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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[914] 十一月 さらに新芽を含む
伝統 - 2015年10月29日 (木) 18時41分

(上旬)

人を憎んでいては、健康にはなれない

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月1日)より

春に出る新芽は春になって初めてできるのではない。
もう11月の頃から、あるいはもっと早くから用意されているのである。
この用意が不完全だったら、よい新芽は出ないのである。

まちがい上に本物を建てることはできない。
健康になりたい人はまずまちがいを捨てなければならない。
まちがいの上にどんな立派な建物を建ててもそれは倒れてしまう。

「まちがい」とは、それが《ある》かのように見えても本来、「当に有るべからざるもの」
すなわち「不当有(ふとうう)」であるから、不当有(ふとうう=まちがい)の上に
物を建てたものは、いずれも壊(くだ)けてしまうのである。

人を憎んでいて健康になどなれるものではない。

憎みは「不当有(あるべからざるもの)」であるから、神に対する背反である。
神は「生命(せいめい)」であるから、「憎み」のあるかぎりその人は「生命(せいめい)」
に背反しているのであるから、その人の健康が不良なのは当然である。

「憎み」を持続しながらその人の健康を維持しているように見えても、
それは表面のことであって、その人が、「神」すなわち「生命(せいめい)」に背反して
いる限り、すでにその人の健康は危殆に瀕しているのである。

・・・

人の本質を礼拝せよ!

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

・・・

濁り水を捨て、真理の水を注げ!

       *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。

・・・

「本当の汝」を呼び戻せ!

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より

なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。

真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をしてなんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。

「本当の汝」はいずこにいるぞ。

それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。

いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。

「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。

・・・

神人一体を行ぜよ

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

・・・

永遠価値のものを愛し、考え、求めよ!

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より

万事物質的なものは遷りかわるものであり、その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。

われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。

すべて心を労してもとめても、やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。

神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。

忠、孝はむろんのこと、すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。

・・・

愛なき心がわれらを傷つける

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月7日)より

物質はわれわれを傷つけることはできぬ。
愛なき心がわれらを傷つけるのである 

―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。
物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、
物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――

ともかく傷ついていたことを発見するであろう。

・・・

キリストは道標

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より

キリストに対するユダヤ人の呪いは「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を?(けが)す
ものである」ということであった。

ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された「土の塵の人間」、
「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」とエホバの宣言したところの
物質人間でしかなかったのである。

キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」と宣言したのである。

そして「我(われ)は道であって、この道を通ればすべての人間は神の子なることを自覚し
えて、永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」と断言したのである。

キリストは道標(みちしるべ)であった。
キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。

・・・

肉体を思い煩うことなかれ!

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より

人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。

思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。

神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。

そしてだれにも責任を負わせないで、自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。

・・・

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より

人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。

病気が治ったことを悟ったためであるというのは、自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。

釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。



[915] (中旬)
伝統 - 2015年10月29日 (木) 18時51分

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 
(「イザヤ書」第三十章十五〜十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。

ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。

なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。

・・・

霊は健康で迷わざるものである

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月12日)より

霊的自己 ―― 迷わぬ自己 ―― ただ一つ ―― 二つは無い。
迷っている自己、病んでいる自己、そんなのもは無い。
自己は二つない。一つきり。

健康な自己だけ。そのほかの自己を神は創(つく)らない。

霊は健康で迷わざるものである。

・・・

病気などは無い

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に**

我はただ神の生活を生活するだけである。

・・・

「迷い」は無い

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より

「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。

しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?

神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。

・・・

神に抱擁される詩

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月15日)より

静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。

第一節二十回、終わりて第二節二十回、
それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。

心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。


   神はすべての渾(すべ)て
   神はまたきいのち
   神のいのち我(わ)れ
   健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
   病(や)まざるもの我(わ)れ
   死せざるもの我(わ)れ
   無限力なるもの我(わ)れ。


   神はすべてのすべて
   すべてのものに神ましまして 
     我(わ)れを導きたまう
   神は調和の叡智(みちえ)
   神は栄えの叡智(みちえ)
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう。


   神はすべてのすべて
   すべてのもののうちに神ましまして 
     我(わ)れを護りたまう
   神はまたき聖愛(みあい)
   神 我(わ)れを護りたまえば
     幸多き者われ、
     恐怖なき者われ。
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう

