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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[724] (365章シリーズ)はしがき
伝統 - 2015年07月13日 (月) 17時35分

『幸福を招く365章』


       はしがき

わたしたちのグループの雑誌に私は光明法語と云うものを毎月書きつづけている。
それは毎日短い1章ごとの文章に、その日その日の生活を明るくし、希望を持たしめ、
生き甲斐の感じを深めしめ、能率があがり、生活の悦びが湧いて来、

従って幸福な健康な人生を営むことのできるように諸君の精神を鼓舞するために
今もなお書きつづけている。

そのように人生に生き甲斐を増し、活力を賦与し、元気をあたえる文章を書きつづけた
ことが、多くの読者の悦ぶところとなり、

”桃李もの言わねど下おのずから蹊(こみち)を成す”の諺の通り、多くの読者が集って
来て、それが”生長の家”と云う宗教になってしまった。

私たちは私たちの運動を人類光明化運動と称して宗教とみとめられることを悦ばなかった。

それは寧(むし)ろ迷惑であったのだけれども、人の口には扉をすることもできないし、
私たちは戦争中、愛国運動をつづけてきた関係上、占領軍が上陸して来て日本に軍政を
布(し)いたときに、戦中の愛国運動は概ね解散を命ぜられ、その財産を没収されることに
なったけれども、

私たちの運動が公式(自称ではなく、戦前に文部省がみとめたのである)「宗教」と
みとめられていたために「信仰の自由」と云う意味で私たちの団体は占領軍の圧力から
まぬかれたのであった。

宗教とみとめられたことはこんな利益もあったけれども、戦後、雨後の筍(たけのこ)の
ように生じた怪しげな新興宗教と同様に、私たちの運動が一種の迷信の如く誤解された点は
マイナスになっているので、この点は今でも遺憾に思っているのである。

しかし私たちの運動は何処までも、文章による人類幸福化運動であって、
一宗一派の信仰を述べつたえることではないのである。
私の書く文章から救われる人々が今も尚続々生じているのである。



読んでみて貰えば判ることであるが、
私の文章は人類を何処までも幸福にしたいと云う祈りを
一句一句に籠めて書かれているのである。

徒言(あだごと)や冗談や、ただの学説や、ただの随筆ではないのである。

人類を悉く幸福にしたいと云う熱願が籠められているために、
「法語」 と云うような多少宗教的匂いがするのは止むを得ない。

けれども此の書の読者は、屹度かならず、読まぬ前より読んだ後は、
何らかの点で、生活の仕方や、人生の考え方で幸福になるにちがいないと信ずる。

私は別に宗教じみたことを書いているのではない。

人間に幸福感を与えるための言語暗示的な語句が無数に見出されるが、
それは決して科学と調和しない思想ではない。

その内容とするところは人生哲学は勿論のこと、物質科学でも論及してあるが、
多くの人々には忘れられている精神科学や心理学や精神身体医学の最近までの知識を
取入れて、出来るだけ平易な達意的文章で書こうとしたのである。

人類總幸福化の熱意がなければ、哲学的なこんな深い問題をこんなに平易に書き綴ることは
出来ない筈で、或る正しい批評家は 「哲学の民主化の完成だ」 と云ってくれている
のである。



本書は、こうして書きつづられた数年間に遡(さかのぼ)る私の「幸福生活論」の毎日の
一章の中から、もっとも人生に必要な事項を1年365日に割り当てる為に365章だけ
抜粋し、それを1月から12月までに配列するために、12項目に分けて編纂した
のである。

各項目は各々の月の日数と同じ数(すう)の章を包容している。
そして忙しい人には毎朝その短い1章だけでも読んで貰うと、その日の出発に
幸福の光が射し、悦びと「生き甲斐」とで人生が迎えられるように工夫したのである。

しかしなるべく最初の冒頭から全部読んで頂いて此の光明思想を会得し、
それからは毎日1、2章ずつその文章を味わいながら読んで深めて頂くとよいと思う。

若(も)し、あなたの生活に何等かの困難な問題が起こって来たときには、
この書のどの頁でも抽選でもするつもりで披(ひら)いて其の頁を読んで下されば、
必ずその問題を解決するヒントが得られると思う。

