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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[88] 人間は神の自己実現(八月の光明法語)
伝統 - 2014年08月30日 (土) 19時43分

人間は神の自己実現(八月の光明法語)(上旬)

        *光明法語<道の巻>より

八月一日 健康と祥福とは万人具有

誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。
それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、神の子たる生活を生活しないからである。

健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。
眼をひらいて天地の真相を見よ。
そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。

眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。
病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。

・・・

八月二日 物質の原因は心である

原因あって結果来る。精神科学も物質科学も同様である。

物質科学は物質にのみ原因をもとめるが、吾らは、その物質は如何にして生じたるかを追求し、
それがエネルギーの波動であることを明らかにし、そのエネルギーの波動は、智慧あり秩序ある
エネルギーの波動であることを明らかにし、

智慧あり秩序あるエネルギーとは、物質的なるものではなく、心的なるものであることを
明らかにし、心によって物質の変化することを明らかにし、
心によって健康と運命をと支配するのである。

・・・

八月三日 心の中の複雑混迷

精神科学の研究家は、病気の大部分は殆どすべて心に根源を発し、心によって病み、
心によって癒される事を知る。

併しながら、それは決して、「病気になる」と思ったから病気になり、
単に「病気は無い」と想ったから治ると云う様な単純なものではない。
病気なんて一切考えないのに病気になった人もあり、心はその儘で一時治る人もある。

人間の心の内部にはもっと複雑な混輻輳(コンプレックス)があるのである。
この混雑輻輳(ふくそう)極まりなき心の解剖とその浄化こそ真に癒す道である。

・・・

八月四日 病気の種と土壌

病気のもとは、概ね複雑なる感情の抑圧から来る。
恐怖、不安、嫉妬、憤怒、悲哀、貪欲、惜しみ、憎み、口惜しさなどが
心の中には《ほどかれ》ないで残っているのが原因である。

子供の時の心的印象や、親からの衛生思想や、社会全般の通念や、そんなものが種子(たね)と
なり、その時その時の感情の混雑がその種子を培う土壌となって発芽する。

友人の話しや、家族親戚などの噂などが肥料となることもある。
時とすると通俗医学書の病気の露骨不快な説明も病気発芽の促進剤となる。

・・・

八月五日 形の病気は内部の動揺の影

時とすれば、新聞広告にある栄養剤の広告や病状の説明やが、
知らず識らず「病気」の観念を植えつけて病気を起こす事もある。
健康に対する注意を与えられて、その注意が却って病気の恐怖を植え付ける事もある。

植え付けられた病念の種子が、形の世界に芽を出して病気となるのである。
形の病気は内部的心の動揺の影である事が多い。

名医にかかるとか、舶来の新薬とかを用いると、その事による注意の転換と安心とか、
内部的心の動揺を一時しずめて病気を治す事もある。

・・・

八月六日 外部治療の効果は

如何なる外部治療も、根本的に其の人の内部精神の
不安動揺その他の混輻輳(コンプレックス)を治療する事は出来ない。
ただ内部精神の混乱より来る結果を修正するのである。

その修正だけでも尊い事であるから医術を攻撃する事も非難する事も要(い)らない。
ただ医術を信頼するのあまり、内部精神の混乱動揺をそのまま解決しないで置く事が悪いのである。

医術で結果を修正せられて、一時病気が去った様に見えながら、又再発するのは、
心の中にある病的種子が根本から抜き取られていないからだ。

・・・

八月七日 神とは何ぞや

物理学者や天文学者の研究が発見したところでは、物理や天文の世界を支配しているのは
数学的法則であって、滅裂(めつれつ)出鱈目(でたらめ)のものではないと云う事である。

物質の世界や天体の世界が、法則なき雑然とした滅多(めった)矢鱈(やたら)に成り立って
いるものならば、それは偶然の出鱈目の産物だと言い得るであろうが、数学的法則でそれが
成り立っている事を知るならば物質や天体を構造せしむるに到った力は余程数学的知性を
もったエネルギーだと言わねばならないのである。

