてここに「神だけがある」というふうにしなさい。
これが本当に全部神様に捧げるということであります。

こういうふうに説いてあげますから天理教の信者たちも、
あの自分の信じた天理教はそんなに立派な教えであったのか、
と喜んでお帰りになるのであります。

天理教もこう見てくると実に立派なものである。
仏教の極地の「ただ実相のみがある」という仏教の極地と天理教の極地とは
実にぴたりと一つになれる。

天理教を病気だけ治してもらう宗教だと思って
病気を治してもらうことばかりを思うのはまちがいである。

もっとあんたは自分の信ずる宗教を立派な宗教と思いなさい、と、
信者自身が思っていりよりずっと立派なものであると、
こう称えてあげるのが生長の家であります。

宗教というものは、ずっとその奥堂へ入ってゆくと、
こういうふうに実相の世界へ入ってゆく、実相の世界とは先刻申しましたおり、
「生長の家」でありますから、

天理教は天理教のままで生長の家に入れ、仏教は仏教のままで
神道のままでみんな生長の家に入れるのです。

それで、聖書にも「父の国には住居多し」と書いてある。

つまり、生長の家は、アパートみたようなもので、
天理教の住まう家もあれば仏教の住まう家もあると、
まぁこういうふうな一切包容の「家」であります。

             <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

[877] 神の子の生活を今生きよ〜その1
伝統 - 2015年10月18日 (日) 04時27分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P19〜23)より

   《われらは自分を神の子(または仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、
    内なる魂の誇持(ほこり<きょうじ>)を傷つけざらんことを期す。》

さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、
そのわかった神の子を今生きて行くということが必要なのであります。

「自分は神の子である」とわかりながらそれを今生きて行かないというのは、
これは実に矛盾したことであります。
そういう人は実際は、本当に神の子であるとわかっていないのであります。

そういう人が神の子であると思うのは、偽存在(にせもの)の自分を
神の子であると思っている場合にそうなるのであります。

偽存在(にせもの)の自分、我(が)の働きが神の子であるとこう思っている、
その場合には、いくら聖典を読んでも実際に神の子らしき行ないとして
そこに現れてこないのであります。

偽存在(にせもの)の自分をいくら磨いても本物になるわけはないのであります。
真鍮(しんちゅう)の指輪をもってきて、磨いたら黄金(おうごん)になるであろうと
思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであります。

それと同じく、この偽存在(にせもの)の自分をもって「神の子である、神の子である」
とこう思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。それでわれわれは神の子
であるという自覚を実相から出してくるということが必要であります。


よく病気の方などで、あんた『生命の實相』をよく読んでおられますかというと、
よく読んでいます、朝から晩まで『生命の實相』ばかり読んでそうして疲れてしまって
何もできません(笑声)とこういう人があります。

こういう人は『生命の實相』の真理をどこへ滲み込ませようとしているのであるかというと、
偽存在(にせもの)の自分の中に滲み込ませようとしているのあります。

だから何か金粉のようなものを付け加えて磨いておったらしまいには金になるであろう、
こういうふうに思って朝から晩まで真鍮を磨いている方である。
それじゃいけないのであります。

それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は《神の子を生きる》という
ことで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うとまちがい
であります。つまり「知る」とは「生きる」ということである。

親鸞聖人が「信心よろこぶその人を如来とひとしとときたまう。大信心は仏性なり。
仏性すなわち如来なり」ということを『弥陀和讃』の中で説いておられる。

という意味は、信心を起こす心、この本当の信心というものは、
如来と同じものであるということである。

では、如来はどういう働きをしたかというと、一切衆生を生かさんがために、
いろいろ無限の愛をもって超載劫の永い間行(ぎょう)をして、今西方に安楽国
という浄土を建設して、そうしてそこに、わたしを頼むと利他的な念願で働きを
しておられるのであります。

その仏の働きが自分の中に出てきたらこれが信心である。

信心というのはただ南無阿弥陀仏とこう口先にいって、
「偽存在(にせもの)の肉体の自分」が蓄音器のレコードみたいに「南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏」といいながら、行の上で嫁いじめをしているというふうなことでは
これは信心ではない。

《信心とは仏の心が自分の中に生きる》ことである。

金光教祖は、「日に日に生くるが信心なり」とこういわれた。
日に日に生くるが信心なり ―― そうしますと、この南無阿弥陀仏というのは何で
あるかというと、「南無」というのは帰命である、弥陀の命に帰一するということです。

阿弥陀様の生命(いのち)のままに生きましょうというのが南無阿弥陀仏であります。

ところが、阿弥陀様の生命のままに生きましょうと口に唱えて、
その ―― 阿弥陀様は慈悲の権化であるのに、
その阿弥陀様の生命(いのち)のままに生きましょうといいながら、

嫁をいじめてみたり、欲ばって泥棒してみたり、無理なことをして儲けてみたり、
「このくらいのことはよいだろうから、ちょっとだけ猾(ずる)いことをしよう」と
そういうふうなことを考えているようなことでは、

「阿弥陀様の生命(いのち)のままに生きましょう」とこういいながら、
阿弥陀様に背を向けている、どこにも阿弥陀さまに帰命していない。

これではその人は信心じゃないのであります。

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」
この自覚で生ききるのが信心であります。

今まで仏様というものをまちがって解釈して、なんでも涅槃寂静であって、
力のない、空のなんにもないようなものである、とこういうふうに考え、
なんの力なく、死んだように、空になったように遁世してしまう。

これが仏様の命令のままに生きるのだと考えたらまちがいなのであります。

仏様は無礙自在の働きをして、少しも休む暇なく働いていられるのであります。
人のために休む暇もなく働いて働いてやまない、これが仏様の心をわが心とし、
仏様に帰命することであります。

この世、現世は無常であって、本来ない空であると仏典はいう。

そして仏様も空(くう)である、みんな空であるからどうでもよいのだと、
したいままをして、結局空(くう)に帰して、それで一生涯であるというふうな
考え方をして、この世をつまらなく否定してしまうことを本当に仏道を生きる
ことだと思っていると、それはまちがいなのであります。

現代の仏教が本当の教祖たる釈迦の御教えから外れてしまって、ただこの現世は
無常である。空々漠々である、仏様も空である、みんな空であって、その空から
阿弥陀如来というものが現われて、そうして西方極楽浄土に報土(ほうど)を作って、

この南無阿弥陀仏と口の先だけで称えておったら、死んでからそういう極楽浄土で
楽をさしてもらうのだというような、そんな馬鹿な考えをもっている似而非(えせ)
仏教信者があるために、せっかくの尊い釈迦の教えが死んでしまい現実を生かさない
という残念なことになっているのであります。

この釈尊の御教えを本当に生かし、
同時にすべての善き宗教の教祖の御教えの神髄を生かすのが生長の家であります。

本当の信心は、今自分が仏子であり、神の子であるということを知る、
そうして、今自分がその仏なり神の子なり生きることであります。

             <感謝合掌 平成27年10月18日 頓首再拝>

[878] 神の子の生活を今生きよ〜その2
伝統 - 2015年10月18日 (日) 19時17分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P23〜25)より

 
「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。
仏様は衆生を救わんがために千変万化していられることを知ったら、
自分もそのとおりに生きることです。

これが本当の信心なのであります。

たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、
その百万円の金をじっとさしておくはずがなにのであります。

あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ばしてやりたい、
こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。

だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。

ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、
そこに百万円の活動が始まってくる。

《知るということは活動することである》。

われわれが仏の子であり、神の子であるということを知ったならば、
その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなければならないのです。

それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。
だからわれわれは仏の心を行動に移すということによってはじめて仏をここに実現した
ということになるのです。

仏は法(ほう)である、法(ほう)は「宜(のち)」であり「述べる」であり、
コトバである。また聖書のいうとおり、神もコトバである。
コトバとは何であるかというと震動である。

震動とは何であるかというと活動である。
活動が神であり、仏である。
仏は涅槃寂静で、空で何にもない ―― そんなことじゃないのです。

活動が仏である。
法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立(こんりゅう)せられた、
今もまだ働き給うのです。

仏の本願とは、仏の活動です。

仏とは《ほどける》ことで、縛りがなくなって自由自在になることであって、
無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではない
ということになるのであります。

だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして
いただいたならば、ただちに、即刻、今日から、

《今から、この瞬間から》「神の子」を活動させる、愛によって隣人に働きかけて
これを光明化し救うということが必要なのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月18日 頓首再拝>

[880] いっさいのものを拝め〜その1
伝統 - 2015年10月19日 (月) 03時44分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P25〜26)より

   《われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、
    大地を、火を、水を、いっさいの大自然と生物とを観るに、その背後に
    神の生命の円相を観、その生命(せいめい)を敬し、礼し、愛し、
    いやしくとも浪費せざらんことを期す。》
                             

そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し
動き出した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは
第一ヵ条のところでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。

寂光土というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち
無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、

この無限創造の宇宙たるやどういうものであるかというと、
聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでも
こんなに美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貌は見えないけれども、
妙なる世界の《うつし》とし、写真として見える。

(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相 は写真に比べると、
もっと複雑な相をし、もっと複雑次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているので
あるけれども、写真にはただ一色の平面の姿に写っている。)

それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の世界の
複雑微妙な無限次元(ひろがり)の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えている
のであります。

けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や、
大地や、火や、水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、
この第三次元の縦・横・厚みのこの下らない、単純な、味のすくない世界とは見ないで、

その奥の奥を観て、実相を観て、もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命と
いうものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを
念願するのが生長の家の生き方であります。

             <感謝合掌 平成27年10月19日 頓首再拝>

[881] いっさいのものを拝め〜その2
伝統 - 2015年10月19日 (月) 20時03分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P26〜29)より

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、
原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。

原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。
だから生命(せいめい)礼拝といっても浅薄な現象生命の礼拝であったので、
現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

この現象の奥の実相を観て礼拝することを教えたのはまず「法華経」であります。
生長の家と仏教とは根本において少しもちがっておりませんけれども、
現在世人が普通に考えられている仏教というものとはややちがうのであります。

というのは、釈迦の説き方がわるいのではない、
釈迦の説き方を理解することが出来なかった後の祖述者が
教祖の正説を完全に伝えなかったというわけであります。

仏教では「色即是空」――物質は空であると、こういうぐあいにいうのであります。
「生長の家」でも物質は本来空であるというのであります。

仏教でもむろん「実相」という言葉は使っておりますけれども
そいつが時々誤れまして、
「《実相》すなわち《空》なり」というぐあいに説いている人が多いのであります。

実相を空であるとすると、そうすると、その「空」とはどんなものであるかというと、
空(くう)であるから、空気みたいで、エーテルみたいで形がない。
形がないから、何もないようなものであるから金剛不壊である。

たとえば空気はいくら斬っても斬れやしない。
もう一つ空気よりも、手にも触れないエーテルみたいなものになってしまうと
いよいよ斬ることができないものである、それであるから金剛不壊である。

実相はエーテルみたいなものであるから自由自在であると、
こう実相を空々漠々なものとある仏教家は考える。

ところがもしわれわれの実相というものがエーテルみたいなものであって、
空々漠々のもので無色透明の、ちっとも美しいこともなんともない、

そういうふうなものが実相であって、変化の姿、美しい姿というものは幻みたいな
何もないものであると、こういうふうに説くまちがった仏教者に従って
「汝ら実相に還れ」という教えを生きることになるのが、仏教に従うことになって
しまう。

これではさしずめ三原山や浅間山の噴火口が賑うことになるのでありますが、
これではいけないのであります。


空を単に無と解すれば実相というものはそんな空じゃないのです。
空は現象であって、実相は空ではない、それは無限荘厳の世界である。
無限の荘厳(うつくしさ)のある世界なのであります。