・・・

転法輪 〜 法の循環

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月16日)より

法(ほう)があっても法はコトバであるから説く者がなければ法は成就しない。
説く者があっても聴かせる者がなければ成就しない。

法は真理の法体であり、コトバである。
これを説く者は仏である。

成仏とは仏が法(しんり)を説き始めたことである。
大通智勝如来といえども法を説くまでは成仏しなかったのである。

仏法を説くとも、これを聴取させる媒介者がなければ衆生の耳に入らないのである。
その聴取の媒介者 ―― 取次者が僧である。
衆生それを聞いて法を行じて仏成就す。

法、仏、僧、衆生・・・・・と次第に法が循環するのが転法輪である。

・・・

無我直心

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

・・・

平等にして、差別がある

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月18日)より

仏を知る心が自分にあるのは、自分が仏であるからである。
理を知る心が自分にあるのは、自分が理であるからである。

自分が仏にして、すべての人が仏にして、初めて、
我れ彼を知り、彼(かれ)我(われ)を知る。
彼と我(われ)とは平等同自にして、しかも彼は彼であって我(われ)ではなく、
我(われ)は我(われ)であって彼ではない。

したがって彼と我(われ)とは平等にして、差別がある。
差別がなければ、我(われ)と彼との差別の認識ができないし、
我(われ)と彼と平等でなければ
我(われ)は彼を感ずることも、彼は我(われ)を感ずることもできない。

・・・

無病息災延命長寿の心

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より

「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、
本意の第一と仕り候。

死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、その徳おおき事に候。

その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜に
なぞえて、随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、

主君への末永き御奉公、親々への孝養も、
末久しき義なりと存(ぞん)するから事起こりて、
主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、親々への孝行も疎略にて罷(まか)り
成るにて候(そうろう)、

今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候
に於ては、主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、
これをかぎりと罷り成る事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」


享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。


「日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように思える
かもしれぬが、けっしてそうではないのである。

生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。

ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。

「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、常住坐臥の時に
は肉体は死なぬように思い、肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。

そこで前記『武道初心集』にも「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。

しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に刻み込まれる
のであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を生きることになるのである。

「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので自然法爾に
天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。

それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』と大道寺友山翁が
書いたとおりになるのである。

キリストの生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」と
言った言葉も同じ意味である。

「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。
無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。

無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。

・・・

拝む心が神の心

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、その人自身がまた拝む心を
失ったということになるだろう。

[916] (下旬)
伝統 - 2015年10月29日 (木) 19時12分

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より

仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。

仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。

日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。

仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。

敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。

・・・

生長の家教団の指導精神

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月22日)より

今日はわたしの誕生日である。

この誕生日にわれわれの団体の指導精神となるところのものを
書いておくのも無駄ではあるまい。

われわれを指導する者は、たった一つ神の意志である。
神は人の悪口(あっこう)を言うことを許さないもである。
悪口を言ったとき、その人はもはやわれわれの同志ではないのである。

しかしわれわれは寛大である。
一度悪口を言った人でも、再び神の意志にしたがって、
人々を賞め讃(たた)え感謝しあうことができるようになったら、
われわれはいつでもその人をわれわれの同志として迎えるのである。

「悪」は積極的存在でないから、それが「悪かった」と気がついたとき
たちまち消えてしまうのである。

過去を過去として過ぎ去らしめよ。
われわれは日々新生するのである。
新しく生れる者は、他(ひと)の旧(ふる)き悪に捉われるものではない。

われわれの同志は、同志としての権利と義務とを自覚しなければならぬ。
それは、一日でも早く光明思想によって目覚めた者は、神から一日早く光明思想を
生活に行ずべく指名せられたる者であるということである。


われわれの指導者は「神の意志」であるから、神がわれわれにかく行ずべく
光明思想を知らせ給うた以上は、この無上の指導者の意志に従わねばならぬ。

われわれは一日早く光明思想を知らされたがゆえに、後至者(あとよりきたるもの)に
一人でも多くこの光明思想を次に伝うべき義務を有する者である。

義務は、われわれに対してあるのではなく、「神の意志」に対してあるのである。
そしてその義務を遂行するための協同体としてわれわれの教化団体はあるのである。


誌友会や、白鳩会や、その他の集会で ある一人が他(ひと)悪口を言った場合には、
それに対して相槌を打つことは、われわれの協同体においては禁ぜられている。

ある人が某(それがし)の人の「悪」を言った場合には
われわれの協同体に属する人の言うべき答えは
「いいえ、あのひとはけっしてそんな悪い人ではありません。あの人は本当によい人です」
と証言することである。