叡智を有する不可思議力を神と言う。

・・・

八月八日の法語 法則は神の顕現

人間の頭脳が、自然を研究するに従ってそれを支配する法則が段々徐々にわかれば、
自然を構造したところの知性(神)は、吾々人間の頭脳知よりも遥かに発達した知性
であると言わなければならない。

「神」と言うと迷信くさく思う人があるが、
「法則」と言えば、科学者も信仰しているものである。

『甘露の法雨』には、神の事を「宇宙を貫く法則」と書かれている。
すべての事物は法則によって支配されている。

併し法則をば必ずしも「物質法則」に限る必要はない。

・・・

八月九日の法語 自働装置は誰が造ったか

植物の向日性や、同化作用や、呼吸作用はいすれも化学的法則に支配されている。

日光を受けて光の方向を向くのは日光に刺激されてアウクシンと云う物質が出来る為であって
それは物理化学的な反応で、精神などの働きによるものではないと唯物論者は言うけれども、

日光を受ければアウクシンと云う物質を生ずるような微妙な構造を作り、
その微少量の物質の作用によって光へ自働的に向く様な構造を造るのは中々偶然に出来る
ものではない。

造り主の智慧を必要とする。

・・・

八月十日の法語 此の微妙な構造は誰の働き

智慧ある造り主 ―― これを吾々は神と称するのである。

天体の運行にしても吾々の地球がもう半分の遅さで自転するならば、
地峡の半面は熱すぎ、他面は寒すぎて生物は生存し得ない。

地面の傾斜が無いとすれば現在の温帯地方に氷山が浮かんでいて
吾等は生存し得なくなると云うことである。

ほんの微妙な相違を寸分間違いなく構造した知性を吾々は「偶然」と称することは出来ない。
人間の神経組織、心臓のポンプ式構造が毛管血管につづいて栄養や排泄を行なう
微妙な構造は叡智ある設計者なしに構造せられる筈がない。

[89] 人間は神の自己実現(中旬)A
伝統 - 2014年08月30日 (土) 19時44分

八月十一日の法語 宇宙の知性と人間との関係

兎も角、宇宙すべての物の背後に宇宙の知性(法則)が存在する事が分った筈である。
この宇宙の知性を神と言う。

では、宇宙の知性と「人間」との関係や如何と云う問題になる。
この問題を解決すれば、人間の病気や不幸の問題も解決される事になるのである。

そんなにも微妙な構造の人体諸器官の組織を造った宇宙の知性が、何故、
現在吾々の肉体の諸器官の欠陥を治す事ができないか。そんな筈がない。

それが治らないのは、「宇宙の知性」に吾々が委ねないからではないか。

・・・

八月十二日の法語  創造は分化と綜合

神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。

陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。

画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あってはじめて絵をかき得るのである。

摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。

しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。

・・・

八月十三日の法語 霊と物質との関係

物質は、霊が自己表現の道具として、自己を制約する「自己限定」のものとして
創造したところのものである。

物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。

併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。

人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。

・・・

八月十四日の法語 物質科学の目的

物質を研究する科学は、その研究が次第に深くなるに随って、
その奥に横たわる法則や秩序や、智慧なしには構造することが出来ない微妙複雑なる構造に、
驚異の眼(まなこ)をみはるに到り、

此処についに、
物質の奥底にあって一切のものを構造する本源者「霊なる神」を
みとめずにはいられなくなるのである。


凡(およ)そ「法則」とは神が人間にわざと利用しやすきよう、
常に普遍妥当なる形においてあらわれたものであって、
結局「法則」を研究する科学は神を研究することになるのである。

