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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[142] 神想観中に黙念する言葉〜「人生は心で支配せよ」より
伝統 - 2014年10月02日 (木) 01時27分

《神想観中に黙念する言葉〜その1》

          *『人生は心で支配せよ』(P33〜35)より

自分は今自己の生活を意識的に自分自身で支配する。

吾等は今より自分の考えようと思う事物をのみ考える。
自分は自分の生活に何事が湧いて来ようとも、
自己の心を支配することによってそれを支配するのだ。

吾等は自己の思想を日に日に一層よきものたらしめ、
創造を司る宇宙霊が、吾等に一層幸福なる状態にこの世界を創造してくれることを
信ずる。

吾等は至上の智慧に導かれんがために、真理についてのみ考えるのである。
吾等はあらゆる智能に優(まさ)った神的平和を獲(う)るために
信仰のことに就(つ)いてのみ考えるのである。

吾れは今愛の霊に充たされている。
吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。
吾れは今心を開いて至上なる者の感情を胸に受けているのである。

吾れは今意識的に愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。
吾れは今神のみ側(そば)にはべって、
神が吾が力を新たならしめたまうのを待っている。

吾が心は今神の上にのみ注がれている。
それ故に、吾れはすべての人々に対して、又自分自身に対しても平和なのである。

如何なる禍(わざわい)も自分の上には降り注(そそ)がない。
愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。

吾れはいま吾がいのちが神の子であることを知るが故に、
無限なる者の力をうけて歩むのである。
吾らは神の子として生きて決して奴隷の如くには屈従しない。

われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。
われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。

吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかす。
今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ていることを感ずる。
吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。

吾れは強し。吾れは今生命と愛とを吾が裡(うち)に感ずる。


  神想観の坐法、態度、静観時の呼吸法等に就いては、『生命の實相』観行篇、『静思集』
  『詳説神想観』『新聖光録』に詳記してあるから参照せられたい。

           <感謝合掌 平成26年10月2日 頓首再拝>

[143] 神想観中に黙念する言葉〜その2
伝統 - 2014年10月02日 (木) 01時29分

          *『人生は心で支配せよ』(P46〜47)より

吾れはいま力と勇気をもつて新生し、新しき日の仕事と生活とに向うのである。
吾れは今わが仕事にあふるる熱誠をもつて赴く。
吾れは歓びに満たされて進み行く。

そは吾れいま吾が求むるものは凡(すべ)て神より与え給うと信ずるからである。
吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る ―― この感じを失わない。    

吾れは今日も終日(ひねもす)吾れを支えて呉れる無限全能の力を   
わがうちに感ずるのである。何が吾れに起って来ようとも、それに対する準備が 
与えられていないという事はあり得ない。

吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。

吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならばその力は既に与えられているのである。

吾が内なる生命は、神と融(と)け合つて一つとなっている。       
「吾が内より生命の清水(しみず)は無限に泉(いず)み出る」のである。   

「真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給う」のである。
吾れは全能の力によって守護されているのである。

吾れは無限の力の泉を自己の衷(うち)に有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。

今日われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。

吾れはこの魔力の如き力が、吾が内に宿れる「無限なる者」の力で
あることを知るのである。

           <感謝合掌 平成26年10月2日 頓首再拝>

[144] 神想観中に黙念する言葉〜その3
伝統 - 2014年10月02日 (木) 01時35分

          *『人生は心で支配せよ』(P53〜54)より

《観音妙智観》

黙念中に観世音菩薩の力を念ずる者は次の如く念ぜよ。

「吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力の表現であると観ずる」。

み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもりたまう瞳である。
梢に鳴る風の音(ね)、小川の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、
これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。

自然界の凡ゆる力は吾れを生かそう生かそうとしている顕れである。
吾が住む世界は最早未知の世界ではないのである。
吾れはこの世界を理解し、この世界は吾れを理解している。

それ故に吾れは今より恐るるところはないのである。
吾れはいま宇宙に偏在し給う隠れたる力の泉を汲む。
吾れはいま宇宙の凡ての力と調和している。

吾れはいま真(まこと)に「愛」そのもの「智慧」そのものに導かれて
平和の道を歩んでいるのである。

観音経には、

「或(あるい)は怨賊(おんぞく)の繞(かこ)みて、各々刀を執(と)りて
害を加うるに値(あ)わんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、ことごとく即ち慈心を
起さん。呪詛(じゅそ)諸(もろもろ)の毒薬もて身を害せんと欲する者あらんにも、
彼(か)の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて本人に著(つ)きなん。

若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利(と)き牙爪(げそう)の怖るべき
あらんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、すみやかに無辺の彼方に走り去らん」

と書かれているのである。

観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、宇宙を育みたまう大慈悲である。

吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、
吾れに抗(さから)う力は何処にもないのである。

観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、吾れを導きたまい、
吾れに新しき生命を与えたまう。

観世音の妙智力はすべてのものに宿りたまう。
それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。

           <感謝合掌 平成26年10月2日 頓首再拝>

[147] 神想観中に黙念する言葉〜その4
伝統 - 2014年10月03日 (金) 04時35分

          *『人生は心で支配せよ』(P65〜66)より

吾れは今心の眼(まなこ)を開いて、わが魂の神的なる性質を意識する。
吾れはいま神にして吾等凡てのものの父なる者とのまったき結合を意識するのである。

神は総(すべ)ての上に、また凡(すべ)てに行(ゆき)亙(わた)りて、
そして自分の中の凡(あら)ゆるところに内在して坐(ま)しますのである。

此の高き自覚を得たのであるから、吾れはあえて一切のもののうちの
最も善き物を要求することが出来るのである。

吾れはいま徒(いたづ)らに他に力を求めない。
何となれば神こそ渾(すべ)ての渾てなる力であることを知るからである。

吾れは吾がうちに絶大なる力が宿っていることを敢て確認する。
現在吾が中に蔵(かく)されたる力が悉(ことごと)くは発(ひら)かれてはいないとは言え、
吾れはその力を所有することを自覚する。

吾れは吾れに内在する神の力の全部(すべて)を次第に発揮しつつあるのである。

吾れは無限の生命と一体である。
吾れは無限の智慧と一体である。
吾れは無限の愛と一体である。

『父(みおや)』の所有し給う一切を吾れも亦所有するのである。
吾れは何者にも吾が魂の束縛せられないことを誇りとする。

しかも吾れは『父(みおや)』と
吾れとが完(まった)き結合において一体であることを知るが故に平和である。

『父(みおや)』と吾れとの結合を破るような感情がもしあらば、
吾れは今それを永遠に放下(ほうか)するのである。

吾れは善その物と一体である。
吾が御親(みおや)、吾が神と一体である。

吾れ今わが魂にこの感じを得せしめ給いしことを感謝し奉る。

有難うございます。有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月3日 頓首再拝>

[150] 神想観中に黙念する言葉〜その5
伝統 - 2014年10月04日 (土) 04時32分

          *『人生は心で支配せよ』(P76)より

吾れは今、「善」そのものと融合して一体であることを感ずる。
吾れは最早、「善」そのものと疎隔の感じをいだかない。

吾れは「父」の家に住む神の子としての権利を自覚して悦びに満たされているのである。
吾れは悪夢より目覚めて「神」の御許に往くのである。
いま吾れは吾れに内在する神の生命と愛と智慧とを明らかに知るのである。