それは決して迷信的な意味で言うのではなく、この書は真理を語るのであるから、
キリストが「真理は汝を自由ならしめん」と言った通り、どんな問題に対してでも
解決の糸口が与えてくれるにちがいないのである。

この書を、新年をもう間もなく迎えようとする年の暮れに上梓(じょうし)すると
云うことは意義あることだと思っている。

読者諸賢の幸福と健康とを祈らずにはいられない。


   昭和34年12月1日

                           著 者 識 す


           <感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>

[726] 『女性の幸福365章』
伝統 - 2015年07月14日 (火) 18時10分


   はしがき

本書は『幸福を招く365章』の姉妹篇として、特に女性の幸福生活の指針として、
各項を1年365日に配して365箇条の「女性が幸福になるための心の持ち方」を
あつめたものである。

実は私たちには、女性の生活光明化運動のグループとして白鳩会があり、
その機関紙として『白鳩』という雑誌が出ているのである。

その雑誌に私はもう数年にわたって、毎号「女性のための智慧」という題で、
毎日1章ずつ読んで、心を浄めるための文章や、精神方面からの生活改善についての
智慧を、書きつづけて来たのである。

それは女性のための「箴言」とも称されて各方面から感謝されているのである。
その内容は女性の生活にわたってその凡ゆる方面のことを網羅している。

女性問題を取扱った書物は沢山あるが、大抵、人間を「肉体」方面から捉えて
「低い」取扱い方をしているが、この「女性のための智慧」は人間を霊的観点から
取扱っているので、読者に一層高い自覚と価値観を与えるところに本書独特の智慧がある。

その各種方面の智慧は雑誌にのせる時には各月、かたよらないで、あらゆる問題に
わたっての智慧が入りまじっていたのである。

その数年間の文章を整理し分類して、12ヶ月に準じて項を分け、各月(かくげつ)の
日数に応(じゅん)じて章を分け、これを日常生活の指針として検索するのに
便利にすることは大変な大仕事である。

詳細な目次は内容全体を見通すことができると同時に検索を容易ならしめるためである。
この大仕事を引き受けてくださったのが日本教文社の瀬戸口氏である。
氏はカットの配列や組方についても繊細な注意を払って下さった。

各奇数ページの下に横書きで標語のようなものが書かれているのは
生長の家の「智慧の言葉」の一部である。

ぱっと披(ひら)いた時に其の日生活の在り方に
良きヒントを与えることになれば幸いである。

本書は、最初に全巻読んで頂いて、読者は直(す)ぐ日常生活を幸福にする
幾多の智慧を獲得せられる事と思う。

しかし本書のような書物は1回読み切って棄ててしまうような性質の本ではない。
全巻通読の後(のち)は、どの項からでも毎日1、2章づつ順序を追うて読んで
行かれれば、繁忙でめまぐるしい乾き切った砂漠のような日常生活の中で
オアシスに遭ったような心のうるおいを感じられるであろう。

1年365日に365章を配してあるから、年の初めから、また第1項から味わいながら
1章ずつ読んで行かれたい。そして日々(にちにち)を幸福な好(よ)き日とせられたい。

本書は真理を語るのであるから、時効にかかって価値がなくなるようなものではない。
真理は永遠に古くして永遠に新しい生命(せいめい)の泉である。


   昭和36年9月11日

                                著者しるす

           <感謝合掌 平成27年7月14日 頓首再拝>

[738] 生活の智慧365章
伝統 - 2015年07月21日 (火) 21時25分

生活の智慧365章「はしがきに代えて」


田中編集長さま

わたしが日本を出るとき書き残して来た澤山の原稿を整理して
『生活の智慧365章』として、恰度(ちょうど)わたしが日本に帰る頃に
出版されることになった事を感謝いたします。

私もそれを読んで、もう一層、
生活に真理を実践する決意を新たにしたいと思っています。

わたしは今ブラジル国(こく)に来ています。
わたしは故国去ってから五ヶ月になるのですが、その間(あいだ)に

ハワイ、アメリカ、カナダ、メキシコ、ペルー、ブラジルと
各國の國民に呼びかけて、人間が恒久の平和を得、
限りなき悦びに満たされた幸福を享受し、地上に於て本当に天国を
実現するために必要な”生活の智慧”を説いて来ました。


