[684] 聖泉湧き出ず(五月の光明道中記) |
- 伝統 - 2015年06月02日 (火) 03時24分
《親切丁寧と云うこと》
どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、 それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。
聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、 名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。 それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。
「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。 「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。 一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。
不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。
物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、 物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、 実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、 却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。
すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、 日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。
この意味に於て「行」が大切である。
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(上旬)
《万物を礼拝する日》(5月1日)
【神を愛すると云うことは万物を敬虔に愛すると云うことである。 (生命の實相第十巻)】
幼児は生後11ヶ月乃至誕生2ヶ月までの間におのずから立って歩く。 幼児体操と云うようなものを幼児の発育促進や健康法のためにやっている人もあるが、 やるのも好いが、やらなくても好い。
人間は人工の体操によって歩くようになるのではないことは、何に教えられなくとも 動物は脚(あし)で立ち、歩み、鳥類は飛翔することが明らかである。 人間が歩行するのは赤ん坊が乳房を吸い鳥類が飛翔すると同じに自然の本能である。
幼児の歩行運動が生得的な本能によるのであるが、 訓練によってなるか学者の定説がないと言って、 歩行準備体操などを課するのは愚かな蛇の知恵である。
近頃諸所で開かれる赤ん坊審査会で一等賞を得たような生長の家誌友の赤ん坊などは、 光明思想で家庭全体が明るいことのほかは自然に放任した結果であって 決して体操を課したのではない。
幼児体操そのものに私は反対するのではない。 筋肉は運動せしむるほど発達するからである。
併し幼児体操を幼児に課するような父母は大抵「神」又は「自然」に対する信頼の念が なく、其(その)人には「人工」の外(ほか)には頼るものがないから、 何か落度はないかと常に心配しすぎて、神経過敏に幼児に心配の念を送り過ぎ勝ちである。
親が心配し過ぎると子供は虚弱になる。
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《自己の内部の力を信ずる日》(5月2日)
【神を信ぜよ。生命を信ぜよ。自分のうちに宿る生命が神であることを信ぜよ。 (生命の實相第十巻)】
体操より肝腎なのは、自然の努力で運動を起そうと衝動が 内部から起り得るように誘導することである。
半身不随の大人が生長の家で治った実例のなかには他に頼らないで、 自分に要(い)るものは、歩行が不自由でも何でも、自分の力で持ってくると云うように 決心し、且つ環境からそうしなければならぬように仕向けられた結果である場合が多い。
児童の歩行や運動の練習なども、肉体的体操などよりも這(は)い出さずには いられなくなるような、歩かねばならなくなるような目的物を前方に置いたり、 賞(ほ)め言葉で激励する方が一番好い。
幼児が起ち上って歩行するのは一つの新しき冒険であり、 その冒険の完成は大いに言葉を以て喝采せらるべきである。
それによって児童は何事を新に実行するにも世評の喝采を得るもので あることを知り、大人になってからの自信を増すのである。
幼児を揶揄(からか)っては可けない。
最初に試みた動作が不慣れなために、大人から見て多少滑稽(こっけい)に見えようとも、 それを軽蔑するような、滑稽視するような語調で笑うならば、 世間は自分の動作を常に嘲笑するものだと云う観念を植附けられて 引込思案(ひっこみじあん)の人間が養成される。
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《縁者の霊を供養する日》(5月3日)
【亡者の霊魂が感憑(かんぴょう)するとその念波の影響を受けて股関節の先天的脱臼、 小児麻痺的現象・・・等々を起す。 (『生命の實相』第十四巻、『人生を支配する先祖供養』)】
生後1年2ヶ月乃至15ヶ月を経ても歩行し始めない幼児は、 小児麻痺か何かの神経的疾患であるかも知れぬ。 小児麻痺の後遺症の手足の不随は、現在の医学では治癒の道がないのである。