すべての人が、一人の人を「善人」であると証言するならば、
その人がたとい「善」から踏み外れようとしていた場合でも、
言葉の力によってその人は「善」にまで呼び戻されて来るものである。


われわれの協同体は「神の意志」によって組織されているのであるから、
定(さだ)められたる役役はそれぞれの上置されたる位置の者に
絶対に服従しなければならぬ。

たとい自己の意見が上置者の意見と相異していようとも
「そのまま素直にありがた」とそれに対して従順に従うのが「神の意志」である。
この場合、上置者は私人として上置せられているのではない、
公の意志によって上置せられているのである。

理窟はどうにでもつき、また立場にしたがって意見はどうにでも変わるものである。
意見は立場の変わるだけ複数にあるであろう。
いちいちの意見を主張していたら紛糾を重ねて収拾することができなくなるだろう。

ただ上置された時は、その下(しも)のものに対して絶対の命令権を持ち、
下(しも)の者は絶対の従順をもってそれに服するとき、
そこに「神の意志」が行じられるのである。

有利に見える「我(が)」の意見を通すよりも、不利に見える上置者の命令に
黙々服従する方が、神において価値が認められるのである。

定(さだ)められたる勤務時間には1分間でも遅刻なく必ず出勤すべきものである。
それは仕事の分量のためではない。仕事の分量のためならば自宅でたくさん仕事を
してきて出勤は遅刻してもよいであろうが、そうではない。

それは法則に従順であるためと、法則を定(さだ)めたる上置者に対する
従順の美徳のためである。
美徳は仕事に上置せられる。

さらにわれわれ協同体においては厳重である。
定(さだ)められたる出勤時間よりも十数分も早く出勤して、
定刻が来るまでに自分の室(しつ)や自分の机の回りを掃除して、
室と机に感謝し、定刻が来るとともに直ちに仕事を始められるように
準備するほどの者でないと、われわれの協同体の役員ということはできないのである。

われわれの協同体ではみんなそれをやっているし、
われわれはそれを尊敬しているのである。
われわれの協同体のこういう習慣に反対である者は、
いつの間にかわれわれの団体にはいづらくて去って行くのである。

ヒットラーは
「規則の侵犯は自由の損失と国民性の破壊を招来することになつ」と言った。

われわれの協同体は理想によって「神の意志」を行ずるために集まってできたのである。
われわれはこの協同体に属することを名誉とし、みずから進んで
その仕事に生命(せいめい)を献(ささ)げているのであって
一人として報酬のために、生計のために集まっている者はない。

報酬は協同体から与えられているが、それはその人の働きが協同体の意志すなわち
「神の意志」に協(かな)っていることが認められているからである。
報酬は結果であって目的ではないのである。

もし報酬が目的である人がまちがえて内部へ来るならば、
間もなくそういう人は恥ずかしくなって去ってしまうのである。

われらは名誉と矜持(ほこり)とをもってわれわれの協同体に属しているのである。

われわれはわれわれの属している協同体の世話になったり寄生したりする者ではないし、
またそうあってはならないのである。

われわれの属している協同体は、人類光明化の公な使命を現実にまで持ち来たす
ために選ばれた団体なのであるから、この協同体の世話をやくことは
矜持(ほこり)であるから、この団体に加わっているのであって、
逆にこの協同体から何かの利益を得るためでも、寄生するためでもないのである。

われわれはこの協同体をより大きく、より力強く、より立派に築き上げることに
「神の意志」を感じ使命を感じているものである。

自分はこの協同体に寄生し、私利を貪ろうとする者や、
この神の意志を行じようとする協同体に害を与えようとする者には、
いつでも全力をもって闘う用意ができているのである。

われらの本部が巍然として美しく聳(そび)え立つことは、
形は内容の影とするならば、われわれの内容が次第に巍然として聳えてきたことを
表わしているのである。

これはわれらの本部であってわたしの本部ではない。


われわれの同志は外に対して強くならなければならぬ。
内部に対して寛大でなければならぬ。

寛大であってもルーズであってはならぬ。
寛大とルーズとは似ているけれども根本的に異なるのである。

われらは内に黙々としてジムを抜目ない注意深さで執(と)るが、
外に向かっては猛烈なる闘志をもって光明思想の普及をなすべく働きかけるのである。
内に黙々たる従順さのある者は尊敬せられ、外に対して猛烈なる働きを示す者は
讃嘆せられる。