吾れは吾が境遇と運命とが自己自身の想念の反映に過ぎないことをさとったのである。
それ故に吾れは最も善きものを、最もき潔(きよ)きものを、
最も真(しん)なるものをのみ思うのである。

吾れは凡てのもののうちに、吾が求むる善きものを見出すことが出来るのである。

吾れは今、神の智慧と力とで満ち溢れている。
吾れは、今宇宙生命と一体なることを感じて歓びに満たされているのである。
・・・それ故に吾が求むる一切は必ず成就するのである。

こののことを感謝し奉る。有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月4日 頓首再拝>

[153] 神想観中に黙念する言葉〜その6
伝統 - 2014年10月05日 (日) 04時35分

          *『人生は心で支配せよ』(P84〜86)より

吾れは今、吾が本性が神とまったく同体であることを覚(さと)ったのである。
吾れは神が渾(すべ)てであり、従って神以外に何者もこの世に存在しないことを
知ったのである。

神は渾ての渾てである。
だから吾れがいやしくも存在する限り神と吾れとは一体なのである。
吾れは存在する、それ故に吾れは神と一体なのである。

神と一体なるが故に、吾れは神の本性(ほんせい)より
その善きもの一切を賦(わか)ち与えられているのである。
神の有(も)ち給う総一切(すべてのもの)を吾れも亦有つのである――

有り難い、有り難い、この有り難さに吾が心はわなないているのである。
吾が心は深き聖悦に満たされているのである。

神は全能である。
それ故に吾れも亦全能なのである。

吾れは凡てを知る智慧によって導かれているが故に、吾れも亦全智なのである。
神は疲れたまうことなく、倦み給うことなきが故に、
吾れは決して失敗も疲労もないのである。                     

吾れは神が必ず吾が力を新たならしめ給う事を信ずる。
吾れは神に吾自身をうちまかす。
それ故に金剛圍山(こんごういさん)の動かざるが如く、吾が心も不動である。

(吾等はここまで黙想して、自己に今ぞ発(ひら)かれたる不思議なる力の偉大さに
ついてしみじみ瞑想するがよい。まことにも吾等の力の源(みなもと)は無限である。
この源から来る力は欠乏しない。欠乏は吾等が此の源に供給を仰がないために来るのである。

次(つ)いで吾等は自己が神の凡(すべ)ての属性を賦(わか)ちもつが故に、
自己の心ほど大なる心は宇宙の何処(いずこ)にも存在しないことを冥想するが好いであろう。

果(はた)してしからば吾等は何のために他の人たちの批評の前に萎縮する
必要があろうぞ。また何の為ために他(た)の人たちの非難や、伝統や、偏見を
恐れる必要があろうぞ。次の如く思念せよ) 


吾れはいま他の人たちの偏見や非難や時代の伝統から全然自由である。
吾れはいま自分自身の判断と自分自身の標準とを持つのである。

吾れは人間である ――
吾れは人生の主である。

吾れは他の人々に人間はかくあるべきとは言葉では語らない。
吾れは吾が生活を以って人間はかくあると行じ示すのである。

吾れは今、自分の全意識の解放を得て歓喜勇躍の感に堪えない。
自己が神の属性を賦(わか)ちもつと云うことが歓びでなくて何であろうぞ!

―― 吾れは永遠である。
吾れは本性に於て神とは分ちがたきものである。

吾れは真理である。
吾れは生命(いのち)である。                          
吾れは智慧である。

吾が内に宿る人間神(にんげんしん)は完全である。

それ故に吾れはこの完全さを日毎々々に発揮するのである。
吾れは生ける神の子である。

吾れ今この真理に目覚めしめ給いしことを感謝します。

           <感謝合掌 平成26年10月5日 頓首再拝>

[160] 神想観中に黙念する言葉〜その7
伝統 - 2014年10月06日 (月) 05時02分

          *『人生は心で支配せよ』(P104)より

吾れはいま神 ―― 常に吾が求めを聴いて応え給う親様 ―― に感謝します。
吾が求むるに先だちて吾が語らざる言葉をききて答え給う親様に感謝します。

私は今わが住む世界が吾が気分と想念との反映である事を知らして頂きました。
これを自覚するが故に、私は今よりつとめて美しきもの、善なるもの、
真理なるもののみを考え、語り、そして聞くことに致します。

私は神なるあなたに、「吾と神とは一体(ひとつ)なり」と云う真理の理由(ことわり)を
知らしめ給うことを感謝します。
そしてこの真理を常に心に把持してあなたに愈々近づかせて頂きます。

・・・神との一体感によって、私の想念が正しくなり、私の感情が正しくなり、
従って私の想念と感情との反映なる吾が住む世界が正しくなりつつあることを
私は信じます。

私はいま、歓びと此上(このうえ)なき平和とに満たされています。
「天においても地においても、吾れ私は総ての力を与えられ」ていますが故に、
私はいま創造の歓びを感じています。

―― 神の国の永遠の構図に於て父と偕(とも)に創造するの喜びを感じています。

吾れはあなたに、生命と永遠の愛とを与え給いしことを感謝します。

           <感謝合掌 平成26年10月6日 頓首再拝>

[167] 神想観中に黙念する言葉〜その8
伝統 - 2014年10月07日 (火) 04時17分

          *『人生は心で支配せよ』(P114〜115)より

吾れはいま吾が境遇と運命とを自己の思考によって支配し得ることを知ったのである。

吾が心情が善きものであるならば吾が想う所は善であり、
吾が想いが善であれば吾が言葉は善であり、
吾が言葉が善であれば、吾が住む世界も善なる理想世界になることを知ったのである。

それ故、吾れは今後吾が唇に封印して敢て悪をば語るまい。            
吾れは吾が思想と言葉とにいちいち気をつけるのである。
吾れは今より禍(わざわい)のことを考えない。                 

吾れは禍のことを語るまい。
吾れはまた禍のことを決して耳にしまいと思うのである。             

他(ひと)を審判(さば)こうとする吾が性癖は今まったく自分から隔(はな)れたのである。 
悪を見出す吾が習慣はもう消滅して無くなったのである。

吾れは最早、自分を、そして自分の友達を、それから自分の職業を、
悲観的な言葉をもっては評さない。

吾れは楽観そのものである。
希望そのものである。
吾れは深き歓びに満ち溢れている。

吾れは万人に幸福を与え、万物を祝福する。
吾れは凡ての者に勇気を与える。

吾が言葉は肉となりて形相(かたち)の世界に姿をあらわすのである。

(ここまで黙念して、吾等は自己の言葉が創造作用を有する事をつくづく思念し、自己の境遇に
対して、欲する所をもって命令を下すのである。しかして「この事は実現する」と確信に充ちた
言葉を発するのである。この言葉は創造作用ある言葉である。