ここが大切なところでありまして、
『法華経』以前の仏教では「一切皆空」となっているのであります。

『華厳経』なんかでも、心・仏・衆生三無差別であって本来空のものである。
心が悟れば仏になり、仏が迷えば衆生になる。

そうして仏といえども本来は空であって、
なんにもないようなものであると、こういうぐあいに説いてあるところがある。

そうするとわれわれ悟りを開いて涅槃寂静、本来の実相に帰するということは
空になってエーテルみたいなものになることだとこういいぐあいに考えられる。

そうなると、われわれは首でもくくって自殺してしまったならば、
座禅も禅定も要りはしない。

そういうエーテルみたようなものがわれわれの生命の実相であり、
それに帰するのが実相に帰するのだとしたならば、
生きているのは何のために生きているのだかわからない、

こういうふうに仏教をまちがって解釈した人が多かったのが
仏教衰退の原因なのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月19日 頓首再拝>

[883] いっさいのものを拝め〜その3
伝統 - 2015年10月20日 (火) 04時15分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P29〜32)より


けれども、『法華経』は決してこの、そういうエーテルみたいな、千遍一律の、
空気よりもまだまだ、はかないような同室平等な世界を説いているのじゃない
のであります。

『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等な
ホモジニヤスな世界ではなく、実に実に美しい世界が書いてある。

園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、
宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なりと書いてある。
あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現れていない。
それはただ形容が書いてあるだけでありますけれども、
あれが実相の世界であります。

その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズを通して眺めると、
そのレンズに曇りがあるからいまわれわれが肉眼で見ているような、
こういう美しさやら、汚れやら、愛やら、争いやらが取り交ぜて現れている。

美人もあれば、病人のような憔悴した醜い相もあるというふうに出ている
のでありますけれども、本当のわれというものは「無限荘厳の我」である。
活気溌剌たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。
今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでから
そういう無限荘厳の世界へ往くのだと思うとまちがいであります。

衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時にも、病苦にて痩せさらばうて
貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、われわれは宝樹華果多き
実相の国土に安楽身を逍遥させているのです。

今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、
下へ映る世界は縦・横・厚みだけしか映らない。

それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上にあって残っているので、
われわれの五官という網目を通して見るとどうしても縦横厚みの三次元しか
見えない。

その三次元だけでも完全に原形そのままに見えればよいのだけれども、
念のレンズに凹凸さまざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、
近眼でもないものが近眼に現われたりしている。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら
近眼が近眼でなくなり、あるいは、病人でなくなるといううふうになる。

けれども、ここに健康になり、近眼の治った人間でも、
それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。

それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ ―― その何といおうか、
言いようのない、無限の妙なる実相人間の姿を、ただ縦横厚みの三次元だけを
撮影する写真機で映した人間なのです。

それからは無限次元の複雑な美しさ捨象(すて)られている、
ただそれが比較的歪みなしに映っているのは、
健康な人間として扱われているのであります


そうして誌友会さんの家庭生活等でも、「生長の家」へ入信して以来、
本当に極楽のような円満な家庭が出てきたという事実がたくさんあります
けれども、たといそれが極楽のような家庭でありましても、
現象世界の極楽状態は本当の実相の極楽状態には及ばないのであります。


ともかく、われわれ現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと
思ってはいけないのです。

その現象の奥にある実相を見、そこに十分なる神の相、実相の円満な相を観て、
そうしてそれに対して敬礼をするという気持ちにならなければならない
のであります。

蓮如上人は「一枚の紙もすべて仏物である」と言われたそうでありますが、
その心持こそ大切である。


「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」
ということが書いてあります。「使うほど殖える」から、紙でも無暗に
一字ぐらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環をよくして
いいことだろう、こう考える人があるかもしれない。

しかし、それは嘘である。

本当に使えば使うほど殖えるけれども、
それは破って捨てるのは使うじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命うを見、神の無限の光を見、
神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。
これを礼拝してつかわずにはおれない。

今までは「もったない」ということは棚の上に上げて蔵って置くと
こういうふうな考え方が多かった。

それで「もったない、もったない、食べたらもったない。着たらもったない」と、
戸棚や箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。
実に立派なものであるから、この立派なものを、その顕われている生命の働きを
十二分に発展させて使えば使うほど殖えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従って
そこに顕われている神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされて
くる、それが無限供給である。

使えば使うほど殖えるということになるのであります。

「物質は無い」ということはそこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。
その奥には物質ならぬ実相があるということであります。
これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。

生命は生きる、生きるから生活であります。
我れ神の子なりと知ったら、神の子を今、生、き、る、といううこと、
これが神の子を知るということであると申しました。

それをまた客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。
この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、

それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現われているという
ことを知れば、それを生きるということは、
ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。
すると使えば使うほど殖えるのであります。

この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、
そこに神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。


          <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

[884] いっさいのものを拝め〜その4
伝統 - 2015年10月20日 (火) 20時15分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P32〜35)より


光明思想普及会(この仕事は、現在財団法人世界聖典普及協会がしている)が
成立いたしまして、たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、
就職希望願いを出しておきなさいというふうに、広告が出ておりましたら、
それに対して、就職願いをお出しになった方がたくさんある。

そのすべての人に対してまだ返事を差し上げていないのであります。

写真をみな写真ブックに貼りましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を
表のようにして写真と経歴とを一目瞭然としてわかるようにして事業の伸張する
に連れてこの人が欲しいなという人を一人来て下さいというふうに通知をする
ことになっております。

そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。

ところが、こんな人がある。

「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、
自分の願うことは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと
思ったら必ず成就するとわたしは信じて、今まで余所(よそ)に働き口があっても、
働かずに何にもしないで待っておりましたが、とうとう一文も無くなりましたから、
どうぞ使って下さい」とこういう人があります。

なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。

今自分が神の子であるということを知ったら、
今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。

この一枚の紙ですらも、
この一枚の紙の使命を発揮させるということが《生きる》ということである。

いわんやここに人間がいるのに、《今を生きる》ということを知らないで
「自分の希望は必ず成就さしてくれるであろうから、成就さしてもらったら、
雇ってもらったら働こう、それまではまァ待命(たいめい)だ」とこう思っている

 ―― 会社や軍隊なら待命があるかもしれませんけれども、
この宇宙という「大生命の会社に」には待命の期間というものは一つもないのです。

今ここに自分が生命(せいめい)として現われている限り《もう常に現職です》。
現職ではない人は一人もないのです。

それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、
あるいは病気の人ならどんどん身体が弱ってくるのです。

これは自分の生命(せいめい)を休職にさしているからです。

生命を休職にさしていたら経済的には窮迫(きゅうはく)し、
肉体的は生命(せいめい)が涸渇してくるのは当然のことです。

われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということ
を知らなくちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、
一所懸命に今働かなくちゃならない、これが肝腎であります。

今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげるといわないうちから、
勝手にやってきて一所懸命荷造りしたり外部で一所懸命に宣伝していたような人が
多いのです。

その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」
ということになって、社員になっておられる人もあります。

こんな人は、光明思想普及会の就職の辞令はずっと後に出たかもしれないけれども、
実相では宇宙大生命の会社に就職していた人です。

ところが、じっとしておって、
「わたしは就職するにちがいないのであると思念していて、それまでは何もしないで
いましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思って、
信じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、
ちょっと根本の解りようがまちがっているということになるのであります。

常にわれわれは自分の生命(せいめい)を、あるいは「物」の生命(せいめい)を、
百%生かすということが必要なのであります。

人間に雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、
本当に雇ってみても本当に働けやしないのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

[885] 心を清く空虚にせよ〜その1
伝統 - 2015年10月21日 (水) 04時23分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P35〜37)より

   《われらは「心の清き者は神を見ることを得(う)」との真理を信じ、
    心をあくまで清く尚(たか)く純にお素直に保たることを期す。》


「心の清き者は神を見ることを得」ということは、
キリスト教のパイプルにある句であります。

「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。
何もない人が「心の清き者」です。つまり「我(が)」のない人であります。

この幼児(おさなご)の心を持ったものが初めて真理を知ることができるということは、
バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるのでありまして、われわれがいくら
知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)になっていないと
本当の真理を受け容れることができないのであります。


きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の
実験を見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたら
どうして水ができるか、その『どうしてできるか? 』というわけを教えて下さい」
といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明する
ことができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、
なぜそう結合して水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。

これは理屈ではない事実なのです。

「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。
これは《事実》である。

あるいは酸素と水素と合(あわ)したら炭(すみ)になるというふうな理屈が仮に
成り立ったところが、ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実で
あれば、事実ほど強いものはない、こう答えたのであります。

世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を
製造して躍起になっている人もあります。

理屈で「治らない」と弁証し、
多数決で決定しても事実治ったら仕方がないのであります。

それと同じくわれわれが「神の子である」とはなぜ神の子であるか、
なぜ《人間》は神の子でないのかとこういったところが、
神の子であるから神の子である、これはもう理屈ではないのです。

神の子であるから神の子である。

よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。
「無明はないから、ないのだ」と、これしか答えようがない。

いろいろ理屈をいうことはできます。
ある程度まで、八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには
説明もできますけれども、いくら巧みに、弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、
事実そうでなかったら何にもならない。

ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであれば
それはもう否定することができないのであります。
                            
             <感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>

[887] 心を清く空虚にせよ〜その2
伝統 - 2015年10月21日 (水) 19時08分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P37〜38)より

人間はどうして神の子であるのか、人間はどうして物質ではないのか
―― ゆうべ出た話ですが ―― 人間はどうして神でないのか、こういった
ところが、これはそんなような理屈が成り立っても、人間は神であるという
事実があれば仕方がない。

事実が実相である。

それできのうもある人が来られて言われるのに、

「先生は実相は真理である、真理ほど確かなものはないと言われますが、
わたしはその真理という言葉が感心しない、理というとなんだか理屈で
本当の真ではない気がする。

こんな気になったのは、先生実はある雑誌に生長の家の妄評が書いてある、
本を読んで病気が治るなんて、そういう馬鹿なことはあるはずがない、

もし治るのなら、生長の家が騷ぎ出してから、日本全人口の中ので何パーセント
死亡率が減ったか、何パーセント罹病率が減ったかということを示してみよ、

生長の家が宣伝し出してから、ちっとも日本人全体の罹病率は減ってはおるまいがな、
というふうなことが書いてある。なるほどひと理屈らしいのですが、これは理屈です。

日本人総体の死亡率が減っていなければ、いくら個々の人の病気が治った実例が
あってもそれはウソだとその雑誌は言っているのです。

先生こんなのを事実を無視した理屈の『真理』と言うのですなァ」と言われるのです。


この人は生長の家で現に病気の治る事実を見て知っていられるのです。
幸いに生長の家では罹病率の激減した会社の統計や、事故率が絶無に減じた鉄道の
統計があったからそれを発表しましたが、

仮にここに三十人の生徒が近眼であった、その三十人の近眼が治ったら、
近眼が三十人減ったということは事実である。

理屈で推論して、とっとも日本人全体の病人数は減っておらぬといっても、
十人病気が治ったら、事実十人病人は減ったのであって、
これほど確実なことはないのです。

理屈さえ通ったら事実が消せると思ったらまちがいです。
そのうち日本人総隊の死亡率が減ったとわかる時代が来ると信じます。

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている。
人は事実があっても本当に素直に受容れることができない。

現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減っておる事実を見ても全人口で
どこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる人を、
こういう我の理屈や塵挨を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが
出来ない人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。
心の中に塵挨(ごもく)が一パイにないからするすると真理が入るのであります。

