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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[55] 日々読誦三十章経
伝統 - 2014年08月01日 (金) 04時43分

(管理人さま、初めて投稿させていただきます。)

(このスレッドでは、「日々読誦三十章経」のエキスを紹介させていただきます)

 経 言
 
一日の経言 新に生れる言葉
二日の経言 心の独立を得る言葉
三日の経言 観音妙智観
四日の経言 無限力を発揮するための言葉
五日の経言 善と融合する言葉
六日の経言 人生に主となる言葉
七日の経言 感情を正しくする言葉
八日の経言 境遇と運命とを支配する言葉
九日の経言 自己を偉大にする言葉
十日の経言 完全健康の言葉
十一日の経言 善と健康とを実現する言葉
十二日の経言 愛と繁栄とを実現する言葉
十三日の経言 信仰と愛を昂める言葉
十四日の経言 新しき計画を生む言葉
十五日の経言 自信力を増大する言葉
十六日の経言 災厄除けの言葉
十七日の経言 恐怖を消滅する言葉
十八日の経言 万成就の言葉
十九日の経言 神と融合するための言葉
二十日の経言 万能の自信を強むる言葉
二十一日の経言 言葉の実現力を昂むる言葉
二十二日の経言 消極的暗示を排撃する言葉
二十三日の経言 一念不動の言葉
二十四日の経言 心の平和を保つ言葉
二十五日の経言 最善の選択をなす言葉
二十六日の経言 今日一日を祝福する言葉
二十七日の経言 自己浄化の言葉
二十八日の経言 神の導きを得る言葉
二十九日の経言 神と一体となる言葉
三十日の経言 今・此処・天国を実現する言

(発行は、株式会社 光明思想社)
http://www.komyoushisousha.co.jp/30shyou.html


(”山ちゃん1952 さま”による「谷口雅春先生年譜一覧表-4」より)
<昭和19年3月 「日々読誦三十章経」を発表>となっております。

[56] 伝統様へ
管理人 - 2014年08月01日 (金) 07時08分

合掌

これはこれは尊敬する伝統様、ようこそおいでいただき、ありがとうございます。
光明掲示板ではすばらしきご投稿を毎日拝読させていただき、充実した日々を過ごしております。

このたびは当掲示板に「日々読誦三十章経」のエキスをご投稿していただくとのこと、うれしい限りでございます。心より感謝申し上げます。

今後ともよろしくお願いいたします。

感謝 合掌 再拝

[59] 「感謝! 」と今後の進め方
伝統 - 2014年08月05日 (火) 06時42分

”管理人 さま” ありがとうございます。

”管理人 さま” のおゆるしをいただき、感謝申し上げます。

当初は、簡単な抽出したエキスの紹介にとどめようと思っておりましたが、
”管理人 さま” の広い大きなお心に触れ、
もう少し重たくしてみようかなと思うようになっております。


とは言っても、「著作権の保護」という地雷を踏まないで進めるには、難儀を伴います。

”管理人 さま”から見て、注意信号が灯った場合は、
イエローカードを示していただければと願っております。

・・・

では、次に進めてまいります。

別の掲示板の”亀の子 さま”による投稿によると、

『日々讀誦三十章經』に関係する谷口雅春先生のご著書を
歴史的順に並べると次のようになります。


(1)『如何にせば運命を支配し得るか』F・L・ホルムス著 谷口雅春先生譯補
   (大正14年6月10日初版)−「生長の家」立教以前の初の翻譯本−この本が、原本と思われる。

(2)『人生は心で支配せよ』戦前版 昭和15年11月20日 光明思想普及會発行

(3)『生長の家』昭和19年3月號−『日々讀誦三十章經』発表

(4)『新生の書』昭和26年9月25日 日本教文社発行
   (「一日の経言(のりごと)」から「四日の経言(のりごと)」までのご解釋)

(5)『人生は心で支配せよ』新修版 昭和24年2月1日 日本教文社発行

(6)『人生は心で支配せよ』−谷口雅春選集第12巻 昭和31年7月15日 日本教社発行

(7)『人生は心で支配せよ』−谷口雅春著作集第10巻 昭和63年11月22日 日本教文社発行



次回は、先ず、『如何にせば運命を支配し得るか』の中から、
『日々讀誦三十章經』の原本部分に当たる「真理に就いての瞑想」部分を
順に紹介していきたいと思います。

なお、『如何にせば運命を支配し得るか』についての概要(目次部分)については、
《光明掲示板・第二》 にて紹介しておく予定にしております。

           <感謝合掌 平成26年8月5日 頓首再拝>

[60] 「真理に就いての瞑想」〜その1
伝統 - 2014年08月06日 (水) 04時57分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P21〜24)

かるが故に吾等は運命を支配するための法則について静思して見なければならない。
そして吾々の生活が自己自身の思想ならびに、吾々の心の上に与えられたる暗示によって
支配されるものであることを熟慮して見なければならない。

(中略)

(以降が経言<のりごと>に該当する部分です)

吾等は今自己の生活を意識的に自分自身で支配したいと欲(おも)う。   ☆

吾等は今より自分の考えようと思う事物をのみ考えたいと欲(おも)う。  ☆
吾等は自分の生活に何事が湧いて来ようとも               ☆
自己の心の力ことによってそれを支配することが出来るのである。     ☆

吾等は自己の思想を日に日に一層よきものに更新して           ☆、
創造を司っている宇宙の心が、吾等に一層幸福なる状態に         ☆
此の世界を創造して呉れることを希(こいねが)う。           ☆

吾等は至上の智慧に導かれんがために、真理についてのみ考えたく希う。  ☆
吾等はあらゆる智能に優った神的平和を獲(う)るために
信仰のことについてのみ考えたく希う。                 ☆



読者は今日から毎日或る閑静の時間を割き、次及び各章の終り毎に示してある
「真理に就いての瞑想」の言葉を日毎に順を追うて黙念せらるるが好いであろう。――


『吾れは今愛の霊に満たされている。
吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。
吾れは今心を開いて至上なるものの感情を胸に受けているのである。

吾れは今意識的に愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。
吾れは今神の御側(みそば)にはべって、
神が吾が力を更新したまうのを待っているのである。           ☆

吾が心は今神の上にのみ注がれている。
それ故に、吾れはすべての人々に対して、又自分自身に対しても平和なのである。

如何なる禍も自分の上には降り濺(そそ)がない。
愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。

吾れはいま吾がたましいが神の如きものであることを知るが故に、     ☆
無限なる者の力をうけて歩むのである。
吾らは主人の如く歩んで、決して奴隷の如くには屈従しない。       ☆

われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。
われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。

吾れは自己放棄の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかす。    ☆
今此の時、吾れは神の援助の慈手(じしゅ)が吾が上に来ている事を感ずるのである。  ☆
吾れは歓喜(かんき)に充たされている。                ☆

吾れは強し。吾れは今生命(せいめい)と愛とを吾が裡に感ずる。 』


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二日の経言(のりごと)
  「心の独立を得る言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年8月6日 頓首再拝>

[62] 「真理に就いての瞑想」〜その2
伝統 - 2014年08月07日 (木) 05時04分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P37〜39)より

(天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。
今吾等は新生したのである。

今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
自分は自分の生活の主人公なのである。)          〜この4行はお経で追加



吾れはいま力と勇気をもつて新生し、新しき日の仕事と生活とに向うのである。
吾れは今わが仕事にあふるる熱誠をもつて赴(おもむ)く。
吾れは歓びに満たされて進み行く。

そは吾れいま吾が求むるものは凡て神より与え給うと信ずるからである。
吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る ―― 此の感じを失わない。    ☆

吾れは今日(きょう)も終日(ひねもす)吾れを支えて呉れる無限全能の力を   ☆
わがうちに感ずるに相違ない。何が吾れに起つて来ようとも、其れに対する準備が ☆
与えられていないと云うことはあり得ない。

吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。
 (吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与えられているのである。)〜お経で追加
吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならば其の力は既に与えられているのである。

吾が内なる生命(せいめい)は、神と融け合つて一つとなつている。       ☆
『吾が内より生命(せいめい)の清水は無限に泉(いず)み出る』のである。   ☆

『真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給う』のである。 ☆
吾れは全能の力によって守護されているのである。

吾れは無限の力の泉を自己のうちに有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。
今日(こんにち)われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。

吾れは此の魔力の如き力が、吾が内に宿れる『無限なる者』の力で
あることを知るのである。

(吾れ此の『無限なる者』に感謝し奉る。)   〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の一日の経言(のりごと)
  「新たに生まれる言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年8月7日 頓首再拝>

[63] 「真理に就いての瞑想」〜その3
伝統 - 2014年08月08日 (金) 07時13分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P45〜46)より

吾れはいま吾が住む世界を一人(ひとり)の友であると観ずる。      ☆

み空の星は神がわれを看(み)まもりたまう瞳である。          ☆
梢(こずえ)に鳴る風の音(ね)や、小川の潺々(せんせん)たる囁(ささや)きは  ☆
神の吾れに告げ給う言葉である。                    ☆  

自然界の凡ゆる力は吾れに奉仕して呉れる生き物である。         ☆
吾(わ)が住む世界は最早未知の世界ではないのである。
吾れは此の世界を理解し、此(この)世界は吾れを理解している。

それ故に吾れは今より恐るるところはないのである。           ☆
吾れはいま宇宙に偏在する隠れたる力の泉を汲む。            ☆
吾れはいま宇宙の凡ての力と調和している。

吾れはいま真(まこ)とに『愛』そのもの『智慧』そのものに導かれて   ☆
平和の道を歩むのである。                       ☆


『爾(なんじ)水の中を潜(くぐ)るとも、吾れ爾(なんじ)と偕(ともに)にあらん。
爾(なんじ)河の底を歩むとも、溺(おぼ)るることなけん。
爾(なんじ)焔(ほのほ)の中を進むとも、焼かるることなけん』

と神は曰(い)ひ給うたのである。


吾れは今宇宙凡(すべ)ての力が神なる霊の活(はた)らきなりと知るが故に、  ☆
吾れに抗(さから)う力は何処(いずこ)にもないのである。

神はいま吾れを愛したまい、吾れを導きたまい、                ☆
吾れに新しき生命(せいめい)を与えたまう。

神は其の造り給いし物のすべてに一様(いちよう)に宿りたまう。        ☆
それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。

(吾れ観世音菩薩に感謝し奉る。)    〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の三日の経言(のりごと)
  「観音妙智観」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  全体として、神という表現が、「日々讀誦三十章經」では観世音菩薩という表現に
  置き換えられております。

  (  )で表示された最後の行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

  そして、特に<  >で囲った4行は、
  お経では、次のように表現されております。
    *谷口雅春先生著作集「人生は心で支配せよ」でもお経と同じ表現になっております。

    観音経には、
    『或(あるい)は怨賊(おんぞく)の繞(かこ)みて、各々刀を執(と)りて
    害を加うるに値(あ)わんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、ことごとく即ち慈心を
    起さん。呪詛(じゅそ)諸(もろもろ)の毒薬もて身を害せんと欲する者あらんにも、
    彼(か)の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて本人に著(つ)きなん。

    若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、
    利(と)き牙爪(げそう)の怖るべきあらんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、
    疾(すみや)かに無辺の彼方に走り去らん。』

    と書かれているのである。

    観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、宇宙を育みたまう大慈悲である。

           <感謝合掌 平成26年8月8日 頓首再拝>

[65] 「真理に就いての瞑想」〜その4
伝統 - 2014年08月09日 (土) 05時57分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P58〜59))

吾れは今目覚めて、わが魂の神的なる性質を意識する。               ☆
吾れはいま神にして吾等凡てのものの父なる者とのまつたき結合を意識する。     ☆

神は凡ての上に、また凡ての物に行(ゆき)亙(わた)りて、            ☆
そして吾等すべてに内在して坐(ま)しますのである。               ☆

此の高き自覚を得たるが故に吾れは、敢(あえ)て一切のもののうちの        ☆
最も善き物を要求することが出来るのである。

吾れはいま徒(いたづ)らに他(た)に力を求めない。
何となれば神こそ渾(すべ)ての力であることを知るからである。          ☆

吾れは人のうちに絶大なる力が宿っていることを敢て確認する。           ☆
なお吾れの秘(かく)されたる力の悉くは発(ひら)かれてはいないとは云え、    ☆
吾れは其の力を所有することを認めざるを得ない。                 ☆

吾れは吾れに内在する神の力の全部を次第に発揮しつつあるのである。

吾れは無限の生命(せいめい)と一体である。
吾れは無限の智慧と一体である。
吾れは無限の愛と一体である。

「父(ちち)」の所有し給う一切を吾れも亦所有するのである。           ☆
吾れは何者にも吾が魂の束縛せられないことを誇りとする。

しかも吾れは「父(ちち)」と                          ☆
吾れとが完き結合に於いて一体であることを知るが故に平和である。

「父(ちち)」と吾れとの結合を破るような感情が吾れに少しでもあったならば、   ☆
吾れは今それを永遠に抛下(ほうか)する。                    ☆

吾れは善その物と一体である。
吾が主(しゅ)、吾が神と一体である。                      ☆

吾れ今わが魂にこの感じを得せしめ給いしことを感謝します。            ☆


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の四日の経言(のりごと)
  「無限力を発揮するための言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年8月9日 頓首再拝>

[66] 「真理に就いての瞑想」〜その5
伝統 - 2014年08月10日 (日) 05時06分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P70〜71)

今吾等は上記の4箇条に就いて瞑想して見なければならない。

(以降が経言<のりごと>に該当する部分です)

吾れは今、『善』そのものと融合して一体であることを感ずる。
吾れは最早、『善』そのものと疎隔の感じをいだかない。

吾れは『父』の家に住む神の子としての権利を自覚して悦びに満たされているのである。☆
吾れは悪夢より目覚めて『父』の御許に往く。                   ☆
いま吾れは吾れに内在する神の生命(いのち)と愛と智慧とを明らかに知るのである。

吾れは吾が境遇と運命とが自己自身の思考の反映に過ぎないことをさとったのである。 ☆
それ故に吾れは最も善きものを、最もき潔(きよ)きものを、
最も眞(しん)なるものをのみ思うのである。

吾れは凡てのもののうちに、吾が求むる善きものを見出すことが出来るのである。

吾れは今、神の智慧と力とで満ち溢れている。
吾れは、今宇宙生命(せいめい)と一体なることを感じて歓びに満たされているのである。
・・・それ故に吾が求むる一切は必ず成就するのである。              ☆

此のことを感謝し奉る。                             ☆


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の五日の経言(のりごと)
  「善と融合する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年8月10日 頓首再拝>

[68] 「真理に就いての瞑想」〜その6
伝統 - 2014年08月12日 (火) 07時57分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P80〜82)

吾れは今、吾が本性が父とまったく同質であることを覚(さと)ったのである。    ☆
吾れは神が渾(すべ)てであり、従って神以外に何者も此の世に存在しないことを
知ったのである。

神は渾ての渾てであり、
而も吾が存在も否定することが出来ない ―― それ故に神と吾れとは一体なのである。☆

(吾れは存在する、それ故に吾れは神と一体なのである。)  〜お経で追加

一体なるが故に、吾れは神の本性(ほんしょう)より                ☆
その善きもの一切を頒(わか)ち与えられているのである。             ☆
神の有(も)ち給う総てのものを吾れも亦有つのである。              ☆

―― 此の不可思議さに吾が心はわなないているのである。             ☆

<此の不可思議さに吾が思想はその狭さを打ち破って、>   →お経では表現されていない
心は深き聖悦に満たされているのである。                     ☆

神は全能である、                                ☆
それ故に吾れも亦全能なのである。

吾れは凡てを知る智慧によって導かれているが故に、吾れも亦全智なのである。
神は疲れたまうことなく、倦み給うことなきが故に、
吾れは決して失敗することはないのである。                    ☆

吾れは神が必ず吾が力を更新したまう事を信ずる。                 ☆
吾れは神に吾自身をうちまかす。
それ故にシオン山(ざん)の動かざるが如く、吾が心も不動である。         ☆