併し、生長の家では無数に治癒した実例がある。
それは祖先に対して聖経『甘露の法雨』を毎日一定の時間に 「××家先祖代々親族縁族一切之霊」と数回思念を籠(こ)めて唱えて招霊(よびだ)し 「この聖経『甘露の法雨』により霊界に於て本来神子仏子なる実相を成(じょう)じ たまえ」と恰(あたか)も生ける人に言うが如く唱えてから『甘露の法雨』を 誦するのである。
1回で効果を現した実例もあるが、数ヶ月を要した実例もある。 それは浮かんでいない縁者の霊魂の悟を開く遅速によるのであって、予(あらかじ)め その治癒の期限を予告することは出来ない。
生まれつきの聾唖(ろうあ)にして聖経読誦6ヶ月にして耳聴えはじめ、 物言い始めし例もある。
神想観を修して、観中、歩行不能ならざる、既に歩行自在なる実相人間の念像を描いて 精神統一するとき、18年間の歩行不能者が歩行し得るようになったとは 藤岡秀信氏の体験談である。
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《争いを捨てる日》(5月4日)
【喘息はイキが激しく擦れ合う病気にて、スレ合う心、争う心、呪う心の象徴である。 (『生命の實相』第九巻)】
子供は親を模倣するものである。 その模倣は親の表面の生活の模倣と、親の内面の感情と両方がある。
親が愉快に喋らない習慣の家庭に育った子供は、憂鬱で陰気臭くて明朗さがない。 両親が感情(いき)の奥で衝突した生活を送っている家庭の子供は、時として蓄膿症で あり、アデノイドがあり、或は20歳までに肺結核で斃(たお)れる傾向がある。
それは子供の模倣性だと考えられないこともない。 それは両親の「感情(いき)の奥」の葛藤を、 呼吸(いき)の奥であるところの鼻の奥や肺臓の奥に具象化する。
この意味に於て子供の肉体は親の念の具象化の舞台である。
親の悲しみの念が反映して子供が寝小便することもある。
子供が口を開いて眠っている時には 両親はこれによって呼吸(いき)の奥に故障があることを発見し、 これによって自分たち夫婦の精神の奥に葛藤があることを反省し、 それを是正すべきである。
両親が感情上の葛藤を経験しながら、その子供が呼吸器を患っているから治して欲しいと 訴えても、感情上の葛藤そのものが、呼吸器病の内面的本質であるから治る筈がない。
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《謙遜を以て貫く日》(5月5日)
【強がりは本当は弱いのである。上手がりは本当は下手なのである。 (『生命の實相』第十二巻)】
子供の不従順の原因は父母の命令の不一致から来ることもある。
母親が「斯うせよ」と言う場合、父親が「そんなことをしなくて可い」と言えば 子供は去就に迷って了い、結局権力者の方へ附いてしまって、 母親を馬鹿にするようになって了う。
子供の前ではどちらでも一方の親が命令した言葉に、 こう一方の親が賛成するようにして命令が二途(と)に出てはならぬ。
仲の悪い夫婦の中に出来た子供は、 両親の一人ずつがその子供に、父や母相互の不平を訴えることがある。 そんな場合、子供は親の権威を無視するようになって不従順になる。
「そんなことをしたらお父ちゃんに言附けますよ」と言う母親があるが、 こんな母親は自分には何の権威もないと云うことを表現しているに過ぎない。 従って子供は母親を馬鹿にして言うことを肯(き)かなくなる。
また一旦命令を出して置きながら、それに従わないでも、ただブツブツ 口叱言(くちこごと)を言っているだけでは、母の命令は「馬の耳に念仏」と同じようで、 子供に何の権威もないものとなる。
滅多に叱言は言わぬか、一旦命じたことは断乎として従わせる習慣をつけねばならぬ。
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《拝んで人の苦難を看(み)のがす日》(5月6日)
【突き当たったら目が覚める。突き当たらすのも慈悲の道だ。 (『生命の實相』第十二巻)】
「一度だけは我慢してあげましょう」こう言って自分で自分の命令を撤回してしまう癖を つければ、命令は徹底しなくなる。一度が大切であって、一度許せば今後許さない時には 却って逆恨みをするようになるものである。
「あれほど言ってもまだ言うことを肯(き)かぬのですか、お前のような強情なものは ない」と言うならば、その子供は親の言った通り強情になって了うだろう。
まだその上、「お前の強情にほとほと困って了う」と言えば、 親の無能の表白ともなり、強情の勝利ともなる。
「この前も、お前はこうだった、あの時もお前はこうだった」と、旧悪までも曝(さら)け 出して叱るのは、本人に「悪」を印象せしめるか、幾つも挙げているうちには「あの時には 私の方に理由がある」と思えることもあり、却って、親や教師の方が無理を言っている ような感じを与えて、子供を益々反抗させる虞(おそれ)がある。
子供の能力で出来ない事を命ずるな。 そんな命令は実行が出来ないから、子供を不従順にするようなものである。
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《人の特長を拝む日》(5月7日)
【他を自分の型に嵌めようと思う者は躓く。(『生命の實相』第十一巻)】
親の精神状態にそれほどの葛藤(いらいら)も争いも憎みもないのに 子供が不従順な場合は学校に原因があることがある。 学校と連絡し、学校の先生と親しく和解しなければならない。
学校で教師にいじめられたり、仲間にいじめられたりする子供は 家に帰って親に対して不従順になり勝ちである。
