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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[156] 機会のつかみ方        谷 口 雅 春 先 生
明鏡 - 2014年10月05日 (日) 16時35分



機会のつかみ方   谷 口 雅 春 先 生

『 生長の家 』 誌  昭和二十四年九月号



【 一日の法語  無限の宝庫は 今 此処 にある 】


昔々インダス河のほとりに一人のペルシャ人が住んでいた。
その名前はアーリー・ハーフェッドと云った。
河岸に立っている彼の小さい家からは美しい田舎の景色が
海岸の方へずっと伸びて行っているのを見渡す事ができた。


アーリー・ハーフェッドには妻との間に数人の子供があった。
彼は豪農で広々とした穀物の畑や花畑や果樹園や数マイルもつづく森林を所有していた。
彼は自分のほしいだけの金と、その外ありとあらゆるものをもっていたのである。
それで彼は非常に満足で幸福であった。


或る朝のこと 一人の仏教僧侶(そうりょ)が彼の家を訪問した。
そして暖炉(だんろ)の前に腰かけながら、この世界の成り立ちから、
太陽の最初の光がこの地球の上にさしこんで来て、それが如何に結晶してダイヤモンドになったかというような話まで説明してくれるのであった。


この老僧はこんな話をしてから、自分の拇指(おやゆび)をその豪農の主人公の前に突きだして、
「 この拇指ほどの太陽の光でも広い広い金鉱、銀鉱、銅鉱などよりもまだまだ価値が
あるのである。このほんの僅(わず)かの日光でもこんな農園位 いくらでも買えるだけの値打があるのだ。一にぎりの日光があればこの一国全体を買う値打がある。
そのすばらしい日光が結晶したダイヤモンドの鉱山をもってしたら、
この国全体を買って尚(なお)余りがあるほどだ 」 と説明したのであった。


アーリー・ハーフェッドはその老僧のいうことをきいていた。
すると今まで田地 田畑 果樹園 森林それから無尽の金銭をもっていて
随分富めりと思っていたのが、それがただの一にぎりの日光の値打しかないのだと
知らされると一ペンに貧乏になったような気がしたのである。


彼は今まで満足していた心が不満足となり、堪えがたき寂しい感じにおそわれて、
その夜はおちおち眠ることが出来なかった。


翌朝になると、彼は不機嫌な顔をしておきて来た。
そしてその不機嫌の原因であった老僧に心配そうに
「 どこへ行ったらそのダイヤモンドの鉱山が見つかるのですか 」 ときいた。


「 どうしてあなたはダイヤモンドがほしいのですか 」 と其の坊さんはおどろいてたずねた。するとその主人は
「 私は富みたいのです。そして子孫に富を残しておいてやりたいのです 」 と答えた。


老僧は答えていった。「 あんたのなすべきことは一所懸命そのダイヤモンドの鉱山が
見つかるまで探しまわることですよ。」


「 しかしどこへいって探したらいいのでしょう。」と哀れな主人はいった。


「 東西南北どこへでも行って探しなさい。」と老僧はいいました。


「 そんなに歩き廻って、やっとダイヤモンドの鉱山の所へ来たら、
どうしたらそれがわかるのですか。」


「 高い山脈の間に白い砂の河底の その白い砂の中にダイヤモンドを見出(みいだ)す
でしょう。」 と老僧は答えた。



そこで主人公は自分のもっていた農園を売りとばして自分の家族をば隣の農家にあずけ、
その売って得た金をもってダイヤモンド鉱山の探検に出掛けて行った。




つづく・・・



一日の法語 (つづき)



彼はアラビヤの山々を越え、パレスチナ及びエジプトを通って、何年も何年も、
彼は困難な旅を続けて行ったが、ダイヤモンド鉱山は見つからなかった。


彼は出発の時携帯した金を全部使いつくしてしまって、その後には飢え死にが ただ待っているのであった。
彼は自分自身の愚かさと自分自身のやつれはてたみすぼらしさとを恥じて海にとびこんで自殺したのであった。



話かわって彼から農園を買いとった人は 今もっている農園に満足し切っていた。
そして自分の環境を出来るだけととのえ 自分のすべての田地、畑をできるだけよきものにして、
ダイヤモンドや あてにもならぬ富貴栄華を求めることなしに ただ今を「ありがとうございます」と
暮していたのであった。