<吾等は此処まで黙想して、自己に今ぞ発(ひら)かれたる不思議なる力の偉大さに
ついてしみじみ瞑想するが好いであろう。吾等の力の源(みなもと)は無限である。
此の源から来る力は欠乏しない。欠乏は吾等が此の源に供給を仰がないために来るのである。

次(つ)いで吾等は自己が神の凡(すべ)ての属性を頒(わか)ちもつが故に、
自己の心ほど大なる心は宇宙の何処(いずこ)にも存在しないことを瞑想するが好いであろう。

果(はた)して然(しか)らば吾等は何の為(た)めに他(た)の人たちの批評の前に萎縮する
必要があろうぞ。また何の為(た)めに他(た)の人たちの非難や、伝統や、偏見を
恐れる必要があろうぞ。>  

                〜 < >内の文章は、お経には表現されておりません。


吾れはいま他(た)の人たちの偏見や非難や時代の伝統から全然自由である。
吾れはいま自分自身の判断と自分自身の標準とを持つのである。

吾れは人間である ――                             ☆
(人間は神の子である。)                 〜お経で追加
吾れは人生の主である。                             ☆

吾れは他の人々に人間は斯くあるべきとは言葉では語らない。
吾れは吾が生活を以つて人間は斯くあると示すのである。              ☆

吾れは今、自分の全意識の解放を得て歓喜勇躍の感に堪えない。           ☆
自己が神の属性を頒(わか)ちもつと云うことが歓びでなくて何であろうぞ!――   ☆

吾れは永遠である。
吾れは本性に於て神とは分ちがたきものである。

吾れは真理である。
吾れは生命(いのち)である。                          ☆
吾れは智慧である。

吾が内に宿る人間神は完全である。                        ☆

それ故に吾れは此の完全さを日毎々々に発揮するのである。
吾れは生ける神の子である。

吾れ今此の真理に目覚めしめ給いしことを感謝しする。               ☆



注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の六日の経言(のりごと)
  「人生に主となる言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

           <感謝合掌 平成26年8月12日 頓首再拝>

[70] 「真理に就いての瞑想」〜その7
伝統 - 2014年08月13日 (水) 07時58分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P99〜100)

吾れは今神 ―― 常に吾が求めを聴いて応え給う父 ―― に感謝します。      ☆
吾が求むるに先だちて吾が語らざる言葉をききて応え給うあなたに感謝します。     ☆

吾れは今わが住む世界が吾が気分と思考との反映である事を知ったのである。      ☆
此れを自覚するが故に、吾れは今よりつとめて美しきもの、善なるもの、        ☆
真理なるもののみを思考し、語り、そして聞こうとするのである。           ☆

吾れは神なるあなたに『吾と神とは一つなり』と云う真理の理由(ことわり)を     ☆
知らしめ給うことを感謝します。
そして此の真理を常に心に把持してあなたに愈々近づかせて頂きましょう。       ☆

・・・神との一体感によって、吾が思考が正しくなり、吾が感情が正しくなり、     ☆
従って吾が思考と感情との反映なる吾が住む世界が正しくなりつつあることを      ☆
吾れは信ずる。                                  ☆

吾れはいま、歓びと此上(このうえ)なき平和とに満たされている。          ☆
『天に於ても地に於ても、吾れは総ての力を与えられ』ているが故に          ☆
吾れはいま創造の歓びを感じています。                       ☆

―― 神の国の永遠の構図に於て父と偕(とも)に創造するの喜びを感じています。   ☆

吾れはあなたに、生命(せいめい)と永遠の愛とを与え給いしことを感謝します。    ☆


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の七日の経言(のりごと)
  「感情を正しくする言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年8月13日 頓首再拝>

[72] 《「真理に就いての瞑想」〜その8》
伝統 - 2014年08月15日 (金) 08時50分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P111〜112)

吾れはいま吾が境遇と運命とを自己の思考によって支配し得ることを知ったのである。

吾が心情が正しくば吾が思考する所は正しく、                    ☆
吾が思考が正しくば吾が言葉は正しく、                       ☆
吾が言葉が正しくば吾が住む世界も正しくなることを知ったのである。         ☆

其れ故に吾れは今後吾が唇に封印して敢て悪をば語らない。
吾れは吾が思想と言葉とにいちいち気をつけようと思うのである。           ☆
吾れは今より禍(わざわい)のことを考えまい。                   ☆

吾れは禍のことを語らない。
吾れはまた禍のことを決して耳にしないと決意したのである。

他(ひと)を審判(さば)こうとする吾が性癖は今まったく自分から離れたのである。  ☆
悪を見出す吾が習慣はもう消滅して無くなったのである。

吾れは最早、自分を、そして自分の友達を、それから自分の職業を、
悲観的な言葉をもっては評さない。

吾れは楽観そのものである。
希望そのものである。
吾れは深き歓びに満ち溢れている。

吾れは万人に幸福を与え、万物を祝福する。
吾れは凡ての者に与える勇気である。                        ☆

「吾が言葉は肉となりて」実在の世界に姿をあらわす。                ☆

《此処まで黙誦(もくしょう)して、吾等は自己の言葉が創造作用を有する事をつくづく
 思念し、自己の境遇に対して、欲する所をもって命令を下すのである。而(しか)して
 『此の事は実現する』と確信に満ちた言葉を発するのである。

 此の言葉は創造作用ある言葉である。従って欲する事物はやがて必ず自己の周囲に
 集まり来たらざるを得ないのである。而して吾等は次の如く感謝する》

・・・此の確信を与えたまいしことを父なるあなたに感謝します。           ☆

<吾れに真理を教えたまい、凡(すべ)てのものを支配する力を与えたまいしことを
感謝します。>     
             〜 < >内の文章は、お経には表現されておりません。


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の八日の経言(のりごと)
  「境遇と運命とを支配する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  《 》で表示された5行は、お経では次の表現となっております。

  《吾れは今実現せんとする事物に対して『此の事は実現する』と
   確信に充ちた言葉を発するのである。

   此の言葉は創造作用ある言葉である。
   従って欲する事物はやがて必ず自己の周囲に集まり来たらざるを得ないのである。》

           <感謝合掌 平成26年8月15日 頓首再拝>

[74] 《「真理に就いての瞑想」〜その9》
伝統 - 2014年08月17日 (日) 07時09分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P117〜118)

吾れは吾が思考のうちに広大無辺なる宇宙を蔵する。              ☆

星をみつめて佇む吾れは見詰めらるる星よりもなお広大なのである。
空の星は吾れのうちに星を理解する類いなき能力のある事を見出すだろう。    ☆
吾れは空の星以上のものである。

何故(なぜ)なら吾れは彼等を理解すると同時に自分をも理解するからである。
吾れは天にいます神々の如くに造られたのである。               ☆
吾れは星の軌道を闊歩する偉大なるものなのだ。

吾れは主の如く永遠の道を歩む者である。                   ☆
吾れ心を有するが故に、吾れは世界の王者である。
いま吾れは吾が仕事の上に帝王としての第一歩を踏むのである。         ☆

吾れは星よりも大なるが故に此の宇宙を造れる力と同じものなのでなかろうか。  ☆
然り、吾れは宇宙を造れる力と一体である。                  ☆
いま吾れは凡ゆる種類の恐怖と弱小と卑陋(ひろう)とを超越して生活する。

吾れは空の星に比肩せらるべきものである。

吾れは、大地をつくり、天空を支えたまう神が、われを安固(あんこ)に
保護したまうことを信ずる。                         ☆
それ故に吾はこころ安らかである。

地の造りぬし、天の造りぬし主と吾れはまことに一体である。          ☆

(御親神様に感謝いたします。)       〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の九日の経言(のりごと)
  「自己を偉大にする言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年8月17日 頓首再拝>

[76] 《「真理に就いての瞑想」〜その10》
伝統 - 2014年08月20日 (水) 06時02分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P124〜126)

読者は上述せる真理に就いて瞑想せらるるが好いのであろう。
上述せる所は唯、真理の輪郭に過ぎない。
此の輪郭の中(うち)に読者自身の瞑想を盛らるるが好いと思う。

読者は自己の中(うち)に宿る神 ―― 無限我 ―― の偉大さに就いて、心の描き得る
最高度まで自己の思念を高めなければならない。若(も)し無限我に到達せば、決して
力尽きることも、失敗することも死ぬこともないのである。

『吾れは無限の生命、無限の愛、無限の智慧なり』と思念せよ。
『吾れと父とは一体なり』と思念せよ。
常に吾等は無限者に保護されているのである。
いまより此の信念を実行に現わすように決意せられよ。

約翰(ヨハネ)伝第十章の十九より三十八までを読まれよ。
あの『不滅の愛』の四行を読まれよ。

そして読者は心豊かに真理をみたして、愈々(いよいよ)みちあふれる信念が高まった時、
端坐のまま瞑目して、自己の耳に聴こえる程の声で、次の如く誦(しゅう)さるるが好いのである。

声を発するのは言葉の力を利用するのと、雑念を声に奪ってしまうためであるが、
時と場合と気分とに応じて例にならって黙想せらるるも好いのである。

また『真理に就いての瞑想』を行なわれるあらゆる場合を通じて、黙念が却(かえ)って雑念を
混じえるような時には、黙念に代うるに、自己の耳に聞こえる程度の音誦(おんしょう)を
せららるも好いのである。

特に調子(リズム)を帯びた急調で繰返して信念を高むる真理を音誦せらるるならば
雑念の発生を防ぎとめて深き信念に到達し得ることのあるものである。

近頃、仏蘭西(ふかんす)人クーエ氏の創唱にかかる『クーエ療法』なるものは、
病気に対して『去れ(サ・パス)々々(サ・パス)』なる語をリズムを帯びた音調で
繰返すことによって著しき治療的効果をあげているが、此の治病的効果は言葉の力を
証明するものとして価値ある一例である。

吾等の瞑想 ――

(以降が経言<のりごと>に該当する部分です)


吾が生きている生命(せいめい)は無限の生命(せいめい)である。
それ故に吾は完全に健康である。

吾がいだいている愛は無限の愛である、
それ故に吾れは完全に幸福である。

吾が心に宿る智慧は無限の智慧である、
それ故に吾れは平和であり調和である。

今われは平和と、安心と、及び漲る力の感じとに満たされている。         ☆

吾れは神の無限の生命(せいめい)の内に生きている。              ☆
無限の愛の内に生きている。                          ☆
無限の智慧の内に生きている。――                       ☆


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十日の経言(のりごと)
  「完全健康の言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年8月20日 頓首再拝>

[79] 《「真理に就いての瞑想」〜その11》
伝統 - 2014年08月22日 (金) 08時59分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P131〜133)

吾れは善事を求める。善事をのみ求める。                   ☆
吾れは万物のうちに、そして万人のうちに神の『善』の宿るのを見る。

神は『善(ぜん)』である。
そして吾が求むるもの、吾が思うものを、何よりも先ず与え給う。

吾れは神を吾が『愛深き父』『優しき救い主』だと認める。
吾れは凡てのうちにやどる神の調和と、宇宙にみなぎる愛と心とを感ずる。    ☆
神は凡(すべ)ての者の父でありたまう。                   ☆

それ故に吾れは万人を吾が友、吾が兄弟であると観ずる。
誰も此の世界に吾れに敵対する者もなければ、
吾れも亦此の世界の誰にも敵対しないのである。                ☆

全人類は吾が親戚であり、吾れは全人類の友である。

吾れはいま万物、万人および宇宙を司どる法則が
吾が心を反映するものであることを知るのである。
―― それ故に、吾れは高き善き想念のみを心に思いつつあるのである。     ☆

吾れはいま最も輝かしき信仰と、朗らかな情緒とで満ちあふれている。      ☆


<此処まで黙念せられたならば、諸君は自己の肉体及び運命が一層よくなると云う
思想をもって心を満たさるるが好いであろう。

若(も)し諸君が病気であるならば病気とは誤れる思想の産物である所以(ゆえん)を
思念せられよ。そして出来るならば、病気を引(ひき)起こした心的原因を探し出して、
それを外なる暗闇(くらやみ)に抛(な)げ出(い)だされよ ――

即ち其れらの原因が諸君の上に何の力も及ぼし得ない物であること、
即ち諸君にとって無(む)であることを強力に思念でられよ。>


吾れは『悪』に本来力なきことを知る。
『悪』の有(も)てる力は吾れがそれに賦(あた)えた力のほかには何物もないのである。

吾れはいま『悪』に与えた力を取り返すのである。
即ち『悪』が実在すると云う思想を撤回する。
それ故に『悪』はいま本来の『無』に帰したのである。

吾れは円満完全なる神の子である。                         ☆

吾れは健全なるものと調和せるもののみを思考する。                 ☆
吾れはいま健全と調和とのみを宇宙より受けるのである。
宇宙の心は吾が思考に全く相応ずる事物を造って呉れつつあるのである。        ☆

吾が思考は完全円満である。                            ☆
吾が信仰は確固不壊である。

吾れは自己が完全に健康であることを思考する。
いま、吾れは斯(か)く癒されたのである。                     ☆

つねに吾が求めを聴き給うわが父に感謝致します。                  ☆

いまより吾れはわが父と偕(とも)に語り、わが父と偕に歩む。            ☆
それ故に吾れは吾れを信じ、父を信じ、総てのものを信ずる。             ☆


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十一日の経言(のりごと)
  「善と健康とを実現する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

           <感謝合掌 平成26年8月22日 頓首再拝>

[81] 《「真理に就いての瞑想」〜その12》
伝統 - 2014年08月25日 (月) 07時45分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P136〜137)

いま吾が生活を支配する法則は愛と信仰と繁栄とそして真理とである。        ☆
吾れは何の間違もなしに吾が未来を透見し得る ―― 何故(なぜ)なら吾れは今日(こんにち)
未来の刈入のために善き種子(たね)を蒔きつつあるからである。

われは善き収穫を預期する。
それ故吾れは平和と信仰とのうちに晏然(あんぜん)としているのである。
吾れは神の手に吾れを委(ゆだ)ねる。                      ☆

神の法則は愛である。
(愛なる神に感謝致します。) 〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十二日の経言(のりごと)
  「愛と繁栄とを実現する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年8月25日 頓首再拝>

[83] 《「真理に就いての瞑想」〜その13》
伝統 - 2014年08月28日 (木) 07時52分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P144〜145)

吾れは知る、神は生命(せいめい)であり、愛であり、そして智慧であることを。    ☆
吾れと神とは一体であるが故に、吾れは知る。                    ☆
此の生命と愛と智慧とが吾がうちに宿っていることを。                ☆

吾が裡(うち)には広大なる信仰が植えつけられているのである。
吾れは無限愛の持主なる神より流れ出(で)たところの新しい信頼の念を感ずるのである。☆

吾れのうちに、吾れの上に、吾れの周囲に、
吾が隅々に行き亙(わた)って神の愛は宿っているのである。             
神のすべての力すべての愛は吾れに与えられているのである。

吾が心は浄まって、                                ☆
吾れは今神の与えたまう最高のものを受けることが出来るのである。          ☆
吾れは今深き歓喜と感謝とに充たされながらそれを受けるのである。          ☆    

吾が求めに常に応えたまう吾(わが)父なるあなたに感謝致します。


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十三日の経言(のりごと)
  「信仰と愛を昂(たか)める言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年8月28日 頓首再拝>

[87] 《「真理に就いての瞑想」〜その14》
伝統 - 2014年08月30日 (土) 07時22分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P151〜152)

吾れは創造者たる宇宙の心と一体である。                     ☆

宇宙の心は吾れに依って完全に自己を表現しようとしているのである。
斯(か)く吾れは神と偕(とも)に創造する使命を与えられたのである        ☆
から歓ばずにはいられない。                           ☆
今、吾れは創造せんとする理念と構図でみたされている。

吾れは一切のものを造りたまいし智慧そのものと一体である。
吾れは何を思考し何を造るべきかを宇宙の心に教えられるのである。
吾れはいまより神の霊に導かれて巧みにそして真実に創作することが出来るのである。 ☆