従って欲する事物はやがて必ず自己の周囲に集まり来たらざるを得ないのである。
しかして吾等は次の如く感謝する)

・・・この確信を与えたまいしことを神に感謝致します。
吾れに真理を教えたまい、凡てのものを支配する力を与えたまいしことを感謝します。

           <感謝合掌 平成26年10月7日 頓首再拝>

[171] 神想観中に黙念する言葉〜その9
伝統 - 2014年10月08日 (水) 03時48分

          *『人生は心で支配せよ』(P120)より

吾れは吾が心のうちに広大無辺なる宇宙を蔵する。

星をみつめて佇(たたず)む吾れは見詰めらるる星よりもなお広大なのである。
吾れは吾れのうちに星を理解する類なき能力(ちから)のあることを見出すのである。
吾れは空の星以上のものである。

何故なら吾れは彼等を理解すると同時に、自分をも理解するからである。
吾れは天に在(いま)す神々の如くに造られたのである。               
吾れは星の軌道を闊歩する偉大なるものなのだ。

吾れは主の如く永遠の道を歩む者なのだ。
吾れ心を有するが故に、吾れは世界の王者である。
いま吾れは吾が仕事の上に王者としての第一歩を踏むのである。

吾れは星よりも大なるが故に此の宇宙を造れる力と同じものなのである。
然り、吾れは宇宙を造れる力と一体なのである。
いま吾れは凡ゆる種類の恐怖と弱小と卑陋(ひろう)とを超越して生活する。

吾れは空の星に比肩せらるべきものである。

吾れは、大地をつくり、天空を支えたまう神が、われを安固(あんこ)に
保護したまうことを信じる。                          
それ故に吾れはこころ安らかである。

地の造り主、天の造り主と吾れはまことに一体である。
親様に感謝いたします。

           <感謝合掌 平成26年10月8日 頓首再拝>

[174] 神想観中に黙念する言葉〜その10
伝統 - 2014年10月09日 (木) 04時03分

          *『人生は心で支配せよ』(P126〜128)より

(真理を黙念する注意)

読者は上述せる真理に就いて光明思念せらるるが好いのであろう。
上述せる所は唯、真理の輪郭に過ぎない。
この輪郭の中(うち)に読者自身の思念の言葉を盛らるるがよいと思う。

読者は自己の中(うち)に宿る神 ―― 無限我 ―― の偉大さに就いて、心の描き得る
最高度まで自己の想念を高めなければならない。もし無限我に到達せば、決して
力尽きることも、失敗することも、死ぬこともないのである。

「吾れは無限の生命、無限の愛、無限の智慧なり」と思念せよ。
「吾れと父とは一体なり」と思念せよ。
常に吾等は無限者に保護されているのである。
いまよりこの信念を実行に現すように決意せられよ。

約翰(ヨハネ)伝第十章の十九より三十八までを読まれよ。

そして読者は心豊かに真理をみたして、愈々みちあふれる信念が高まった時、
端坐のまま瞑目して、自己の耳に聴こえる程の声で、次の如く誦(しゅう)さるるがよいのである。

声を発するのは言葉の力を利用するのと、雑念を声に奪ってしまうためであるが、
時と場合と気分とに応じて例に倣(なら)って黙念せらるるもよいのである。

また貴方が「真理に就いての思念」を行う凡ゆる場合を通じて、黙念が却(かえ)って雑念を
混じえるような時には、黙念に代うるに、自己の耳に聞こえる程度の音誦(おんしょう)を
せららるもよいのである。

特に調子(リズム)を帯びた急調で繰返して信念を高むる真理を音誦せらるるならば
雑念の発生を防ぎとめて深き信念に到達し得ることのあるものである。

仏蘭西(ふかんす)人クーエ氏の創唱にかかる「クーエ療法」なるものは、
病気に対して「去れ(サ・パス) 去れ(サ・パス)」なる語をリズムを帯びた音調で
繰返すことによって著しき治療的効果をあげているが、此の治病的効果は言葉の力を
証明するものとして価値ある一例である。

吾等の瞑想 ――

(黙念する言葉)

吾が生きている生命は無限の生命である。
それ故に吾は完全に健康である。

吾がいだいている愛は無限の愛である、
それ故に吾れは完全に幸福である。

吾が心に宿る智慧は無限の智慧である、
それ故に吾れは平和であり調和である。

今われは平和と、安心と、及び漲る力の感じとに満たされている。

吾れは神の無限の生命(せいめい)の内に生きている。
無限の愛の内に生きている。
無限の智慧の内に生きている。

有難うございます。有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月9日 頓首再拝>

[178] 神想観中に黙念する言葉〜その11
伝統 - 2014年10月10日 (金) 04時23分

          *『人生は心で支配せよ』(P132〜134)より

吾れは善事を求める。善事をのみ求める。                   
吾れは万物のうちに、そして万人のうちに神の「善」の宿るのを見る。

神は「善」である。
そして吾が求むるもの、吾が思うものを、何よりも先ず与え給う。

吾れは神を吾が「愛深き父」「優しき救い主」だと認める。
吾れは凡ての物のうちにやどる神の調和と、宇宙にみなぎる愛と心とを感ずる。    
神は凡(すべ)ての者の父でありたまう。                   

それ故に吾れは万人を吾が友、吾が兄弟であると観ずる。
誰もこの世界に吾れに敵対する者もなければ、
吾れもまたこの世界の誰にも敵対しないのである。                

全人類は吾が親戚であり、吾れは全人類の友である。

吾れはいま万物、万人および宇宙を司どる法則が
吾が心を反映するものであることを知る。
―― それ故に、吾れは高き善き想念のみを心に描きつつあるのである。     

吾れはいま最も輝かしき信仰と、朗らかな情緒とで満ちあふれている。


(ここまで黙念せられたならば、諸君は自己の肉体及び運命が一層よくなると云う
思想をもって心を満たさるるが好いであろう。

もし諸君が病気であるならば病気とは誤れる思想の産物である所以を思念せられよ。
そして出来るならば、病気を惹(ひき)起こした心的原因を探し出して、
それを外なる暗闇に抛(な)げ出(い)だされよ ――

即ち其れらの原因が諸君の上に何の力も及ぼし得ない物であること、
即ち諸君にとって無であることを強力に思念でられよ)


吾れは「悪」に本来力なきことを知る。
「悪」の有(も)てる力は吾れがそれに賦(あた)えた力のほかには何物もないのである。

吾れはいま「悪」に与えた力を取り返すのである。
即ち「悪」が実在すると云う思想を撤回する。
それ故に「悪」はいま本来の「無」に帰したのである。

吾れはいま円満完全なる神の子である。                         

吾れは健全なるものと調和せるもののみを思考する。                 
吾れはいま健全と調和とのみを宇宙より受けるのである。
宇宙の心は吾が想念に全く相応ずる事物を造ってくれつつあるのである。        