所が、彼が農業用に飼っていたラクダが、ある日 水を呑(の)んでいるのを見ていると、
小川の白い砂の中からピカリと光る ある物が見えたのである。


彼はその光る小石をとりあげて見た。
余りに光輝燦然と光る石なので、めずらしい石だと思って家にもってかえり、
暖炉の近くの棚の上にそれをおいたが 何時(いつ)の間にか そのことも忘れてしまっていた。


ある日 例の老僧がその農園の新しい持主である彼の所へ訪ねて来た。
老僧は彼の部屋に足を踏みこんだとたんに、棚にあった‘光るもの’が目についたのである。


「 ダイヤモンドだ。ダイヤモンドだ。アーリー・ハーフェッドが帰ってもって来たのかえ。」と
老僧は興奮して叫び声をあげた。


「いいえ」と百姓はいった。「あれはダイヤモンドでござんせんよ。あれはただの石でさあ。」


兎(と)も角、この石を採取した現場を見ようと云うので、二人はその農園を流れる河の
白い砂のところへ行って、指で砂をかきまわしてみると、


驚いたことには、出てくる、出てくる。先のものよりも まだまだ大きい光輝燦然たる大粒のダイヤモンドが出てくるのであった。


これが有名なゴルコンダーのダイヤモンド鉱の発見された歴史であるということが或る本に書いてあった。


あの哀れなるアーリー・ハーフェッドが遠く さすらい歩かないで、ただ自分の家でじっとして
今あるものに完全に感謝して 今に全力をつくしていたならば
飢え死に一歩手前で身投げするどころか全世界第一の大富豪になっていたのであった。


彼のもっていた農園地帯全部が無数の宝石を蔵しているダイヤモンド鉱であったのである。
無限の富は すでに 今 ここに 与えられているのである。






[159] 二日の法語  人の捨てた処(ところ)に自分の 「 機会 」 がある
明鏡 - 2014年10月06日 (月) 01時36分



機会というものは始終吾々の周囲にあるのである。エヂソンもフォードもそれを手近な処から発見したのである。まずそれを発見するには、この世界には何が欠乏しているか、何が求められているかを知ることである。


そしてその欠乏しており、求められているものを供給してやるようにしてやれば、富が出来るのである。多くの運のいい人は人が捨てたものを拾って自分の富とするのである。


ミケランヂェロはフローレンスの町にごもくの中にすてられていた一片の型のくずれた大理石を見出してそれに彫刻し始めたのである。それは下手な未熟な彫刻家が鑿(のみ)で彫りそこなって傷つけてすててしまったものであった。


多くの彫刻家はミケランヂェロよりもさきにそれを見たにちがいなかったが、品質は立派なものだが、さて残念なことには、形がどうにもならないようにくずれているのであった。
ミケランヂェロはすべての彫刻家がみすてたこの大理石をとりあげた。