かえって幼児に、なんの学問もない、小さな五つ六つぐらいの子供が
生長の家の真理を知り、神を知っているというような実例がたくさんあります。
                          

             <感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>

[888] 心を清く空虚にせよ〜その3
伝統 - 2015年10月21日 (水) 19時12分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P39〜40)より

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供が
いてどこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、
「痛いというから痛いのだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」
といって威張っているのです。

子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!
この子供の親は熱心な生長の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのまま
なんの疑いもなく受け入れて自分は神の子であると信じきっている。

痛いの? といえば心が痛いのであって実際の人間は痛くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の實相』を読んでも、この心の清きものになって
『生命の實相』を読まなければならないのです。

『生命の實相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとか
そういうふうな意味ではないのです。

―― 知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、
そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の實相』を読まなくてはならない。
いっさい人知を否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ
知恵の水を移し代えておいて、心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。

コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。
この虚無の心、虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうな
ことじゃないのであります。

本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

             <感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>

[890] 自己の欲せぬことを思うな〜その1
伝統 - 2015年10月22日 (木) 04時32分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P40〜42)より

   《われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもって
    いやしくも自己の欲せざることを心に思わざらんことを期す。》


「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。
仏教でいえば「三界は唯心所現」である。
これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたものであります。

業はいかにして流転するかというと、
この「類は類を招ぶ」という法則によって流転しているのであります。

ここへ集まっておられる方はそれぞれまた
「類は類を招ぶ」という法則によって集まっておられるのでありますから、
ここにおられる皆さんの心はよく調和している、

そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという懐かしい
感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが
集まっていられるからであります。

よく嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、
こういって自分のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っている
ようなお嫁さんが往々にしてありますけれども、

「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が姑と類似の心を
もっていたということに気がついて、自然と懺悔の心が起こってきて、

ああわたしがわるかった、これは自分の心の鏡であった、
本当に申しわけなかったということに気がつくのであります。

こんな実話があります。

ある人がお嫁に行かれまして、そこの姑(しゅうとめ)さんが非常に
吝嗇(りんしょく)で、お嫁さんが御飯を一杯よそって食べますと、お櫃(はち)に
蓋をして、お姑さんがお櫃の上へ肘(ひじ)をかけて見ておられるのです。

それからニ杯目には、「ちょっと済みませんが」といって、
蓋をあけさしてもらってよそう。
それが三杯目になると、「ちょっと済みませんが……」というのも気が引ける。

まァそれでお腹(なか)が空(す)いているけれどもやむをえず我慢しておったが、
あんまりひどいと思って、その姑を憎み憎みしていた。

また姑の方からも意地わるばかりしてくれるというので、とうとうそこを離婚して
もらって、別のところへ再縁して行かれたのです。

今度は姑のない家でないと嫁(ゆ)かぬというのでそういう家(うち)を
選(よ)って再縁して行かれたのですが、今度はそこの夫がお櫃の蓋に肱を掛けて
蓋をあけさせないようにして見ておる。

それでもまァ、ニ杯目ぐらいは遠慮しながらでも食べられるけれども、三杯目になると、
「お前あんまり肥(ふと)ったらいかんぞ、細いのがわたしは好きだから……」
と、そういうふなことをいわれる、とうとうそこの家も駄目になって実家へ帰ってき
たという実際の話があります。

こういうふうな人は自分はわるくないと思っているけれども、自分の心の中に同じも
のがあるのであります。それと同じものがあるのでその人の行く先行く先で自分の心
と同じような事件が展開してくるのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月22日 頓首再拝>

[891] 自己の欲せぬことを思うな〜その2
伝統 - 2015年10月22日 (木) 20時21分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P42〜43)より


上海事変の時に上海のある高等学校の先生が災害を恐れて逃げて、
弾丸が隣の家へ落ちるとまた引っ越しをする、引っ越すとまたその隣に落ち
また逃げるというふうなことをやって、行く先行く先で弾丸に見舞われて、

死にはしなかったけれども、幾回逃げても、そのつい隣にまで弾丸がやってくる
ような目にあっておられた事実の報道が『生命の實相』第三巻に出ていましたが、
ちょうどそれと同じようなことであります。

われわれに弾丸があたるのは、わるい姑というものが当たるのと同じことで、
自分の心のとおりのものが外に現れているのであります。
弾丸は外にあるのかと思うと、決して外ばかりじゃない。

意地わるの姑というものも外にあるのかと思うと、自分の心の中にある。
それで今度は姑のいないところへさえ行けば意地わるの姑というものはおらんかと
思い姑のない家へ行くと、今度は姑と同じような、男の顔をしているけれども、

意地わるの夫があるということになり、そこをやめて帰ると奥さんの実家では、
出戻りであるというので虐められて、帰ってからも御飯のお櫃(おはち)の上へ肘を
やって虐(いじ)められたかどうかは知りませんけれども、

お前のようなものはどこへ行っても辛抱ができないとか何とかいって、
同じ種類の虐められかたをしたに相違ないと思うのであります。

 
そこで、われわれの運命というものは、どこへ行っても鏡が変わるだけであって、
そこの場所で自分の心の顔の相が映るということになるのであります。

それで「類は類を招ぶ」という心の法則を知って、自分が不幸が嫌いならば、
いやしくも自分の心にそれと同じような心持を抱かないようにしなければならない
のであります。

             <感謝合掌 平成27年10月22日 頓首再拝>

[893] 自己の欲せぬことを思うな〜その3
伝統 - 2015年10月23日 (金) 03時46分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P43〜46)より


よく病気を恐ろしがる人がある。
「わたしは病気が恐ろしいのです。」こういっておられる人がある。

病気が恐ろしかったら病気を思わぬようにしなさい、こう言うのであります
けれども、病気の恐ろしい人ほど病気のことを考えている、もう二六時中
病気のことばかり考えている。病気に罹ったら、とこう考えておられる。

そういうふうな人は、
結局普通よりも早く病気にかかって死ぬということになるのであります。

 
生長の家の誌友の親類の人で秋吉さんといわれる未亡人がおりましたが、
その方の夫といわれる人はチフスの恐怖症であって、親類の人のチフスで
死んだ印象を受けて、それから自分はチフス菌というものは非常に恐ろしく
なって、チフス菌は煮沸したならば死んでしまうというので、
どんなものでもみんな煮沸して食べ、生の物なんか食べたことはない。

生水なんかむろん飲まない。
顔を洗うのだって、くちをすすぐのだって、チフス菌がおったら危ない
というのでみんな一度沸騰さした湯ざましで顔を洗うということまで
やっておられた。

ところがやはりチフス菌に冒(おか)され、どこから入ってきたのか知らぬ
けれども、チフスに罹って死んでしまわれたのです。

こんなに何でも煮沸して使いながらチフスに罹って死んだのは
「類は類を招ぶ」という心の法則によって、自分の心の中にに描いたものが
形に現れてきたのであるということになるのであります。


自分の心にチフスを描けばチフスが出てくるのです。
肺病を描けば肺病が出てくる、胃病を描けば胃病が出てくるのであります。
それで肺病の恐ろしい人は、肺病を思わないようにするといいのです。

『生命の實相』を読むと、「人間は神の子で病気は《ない》」と書いてある。

《ない》と書いてあるだけでどうして治るのかというと、本当に《ない》と
知ったら悩みがなくなる、心に思わなくなる。

《ない》ように思うだけではない、本来《無い》から悟った時に
その本来無いがあらわれてそれで治ってしまうのです。

病気が本来アルと思っている間はどうしても治りにくい。
人によって徐々に治ってくるのは、その「《無い》」が徐々に知られてくる
から徐々に治ってくるわけであります。


この「類は類を招ぶ」というのは、肺病を思えば肺病が起こるということだけ
でなしに、たとえばこの「心配」―― 言い換えると、胸に思いを溜めると、
すぐにこの胸が痛くなってきて、やがてそれが蓄積して昔なら恋煩(わずら)い
というふうなことになる。

恋煩いというのは今なら肺病肋膜炎というところです。
心で思うから病気をするんだと教えてあげると、わたしは肺病を思ったことは
ありませんのになんだか身体が衰弱する、疲労をするので医者へ行きましたら
肺病だと宣告されました、こういわれる。

これは心の法則を知らざる人が言うことであって、肺病と思わなくても、
胸に思いを溜めると「類は類を招ぶ」という法則にによって胸に血液が欝血し、
血行が悪くなり、その部分の抵抗力が衰えて胸の病気に罹るということになる
のであります。

これは「類は類を招ぶ」という法則によって出てくるのであります。

われわれが人から、わたしはちょっと足がわるいのです、
わたしは手がどうでございます、これはどういう心持からきますかと、
こういって、いろいろと病気の起こる原因(もと)の心を指摘せよと言われる。

それをあんたのこういう心持から起こるのですよ、
こういって上げることができるのは、それを開く鍵はどこにあるかというと
「類は類を招ぶ」という心の法則が鍵であります。

この鍵によって病気の原因を開けば治るのであります。
『生命の實相』を読めば自然とその鍵がわかるように書いてある。

だから『生命の實相』を読めば、誰でも教祖のようになって
「あなたの病気はこういう心持で起こる」と御神宣を下すことができるようになる。

自身が病気の人なら自分で自分の心の欠点が『生命の實相』を読んでいるうちに
省みられ、是正されて病気が治ってくるのであります。


たとえば中風に罹ってふるえている人に、あんた癇癪持ちですね、
こういうとたしかに当たる、嘘ではない、必ず当たる。

それは『生命の實相』を読み「類は類を招ぶ」という心の法則を知れば病気の形に
従って、ハハアこれはどういう心が具象化(かたちにあらわ)れたものだと分かる
のです。

このことは近代の精神分析(サイコアナリシス)がある程度まで科学的に立証した。

人が本当に激昂したら身体がぐっと固くなって身震いする、手が慄えている、
あるいは完全に発言することができない。
そいつが今度ある機会に形に現われてそうして手が慄えるような病気に罹っている。

それをあんたは癇癪持ちですねというとすぐ当たるのです。秘密も秘伝も何もない。
誰でも『生命の實相』を読めば御神宣が下されるわけであります。

             <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝>

[894] 自己の欲せぬことを思うな〜その4
伝統 - 2015年10月23日 (金) 20時04分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P46〜48)より


精神分析では神経症しか治らないが、
生長の家式に「類は類を招ぶ」心の法則を理解すれば
器質上の具体的病気でも治るのであります。

たとえば顔にお腫物ができた人が来るとする。
顔にお腫物ができるとその顔が脹れている。

「あんたは不平の心をもったですね。」そう言うとピッタリ的中する。
それは本当であって、「肉体は心の影」である。

「類は類を招ぶ」という心の法則によって、不平を起こしている人は脹れる病気に
かかるのです。不平な心でいる人に「お前は脹れる面をしている」という、
心が脹れれば肉体も脹れるのです。

聖典を熱心にお読みなりさえすれば、誰に聞かなくても
必ずしも献納金を出して、「ひとのみち」の教祖に聞かなくてもいいのです。

「ひとのみち」を悪い教えのように言っている人があるが、
御神宣は心の法則を掴んでいて信者に一般に公にしないのです。

ところが皆さんが、みんな自分で教祖のようになれるのが
「生長の家」の特色であります。

近眼の人が治してほしいと言ってくれば、あなたはこういう心持だから近眼であると、
ピタリピタリと的中する。『生命の實相』を読んだだけで人の心の欠点を指摘して
一語または数語で、医界難治の近眼を治した人の実例がわれわれの発行していた
雑誌『生命の教育』の「近眼は治る特集号」に多く収録されたことがあります。