吾が想念は完全円満である。                            
吾が信仰は確固不壊である。

吾れは自己が完全に健康であることを思考する。
いま、吾れは既に癒されたのである。                     

つねに吾が求めを聴き給う神に感謝致します。                  

いまより吾れはわが父と偕(とも)に語り、神と偕に歩む。            
それ故に吾れは吾れを信じ、神を信じ、総てのものを信ずる。 

           <感謝合掌 平成26年10月10日 頓首再拝>

[183] 神想観中に黙念する言葉〜その12
伝統 - 2014年10月11日 (土) 04時27分

          *『人生は心で支配せよ』(P137)より

いま吾が生活を支配する法則は愛と信仰と繁栄とそして真理とである。
吾れは何の間違もなしに吾が未来を透見し得る ―― 何故なら吾れは今日
未来の刈入のために善き種子(たね)を蒔きつつあるからである。

われは善き収穫を預期する。
それ故吾れは平和と信仰とのうちに晏然(あんぜん)としているのである。
吾れは神の手に吾れを委ねる。

神の法則は愛である。
神に感謝致します。
有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月11日 頓首再拝>

[185] 神想観中に黙念する言葉〜その13
伝統 - 2014年10月12日 (日) 07時08分

          *『人生は心で支配せよ』(P143〜144)より

吾れは、神は生命であり、愛であり、そして智慧であることを知る。
吾れと神とは一体であるが故に、
吾れは、神の生命と愛と智慧とが吾がうちに宿っていることを知る。

吾が裡(うち)には広大なる信仰が植えつけられているのである。
吾れは無限愛の持主なる神より流れ出たところの新しい信念を感ずるのである。

吾れのうちに、吾れの上に、吾れの周囲に、
神が隅々に行き亙(わた)って神の愛は宿っているのである。
神のすべての力すべての愛は吾れに与えられているのである。

吾が心は完全に浄まって、
吾れは今神の与え給う最高のものを受けつつあるのである。
吾れは今深き歓喜と感謝とに充たされながらそれを受けつつあるのである。

吾が求めに常に応えたまう吾父なるあなたに感謝致します。
有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月12日 頓首再拝>

[190] 神想観中に黙念する言葉〜その14
伝統 - 2014年10月13日 (月) 05時03分

          *『人生は心で支配せよ』(P149〜150)より

吾れは創造者なる宇宙霊と一体である。

宇宙の心は吾れに依って完全に自己を表現しようとしているのである。
吾れは神と偕(とも)に創造する使命を与えられたのである。
有難い、有難い。今吾れは創造せんとする理念と構図でみたされている。

吾れは一切のものを造りたまいし智慧そのものと一体である。
吾れは何を思考し何を造るべきかを宇宙の心に教えられるのである。
吾れはいまより神の霊に導かれて巧みにそして真実に創作することが出来るのである。

吾れは新しき力と能力とを感ずる。
吾れは心も肉体も新生したのである。
吾れは歓びと希望とに雀躍(こおどり)する。

吾れは智慧そのもの真理そのものが自分に宿っていることを感ずる。
それ故に吾が創造力は完全である。
有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月13日 頓首再拝>

[192] 神想観中に黙念する言葉〜その15
伝統 - 2014年10月14日 (火) 04時03分

          *『人生は心で支配せよ』(P156〜157)より

吾れはいま見えざる力に結ばれている。
吾れは神と一体である。

神のもち給える一切のものを吾れも亦有(も)つのである。
天地をつくり給いし神より吾が援(たす)けは来(きた)るのである。
神の力は同時に吾が力である。

吾れは神の子である。
吾れは神の有ちたまえる一切の物の継承者(よつぎ)である。

神は力そのものである。
それ故、吾(われ)も亦力そのものである。

神は智慧そのものである。
それ故、吾れはあらゆる場合に神の智慧に導かれる。

神は貧しさをしらない。
それ故、吾れも亦貧しさを知らない。

神は愛そのものである。
それ故、われは慈悲と愛とにみたされているのである。

神が満たしたまわない欲望は吾れに一つだにないのである。
神の目は雀をすら見まもり給う。
それ故神が吾れを見まもり給わない筈はないのである。

吾れは吾がうちに宿れる神性を自覚して歓喜勇躍している。
吾れは神と偕(とも)なるが故に、如何なる禍(わざわい)をも恐れない。
常に永久に吾れは与えられて不足すると云うことはないのである。

(この高き意識に到達したる時、諸君は自己の欲する事物を心に描いて、
宇宙の心にそれを印象し、必ずそれが与えられると預期するのである。――
この意識をしばらく継続して、心の奥底からそれを感ずるようにし、
そして黙想を次の如く継続する。)

吾が求めは今なされたのである。
吾が求めは今なされたのである。

吾が求めを常にききたまう吾が父に感謝します。

           <感謝合掌 平成26年10月14日 頓首再拝>

[195] 神想観中に黙念する言葉〜その16
伝統 - 2014年10月15日 (水) 04時11分

          *『人生は心で支配せよ』(P165〜166)より

「主は吾が光であり給い、吾が救いでありたまう。されば吾れ誰をか恐れんや。     
主は吾が生命(いのち)の力であり給う。されば吾れ誰をか恐れんや。」        

吾れは吾が経験する一切の事物のうちに吾れを導き給う神を感ずる。
神が吾れを護り給うとき吾れに何等の災厄もないのである。
神がわれを慰めたまう時、吾れに何等の悲しみもないのである。

吾れは神の曇りなき愛、完たき心にいだかれているのである。
吾れは神の保護を漏れる恐れを知らない――神の在(い)まさざる所はないからである。

吾れは「善」そのものに取り巻かれているのである。
吾れは「善」そのものの懐にいるのである。

吾れを取り巻きて、吾がうちに、そして吾がうちに、周(あま)ねく、         
神の愛は在(まし)まして、吾れを見捨て給わないのである。             

吾れ闇を歩むとも、神は吾が光であり給う。
吾れ海を航すとも、神は吾が羅針盤にてあり給う。

吾れ孤(ひと)りいるときも、神は吾が伴侶(とも)にてあり給う。

されば吾れ誰をか恐れんや。
吾れには恐るる所のものも人もないのである。

吾れに死は来たらない。生命(いのち)のみが凡てであることを知るからである。    
吾れは暗黒と見ゆる谷を歩むとも生命(いのち)はつねに吾れに附き随う。      
吾れは禍を恐れない。禍と見ゆるものは進一歩の過程である。                               