吾れは新しき力と新しき能力とを感ずる。
吾れは心も肉体も新生したのである。
吾れは歓びと希望とに雀躍(こおどり)している。                 ☆

吾れは智慧そのもの真実そのものが自分に宿っていることを感ずる。         ☆
それ故に吾が創造力は完全である。

(創造者たる宇宙霊に感謝し奉る。)  〜お経で追加

注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十四日の経言(のりごと)
  「新しき計画を生む言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年8月30日 頓首再拝>

[92] 《「真理に就いての瞑想」〜その15》
伝統 - 2014年08月31日 (日) 06時19分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P159〜160)

吾れはいま見えざる力と結ばれている。                      ☆
吾れは父と一体である。                             ☆

父のもち給える一切のものを吾れも亦有(も)つのである。             ☆


<『吾れは吾が目を丘にまで挙(あ)ぐ ―― 吾が援(た)けは其処より来(きた)る』>

                〜 < >内の文章は、お経には表現されておりません。


天地をつくりたまいし父より吾が援(たす)けは来(きた)るのである。       ☆
父の力はまた吾が力である。                           ☆

吾れは神の子である。
吾れは神の有(も)ちたまえる一切の物の継承者(けいしょうしゃ)である。     ☆

神は力そのものである。
それ故に吾(われ)も亦力そのものである。                    ☆

神は智慧そのものである。
それ故に吾れはあらゆる場合に神の智慧に導かれる。                ☆

神は貧しさをしらない。
其れ故に吾れも亦貧しさを知らない。                       ☆

神は愛そのものである。
其れ故にわれは慈悲と愛とにみたされているのである。               ☆

神が満たしたまわない欲望は吾れに一つだにないのである。
神の目は雀をすら見まもり給う。
それ故神が吾れを見まもり給わない筈はないのである。

吾れは吾がうちに宿れる神性を自覚して歓びにたえないのである。          ☆
吾れは神と偕(とも)なるが故に、如何なる禍(わざわい)をも恐れない。
常に永久に吾れは与えられて不足すると云うことはないのである。


<此の高き意識に到達したる時、諸君は自己の欲する事物を心に描いて、
宇宙の心にそれを印象し、必ずそれが与えられると預期するのである。――
此の意識をしばらく継続して、心の奥底からそれを感ずるようにし、
そして黙想を次の如く継続する。>

             〜 < >内の文章は、お経には表現されておりません。


吾が求めは今なされたのである。                         ☆
吾が求めは今なされたのである。

吾が求めを常にききたまう吾が父に感謝します。                  ☆


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十五日の経言(のりごと)
  「自信力を増大する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

           <感謝合掌 平成26年8月31日 頓首再拝>

[96] 《「真理に就いての瞑想」〜その16》
伝統 - 2014年09月02日 (火) 03時04分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P169〜171)

『主は吾が光であり給い、吾が救いでありたまう。されば吾れ誰をか恐れんや。     ☆
主は吾が生命(いのち)の力であり給う。されば吾れ誰をか恐れんや。』        ☆

吾れは吾が経験する一切の事物のうちに吾れを導き給う神を感ずる。
神が吾れを護り給うとき、吾れに何等の災厄もないのである。
神がわれを慰めたまう時、吾れに何等の悲しみもないのである。

吾れは神の曇りなき愛、完たき心にいだかれているのである。
吾れは神の保護を漏れる恐れを知らない――神の在(い)まさざる所はないからである。

吾れは『善』そのものに取り巻かれているのである。
吾れは『善』そのものの懐(ふところ)にいるのである。

吾れを取り巻きて、吾がうちに、そして吾がうちに、周(あま)ねく、         ☆
神の愛は在(まし)まして、吾れを見捨て給わないのである。             ☆

吾れ闇を歩むとも、神は吾が光であり給う。
吾れ海を航すとも、神は吾が羅針盤にてあり給う。

吾れ孤(ひと)りいるときも、神は吾が伴侶(とも)にてあり給う。

されば吾れ誰をか恐れんや。
吾れには恐るる所のものも人もないのである。

吾れに死は来たらない。生命(いのち)のみが凡てであることを知るからである。    ☆
吾れは陰影(かげ)の谷を歩むとも生命(いのち)はつねに吾れに附き随う。      ☆

吾れは禍を恐れない。                               ☆

(禍と見ゆるものは進一歩の過程である。)〜お経で追加

吾れは生命(いのち)、神は生命(いのち)、凡ては生命(いのち)であるのである。  ☆
吾れはいまより信仰と、自信力とを有(も)って進み行くのである。          ☆

(神の恵み深き護りに感謝いたします。)〜お経で追加


*:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十六日の経言(のりごと)
  「災厄除けの言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月2日 頓首再拝>

[98] 《「真理に就いての瞑想」〜その17》
伝統 - 2014年09月03日 (水) 08時33分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P190〜191)

吾れは恐れない。
神はすべてであり給う。

神以外のものは何も存在しないのである。
神は善なるが故に悪は決して存在しないのである。

神は護り給う。
神は養いたまう。
神は吾れを持ちたまう。                            ☆
神は吾れを愛したまう。

如何なる禍(わざわい)も吾れに来(きた)らず、
如何なる疫病(やまい)も吾が家には見舞わない。

神は吾が行くところに常にその天使(つかい)をつかわしたまいて
吾れを看(み)まもり給うのである。

吾れは真理を自覚したるがゆえに自由である。
吾れは父と偕(とも)に人生の行路を歩む。                   ☆

吾れは『善』と『真理』とのみを見る。
吾れはそのほかの何物をも見ないのである。

神は凡(すべ)てでありたまう。                        ☆
吾れは終日(しゅうじつ)吾がたましいの内にかく叫ぶのを聞くのである――    ☆

吾れは心のうちに病いも貧しさも恐怖も考えない。
吾れはただ真理と愛と生命とのみを考える。―― と。              ☆

一切のものは神のものである。
(吾れは神の子である。)             〜お経で追加
一切のものは吾がものである。                         ☆

神の力のみが実在する力である。
父のもち給う一切のものは吾がものである。                   ☆

吾れ一切のものを父より承(う)けたるが故に吾れは全てである。         ☆

吾が父に感謝いたします。                           ☆


*:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十七日の経言(のりごと)
  「恐怖を消滅する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月3日 頓首再拝>

[106] 《「真理に就いての瞑想」〜その18》
伝統 - 2014年09月05日 (金) 01時59分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P202〜206)

神は霊の世界にまします。霊の世界に『悪』は無い。吾れはもう悪を恐れない。
何故(なぜ)なら神は吾れと偕(とも)にいますからである。

如何なる禍も吾身(わがみ)に振りかかっては来ないし、
如何なる疫病(やまい)も吾が住家(すみか)には来らない。

神は吾が往くところに常にその使者(つかい)を遣わして吾れをまもり給うのである。   ☆
神の使者(つかい)の手は吾が身を支えてい給うが故に、                ☆
吾れを躓かしめる一箇の石だもないのである。

吾れはまったき愛に懐かれて恐怖心一切は消滅したのである。
吾れは最高のもの至美(しび)のもののみを心に思うが故に、              ☆
恐怖心は吾れに近寄らない。


<此の時不安一切を撃滅するように心中に主張するのである。
不安を撃滅する道は如何? 恐怖せざるにある。>


失望よ、恐怖よ、吾れは今汝を正視して汝を拒絶する。
吾れは汝以上のものである。
汝は自分に何の関係もないのである。

吾は自分を憐れまない。
何故(なぜ)なら自己憐憫は恐怖心を一層増大するものであるからである。


<仮りに読者が恐るべき病気にかかっていると云う感じがするのであるならば、それを
恐怖することは病気を一層悪くするに過ぎない。吾れ健全ならんと欲すと決意した人の
信念と『真理の瞑想』との前には如何なる病気も屈服するのである。

そうして健康を回復する唯一の道は、恐怖心を停止し、
健全にして希望に満ちた事のみを思考するば好いのである。>


吾れは天に於いても地に於いても、神の全ての力を与えられているのである。
吾れは此の吾が内に宿れる神の力を使用し、                      ☆
そして神に感謝する。                                ☆

自己憐憫及び恐怖の情(じょう)は最早われに対して何の力もないのである。
吾れは何人(なんぴと)も自分を憐憫することを許さない。               ☆
何故(なぜ)なら他(た)から憐れまれるのは自分の弱さを肯定することである。

自分は神の子であるが故に決して弱さをもっていないのである。
自分は完全に神と結ばれているが故に、吾は決して恐れはしないのである。


<若し読者が事業の失敗を懸念する場合にも、同様の瞑想をもって恐怖心を撃滅するが
好いのである。失敗を恐れれば失敗は来(く)るのである。吾等は不安し恐怖するからと
云って、そのために何一つ善事が出来る訳ではない。それは万一の場合の力を殺(そ)ぐ
に過ぎない。>


(吾が事業は神に導かれて必ず成就するのである。
吾が事業に必要なる一切は、必要な時必要な場所に於て与えられるのである。
否既に実相の世界に於て与えられているのである。)            〜お経で追加


野の百合をすら装わせ給うた神が吾がことを看まもっていたまうのである。
それ故此の事が失敗したのは一層善きことが来たらんがためであると、          ☆
吾れはそれを安心して確信することが出来るのである。


<著者は現在の失敗が唯、一層大なる成功の序曲であるような実例を多く知っている。
時として、在来から鬱積していた失敗、悲哀、不調の思考が破産の火の手又は
洪水によって一掃されて、次なる大成功のために道を拓いたと云うような例まであるのである。

こうして幾百千の人々は一層高く攀(よ)じのぼらんがために一(ひと)たびはドン底へ
落ちたのである。失敗の恐怖は何等のたすけにならない。>


信念をもて。此れが最も必要なことである。                      ☆
自己を信頼せよ。他(た)を信頼せよ。未来を信頼せよ。神を信頼せよ。         ☆
勇気と信念とさえあれば其の戦(たたかい)は既に半ばは勝ったのである。        ☆

決断、意志の強さ、勤勉は残りの半分である。                     ☆

<出来ると思うことは出来るのである。>        

吾れは成功する力があると知るが故に吾れは成功するのである。             ☆

吾れは成功である。                                 ☆
吾れは信念である。                                 ☆
吾れは勝利である。                                 ☆


<此のとき読者は自己の欲する積極的事物を心に描いて暫時それに思念を集中せらるるが
好い。そして唯(ただ)最善最上のもののみを獲(まも)るのだと決意せられよ。

諸君がそれを如何にしたら得られるか知らないにしても、諸君のうちには、それを知って
いる全智が宿っているのである。その全智に信頼するが好い。
全てを知り給う神の叡智に導かれようと決心せられよ。

神の叡智は諸君の心に採(と)るべき道を直覚的に囁(ささや)かれる。
健康、富、愛その他欲しい思う善き物を得るために、信念をもって
新開拓の第一歩を踏み出されよ。

諸君のうちに宿り給う神が、最上の道に諸君をすぐ導いて下さるのである。
扨(さて)、此の欲する事物を心に描いて思念を専注しながら念ずる。>


<此のことを吾れに来らしめ給え、可能の最善の形に於て来らしめ給え。
吾れを神の叡智によって導きたまえ。吾れを栄えしめ給え、>


(信仰は世界を支配する勝利者である。
吾が信仰は宇宙にひろがる大きさを有(も)っているのである。)  〜お経で追加

あなたは何よりも先(ま)づ吾が求むるものを与え給います。              ☆

吾れの関係せる事物はすべて都合よく行くことを感謝します。              ☆


<此の瞬間、自己に神の叡智の与えられたことを暫時思念し、『聖旨(みこころ)に
かなわばこの事を成らしめ給え』と心に歌いながら、現実の仕事に帰れば好いのである。>


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十八日の経言(のりごと)
  「萬成就の言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月5日 頓首再拝>

[109] 《「真理に就いての瞑想」〜その19》
伝統 - 2014年09月06日 (土) 08時01分


        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P213〜214)より

吾れはいま最(い)と高き者の奥殿に這入(はい)ったのである。           ☆
吾れは神の前(まえ)にいて平和である。                      ☆

此の世のものは今わが眼界にない。
吾れは霊の奥殿にとじこもるっている。                       ☆
われは渾(すべ)てなる者に触れている。                      ☆

吾れはそこから生命(せいめい)と平和と豊富との泉を汲むのである。
吾れは神のみ側(そば)に侍(は)る ―― 神は吾が力を新生したまいつつある。   ☆

吾が心は開かれ、吾がたましいは啓示を待つ。
吾が肉体は神の無限の治癒力(ちゆりょく)に触れている。              ☆

此の霊の静かなる奥殿に吾れは恐れなく、いとやすらかにいるのである。
如何なる禍も吾れには降りかかることが出来ない。
如何なる悪も吾を悩ますことは出来ない。

何故(なぜ)なら悪は実在の力ではなく、吾れは悪を恐れないからである。       ☆

吾れは唯善のみを見、善のみを聞くのである。
吾が前にはすべてのものは美(うる)わしくすべてのものは善である。

吾れは神の有(も)ちたまう新生力と創造力にうちまかせる。
吾れは神を信じて法悦に満たされている。                      ☆

神に感謝をささげます。                              ☆


*今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の十九日の経言(のりごと)
  「神と融合するための言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年9月6日 頓首再拝>

[114] 《「真理に就いての瞑想」〜その20》
伝統 - 2014年09月07日 (日) 07時34分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P222)より

1日3回、きまった間隔をおいて、3、4分間まったく静かな休養の時間を見出して
諸君は自己自身に対し以上の如く繰返されよ――

『神と偕なるが故に一切のこと能(あた)わざるなしである。
われは如何なる禍をも恐れない。神われと偕にいますからである。
われは神を信ずる。神を愛する人に対しては、一切萬事都合よく行くのである。
吾れは新大陸を発見しつつあるのである。』                      ☆


こう断乎として決然とした態度で自己自身に云うのである。
諸君はこれによって、法則をして諸君の都合よきようにめぐらしめる事が出来るであろう。


*今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十日の経言(のりごと)
  「萬能の自信を強むる言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

 さらに、1段落目と2段落目の文章は、お経では、逆になっております。
 すなわち、お経では、冒頭は、2段落目の文章から始まり、
 次に1段落目の文章がつながります。

           <感謝合掌 平成26年9月7日 頓首再拝>

[116] 《「真理に就いての瞑想」〜その21》
伝統 - 2014年09月08日 (月) 08時41分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P232〜233)より

<『吾れを信ずる者は、吾が為せるところの業(わざ)を彼もまた為し得べし。』
吾れはいま此の言葉を自分の霊性に就いて言われたる言葉だと知る。>


吾れは吾がうちに内在するキリストを信ずる。                    ☆
吾が内に希望の光明なるキリストが宿りていたまうことを信ずるのである。       ☆
吾れは吾れにやどる高き霊性を信ずる。                       ☆

吾れは吾が内に生命(いのち)と、愛と自由の神が宿ってい給うことを信ずる。     ☆


<吾れは主が云いたまえる『吾れよりも大なる業(わざ)を爾(なんじ)は為すことを得ん。』
と云う言葉の真(まこと)なることを信ずる。>


吾れは『天に於ても地に於ても凡ての力(ちから)を与えられ』ているのである。    ☆
それゆえに吾れは吾が信じて云える言葉のままに
吾が求むるものが実現することを信ずる。

今日(きょう)より吾が言う言葉は神の威力をもつ。                 ☆
『吾が求むるごとく、これを吾れに為したまえ。』                  ☆
既に神は吾が求むる如く吾れに為したまうたのである。                ☆

吾れは歓びと感謝に満たされているのである。                    ☆
神は導き給う。神は栄えしめ給う。神は祝福したまう。
神は吾れをして全人類に対する光明とならしめ給う。                 ☆

何故(なぜ)なら吾れは神とそして神の約束とを信ずるからである。

生命(いのち)と信仰とを与え給いし神に感謝します。                ☆


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十一日の経言(のりごと)
  「言葉の実現力を昂むる言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