わたしは個人的な理由で、わが協同体に属する何人にも差別待遇を与えない。
差別があるのは能力と天分と置かれたる役割とに「おける等差によるのであって、
この等差あるによって協同体の仕事が順調に運びうるのである。

私的感情で偏愛することも偏憎することもありえない。
何人もわたしから一番愛されていると信じてさしつかえないのである。

何人(なんぴと)も一番愛されながら別々の位置に置かれ、
いろいろの役割が分担せしめられているのである。

・・・

「心はすべての造り主」

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月23日)より

人間の心の思いは動力であることを知らなければなりません。
心に描いたことが形にあらわれるのであります。
このことは何度繰り返しても繰り返しすぎるということはないくらい重大な問題
なのであります。

キリストは「まず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余(よ)のものは汝らに加えらるべし」
と教えられました。具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先立って
まず心の世界に、神の国を描くことが必要なのであります。

「もし芥子種ほどの信だにあらばこの山に動いて海に入れと言うといえども必ず成らん」
とキリストが言われたのも、実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国にあるいっさいのものがこの世に実現するということであります。

すべての地上の建造物は、まず建築家の心の内に描かれたものが実現したのであります。
原子爆弾といえども科学者の心の内に描かれたものが実現したのであります。
「心はすべての造り主」と言われている所以(ゆえん)であります。

物質はみずから自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書くということもありません。

ブランシェット(心霊現象の自働書記でお筆先を書く道具)が自働して文字や絵を
書くのは、その道具が勝手に動くからではなく、それを動かす霊があるからです。

われわれの肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて健康になるのも病気になるのも
皆心の働きです。

・・・

心の波を道具として、神の子の理念を実現せよ!

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より

生命(せいめい)なき物質と、生命ある有機体との間にはけざやかな相異があるのである。
それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、それに生命(いのち)
が宿らない間は、その分解・結合の状態はいつまでも無機物的な方向において行なわれる。

いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、全然異なる分子の分解・結合が
行なわれ、一定の「理念」(または精神的原型)にしたがってあるいは
絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。

イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。

すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、
そこに「生命(せいめい)」が宿っているのである。

「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、自己の「理念」または
「精神的模型」の秩序にしたがって、新しく再配置する力をもっていることである。

それは物質それ自身の性質を利用しつつ、新たに自己の理念または精神的模型を
造形しゆくこと、あたかも美術家が、絵の具それ自身の性質を利用しつつ、
自己の内にある「美の精神的模型」の姿を造形してゆくようなものである。

宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、宇宙精神の高次にして
優位なるあらわれなるいわゆる「生命(せいめい)」に対してはただ素材を
提供するのみであって、物質が生命(せいめい)
を左右することはできないのである。

逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。

野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、
物質それ自身の配列状態を克服して自己の理念の姿を表現することができているのに、
人間という宇宙精神の最高顕現たる生物が物質の世界を克服して、
健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現することが
できないということはありえないのである。

諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」をみずから主張しない
からであって、それは『法華経』にある大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に
坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。

大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とをそなえていながら
みずから進んでそれを自覚しないから、自分の実相の完全さがあらわれないに
すぎないのである。

諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。

・・・

癌腫も筋腫も、想念によって消滅しうる

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月25日)より

われわれが「手を動かそう」と思えば、その想念のエネルギーが神経系統を伝わって
一部の筋肉に収縮運動を起さしめ、その反対側の筋肉を弛緩せしめて、
想念したとおりの運動をそこに起こすのである。

その神経系統を伝わるところの想念のエネルギーなるものは何であろうか。
それは一種の電気的流れであると想定されるのである。

それが電気的流れであるとするならば、それは確かに「電子」が想念によって
発射せられて神経組織をその「電子」が走るものだと解釈されうるのである。

患者の睡眠中における夢の変化にしたがって、脳髄より放出される電気的流れに
著しい変化が起こるということは、それを実験機械によって図表的に
その変化を記録した人もあるのである。

そうすれば脳髄という機械装置は、電子を放出するところの、
一種のサイクロトン装置であるということができるのである。
それを操る原動力と操縦士とが「想念」という不可思議体である。

むろん、神経伝達によって筋肉を動かす力は、たんに現在物理学界において
その存在を認められている「電子」だけではないのである。
もっともっと精妙な種類の素粒子を想念にしたがって放出するのであろうと信ぜられる。