病気を見て人の心持を何でもよく当てることができるのは「類は類を招ぶ」という
ことによって、心のとおりの相(すがた)が肉体に現われているのを看破するから
当てられるのです。

このように、肉体は心の影でありますから、われわれが円満完全な相好をし、
円満完全健康な肉体をし、円満完全で何不自由なき境遇になろうと思うならば、
まず心が円満完全にならなければならないのであります。

その円満完全なる心になろうとしましても、修業や克気で、腹立つ心を抑えたり、
憎む心を制したり、不平不足な心を抑えたり、いろいろわるいことを一つ一つ
抑えてゆこうとすると、こいつはなかなかむつかしいのである。

けれども、われわれは、そういう怒る心、腹立つ心、憎む心というような
一つ一つの心を抑えなくても急所がある。猫でも首の上のところを摘んでひょっと
上げる、急所を掴むとじっとしている。

それと同じで、われわれの感情でも急所を掴んでひょっと上げるともう温和しく
なってしまうのです。その急所はどこにあるかというと「実相」です。

われわれは「生命の実相」を捉(つか)む、
人間の実相を捉(つか)んでぶら下げると誰でもみな温和しくなる。

ほかの修業では心を外から抑えてゆこうとしますが、「生長の家」では
『生命の實相』を読んでいるうちに「実相」を表現した文章の力、言葉の力で、
読むだけで心が和(なご)んでき、心の欠点が直ってくるようになっていて、
外から無理に抑えなくても万事がよくなるようになっているのです。

それでどんな意地悪な姑さんでも猫と同じことで、こちらの心が穏やかになって、
相手の実相 ―― 神の子 ―― という急所を捉むと、そうするとみんな猫の
ようにイヤそうじゃない、神の子のように

温和しくなりまして、そうしてみんなあの人も神の子である、
この人も神の子であると、本当に大調和した世界が、家庭にも環境にも実現して
くると、自分のゆくところ神の子たらざる人はないというようになって、
円満完全な調和した世界が現われるということになるのであります。
                 
             <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝>

[895] 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ〜その1
伝統 - 2015年10月24日 (土) 04時28分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P48〜50)より

    《われらは自他の悪を云為する時間あらば、神を想い、
     自己の新生と生長とに利用せんことを期す。》


病気でも幸福だという人があるかもしれませんが、
それはその人個中の消息であって、
本当にその人の働きで人生を積極的に幸福にしているとは申せません。

病人自身は病気を楽しみ、病気の人生における意義を考え、苦痛の喜びを魂で歌って
いることがあるうるにしましても、またそういう人がありえたということが、病める
多くの隣人の「慰め」にはなるにしましても、それは、ただ消極的に病人の「慰め」
になるのであって、積極的現実的に病人を病患より救うことはできません。

病苦を耐え忍びうる知恵を授けるのも必要ではありますが、それは消極的です。
病苦を気の毒だと思うならば、病苦を耐え忍ぶ方法よりも、病苦の消える方法を
教える方がいっそう病人に対して深切でありましょう。

さらに病苦の消える方法を教えるよりも、積極的に健康となる方法を教えることが
できれば、それに越したことはないでしょう。


前項でも申しましたとおり、「肉体は心の影」でもあります。
われらの心の念(おも)いは肉体中のすべての器官すべての細胞にその形を印して、
その念(おも)いのとおりに肉体を変形してしまうのであります。

最近の例をとり挙げますならば、金沢市の生長の家誌友会の北島是隆氏は、
同氏にわたしが穏田の自宅で会った時には七分どおり白い頭髪をしていられましたが、
翌年6月わたしが赤坂の生長の家本部講堂で会いました時には
まるで白髪染で染めたような真黒な頭髪をしていられました。

そして言われるには

「これは決して白髪染で染めたのではありません。第2回講習会に列して先生の
御講義を聴きながら、先生の頭髪に1本も白髪がなくて黒々しているのを見て、
わたしも先生と同じく神の子であるから、ああいうふうに艶々した黒い髪の毛が
生えているのが実相である、こんな白髪は《ある》ように見えても仮相(うそ)
であると心に強く思いました。そうしたら不思議なことに、しばらくのうちに
こんなに黒々とした髪の毛になりました」

と言われました。

北島さんは今までは年が寄ったら頭髪は白くなるのがあたりまえだと思って
いられたのですが、今度は人間の頭髪は黒いのがあたりまえだと悟ったために、
その「心の影」として頭髪が黒くなってしまったのです。


これが「悟り」の肉体に及ばず影響であります。


ちょっとそう思ったくらいでは白髪は黒髪にならないかもしれない。
それはわたしの講習を受けられている間にわたしの言葉の力が北島さんの老衰した
心的内容を血気旺な心的内容に変えてしまったのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月24日 頓首再拝>

[897] 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ〜その2
伝統 - 2015年10月24日 (土) 12時33分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P50〜53)より

また横浜市神奈川区子安一四一二番の家名田二郎(やなだじろう)さんは
『生命の實相』の「蓄膿症は素直でない心から起こる」という項(ところ)を
読んで、今まで親に反抗心を持っていたので悪かった、と気がついたときに、
数年来詰まっていた蓄膿症の鼻が一方だけスッと故障がなくなって
空気が完全に流通するようになった。

それからわたしにお礼が言いたくなって本部講堂へやって来られてわたしの顔を
見ると同時に、もう一方の詰まっていた鼻がスーッと通って両方とも完全に
治ってしまったといって昭和11年7月15日にわたしの聖典講義のあとで
突然お礼を申されたのであります。

これは何もわたしの顔が蓄膿症の薬になったわけではない、わたしの本を読んだり
講義を聴いたりしているうちに本人の心が素直に上から下へ、上の者の命令が
素直にスーッと下の方へ通るようになったのであります。

こういうように肉体は心の影でありまして、
深く心に印象した念(おもい)のとおりに肉体が変化するのであります。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも
真実なのは「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。

概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、

(1)自覚の心

  @平和の心
  A明るい心
  B悦びの心

  C深切の心
  D有難い心
  E無我の心

  F自在の心

   でありまして、その反対の

(2)迷いの心

  @不安、焦燥、恐怖の心
  A暗い心、陰欝な心
  B不平、不満足の心
 
  C冷淡な心
  D忘恩的な心
  E利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望

  F一事物に引っかかる心

   などは病気を起こす心であり、
   その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであります。

   細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、
   それを一つに纏めると、「迷いの心」とは「我執の心」であります。

   我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、
   不満足、冷淡、忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などが起こってくるのであります。


我執がなくなりまして、「天地と共に過ぎ往かん」というような広々した心に
なりますと、人間として何も考えないから、事業などのことも出放題、
まかせ放題になってしまって、何もしなくなるかと申しますと、
そうではありません。

そういう状態になるのを「空執」と申しまして、まだ「我執」があるために、
その「我」が「何もしないでもよい」ということに引っかかるのであります。

この「何もしないでもよい」ということに引っかかる「我」さえも無くして
しまったときに天地の生命と共に自由自在に活動するところの本当の我(大我)
を見出すのであります。

 
そういう「空執」にも陥らない自由自在融通無碍の境地に達したならば、
すべての迷いの心は消えてしまうのですけれども、それまでは、前記の7種の
「迷いの心」をなるべく起こさないように努め、7種の「自覚(さとり)の心」
を保つようにしなければならないのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月24日 頓首再拝>

[898] 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ〜その3
伝統 - 2015年10月24日 (土) 20時41分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P53〜55)より


われわれの心の状態は肉体にのみ反映するのであって、
事業やら運命には反映しないと思っているとまちがいであります。

多くの商店会社の不繁昌の原因は従業員の心の不調和であります。

内部に立ち働く人の心が不調和になってきますと、繁栄の雰囲気は逃れ去り、
繁栄の雰囲気が逃れ去れば、注文に激減し、外部の注文が激変すれば不安は
募り、内部の不安が募れば外部の注文はさらに激変し、その商社の没落に
拍車をかけることになるのであります。


かかる場合、毅然として起って、全従業員の不安、焦燥、恐怖の心を去りうる
ところの偉大なる首脳者が顕われ、事業をして従事せる全員に平和と明朗と
前途の楽観を与えうる場合には、没落せんとしたその商社も運命を回復する
ことができるのであります。

この時、事業の首脳者にして、商勢を挽回せんとて憂い悲しみ、従業員の欠点
のみを見、その欠点を直そうとして短気と焦燥とに駆られる時には、頽勢は
かえって挽回するに由なく、股昿と頼む忠実なる人たちは彼を見捨て去り、
有為の雇員(こいん)は背き去り、顧客(こかく)は続かず、
終にさしもの繁栄を誇った商社も没落してしまうのであります。


これは現象に捉われて、一時の暗黒を実在だと思い、心に強く欠点と暗黒を
描いた結果であります。欠点と暗黒とはあるように見えても本来ないもので
ありますから、心に描かずに捨て置けば消えるのであります。

美点と光明とは《ない》ように見えても本来実在なのですから、心が執われ
なくなったときその本来の《ある》姿があらわれてくるのであります。

だから生長の家家族の祈願には自他の悪を云為(うんい)する時間があるならば、
神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とを努めようではないかと
書いてあるのであります。

 
商売の衰頽も肉体の病気も「不調和の心」の顕われですから、
「不調和の心」に「不調和の心」を追加しているようなことでは、
それを回復することはできないのであります。

不安、焦燥、恐怖で平和を失っている状態に、さらに憤怒と憎みと欠点暴露を
もってするのは、火を消さんとして火に油を注ぐようなものであります。

七つの「迷いの心」が起こってきたときには、
七つの「自覚の心」で相対すべきであります。


不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、
焦るまい、恐れるましと思ってそれを抑圧してもたいてい駄目であります。

不安に思うまいと努めれば努めるほど不安になり、
焦るまいと思えば思うほど焦り出し、
恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。

それは「不安を・・・」と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に
描きますから、心に描いたものが強く現われるのが心の法則でありますから。
「不安を・・・抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」を無くするには、「不安を・・・」とすら考えないで、
全然別なる完全なる状態に心を集中しなければならないのであります。

すなわち、この時こそわれらは、「神を想い、完全を想い」心を旧我から一転
せしめて、「神と一つなる自分」を新しく発見するように努めなければならない
のであります。

その方法の一つとしては、神想観を行なうに当たって招神歌(かみよびうた)を
誦(とな)え終わると次のように念ずるのがよろしい。


 「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。
 神と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけ
 であっていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。

 我(われ)は神の子であり、我(わ)が環境は我(わ)が心の影であるから、
 我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と生命(せいめい)と
 供給とが満ちているのである。」


この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、
今現実に大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を
終わり、

神想観後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、
現実の苦難の状態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで
再現してくるのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月24日 頓首再拝>

[899] 神と偕に無畏無憂(むいむゆう)の生活を送れ
伝統 - 2015年10月25日 (日) 04時19分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P56〜59)より

   《われらは常に無限力と偕に生くることを信じ、神に背くことのほか、
    何ものをも恐れず、取越し苦労をせざらんことを期す。》


われらの心の明朗の極点は「神の無限力」と一体で生きているという自覚であります。
他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、
それはたいてい一時的の明朗さであります。

また次なる重大なる事件が起って来るとともに、
その明朗さ破壊せられずにはいないのであります。

どんな重大なる事件が起こって来ようとも、我(わ)が味方は「神」であり
「神」がその事件をわれらの真の幸福にまで導き給うものであると自覚さえありさえ
すれば、われわれはその重大なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐るべきは「重大なる事件」そのもの
ではなく、重大なる事件に驚愕し周章狼狽して「神吾と偕に在り」との自覚を失って
しまうことであります。

