[901] 日々読誦三十章経(経言) |
- 伝統 - 2015年10月25日 (日) 19時52分
*「日々読誦三十章経」より
【招神歌(かみよびうた)】
生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ) 元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え。
吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を 貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)。
わが業(わざ)はわが為すにあらず天地(あめつち)を 貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)。
天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕(あ)れましし 生長の家大神(せいちょうのいえのおおかみ)守(まも)りませ。
【新天新地の神示】
見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。 人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。 新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。
われ臨(きた)つて此の世界は既に変貌したのである。 既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、 悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。
神秘を見て人々よ、目覚めよ、覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。 われは存在の実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈(ひ)を点ずるものである。
悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。 汝の悲しみは喜びに変るであろう。
病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。
われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。 われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。 われ汝等に「神想観」 と言ふ観行を教へたれば、それを為せ。
われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。 吾を呼ぶ者のもとに吾は常にありて、汝らのいために汝らの重きくびきを軽からしめる。
なんぢ一人なれば吾を念じて吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。 なんぢら二人ならば、われを念じて吾と倶(とも)に三人なりと思へ。
悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。
そはわれは限りなき大愛であるからである。 汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであろう。
信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫(ふびん)であるが助けやうがないのである。 汝の心の疑(うたがい)がわが救ひの波長に合わないからである。
遠くにゐて救われてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。 仕方のないことであるが不憫である。
もつと兄弟たちに「生長の家」 を伝へよ。 神の愛は貰ひ切りではならぬ。 頂いたお蔭を「私」 しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。
「生長の家の神」 と仮りに呼ばしてあるが、「七つの燈台の点燈者」 と呼んでもよい。
七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。 わが教へはどんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。 教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。
(昭和六年五月六日神示)
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