そしてそのすてられた大理石のこわれた形をしたそのままの青年の姿をほりあげたのであった。それが彼の作品の中で有名な青年ダビデの彫刻である。


人のすてたものの中に自分の機会があるのである。悪いと思っているものがよきものに変わるのである。時は待たねばならぬ。そして今あるものを愛しなければならぬのである。





[162] 三日の法語  ・ 四日の法語 ・ 五日の法語 ・ 六日の法語
明鏡 - 2014年10月06日 (月) 11時56分



【 三日の法語  物の熟するには時間がかかる 】


急がず収穫すれば、すっぱい蜜柑(みかん)も時期を待てば、

甘味(あまみ)したたる果実となるのである。


余りに急ぎすぎては物事を破壊する。

人間の魂は鉱山にある大理石のようなものである。


それをほり出して適当に磨き上げた時に、その大理石の美しい光沢や

筋模様や雲模様が浮び上ってくるのである。


人間は教育によって磨かれて 始めてその立派な本性が発揮されるのである。




【 四日の法語  伸びる時に伸びるのではない 】


或る機会をつかんですばらしく伸び得る所の人は、

実はその機会に伸びたのではなくして、

すでに蓄積されていた所の過去の訓練が一時に爆発したのである。


如何なる成功も 過去に蓄積された自己訓練の賜(たまもの)ならざるものはないのである。

あらゆる事物は、それを始める前に充分なる用意が要るのである。




【 五日の法語  「 今 」 を使い切るようにせよ 】


大器晩成といわれる通り、多くの天才は必ずしも早く発現しないのである。

樟(くす)の大木は 数千年かかって驚くべき巨樹となるが、

その代り弱い葦(あし)のようには、一年の中(うち)に大人になってしまわないのである。


人も同じように 今発達しないからといって

歎(なげ)くにはあたらないのである。


今もてる能力を最大限に使っておれば

その次の能力が伸びてくるのである。


今与えられたる境遇に於いて、最大のサービスを捧(ささ)げておれば、

次に 尚(なお)一そう大いなる能力が発展し、

尚一そう自分にとって希望を満足せしめる環境が開かれてくるのである。


気が短いようなことでは駄目である。

一つ知ったことを一つ行えば 次の智慧が又生れて来る。




【 六日の法語  急がず 撓(たゆ)まず 聡明(そうめい)に 】


余り急ぎすぎれば 却って結果は遅れることになる。

ゆっくり たゆまずに一歩一歩前進するものは

最後の勝利を得るのである。


走ってつまずくよりも 着々と歩いてつまずかないのものは

却って目的地に早く到達する。


急ぐとあせるとは 事を失敗せしめる基である。

ゆっくりと、然(しか)し なまけずに 聡明に。




[164] 七日の法語  他の批判を恐れては何も出来ぬ
明鏡 - 2014年10月06日 (月) 23時25分



どんな立派なものも人に認められぬ時期があるものである。
最初の創作や発明が人から認められないからといって失望するにあたらない。
ワシントン・アービングの著作が認められて、生活を支えるだけの収入が得られたのは、
彼が七十歳に達した時であった。


カーライルの「サーター・リザータス」(衣装哲学)は 今こそ全世界にその名を知られている有名な著作であるが、一八五一年カーライルがその原稿をもってロンドンに出て来た時に、ロンドン一流の出版会社は三社とも殆(ほとん)ど侮辱に等しい言葉をもってその出版を拒絶した。


彼がやっと「フレーザー・マガジーン」にそれを掲載することが出来た時にその雑誌の編集長は「あの論文はすばらしい非難をうけていますよ」といって笑いながら話したということである。


ヘンリー・ビーチャーが六篇の論文を或る宗教新聞の発行所へ送ってそれを掲載してくれと依頼した時に、それは見事に拒絶されたということである。


エマーソンの著述も、彼の生前は非常に不評判であって、唯(ただ)その中の一冊だけが
相当の売行きを見せたにすぎなかった。


人間の批評はまちまちである。人々の批評にふりまわされているようでは如何なる大事をも成しとげることは出来ないのである。
自ら信ずるもののみが偉大なる仕事を完成し得るのである。




[169] 八日の法語  人は妻のヒントに左右されるものである
明鏡 - 2014年10月08日 (水) 03時32分



ヘンリー・ベッセマーといえば、特殊鋼の最初の発明家として有名であるが、彼は十八歳の時
ロンドンへ 一人の知己もなしに出て来たが間もなく名刺のような厚紙に「浮き出し印刷」をする工程を発明した。


その方法は極めて簡単なものであって、一ペニーの費用でそのやり方を十分間で習うことが出来るようなものであった。彼は英国政府の公文書に押すスタンプを彫りあげる仕事をひきうけていたが、その記録から一度押したらその判を抹殺することができないように穴を穿(うが)つ捺印(なついん)機械を発明したのである。


彼の発明の動機は一ぺん官用に貼用(ちょうよう)された収入印紙が、それをはがして再用されるために政府の損失は一年に十万ポンドの損失であるということをその主税局長から聞いたのが因であった。


主税局長はベッセマーの発明を大いに礼讃(らいさん)してその発明を一定の金額で買収するかそれとも生涯一年八百ポンドの年俸をもらって主税局に招聘(しょうへい)したいと申し出たのであった。
ベッセマーは後の方を選んだ。


ベッセマーはもう うれしくて うれしくて たまらないので、それを自分の許嫁(いいなずけ)の娘に話した。
「こうして穴のあいた収入印紙を貼用することにしたら、二度とそれが再用できないので政府は十万ポンドの収入増加になるのだ」と説明した。


