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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[683] 神に全托する(五月の光明法語)
伝統 - 2015年06月02日 (火) 03時03分

(上旬)

《5月1日の法語 人生の目的は魂の向上にある》  

人生は魂の向上の過程である。
魂の向上とは「内在の完全なる実相」がより多く次第に開舒(かいじょ)することである。

魂の向上にはあらゆる人生の面に触れることが必要であるのは、
歯を磨くにもあらゆる角度から磨かなければならないのと同様である。

従って吾々の触れる人生の面は時々変化するのは
別の角度から磨かれる必要があると云うことである。

新しい人生の展開、新しい境遇の展開は、今ある境遇の行き詰まりから生ずる。

だから今ある境遇が行き詰まるのは新しい善き運命の先触れだと信じて感謝すべきである。

・・・

《5月2日の法語 愛深き峻厳が魂の進化せる特徴である》    

「汝の如く汝の隣人を愛せよ」とは自分の実相を完全なる神の子であると信ずる如く、
汝の隣人をも完全なる神の子であると信じて敬することである。

敬のない惑溺(わくでき)は真の愛ではなくて肉欲の変形であったり、
自己憐憫の投影であったりするのである。

自己の苦痛を恐れる者のみが、他(ひと)の苦痛に同情するのである。
だから同情は、自己不完全の投影ですらある。

真の魂の生長せる者の特長は「愛深き峻厳」である。
愛深くして相手の実相の完全さを知るが故に猥(みだ)りに甘やかさず
峻厳であるのである。

・・・

《5月3日の法語 人間運命の弱小は自己欺瞞に過ぎぬ》

神の子であるところの人間が、
そんなに弱小なる運命に定められていると思うのは自己欺瞞に過ぎないのである。

自己欺瞞を去れ。
汝は神の子ではないか。

人間は自分自身の運命を斯くの如く限ってはならないと同時に、
他の人の運命も限ったり縛ったりしようと望んではならないのである。

誰をも害しない、誰をも束縛しない
自分の伸びる道があると云うことを信じなければならない。

自己の運命をよくするためには、悪は存在すると云う人類の通念に縛られず、
現象の形に惑わされないようにせねばならぬ。

・・・

《5月4日の法語 祈りの成就には時の要素が要る》

祈りが成就するには「時」の要素がいるのである。
今日(きょう)、種子(たね)を蒔いたからとて
明日必ず芽が出ると云う訳のものではない。

「時」の要素を忘れてしまって、今日の種子が明日ただちに芽が出ないからとて、
種子を掘り返してしまうようでは駄目である。
必ず神(法則)はその種蒔(たねまき)に応えたまうと云う確信が必要なのである。

何事も急いではならないのである。
時が解決して呉れるのである。

「果報は寝て待て」と云う言葉があるが、信じて待てば、
種子を蒔いて置きさえすれば必ず発芽するのである。

・・・

《5月5日の法語 神の導きには時間の要素がある》

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には一段一段と階段を昇って行くが
如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

・・・

《5月6日の法語 電源に結びついても直ぐには熱くならぬ》

電気鏝(こて)を温めるのでも、
スイッチを入れたからとて急に一ぺんに加熱する訳ではない。
スイッチを入れることは電源につながることに過ぎない。
と同時に電流は流れ入って来るが鏝は必ずしもすぐに温かくはならない。

鏝が温かくならないのは電流が来ないからではなく、時間の要素が足りないからだ。

祈りと云うことは「神」と云う無限供給の電源とつながることではあるが、
その電源につながっても、その瞬間に欲する物が出るとは限らない。

鏝が温まるのを待つと同じに、祈りに於いても結果が現れるまで待つ忍耐が必要である。

・・・

《5月7日の法語 内在の神の道具となれ》

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。
自己の内に神が宿っているのであるから、常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)を
なくならせて、ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

・・・

《5月8日の法語 進歩の法則に支配されている人生》 

人生は進歩の法則、無限生長の法則によって支配されているのであるから、
旧態依然たるものは、次の新しきものによって取って代わられる。

商売のやり方でも、旧態依然たるものは新しき経済戦術によって
新商売をやる者には必ず圧倒される。

かくて職業を失うに到るとも、職業を失う者は幸いなるかな。
神は彼に新しき職業と、新しき環境を与え給うことによって、
新しき面から、彼の魂をみがき得る機会を与えたまうのである。

旧生活の破壊に失望することなく新しき位置と職業を与え給えと祈れば好いのである。

・・・

《5月9日の法語 人間は生長をも拒む自由をもっている》 

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を周囲の太陽、空気、水分、地中から
吸収して自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」とその生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出切るのである。

・・・

《5月10日の法語 人間は神的実現》

人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。

最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。

肉欲食欲のみに快感を求めるものは、人間でありながら動物の状態に退歩することである。
仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。