吾れは生命(いのち)、神は生命(いのち)、凡ては生命(いのち)であるのである。  
吾れはいまより信仰と、自信力とを有(も)って進み行くのである。          

           <感謝合掌 平成26年10月15日 頓首再拝>

[201] 神想観中に黙念する言葉〜その17
伝統 - 2014年10月16日 (木) 04時05分


          *『人生は心で支配せよ』(P182)より

吾れは恐れない。
神はすべてであり給う。

神以外のものは何物も存在しないのである。
神は善なるが故に悪は決して存在しないのである。

神は護り給う。
神は養いたまう。
神は吾れを持ちたまう。                            
神は吾れを愛したまう。

如何なる禍も吾れに来らず、
如何なる疫病(やまい)も吾が家には見舞わない。

神は吾が行くところに常にその天使をつかわしたまいて
吾れを看まもり給うのである。

吾れは真理を自覚したるがゆえに自由である。
吾れは父と偕(とも)に人生の行路を歩む。                   

吾れは「善」と「真理」とのみを見る。
吾れはそのほかの何物をも見ないのである。

神は凡てでありたまう。                        
吾れは終日吾がたましいの内にかく叫ぶのを聞くのである――    

吾れは心のうちに病いも貧しさも恐怖も考えない。
吾れはただ真理と愛と生命とのみを考える。―― と。              

一切のものは神のものである。
一切のものは吾がものである。                         

神の力のみが実在する力である。
父のもち給う一切のものは吾がものである。                   

吾れ一切のものを父より承けたるが故に、吾れは全てである。         

吾れが父に感謝いたします。    

           <感謝合掌 平成26年10月16日 頓首再拝>

[203] 神想観中に黙念する言葉〜その18
伝統 - 2014年10月17日 (金) 06時16分


          *『人生は心で支配せよ』(P192〜195)より

神は霊の世界にまします。
霊の世界に『悪』は無い。吾れはもう悪を恐れない。
何故なら神は吾れと偕(とも)にいますからである。

如何なる禍も吾が身に振りかかっては来ないし、
如何なる疫病(やまい)も吾が住家(すみか)には来らない。

神は吾が往くところに常にその使者(つかい)を遣わして吾れをまもり給うているのである。  
神の使者(みつかい)の手は吾が身を支えてい給うが故に、                
吾れを躓かしめる一箇の石だもないのである。

吾れはまったき愛に懐かれて恐怖心一切は消滅したのである。
吾れは最高のもの至美(しいび)のもののみを心に思うが故に、              
恐怖心は吾れに近寄らない。

(この時不安一切を撃滅するように心中に主張するのである。
不安を撃滅する道は如何? 恐怖せざるにある。}

失望よ、恐怖よ、吾れは今汝を正視して汝を拒絶する。
吾れは汝以上のものである。
汝は自分に何の関係もないのである。

吾は自分を憐れまない。
何故(なぜ)なら自己憐憫は恐怖心を一層増大するものであるからである。

(仮りに読者が恐るべき病気にかかっていると云う感じがするのであるならば、それを
恐怖することは病気を一層悪くするに過ぎない。吾れ健全ならんと欲すと決意した人の
信念と「真理の黙念」との前には如何なる病気も屈服するのである。

そうして健康を回復する唯一の道は恐怖心を停止し、
健全にして希望に満ちた事のみを思考するばよいのである。)

吾れは天においても地においても、神の全ての力を与えられているのである。
吾れは此の吾が内に宿れる神の力を駆使して
一切の欲することを成就し得て神に感謝する。 

自己憐憫及び恐怖の情は最早われに対して何の力もないのである。
吾れは何人が自分を憐憫することを許さない。               
何故なら他から憐れまれるのは自分の弱さを肯定することである。

自分は神の子であるが故に決して弱さをもっていないのである。
自分は完全に神と結ばれているが故に、吾は決して恐れはしないのである。

(もし読者が事業の失敗を懸念する場合にも、同様の思念をもって恐怖心を撃滅するが
よいのである。失敗を恐れれば失敗は来るのである。吾等は不安し恐怖するからと云って、
そのために何一つ善事が出来る訳ではない。
それは万一の場合の力を殺(そ)ぐに過ぎない。)

野の百合をすら装わせ給うた神が吾がことを看まもっていたまうのである。
それ故この事が失敗したのは一層善きことが来らんがためであると、          
吾れはそれを安心して確信することが出来るのである。

(著者は現在の失敗が、唯、一層大なる成功の序曲であるような実例を多く知っている。
時として、在来から鬱積していた失敗、悲哀、不調の想念が破産の火の手又は
洪水によって一掃されて、次なる大成功のために道を拓いたと云うような例まであるのである。

こうして幾百千の人々は一層高く攀(よ)じのぼらんがために一たびはドン底へ
落ちたのである。失敗の恐怖は何等のたすけにならない。

信念をもて。これが最も必要なことである。                      
自己を信頼せよ。他を信頼せよ。神を信頼せよ。         
勇気と信念とだにあればその戦いは既に半ばは勝ったのである。        

決断、意志の強さ、勤勉は残りの半分である。                     
能(でき)来ると思うことは出来るのである。)        

吾れは成功する力があると知るが故に吾れは成功するのである。             

吾れは成功である。                                 
吾れは信念である。                                 
吾れは勝利である。                                 

信仰は世界を支配する勝利者である。
吾が信仰は宇宙にひろがる大きさを有(も)っているのである。

(このとき読者は自己の欲する積極的事物を心に描いて暫時それに思念を集中せらるるが
よい。そして最善最上のもののみを獲(う)るのだと決意せられよ。

諸君がそれを如何にしたら得られるか知らないにしても、諸君のうちには、
それを知っている全智が宿っているのである。その全智に信頼するが好い。
全てを知り給う神の叡智に導かれようと決心せられよ。

神の叡智は諸君の心に採(と)るべき道を直覚的に囁(ささや)かれる。
健康、富、愛その他欲しい思う善き物を得るために、信念をもって
新開拓の第一歩を踏(ふ)み出されよ。

諸君のうちに宿り給う神が、最上の道に諸君をすぐ導いて下さるのである。
さて、この欲する事物を心に描いて思念を専注(せんちゅう)しながら念ずる。)

このことを吾れに来らしめ給え、可能の最善の形において来らしめ給え。
吾れを神の叡智によって導きたまえ。神の栄光を吾れを通じて顕さしめ給え、
あなたは何よりも先ず吾が求むるものを与え給います。              

吾れの関係せる事物はすべて都合よく行くことを感謝します。              

(この瞬間、自己に既に神の叡智の与えられたことを暫時思念し、
「聖旨(みこころ)にかなわばこの事を成らしめ給え」と
心に歌いながら、現実の仕事に帰れば好いのである。)

           <感謝合掌 平成26年10月17日 頓首再拝>

[207] 神想観中に黙念する言葉〜その19
伝統 - 2014年10月18日 (土) 03時12分

          *『人生は心で支配せよ』(P192〜195)より

吾れはいま最(い)と高き者の奥殿に這入(はい)ったのである。
吾れは神の御前(みまえ)にいて平和である。

この世のものは今わが眼界にない。
吾れは今五官の世界を去って霊の奥殿にとじこもるっている。

われは渾(すべ)ての渾(すべ)てなる者 ―― 神に触れている。
吾れはそこから生命(せいめい)と平和と豊富との泉を汲むのである。
吾れは神の御前(みまえ)に侍る ―― 神は吾が力を新生したまいつつある。

吾が心は開かれ、吾がたましいは啓示を待つ。
吾が体は神の無限の治癒力(なおすちから)に触れている。

この霊の静かなる奥殿に吾れは恐れなく、いとやすらかにいるのである。
如何なる禍も吾れには降りかかることが出来ない。
如何なる悪も吾を悩ますことは出来ない。

何故(なぜ)なら吾れは悪を恐れない。
悪は実在の力ではないからである。

吾れは唯善のみを見、善のみを聞くのである。
吾が前にはすべてのものは美(うる)わしく、すべてのものは善である。

吾れは神の有(も)ちたまう新生力と創造力にうちまかせる。
吾れは神を信じて法悦に満たされている。

神に感謝をささげます。有難うございます。有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月18日 頓首再拝>