この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光が見えはじめ
ます。しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を
加え、その人は加速度をもって危殆(きたい)の世界に押しやられて行くのであります。

 
ですから、われわれは何事が起ころうとも事件そのものは恐ろしくない。
どんな成功者といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。

しかし彼が成功したのは普通ならば「失敗」として悲願し退嬰(たいえい)して
しまうような時にも、それを「失敗」とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場
としたのであります。

ヘンリー・フォードは言っています。

「自分はいまだかって事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば
化学の実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て
来る時も、共に化学の実験としては成果を収めているのである」と。

まったく常住「楽観病」と評さるるヘンリー・フォードが言いそうなことであります。
この常住「楽観病」こそ事業を成功にまで導き来す大原動力であって、
その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであります。


取越し苦労病患者は、常住楽観者の反対であります。
常住楽観者は失敗の中にでも成功を見て心を明るくするに反して、
取越し苦労病患者は成功の中にでも失敗を見るのであります。

こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったない」とか、
「幸福が続けば必ず不幸が来るのだ」とか、「悪」を心に描いて恐怖します。

そして実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して
手を束(つか)ねて策の施すところを知らないのであります。

 
およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、
精神エネルギーを消耗することおびただしく、

明るい希望に満ちた心で考えれば疲労せずに名案が浮かぶものを、いたずらに憂苦し
懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしまい、時局を好転するに
必要なる縦横な機略は姿を潜(ひそ)めて出て来なくなるのであります。

 
取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して

「われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦は神である
から恐るるところのものはない」

と断々乎として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣を
つけるがよい。

またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗はない、
どんな体験も次なる成功に達する一階段であると喜んで勇んで、その現在の地点
を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。

柔道という武術は自分の不利の地点をそのまま自分の利用すべき足場として相手を
投げるのです。

すなわち向こうから衝(つ)いてくるとか、引っ張り込むとかしてくる。
衝かれるとか、引かれるとかいうことは自分が重心を失う危殆の時なのです。

それをそのまま利用して引っぱられれば敵の懐に飛び込み、
突かれればその力を利用して敵の姿勢を引き落とす。
柔道の試合には、相手が技をかけてくれる時が勝利の好機会なのであります。

われわれの事業においても運命がわれわれを危殆に引き摺り込もうとする時こそ、
その運命の懐に飛び込んでその「不幸」に背負投げを食わすべき好機なのであります。

逆運を幸運の足場になしうる人にしてはじめて
人生の常勝者なることができるのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月25日 頓首再拝>

[900] 躓く刹那に光明に転向せよ
伝統 - 2015年10月25日 (日) 19時31分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P59〜61)より

   《われらはたとい躓くことありとも渋面せず、
     その瞬間起き上りて光明に面せんことを期す。!!》

人生にはいろいろのことが起こって来ます。
それは無限創造の世界であるからであります。

われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしと祈っても、
事件は自分の欲するとおりに展開しないことがあります。
しかしそれは神が諾き給わないのだろうか。

否々否、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんために
われわれの内部より無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うている
のであります。

あまりに裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、
なんの労苦なくしていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に
育った子女たちは一面においては誠に不幸な人たちであります。

なぜなら、そういう人たちは、すべて善き物はことごとく外からのみ与えられて、
自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。


本当の幸福というものは、
自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。

他から与えられた幸福は他が立派な着物を着ているのと同じであって、
自分自身の立派さでないのです。

自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。
自分自身に力がつくよりほかに自分の強くなる道はないのです。


かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、
われわれの中味の善さを出してくれる冶金の坩堝なのです。
坩堝の中へ投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金か本物かがわかるのです。

われわれは好んで逆境を招ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれ
を捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だと
して、内より奮迅の力を揮い起こすものはついに大成して逆境を却下に
蹂躪(ふみにじ)ることができるのであります。

 
されば逆境の来るごとに莞爾として微笑せよ。
これは「生長の家」の生活であります。

微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易(やす)からしめ、
失われたる希望を喚び(よび)起こし、再起の勇気を奮い立たし、
暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであります。


キリストは「死にし者に死にし者を葬らせよ」と言っています。
すでに来れる逆境を嘆いたとてなんになりましょう。
すでに来り終われるものは「すでに死せる者」なのです。

「すでに死せる者」について嘆いてみたとてなんになりましょう。
すでに来り終われるものを嘆き悲しむ暇あらば、莞爾(かんじ)として
新しき幸福に突進すべきであります。

光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。
我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」

苦難に捉われず、難関の来るごとに、莞爾として微笑しつつ奮迅の勇気を
奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難関をも征服して
自己自身の力で幸福なる運命を建設することができるのであります。


          <感謝合掌 平成27年10月25日 頓首再拝>

[904] 隣人を光明生活に生かせ〜その1
伝統 - 2015年10月26日 (月) 18時04分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P61〜64)より

  《われらはできる限り悩める隣人を扶けて
    その暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。》

人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。
自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。

われらは肉体的に周囲の人とはなんの関係もない一個の孤立存在のように見えて
いますけれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人
が本当に幸福にならない限りは、自分一個人も本当に幸福にならないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、
良人の病気が妻の心の反映から来ている場合はザラにあります。
妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。
子供の病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、
祖霊に対して『生命の実相』の一節を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、
運命が好転したりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視(しっし)憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、
それが解消することによって不幸が消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体とおして離ればなれのように見えても、心の世界では
一つでありますから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして
周囲の隣人をも幸福にしてあげなければならないのであります。

ある場合には物質で扶けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは
一時的の救助になっても永遠の救いとはならないことが多いのです。
物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の他に頼る依頼心が増大し、
かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方が
いっそうよろしいのであります。
 

といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありません。

「物質」で人を扶けてよい場合は、それは長途の坂道を重荷の車を曳いて
疲労しきり、もうそれ以上は一歩も車を曳いて上がる力もないし、
といって力を一歩緩めたら車が逆転してその人がはずみをくらって
真逆様に谷底へ墜落しそうな場合です。

こういう時には一時、重荷を肩代りして曳いてやるのが、
その人の内から力を喚び出すことになりましょう。

しかしその肩代りは暫時でなくてはいけません。

常に肩代りして重荷を別の人が曳いてやりますと、本人の筋肉は衰え、
自助の勇気は減じ、依頼心は増長し、相手を扶けようとして相手を弱めることに
なるのです。これは病気の時に物質薬で扶けるのも同じことです。

本人の体力が疲労困憊、みずから栄養を消化吸収する力なきある時期に、
消化剤や栄養注射やリンゲル注射が効を奏することもありましょう。それは長途の
坂道で疲れて転落しようとする人の重荷を代わって担ってやるのも同じことです。

しばらく他者(ひと)に重荷を肩代りしてもらっている間に、その人が活力を
回復する ―― その時再び重荷をみずから担うように、生命をみずから生きる
ように、重荷を本人の肩へもどすことが必要なのです。

医者が薬を用いるのも、人生の行路に物質で扶けてあげるのも、よく相手を観察して
この心遣いが必要なのです。いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、
年中消化剤を与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。

そんなことをすれば本人自身の消化液の分泌量は減ってしまうと同じように
本人自身の自活能力は減ってしまうのです。
これでは人を助けたことにならないのです。

本当に助けることは本人自身の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、
神の子そのまま自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。


このように他(ひと)を救うということは、金のある人がただ金のみをダラシなく
やってさえおけばそれでよいというような簡単なものではありません。

それには深切なる心遣いというものが必要なのです。

ただの機会(チャンス)が儲けさせてくれた金をなんの思慮もなく
振り撒いて歩くのが他を助けることでありますならば、
そんな人助けは自分自身を富ませることはできません。


それはただの「ダラシ無さ」です。
「ダラシ無さ」は自分の知恵の貧しさ意思の弱さの現われでしかありません。
そんなことでは自分自身は生長しないのです。

何事にでも賢き思慮が必要です。

            <感謝合掌 平成27年10月26日 頓首再拝>

[905] 隣人を光明生活に生かせ〜その2
伝統 - 2015年10月26日 (月) 18時22分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P64〜67)より

「物質では短期間扶けよ。温かい愛では常に助けよ」
とは生長の家の標語であります。

温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。

明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、
好意に満ちた握手、愛橋ある微笑、「何、大丈夫だよ、」という激励、
「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉

――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。
かかる光明を照らすような交わりこそ生命の泉であります。

その生命の泉に触れるときわれわれの衰えたる活力は蘇生(よみがえ)るのです。
これは、外のものに頼るところの依頼心の増長ではありません。

われわれの愛が、相手の内に埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。
これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互に兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他(ひと)
を批評するようなのは本当の悟りではありません。

本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意の花葩(はなびら)を
投げかけ合うことです。好意ある微笑(びしょう)、希望に満ちた光明の掛声こそ
失意のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(ぶっしつてきたすけ)よりも、
大いなる助けになるのです。

 
悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことでは
ありません。
悟りとは、広く大いなる明るい人物となることなのです。
悟りとは山に籠って行ない澄ましていることではありません。

市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で
相手を包んでしまう人のことです。

   
われのわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。
宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。
彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。

誰にてもあれ、人を審判く(さばく)一つの尺度を持つようになったならば、
その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、
大きくなる代わりに小さくなったのであります。

その時その人には人を排斥する力ばかり強くなり、容れる力がなくなって、
味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停ってしまうのであります。

 
皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂欝な、
窮屈な感じを受け取る人がありましょう。

またある人の側に坐ると春風駘蕩のような感じがして、何でも打ち明けて話したい、
その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがすることがありましょう。

これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じがする人は何事を
やっても発達しない人であり、後者のような感じがする人は何事をやっても発達
する人であります。

 
では、どうして人格の雰囲気にこのような相異を来すのであるかと申しますと、
それは、その人おのおのの心の習慣によるのであります。

常に明るい打ち開いた秘密のない朗らかな心をもち、深切な言葉、優しい微笑を
投げかける習慣をもちつづけているものは、終にはそれが習い性となって、誰にも
頼られるところの温かい柔かい雰囲気を放散する大人物になることができるの
であります。

かかる人物は何をやってもそれを扶ける人々が集って来、
その仕事を成就するために働いてくれるのであります。

 
これに反して、美点を見出す代わりに常に鋭く人々の欠点を見つけ出し、何でも
その人の口にかかったら、陰口や、誹謗や、不平の種にならない物はないという
ような人々は、

どんなに知恵者で頭脳(あたま)が発達していましても、その人の行くところに
冷たい雰囲気が漂い、人々が叛き去り、運命も彼に対しては酷薄(こくはく)
となり物事成就せんとして破壊するに到るのであります。

人を生かす者は自分も生き、人を殺す者は自分も殺され、
他(ひと)の欠点を指摘する者は、自分の欠陥をも審判(さば)かれるので
あります。


もし、あなたの生来(うまれつき)が冷淡な鋭い性質の人であったとしましたら、
努めて、心を温かくし、円満にし、できるだけ人の美点を見るように努め、
出す言葉もできるだけ丸味のある柔かい深切丁寧な言葉を出すようにして
ごらんなさい。

あなたの周囲がどんなにか光明化することでしょう。

今まであなたに冷淡であった人々が深切になり、今まで強情であった家族が
従順になり、今まで冷たい沈滞した空気に満ちていた家庭や事務所が温かい繁栄
の気に満ちたところとなるでしょう。

