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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[721] 生命の本源は神(七月の光明法語)
伝統 - 2015年07月11日 (土) 04時54分

(上旬)


七月一日の法語 「今」を生かせ

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

・・・

七月二日の法語 生命荘厳の美

世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。

困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。

山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。

困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。

・・・

七月三日の法語 「ハイ」の「無限力

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

・・・

七月四日の法語 「否定」の威力

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの
   百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

・・・

七月五日の法語 汝を呪う者を祝福せよ

「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎めと言いし教えを汝ら聞きしことあらん。
されど吾れ汝等に告ぐ、汝の敵を愛せよ。汝を呪う者を祝福せよ。
併(しか)して汝をなやめ苦しむる者のために祈れ」。

或る日私が聖書を読んでいる時に此の語から霊感を得た。

その頃私は私を裏切って私の為に出世してい乍(なが)ら、
私の悪口を言い廻っている或る人に不快な気持をもっていた。
併しこのキリストの聖句を読んだとき胸がスーッとしたのである。

私は彼を愛しようと決心した。
彼が吾が前にそのような姿をあらわすのは自分の心を鍛えて下さる神の愛である。

・・・

七月六日の法語 執着を脱して始めて自由

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いていと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、
異学の優陀(うだ)と云う者が、釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)
妙(たえ)にして面光照りわたりたるを見て訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、
一切のものに執着しない事、あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱していることであった。

・・・

七月七日の法語 真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で「諸愛ことごとく解脱し」と書かれている
ように、仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

・・・

七月八日の法語 天国に於ける夫婦愛

ひとたび相手を真に放ってしまった時に、愛は清まって真に法愛たるを得るのである。
キリストは「天国に於いては、彼等は結婚せず、夫婦関係もなく、天の使の如し」と
言っている。これは決して天国では人間が、中性的な人間になる意味ではない。

すべての創造は唯一者の陰陽への分化とその融合によって行なわれるのである。

それはキリストの言った天国の状態は陰陽の結合の否定ではなく、
それは猥雑な肉的関係がないと云う意味に過ぎない。

天国に於ける陰陽の結合は魂に於いて音楽の合奏の如く行なわれる。

・・・

七月九日の法語 全身は霊的エネルギーの層である。

ロックフェラー研究所の外科医長故アレキシス・カレル博士は言っている。

「吾々の意識のすべての状態は脳髄の化学的変化に相互連関をもっている。
脳髄は全身に相互連関をもち、吾等の全身は恰(あたか)も心的及び霊的エネルギーの
層をなしているのである。意識のすべての状態は人体に一定の化学的又は生理的状態を
引起こす。

されば人間は或る動作によって自分の肉体を調整し得ると同様に、
瞑想により心を整えることによっても肉体を調整し得るのである。」

是が凡(あら)ゆる方面から人間の肉体を解剖した世界一の大医の言である。

・・・

七月十日の法語 憎む心を捨てよ

憎みの感情は血液内に毒素を生ずる。
それは精神の変化が脳髄に化学的変化を与え、脳髄と相互連関をもつ全肉体組織に、
敵に対して身構えするよう命ずることになるからである。

敵に対して身構えたとき、すべての生物は呼気(はくいき)より毒素を発し、
唾液の中に、敵に噛みついて殺傷するための毒素を生ずる。
これは武器が牙と爪とであった原始人時代の原始的機能を多少とも残しているのである。

それをゲーツ教授はすべての感情に於ける呼気(はくいき)の化学的実験で説明した。
副腎からはアドレナリンの分泌量の増加を起こす。

[742] (中旬)
伝統 - 2015年07月23日 (木) 03時55分

七月十一日の法語 汝の憎みを捨てよ

人を憎んでいて健康は期待できない。
尤もデリケートな体質と、頑丈な体質とに於いては、
その精神的毒素の影響が迅速であったり緩慢(ゆるやか)であったりする。

それは一杯の盃に酔う人もあれば、一升飲んでも酔わぬ人もあるのに似ている。
だから一時的に見るならば、割合人を憎まない人が病気になったり、
大いに人を憎む人が健康でいたりするように見える。

併し時が来る。
集積した精神的毒素の総量がその人の体質に耐えられない極量程度に達した時に、
初めて大木が倒れるが如く、如何に頑丈なる体質も、病を発して倒れるのである。

・・・

七月十ニ日の法語 宇宙は一つの生命体である。

運動と云うものは「動くもの」とそれがその中で動くところの「媒質」とによって
可能となるのである。例えば魚は水中で動き、鳥は空中で動き、
ラジオの波は空間のエーテルを媒質として動く。