[209] 神想観中に黙念する言葉〜その20
伝統 - 2014年10月19日 (日) 06時00分

          *『人生は心で支配せよ』(P209)より

1日3回、きまった間隔をおいて、3、4分間
まったく静かな休養の時間を見出して
諸君は自己自身に対し以上の如く繰返されよ――


「神と偕なるが故に一切のこと能(あた)わざるなしである。
われは如何なる禍をも恐れない。神われと偕にいますからである。
われは神を信ずる。神を愛する人に対しては、一切萬事都合よく行くのである。
吾れは新大陸を発見しつつあるのである。」                      


こう断乎として決然とした態度で自己自身に言うのである。
諸君はこれによって、法則をして諸君の都合よきように
めぐらしめることが出来るであろう。

           <感謝合掌 平成26年10月19日 頓首再拝>

[213] 神想観中に黙念する言葉〜その21
伝統 - 2014年10月20日 (月) 06時22分

          *『人生は心で支配せよ』(P218〜219)より

イエス言い給えり。
「吾れを信ずる者は、吾れより大なる業(わざ)を為すことを得ん」
吾れはいまこの言葉を自分の霊性に就いて言われたる言葉だと知る。


吾れは吾がうちに内在する神性を信ずる。                    
吾が内に希望の光なる神性が宿っていたまうことを信ずる。       
吾れは吾れにやどる高き霊性を信ずる。                      

吾れは吾が内に生命と、愛と、神通自在の神が宿っていたまうことを信ずる。     


吾れはイエスが言いたまえる「吾れよりも大なる業(わざ)を為すことを得ん。」
と云う言葉の真(まこと)なることを信ずる。


「吾れは天に於ても地に於ても凡ての権を与えられたり」(マタイ伝28章18)がある。    
それゆえに吾れは吾が信じて言える言葉のままに
吾が求むるものが実現することを信ずる。

今日より吾が言う言葉は神の威力をもつ。                 
「吾が求むるごとく、これを吾れに為したまえ」
(かく念じて自己の欲する事物が既に成就することを心に描くのである)
                   
既に神は吾が求むる如く吾れに為したまうたのである。                

吾れは歓びと感謝に満たされているのである。
神は導き給う。神は栄えしめ給う。神は祝福したまう。
神は吾れをして全人類に対する光明とならしめ給う。                 

何故なら吾れは神と、そして神の約束とを信ずるからである。

生命と信仰とを与え給いし神に感謝します。 
有難うございます。              

           <感謝合掌 平成26年10月20日 頓首再拝>

[214] 神想観中に黙念する言葉〜その22
伝統 - 2014年10月21日 (火) 04時26分

          *『人生は心で支配せよ』(P224〜225)より

吾れはいま吾が生命にどんな欠陥も感じられない。
吾れはいま自分の認めたところのもののみ実在であることを知ったのである。

吾れは最早禍と生命の弛緩(しかん)とに本来なき所の力を賦与(ふよ)しない。

吾れは悪と不幸とを見ない。                            
吾れは悪と不幸とを聞かない。                           
吾れは悪と不幸とを語るない。                           

誰も自分に対しては不正と不完全とに就いて話を持ち出すことは出来ないのである。
何故なら、私は不正と不完全とを聴かないからである。

私は消極的な思想や暗示に感じない。
そのようなものは私を動かすことは出来ない。                     
何故なら私はそれ以上のものであるからだ。                   

私は、あらゆる弱さと小ささとを踏み超えてしまっている。      
いま、吾が心は積極的である。
私は果断と、勇気と、そして神、人間、及び自己に対する信頼の念で満たされている。

私は吾が為す所のものを権威をもってなすのである。                
吾が言うところの言葉を私は断固たる態度で言うのである。             
私は強く、力に充ち、沈着で、平静である。                    