するとその許嫁の娘は、「えー、よくわかりましたわ。だけど穴をあけるスタンプなど使わなくとも、押捺(おうなつ)するスタンプに日付を入れるようにしておいたらその印紙を再用される恐れなんてないですわ。」


それは小さいヒントであった。ベッセマーの穴あけ式捺印機械はその僅(わず)かの言葉によって不要になってしまったのである。すなおに自分の許嫁の言葉を受け入れて 彼は自ら自分がその椅子(いす)を占めていた主税局に一大改革を暗示したのであった。


折角 発明した穴あけ式捺印機械は廃止せられ、前途有望の自分の椅子をすててしまった。
英国政府は何らの報償も与えずしてただこの無邪気な娘のいった方法を採用することによって年々歳々数十万ポンドに上る脱税を防ぐことができたのである。


当時のベッセマーの経済状態はそのために頗(すこぶ)る不利な立場に陥ったのである。
併(しか)し彼は失望しなかった。彼はこの賢明なる娘と結婚した。凡(およ)そよき妻を得ることは偉大なる資本を得るのにも勝るのである。丁度意気 相投合した互の智能(ちのう)が協力し得る所の協力者を彼は得たのであった。その結果 彼は特殊鋼を製造するのに新しい方法を発明したのであった。


その方法は全世界の製鉄工業に一大革命をひきおこした。
即(すなわ)ち熔融(ようゆう)せる数トンの銑鉄(せんてつ)に下方より熱空気を吹きこんで燃焼力を強力化し 然(しか)る後マンガン鉄とカーボンの含有量の多い原鉱とを投入して その全体を鋼鉄に変化する方法である。


もし彼が目先の経済的利益をもって主税局の椅子にかじりついていたならば、この様な大発明は完成しなかったに相異ないのである。小さい助言にすなおに従うことが、その人の運命を大きく育てる種々なるものである。自分の周囲にやってくるすべてのものを、神の与え給(たも)うた賜(たまもの)であると信じて待つ者は それが本当によき賜に変化するのである。