           <感謝合掌 平成26年9月8日 頓首再拝>

[118] 《「真理に就いての瞑想」〜その22》
伝統 - 2014年09月09日 (火) 08時55分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P239〜240)

吾れはいま吾が生命(せいめい)にどんな欠陥も感じられない。
吾れはいま自分の認めたところのもののみ実在であることを知ったのである。

吾れは最早禍(わざわい)と生命の弛緩とに本来なき所の力を賦与しない。

吾れは悪と不幸とを見ない。                            ☆
吾れは悪と不幸とを聞くまい。                           ☆
吾れは悪と不幸とを語るまい。                           ☆

誰も自分に対しては不正と不完全とに就いて話を持ち出すことは出来ないのである。
何故なら自分は不正と不完全とを聴かないからである。

吾れは消極的な思想や暗示に感じない。
かかるものは自分を動かすことは出来ない。                     ☆
何故なら吾れは其れら以上のものであるからだ。                   ☆

吾れは、あらゆる弱さと小ささとを踏み超えて了(しま)っている。          ☆
いま、吾が心は積極的である。
吾れは果断と、勇気と、そして神、人間、及び自己に対する信頼の念で満たされている。

吾が為す所のものを吾れは威力をもってなすのである。                ☆
吾が云うところの言葉を吾れは断固たる態度で云うのである。             ☆
吾れは強く、力に充ち、沈着で、平静である。                    ☆

吾が背後には神の無限の生命(せいめい)、無限の愛、無限の智慧がひかえている。   ☆
それ故に吾れは強き自信力にみたされてゆるがないのである。             ☆

『吾れは天に於ても地に於ても、全ての力(ちから)を与えられているのである。』   ☆

(吾が御親の神に感謝いたします。)    〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十二日の経言(のりごと)
  「消極的暗示を排撃する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月9日 頓首再拝>

[119] 《「真理に就いての瞑想」〜その23》
伝統 - 2014年09月10日 (水) 07時08分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P252〜253)より

吾れはいま信仰によって不安なき平和のなかに静座している。            ☆
吾れは恐れない。
吾がうちには無限の愛と信仰とが宿っているからである。

此のやすらかさ、 此のやすらかさ、 此のやすらかさ!              ☆
此の言葉の甘さ! 吾れはやすらかなり!                     ☆
吾れは肉体的にもやすらかなり、吾れは精神的にもやすらかなり。          ☆

吾れと父と一体なるが故に、無限の霊的平和のうちに坐するのである。        ☆

『それゆえに神の国の民(たみ)のために一つの安き所残されたり』         ☆

吾れは意識の無限伸展を感ずる。
われはいま無限の生命(せいめい)と融会している―― それ故に、吾れは何事についても
常に神に導かれるのである。

吾れは小さき自我ではない。                           ☆
より大(おおい)なる真の自我である。
何故なら吾れは無限の生命及び無限の智慧と一体であるからである。

吾れは此の静かなる時間より、吾れを導き吾れを鼓舞したまう無限の智慧と      ☆
信仰との光をたづさえて、浮世の仕事に帰り行くのである。             ☆

無限の智慧と信仰とを与えたまえる吾が父なる神に感謝します。           ☆


*今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十三日の経言(のりごと)
  「一念不動の言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年9月10日 頓首再拝>

[120] 《「真理に就いての瞑想」〜その24》
伝統 - 2014年09月11日 (木) 08時18分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P258〜259)

<諸君が時として病的思考の虜(とりこ)となったように感ぜらるる場合は、
しずかに静謐(せいひつ)の場所に退(しりぞ)いて霊と霊的実在とについて
静かなる瞑想と凝らされよ。―― > 

吾れは霊である。
吾れは生命(せいめい)である。

吾れは神のうちに住む。
神のほかに何物も存在するものはない。

如何なる禍も霊なるものの上には降りかかって来ないのである。            ☆
<吾が心は正しい。>

(吾れは常に心のうちより神を放ちはしないのである。)〜お経で追加

『神に、その心を注げる者を神はまったき平和にまもり給わん。』           ☆
自分は此のことを確信するが故に吾が心は平和である。                ☆

<―― 例えば斯くの如き思考を心中に繰返し肯定するのである。>

(常に吾れを護り給う御親の神に感謝いたします。)〜お経で追加



注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十四日の経言(のりごと)
  「心の平和を保つ言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月11日 頓首再拝>

[122] 《「真理に就いての瞑想」〜その25》
伝統 - 2014年09月12日 (金) 06時02分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P263〜264)より

吾れは今日(こんにち)、至上の叡智に対して鋭敏な感受性を持っている。       ☆
――それ故に自分及び他にとって最上のものを選ぶことが出来るのである。       ☆

吾れは此れを選ぶ。(その内容を思念する。)                    ☆
吾れは此(これ)を成就するために猛進する。                    ☆

吾れは今日(こんにち)、人及び境遇を恐れない。
吾れは環境をつくるのである。
吾れは吾が運命の主人である。

われは何を意志するも為すも自由である。
吾れは吾がうちにはたらく神の力を感ずる。
吾れは微妙な力を呼吸する。                            ☆

吾が鞏固(きょうこ)なる意志は一種の磁石である。
此の磁石は吾れに必要なる一切を引きつける。
此の磁石は吾れに友人を引付けてはなさない。                    ☆

吾れは勇気ある霊魂(れいこん)をもつ。                      ☆
吾れは最高真理の啓示を受ける。
吾れは自己の仕事のうちにすぐれたる智慧のみを示す。

吾れは今日(こんにち)、無限の力を自覚し、神の愛と智慧とにみたされたる者の
もつ力をもって自分の役割を演ずるのである。

吾れは勝たんとする意志を有する。
神は能(あた)う。
それ故に吾れは能(あた)うのである。

(吾れに断行の勇気を与え給いし神に感謝いたします。)〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十五日の経言(のりごと)
  「最善の選択をなす言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月12日 頓首再拝>

[123] 《「真理に就いての瞑想」〜その26》
伝統 - 2014年09月13日 (土) 08時05分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P276〜278)

吾れは今日(きょう)自己自身の天国をつくるのである。              ☆
今日いちにちは――此の日は吾れの所造であり、吾が住む世界は、吾が所造である。  ☆

今日(きょう)いちにち、吾れは此の日を祝福する。                ☆
それ故、今日(きょう)いちにち吾れは祝福されたる日をもつのである。       ☆

吾れは栄えると信ずるが故に、吾れは栄えざるを得ないのである。
吾れは友達を有(も)つと信ずるが故に友達は来(きた)るのである。        ☆
吾れは愛するが故に吾れを愛をもつのである。                   ☆

<若し諸君の商売が繁昌しないならば、店へ往って店に祝福を与えるが好い。>

―― 此の場所は吾が場所である。                        ☆
それは吾が思考の反映である。                          ☆

誰も自分以外の者は、それに失敗と衰微との観念を与える事は出来ない。
此処には失敗と衰微との思考は決して漂っていることは出来ない。          ☆
此の場所は成功と繁昌との雰囲気に満ちているのである。              ☆

此処に来(きた)るところの顧客は皆楽観的で裕福な者ばかりである。        ☆
吾れは仕事と成功とを引きつけるのである。                    ☆
吾れは人々に信用の念を吹き込む。                        ☆

吾れは此の店の品物は好いと云う微妙(びみょう)な雰囲気を放射する。       ☆
この店此処に入(い)り来(きた)る者はその雰囲気を感ずる。           ☆

吾れは吾が商売が繁昌すると云う信仰をつねにいだいて離さない。          ☆
吾れは失敗と衰微とのことは考えないのである。                  ☆
唯(た)だ成功と繁昌とのことのみを考える。                   ☆

吾れに昨日(きのう)及び以前に起ったことが、成功でなかったならば、       ☆
それを忘れて了(しま)うのである。

吾れは此の場所に新しい光を点じたのである。

<比(か)くの如く黙想思念して自分の店舗を祝福し、それと同時に終日此の気分を
失わないようにするのである。更に毎日斯く店舗を祝福して、成功の雰囲気が店舗に
充ち満ちし、事実上店舗が隆盛になるまで、継続して此の気分を失わないようにするのである。

そして一方全力をつくして、人々から見て此の店は万事都合よく往っていると考えられる
ように立ち働くのである。

銀行家はその店の信用がなくなったら金を貸し出さない。それと同じような理由で
諸君は高き心的態度を維持して出入(しゅつにゅう)の顧客に安心を与えるように
しなければならないのである。>

<若し諸君の好ましくない境遇と云うのが家庭のことであるならば、
次の如く自己の家庭について思念黙想せられるが好いであろう―― >

此の家は吾がたましいの棲家(すみか)であり、吾が心の家庭である。

吾れは調和であり、愛であり、愛のみを此処に引寄せるが故に、            ☆
此の家に不調和はあり得ない。
此の家に住む全ての人は思慮深く、深切で、思い遣りがあるのである。

吾れは此処に住む全ての人々を信頼する。
この信頼の念は裏切られはしない。                         ☆

吾れは今新しい心的態度に目覚めたのである。
此の家に来たる何人も、吾が愛に目覚めたる此の心持を見のがしはしないのである。
全ては調和しており、一切のものは歓びに満ちている。                ☆

<諸君は結果が得られるまで此の真理を毎日黙想思念しなければならない。そして自己の
信仰が宇宙の心を対象とするようになったことと、思念に従って次第に自己の求むる
事物が実現の道にあることを忘れずに神に感謝するようにしなければならない。>

(吾れに調和と必勝の信念を与えたまいし神に感謝いたします。)〜お経で追加



注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十六日の経言(のりごと)
  「今日(こんにち)一日を祝福する言葉」に相当し、
  ☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月13日 頓首再拝>

[124] 《「真理に就いての瞑想」〜その27》
伝統 - 2014年09月14日 (日) 09時51分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P286〜288)より

<人格的なる霊の存在を暁(さと)ることは、吾等の関わる諸多の事件に『言葉』の
力とを発揮さす根底となるのである。吾等は神を『父』として認めることを学ばねば
ならない。

神なる『父』は放蕩息子が帰って来るのを歓迎するためにいつも家の戸口に立って
待ち給うのである。

『父』の実在したまうことをさとるには、智情意全体をはたらかすことが絶対必要で
あるのである。吾々は智情意全体の力をもって、錆びた鐡(かさがね)のかかっている
扉をこじ開けねばならない。

この事は次の如き方法――此れは自分が試みて有効であることが判ったのである――
で遂げることが出来るのである。

著者は次のような言葉をもって自己自身に告げることにしている―― >


吾れはいま隠(かく)れたる霊的実在の世界に入(い)りつつある。          ☆
吾れは今、『一切の根元なるもの』と接触しつつあるのである。
眼に見ゆる世界のものは今扉の外に遂(お)い出したのである。

吾れはいま吾がたましいの奥殿にとじこもっている。                 ☆
生命(せいめい)と愛と平和と神は吾れを囲繞しているのである。           ☆
神のうちに吾れは生き、呼吸し、存在しているのである。

吾が吸う息はことごとく霊の息である。                       ☆
吾れは生命(せいめい)の水を思うまま飲みつつあるのである。            ☆
純な聖(きよ)き愛の流れは、吾が身体(からだ)の隅々までつらぬいて流れている。  ☆

此の愛の流れは吾れより一切の不純、利己的思考、一切の弱点、一切の悪、一切の卑しさ、
一切の罪を洗いきよめてくれるのである。                      ☆
それは吾が肉体、吾が心の隅々からことごとくの吾が罪を流し去ったのである。

いま吾がうちには清浄と愛とのほかに何ものもないのである。             ☆
神の河水(かすい)が吾をみたしているのである。                  ☆
神の生命は吾がうちに溢れている。                         ☆

神の愛は吾がうちに充ちていた。                          ☆
神の平和は吾れを捉えてはなさない。

恐怖、不安、及び神らしからぬ一切は吾が心身から逃げ去ってしまったのである。    ☆
吾れは神の愛にみたされている。
神は此処に坐(まし)ますのである。

<然る後(のち)讃美歌第二十三或は六十一又はその他神の実在を暗示するような詩を
音誦(おんしょう)するのである。>

(神に感謝し奉る。)〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十七日の経言(のりごと)
  「自己浄化の言葉」に相当し、
  ☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月14日 頓首再拝>

[125] 《「真理に就いての瞑想」〜その28》
伝統 - 2014年09月15日 (月) 08時07分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P299〜300)より

吾れはいま吾れを通じてはたらき給う内なる神の力に信頼する。

吾れは内なる叡智に信頼する。
此の叡智は吾がものではない。
と云って吾れを離れたる智慧でもない。                       ☆

吾れに宿り給う神である。
吾が霊魂(れいこん)は父と一つになりて照り輝く。                 ☆
吾れはこの光耀(こうよう)に信頼する。                      ☆

吾れはなお現在意識に於いて知らないが、
既に知れるものは吾が内に宿っているのである。                   ☆

<さて、此の感を最高の点まで緊張させて、しかる後(のち)こう云うのである
―― >

『此の問題に関して吾れは導かれんことを希(こいなが)う。             ☆
吾れは導かれる。
吾れは如何なる方法をとるが最善であるかを教えられるのである。』          ☆


<然る後直覚の指導の来ることを予期して、暫し瞑黙して無想の状態にあるのである。
それが済むと、神が適当の時期を選んで、自分が何を為すが最も善きかを必ず知らして
下さると云う確信の念をもって実務にとりかかれば好いのである。

もし諸君が現在やっていることが最善の方法であるならば、此れで万事好いのだという
確信が心の底に湧いて来るものである。>


<若し吾々が治療家として他人治療を行う場合には、吾等は患者の内部器官がどんな状態
であろうと、どんな形状をしておろうと知る必要はないのである。
それを知るところの意識はわが内に宿っているのである。

それ故吾等が、心中しずかに相手の肉体の一切の器官が完全であることを瞑想しさえすれば、
肉体の病的部分はそれが何処(どこ)であろうと治癒するのである。>


<運命の隆昌を希う『瞑想』を行う場合も、この病気治療の場合と同一原理が応用
しられるのである。それ故、諸君は神の完全なる智慧に信頼する旨を宣言し、運命隆昌の
観念を思念さえしられるならば、諸君にやどる神の叡智が運命の隆昌を来す最善の道を
見出して呉れるのである。

諸君に宿って観念を形成して呉れる心も、それを具体化して呉れる心も一つである。
それ故思考は物とならざるを得ない。言葉は肉とならざるを得ないのである。

さて最期に諸君は次の如く感謝しられるが好いであろう。>


―― 吾れはいま宇宙の叡智の創造的活動が、
此の問題に対して活動しつつあることを自覚する。

吾が求むる如くならしめ給えることを感謝いたします。                 ☆

(神は適当な時期を選んで、吾れが何を為すべきか最も善きかを必ず知らして下さるのである。
吾れは吾が内に宿りて常に吾れを導きたまう神に対して感謝いたします。)〜お経で追加




注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十八日の経言(のりごと)
  「神の導きを得る言葉」に相当し、
  ☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

           <感謝合掌 平成26年9月15日 頓首再拝>

[126] 《「真理に就いての瞑想」〜その29》
伝統 - 2014年09月16日 (火) 07時30分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P312)より

絶対者を知るための『瞑想』はただ一つ ――                 ☆


『しずかに坐して吾れ神なりと念ずる』―― あるのみである。         ☆


*今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の三十日の経言(のりごと)
  「今・此処・天国を実現する言葉」に相当し、☆を示した行で表現の違いがあります。

           <感謝合掌 平成26年9月16日 頓首再拝>

[127] 《「真理に就いての瞑想」〜その30》
伝統 - 2014年09月17日 (水) 05時04分

        *『如何にせば運命を支配し得るか』(P321〜322)より

無限の生命(せいめい)よ、吾れはあなたの中に生活し、あなたのうちに息している。
吾れはあなたである。
吾れはあなたの生命(せいめい)が顕現したものである。

吾れはあなたの自己実現の中心である。
吾れはあなたの愛が姿をあらわしたものなのである。
吾れはあなたが個体化したものなのである。                     ☆