生長の家は万教帰一の真理を説いているのでありますが、

観世音菩薩が、婆羅門に対しては婆羅門身を現じて
得度せしめられると観音経にあるように、

キリスト教国に於ては、キリスト身を現じて聖書の教えを
真向にふりかざして真理を説いて来ました。

イエスの教えを正直に割引なしに全面的に信ずること、
そしてそれを本当に生活に実践することによってのみ、
キリストと同じ奇蹟を実演し、

本当に幸福な地上天国が実現することを得るのであることを説いて来ました。


「諸君は聖書の割引信者になってはいけない。
聖書の割引信者は本当のキリスト教信者ではない。

或るクリスチャンは、

”聖書は魚のようなものであって、魂の栄養になる部分もあるが、
どうしても咀嚼することも出来ない、消化する事の出来ない骨のよう
部分もある。

そのような骨の部分は棄てなければならない。
イエスの教えは吾々には全面的に実行などはできない”

などといって、実践に伴う奇蹟などは半分ばかりしか
信じていないでいるものがあるが、
これは即ち”割引信者”である。

イエスは、
”吾を信ずる者は吾より大なる業(わざ)を成(な)さん”といっている。

このイエスの言葉は、諸君が本当にイエスの信者であるかどうかのテストである。
イエスよりも大なる奇蹟をあらわすことができないようなキリスト教信者は、
このテストに落第したのである。

そのような人は本当にイエスの信者ではない。

イエスは”若し芥子種ほどの信だにあれば、
この山に動いて海に入(い)れというと雖(いえど)も、必ず成らん”

といったのであるが、これを全面的に信じ、
生活に実現し得る者こそ本当のイエスの信者である。」


このように、わたしは説いて、現に生長の家の人々が実現している
色々の奇蹟的な業績に就いて紹介して来ました。

そしてこのような偉大な奇蹟を生活に実現するために必要な智慧は、
唯物論的な智慧ではいけない。

唯物論的智慧は、人間としてエデンの楽園からも追放されるに到らしめた
”蛇の智慧”である。

人間が幸福生活を送ること、即ち嘗(かつ)て追放された”エデンの楽園”
に還るためには”蛇にだまされて食した「智慧の樹の果」(唯物論的人生観と、
それに伴う”人間・罪の子”の概念)を吐き出してしまわなければならない

―― このように説いて、キリスト教にあり勝ちな”罪の子”の観念を否定して。
”人間・神の子”の真理を全面的に押し出して強調しました。

そしてカール・A・メニンジャー博士が『おのれに背くもの』に於いて、
人間が不幸をいといながら、その願いに背いて、みずから不幸を造りるるあり、
更に、戦争までも造りつつあるのは、人類の「罪の観念」を原因とする
自己処罰であると沢山の実例を挙げて説いていることを引用し、

イエスは人間を「罪の子」として説いたことは一度もないと、
新約聖書のイエスの言葉の各句を引用して強調して来ました。


アメリカで、そのような演説をしているとき、

「ブラジルへ往って、そのような演説をしたら、人間は罪の子だと説いている
カトリック教の国であるブラジルでは、先生を国外追放の処分にするかも知れぬ
から、そのようなことは成るべく説かないでほしい」

と随行の人たちからいわれたものですが、ブラジル国へ到着すると、第一に
リオ・デ・ジャネーロにブラジルのカトリック教本山をおとずれて
ドン・ジャイノ・カマラ大司教に会い、

「人間は神の子である実相を自覚し、
互いにその神の子なる実相を礼拝することによってのみ
世界の平和は来るのだという真理を伝道するために来ました」

と通訳を通して話しますと、

「それは大変結構なことである。
すべての人が”自己の宿るキリスト”を自覚するようになれば、
人間の良心が目覚めて、人間は悪いことをしなくなる」

という言葉を得て、ブラジル国(こく)到る処で
”人間・神の子”の信仰を強調し、
”罪の子”の観念を否定しつづけてまいりました。

すると国外追放どころか、各都市到る処で大歓迎を受け、
通訳を通じてブラジル人に講演して来たところでは
市会で感謝決議をして感謝状を寄越されたところもあります。

私が到着したのを出迎えただけで長年の病気が治った人もあり、

「人間・神の子・本来罪なし」の思想は唯今燎原の火の如く
ブラジル国内に燃え上がり、或るブラジル語の新聞には

「マサハル・タニグチが来て今迄布団をきて眠っていた
カトリック教の僧侶の布団を剥いで目覚めさせつつある」

いう批評を書いた一節もあったということです。


何といっても、世界に平和を来らし、人間が幸福になるためには、
罪の観念による自己処罰をやめさせることが第一です。

しかし人類の潜在意識の奥深く浸透した「罪の子」の観念を抜き去るためには
諄々と精密詳細に、人間そのものの本質を説くことが必要であり、
またそれを読むことが必要です。

