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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[644] 信仰の本質(四月の光明法語)
伝統 - 2015年05月02日 (土) 04時55分

(上旬)

《4月1日の法語  神は慈悲の神、愛の神》

先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

・・・

《4月2日の法語 神の愛と不可分一体であること》

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して友好関係にあるのである。
もう赦すと云うことさえなくなったのである。
はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
それより逃れることは出来ないのである」

・・・

《4月3日の法語 わが生命は神の生命の歓喜》

われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。

神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。

われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。

生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。

・・・

《4月4日の法語 平和と調和の神》

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちてすべてのものを調和と平和に導き給うことを
われは知るがゆえに、わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。

・・・

《4月5日の法語 神はすべてのすべて》

先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。

神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。

神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。

これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。

・・・

《4月6日の法語 實相の完全さのみを観よ》

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

・・・

《4月7日の法語 神と實相のみを愛せよ》 

祈りも、神想観も、結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好いのである。
神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

・・・

《4月8日の法語 祈りとは人格的交わりである》

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。
祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。

・・・

《4月9日の法語 すべての物に感謝する祈り》

また神はすべてのものの内にましますが故に、すべてのものに感謝し、
それを讃(ほ)めたたえることは偉大なる祈りである。

神に感謝しても万物に感謝しえないものは、
真に全く神に感謝しているのではないのである。

ただ神に対する祈りは、神の表現である「万物」に対する祈りよりも、
尚一層直接的であると言い得るのである。

されば吾々は毎日或る一定の時間は神に対して
心を完全に振り向ける祈り(神想観)を行事なければならぬ。

それと共に神の表現である万物に感謝しなければならぬのである。

・・・

《4月10日の法語 喜悦の祈り》

神に祈るときは喜びの感情を以って祈るべきである。
神に対して泣きついてはならない。

若し、久し振りに逢った実子が其の親に対して、自己の不幸を嘆き訴えたならば、
その親は実際好い気持ちがするであろうか。
またかかる実子は親孝行だと云えるだろうか。

親に会ったとき、唯会うだけで嬉しい感情に満たされるのが
親孝行の子供ではないであろうか。

神に対して泣き言を訴えるな。
私は幸福です。健康です。豊かに暮らしていますと言え。

これが本当の親孝行の「神の子」の祈りである。

[645] 中旬
伝統 - 2015年05月02日 (土) 05時00分

《4月11日の法語 酒は飲まぬ方が好い》

祈りをする時には茶断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる如き顔付をして見せるな。

寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂(あぶら)を塗り、
髪を梳(くしけず)って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。

併し酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから
一時の心の暗さを誤魔化すのであって、次が乱れて来る。

生活に節度がなくなり、
節度がない事を豪傑ぶって自慢にするようになる。

・・・

《4月12日の法語 祈りは必ず成就する》

吾々の祈りは必ず成就する。それは間違いのなきことである。
併しながらその祈りとは、数分間、神社または祭壇でとなえることのみが
祈りではないである。

祈りと云うのは生命(いのち)の宣言(のりごと)である。
生命の奥深くで、念じていること、唱えていること、呟いていることは
悉く”いのり”である。

だから、不幸を呟いている者は不幸が来るように祈っているのである。
病気を呟いている者や、常に人に苦痛を訴えている者は病気や苦痛が来るように
訴えているのと同じことである。

・・・

《4月13日の法語 常に感謝する祈り》

常に間断なく善き事を考えている者のみが善き事を来る様に祈っている事になるのである。
常に間断なく善き事を考えている者とは、常に今ある状態を不平に思わず、
既に「實相の完全な相(すがた)」があるとして感謝している者の事である。

常に感謝している者は、常に善き事を祈っていることになる。

併し、単に今ある状態に甘んじている者は、それ以上の状態を祈っているのではないから、
其れ以上の結構な事物は現れて来ないだろう。

「實相無限の善」を今ありと感謝する者のみが無限に改善し
生長する善き事を得るのである。

・・・

《4月14日の法語 先ず真に自己が何を求めているか》

先ず真に自己が何を求めているか、自分の求めが曖昧であってはならない。
Aの土地の仕事もしたいし、Bの土地にも帰りたいし、自分自身の要求が二個に分裂し
ながらBの地に借家を求めるべく祈ってもかかる祈りは成就しない。