吾れはまた愛である。吾れはまた生命(せいめい)である。吾れはまた平和である。   ☆

吾れはまた名づけ難き実体である。

吾れはまた霊である。
吾れは尽きぬ生命(せいめい)である。                       ☆
吾れは実在である。

吾れは一切のもとに横たわる本質である。

吾れは死ぬと云うことはない ―― 吾れは生命(せいめい)であるからだ。
吾れは病むと云うことはない ―― 吾れは健康であるからだ。
吾れは不快になると云うことはない ―― 吾れは歓喜であるからだ。

吾れは大なる肯定をなすために、
すべての否定的なものを意識の外に追(お)い出して了(しま)ったのである。     ☆

吾れは実有だ。実有だ。実有だ。                          ☆
吾れに恐るるものはないではないか。                        ☆

吾れは実有だ。                                  ☆
如何なる危険も吾れに近寄ることは出来ない。                    ☆
吾れは実有だ。吾れは霊だ。生命(せいめい)だ。

吾れは空しくならない ―― 吾れは神のうちにあるからだ。
吾れは迷わない ―― あなたは到る処にいらっしゃいます。             ☆

<吾れは実有である。>

吾れをして今日(こんにち)静穏と平和とのうちにあらしめ給え。           ☆

若し事物がこぐらかったり、順調に行かなかったりしましたならば、
どうぞ吾れをして至高者(いとたかきもの)の奥殿に入(い)らしめて下さい。
全能なる者の庇護の下(もと)にあらしめて下さい。

(吾れは実在である。)〜お経で追加
吾れは実有である。

<重ねて云う吾れは実有である。>

吾がたましいの奥殿ではすべては平和で、すべては安穏である。            ☆

<そこには何らの騒擾(そうじょう)もない。吾れは実有である。
重ねて云う吾れは実有である。>

(御親の神に感謝します。)〜お経で追加


注:今回紹介した上記の部分は、「日々讀誦三十章經」の二十九日の経言(のりごと)
  「神と一体となる言葉」に相当し、
  ☆を示した行で表現の違いがあります。

  < >で表示した行は、お経には表現されていない文章です。

  (  )〜お経で追加 と表示している行は、
  「真理に就いての瞑想」では存在していない言葉ですが便宜的に表示させていただきました。

・・・

以上で、「「真理に就いての瞑想」」の紹介を完了致しました。
なお、「人生は心で支配せよ」での(神想観中で)黙念する言葉については、
光明掲示板・第三「実相を観ずる〜「神想観」 (88)」にて順次謹写していく予定です。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(次回以降、こちらの掲示板では、「新生の書」から、「日々読誦三十章経 釈義」について、
 紹介させていただきます)

           <感謝合掌 平成26年9月17日 頓首再拝>

[128] 「新に生れる言葉」釈義@
伝統 - 2014年09月20日 (土) 07時31分

『日々読誦三十章経』「一日の経言 新に生れる言葉」

天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。
今吾等は新生したのである。

今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
自分は自分の生活の主人公なのである。


吾れはいま力と勇気をもつて新生し新しき日の仕事と生活とに向うのである。
吾れは今わが仕事に溢るる熱誠をもつて赴(おもむ)く。
吾れは歓びに満たされて進み行く。


そは吾れいま吾が求むるものは凡て神より与え給うと信ずるからである。
吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る。
吾れは決して此の感じを失わないのである。


吾れは今日(きょう)も終日(ひねもす)吾れを支えたまえる無限全能の力を
わがうちに感ずるのである。何が吾れに起つて来ようとも、其れに対する準備が
与えられていないと云う事はあり得ない。


吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。
吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与えられているのである。
吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならば其の力は既に与えられているのである。


吾が内なる生命(せいめい)は、神と融け合つて一つとなつているのである。
吾が内より生命(せいめい)の清水は無限に泉(いず)み出るのである。
真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給うのである。


吾れは全能の力によって守護されているのである。
吾れは無限の力の泉を自己のうちに有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。
今日(こんにち)われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。
吾れは此の魔力の如き力が、吾が内に宿れる『無限なる者』の力で
あることを知るのである。

吾れ此の『無限なる者』に感謝し奉る。

・・・

これらの言葉に対する「釈義」は、以前、”童子 さま”により、
「生長の家“本流青年”掲示板」等において紹介がされておりましたが、
今は、残念ながら消滅しております。

”童子 さま”による尊い謹写によりますと、昭和21年の「生長の家」誌初出とのことでした。

”童子 さま”による謹写資料と、ほぼ同じ内容のものが、昭和26年発行の『新生の書』に
収録されておりますので、その書からのものを、以下に謹写して参ります。


(【新生の言葉】)

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P159〜160)より

人間が向上するためには言葉の力を応用すれば速やかにその目的を達し得るのである。
そのためには毎朝朗々と善き言葉を朗読することは一つの方法である。

次に掲ぐるは読者諸君が朗読するに最も適する言葉を選んで解釈したものである。


【新生の言葉】

(第一段)

@天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。
 今吾等は新生したのである。

A今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
 自分は自分の生活の主人公なのである。


(釈義)

以上の言葉を朝起きるとすぐ朗読するか、黙念せよ。

これは生長の家で日々読誦して生命を浄め、精神を清め、自覚を浄めるために
神前、仏前、又は随所で朗誦するために書かれたる「日々読誦三十章経』の一部である。

これを朗読又は黙念して、その所述の真理を自覚することによって、
人生一切の悩みは消尽し、病者は起ち、死者もその霊魂の不死を知りて成仏すると
信ぜられているコトバである。

かかる功徳があると称せられ無数の実例を寄せられている所以を、
その所述の一句一句について解釈することにしたのである。


(以降の釈義については、次回以降に順次紹介してまいります)

           <感謝合掌 平成26年9月20日 頓首再拝>

[129] 「新に生れる言葉」釈義A
伝統 - 2014年09月21日 (日) 07時23分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P160〜161)より


先ず、この経典は「天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり」と云う句から
初まっている。北畠親房の神皇正統記にも、これと同様の句がある。

それは日本伝来の「今」の哲学であり、アメリカの光明思想「永遠の今」“Eternal Now”に
一致するのであり、旧約聖書創世記の「元始(はじめ)に神天地を創造りたまへり」の
根本的解釈であると云うことも出来るのである。

真理は日本に於いても、アメリカに於いても、ユダヤ(創世記)に於いても、
結局同じことであり、この共通真理の解明によってのみ世界の人類が『一』に和平することが
出来るのである。

国際連合の原子力委員会第一回会合で六月十四日米国代表バルーチ氏は、

「平和は戦争劇の幕合をつなぐ熱病的間奏曲であってはならぬ。
原子の奇蹟を把握した如く人類は平和の奇蹟をも現出せしめなければならぬ」

「全世界は今や恐るべき飢餓に悩んでいる。併し胃の飢餓よりも更に恐るべきものは
魂の飢餓である。この飢餓は恐怖を克服して希望を回復することによってのみ癒し得る。
戦争を絶滅することさえ出来れば、吾人の当面する幾多の困難なる課題は
悉く解消する筈である・・・」(「日本経済新聞」七月一日号)と述べたと云うことであるが、

国際間の人類的争闘が恐怖されるのは、人類が「本来一」の哲学的真理に目覚めないからであり、
人類が本来一である事が解れば最早争う必要はないのである。


生長の家は終始一貫此の「一」の哲学を説いて来たのであり、
これによって家庭の闘争、社会、団体、ひいては国際間の和平にも貢献しようと、
懸命の努力を続けて来たのである。

而して「本来一」の真理の理解は
「天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)」の理解から生ずるのである。


本章の題号の「新生への言葉」の「新たに生れる」の語はヨハネ伝第三章に
イエスの言葉「まことに誠に汝に告ぐ人あらたに生れずば、神の国を見ること能わず」
と云う一節に一致する。

生長の家の宗教運動は、その光明宣言の第七條即ち結語の章に記述せるが如く、
「地上天国」即ち、地上に神の国を建設せんとすることが、その立教の最後最終の目的
としてあるのである。

地上に神の国を建設するとは、世界に国際戦争も、階級闘争も、家庭の争議も、
病気も窮乏もなき平和大調和の天国的世界を実現することなのであって、

生長の家の世界「一」体の信仰が確立せらるれば原子爆弾ごときはあっても無くても、
人類の「愛の飢餓」は救われ、本来「争う心」が無くなるのであるから、
人類が原子爆弾の前に顫(ふる)え戦(おのの)き恐怖している必要などは更にないのである。

生長の家はこの真理を個人に普及することによって既に「病い」を人類から克服し
病いなき世界を建立したのである。

それを国家に入れることによって全人類和平の戦なき世界が実現するのであるから
これを国家に入れようとしたけれども、日本政府の出版言論宗教取締方針は頑強にこれを
拒絶して、一ならざる対立国家観念の結末は、結局第二次世界大戦に捲き込まれることに
なったのである。

然らばかくの如き「神の国」が地上に顕現するためには人類は如何にすれば好いか、
キリストはいみじくも「人あらたに生れずば神の国を見ること能わず」と云っているのである。

これこそ人類の「魂の飢餓」を満たす真理の食物であるのである。
                
(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月21日 頓首再拝>

[130] 「新に生れる言葉」釈義B
伝統 - 2014年09月22日 (月) 06時07分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P161〜163)より

では「あらたに生れる」とはどうすべきかの問題が提出される。

キリストは

「肉によりて生るるものは肉なり、霊によりて生るる者は霊なり。
なんじ新(あらた)に生るべしと我が汝に言いしを怪しむな。風は己が好むところに吹く、
汝その声を聞けども、何処より来り何処へ往くを知らず。
すべて霊によりて生るる者も斯くの如し」

と云っている。


唯物論者には新たに生れることは理解出来ない。
ニコデモと同じく「人はや老いぬればいかで母の胎に入りて生るることを得んや」
と云うほかはない。

唯物論者には神の国はイエスの云った通り鎖ざされているのである。

唯物論者にはイエスも吾々も共に迷信者流に見える。

併し真理は「新たに生れる」とは霊によって生れなければならないと云うのである。
霊とは「形なき理念」のことである。

形なき世界、形なき存在を見なければ、全人類が「一」であると云うことは解らない。

階級争闘観念は結局国際争闘観念の相手方を国家から階級に振向けたに過ぎないのであり、
ラジオの放送をきいていても、名前は云わなくともその党員であることが争闘的語調である
ことによって判明する位である。

試に唯物論的に形ある存在のみを見ておれば、人間は個々別々であり、国家は個々別々であり、
階級は別々であり、互に分離孤立していて意志の疎通などはあり得ない、
随って其処には争いと戦いとが起るのは《必然》である。

その《必然》を説いたのが、嘗て吾々の「人類迷妄の自壊作用として起るべき戦争」の
預言であり、これは「必然の預言」であって戦争推奨ではないのである。

やがて戦争に飽きた人類が本来の「一」に目覚めて世界平和の来るべきことを説いたのが
吾等の地上天国実現の預言であると共にその招来に協力するところのわれわれの
地上天国建設運動なのである。

それには人類はみんな神の子たちであり、みんな兄弟だと云う霊的実相を悟らなければ
ならないのである。ところが、それを説いた吾らの宗教をば、日本の軍国主義政府と
出版言論統制機構は、是を迷信であるとし、圧迫に加うる暴圧を以てした。

随って吾らは、その軍国主義政府の統制手段の中を潜り抜けるために千変万化しつつ
いろいろ巧みな方便を用いたのであるが、

終始一貫変らない説き方をして来たところものは、
「生命の實相」初巻及び「甘露の法雨」の巻頭にある「汝ら天地一切のものと和解せよ」の
生長の家立教の大神示であり、

召集されて己を得ず戦いに臨んだものにも、この「甘露の法雨」を持参せしめ、
常にこの「甘露の法雨」を読誦して「和」の心を起して戦に立ち向えば、
戦場に於いても傷つかぬことを説いて、それを実践した吾らの信者は吾らの所説の真理である
ことを実証したのである。

随って吾らの信者からは一人の戦争残虐犯罪者を出していないのである。

此の偉大なる「和」の聖経「甘露の法雨」を重版しようと思っても
日本出版協会では用紙をくれなかったのである。何故くれないか。

日本出版協会は過去に生長の家が「和」の宗教を説いた結果、迷信と云う名の下に
軍国主義者たちから圧迫されつづけて来たところの旧来の観念で、
「あゝあの生長の家か、あれは迷信ではないか」と云う簡単な理由だ。

彼らは知らずして真理を葬るの罪を犯しているのである。
日本の道を世界の道にかよわせる「和平」の真理は生長の家を以て宗教第一とするのである。

(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月22日 頓首再拝>

[131] 「新に生れる言葉」釈義C
伝統 - 2014年09月23日 (火) 08時25分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P163〜165)より

日本の道は「大和」即ち「和平」にあって闘争にはないのである。
戦の武器である「剣」でさえも、真の日本の道に化せられる剣《道》となる。
剣《道》はミチ(《道》徳)であって剣《術》ではない。

剣術は小手先の術策であって術策は人為(偽)であるから敗れるのであって、
道は「天地一貫」であるから敵対することがなく敗れることもない。

戦争裡にあって「和」を説く生長の家が、
軍国主義政府に弾圧されないことは難しかったのである。

併し吾々は「和」の行者であるから、政府に対しても巧みに「和」しているから
大本教や「ひとのみち教団」や共産党のようには、政府と雖も、
生長の家を破壊することは出来なかったのである。

ただ彼らは遠巻きに生長の家の言論出版を封鎖し、ラジオ放送から締め出し、
日本言論報国会からも、日本文学報国会からも、宗教報国会からも締め出して
吾らを孤立せしめて吾らを自壊せしめようとしたのであるが、
遂にこれらの政府と、これらの機関の方が自壊してしまったのである。

しかしまだその全官僚群やその手先が全部自壊し尽したのではない。
全官僚群が退陣したら事務が全然とれなくなるから、実際の事務は暫くは
戦争中の機構の人間がやっていた。

だから用紙配給の如きも旧来の統制規準でやっていたのである。
しかし今や彼等も自壊したのである。

二千六百有余年つづいた日本国でさえも、真理に抗した「大和国」は自壊して、
真の「大和国」が永遠不滅に「平和愛好国家」として顕れようとしているのである。
それは吾らの祖国真の「大和国」の勝利でなくて何であろう。

そして「天地一切のものと和解せよ」との立教宣言したまいし「七つの燈台の点燈者」
(黙示録第一章の白髪「久遠の真理(キリスト)」)の勝利の第一歩でなくてなんであろうぞ。

併しそれはまだ第一歩に過ぎない。
「未だ万邦その処を得」ず、原子力をめぐって人類破滅の恐怖の前におののいているのは、
まだ全世界「一」なる和平の真理が全世界にひろがっていないからである。


さて、「天地のはじめは今を始めとする理あり」の解釈であるが、
これこそ「久遠のキリスト」が黙示録と同じき姿の白髪の老翁として出現し給い、
彦火々出見尊が一本の鈎(つりばり)の問題に引っかかって泣き憂え給いし時に
教えたもうた「目無堅間の小船」の真理であるのである。

日本神話によれば、この老翁の名は水火津霊(シホツチ)であり。
シホツチとは、水津(みずの)霊と火津(ひの)霊との十字交叉の意である。
水の霊は水平〈―(ヨコ)〉であり、火の霊は燃え騰る〈|(タテ)〉である。

その十字交叉たるシホツチは十字架の象徴的名称であって、
肉体の抹殺(十字架を背負いて我に随え)の後に来る霊的復活である。
復活とは新生であり、新生するとは「肉」の自覚より脱して「霊」の自覚への転回である。

この十字架の「如来の願船」によってのみ、泣き憂えたまう彦火々出見尊が救われて、
綿津見(わたつみ)の神の宮(即ちスミヨシの国、住み吉き国、天国浄土、龍宮海)に
到着することが出来るのである。