この「生活の智慧」の本もそれに役立つことを信じます。

ついでに、メニンジャーの『おのれに背くもの』の改訳が新装して出たそうですね。
三島由紀夫氏が激賞した本ですね。
これも人類の幸福に貢献するにちがいないと思います。

では皆様、御幸福に。

1963年(昭和38年) 8月11日

                  ブラジル国サンパウロ市にて

                                谷口雅春

[743] 『希望を叶える365章』
伝統 - 2015年07月23日 (木) 23時23分

はしがき


人間は誰でも何らかの希望をもっていて、
その希望の実現をねがわない者はないのである。
ひとつの希望が実現すれば、また次の希望が生まれて来て
その希望の達成をねがうのである。

人生とは希望に向って歩みゆく魂の旅路だともいえるのである。
しかし多くの人たちは自己の希望を実現し得ないで、
魂の旅路の落伍者となっているのである。

それは何故(なぜ)であろうか。
その理由を明らかにして希望成就に道をひらきたいのが
本書の目的のひとつである。


希望を達成したいと思うならば希望は一体何処にあるか、
希望の在所(ありか)を先ず知って置かなければならないのである。

希望のありかを間違えていたのでは
希望をわがものとすることが難しいのは当然である。

だいたい希望を実現したいと思っている人は、前向きの姿勢で、
前へ前へと進んで行くのが普通であるが、希望とか理想とかいうものは、
そんなに前方にあるのではないのである。

では、その希望とは、一体何処(どこ)にあるのであろうか。


私たちが切実に実現したいとこいねがう希望は、
それが真に切実なものである限りに於いて、
それは自己の内に「既に《ある》もの」が内部から押し上げて来るのであって、
本当は外にあるのではないのである。

それが既に《あり》、既に内部に実現せるがゆえに、
それを外に表現せずにはいられなくなって、
「希望」とか「理想」とかいう形をとって、表面にあらわれて来るのである。

希望を実現することが、まだ無いものを創造り出すのならば、
それは難しいかも知れないけれども、

「既に内に《ある》もの」を外にあらわすだけのことだから、
それは決して難しいことではないのである。

それを難しくしているのは、
「希望するもの」が既に内にあることに気がつかないで、

反対に、“外へ、外へ”と足掻(あが)いているものだから、
東に行こうと欲しながら、西に向いて走っているようなもので、
ますます希望から遠ざかることになっているのである。


哲学的な表現になるけれども、「外界は内界の投影である」のである。
仏教的に謂うならば「三界は唯心の所現」であるから、

先ず内に向って、内部の力が外に向って、内部の力が外にあらわれ得るように
心を調(ととの)えるようにしたとき、内部の力が外界に表現されて
希望が成就する道がひらかれるのである。

どのようにして心を調えるかを私は本書で述べようとしたのである。


多くの人たちは自己の希望が実現しにくいもう一つの原因は、
”心の法則”をその人が知らないからなのである。

”心の法則”は物理の法則のような”自然界の法則”と同じように
厳然として存在しているのであって、”心の法則”を知らないで、
人生を渡って行くのは、電気の法則を知らないで、発電機をいじくったり、
ラジオを組立ててみようとするのと同じくまことに危険なことである。

多くの人たちが、希望を成就しようと願いながら、人生の航路で傷ついて
倒れてしまうのは、人生を支配している”心の法則”を知らないで、
出鱈目に、行き当たりバッタリの生活を送っているからである。

若し、あなたが「希望」というものの所在を本当に知り、それを内から外へと
導き出して来るための”心の法則”を知って、それを実行に移すならば、
あなたの希望は必ずや如何なる希望でも成就することになるに相違ないのである。


私が本書において、心の内に形成されたる「希望」が現実の世界に導き出される
ために如何になすべきか、”心の法則”にもとづいてそれを1年365章に分けて、
できるだけ詳しく説明しようと試みたのである。

