[103] 昭和25年8月の法語 20日 〜 |
- 童子 - 2014年09月04日 (木) 14時50分
20日 ■理想実現のために努力せよ
常に汝の最高の理想を生きるべく心掛けよ。 理想に対って突進する者は常に人生に喜びを感ずることが出来るのである。
常に全力を出し切って理想に突進する事が大切である。 実行して行くうちに、自分に内在する力が徐々に発現されて来るのである。
理想と云うものは前方にぶらさがっているように見えていても前方にあるのではなく、自分の内部にある内容を、前方に投影して、それを実現するべく引出して行くのであるから、理想を実現するための努力は結局、自己の内部神性を発現するための努力となっているのである。
21日 ■宗教家の本来の在り方
生長の家が段々大規模にひろがって行くにつれて、その布教活動が忙しくなり、次第に専門的に布教のみによって生活する者が殖えて来るのである。 この事は悦ばしいことであると同時に警戒すべき事でもあるのである。
秋田の田代君や、大曲の伊東次男君が自分に立派な職業があるのに其の職業を抛擲して生長の家の布教活動専門に従事してくれると云う報告をきいて私は感激すると同時に、近頃次第に殖えて行く生長の家地方講師の中には、布教することを生活費を稼ぐためにやっていると云う非難のある人々のことを思い浮べて、私の考えを此処に書いて置きたいのである。
私は職業的宗教家と云うものを好まないのである。 御布施の多寡によって読経の長短を加減したりして、自分の宗教活動を金銭の多寡によって切売するようになったとき、それはもう純粋の宗教活動ではなく、宗教の教義販売業になるのである。
私は既成宗教の教師たちがその方面に堕落して行くのを残念に思い、自分の生活は会社で働いて其の月給で生活し、その月給収入の大部分を割いて本部活動に奉仕していたのであって、これが生長の家の本来の教師の相であったのである。
22日 ■宗教活動は菩薩行でなければならぬ
宗教活動は、それによって自分の生計を営むためのものではなく、 「自己の生活の幾部分でもささげられるだけ捧げる」 生活 〈即ち菩薩業〉 であるべきであるのである。
宗教とは 「業」 であって献げたる部分だけが 「宗教活動」 である。 だから私は。官庁への色々の届出にも、その業種のところに 「宗教業」 とは書いたことはない。 私はいつも 「著述業」 と書いて置くのである。
宗教家と云う者はあり得るにしても宗教業と云うものがあってはならないのである。
23日 ■本部員とは私の宗教奉仕の代弁者である
新しい宗教が起ってその宗教活動がひろがるにつれて、発信、返信、講演、人生相談の受付などのことがあまり忙しくなるので、他の職業の片手間に奉仕しているだけでは時間も労力も足りなくなる。 それで私は、私の手足となり、私の労力奉仕の身代りとなってくれる人々を必要とするに到り、その役目の人を置き、私の労力に得られる収入から其人たちに生活費を払うことにしたのである。 これが現在まで続いている所謂る 「本部員」 の出来る出発点であったのである。
だから今でも、本部員は、私の労力奉仕の代弁者であり決して給料のために働いている人々ではない。 極めて質素な生活に安んじていて、地方講師の収入の多い人たちよりもズッと僅かな報謝金を教団から頂いているのである。
そして本部員が布教に出て謝礼でも受けた場合は、一度、神に返す意味で教団へその収入全部を奉納する。 そして生活に必要なだけを神から頂くのである。 だから本部員の生活は極めて質素である。 だからもっと贅沢に生活したい人は本部員を止めて指圧療法や触手療法や姓名判断の先生になったりする。
24日 ■地方講師は報恩のために道を伝える人々である
これに反して地方講師と云う方々は、本来本部員として私の代弁者として活動する人ではなく、本部の教えの信者であるのである。 そして此の教えによってお蔭を受けた報恩のために、自分の仕事の余暇の時間をさいて、その教えを伝えたいと思って、所定の講師試験を受けて合格した人々である。
この種の人は最初は報恩のための布教活動であったけれども、その教えが好いために、各地で招ばれる数が殖えると、その方の聴講者からの御礼が殖える。 すると最初、報恩のための布教活動だったのが、その礼で自分の生活を立てたくなる。 そして実際それで自分の生活を立てる。 すると、最初の報恩のための布教活動と云うこととは全然反するものとなり、先生の教えを切売りして自分の生活を立てるようになる。 報恩の 「伝える」 生活が、自分に 「受取る」 生活になるのである。
それでも教えは立派だから教えられる人は助かる。 そのうちに自分が信者を獲得し、地盤を作ってやったと云うような増上慢の心になる。 人はたすかるが自分は地獄に堕ちるようになる。 報恩心はわすれられて、自分の収入の多くなるように独立して別に自分の教団でも建てたくなる。
或る僧問ふ。 「如何なるか是れ地獄の始め?」 老師答ふ。 「金を儲けたるが地獄の始めなり。」
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