私の背後には神の無限の生命、無限の愛、無限の智慧がひかえている。   
それ故に吾れは強き自信力にみたされてゆるがないのである。             

「我れは天にても地にても、一切の権を与えられているのである」。   

           <感謝合掌 平成26年10月21日 頓首再拝>

[219] 神想観中に黙念する言葉〜その23
伝統 - 2014年10月22日 (水) 03時47分

          *『人生は心で支配せよ』(P235〜236)より

吾れはいま信仰によって不安なき平和のなかに静坐している。
吾れは恐れない。
吾がうちには無限の愛と信仰とが宿っているからである。

このやすらかさ! このやすらかさ! 
今、今、今、このやすらかさ! 吾れやすらかなり!
吾れは肉体的にもやすらかなり、吾れは精神的にもやすらかなり。

吾れと父と一体なるが故に、無限の霊的平和のうちに坐するのである。
如何なる時にも神の子には一つの安き所が残されているのである。

吾れは意識の無限伸展を感ずる。
われはいま無限の生命と融会(ゆうえ)している―― それ故に、吾れは何事についても
常に神に導かれるのである。

吾れはいま小さき自我ではないのである。
より大なる真の自我である。
何故なら吾れは無限の生命及び無限の智慧と一体であるからである。

吾れはこの静かなる時間より、吾れを導き吾れを鼓舞したまう無限の智慧と
信仰との光をたずさえて、浮世の仕事に帰り行くのである。

無限の智慧と信仰とを与えたまえる吾が父なる神に感謝致します。

           <感謝合掌 平成26年10月22日 頓首再拝>

[221] 神想観中に黙念する言葉〜その24
伝統 - 2014年10月23日 (木) 04時04分

          *『人生は心で支配せよ』(P241)より

吾れは霊である。
吾れは生命(せいめい)である。

吾れは神のうちに住む。
神のほかに何物も存在するものはない。

如何なる禍も霊なるものの上には降りかかって来ないのである。            
吾が心は正しい。

「神に、その心を注げる者を神はまったき平和にまもり給わん。」          
自分はこのことを確信するが故に吾が心は平和である。               

―― かくの如き思念を心中(しんちゅう)に繰返し肯定するのである。

           <感謝合掌 平成26年10月23日 頓首再拝>

[226] 神想観中に黙念する言葉〜その25
伝統 - 2014年10月24日 (金) 04時59分

          *『人生は心で支配せよ』(P245)より

吾れは今日、至上の叡智に対して鋭敏な感受性を持っている。       
――それ故に自分及び他にとって最上のものを選ぶことが出来るのである。       

吾れはこれを選ぶ。(その内容を思念する。)                   
吾れはこれを成就するために猛進する。               

吾れは今日、人及び境遇を恐れない。
吾れは環境をつくるのである。
吾れは吾が運命の主人である。

われは何を意志するも為すも自由である。
吾れは吾がうちにはたらく神の力を感ずる。
霊妙な力が吾が内に流れいる。                            

吾が鞏固(きょうこ)なる意志は一種の磁石である。
この磁石は吾れに必要なる一切を引きつける。
この磁石は吾れに友人を惹(ひ)き着けてはなさない。                    

吾れは勇気ある霊魂をもつ。                      
吾れは最高真理の啓示を受ける。
吾れは自己の仕事のうちにすぐれたる智慧のみを示す。

吾れは今日、無限の力を自覚し、神の愛と智慧とにみたされたる者の
もつ力をもって自分の役割を演ずるのである。

吾れは勝たんとする意志を有する。
神は能(あた)う。
それ故に吾れは能(あた)うのである。

           <感謝合掌 平成26年10月24日 頓首再拝>

[231] 神想観中に黙念する言葉〜その26
伝統 - 2014年10月25日 (土) 04時26分

          *『人生は心で支配せよ』(P255〜257)より

吾れは今神の子の権威によって自己自身の天国をつくりつつあるのである。
今日いちにちは吾れの所造であり、吾が環境は、吾が所造である。  

今日いちにち、吾れは此の日を祝福する。                
それ故、今日いちにち吾れは祝福されたる日をもつのである。       

吾れは栄えると信ずるが故に、吾れは栄えざるを得ないのである。
吾れは善き友達を有(も)つと信ずるが故に善き友達は来るのである。        
吾れは全ての人を愛するが故に全ての人は吾れを愛するのである。                   

(もし諸君の商売が繁昌しないならば、店へ往って店に祝福を与えるが好い。)

―― この場所は吾が創(つく)れる場所である。                        
それは吾が想念の反映である。                          

誰も自分以外の者は、それに失敗と衰微との観念を与える事は出来ない。
ここには失敗と衰微との想念は決して漂っていることは出来ない。          
この場所は成功と繁昌との雰囲気に満ちているのである。              

ここに来るところの顧客は皆、心ゆたかな裕福な者ばかりである。        
吾れは仕事と成功とを引きつつつある。                    
吾れは人々に信用の念を吹き込む。                        

吾れはこの店の品物はよいと云う微妙な雰囲気を放射する。       
この店へ入(い)り来(きた)る者はその雰囲気を感ずる。           

吾れは吾が商売が繁昌すると云う信仰をつねにいだいて離さない。          
吾れは失敗と衰微とのことは考えないのである。                  
唯(た)だ成功と繁昌とのことのみを考える。                   

吾れに昨日及び以前に起ったことが、成功でなかったならば、       
それを忘れて了(しま)うのである。

吾れは此の場所に新しい光を点じたのである。

(かくの如く黙想思念して自分の店舗を祝福し、それと同時に終日この気分を
失わないようにするのである。更に毎日かく店舗を祝福して成功の雰囲気が店舗に
充ち満ちて、事実上店舗が隆盛になるまで、継続してこの気分を失わないようにするのである。

そして一方全力をつくして、人々から見てこの店は万事都合よく往っていると考えられる
ように立ち働くのである。

銀行家はその店の信用がなくなったら金を貸し出さない。
それと同じような理由で諸君は高き心的態度を維持して出入の顧客に
安心を与えるようにしなければならないのである。)

もし諸君の好ましくない境遇と云うのが家庭のことであるならば、
次の如く自己の家庭について思念黙想せられるがよいであろう。 

「この家は吾がたましいの棲家(すみか)であり、吾が心の家庭である。

吾れは調和であり、愛であり、調和と愛のみを此処に引寄せるが故に、            
この家に不調和はあり得ない。
この家に住む全ての人は思慮深く、深切で、思い遣(や)りがあるのである。

吾れはここに住む全ての人々を信頼する。
この信頼の念は裏切られはしない。

吾れは今新しい心的態度に目覚めたのである。
この家に来たる何人も吾が愛に目覚めたるこの心持を見のがしはしないのである。
全ては調和しており、一切のものは歓びに満ちている」                


諸君は結果が得られるまで此の真理を毎日黙想思念しなければならない。そして自己の
信仰が宇宙の心と一体となるようになったことと、思念に従って次第に自己の求むる
事物が実現の道にあることを忘れずに神に感謝するようにしなければならない。

           <感謝合掌 平成26年10月25日 頓首再拝>

[233] 神想観中に黙念する言葉〜その27
伝統 - 2014年10月26日 (日) 08時01分

          *『人生は心で支配せよ』(P264〜265)より

吾れはいま隠れたる霊的実在の世界に入ったのである。          
吾れは今、「一切の根元なるもの」と接触しつつあるのである。
眼に見ゆる世界のものは今扉の外に遂(お)い出したのである。

吾れはいま吾が存在の奥殿にとじこもっている。                 
生命と愛と平和と神は吾れを囲繞しているのである。           
神のうちに吾れは生き、呼吸し、存在しているのである。

吾が吸う息はことごとく神の霊である。                       
吾れは生命の水を思うまま飲みつつあるのである。            
純な聖(きよ)き愛の流れは、吾が身体(からだ)の隅々までつらぬいて流れている。  

この愛の流れは吾れより一切の不純、利己的思考、一切の弱点、一切の悪、一切の卑しさ、
一切の罪を洗いきよめてくれつつあるのである。                      
それは吾が肉体、吾が心の隅々からことごとくの吾が罪を流し去ったのである。

いま吾がうちには清浄と愛とのほかに何ものもないのである。             
神の生命のの水が吾をみたしているのである。                  
神の生命は吾がうちに充ち溢れている。                         

神の愛は吾がうち満ちてている。                          
神の平和は吾れを捉えてはなさない。

恐怖、不安、及び神らしからぬ一切は吾が心身から逃げ去ってしまったのである。    
吾れは神の愛にみたされている。
神は此処に坐(まし)ますのである。

有難うございます。

           <感謝合掌 平成26年10月26日 頓首再拝>

[238] 神想観中に黙念する言葉〜その28
伝統 - 2014年10月27日 (月) 04時21分


          *『人生は心で支配せよ』(P274〜276)より

吾れはいま吾れを通じてはたらき給う内なる神の力に信頼する。

吾れは内なる叡智に信頼する。
この叡智は吾がものではない。
しかし又吾れを離れたる智慧でもない。                       

吾れに宿り給う神である。
吾が霊魂(たましい)は神と一体となって照り輝く。                 
吾れは光り輝く自分である。                      

吾れはなお現在意識に於いて知らないが、
既に全智なる者は吾が内に宿っているのである。                   

(さて、此の感を最高の点まで緊張させて、しかる後(のち)こう念ずるのである
―― )

「この問題に関して吾れは導かれんことを希(こいなが)う。             
吾れは導かれる。
吾れは如何なる方法をとるが最善であるかを教えられるのである。」          


然る後直覚の指導の来ることを預期して、暫し黙して無想の状態にいるのである。

かくて「吾れはいま宇宙の叡智の創造的活動が、
この問題に対して活動しつつあることを自覚する。
吾が求むる如くならしめ給えることを感謝いたします。 
有難うございます。有難うございます」

と感謝の念を繰返し、それが済むと、
神が適当の時期を選んで、自分が何を為すが最も善きかを必ず知らして
下さると云う確信の念をもって実務にとりかかれば好いのである。