あなたが、或る機会に本書に触れられたとするならば、手当たり次第どこのページ
でも披(ひら)いて数ヶ所を読まれるならば、茲(ここ)に人生を支配する道があり、
あなたの希望を成就する道が必ずあるという事を直感せられるにちがいないと思う。

では、その時、本書を最初の項から順次読んで下さい。
あなたが”心の法則”を充分理解して下さり、人生の勝利者となって下されば
本書を執筆した著者の悦びこれに過(す)ぐるものはないのである。


   昭和39年12月13日

                            著 者 し る す

[748] 栄える生活365章
伝統 - 2015年07月28日 (火) 03時22分

はしがき

人類の歴史を顧みると、それは自然との戦いであり、自然の脅威に対して
自己の生活を如何に健康に護るかの戦いであり、自然が埋蔵する宝庫を解放して
如何に富を発掘してくるかの戦いであったということができるのである。

しかし健康を護り、富を発掘して来る方法は大抵、今まで物質的方面から研究され
工夫され、そして現代の巨大なる物質科学の発達をみるに至ったのであった。


しかしそのために色々の衝突は起こり、奪い合いや戦争や、心の世界の葛藤が
人体に影響して、科学ではどうすることもできない”癌”が死亡統計の高順位に
のし上がるようなことになっているのである。

人間は幸福を求めて此処まで来た。
そして物質的方面での幸福はある程度目的を達した。

と同時に、これ以上物質的方面からのみ人間の幸福を追求していると、
空気の汚染や河川の汚染や更に人間の心の汚染で、各方面から色々の公害を惹き起こし、
原子戦争の危機まで間近に迫って来つつあるのが現状である。

物質文明の轍(わだち)の進むところ、重力で加速度が加わるように、その位の
満足の程度で物質文明の発達を一応停止して、幸福に平和に今を安全に生活した方が
よいのではないかと提言したとて、

互いに競争的に各方面に進歩しつつある物質文明が、今までの惰力で奈落の底へと
向けて突進し行くのを停止せしめることはできそうにないのである。

こうして人類破滅の危機に向ってひた走っている人類の文明という高速車を停止せしめる
ことができないとするならば、これを救う道は、その高速車を停止せしめるのではなく
方向転換させるほかなないのである。



では、どの方向へ進路を転換したら好いだろうか。

今まで、唯物論的に物質を先にもとめて幸福生活の安定や精神的安定を得ようと
求めていたが、それでは恒久的な幸福生活の安定も、精神的安定も究極的には得られない
と知れた今では、その求める順序を逆にして、唯物論的追求を先にするのをやめて、

唯心論的に人類文化の進歩の方向を転換することが、個人の幸福生活の安定を得る方法
でもあるし、同時に人類の平和の安定を得る確実な方法でもある筈である。

それは単に”筈”であるだけではなく、実際に吾々の提唱する唯心的方法に従って
生活して、肉体的には健康に、経済的には事業繁栄に、精神的生活は平和と歓喜に
満たされた生活を送っている人々が沢山あるのである。

その生きた実証として、その生活を集めた本に別府正大著『繁栄物語』というのが
別に出ている。謂わば吾々の提唱する生活法は、”実用的唯心論”ともいうべきもの
である。

実用にならない唯心論は、単なる観念論として排斥されても仕方がないが、これは、
各人が実行して直ちに実際生活に効果をあらわす方法である。

それは宇宙の”存在の大海”を広義の”心”として観て、”心”の世界から自分の
欲するものを発掘して繁栄でも健康でも平和でもそれらを思いのままに現実世界に
あらわす方法であるのである。

今から来年の幸福生活を計画しておいても早すぎるということはないと思う。

無論、本書はいつから読んでもよいのであるが、その特徴は”日めくり暦(こよみ)”
のように1年12ヶ月を12篇に配し、12篇を各々の日数に配して365章から
成っているのである。

まず全体を、休暇つづきの連休期間にでも一応読んで置いてその大意を体得しておき、
更に来る新年の元旦から必ず1章ずつ読んで、その日その日の自分の心の栄養をとる
ことにして、その指示する如く生活に実践せられらば、必ず諸君は栄える生活の
大道を驀(まっしぐ)らに進んで行かれるに相違ないと信ずる。