・・・

八月十五日の法語 微生物と念の感応

近頃、柴田酵素や渡辺酵素で肥料を速成して、
その施肥効果により二倍増産三倍増産を得る事が可能であると説くものがある。

実際試みて何等効果がなかったと言うものもあり、効果著しかりしと言うものあり、
批評まちまちであって一定の結果を得ない。

農事試験場では実際上効果なしとして一旦否定したるも、
此の種民間の評判高き故、もう一度実験して見ると云うことである。

酵素は微生物の生産物である。
微生物は人間の念に感応し易い。

念によって効果を異(こと)にするは当然である。

・・・

八月十六日の法語 斯く心は病菌に作用す

嘗て、千葉大医科と、慶応大医科とで、チフス菌は鼠の腸内にて殺菌消化されて
形を止めなくなると言い、一方は然らずと言い、両大学にて各々実験を行い、両方とも自己の
主張する通りの実験の結果を得、孰(いず)れにも勝敗決せずして物別れになった事があった。

同一程度の重症の結核患者で、一方は暗く悲哀と絶望の精神をもち、
他方は明るく楽天的なる精神をもったとせよ。

明るき楽天的なる精神の者は快方に向かい、
悲哀と絶望に沈みたる者の結核菌は益々繁殖して病は増悪する。

・・・

八月十七日の法語 陽と陰と愛と智慧と

一つの神分化して陽陰となり、陽陰互いに相結んで万物を生ずるは、分化と綜合である。

愛は陽にして暖かく智慧は陰にして冷酷に審判く。
愛は善悪を共に包容して赦さんとし、
智慧は善悪をあざやかに分けて敢えて混同を許さない。

愛はより多く女性の徳であり、
智慧はより多く男性の徳である。

愛の勝れたる人は温かく見え、
智慧の勝れたる人は冷たくく見ゆ。

然りと雖も、愛のみの人もなく、智慧のみの人もない。

陽(愛)と陰(智慧)と「一」より分化してまた合して無数の変化を生ず。

・・・

八月十八日の法語 人間性の無限の味

神は「一」より凡ゆる変化差別を生ぜんが為に「一」より陽陰、愛と智慧を分化し、
それを結び合わせて無数の配合(コンビネーション)を作ったのである。

「一」より二生じ、二より四生じ、四より八生じ、八より十六生じ、
十六より三十二を生じ、三十二より六十四生ず・・・・・・・・・・

かくの如くして無限に一切のものは発展するが故に、
全ての人間も単に「愛に強き人」とか「義に強き人」とか概括して言うことは出来ない。

愛の強き人のうちにも、不思議に「義に強き人」もあり、
その人間味はまことに掬(きく)すべき哉(かな)。

・・・

八月十九日の法語 一神にして陽陰二神なり


神はかく分化と綜合にによって万物を創り給う。

故に、神は『唯一神』または「絶対者」であり給うと同時に、
その創造にあたっては陽陰に分化して創造せざるを得ない。

それ故、神は絶対神にして同時に陽神なり、イザナギなり。
同時に陰神なり、イザナミなり。
イザナギとイザナミを相結んで万物生ず。

女性の肉体は柔らかく骨を包んで露骨に現さず内に陰(かく)すは「陰」となり。
併しその内性の「愛」は温かき故「陽」なり。

女性は外陰・内陽。

陰のみの者なし、陽のみの者なし。

・・・

八月二十日の法語 人間は神の自己実現

人間が神の自己実現であることは、直覚認識によって知ることが出来るのである。

『法華経』にある「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。

天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、われ神の自己実現なりとわかるのである。

これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。

[90] 人間は神の自己実現B(下旬)
伝統 - 2014年08月30日 (土) 19時46分

八月二十一日の法語 神は五感も六感も超越せり

「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。

感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。

感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。

六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。

・・・

八月二十二日の法語 無相にして無限相

霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。

神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。

これを無相にして無限相と呼ぶ。

吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。

無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。

・・・

八月二十三日の法語 容貌を美しくするには

ロックフェラー研究所の外科医長カレル博士は言う、

「容貌の特徴は、皮膚の下の脂肪の中で動く筋肉の状態で定まる。
是等(これら)の筋肉の状態は吾々の思想感情の状態によって定まる。

人は各々望み通りの顔附(かおつき)表情をする事が出来る。
けれども其の顔附、表情をば永久に被(かぶ)っているわけには行かない。

併し、吾々の知らない間に吾々の顔附は心の状態によって少しずつ作られて行くのであり、
年をとるにつれて益々はっきりと人間全体の感情や欲望や希望一切の看板の様になる」と。