しかしいずれにせよ、神経伝達されるところのエネルギーの一部には
電子の流れが含まれていることは、想念によって人体の電気的流れが変化することが
電流計によって測定されることによって明らかである。

したがってわれわれの脳髄は、極めて少量の頭蓋骨容積の中に、
人造のサイクロトンよりも精妙なる高級サイクロトンを包容するものだと
言わなければならないのである。

そして想念が素粒子を支配してあるいは電子をあるいは他の素粒子を、
自由自在に分離したり組み合わせたり、配列したりすることができるものだ
ということがわかるならば、

想念によって、人体に癌腫を発生したり、筋腫を発生したり、
あるいはそれを消滅せしめたりなしうる理由も当然のことだと
言わなければならないのである。

・・・

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と
考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、「心」という
指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

・・・


肉体は心の状態の象徴である

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月27日)より

1950年12月のユニティ教派の雑誌『デーリー・ワード』の巻頭に
クレダ・レーネルという人が病人からその病気を治すために質問された場合には、
ある霊的指導者は必ず、患者に対して逆質問を行なって、
「誰とあなたは仲たがいになっていますか? 」と訊くということを書いている。

必ず病気が起こるもとには心的原因があり、肉体がわずらう前に、
心のわずらいがあるのである。

レーネルは「まだ正確に何人(なんぴと)も、いかなる心の状態が肉体に
どのような一定の反応を惹き起こすかということを知っていない。
なぜなら肉体は複雑なる機構であるからである。

しかし大づかみに言ってみて、不快陰鬱なる感情は肉体の倦怠疲労を惹き起こし、
他を憎み害せんとする感情は肉体のある帯域にわたって攣縮(れんしゅく)、
狭窄(きょうさく)、硬直等を惹き起こし、驚愕の念は呼吸に影響を与え、
恐怖は不当に体温を上昇または下降せしめる」と言っている。

当たらずとも遠からずであるけれども、日本ではもっと深き研究ができているのである。
それは肉体を複雑なる物質機構と見ないで、「肉体は心の状態の象徴である」という
鍵によって、肉体の状態を観察することによって啓(ひら)かれるのである。

顔面の輪郭を「宇宙」全体と観じて、その中心部位たるものを「自己」と観ずるのである。
自己は神の子として宇宙の意識的な創造の中心であるからである。

自我心強きもの、高慢なるもの、剛情なるもの、上位に敵意をもちて上意を通さざる性格
のものは、鼻の病にかかるのである。この講義を聞いて、ハッと心に悟るところありて、
素直な心境になった瞬間に、十数年間の蓄膿症が癒えたごとき実例もあるのである。

鼻より上位に起こる腫物(はれもの)、皮膚病等は、自己より上位の人々に対して
接触する際の心持(こころもち)が、不平または憤怒である場合に起こるのである。

奇しくも、母親の心持が良人、舅姑(しゅうとしゅうとめ)、嫂(あによめ)等の
人々に対して不足不平の心持絶えざるときは、その母親の生んだまたは育てている
幼児の頭部の湿疹とか、腫物(はれもの)を生ずるのである。

これは多くの統計的事実であって、各部の病気についての実例的な無数の解釈と
その治験例をわたしはわたしの著書『精神分析の話』に挙げておいたのである。

メニンジャーの『人間の心』の下巻にはややこの問題に触れた点があるので
精神分析の研究者には好参考書である。

・・・

他(ひと)を釈す心にならなければならない。

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より

便秘はいかにして起こるか。

それは食物に関係して起こるというのは物質科学の解釈であるが、
同一家族にして同一食物を摂(と)りながら、
一人は便秘し一人は下痢するという場合において考えるならば、
それはたんに食物を変更するだけでは治療せしめないのである。

フロイド流の精神分析によれば、それが肛門に関係した疾患であるから、
すぐに幼児期の性欲に連関して解釈しようとするのであるが、
そうすべてを汎性欲論で片づけてしまうべきではないのである。