そしてそこは生長の家となるのです。

 
生長の家とはわたしの家の名前でもなければ、また「生長の家」という表札を
出してある大きな建築物をいうのではないのです。

心の法則に随って宇宙生々の雰囲気を漂わしている皆様自身の家庭が生長の家
なのです。そういう家庭の満つる国家は、「生長の国家」であり、全世界が
そういう国家ばかりになったら、地上に天国が成就したことになるのです。

何でも一歩からです。まず一人が和顔愛語の「生長の人」になることが肝腎です。

顧みて自分が和顔愛語の人たらずして、人の好意と深切とを受ける雅量なく、
順序を誤ったからどうだとか、体面にかかわるからどうだとか、手続きにまちがい
があるからどうだとか、

形にあらわれている一つ一つの欠点を拾い上げて、相手を審判(さば)いている
ようなことでは、あなたの事業は生長の家でなくて伸びるべきものも伸びなくなる
のですから、この点大いに御注意ありたいのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月26日 頓首再拝>

[907] まず自分に深切であれ〜その1
伝統 - 2015年10月27日 (火) 04時38分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P68〜70)より


   《われらは自己の好むところを他(た)に施し、
      自己の好まざるところを他(ひと)に転嫁せざらんことを期す》


この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、
われわれの実相から出てくるのであります。

自分の好まないところを他人(ひと)に施さず自分の好むところを他人(ひと)
に施す、これは実践道徳上の最も根本となる指導原理であります。

生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。

世間普通の道徳では「他人(たにん)に深切であれ」というのであります
けれども、生長の家ではまず「自分に深切であれ」というのであります。

キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」といううような言葉がありますが、
この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準に
なっているのであります。

神を愛するのも、己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、
もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、
本当に神を愛することも、また本当に隣人を愛することができないのであります。

それで、われわれの道徳の根本基準になるのは、
いかに自分を愛することができるか、という程度にあるのであります。

それでは「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、と申しますと、
自分というものを最も尊敬すること、自分の実の相を本当に知って尊敬すること
であります。

自分の実の相(すがた)が神の子である、あるいは仏の子であるということを
根本的に知ることこそ、自分を本当に愛するということになるのであります。


普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、あるいは
地位や名誉を得るとか、そういう利己的なことで得をすることを「自分を愛する」
ことだと思っていますけれども、
それは本当は自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、
自分自身を最も大きく観るということであります。

この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、
はじめて他の人をも最も大きく観ることができるのです。
自分を愛する程度にしたがって本当に他をも愛することができるのです。

人間なんてつまらないものだと考えて自分を軽蔑している人は、
その同じ人間であるところの他人(たにん)をも軽蔑する人であります。

 
われわれはよく、お客さんが来られますと、
煙草の好きな人にはさっそく煙草盆を出します。
それから甘いものの好きな人には甘いお菓子を出します。

わたしの例をとってみますならばわたしは今は食欲が正しくなって甘いものを
あまり好まなくなりましたが、前には甘いものが大変好きでありましたから、

煙草の好きな人が来られても煙草盆を出すことには気がつかないで、
「お菓子を持っておいで……」と命令してお菓子を出させたものであります。

そうすると、お客さんの方から、
「ちょっと済みませんが、煙草盆か灰皿かを貸して下さいませんか」
と請求される。

そうして「ああこの人は煙草が好きなんだ」と思って気がついて灰皿を出す
という始末です。

ところが私自身は煙草の煙は大嫌いなんです。
嫌いなものだから、嫌いなものを人に与えては済まないというような気持がする
ものですから、甘い美味しいお菓子をあげようというつもりで、
甘いお菓子を出すのですけれども、

その相手の人が甘いものが嫌いで、煙草が好きだというような場合には、
こちらのせっかくの好意が無駄になるというようなことが往々にしてあるので
あります。

            <感謝合掌 平成27年10月27日 頓首再拝>

[908] まず自分に深切であれ〜その2
伝統 - 2015年10月27日 (火) 20時24分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P70〜73)より


ある時わたしが大阪にいる中学時代の友人のところへ久し振りに訪ねて行った
ことがありましたが、中学を出てから10年以上も逢わないでおりまして、
突然そこの家へ行きましたら、その友達が大変喜んでくれまして、
大きな湯呑に茶を入れてわたしの前へ置いてくれたのであります。

わたしは茶を飲むのが大好きで、それも煎茶茶碗の底にひっついているようなのは
嫌いで、大きな湯呑にたっぷり入っているのを、なみなみと呑むのが好きですから、
「この友達、さすがに古くからの友達で気がきいている」と思いまして湯呑を
取って飲んでみると、茶であるかと思いのほかそれは酒だったのであります。

この友達は学校卒業後たいへん酒が好きになって、近頃で茶の代わりに
酒を飲んでいる ―― そういうふうな人であるのでありますから、
その人にとっては自分は酒が大好きであるから、酒を饗応することは、
最も隣人を愛する所以であるとこういう具合に思うておられたのであります。

こんな具合でわれわれは自分を大酒飲みだと思ったら
他人をも大酒飲みのように愛する。
自分を甘党だと思ったら、甘党のように愛する。

そして自分が神の子だと思ったら神の子のように愛する。

なんでも自分が基準になるのでありますから、われわれが本当に隣人を愛しよう、
兄弟を愛しようと思うには、自分自身が本当に高くなり、自分自身をいかに
愛するかということを知らなければならない。

そうでなければ、愛しているつもりで
相手を突き落としていることがあるのであります。
                 

先日ある誌友が来ておられまして、女の方でありましたが、
「自分の子供がどうも利己主義であって人には良いものを寄越さないで
自分が一番いいものを取ろうとする、これをどういうふうにして直したら
いいものでしょうか」というふうな質問をされたのであります。

それでわたしは「それはあんた自身の心が映っているのでありませんか、
あんたはこれは自分に一等良い、一番良いと思うものを、本当に取りたく
ありませんか」と言いましたら、

その御婦人は腑に落ちぬような表情で、
どこが自分が利己主義なんだろうかというような表情で、
ちょっと考えておられたのであります。

それでわたしは、「もしあんたの坊ちゃんが今度中学等学校へ入学試験を受ける、
そういう時には自分は一番良いものを取りたくないのだから、できるだけ下の
点数を取って落第する、こう言われたらあんたはどうせられますか」
とお尋ねしたのであります。

それにはその婦人お困りなった。
やはり自分の子供は一番良い点数で入学させたい、自分の子が一人入学すれば、
他の一人は落第するのだけれど、それは仕方がたがないと思っていられる。

それにかかわらず、自分の子は利己主義で困るといわれる。
その人にとっては道徳の標準というものが本当には決まっていないのであります。

ある場合には、自分の子供が一番良いものを取ることは利己主義で困ると
思うているが、そうかと思うと学校入学の席順は他を突き落としても
自分の息子は一番良いのを取ってくれなければ困る、とこう思うておられる。

こんなことでは本当に人を愛するということはできないのであります。

ところがこの本当に自分を愛する、あるいは人を本当に愛するということは、
そういう一つ一つの行為について、一番良いものを取るからいけないの、
一番わるいものを取ろうと心掛けないのがいけないのだというふうなものでは
ないのでありまして、

根本にわれわれは自分自身を本当に愛するということから出発して行く時に、
はじめて隣人をいかに愛するべきかということがわかるのであります。

自分自身をいかに愛するかといえば、
自分を神の子と感じ、自分を仏の子であると感ずる、
これが本当に自分を愛することなのであります。

自分を本当に神の子だと感じ、自分の子供も神の子だと感じ、他人の子供も
神の子だと感ずるようになりますと、受験にだって自分の子供が正々堂々と
一番良いものを取ってもいいことがわかる。

みだりに他(ひと)にセンチメンタルな愛情によって、実力が出ないうちに、
試験にお情及第させてもらうような卑怯なことを、相手の神の子にさせようとは
思わなくなる。
みんな一番良いものを取ってよいということがわかるのであります。

自分の子も神の子、他人(ひと)の子も神の子ということになれば、
少しも依怙贔屓のない道徳が確立するのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月27日 頓首再拝>

[909] まず自分に深切であれ〜その3
伝統 - 2015年10月28日 (水) 18時26分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P73〜76)より

ある人が、自分を豚の子のように思って軽蔑し、そうして自分の子供をも豚の子の
ように軽蔑していい罵っておったら、その子供が豚の子のように蒲団の上で寝小便
するようになって、親の心が一変するまでは、それがどうしても治らなかった。

それが人の子を「神の子」だと考えていないで豚の児(こ)のように考えていた。
その考えが治らなかったからです。

その点を生長の家の講師が指摘して、

「あんたは自分の子供を豚の子のように思っているから、
それで寝床に寝小便するのですよ。
そんな豚の子のように人間の子供を軽蔑してはいけない、

自分の子供は「神の子」であるということを本当に思いなさい」

と言って諭されたら、その晩から豚の子が本当の「人の子」になって
寝床に小便ををしなくなったという実話がありますが、結局(つまり)、
この自覚が大切であります。

われわれは自分自身が神の子であるということを、ともすれば忘れがちであります。
自分自身が「神の子」であるということを忘れるがために、相手もまた神の子である
ということを忘れてしまうのであります。


自分自身が仏であるということを忘れてしまうから、
相手もまた仏であるとうことを忘れてしまうのです。

そういうことでは本当に自分を愛することもできなければ、
他(ひと)をも愛することができない。

それでは「己(おのれ)を愛するがごとくに隣人を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく神を愛せよ」という教えを
守ることができないことになるのであります。


それでですから、本当に自分を愛するというのは、
自分自身を最も価値あるものにすること、自分自身を最も高き価値まで
ミ(たか)め揚(あ)げるということにほかならないのであります。

では、自分を最も高き価値までミめ揚げるとは、いったいどうすることであるかと
申しますと、必ずしも学校で1番の成績をとるということではないのです。
自分が「神の子」になり、「仏」になるということである。

すでに「神の子」であり「仏」であるところの人間の実相(ほんとのすがた)を、
「今」自覚すること ―― これがいっさいの信仰の、いっさいの道徳の中心になり、
出発点になるのであります。

キリストは聖書の中で「神の子」というところを「人の子」といって
両語を混雑して使っていますが、これは、本当に「人の子」は「神の子」である
という自覚からくるのです。

自分が神の子であり仏であるということを知らなければ、
すべての道徳は中心を失い、柱を失ってしまって、
どうしてよいかわからなくなるのであります。


では、仏とは何であるかと申しますと、これは解(ほど)けることである。
いっさいの縛(しば)りとなるもの、いっさいの凝(こ)りというものから
解(ほど)けてしまって、解脱した状態になってしまう
―― その解脱(ほど)けた状態、これが仏であります。

この自分自身が解脱した状態になって、自由自在な窮地になって、
その自由自在な境地を愛することができて、
はじめて他(た)の人々の人格の自由を完全に生かす愛ができてくるのであります。


ですから、われわれはまず自分自身をはっきりと把(つか)まなければ
ならないのであります。

自分自身が神の子であり、仏であるということをはっきり把んでしまって、
何ものにも執(とら)われない、自由自在な相(すがた)というものを自覚して、
そうして自分は神の子であると自分自身を愛し礼(らい)し、

己を愛し礼するごとく、そのごとく他(ひと)に対して、神の子として、仏として
尊敬し、敬(うやま)い、人の内に宿っているところの実相 ―― 神性という
ものを生かしてゆくようにする、これが本当に自己を愛するごとく他をも愛する
ということなのであります。


ですから、自己を愛するかのごとく人を愛するということは、
要するに自分と他とが一つであるという根本実相(ひとのほんとのすがた)
から来るのであります。

自分と他(た)とが一つである。
自分と他とが一つでなければこの愛ということは成り立たないのであります。

自分と他(た)とが全然別のものであったならば、
自分の喜びが他人(ひと)の喜びであるというはずがない、
他人(ひと)の悲しみが自分の悲しみであるというはずがないのであります。