まことに「吾れは霊なり」と自覚したときが新生であり、
肉体的物質的自覚によって自由を時間的制約によって失っていた生命が
時間空間の制約を脱する瞬間なのである。

|―(タテヨコ)十字の交叉点、|―(時間・空間)縦横の《連続》と《広がり》の、
やがて由って以て生ずるところの未発の中心の一点、点もなき極微の一点であり、
同時に「彼岸〈天国・浄土・龍宮海〉へ済(わた)し給う如来の願船」であるから、
「小」(極微)と「船」(願船)とを併用して「目無堅間(めなしかつま)の小船」と
称したのである。

「目無」とは時間の目盛なきこと、堅間(かつま)とは、空間がアキマ無く堅く詰っている
ことで空間なきこと、無時間・無空間の「未発の中」の一点こそ、「今」の生命の一点であり、
「今」の生活の一点であり、未だ時間空間発せざる「中」の生命を、「今」生きるが故に、
時間空間を自己の掌中に鷲攫(わしづか)みして自由自在である。

この自由自在境に入った状態が、「入龍宮不可思議境界」なのである。

時間空間あって無く、無くてある。肉体も《ある》がままにして無く、
無きままにして《ある》のである。

彦火々出見尊のように現象の一つの鈎に引っかかって、
「有る」「無い」の穽口から、自由を失ってしまうことがないのである。

これが水火津霊老翁(しほつちのおきな)<別名、住吉大神>の示し給うた
「目無堅間の願船」の哲学であり、名づけて「生命の実相哲学」と称するのである。

今、この自覚に入るとき、新しき天地が目の前に現前する。
これが真の悔改であり、イエスの「悔改めよ天国が現前(アット・ハンド)にあり」である。

これが第一節の『天地のはじめは今を始めとする理あり。今吾らは新生したのである』
と云うことである。

(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月23日 頓首再拝>

[132] 「新に生れる言葉」釈義D
伝統 - 2014年09月25日 (木) 04時50分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P165〜166)より


(第一段第二節)の「今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
自分は自分の生活の主人公なのである」と云うのは、

「今」の生命の一点に、一切の時間空間を掌握し得ているが故に
一切の自由を真の人間は得ていると云うことである。


これは生長の家が終戦後時局に迎合するために近頃急造の所説ではないのである。
また自由主義と云うようなイズムでもないのである。
また他から自由を配給されるのでもないのである。


それは自由の自己実現である。
これこそが真の民主主義であり、人間の勝利であり、人間個人個人が
神人として超人としての自由を獲得することなのである。

凡そ真の自由は自己解放的なものであって、他からの解放では真の自由ではあり得ない。

私の宅に孔雀鳩を飼っていたことがあったが、ある日女中が鳥屋(とや)の中を掃除するために
その中に入って行き、入口の扉を開いたままコンクリートの鳥屋の前庭を箒で掃いていた。
一羽の白孔雀鳩がその扉から廻って外へ出たのである。

彼女は籠の中の窮屈な世界から逃れ出て幸福であったろうかと云うと、
彼女は粟が常食であり、彼女の翼は辛うじて一間ばかり飛躍し得るのみで、
飛翔することは出来なかった。

折から雨が降って来たし、日が暮れて来た。
彼女は庭木の梢まで飛躍しのぼって、その薄くなった視力であたりを見まわしていたが、
もう鳥屋も見えなくなったと見えて帰ろうとはしなかった。

翌日見ると、その白鳩の遺骸の残片であるような白い羽がそこ此処に散らばっているままで
ついに還って来なかったのである。猫にやられたか、鼬にやられたか知らないが、
彼女は真に自己の内性が開発しての自由を獲得したのでなかったから、
偶然に自由を与えられた時、その世界は却って不自由であったのであった。

真の自由を発揮するには「今」の生命の一点を把握せねばならないのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月25日 頓首再拝>

[133] 「新に生れる言葉」釈義E
伝統 - 2014年09月26日 (金) 04時46分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P166〜167)より


第二段
 
 吾れはいま力と勇気とをもつて新生し、新しき日の仕事と生活とに向うのである。


第三段

 吾れは今わが仕事に溢るる熱誠をもつて赴(おもむ)く。
 吾れは歓びに満たされて進み行く。


吾々はいつまでも、敗戦の惰力をもって、
失望と落胆と無気力と放心との中に沈没してしまっていてはならないのであります。

まず自己の内に宿る力を自覚しなければならない。
個人の内に宿る力の自覚が民主主義の根本でなければならない。

もう駄目だと思ったときに人間は駄目にる。
「駄目」と云うことは永遠に無い、何故なら人間は神の子であるからである。

人間は神の子であると云うことが自覚出来たら、自然に勇気が振起されて来る。
弱小の自覚から、神の子の自覚へと新生する。

新生は頭の転換だけでは駄目である。
行為として、仕事としてあらわれなければならない。

行為として、仕事としてあらわれるために、
自然にそう現れるのをまちのぞんでいるだけでは駄目なのです。

勇気をもって、意志力をもって、自覚を行為と仕事とに変化しなければならないのである。


民主主義の生活は先ず自己の目覚めであるから、先ず「我」の自覚と共に
「わが仕事」の自覚がなければならないのである。

「わがものと思えば軽し傘の雪」と云う俳句があるが、
《ひと》の仕事をしてやるのだと思うから、他に恩に着せがましい気持にもなるし、
その仕事の遂行が何だか臆劫がましくもなるのである。

何事を為すにも是れ吾が目の前に神によって置かれたる使命であると信じてこれを遂行せよ。
如何なる茶飯事、些小事であるとも、それは大なる使命遂行に必要欠くべからざる踏石である
と想え、一度に山嶺まで登り切り得るものではないのである。

一歩の前進は次の十歩の前進を容易ならしめるのである。

かく信ずれば、如何なる詰らなさそうな仕事を営む時にさえも
熱意と誠心と歓びが湧いて来るのである。

熱意のない仕事は、途中に於いて遂行の勇気を挫いてしまうであろう。
歓びのない仕事にはどうしても懶け心がつきものである。
誠心がなければ細かいところに行き届かぬ。

熱意と誠心と、歓びとは仕事を行う三大推進力なのである。

その三大推進力を喚び起すには、此の仕事を《わが使命》なりと観ずること、
使命の如く感じられない些小なる仕事なる時は、使命に到達するための踏石
(ステップ・ストーン)であると観ずること。

而して第三には、この「新たに生まれる言葉」を仕事に向う前に朗読し、
その言葉の力によって、熱意と誠心と悦びとを喚び出すことが大切である。

(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月26日 頓首再拝>

[134] 「新に生れる言葉」釈義F
伝統 - 2014年09月27日 (土) 04時31分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P167〜168)より

第四段

  そは吾れいま吾が求むるものは凡て神より与え給ふと信ずるからである。
  吾れは今吾がうちに神が宿り給ふことを知る。吾れは決して此の感じを失はないのである。


「求めよ、さらば与えられん。眼を開いて見よ、汝は見出さん」と
イエスは云い給うたのである。

すべて何事にもあれ、必要なるものは既に与えられているのである。
それは神から与えられた贈物(プレゼント)の風呂敷のようなものである。
併しその風呂敷包は自分でその結び目を解くことを必要とするのである。


吾々の右手にはすべて大黒様の打出の小槌を与えられているのである。
併し打出の小槌は無限供給を得るためにはそれを打ち掉ることを必要とするのである。

物事はすべてそれが徒労に終って果を結ばないと思うとき
遂行の熱意が湧いて来ないのであるが、
必ず成功すると信ずるとき自然に熱意が湧いて来る。

わが求むるものは必ず成ると信ぜよ。
『「信ぜよ」と云われても信ぜられないときはどうしますか』と云って尋ねた人があった。

それ故にこそ、此の「日々読誦三十章経』を日々読誦して
言葉の力で信念を喚起するようにしてあるのである。

神はわれの周囲にもあれば、吾らの内にも宿ってい給うのである。
内外一環である。内に念ずることは、周囲のすべてのものに感応するのである。
外は内の影であり、内(心)に先ず成就して外界が成就するのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月27日 頓首再拝>

[135] 「新に生れる言葉」釈義G
伝統 - 2014年09月28日 (日) 04時54分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P168)より

第五段

   吾は今日も終日(ひねもす)吾れを支えたまえる無限全能の力を
   わがうちに感ずるのである。

   何が吾れに起って来ようとも、
   其れに対する準備が与えられてゐないと云う事はあり得ない。


樹は夏の土用の炎暑の最中に、すでに秋の準備をして、落葉樹は落葉の支度をする。
況んや万物の霊長である人間が、やがて来ようと云う出来事に準備されていない
と云うことはないのである。

内外一環であるから、そして「時」は「今」の中に一切時を含んでいるが故に、
外にやがて起ることに対して、内に準備されていないと云うことはあり得ないのである。

戦死する前には戦死の準備がチャンと出来ている。
心の準備も出来ておれば、形の準備も出来ている。

あとから考えて見ると、「あれがあの人の遺言だったんだね」と
考えられるようなことは度々あるのである。

若し準備が出来ていない人があるとするならば、その人は内外本来一体でありながら、
その一体を絶縁させる何か心の迷いをもっていたのである。

恐らく内外一体の自覚が足りなかったのであろうし、個人のことにのみ心を奪われて、
自他一体の行持を日常生活に実践していなかったのであろう。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月28日 頓首再拝>

[136] 「新に生れる言葉」釈義H
伝統 - 2014年09月29日 (月) 04時37分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P168〜169)より


第六段

   吾に智慧が必要ならば其の智慧は既に与へられてゐるのである。
   吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与へられてゐるのである。
   吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
   吾れに力が必要ならば其の力は既に与へられてゐるのである。


智慧と愛と生命力とが神の三大本質であると共に、
神の子なる吾らの三大本質を成しているのである。

それは吾らの本質であるが故に何人も欠くることなく、内に蔵しているのである。
その内に蔵しているところの智慧・愛・生命(勇気・力)が発現しないのは何故であるか。

それは無明(まよい)によって隠覆されているからである。
それは無自覚のために、智慧の袋をひらかず、愛の風呂敷包を解かず、
生命の箱をひらかないからである。

汝のうちに宿っているところの神の智慧を自覚せよ、
滔々として神智は湧出するであろう。

汝のうちに宿っている神の愛を自覚せよ、
滔々として愛は流出するであろう。

汝のうちに宿っている神の生命を自覚せよ、
力と勇気とは澎湃として沸(たぎ)り出るであろう。

「わがうちに神の智慧宿りて常にわれを導き給ふ」と一日数回、ひまある毎に黙念せよ。

また「わがうちに神の愛宿り給う。吾れは万物を愛し、隣人を愛し、家族を愛す。
愛は争わないから平和である。愛のあるところ必ず調和生まれるが故に、
わが周囲は調和で満たされている」と一日数回、ひまある毎に心に念ぜよ。

また
「わがうちに神の生命宿りたまう。
わが生命は神の生命であるから無限の力が必要に応じて湧き出て来るのである。
必要な力は既に与えられているのである」
と一日数回、ひまあるごとに黙想せよ。

この黙念・黙想によって、内在無限の智慧と愛と生命とが、表面に顕現し湧出するのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月29日 頓首再拝>

[140] 「新に生れる言葉」釈義I
伝統 - 2014年09月30日 (火) 03時45分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P169〜170)より

第七段

   吾が内なる生命は、神と融け合つて一つとなつてゐるのである。
   吾が内より生命の清水は無限に泉み出るのである。
   真理なる神は吾れに凡てを教へたまひ、真理の道にわれを導き給ふのである。


上述せる処によって吾が内に神の智慧・愛・生命が宿っていることが明らかになった
のであるが、それが「吾れ」と云う容器に神の智慧・愛・生命が宿っていて、
吾れはただ容器に過ぎないと云うような自覚では本物ではないのである。

「吾が内なる生命は、神と融け合つて渾然一体である。
吾が生命は神の生命であり、無尽蔵に滔々と湧き出でる」と自覚しなければならない。

真理が神である。神と真理とは別ではない。
キリストは、「我は真理也、生命(いのち)也」と宣言した。
真理が我々に宿っていて、つねに我々を導いていられるのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年9月30日 頓首再拝>

[141] 「新に生れる言葉」釈義J
伝統 - 2014年10月01日 (水) 04時55分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P170〜171)より

第八段

   吾れは全能の力によつて守護されてゐるのである。
   吾れは無限の力の泉を自己の衷(うち)に有する。
   不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。

   今日われに接する人々は、
   わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであらう。
   吾れは此の魔力の如き力が吾が内に宿れる「無限なる者」の力であることを知るのである。
   吾れ此の「無限なる者」に感謝し奉る。


人間にはそれぞれの雰囲気と云うものが存するのである。
その人に会ったら何だか惹きつけられて其の人の云いなり通りにさせられてしまう
ような人もあれば、何となく寂しい、貧弱な、馬鹿にしたくなるような気がする人もある。

雰囲気と云うのは、眼には見えないが、その人を取巻いている何となき気分である。
その気分によって或る人は排斥されて要職にはつけないし、
或る人はそれほど学識はなくとも親分にまつり上げられる。

大いなる事業をするには此の人々を惹き着ける雰囲気の磁石的な力が必要である。

ではその雰囲気と云うものは一体何であろうか。
雰囲気と云うものは、その人の生命から放射される一種の精神的な波である。

それは今急ごしらえには出来ないものなのであって、
平常、心に持続する精神の習慣的波動によって、
絶えず其人の周囲に発散しているところの一種の気なのである。

されば、よき雰囲気をつくるには常によきことを思念し、読み、考え、
つねにそのような精神波動を放散する習慣性を養って置かなければならないのである。

そのためには、此の「日々読誦三十章経」のような真理の言葉、自信を強むる言葉を、
毎朝夕朗誦するか、思念するかするがよい。

そして

「吾れは全能なる力によって、守護されている」
「無限の力の泉を自己の衷(うち)に有する」
「不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来る」

・・・・・・・と自覚するのが最も捷径(ちかみち)である。

「全能の力」と云うのは、無論「神」のことである。

生長の家では、神は、天上高きところにいて呼べども急には来り給わないような処に
鎮座ましますのではなく、此処に、今、自分のうちに宿り給い、自分を守護していたまう
と信ずるのであるから、

その神の無限の力が自己の衷(うち)にあり、何物をも恐れることなく、
不思議なる力と平和とが自然に内部からわき出て来、その不思議な力が磁石的な力となって
人々を魅了し去り、その人に随がわずにおれなくなる。

そのような《どっしり》した雄大な人格を養うには、
既にそのような不思議に魅力ある雰囲気が自分から放射されていると信ずること。

そう信ずれば自然その気持になり、ゆったりとして来て、
何となしにその人の側に引き寄せられ、その人の助力をしたくなるものである。


(以上で、「新に生れる言葉」釈義は終了です。
 次回は、「心の独立を得る言葉」釈義に移ります)

           <感謝合掌 平成26年10月1日 頓首再拝>

[145] 「心の独立を得る言葉」釈義@
伝統 - 2014年10月02日 (木) 04時40分

『日々読誦三十章経』「二日の経言 心の独立を得る言葉」


自分は神の子であるから、今自己の生活を、意識的に自分自身で支配するのである。

自分は今より自分の考えようと思う事物をのみ考える。
自分は自分の生活に何事が湧いて来ようとも
自己の心を支配することによってそれを支配することが出来るのである。


吾等は自己の思想を日に日に一層よきものたらしめ、
創造を司る宇宙霊が、吾等に一層幸福なる状態に此の世界を創造して呉れることを
信ずる。

吾等は至上の智慧に導かれんがために、真理についてのみ考えるのである。
吾等は、あらゆる智能に優った神的平和を獲(う)るために
信仰の事についてのみ考えるのである。


吾れは今愛の霊に充たされている。
吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。
吾れは今心を開いて至上なるものの感情を胸に受けているのである。

吾れは今意識的に愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。
吾れは今神の御側(みそば)にはべって、
神が吾が力を新たならしめたまうのを待っている。