もし諸君が現在やっていることが最善の方法であるならば、
これで万事よいのだという確信が心の底に湧いて来るものである。


(もし吾々が治療家として他人治療を行う場合には、吾等は患者の内部器官が
どんな状態であろうと、どんな形状をしておろうと知る必要はないのである。
それを知るところの意識はわが内に宿っているのである。

それ故吾等が、心中しずかに相手の肉体の一切の器官が完全である事を思念しさえすれば、
肉体の病的部分はそれが何処であろうと治癒するのである。


運命の隆昌を希う『思念』を行う場合も、この病気治療の場合と同一原理が応用
せられるのである。それ故、諸君は神の完全なる智慧に信頼する旨を宣言し、
運命隆昌の観念を只管(ひたすら)思念せられるならば、諸君にやどる神の叡智が
運命の隆昌を来す最善の道を見出して呉れるのである。

諸君に宿って観念を形成して呉れる心も、それを具体化してくれる心も一つである。
それ故思考は物とならざるを得ない。言葉は肉とならざるを得ないのである。

さて最期に諸君は「既にこの事に就いて無限の叡智で導き給いしことを感謝します。
有難うございます」と感謝の思念を繰返して黙念をを終るのである。)

           <感謝合掌 平成26年10月27日 頓首再拝>

[240] 神想観中に黙念する言葉〜その29
伝統 - 2014年10月28日 (火) 04時10分


          *『人生は心で支配せよ』(P285)より

絶対者を知るための『神想観』はただ一つ ――

しずかに坐して「吾がうちに、神がここに、そして天国がここに今ある」

と念ずるあるのみである。


           <感謝合掌 平成26年10月28日 頓首再拝>

[245] 神想観中に黙念する言葉〜その30
伝統 - 2014年10月29日 (水) 03時08分


          *『人生は心で支配せよ』(P293〜294)より

無限の生命よ、吾れはあなたの中に生活し、あなたのうちに息している。
吾れはあなたである。
吾れはあなたの生命が顕現したものである。

吾れはあなたの自己実現の中心である。
吾れはあなたの愛が姿をあらわしたものなのである。
吾れはあなたの智慧の個体化したものなのである。

吾れは生命である。
吾れは愛である。智慧である。平和である。
吾れはまた名づけ難き実体である。

吾れはまた霊である。
吾れは久遠の生命である。
吾れは実在である。

吾れは一切のもとに横たわる本質である。

吾れは死ぬと云うことはない ―― 吾れは生命であるからだ。
吾れは病むと云うことはない ―― 吾れは健康であるからだ。
吾れは不快になると云うことはない ―― 吾れは歓喜であるからだ。

吾れは大なる肯定をなすために、
すべての否定的なものを意識の外に遂(お)い出してしまったのである。

吾れは実在だ。実有だ。実相だ。
吾れは恐るるものはないではないか。

吾れは実在だ。
如何なる危険も吾れに近寄ることは出来ない。
吾れは実有だ。吾れは霊だ。生命だ。

吾れは空しくならない ―― 吾れは神のうちにあるからだ。
吾れは迷わない ―― あなたは到る処にいらっしゃいます。

あなたよ、吾れをして今日静穏(せいおん)と平和とのうちにあらしめ給え。

もし事物がこぐらかったり、順調に行かなかったりしましたならば、
どうぞ吾れをして至高者(いとたかきもの)の奥殿に入らしめて下さい。
全能なる者の庇護の下(もと)にあらしめて下さい。

吾れは実在である。
吾れは実有である。
吾がたましいの奥殿においてはすべては平和で安穏である。

有難うございます。


           <感謝合掌 平成26年10月29日 頓首再拝>

[247] 「黙念する言葉」の一般的形式
伝統 - 2014年10月30日 (木) 04時19分

          *『人生は心で支配せよ』(P304〜306)より

他人を癒やす神想観をするにはまず諸君の思念を一切の本質なる神に集中する。
すなわち神のみ唯一実在であってこの実在の世界では一切が調和であり、
一切が平和であることを黙念する。

このことを諸君は自己の全身全霊に感じられるまで黙念する。
そして心の中に完全なる平和状態を描き出して若干時間その状態を持続する。

そしてそれに感謝し、聖書のうちの深遠を鼓舞するような文句、例えば

「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん。眼を開けよ、さらば見出さん。
パンを求むるに石を与うる父あらんや。魚を求むるに蛇を与うる父あらんや」

の如き文句を暫時繰り返して更に思念するのである。
このようにすると諸君は宇宙霊と電流を通じたように
宇宙霊の力を感受する状態になるのである。

いま諸君の心が平和に神と融合した状態になった時、注意を被治療者に転じて、
相手のうちに自己が今黙念して得たると同様な平和な状態を描き出すのである。

相手を今現に全く健全なるものと描き出さなければならない。
相手の内に宿る生命は霊であり完全なる健全体であると黙念しなければならない。
この事が十分相手の潜在意識に印象されるまで黙念をつづけるのである。

さて、相手の名を呼んで、相手の人間が神に象(かた)どって造られたものであること、
及び相手の内に宿る真理の光がいま完全に病いの闇を消滅しつつあると云うことを思念する。
更に他の思念に移る以前にこの思念をややしばらく続けていなくてはならない。

ついで相手の生命の本質は霊であって、霊以外の如何なる条件にも支配せられるものでない
ことえを相手に告げる ―― 告げるのみならず、感情の奥底からこの事を感ずる ――
感ずるのみならず出来るだけの力を以ってそれを心の眼に描き出すのである。

が、動揺したり焦(あせ)ったりしてはならない。
きわめて平静に積極的に、そして万事を行ない、且つ黙念しなければならないのである。

諸君は自分が相手の病気を治療せしめつつあるのではなく、諸君の自覚の電線を伝わって
流れ込んで来る神の力が相手の病気を治癒せしめつつあるのだと云うことを記憶して
いなければならない。善き効果をのぞみ得る唯一の態度はこの態度のみなのである。

次いで諸君は、相手を神の子と観じ、父なる神に保護されていると観じ、従って彼が
おのずから信仰深きこと、そして彼の心の力と生命の力とは神より無限に流れ込みつつある
のだと云うことを、静かに、積極的に、絶対的の積極語をもって思念するのである。

次いで相手がその霊的本質より言えば完全円満なること
そしてその完全さは肉体にもやがて外形化して出て来ねばならぬ事を思念する。

次いで数分間それを外形化するがために神の霊がはたらきつつあることを思念しながら、
神の霊にまかせ切る。この時「み心の実相世界に成るが如く現象世界にもならしめ給え」
としずかに心のどん底より繰り返すのである。

それがすむと神の御手に万事をまかせ切って信頼していればよいのである。
何故なら諸君のなすべき部分は終ったからである。

この信頼の感じを暫くの間持続し、やがて

「吾等の求むる事は霊の力によって神の御名においてなされたり、有難うございます」

と感謝の言葉を繰り返し心に唱えることによって他人治療の一般的形式は終るのである。


           <感謝合掌 平成26年10月30日 頓首再拝>



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