子供の生活のうち、最も伸びねばならぬ学校生活の半日が ―― 否(いな)、 その子供にとっては半日ならぬ殆ど全日に感じられる期間、彼はいじめられたり、 不快な眼に逢って来たので、それに対する反抗を表現したいが、 それを学校では表現することが出来ないから、その反抗を家庭で表現しているのである。
それに対して、家庭の親が暴君的に圧迫を加えるならば 子供は内心の犯行を表出する捌け場所を失って、病気になるか、 不快な事を見まいと云う精神力の反映から近視になるか、
それを聞くまいとして中耳炎を起すか、 頑固に鼻の奥にブツクサ言っていて素直に通さないところの蓄膿症を起すか、
親が子供の成績の良くなることを希望しているのに、逆に成績を良くしないことが 親に反する切(せ)めてもの反抗であると云うようなことになることがある。
愛撫して抱きし締めながら学校の模様を聞いてやること。
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《愛して放つ日》(5月8日)
【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」とも言える。 (『生命の實相』第十一巻)】
子供を無理にあやまらせるものではない。 もう今後一切そんなことはしませんと誓わしてもならない。
大人自身あやまることの不快と、一度禁煙を誓っても幾度でも煙草(たばこ)が 廃(や)められない大人が沢山あることを考えれば 「誓う」と云うことが何にもならないと云うことが判るであろう。
一度誓ってそれを犯したら、それは「自分は誓を破(やぶ)った罪人だ」と云う自覚の念に いつも付きまとわれた人間になり、自信力を失うか、毒を喰(くら)わば皿まで式に、 「どうせ汚(けが)れた身体(からだ)だからもっとやろう」と云うようになるかする。
また、守れるかどうか判らないことを誓わせるのは嘘つきを奨励しているのと 同じことになる。 あやまるのを好まぬ子供にあやませると、 今度は嘘をついてあやまる不快を免れるようとする。
子供に正直の美徳を教え込もうと思うならば親自身が子供の前で嘘をついてはならぬ。 子供の前で居留守を遣う親は沢山ある。 子供にだけ嘘をついてはならぬと言って自分が嘘を言う親は二重に嘘をついている のである。
人間は本当のことを言いたいのが本性(ほんしょう)だから、 本当を言っても叱られないとなれば却って本当のことを言う。
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《何事にもイライラせぬ日》(5月9日)
【他(ひと)を審判(さば)く者は、天に於いてまた自分も審判(さば)かれる。 (『生命の實相』第三巻)】
子供が不従順な場合は健康を害しているか、疲労しているために 何に対しても焦々(いらいら)してヒステリックになっている場合もある。
頭から叱り付けでも、子供の精神障害を一層大きくするばかりで、 百害あって一利なしである。 それどころか子供を叱っていると、親自身が焦々(いらいら)して来るから子供の心に 親のイライラを反映させて決して教育効果などのありようはないのである。
教育はイライラや叱責や気持の悪さで行なわれるものではない。 教育は「善」の権威を示すことによって行なわれるのである。
善の権威とは暴風の如く狂暴に暴(あば)れ狂う殺伐(さつばつ)さではない。 善の魅力、愛の魅力である。
獄中にいて検察官を手古摺(てこず)らせた左翼の闘士でさえも、 親の愛の前には転向せざるを得なかったと云う。
教育は鞭(むち)ではない。 愛である。その愛も、盲愛であったり熱愛であったりしてはならない。 智慧をもって急所急所を抑えて行かなければならない。
病気だとしていたわりすぎると、 病気を口実にして不従順や嬾惰(らんだ)の習慣が附くのである。 病気だと云う言葉を家庭の中で使ってはならない。
静かに抱(だ)くか愛撫するかして 「あなたは好い子なのです。屹度親の言うことを聴いてくれます」 と断定的に言いなさい。
愛は癒す。 言葉の力は癒すのである。
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《三界唯心を悟る日》(5月10日)
【全ては自分の心の影であるから目のとどく限り神示とも言える。 (『生命の實相』第十一巻)】
子供は学用品を紛失して、親からひどく叱られるのを恐れて隠していることがある。 何でも子供は《もの》を隠しているときには、強情に陰気に塞ぎ込み勝ちのものである。
「父さん母さんは決して叱らないから、隠していることを心に持っていて、自分ひとりで 苦しまないで、母さんにそれを打明けて一緒に苦しいことは二人で分けましょうね」 こう言って愛撫して、愛を表現しながら、子供の心の悩みの表出に動機を与えてやる ことが必要である。
幼いときから持ちつづけた感情の悩みが大人(おとな)になってからの 神経的疾患として発病することもある。
子供の怠惰、朝寝、不勉強は権力者に対する無言の抵抗であることがある。 大人でも権力によって拘束せられる場合には、無言の怠惰 ―― 飢餓罷業(ハンガー・ストライキ)や怠業(サボタージュ)を行なうことは 誰でも知っている。
ガンジーのような高潔な人格者でも、 ハンガー・ストライキやサボタージュはやるのである。
子供の怠惰も必ずしも人格の低下の標識(しるし)ではない。 それは却って子供の自尊心の強さから、自尊心を傷つけられたことに対する 反抗の顕れであることもあるし、先生や、親や、友達が認めてくれない 絶望からの自暴自棄であることもある。
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