ですから、われわれがじぶんの好むところを他(ひと)に与え、
他(ひと)の欲せざるところを他(ひと)に転嫁しまいと思うのは、
要するに自分というものと他人(ひと)というものが、本来同じものである。

同じものであるから同じように感ずるものであるという
根本的な直観的認識から来るのであります。

この「自他一体」の直感認識がなければ道徳的価値評価というものは
成り立たないでいっさいの行為はバラバラで道徳的にはなんらの価値もない
ということになるのであります。

このように道徳とは自他一体の直感認識から始まって、自分の喜ぶ状態に
他(た)をもしてあげたいという願いに始まるのですから、

自分の実相が仏であること、そしてこの仏の相(すがた)とは何ものにも
縛られない自由自在なものであるということを自分自身に自覚した人のみ、
本当に人々にもその人の実相すなわち仏を自覚せしめて、

いかなる外(ほか)のものにも縛られない自由自在なる状態を、
その人に施(ほどこ)してあげることができるのであります。

この自由自在な無畏の状態を施してあげることが仏教では無畏施といって
施しの中でも最も尊いものとなされているのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月28日 頓首再拝>

[910] まず自分に深切であれ〜その4
伝統 - 2015年10月29日 (木) 03時09分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P76〜78)より

さっき申しましたように、甘いものの好きな人は甘いものを他に与え、
煙草の好きな人は煙草を他に与える。

そして自分自身の自由自在な実相の好きな人は
実相を他(ひと)に与えるのであります。


ところが誰でも、本来自由自在なのが実相(ほんとのすがた)なのであります
から、自由自在の境地を求めない人はない。

煙草の好きな人も本当は煙草そのものが好きなのでない、
なんとなくギコチなく淋しく自由自在な感じが失われている、
その感じをごまかすために煙草を喫み酒を飲むのです。

金の欲しい人でも、金のそのものが欲しいのではない、
金があると自由自在になんでもふるまえると思うから金をほしがるのです。
ところが金を持っても酒煙草を喫んでも、
それに執(とら)われたらかえって自由自在が失われる。

金に執すれば金に縛られ、酒煙草に執すれば、酒煙草の奴隷にせられてしまう。
これでは、もともと自由自在を求めたのが何にもならない。
自由自在を求めてかえって不自由不自在を得たことになるのです。

ですから自分が真に自由自在に解脱した喜びというものに得たならば、
われわれは全人類の得(え)んとして目指しているこの喜びを人々に
与えなければならぬのです。これが自他一体の真理なのです。

そうしてここに自分が仏の実相を鳴り出せば、
かたわらにいる人々の内にある仏が鳴り出すということになるのであります。

これは釣鐘の共鳴のようなものであって、二つの釣鐘を並べて置いて
こちらの釣鐘をゴーンと撞くとその隣の釣鐘もゴーンとまた共鳴して
鳴り出すのです。

それは、一人の人の実相の響きが鳴り出す時は、「一切衆生仏性あり」で、
他の人々の中に宿っているところの仏性が鳴り出して表面に顕われて
顕在的になるのであります。

だから人を悟らすには、まず「自分は神の子だ、仏の子だ」と気づいた人が、
そうであるということを言葉に出してガ―ンと鳴り出すということが
必要なのであります。

そうするとその隣の鐘 ―― 否、その付近にいる人たちもやはり自分のうちに
ある尊き仏性がガ―ンと鳴り出して顕在となり、またその響きがさらに共鳴を
起こして、すべて人々、到るところに仏が現われて来るということになるので
あります。

そしてすべての人々悉く仏性が顕われ、これが本当に隣人を愛する
ということになるのであります。
それでその次の第十二条にはこう書いてあります。

            <感謝合掌 平成27年10月29日 頓首再拝>

[913] 真理を伝えるのは愛の道〜その1
伝統 - 2015年10月29日 (木) 18時35分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P78〜80)より


   《われらはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、
    この光明思想「生長の家」をひろめ全人類に真理を伝えんことを期す。》


さて、この光明思想「生長の家」を人類に弘めるということは、何も自分が物質的
利益を得るために弘めるのでもなければ、自分は人に道を説くところの第一番の
高き導師であるという名誉心を満足せしめるために弘めるのでもない。

ただわれわれは、自分が仏であるという自覚を得たときに、そうしてまた他の人々も
同じく仏であるということを知った時に、その仏であるべき人間が仏でないような
相(すがた)の現われているのを見た時に気の毒になってたまらない、

自分も仏である、あの人も仏であるのに、あんなに仏でないと思って、あんなに
貧しい相をし、あんなに病める相をしている、あんなに悲しい相をしている、
どうも気の毒でならない、とこう気がついた時に、どうしてもその人に
仏であるという実相を知らしてあげなくてはならない衝動に駆られるのです。


これは結局「自分と他とは本来一体である」事実から出て来る衝動であって、
自分が仏であるということがわかったら相手に対しても仏であるということを
知らさずにおれない。

自分が神であるということがわかったら相手に対してまた神であるということを
知らさずにはおれない ―― これが自他一体の愛 ―― 仏の愛であり、
神の愛である。そしてそれを実行するのは菩薩の行であるわけであります。

 
ですから、この「生長の家」を弘めるというと、何か雑誌を弘めるというように
お考えになる方もあるかもしれませんけれども、これは雑誌を弘めるのでない、
「仏」を弘めるのである、「神の子」をひろめるのである。

すべての人間を「仏」にし、「神の子」にする言葉の響きを弘めるのであります。

キリストは路傍で説教した。
日蓮は辻説法した。
これは何も自分自身のためにするところの運動ではない。
辻で説法するのは下品だとか何とかいっておれないのは人類を愛するからなのです。

すべての人間を、われ自らのごとく愛するから、その悟った真理を伝えずには
いられないので、世間から見た格好が、悪いのいいのといってはいられないのです。
自分自身が「神の子」であり「仏」であると悟ったらそれを全人類に弘めなくては
いられない。

ですから今までいろいろ宗教が現われてきておりますが、すべての教祖は
その已み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、「神の子」を伝えたものであります。

しかしそれぞれその時代、その環境に応じて、
その教えを伝え弘める形式は変わってきたのであります。

過去の時代には、通信機関や印刷機関が不便でありましたので、
おおむね直接説法によらなければならないから、説法のコトバの力で
「仏」を大量生産することができなかったのであります。

ところが、現代においてはこの「生長の家」が出現して、印刷物によって
「仏」をヒビキ伝えるという不思議な、時代応現の用(はたらき)というものが
出てきたのであります。

現代のようにこんな人口が増え、そうして学問が進歩し、印刷術が発達している時代に、
今までのような姑息な、単に教会という一つの建物、あるいは寺院という一つの
建物の中で牧師や坊さんが喋っているというだけでは、
なかなか人間全体に「仏」を伝えることはできないのです。

ですから、この時代に最も相応(ふさわ)しく、活字の力というもの、印刷の力
というものを以て、また大量生産的に「仏」の響きを出させて、したがってまた
大量生産的に救われるということになったのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月29日 頓首再拝>

[917] 真理を伝えるのは愛の道〜その2
伝統 - 2015年10月30日 (金) 03時23分


        *「生長の家とは如何なるものか」(P80〜84)より

そんなわけで、この「生長の家」から出る出版物は、
活字を組んで列(なら)べてあるだけでありますけれども、
その列んでいる言葉そのものは「仏」のヒビキでありますから、

解脱して自由自在になった生命(せいめい)のヒビキでありますから、
『生長の家』がある誌友のところへ着いただけでその誌友の病気がよくなったとか、
あるいは乱視が治ったとかいうふうな不思議なことも往々起こってくるのは、

「生長の家」の出版物が単に活字を列べて紙の上に印刷してあるというだけのもの
ではない、そこに文字に「仏」の自在無礙の響きがあり、
言葉に「神の子」の解脱の響きがあるからであります。

その言葉の響き、文字の響きを全世界に弘め、これによって全世界が光明化され、
それを受け取りそれを読んだすべての人が自己のうちに宿っている仏の響きに
共鳴して、発現されて、そうしてみなみな自分が仏であるということを
自覚することができる。

こうなれば「仏陀(ほとけ)」の大量生産が成就するのであります。

 
この間、伊藤三郎さんがわたしのところへ『日蓮主義』という雑誌を持って来て
下さいました。それは2、3日前、ここで伊藤三郎さんがお話しになった逗子に
住んでいる人から伊藤三郎さんに送って来られた雑誌なのだそうであります。

その話はこうであります。

ある日伊藤三郎さんを訪ねて来た旧友がある。その旧友が伊藤三郎さん自身では
引き受けることを躊躇しなければならないと思われるようなある重大な仕事に
一肌脱いでほしいと頼みに来られたそうであります。

その知人に会ってみると、その顔がなんとなく明るく輝いて見えるので、
ちょっと躊躇するよな大仕事なのだけれどもなんとなく引き受けてもよいかも
知れぬという気になり、一つ神意に問うてみようと別室に退(しりぞ)いて
神想観をされた。

するとその仕事を引き受けてもよいという霊感があったので、
伊藤さんは自分の奥様に相談なさると、伊藤さんの奥様は
「神さまからそういう霊感があったならば、引き受けておやりになさい」
と言われましたので、またその逗子からの旧友のところに出て来られて、
「では、その仕事をお引き受けしましょう」と言われた。

そして「実はあなたに上げたいと思って署名した本がここにある。
ちゃんとあなたの名前が扉に書いてある」

と言って『生命の實相』をお上げになったら、その旧友はその『生命の實相』
を見て大変お喜びになって、実はわたしは「生長の家」のことは『生命の藝術』
という雑誌を新聞広告を見て無代進呈してもらって読みましたら、

今まで信仰していた日蓮上人の教えの神髄を深く穿ったものと感じて、
非常にありがたく思いましたので、それに書いてある神想観の説明、
これさえあればよいというので、一所懸命、神想観の歌を暗記していました。

すると自分の長らくの喘息が治ってしまいましたのでまったくありがたくて
『生命の實相』を欲しい欲しいと思っていました。
欲しい物が集まって生長の家の無限供給が成就したのです、というわけです。


この方はただ今、名前を思い出しましたが村田武一郎(ぶいちろう)という方です。
この村田さんから最近伊藤三郎さんへ「日蓮主義」という雑誌を送って来られた。
実はこの中に「生長の家」の攻撃が書いてある。

その攻撃というのは「生長の家」は日蓮主義と同じことだというのです。
日蓮主義と同じものに「生長の家」という名をつけて新聞に大袈裟な広告をして
自分の一派の宗教に引き込もうとしているというのが攻撃の材料になっている
のです。

それに対して村田さんは自分の救われたお礼に反駁分を書いたからそれを見てほしい、
これでよいかと付け加えて書いていられるのです。
その反駁分にはこう書いてあります。


「自分は元来日蓮宗であるのに日蓮宗のありがたいことがわからないで、
あまり熱心でなかったが、『生長の家』を読むようになってから日蓮宗が
本当にありがたいと解っていっそう日蓮宗に熱心になった。
この事実を見ても生長の家は自宗に引きつけるような宗教ではない。

すべて宗教の神髄を穿(うが)っているから、どの宗派の人が見ても、
自分の宗教と同じことを説いていると見えて、かえって自分の宗教が
ありがたくなるのである。

宗教とは結局、同じ救いに導くものであるから、どの宗教から見ても自分の宗教と
同一真理を説くものだと認められるぐらいでないと本物ではない。

またひんぴん新聞に大袈裟に広告するのが、あまり大袈裟で、宣伝じみている
というの当たらない。

今もし日蓮上人がこの世に出て来られたらならば、
辻説法のような緩慢なことをして、少しの人を集めて道を説き
少数の人類しか救わぬというようなことはしないはずである。