尚(なお)、吾々のこの実用唯心論の実践で、栄えつつある人々の集りに
”栄える会”というのがあり、東京で本部があって毎月1回集って相互研鑽している
のであるが、

本書はその会のテキストとなるよう考えながら編纂したものであることを付け加えて置く。

読者諸賢の繁栄と健康をこの書を通して私は祈るものである。


   昭和42年10月10日

                            著 者 し る す

[750] 人生の秘訣365章
伝統 - 2015年07月30日 (木) 05時08分

はしがき

人生にはいろいろな問題が山積している。
それは迷路のように錯綜していて、どこから手をつけて解決したらよいか
判らないような観を呈しているのである。

ある人は行き詰ってその迷路から出ることが出来ないで仆れて(たおれて)しまう。
迷路の中を行きつ戻りつして途方に暮れて自殺したり、
ノイローゼになったりする人もいる。


しかし、すべての人間が皆、迷路の中で行く先を見失ってしまうのではないのである。

人生の迷路は、その衝き当ったと見えるところに“秘密の扉”があるのであり、
その扉を或る“秘密の鍵”をもってひらけば、そこから希望の光が射し込んで来て、
人間は「自由」になれるのである。


イエスはこの「自由」を人間に得させる鍵を教えた。その鍵とは「真理」である。
そして「汝は真理を知らざるべからず。真理は汝を自由ならしめん」と言ったのである。
しかし聖書を読んでも、その真理を捉え得ない人が多くあるのである。

ローマ総督ピラトは「真理とは何ぞや」とイエスにたずねたが、
それに対してイエスは黙然として答えてくれないのである。

ピラトは続いて「汝は王なるか」とイエスにたずねる。
イエスは「汝の言えるが如し」と答えている。

ここに“真理”とは
すべての人間が“王者”になる鍵をもつ者であることを示しているのである。

民主主義の世界ではすべての人間に主権があるのであるから、
すべての人間は“王”である訳である。


しかし、“王”にも色いろの王がある。
自動車王もあれば、金貨王もあり、借金王もある。
そのいづれにも人間は成り得る自由があるのである。

不幸に歎く人よ、今からあなたは不幸を歎くことは要らない。
その原理と方法を本書は説くのである。


各人は彼みずからが“心”で選んだものに成るのである。
それは人間は“心”をもっているからである。

“心”は、すべての創造者であり、想念するものを創造するからである。
釈迦はこの真理を説いて「人生は唯心所現の世界である」と教えたのである。

そしてこの真理を悟る者を“解脱者”(佛陀)と称したのである。
解脱者とは一切の人間を縛る束縛から自己解放を遂げた人の事である。
諸君もまた真理を悟って完全に自己解放を遂げ自由を得ることが出来るのである。


本書は一宗一派の宗教を説くのではない。
万教に共通する真理を説き、真理の自覚を深め、心の法則を駆使して、
人生を支配するための秘鍵を読者に提供せんとする者である。


本書は春夏秋冬の4篇に分ち、1年365章を連ねて、
一貫して真理による運命支配の法則をわかり易く説いたのである。

最初、全巻を通読して後、その後は毎日数章を読んで真理の理解を深めると同時に、
それを毎日生活に実践せられることによって、事業経営の法則や、健康の法則や、
運命を支配する心の法則に基づいて生活万般の上に自由を得て、
地上に天国的生活を実現せられんことを希うものである。


    昭和45年9月25日

                       鹿児島行の飛行機上にて  

                             著 者 識 す

[751] 『如意自在の生活365章』
伝統 - 2015年07月31日 (金) 04時13分

はしがき


わたしは『幸福を招く365章』をその第一冊として「何々の365章」と題して
人生に生き甲斐を与え、健康を増進し、企業が自然に繁栄する「心の法則」
又は「心の科学」の本を数冊書いてきたのである。

1年365日に分けて、読者に毎日約1ページ前後の”霊感”を与える
”真理の言葉”を提供して、その人の生き甲斐を鼓舞し、人生を爽快なものとし、
調和と健康と繁栄を自己の人生に創造する書物を書くことをこのシリーズの目的
としたのは、あまりに此の人生は科学知識の発達と共に多忙すぎるようになって
来たからである。