では吾々の想念は何を媒質として動くのであろうか。
吾々の想念は、「宇宙に満つる想念の普遍的波」の中で動くのである。
吾々の想念が全宇宙に伝わらないと云うことはあり得ないのである。

ただ、吾等はそれを自覚することが出来ないに過ぎない。
吾々の想念が或る処へ伝達して無限供給が出て来る原理は其処にある。

・・・

七月十三日の法語 生命の本源は神

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。

・・・

七月十四日の法語 懺悔によって赦されよ

「赦された」と云う実感は、神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。
「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。

・・・

七月十五日の法語 神は遍満し給う

神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。

謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。

「タオルを手拭いかけに掛けるように、私は私の生命(いのち)を神様にすっかり
もたれかけました」と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。

全托である。

・・・

七月十六日の法語 神に対して戸を開け

神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。

与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。

神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。

神に与え切りにする人こそ癒されるのである。

・・・

七月十七日の法語 神と直通する道

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る

・・・

七月十八日の法語 すべては霊である

すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。

雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。

雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。

霊魂は「生命」の高い段階の現れである。

・・・

七月十九日の法語 霊は物質を支配す

生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。

ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。

実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。

・・・

七月ニ十日の法語 黴菌の使命

黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。

だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。

それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。

[753] (下旬)
伝統 - 2015年08月02日 (日) 07時37分

七月ニ十一日の法語 争闘の世界観を捨てよ

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

・・・

七月ニ十ニ日の法語 生長の家と科学

生長の家は科学を否定しない。
寧ろ精神と物質との間に科学的法則を見出す。
だから精神科学といわれる所以である。

今迄は物質と物質の間のみに法則を見出して、
精神と物質との間に相互の因果関係があると云う事を忘れていた。

物質の法則の上に精神の法則の優位があるのは、ただの物理化学的法則以上に
それに精神が働きかけた時、物質はただの物質ではなく肉体となり、霊妙なはたらきを
現し、自然の物理化学的変化以上を有意志の変化にかえて了(しま)うのである。

・・・

七月ニ十三日の法語 法則とは何ぞや

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、生命の創造力を豊かにる流露(るろ)
せしめんがためのものである。

・・・

七月ニ十四日の法語 二つの法則

人生には、精神の道と、肉体の道とが互いに縄のように交わりながら進んでいる。
吾々は心の法則の中にも住んでいるし、物質の法則の中にも住んでいるのである。

毒物(本来食物として創造(つく)られていない物の意であって、それは他の用途に
使えば毒物ではない。本来毒物は何もない)を食すれば胃腸を害し消化力を減ずるのは
物質の法則によるのであるが、

心配したり、腹立ったり、不快な思いをしながら食べるとき
胃腸を害し、消化力がにぶるのは心の法則によるのである。

・・・

七月二十五日の法語 適時、適所、適人

生長の家は毒物を食しながら、心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と
思念しながら食べたら、毒が変じて栄養となると云うのではない。

心が完全に働けば、本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、すべてが《ある》べきところに
《ある》ように適当におかれると云うのである。

神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。

・・・

七月ニ十六日の法語 神に於いては無法則

神は決して「法則」と云うようなもので自縄自縛されてい給うような方ではない。
その意味に於いて、神自身から言えば、「無法則」である。

しかし、神はその創造活動があらゆる方面において調和し、秩序だっているから、
それを人間の方から見ると、神の創造は「法則」と云う「道」を通って行なわれる
ように見えるのである。

精神の法則も、物質の法則も「一(ひとつ)」の神の調和した創造の二面であるから、
互いに調和しているのである。

不調和に見えるのは観察が足らなぬのである。

・・・

七月ニ十七日の法語 行く処必ず安全

爆弾に中(あた)っても死なないと云うのは神の法則の自己破壊であって、
そんな事が尊いのではない。

爆弾の中らぬような所へ、自然に、心の働きで、自分の身体(からだ)が行っている
事が、心の法則と物質の法則との調和である。

毒を飲んでも死なぬのではなく、毒など自然に飲まなくなる事が、
心の法則と物質の法則との調和である。

天災地変や列(汽)車の顛覆が起こっても大丈夫と云うのではなく、
天災地変や列(汽)車の顛覆の所などへ立ち寄らぬ様になるのが
心の法則と物質の法則との調和である。

・・・

七月ニ十八日の法語 観念と創造

観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。

「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。

宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。

されば一切のものは観念の創造であると云える。

・・・

七月ニ十九日の法語 超個人的精神上の観念

バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。

併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。

そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。

・・・

七月三十日の法語 實相円満の相(すがた)を見よ

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

・・・

七月三十一日の法語 何故(なぜ)迷いが出来るか

何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。

幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。

よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。

これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。



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