便秘は肉体の心の影という方面から分析してゆくならば、
あらゆる種類のものを失うことに対する恐怖が具象化したものだと
言うことができるのである。

金銭の喪失に対する恐怖、友を失う恐怖、愛情を失う恐怖、
・・・等のごときはそれである。
これを一言(いちごん)にして言えば「把(つか)む」こころである。

把(つか)んで放たない心であるから、まず心を放下することを、
何物にも引っかからず、ゆったりと緊張を解く心に誘導すべきである。

恐怖はすべて把む心である。溺れるものは藁をも把む。

恐怖すれば手に汗を握る。(握るは把むである。)
すべての心が元であって、恐怖する念が起これば全身にその形があらわれるのである。

血管は収縮し、皮膚は収縮して肌(はだ)に粟(あわ)を生ずる。
心臓も急激頻繁に把むがゆえに、その鼓動を増加し、血圧は高まり
、時として狭心症を生ずるのである。

かくて恐怖する者は直腸も肛門を収縮して「尻(けつ)の穴の狭い者」となり、
排便しえない状態になるのである。


われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、自分自身をも他(ひと)から害される恐怖が
あるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって
硬化し萎縮してしまうのである。

それを癒す道は、症状に対して直接的には
「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す
念(こころ)を起こすことである。いやしくも人を釈(ゆる)さず、
やっつけてやろうというような考えを起してはならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

・・・

時々刻々、心を練ること

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月29日)より

人間の一生涯の時間を平均35万時間だと計算した人がある。

フランクリンは

「君は自己の生命(せいめい)を愛するか。
然らば、けっして時間を浪費してはならない。
なぜなら時間こそ君の生命(せいめい)が造られている実質であるから」

と言ったということである。

時間の貴重さは、『生命の實相』の生活篇の第一章にも書かれていることであって、
空費されたる時間は再び取り返すことができないのである。

時間を空費する者は時間を殺しつつあるのであり、
時間を殺しつつある者は自分の生命を殺しつつあるのである。

無駄に過ごされる時間に、何が行なわれつつあるかといえば、その間(かん)に
人は健康を失いつつあり、若さを失いつつあり、人格がもっと輝き出るはずのものが
失われつつあり、学識経験からもっと広くなるはずのものが失われつつあり、
掴(つか)めばすばらしい幸運がひらけてくる機会を放棄しつつあるのである。

機会なしと言うことなかれ、心さとき人々にとっては時々刻々が機会であり、
時々刻々の機会に心の練(ね)れていないものは、画期的な大機会が来たときに、
それを迅速に掴むことができないで、あたら、見逃してしまうのである。

これを大音楽家ハイドンの例に見よ、彼は貧しき馭者(ぎょしゃ)の家に生まれ、
ある音楽教師の下(もと)に走り使いをする小僧として雇われたのである。
しかし彼はその間(あいだ)にも時間を無駄にしないで音楽の知識を吸収するに
つとめたのである。

彼の外見的な不幸はなおつづいた。彼はウィンナ(=ウィーン)で理髪小僧になった
のであるが、その間(あいだ)にも彼は音楽の勉強と、自己改造と機会を
捉えることに時間を空費することはなかった。

彼はある日店に来た市の有力者の靴が埃によごれているのを見てその靴を
ただ深切の気持ちで磨いてあげたのが機会となって、その人と知合いになり、
そこに機会が掴まれたのである。

1798年この憐れなる少年の作曲「天地創造」が楽壇に紹介されるや、
永遠に沈まない太陽の光のような華やかな讃嘆の声にとりまかれたのである。

彼はかくて世界的音楽家となり、皇帝、皇后と食事をともにし、
王子たちに取り巻かれる貴族のごとき生活を送るにいたったのであるが、
この貧苦と貧乏のうちで時間を空費することなく作曲された「天地創造」こそ
は彼の全生涯八百有余の作曲のうち最も大なるものだと言われているのは
何を語るであろうか。

皇帝と食事をともにする栄誉も世界的大作曲家としての栄誉も
貧しき「無(な)き時間」のうちに自己訓練して得た成果であるということである。

ローマは一日にして成らず、
最大の栄誉は「無(な)き時間」を活かして自己訓練するところから得られるのである。

・・・

物質の世界、精神の世界、霊の世界、実相の世界

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より

人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。

物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。

この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。

だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。

昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。

われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。

科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。

この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要な
ある要素が存在するのであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、
これは臨床効果においても見られるところである。

さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを
捨てないでいるかぎりにおいては、薬効があらわれないことがしばしばあるのである。

それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意に
その病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、かかる不用意なる医者の
診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる患者を
急速に死に導いてゆく実例も多いのである。

これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。

さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。

生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。

医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。

顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない
現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を
研究することを迷信視しようとするのであろうか。

さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。



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