・・・

八月二十四日の法語 心に化粧せよ

誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。

顔は吾々の心の鏡である。
白粉(おしろい)でいくら塗っても、その精神の下劣さは隠すことは出来ない。

「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。人間の顔には、その人間の悪徳や、美徳や、
理性や、知識や、愚かさや、感情や、最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、
質や、生理的、心理的病気の傾向まで現れる」 とカレル博士は更に言っている。

誰も隠すことは出来ないのである。

天知る、地知る、自分知るである。

・・・

八月二十五日の法語 この複雑な機構が偶然に出来たか

生きている組織の一片を人工培養するには其の大きさの二千倍に相当する分量の液体を
以ってしなければ、数日中にその組織は自分の排泄物だけで中毒して死する。

人体の細胞を自然の生ける肉体構造でなく人工培養するには
二十万リットルの培養液を与えなけらればならない。

人体の全細胞を養うに、二十万リットルの液体を使わず、
僅か七、八リットルの体液で養い得るは、実にその構造が人工培養では迚もなし得ぬ
複雑な組織で体液を循環せしめ細胞を浄化しているからである。

・・・

八月二十六日の法語 眼の複雑なる構造を見よ

仮りに人間の視覚器官の複雑さを見よ。

生命は皮膚の一片を改造してそれを光を透過し得る透明な膜と変化し、
別に硝子体や水晶体を造り、光を屈折して、それを又別に作った網膜上に映像の焦点を結ぶ様に、
水晶体を距離の関係でその度変化し得る様な伸縮自在のものとしたのである。

これが偶然に網膜が出来たのならば、それは別々に孤立していて、
互いに連関して一個の視覚を構成する器官とはなり得ないのである。

・・・

八月二十七日の法語 精神活動の統一と健康

人間が健康になるには喜んで働く事である。

「自分の活動を正確に目的の方向に向ける時吾々の心理的・生理的機能は、
最も完全に調和を来たすのである」
とアレキシス・カレル博士も言っている。

又博士は「精神活動の統一は、内臓や神経機能のより以上の調和を齎(もたら)すものである」
とも言う。

病床にいて仕事もなく、あれを考え、これを憂え、精神活動に何の統一も集中も無なく
ただ病気の悪くなる事のみを心に描いて心配している様な生活が病気に悪いのは勿論である。

・・・

八月二十八日の法語 精神は肉体を解剖的にも変化す

精神は精神、肉体は肉体だと別々に考えて肉体のみの治療を心掛けている人があるが、
カレル博士の「或る種の精神活動は時として組織や器官に解剖的な機能的な変化を伴う事がある」
と云う学説を知れば反省して好(よ)い。

博士は世界中最完全の設備を有するロックフェラー医学研究所の外科医長として
凡ゆる方面から人間を解剖して研究した人だからだ。

生長の家では特殊な精神的悲しみの累積が腎臓結核を起こす事を、
其の悲しみを解剖する事によって治癒せしめて実証した。

・・・

八月二十九日の法語 祈りと健康の関係

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く容易く感ずることが出来る」と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

・・・

八月三十日の法語 吾の祈りは神に通ず

カレル博士は言う、
「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。祈る人は他の人々の為に祈る。
この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、富める人々や、知識ある人々よりも、
その可能性が一層ある。祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は病いを心の描くから却って癒えないのである。

・・・

八月三十一日の法語 拝む者のみ拝まれる

文殊菩薩が維摩居士を訪ねたときに、
維摩は『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は何処(どこ)ですか』と問うた。

文殊菩薩は答えて「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、その国の佛を
須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、身長(みのたけ)八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、
その獅子座は高さ八萬四千由旬で実に素晴しいものです」と言った。

維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。

維摩の方丈(一丈四方)の室中に八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の獅子座が入る事が
出来たのは、自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。

(以上)



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