吾が心は今神の上にのみ注がれている。
それ故に、吾れはすべての人々に対して、又自分自身に対しても平和なのである。

如何なる禍も自分の上には降り濺(そそ)がない。
愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。

吾れはいま吾がいのちが神の子であることを知るが故に、
無限なる者の力をうけて歩むのである。


吾らは神の子として生きて決して奴隷の如くには屈従しない。

われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。
われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。

吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかすのである。
今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ている事を感ずる。
吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。

吾れは強し。吾れは今生命(せいめい)と愛とを吾が裡に感ずる。


・・・

「心の独立を得る言葉」釈義@

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P171〜173)より

第一段

   自分は神の子であるから、今自己の生活を、意識的に自分自身で支配するのである。

   自分は今より自分の考へようと思ふ事物をのみ考える。
   自分は自分の生活に何事が湧いて来ようとも、
   自分の心を支配することが出来るのである。


民主主義の根本は「自分が自分の主人公である」と云うことである。
他人を支配し、徒党をくんで大衆ファッショによって他を圧迫することなどは、
軍閥ファッショが、ただ位置をかえたに過ぎないのである。

真の民主主義は、自分が自分の主人公となり、他人も他人自身の自由を快復するように
してあげることである。それには先ず自分が、自分の主人公になることが必要である。
と云って自分で自分の心を支配することは難事中の難事とせられているのである。

柳生流の極意にも「心こそこころ迷はす心なれ、心にこころ心ゆるすな」と云う道歌があるが、
心が形がなくして捉え難いがゆえに、それを支配することは至難中の至難である。

しかし、催眠術家がたくみに相手の心を支配して、ただ「眠る」と云う観念のほかは
考えしめぬように誘導するとき、相手の人は眠ってしまうのである。

それは如何にしてそれを為すかし云えば、言葉の力によってそれを成すのである。
他人の心でさえも言葉の力によって支配することが出来るのであるから、
言葉の力によって自分の心を支配することも自由である筈である。

言葉の力によって先ず「自分は神の子である」と称え、前記の如き文章を朗読又は思念して
「今自分の生活を、意識的に自分自身で支配する」と宣言することは、
他によって支配されず自分が自分の主人公となる最初の基本的方法なのである。

催眠術家が、被術者に対して「これから君は私の云うことのみを心に思う。
そして眠ると云うことのほか何も考えなくなる。そら眠くなって来た」と繰返し
断定的な語調で云えば、いつのまにかその言葉の通りになるように、

「自分は今より自分の考えようと思う事物のみを考える」と言葉の力で宣言することは、
心を言葉で支配する最善の方法であるのである。

よく世間には恐れまいと思っても恐れる人があり、病気のことを考えまいと思っても、
考えずにいられぬと云う人がある。そう云う人は本節の「心の独立を得る言葉」を
朗読して、好ましからぬ想念の自然発生を根絶するように行ずることが必要なのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月2日 頓首再拝>

[148] 「心の独立を得る言葉」釈義A
伝統 - 2014年10月03日 (金) 04時50分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P173〜174)より

第二段

   吾等は自己の思想を日に日に一層よきものたらしめ、
   創造を司る宇宙霊が、吾等に一層幸福なる状態に此の世界を創造して呉れることを
   信ずる。

   吾等は至上の智慧に導かれんがために真理についてのみ考へるのである。
   吾等はあらゆる智能に優つた神的平和を獲るために
   信仰の事に就いてのみ考へるのである。


人生はその人の信ずる通りになるのである。
不幸が来ると思えば不幸が来る。

しかし善い事ばかり来ると信じていても却って悪しきことが来ることがある。
それは「神」を抜きにして、我慾や、我力でよきことが来るとのみ信じているからである。

我らの生活によきことのみが来ると云う信仰は、
我(が)の小さい力でそれが来ると信じているだけでは足りないのである。

それは「創造を司る宇宙霊」に関係して、我らはそれに護られ、導かれて、
よきことのみが来ると云う、信仰にならなければならないのである。

創造の力は、人間の我(が)の力ではないのである。
皮膚に傷が出来た時に自然に治ろうとする力、
それは医者も、脳髄の意志の力もどうすることも出来ない。

医者はただ自然癒能が働き易いように包帯をしたり、環境をととのえるだけである。
内部の力がいやしてくれるのである。
その内部の力をまず認め信ずることが必要である。

その人間の内部の力と同じものが、植物の内部にも、昆虫の内部にも、
生きとし生けるものの内部にも、ありとしあらゆるものの内部にも生きているのである。

その一切のものの内部の力は全体で「一つ」である。
生きとし生けるものは「一つ」の力で生かされおり、
ありとしあらゆるものは「一つ」の力であらしめられている。

その「一つ」の力を、我々は神と呼ぶのであり、「創造を司る宇宙霊」とも呼び、
簡単に創造主と云っても好い。

創造主が、今此処自分の内にましまし、自分を取巻いており、一切のうちにあって
互に相互連関を有して、自分の欲するもの、求むるものを創造(つく)り出して呉れ、
必要な時に必要な事物を与えてくれ、吾等に流れ入って至上の智慧となって
その時その場に何を為すべきかを知らせてくれるのである。

その事実を心に確認することが至上の智慧を自分の内に実現する道であるから
以上の如き言葉を吾等は毎日朗誦するが好いのである。
何故なら人は信ずる通りの処のものになるからである。

そして信念は言葉の力によって成就するからである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月3日 頓首再拝>

[151] 「心の独立を得る言葉」釈義B
伝統 - 2014年10月04日 (土) 04時44分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P174〜175)より

第三段

   吾れは今愛の霊に満たされてゐる。
   吾れは今聖なる宇宙の心と調和してゐる。
   吾れは今心を開いて至上なる者の感情を胸に受けてゐるのである。

   吾れは今意識的に愛とそして智慧なる宇宙の心に接触してゐる。
   吾れは今、神の御側にはべつて、
   神が吾が力を新たならしめたまふのを待つてゐる。


人間は智慧ばかりでは冷静に傾き過ぎて可けないのである。
愛がなければならない。神は智慧であると同時に愛である。
萬物を生かしてゐるのは愛である。愛がなければ何物も生きないのである。

智慧によって秩序をととのえ、愛によって萬物を生かす所の神の霊、
宇宙の心と一体になって、その恵みを遍く受けようと思うならば、
「吾れは今愛の霊に満たされてゐる」と朗読したり、思念したりしなければならない。

一時的に思念するだけではなく、常に愛の霊に満たされていなければならないが、
言葉は種子であるから、そう思念したり朗読したりするのである。

自分が愛の霊に満たされないで、「宇宙の心(神の心)」と調和することは難しい。
宇宙の心と調和しなければ、吾々は神の協力を得ないのであるから、
敗れるほかはないのである。

諸君が何事を為すに当っても愛の心を失ってはならないのである。

諸君よ、神想観して、心を調え、「吾れは今意識的に愛として智慧なる宇宙の心と
接触している。吾れは今神の御側にはべつて、神が吾が力を、新たならしめ給ふのを
待つている」と深く深く魂の奥底で念じたまえ。

実際神の智慧と愛とに満たされていて、自分の力が更新されて来ることがわかるだろう。

本経の章句は、朗読するときには、朗々と誦して、その音読のリズムによって、
潜在意識に、「神吾が内にいます」と云う自覚を喚びさますのが好いし、

神想観中、黙念する場合には、あまり長文句は覚えられないから、
自分の心境にかくありたいと思うその一句又は一節を、静かに繰返し念ぜられると
魂の自覚が深まり、肉体が更新し、環境が好転するものである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月4日 頓首再拝>

[154] 「心の独立を得る言葉」釈義C
伝統 - 2014年10月05日 (日) 04時55分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P175〜176)より

第四段

   吾が心は今神の上にのみ注がれてゐる。
   それ故に、吾れはすべての人々に対して、又自分自身に対しても平和なのである。

   如何なる禍も自分の上には降り濺(そそ)がない。
   愛の天使が自分の周囲をとり巻いてゐる。

   吾れはいま吾がいのちが神の子であることを知るが故に、
   無限なる者の力をうけて歩むのである。


以上の如く毎朝夕朗読し、以上の如く、神想観中に黙念せよ。

仏典に「衆生、佛を憶念すれば、佛、衆生を憶念したまふ」と云う語があるが、
神の上に心を注げば、神は自分の心を注ぎたまい、平和を思えば平和が来る。

まず自分が平和な心境になって、相手に対すれば、昂奮している相手の心境も平和となり、
今まで好意を示さなかった相手もたちまち好意を示すようになってくれるのである。

禍が起るのは、概ね自分の心境がイライラしているときに出て来るのであって、
不幸、災難を受けるときの心境は、平常は信心ぶかく見えていても、
屹度心が動揺していたにちがいないのである。

イザと云う時心が動揺しないためには、平常深く深く潜在意識に神との一体観を
印象づけて置くことが必要であると共に、不幸災難とは波長の合わない、
温かいやわらかい、円満な、角だたない心を持つように心がけ、
萬物、萬人を愛する行(ぎょう)を積んで置くことが必要なのである。


「愛の天使」と云う言葉があるが、天使と云うのは、無相(すがたなき)の神から
放送される愛の念波を、人格的に感受する我々の心の受信機でテレビジョン的に見れば、
人の童子の如く、或は金剛力士の如く、或は諸佛菩薩の如くあらわれるのを称して
謂うのである。

今まで、その人の信じていた宗教や信仰に従って、神想観中に天の童子又は諸佛菩薩の姿を
心に描き自分の周囲に神の愛の雰囲気が紫の雲のたなびくように取巻いており、
そこに天の童子や諸佛菩薩が守っておられる姿をありありと観ずるように努力するならば、

ついには実際そのような姿を心の眼で見るような心境に達し、
常にかかる心境でいるときには、環境は自分の影であるから、
実際「如何なる禍も自分には降り濺(そそ)がなくなる」のである。


「吾れはいま吾がいのちが神の子である」と云うのは、世界光明思想全集第4冊の
ハードマン神学(同書参照)と同一であって、生長の家の宗教運動に対して
ハードマン博士が、讃頌の詩を贈って来られたこともそれによるのである。

神を、天の高きところに在るとのみ思ってはならないのである。
かくの如き信仰は旧時代の迷信である。

最近のアメリカに於ける科学に調和する神学は、神を超越的内在的存在として
現象を超えながら現象の奥に存在するのであるとするのであり、

人間の内に超越内在の神として、我の「今ここ」に神が内在し、
すべてのことを教えたまい、導きたまい、すべての悩みと苦しみと病いとを癒したまう
と信ずるような宗教に一致して進みつつある傾向があるのである。

(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月5日 頓首再拝>

[161] 「心の独立を得る言葉」釈義D
伝統 - 2014年10月06日 (月) 06時03分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P176〜178)より

第五段

   吾らは神の子として生きて決して奴隷の如くには屈従しないのである。

   われは法則を守り、法則はわれを護るのである。
   われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。

   吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかすのである。
   今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ている事を感ずる。
   吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。

   吾れは強し。吾れは今生命と愛とを吾が裡に感ずる。


民主主義は個性の目覚めを出発点とする。
そこに、色いろ思い違いや、行き過ぎが生じて反社会的な利己主義、個人主義の生活が
民主主義の生活だと思われる場合がある。

これは甚だ遺憾なことだと言わなければならないのである。

「吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかす」と云う文句があるが、
無我になり、「我」と云うものを放棄してしまったら、「個性」の目覚めをないし、
人間の基本的人権などと云うことも放棄したことになりはしないかと疑う人があるかも知れぬ。

かくの如く疑う人こそ、却って「個性の目覚め」のないところの
旧我の中に沈淪(しずむ)している人である。

個性の目覚めと云うけれども、「真の自分」と「偽物の自分」とをよくよく
甄別(けんべつ)しなければならないのである。

大抵の人は、利己主義の自分を「本当の自分」だと思い違い、
利己主義になることを「本当の自分」を生かすことだと考えているけれども、

神が自分にやどって自分の生命となっているところの「本当の自分」は
神そのものと同じ生命であるから利己主義でなどあり得ないのである。

だから今まで「我(われ)」だと思っていた旧我を捨てたところに
即ち「本当の自分」 ―― 神なる自分があらわれるのである。
この「非利己主義の自分」を生かすことが本当に個性を生かすことになるのである。

このとき「無我」即「真我」「神と一体」となり、
「吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかす」と
云う境地になれるのである。

もう斯うなれば、神は外にましますのでなく、
神はわが内にいて援助して下さっていることになるのである。

だから平和と歓喜とに満たされ、神の生命と愛とが自己の内に躍動していることを感じ、
われはまことに強しと云う自覚が得られるのである。

・・・

(以上で、「心の独立を得る言葉」釈義は終了です。
 次回は、「観音妙智観」釈義に移ります)


           <感謝合掌 平成26年10月6日 頓首再拝>

[166] 「観音妙智観」釈義@
伝統 - 2014年10月07日 (火) 04時13分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P178〜179)より

『日々読誦三十章経』「三日の経言【観音妙智観】」 

吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力の表現であると観ずる。

み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもりたまう瞳である。
梢に鳴る風の音(ね)、小川の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、
これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。

自然界の凡ゆる力は吾れを生かそう生かそうとしている力の顕れである。


吾(わ)が住む世界は最早未知の世界ではないのである。
吾れは此の世界を理解し、此(この)世界は吾れを理解している。
されば吾れは今より恐るるところはないのである。


吾れはいま宇宙に偏在し給う隠れたる力の泉を汲む。
吾れはいま宇宙の凡ての力と調和している。

吾れはいま真(しん)に『愛』そのもの『智慧』そのものに導かれて
平和の道を歩んでいるのである。

観音経には、

『或(あるい)は怨賊(おんぞく)の繞(かこ)みて、各々刀を執(と)りて
害を加うるに値(あ)わんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、ことごとく即ち慈心を
起さん。呪詛(じゅそ)諸(もろもろ)の毒薬もて身を害せんと欲する者あらんにも、
彼(か)の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて本人に著(つ)きなん。

若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利(と)き牙爪(げそう)の怖るべき
あらんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、疾(すみや)かに無辺の彼方に走り去らん。』

と書かれているのである。


観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、宇宙を育みたまう大慈悲である。
吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、
吾れに抗(さから)う力は何処にもないのである。

観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、吾れを導きたまい、
吾れに新しき生命を与えたまう。

観世音の妙智力は全てのものに宿り給う。
それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。

吾れ観世音菩薩に感謝し奉る。


・・・


第一段

   吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力の表現であると観ずる。
   み空の星は観世音菩薩がわれを看まもりたまふ瞳である。
   梢に鳴る風の音(ね)、小川の潺々(せんせん)たる囁き、
   これら全ては観世音の吾れに告げ給ふ御言葉である


観世音菩薩と云うと、何だか仏教だけの仏様であるかのように考えている人がある
かも知れないけれども、決して仏教だけの仏様(ほとけ)ではないのである。

観自在は、「観ること自在」であり、「観ることは働くこと」であり、
又「観ることはあらわれること」であるから、自在に観、自在に働き、自在にあらわれる
ところの神様であり、宇宙の創造主の智慧と慈悲とを象徴(かたちにあらわす)したものが
観世音菩薩である。

生長の家の神様は観世音菩薩だと云うのも、そう云う意味に於いて云うのである。

そう思って、宇宙の萬物、森羅万象(ありとしあらゆるもの)を見るとき、
「み空の星は観世音菩薩がわれを看まもりたまふ瞳である。梢(こずえ)に鳴る風の音、
小川の潺々(せんせん)たる囁き、これら全ては観世音の吾れに告げ給ふ御言葉である。
自然界の凡ゆる力は吾れを生かさうとしてゐる観世音菩薩の力の顕れである」
と云うことがわかるのである。

それのみならず、わが父も母も、良人も妻も、舅も姑も、兄姉も弟妹も、
日本人もアメリカ人もすべて観世音菩薩のあらわれとして、表面は如何に逆う者に
見えようとも、わが心の姿はこんなものじゃと云うことを形にあらわして
吾々を導きたまう智慧と慈悲とのあらわれだと見ることが出来るのである。