必ずや谷口先生と同じような大袈裟な、出版機関を利用し、新聞を利用し、
講演を利用しあるいはラジオを利用し、文明の利器をできるだけ利用して、
できるだけ大袈裟に宣伝して大衆に達するようにし、
一日も早くこの真理を全人類に伝えるように努力せられたにちがいない。

新聞広告をして宣伝じみて外聞が悪いとか、
辻説法をして乞食坊主にまちがえられて外聞が悪いとか、
そんな自己の名聞(みょうもん)なんて考えている暇がない、

それが捨我精進(しゃがしょうじん)であって、
あらゆる機会をことごとく見のがさないで仏を伝えるように努力するのが、
これ自己が仏を悟った人の道である」

というようなことをその反駁分に書いて、
その雑誌と一緒に送って来られたのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月30日 頓首再拝>

[918] 真理を伝えるのは愛の道〜その3
伝統 - 2015年10月30日 (金) 19時56分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P84〜87)より

この村田さんのおっしゃるように、われわれが真理(ほとけ)を知ったならば、
それをできるだけ多くの人に伝えるということがこれ仏様の働きである、
方便としてあらゆる機会を利用して宣伝する
――決してこれは利己主義の働きじゃないのであります。

これはすべての人の実相を生かす最も尊い仕事でありまして、
それには時代応現のいろいろの手段、方便ということが必要なのであります。

あるいは光明思想普及会の新聞広告が、病気の治った礼状がたくさん出ている、
治してもらった体験談がたくさん出ている、まるで「有田ドラッグ」のようで
あるというような攻撃をなさる方がある。

しかし、「有田ドラッグがどうして悪いのか」というと、
何もわるいという理由はない、有田ドラッグもなかなか言葉の力を
巧く利用してそうして薬を売っている。

薬を売っているだけじゃなにのであって、あれは半分は光明思想である。
有田ドラッグの広告を読んでみると
「病気は薬では治らぬ、精神の持ち方や信仰によってなおる」と書いてある。

そうして付けたりに、その薬を飲んだらいっそう良く治るということをいって、
精神療法、信仰療法を勧めて、心の作用で病気を治しておいて、その治った治験例
を掲(かか)げて、薬で治ったように装い薬代だけを有田の方へ《せしめ》ている。

「病気は自然が治して、謝礼は医者が取る」という諺がありますが、これは
「病気は心が治して、治ったお代薬屋に払う」というようなことになっているので
あります。だから有田ドラッグはなかなか賢い、必ずしも世の中に害毒ばかり
流しているということはないのであります。

世間には病気が治るということを新聞に発表すると何か下品なことのように
思うている人があるが、これは実にまちがったことであります。


というのは医学博士が病気を治したという治験例をば医事雑誌にずっと並べたら、
誰が下品であるといいますか。

医学博士が動物をいろいろと解剖してみたり、物質的の実験をやってみたりして
形而下(けいじか)のことを列べて、形のある物質を使用して病気を治した実例を
列べますと、大衆はいかにも仰々しく科学であると嘆称(たんしょう)するので
ありますが、

それならば、生長の家が薬を使わないで、ただその発行書を読んだだけで
病気が治るというような、在来の常識を覆すような治験例を発表しえたならば、
これは医学博士よりもいっそう偉大なるものであるといって、
皆さんは讃嘆しなければならないはずなのであります。

それにもかかわらず、病気の治験例を発表するということはこれは下品である、
有田ドラッグのようであるなどということは、実に偏見に執われた批評なので
あります。

むしろ新聞に発表して下品なのは人殺しや盗賊や強姦やいろいろの悪徳の記事である。

病気の流行るというような恐怖をそそる記事も人々に悪感(あつかん)を与えて
下品である。

しかしそういう記事をのせている新聞を見ても下品だと言わないで、
どんな病気でも心の持ち方で治るという気持のよい治験例を発表する記事を
下品視するのは人間の頭が悪いからであります。


釈迦が悟りに入られた最初の動機は何であったかと申しますと、生・老・病・死の
四苦を観て、これを解脱することを考えなくてはならないということを思いつかれて、
そうしてそれを解脱する道を得られたのであります。

われわれが生老病死の四苦につまずくことによって、それを機縁として、
自分の実相が仏であるということを悟らせられるということは、
実際釈迦でさえもそうであったのであります。

いわんや、われわれがこの病気というもの、あるいは生活難というもの、
人生苦というものなどに臨んでいる ―― その契機を利用して、
それを解決する道がここにあるということを広告によって知らして、

そうしてわれわれの団体へ呼び寄せてきて、真理を知らせ実相を悟らせる
ということはこれ実に仏さんのありがたい慈悲の現われであると
いわなければならないのであります。

人はこの病気の治るという治験例を発表することはいかにも下品なことと
お考えになるのであります。

そして、われわれも、物質なる肉体の治るとか治らぬとかいうような小さいことを
問題にしていないのでありますけれども、物質上の御利益などは問題とするに
足らぬと思いながらも、現世の苦悩に悩んでいる人がある以上、その現世苦悩の
低さまで降りて行ってあげなければ人を救うことができないので、

それで上品だとか下品だとか、そういうことを考えないで、自分もいったん
人の所へ降りて行って、病気本来無いということを知らせ、病気が治った
という治験例を発表して、一般の人に呼びかけ、病人に呼びかける、救わるべき
相手は迷える人、病める人である。

迷っている人にはしばらく迷いの相(すがた)を現わして、そうしてそれらの人を
一段高い所へ引き上げるというのが仏の自由自在な慈悲の働きなのであります。


            <感謝合掌 平成27年10月30日 頓首再拝>

[919] 真理を伝えるのは愛の道〜その4
伝統 - 2015年10月31日 (土) 03時50分

        *「生長の家とは如何なるものか」(P87〜90)より


『法華経』の中に「長者窮子(しょうじゃぐうじ)」の譬(たとえ)がある。
あるところに金持があって、その家の後継ぎの息子が家出をして、
諸方を流浪してルンペンになってそうして彷徨(さまよ)うていたが、
とうとうまた故郷(こきょう)へ帰って来た。

どこへも寄る辺(べ)がないので、自分の故郷の親の家の門から、
ふと覗いて見ましたら、そのお金持が大勢の召使をずっと列べて、
いかにも王様のような姿をして坐っている。

その姿を見た時に、自分のようなルンペンの、破れた半纏(はんてん)を着た
こんな男が、こんなところでうろうろしておったら家来たちに捕えられて
どんなひどい目に遇うかもしれないと逃げ出した。

そうすると、王様は一目見ると、

『あれは自分の子である、本当の子はあの子のほかにない、
自分の全財産を譲るべきはあの子である。
自分の全財産の持ち主は本当はあの子なのである、
あれを呼び戻せ、あれにこの財産を与えるのである』

とこういった。

ところが家来たちが追っかけて行くと、ルンペンはますます恐怖を感じて、
とうとうびっくりして、目を廻して倒れてしまった。

皆が寄って介抱をしてようやく気がついた。

ところで、立派な服装の高位高官の家来のような姿をしておったら、
何か自分を取り押さえるためにでも来たように思って怖がるから、
その家来は父の長者の命によって方便を設けてみすぼらしい服装をし、
「こういう土方仕事の下らない仕事があるのだが、君一つ働かないか」
といったら、そのルンペンも安心して土方をしている。

そうして、少し働いているうちに少し位を上げて土方の頭(かしら)にする、
もうしばらく働いていると監督にするというような塩梅式(あんばいしき)に、
だんだん出世さして、高い位になってきた時分に、
もうお前は長者の後継ぎであるといってやっても恐れて逃げない時が来る。

その時になって初めて、お前はわたしの本当の子である、自分の全財産は
お前のものであると、こういうぐあいに長者がいわれたという話がありますが、

光明思想の普及のやり方もそれと同じことである。

われわれは初めから

「人間は神の子である、仏である、すでにお救われているのである」

こう教えてあげても、

「そんな馬鹿なことがあるものか、自分は現に病気で困っている、
貧乏で困っている」

と反駁する。

中には「そんな迷信があるものか」といって逃げ出す人もある。

そういう人に対しては、やはりこちらが下まで降りて行って、
そうして土方の親方ぐらいに化(ば)けて行って、

「あんた病気か、病気なら病気を治すえらい便利なものがあるぜ。
こういう本を読んだら治る、たった5銭で1冊のパンフレットを読んで
治った人もたくさんある。どこの誰もこうである、どこの何さんもこうである」
と実例を挙げる。

すると「そうか、そういう結構な薬があるのなら」と読んでみると、
読むにつれて、「なるほど自分は神の子である、病気は本来無い」ということが
ちゃんと悟れるようになっている。

救われるべき相手の高さの程度まで降りて行く、これが仏様の本当の慈悲の働き
であって、下品なように見えているけれども、下品なように現われなければ
救われない人に対しては、われわれはそういう相(そう)を現わして救うほかはない。

これが菩薩行である。
観世音菩薩が三十三身に身を変じて衆生をお救い下さるというのもみなそれである。


維摩詰がみずから身に病を現わしてそうして本来病無き所以をお説きになった
ということが、仏説『維摩経』に書いてある。
これもやはりお釈迦様がお説きになった教えである。

キリスト教の聖書の中には、キリストが病気を治し給うた記録がたくさんある。

ところが、生長の家で病気が治ったという事実を発表すると、多くの仏教者や
クリスチャンやそのほかいろいろの宗教家が「宗教で病気が治るのは邪道である」
というふうなことをいって攻撃されるのであります。

それならキリスト教は聖書に病気の治った話があるから邪教であり、
釈迦は『維摩経』で病を縁として実相を説いたから仏教は邪道だということになる。
こういう観方でゆくとすべての宗教は邪道に観えてくる。

こういう人こそ実に気の毒な人であって、自分の心の眼が「邪教」であるから、
すべての教えが邪教に見えるのであります。


お釈迦様は「総ての衆生を見ること一子羅喉羅(いっしらごら)の如し」と
こういうぐあいにいっておられる。

もしここにわれわれが、自分の子供が病気をしているという時にこれを宗教で
治してくれた人があったら「なんじゃあいつ、病気を治しやがって邪道である」
と罵倒しうる父親、母親がありうるでしょうか。

そうしたならば、多くの人類が生長の家によって治されていると事実を見て、
多くの人類はすべて自分の一子羅喉羅(いっしらごら)のごとしであるから、
救わなければならぬ子であると思うているはずの宗教家たるものが、
自分の子供と同様な衆生が、生長の家によって病気が治っているという事実に
対しては、

「ああ、ありがたい、わたしが行って世話してあげなくちゃならないところを
生長の家が治してくれたのだ、ありがたい」という気持になるのであってこそ、
これ仏様の心なのであります。

ところが、自分の子供同様救わなければならない衆生が、
生長の家で病気が治っている ―― その事実を見て、

「なんじゃ、あんなところに行きやがって、病気治しやがって……」と、

鬼のような心をもってそうして本当に救う働きを現わしている、

観世音菩薩の働きを現わしている「生長の家」に対して咀いの言葉を投げかける
ような宗教家があるというようなことは、彼が宗教家であるのか、
地獄からの使者(つかい)であるのか、実に嘆かわしい次第であると思うので
あります。

・・・

以降については、伝統板・第二「生長の家家族の祈願及び修養A」へと続きます。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6650704

            <感謝合掌 平成27年10月31日 頓首再拝>



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