しかし物質科学の知識は発達したけれども”心の科学”は発達せず、
人間の生活は跛行的なものとなり、ただ物質の豊富と肉体の快楽とを追求して、
狭い地球上に多勢の人間が犇(ひし)めき合い摩擦し合っていて、
彼ら人間は真の幸福を得る道を知らな過ぎたからである。

イエス・キリストは「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」
といったが、多くの人達は物質の豊富と肉体の享楽を追求して忙しく、
東奔西走すればするほど、人生は益々複雑にして摩擦多きものとなり、

多くの若い人たちはノイローゼのようになり、相当の年輩に達した人たちは
色々の原因不明の変な病気や治療不可能の癌症状等の病気にかかり、

繁栄を求むれば、他の繁栄を追及する人たちの利益と衝突し、
人生は修羅の巷と化し、人々は真の幸福から遠ざかって行きつつあるのが
現代の人間模様であると言ってよい。

このような跛行的な人間生活が生まれて来たのは結局、
物質と肉体の科学は進歩したけれども、
人間は心の科学も霊の法則も知らない片手落ちの発達を遂げた結果、

彼らは真理を知らず、古代の巨大動物があまりに角が大きく発達した結果、
全滅してしまったと同様に、自分の巨大知識によって自縄自縛の状態に陥り、
真の自由を失って、今や全人類が精神的に滅亡しようとしているのである。

そして彼らは藻掻(もが)けばもがくほど足を海中の藻にまつわられて
煩悩海(ぼんのうかい)深く沈没して行きつつあるのが現状である。


この際、この時、何が必要であるかといっても、
イエスがもう二千年も前に警告した如く
「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」である。

煩悩海中深く溺没(できぼつ)しつつある人間を海上に浮かびあがらせて、
人間に真に自由と解放とを与え得るものは、もう物質方面の知識ではなく、
人類が「真理」を知ることである。


その真理を365日の「毎日の言葉」として提供せんとするものが、
此の、人間に真の幸福を知らせるこの365章シリーズである。

このシリーズは人間知によって書かれたものではないのである。
このシリーズのうち、この『如意自在の生活365章』は、
恐らく365章ものの最後のもっとも圧巻とも称すべきものであり、

わたしが激しく霊感的状態になり、天界からのインスピレーションを
最も受け易い状態になり、わたしの霊が西アフリカのガーナ国の黒人の求道青年
プリンス・J・ブラックソン君の夢にあらわれて人間・神の子、本来完全自由の
真理を説いた結果、

彼がその夢中のうちに授かった真理を大衆に向かって説きはじめると
数年のうちに6万の信徒を得、大きな教会建物を造営し、

やがて彼ブラックソンは一昨年、日本に来たって、わたしが彼の夢中に
あらわれた真理の伝授者であることを確かめ、2ヶ月間日本に滞在して
更に深く真理を伝えられてガーナ国に帰ると、今では彼からの通信によると、
彼は既に60万人の黒人信徒を獲得したということである。

それはさておき、そのように私が霊感的状態になっていた頃の期間に
「法語」として書きつづけて来た真理を一冊にまとめたものが本書であるから、

本書の全巻は、生きてピチピチ現に魚發(は)ねている”真理“の書だ
ということが出来、読者のたましいに真理が直接つたわると思う。

わたし自身が本書出版のため校正をしながら、自分でその真理の表現に感動し、
読みながら、今や八十五歳に垂(なんな)んとするわたしが、
自分で書いた本に感動して若返った感じがするのである。

特にその第一章には深い真理が書いてあり、
それに続く各章には、実際に処する場合の心の法則が詳細に
説明されているのである。

老いも若きも、本書を読むことによって無量寿の人間生命無限力の自覚を、
新たに生まれ変わった自覚を得ることになるのであろうと信ずる。


本書は今後、生長の家の各県の道場で毎日催されている神性開発一般練成会の
テキストとして用いられることになるが、先ず最初に今年の10月の
京都府宇治市塔の川にある生長の家別格本山での3日間にわたる詳蜜講習会の
テキストとして用いるべく、校正を急いでいるのである。

各県の道場での神性開発練成会に参加して、真理の直接伝授を受けたい方は、
本書の巻末に、その道場所在地を書いておいたからそれを参考にせられるがよい。

読者諸賢が真の祥福を得られんために祈りつつ、この序文を終わる。


      昭和52年9月10日

                          著 者 し る す



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