早塚さんの奥様が生まれつき癲癇の持病のある娘をもち、17歳になるまで癒えず、
病気抗進して、遂にその発作の極、狂乱状態の如くなったときに

「そのお姿は自分の心を形にあらわし給うた観世音の御姿です。有りがとうございます。
有りがとうございます」と合掌して感謝し、ひれ伏して咽び泣いたとき、

医員たちは、娘のみならず、その母までも発狂してしまったかと驚いた程であったが、
それきり、その娘は正気に復して爾後今に到るまで数年間一度の発作もございませぬ
と云う体験談を早塚さんを導いた上條たか子さんからきいたことがある。

狂乱の娘さえも自分の心を形に表現して吾を救いたまう観世音菩薩の悲願のあらわれだ
とわかれば、もう何が起って来ても驚くことも恐れることもないのである。

ただ感謝し、ただ拝ませて頂くのみとなるのである。
その時、世界はただ慈悲の世界だとわかるのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月7日 頓首再拝>

[170] 「観音妙智観」釈義A
伝統 - 2014年10月08日 (水) 03時43分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P179)より

第二段

   
  吾が住む世界は最早未知の世界ではないのである。
  吾れは此の世界を理解し此の世界は吾れを理解してゐる。
  されば吾れは今より恐るるところはないのである。


すべて恐怖心と云うものは、未知の世界にのぞむときに何事が起って来るか
見当がとれないときに起って来るものなのである。

周囲に起る事件が未知のものではなく、観世音菩薩の悲願(すくいたいねがい)によって
あらわれて来るものであり、それがみな自分の心の通りの形にあらわれて来るものだと
わかる以上、それは既に知られたるものであって、未知のものではない。

だから決して恐るるに足らぬものだと云うことがわかるのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月8日 頓首再拝>

[176] 「観音妙智観」釈義B
伝統 - 2014年10月09日 (木) 04時18分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P179〜180)より


第三段

   吾れはいま宇宙に遍在し給ふ隠れたる力の泉を汲む。
   吾れはいま宇宙の凡ての力と調和してゐる。

   吾れは今真に「愛」そのもの、「智慧」そのものに導かれて
   平和の道を歩んでゐるのである。

   観音経には、

   「或は怨賊(おんぞく)の繞(かこ)みて、各々刀を執りて
   害を加ふるに値(あ)はんにも彼の観世音の力を念ずれば、咸(ことごと)く
   即ち慈心を起さん。

   呪詛諸々の毒薬もて身を害せんと欲する者あらんにも、
   彼の観世音の力を念ずれば、還りて本人に著(つ)きなん。

   若しくは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利き牙爪の怖るべきあらんにも、
   彼の観世音の力を念ずれば、疾やかに無辺の彼方に走り去らん」

   と書かれてゐるのである。


実際、最近にもこの通りの力があらわれたのである。
亀井潔人氏が終戦後満州で、中共軍にとらえられて、獄舎に入れられたとき、
神想観して生長の家の神様(観世音)を念じ、

「獄舎の扉も必ずひらく必ずひらく、と念じましょう」と同室の人々につげたとき、
其夜突然その扉はひらかれ解放されたのである。

こんな事は偶然の暗合に過ぎないと思われる人があるかも知れないが、信仰あるものには
偶然とは考えられないのであり、偶然だとあとになって考えるような人は、その時の信仰も
そう深くないから、そうした信仰の奇蹟があらわれなかったのも当然であるのである。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月9日 頓首再拝>

[179] 「観音妙智観」釈義C
伝統 - 2014年10月10日 (金) 04時32分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P180〜181)より

第四段
  
   観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、宇宙を育みたまふ大慈悲である。
   吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、
   吾れに抗ふ力は何処にもないのである。

   観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまひ、
   吾れを導きたまひ吾れに新しき生命を与えたまふ。

   観世音の妙智力はすべてのものに宿り給ふ。
   それ故に吾が世界の一切は調和してゐるのである。
   吾れ観世音菩薩に感謝し奉る。


何故そのような奇蹟があらわれるかと云うと、
観世音菩薩は宇宙の内にある小さな存在でもなく、
宇宙の外にあって宇宙を護っている存在でもない。

宇宙そのものが、観音妙智力の展開である。
そして宇宙すべてのものの奥にましまして、それを浄めたまう智慧であり、
それを育てたまう慈悲である。

どんなに大掃除をして畳の埃をはたいても忽ち浄めて澄み切った空気にし給う力であり、
どんなに大海に泥水がそそいでも、やがて紺青(こんじょう)の澄みきる海水と
したまう力であり、我々の身体にどんな故障が起っても内部から肉を上がらせ、
新細胞を新生させる力である。

だから吾等は「観世音の大慈悲はいま、吾れを愛したまひ、吾れを導きたまひ
吾れに新しき生命を与えたまふ」と云う實相をよろしく自覚しなければならない。

それ故、諸君は再び本節の第一段から、この経の全文を、
説明のところは省いて原文のみ、朗々と声をあげて朗誦し給え。

お経と云うものは意味のわからぬ漢文の棒読みのものを読んで、
その意味は特権階級の職業宗教家のみが知っていると云うような
封建的なものであってはならないのである。

万人が意味を知り、知りて朗誦するが故に、真理の自覚益々深まり、
功徳益々大なりと云うのが本当のお経でなければならない。


・・・

(以上で、「観音妙智観」釈義は終了です。
 次回は、「無限力を発揮するための言葉」釈義に移ります)

           <感謝合掌 平成26年10月10日 頓首再拝>

[184] 「無限力を発揮するための言葉」釈義@
伝統 - 2014年10月11日 (土) 07時06分


        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P181〜182)より

『日々読誦三十章経』「四日の経言【無限力を発揮するための言葉】」 

吾れは今心の眼を開いて、わが魂の神的なる性質を意識する。
吾れはいま神にして吾等凡てのものの父なる者とのまつたき結合を意識するのである。

神は総ての上に、また凡てに行(ゆき)亙(わた)りて、
そして自分の中の凡(あら)ゆるところに内在して坐(ま)しますのである。

此の高き自覚を得たのであるから、吾れは敢(あえ)て一切のもののうちの
最も善き物を要求することが出来るのである。


吾れはいま徒(いたづ)らに他(た)に力を求めない。
何となれば神こそ渾(すべ)ての渾てなる力であることを知るからである。
吾れは吾がうちに絶大なる力が宿っていることを敢て確認する。

現在吾が中(うち)に蔵(かく)されたる力が悉くは発(ひら)かれてはいないとは云え、
吾れは其の力を所有することを自覚する。

吾れは吾れに内在する神の力の全部を次第に発揮しつつあるのである。


吾れは無限の生命と一体である。
吾れは無限の智慧と一体である。
吾れは無限の愛と一体である。

『祖神(みおやがみ)』の所有し給う一切を吾れも亦所有するのである。
吾れは何者にも吾が魂の束縛せられないことを誇りとする。

しかも吾れは『祖神(みおやがみ)』と
吾れとが完き結合に於いて一体であることを知るが故に平和である。


『祖神(みおやがみ)』と吾れとの結合を破るような感情が若しあらば、
吾れは今それを永遠に放下(ほうか)するのである。

吾れは善その物と一体である。
吾れは吾が御親(みおや)、吾が神と一体である。

吾れ今わが魂にこの感じを得せしめ給いしことを感謝し奉る。

・・・

(第一段)

   吾れは今心の眼を開いて、わが魂の神的なる性質を意識する。
   吾れはいま神にして吾等凡てのものの父なる者とのまつたき結合
   を意識するのである。

   神は総ての上に、また総ての物に行亙りて、
   そして自分の中の凡ゆるところに内在して坐しますのである。

   此の高き自覚を得たのであるから、
   吾れは敢て一切のもののいちの最も善き物を要求することが出来るのである。


何よりも吾等は「心の眼」を開いて、自分の實相を観ることが必要なのである。
自分の實相、自分の本質が単なる物質であるか、それとも亦「神的」なるものであるか、
充分鑑別(みわ)ける事が必要なのである。

イエスは「人若し全世界を得んとも魂を失はば何の甲斐あらんや」と教えている。
明かに彼は吾々の本質が、物質形態をあらわしている全世界の一切のものよりも
尊きものであることを自覚していたのである。

われらも心の眼をひらいて、わが魂の神的なる性質 ― 
「神の子」なる本質を自覚するべきである。

しかも「神の子」なるものは単なる「個(ひとり)」として個的存在を保ちつつ、
神なる全世界の本源と分離してしまっているものだと考えてはならないのである。
「個」は「全」と一体である。

「全」とは全ての生みの親にまします神の事なのである。
その自覚が吾等の無限力の根源を成すのである。

イエスの奇蹟的な力は「われみずからにては何事をもなし得ず、
天の父われにいましてみ業を作さしめ給うのである」との自覚によって生じたのである。

神が吾らに宿り給うと云うことは、唯神が吾らの脳髄の一点に宿っていますとか、
心臓の一ヶ所に宿っていますとか、そう云う局部的な存在としてではなく、
神は「個」を包容し、且つ一切の「個」に浸透する存在として、

「総ての上に、また凡ての物に行亙りて、そして自分の中の凡ゆるところに内在して
坐します」全体者であり、一般者であるのである。

諸君が神想観をせられるとき、神が「自分の上、自分の全細胞に行きわたりて、
自分の凡ゆるところに内在」したまうように想念せられることは、
此の自覚を深める上に非情な助けとなるのである。

「個」と「全」との合一の意識の得られないことが、
人間の弱小さと不幸と病気の根元なのである。

若し「個」(神の子としての個人)と「全」(神)の合一の全き意識が得られるならば、
わが求むることは神が求むることであり、わが成就せんと欲することは神が成就せんと
欲せられることを知るがゆえに

「吾れは敢て一切のもののうちの最も善き物を要求することが出来るのである。
吾れはいま徒らに他に力を求めない。自分のうちに無限の力が宿つてゐるのだ」
と云う事を自信することが出来るようになるのである。

そこで第二段に移るのである。

(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月11日 頓首再拝>

[186] 「無限力を発揮するための言葉」釈義A
伝統 - 2014年10月12日 (日) 07時28分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P183)より

第二段

  吾れはいま徒らに他に力を求めない。
  何となれば神こそ渾ての渾てなる力であることを知るからである。

  吾れは吾がうちに絶大なる力が宿つてゐることを敢て確認する。
  現在吾が中に宿つてゐることを敢て確認する。

  現在吾が中に蔵(かく)されたる力が悉くは発(ひら)かれてゐないとは云へ、
  吾れは其の力を所有することを自覚する。
  それは吾れに内在する神の力の全部を次第に発揮しつつあるのである。


依頼心を起すものは、自己の内にやどる無限の力を発揮することは出来ない。
それは杖をついて歩むことに慣れれば、両脚が決して逞しく発達しないと同様である。

他に同情を求めるものは、自分を不幸につきおとすか、弱小化するほかはないのである。
何故なら不幸な者か、弱小なものかでなければ、同情せられる資格はないからである。

かくして他に依頼心を起し、同情せられたく思う者は、
同情せられる快感を貪り、同情せられる資格を得るために、
限りなく自分を不幸に突き落し、限りなく自己を弱小化するのである。

されば偉大ならんと欲するものは自己を弱小視し、不幸視してはならないし、
他に依頼心を起し、同情せられることを求めてはならないのである。
そして自己り内に無限力が宿ることを自覚しなければならない。

しかし自己の内に無限力が宿っていると自覚することと、
今現在発揮されている力が既に完全に無限力であると信ずる事とはちがう。

今現在発揮されている力は、
自己自身の無限力の極々一部であることを知ることは智慧のはじめである。

この現在の不完全な力をこのままで神の全能力を発揮しているとか、
このままで円満完全だなどと考えることは偽我慢心と云うものであって、
本当の神の無限力の自覚ではないのである。

だから「吾れは吾れに内在する神の力の全部を次第に発揮しつつあるのである。」と
自覚しなければならない。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月12日 頓首再拝>

[191] 「無限力を発揮するための言葉」釈義B
伝統 - 2014年10月13日 (月) 06時22分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P184〜185)より

第三段

   吾れは無限の生命と一体である。
   吾れは無限の智慧と一体である。
   吾れは無限の愛と一体である。

   「祖神(みおやがみ)」の所有し給ふ一切を吾れも亦所有するのである。
   吾れは何物にも吾が魂の束縛せられないことを誇りとする。

   しかも吾れは「祖神」と吾れとが完き結合に於いて一体であることを知るが故に
   平和である。


自分の内に無限力が宿っていたまう。
しかも、まだその無限力は開発さるべき可能性として宿っているに過ぎないのであって、
まだ充分発揮されていない。

その無限の可能性と現在の不完全との間に横たわるところの距離は
如何にすれば縮め得るであろうか。

その距離をちぢめ、出来るだけの無限の力を現象界に引出すところの方法として、
思念の力、又は言葉の力が利用せられるのである。

すなわち、本文にあるように、
「吾れは無限の生命と一体である。吾れは無限の智慧と一体である。
吾れは無限の愛と一体である。祖神の所有し給ふ一切を吾れも亦所有するのである。」
と思念し、又は朗読することによって、

次第に一層多くの無限智、無限愛、無限生命、無限力が、
内在の世界から現象界に引出されて来るのである。

みずから限ることによって自分自身の力が限られるのである。
封建制度の如きも、その時代の人の心に描かれたる自己束縛の念の投影であって、
人間の心の中から自己束縛がなくなると自然に封建制度も破壊してしまうのである。

配給された自由として、外来の力によって封建制度が一時破壊されても、
若し、人間自身の心のうちにみずからを束縛しみずからを限定する心のあるうちは、
また第二の何らかの形式の自己を縛る制度の如きものが出て来るに相違ないのである。

或る場合には働きたくとも労働組合の強制力や、労働ファッショの外的力によって、
その働きたい力を束縛せられるかも知れないのである。
しかもその外在的力の如く見える束縛力も、実はわが心の想念感情の反映であるのである。

だから、何物にも束縛せられない「完全の自由」を自己に確保するには、
「吾れは何物にも吾が魂の束縛せられないことを誇りとする」と自我の尊厳と自由とを
言葉の力にて高唱し、また思念しなければならないのである。

人間の幸福に、健康に、繁栄に、何が必要であるかと云っても平和ほど大切なものはない。
心の平和の中から人間の幸福は生れ、健康は生じ、
思いつく事物の調子よき発展と繁栄とが生ずるのである。

されば「吾れは祖神とは全き結合に於いて一体であるから平和である」と
常に思念することが必要である。


(次に続きます)

           <感謝合掌 平成26年10月13日 頓首再拝>

[194] 「無限力を発揮するための言葉」釈義C
伝統 - 2014年10月14日 (火) 04時17分

        *『新生の書』第16章 向上の為の黙念(P185)より

第四段
  
   祖神と吾れとの結合を破るやうな感情が若しあらば、
   吾れは今それを永遠に放下するのである。吾れは善そのものと一体である。
   吾れは吾が御親、吾が神と一体である。

   吾れ今わが魂にこの感じを得せしめ給ひしことを感謝し奉る。


『みおや神』と吾れとの結合を破るような感情と云うのは、
怒り、憎み、怨み、嫉み、惜しい、悲しい、口惜しい、高慢、貪り等の感情である。

尤もこれらはすべて自己を物質的存在、有限的存在と観、
他物によって害され、損失を蒙らされたる存在であるとの迷いの意識から来るのである。

これらは神と本質を等しくし、神と一体であるとの自覚の反対であるが故に、
かくの如き心の波長が存在する限りに於いて、
神の無限の智慧・愛・生命が実現することは出来ないのである。

だからこれらの不純なる感情を捨て、而して後に

「吾れは善その物と一体である。吾れは吾が御親、吾が神と一体である」

と心に念ずべきである。


(以上で、「無限力を発揮するための言葉」釈義は終了です。
 加えて、「新生の書」での「日々読誦三十章経 釈義」も終了となっております)

           <感謝合掌 平成26年10月14日 頓首再拝>



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