神に求めるには吾が求むる事物が何であるかを知らなければならない。
現在意識(自分が気がついている心)が求めている物と、
潜在意識(自分に気がついていない心)の求むる物とが食違っていてはならないのである。

現在意識の求めが実現しないのは潜在意識の求めが反対であるからだ。

・・・

《4月15日の法語 潜在意識を浄(きよ)めるには》

日本は現在意識では勝つように祈り乍ら、
潜在意識では、「靖国神社で会おう」というように祈っていた。
又みずから「水漬く屍(しかばね)」「草生(む)す屍」になる様に祈っていた。

現在意識で「成功」を願い乍ら、
潜在意識には「失敗して、死して靖国神社に祀られる」様に
祈っていたわけだから、その祈りは成就して負けたのである。

必ず「成功」を実現せんと欲するならば現在意識・潜在意識共に、
「成功」を念願しなければならぬ。

その為には神想観して潜在意識の底までも「吾神の子なり必ず成功する」
との念を深く印象せねばならぬ。

・・・

《4月16日の法語 本性に合致する祈り》

祈りが成就しないのは、その祈りが其の人の本性に合致しない場合か、
その祈りがまだ実を結ぶ時期に達していない場合かである。

若し吾々が自分の本性に合致しない祈りを、
たとえば「大和の国」なる日本が「戦力によって勝たしめ給え」と云うような
祈りを行なうとも其の祈りは成就しないことになるのである。

朝顔は美しき朝顔の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきであり、
梅の樹は美しき梅の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきである。
其の他の花を咲かしめたまえと祈っても成就するものではない。

・・・

《4月17日の法語 時期に適する祈り》

時期に適しない祈りは成就しないが、その祈りを持ちつづけるならば、
時期が来たときになって自然成就するのである。
急いではならない。

寒中に朝顔の花を咲かしめ給えと祈るような祈りは成就しないが、
温室で咲かせても貧弱な花しか咲かないのである。
何事も時期が来ると云うことが必要である。

時期にの乗ると云うことは神のみこころに乗ると云うことである。
「みこころの儘に適当な時期に、適当な場所に、適当な何々を与えたまえ」と
云うような祈りこそ最も謙遜な祈りである。

・・・

《4月18日の法語 神は豊かに恵みたまう》

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわないと云うことは
ないのである。

・・・

《4月19日の法語 神よりの豊かなる生活》

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

・・・

《4月20日の法語 神の愛は放つ愛である》

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

[646] 下旬
伝統 - 2015年05月02日 (土) 05時07分

《4月21日の法語 一面の立場から人を批評してはならぬ》

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

・・・

《4月22日の法語 人の心の傷を突衝(つつ)くな》

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。
時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。
そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

・・・

《4月23日の法語 人間の尊厳》

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。

従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ而も
それを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、地球の牽引力(物質の表現)に
引きつけられて俯向(うつむ)いて歩み遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、
人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

・・・

《4月24日の法語 自由とは濫用ではない》

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

・・・

《4月25日の法語 人間は完全なる自由》

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

・・・

《4月26日の法語 神は法則である》

神は法則である。
『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。

・・・

《4月27日の法語 霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

・・・

《4月28日の法語 信仰の本質は「知る」にある》

神に対する信仰を深めるためには、神は法則であると云うことを先ず知ることである。

種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。

それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。

即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。

信ずるとは「真に知る」ことである。

・・・

《4月29日の法語 恐怖心を捨てること》

信ずるとは知ることである。
生命をもって直接に知ることである。

自己の生命は神より出でたるものであるから、
自己の生命は実相に於いては既に神を知っているのである。
だから危急のときに人間は神を呼ぶのである。

思わずとは「無意識」にと云うことである。
「無意識」とは意識がないと云う意味ではない。
「気がつかぬ意識」と云うことである。

自分の気がつかない心の奥底に神を信ずる心があるのである。

しかし神を呼んでも感応がないのは恐怖心や狭い心があるからである。

・・・

《4月30日の法語 神は法則であり偏頗はない》

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。




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