その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。



[686] (中旬)
伝統 - 2015年06月04日 (木) 04時10分

《5月11日の法語  喜びの青空に出る道》

海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。

墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。

今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。

かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。

神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。

・・・

《5月12日の法語 神が汝をつかんでいる》 

神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。

神に手を握って貰おうと思ったならば、ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。

しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。

つかむも放つも人間の自由である。

しかし一切を神にその空手を差出さねば神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。

・・・

《5月13日の法語 問題は必ず解決する》

神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。

問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。

問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。

人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。

・・・

《5月14日の法語 不景気を心に思うな》

祈りというものが短時間の言葉で神に所謂(いわゆ)る「祈り」を捧げるものであると
思うのは間違いである。

「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの
であるから、今朝(けさ)「神の無限供給が自分に流れ入る」と念じながら、
ラジオ放送や新聞記事で世間の経済恐怖をきいて、

「こんなに不景気になってはたまらない」などと考え、
または人と人との噂話に不景気や物質の不足を話しているようなことでは、
それは「不景気」や「物質不足」を祈り顕わしているようなものである。

・・・

《5月15日の法語 不断の祈り》

「常の祈り」が大切である。
所謂る「不断念仏」「平生業成(へいじょうごうじょう)」である。
平生(へいぜい)の祈りの業(ごう)が成就して、現象界に現れるのである。

朝起きれば、「寝ている間にも呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、
夜中自分の生命を護り給うた神よ、有難うございます」と神に感謝し、
「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と感謝して起きるのである。

今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが与えられると
云うことはあり得ない。

感謝することによってのみ、今与えられたものの充分の価値が享受出来る。

・・・

《5月16日の法語 富とは「生命(いのち)」を与えること》

富を獲得するためには何か不正なことを行なわないと得られないと思うのは間違いである。
また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも間違いである。

富と云うものは神の「生命(いのち)さきはえ」が現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

・・・

《5月17日の法語 最大多数の最大幸福に奉仕せよ》

「亀の子たわし」を新案して全日本の台所の清潔に貢献した者は百万長者となり、
「わかもと」を新案して人類にビタミンB資源を出来るだけ広く供給する試みを
考案した者は千万長者と成る。

何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。

真理を最も平易なる言葉で述べ、一千万人に生老病死を解脱する道を教えた
『生命の實相』の著者が千万長者にならないのは、まだ彼が、清貧に執する気持ちがあり、
宗教家と云うものは富んではならないという通念に縛せられているからである。

・・・

《5月18日の法語 仕事をなす時の祈り》

「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。
仕事のあいまに、「仕事が祈りである、祈りが仕事である」と念ぜよ。

かくすれば仕事の質が上がり、量が殖え、新しき智慧が発現し、
仕事に新生面がひらかれるのである。
思わぬ間違いが発見され故障に到らずにすむのである。

「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えである」と念ぜよ。
かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

・・・

《5月19日の法語 飲食をなす時の祈り》

 

食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」と念じて食せよ。

飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、
それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。

・・・

《5月20日の法語 難問題は神に委ねよ》

人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。

「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」 
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。

また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。


[691] (下旬)
伝統 - 2015年06月07日 (日) 04時24分

《5月21日の法語 全てを神の手に托せよ》

如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。

それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。

それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。

すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。

神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。

・・・

《5月22日の法語 富む事は罪悪ではない》

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

・・・

《5月23日の法語 富を獲得する第一条件》

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

・・・

《5月24日の法語 富は「善き考え」の具象化》

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

・・・

《5月25日の法語 既に与えられているものを完全に利用せよ》

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

・・・

《5月26日の法語 愛の神を凝視せよ》

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」
と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

・・・

《5月27日の法語 一度憤った相手は思い出してゆるせ》

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。
それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって洗濯物はないと信じていても、
押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、一々その顔を眼瞼(まぶた)の
内に思い浮かべ、「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と
心の中に唱えるのである。

・・・

《5月28日の法語 相手を赦す神想観》

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

・・・

《5月29日の法語 相手の幸福を祈ること》

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

・・・

《5月30日の法語 夫婦仲よくなる道》

ある講習会で私は仲の悪い夫婦に
「仲よくすれば好いのである。既に仲が好いと信ずることが必要である。
仲が悪いから仲をよくしましょうと努力するのではいかぬ」と教えた。

ところが其の夫人は「仲よくしよう」と努力した。
しかし夫が自分を愛してくれないように思われるのである。

愛して欲しい、愛して欲しい。
切なる願いがもどかしく自分の心をかきむしる。
イライラする。そのために仲よくなれぬ。

或る日彼女は愛して欲しいと思うよりも「先ず愛しよう」と決心した。
そして彼女は仲よくなれたのである。

・・・

《5月31日の法語 環境の精神的影響》

精神科学は結核患者をみちびくのに、
決して形の上から「絶対安静」を破れと云うのではない。

先ず「恐怖心」を捨てよと教えるのである。
「恐怖心を捨てた」其の結果が、自然に絶対安静の必要がなくなるのである。

まだ恐怖しながら、戦々恐々「動いて見よう」位では危険なことこの上ない。
しかも、周囲の人々が、「動いたら危ないぞ」と恐怖心をそそる言葉で包囲攻撃する場合、
患者は恐怖心を起こさずにいることはむずかしい。

まず環境を変える必要がある。
また家庭の不調和から来る患者は家族互いに感謝させねば精神の安静は得られない。






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