[173] 九日の法語 ・ 十日の法語
明鏡 - 2014年10月09日 (木) 03時50分



【 九日の法語  充分芽の出るまで あせってはならぬ 】


すなおに受けて その与えられた賜(たまもの)が

充分 芽を出して育つまで待つ心が必要である。


余りに早期の天才は 夭折(わかじに)し易(やす)いものである。


何でも自己の中(うち)に本当に蓄積したものが

発芽して形を現わすのであるから、

蓄積しないまでに、外に大きく伸びようとあせってはならない。




【 十日の法語  内に力を蓄える者は やがて大成する 】


青年の時には大いに勉強すべきである。

充分の学力も 素養も 訓練も なくして

すみやかに立身出世したいなどと思ってはならない。


芍薬(しゃくやく)やダリヤの花は

その根の大きいものほど立派な花が咲くのである。


根を大きくせずして、

大きい花を咲かせようと思ってはならない。


根から切った花は 一時美しく咲いているように見えても、

毎年変らずに続いて咲く力は ないのである。


中に能力を蓄えておくことが必要である。




[181] 十一日の法語 ・ 十二日の法語
明鏡 - 2014年10月10日 (金) 19時50分



【 十一日の法語  機会は 常の素養にある 】


好機会が到来した時に、

その機会をとらえ得るものは

内に蓄えた能力あるもののみである。


やってくる所の機会をどの程度生かすかは

その人の素養如何(いかん)によるのである。


人間よろしく、自己の時間を惜しんで自己教養につくすべし。


くだらぬゴシップや低い享楽や、つまらない遊びで、

もっとも発達期にある自分の知能を発達せしめないでおくものは、

いざという好機会が来た時に 空しくそれを見逃してしまう外はないのである。




【 十二日の法語  自然は必ず価いを要求する 】


長生きをするためには、気が短いようではいかぬ。

ゆっくり‘のんびり’として着々と生きることである。


青年期にその生活を無駄なことに使ったものは

中年期以後 速かに老いるのである。


文化はリビドーの昇華せるものであるから

青年期にリビドーを余りつまらない方面に使いすぎると能力が速に衰退する。


自然は青年期に享楽した者の代価を

老年期が近づいて来た時、急に支払請求をするものである。

速なる老衰は青年期の享楽の強制支払である。


健康は値なしには継続しないのである。

自然は常に値いを要求するのである。


肥料なしに毎年立派な果実を

その樹から得ようと思ってはならない。




[188] 十三日の法語 ・ 十四日の法語
明鏡 - 2014年10月12日 (日) 22時19分



【 十三日の法語  出しただけが与えられる 】


自然は吾々の一言一行に対して

その値打だけのものを支払ってくれるのである。


自然の法則を無視したものは

必ずその報いをうけるのである。




【 十四日の法語  自然の賜(たまもの)を大切にせよ 】


無知は最大の罪悪である。

吾々は健康の法則を知ることが必要である。


人間は 自己の中に 鉱物性なるもの、植物性なるもの、動物性なるもの、

及び人間的なるもの、及び神的なるものを包容しているのであるから、

その各々の法則を無視してはならないのである。


自然界の法則を厳重に守ることは

吾々が自然に対して値を払うことである。


まず食物はもっとも自然に近いものが

保健上有用なる成分を含有するのである。


余り調理しすぎたものは 自然の与えた養分を

概(おおむ)ね 捨て去っているから健康のためによくないのである。


人間が短命であるのは 余り味覚にとらわれて

自然のままの賜(たまもの)を破壊してしまうからである。




[199] 十五日の法語 ・ 十六日の法語
明鏡 - 2014年10月15日 (水) 08時45分



【 十五日の法語  刻苦精励は生命を鍛える 】


人は生命を働かしただけ、それだけ自分のおかげは 増えるのである。


ビスマルクは 真の生命に対する唯一の安全なる守りは、

刻苦精励にあるといっている。


刻苦精励は 機会のない処に(ところ)に 機会を作り、

成功のない処に 成功を作る。


刻苦精励こそは 自己の生命を鍛えあげ、

その不純物をとりさり、自分の魂を愈々(いよいよ)光輝燦然(こうきさんぜん)たらしむべき

唯一の方法であるのである。


仕事がなくして ただ寝ころんで生活することができるとするならば、

それこそ人生は無用であり、空虚であり、だらけてしまって

何らの幸福感もあり得ないのである。


ビスマルクの青年に告げんとする言葉は、

「 働け、働け、働け 」 という三語であったといわれている。




【 十六日の法語  蜜蜂(みつばち)を見て人生を学べ 】


昔ギリシャで、蜜蜂に はるばる遠くまで蜜を集めにやるのは可哀(かわい)そうであるから、

蜜蜂の巣の近くへ いつでも花のあるようにしてやれば、蜜蜂は助かるであろうというので、

その周囲に花園を造って始終 花をたやさないようにしたら、

その蜂蜜は もう少しも蜜を集めなくなったということである。


ある人が いつも花咲いている印度(いんど)の国に蜜蜂を移住せしめたら、

きっとどっさり蜜が集ってよかろうと考えて蜜蜂を印度へ連れて行ってみたが、

これ又 蜜を集めなくなったということである。


ここに自然の法則があるのである。労しないものは獲得することができないのである。

自分から敢(あ)えて とらないで、唯(ただ)与えられるだけでは、そこに機会はないのである。




[206] 十七日の法語 ・ 十八日の法語
明鏡 - 2014年10月17日 (金) 06時41分



【 十七日の法語  働く処(ところ)に人生の意義と機会がある 】


吾々が地上にこの生を享(う)けたのは、

神の創造力の尖端(せんたん)として、

創造の御業(みわざ)を完成せんがために出現したのである。


ラスキンは 「 吾々がこの世に送られたのは、何らか自己の魂を打ちこんで

なすべき仕事をなさんがために送られたのである。」 といっているのである。


又 フィリップ・ブルックは 「 生とは何ぞや 」 という問に対して

「 生の何たるかを知る人は 働く人である、

そして働きのみが生きる事であると叫ぶであろう 」 といっているのである。





【 十八日の法語  働きは 生命の自己実現である 】


多くの人達は、働くことを軽蔑(けいべつ)して、自分の生命の切り売りの様に考え、

働かないことが何か立派なことであるかのように妄想している。


然(しか)しこれは大いなる間違である。

人間が働くということは、決して金銭に対して自分の生命を切り売りすることではないのである。


吾々は ともすれば、働きに対する金銭的報酬を考えて、

それによって働きの価値如何(いかん)を定めようとするのであるけれども、これは大変な間違である。



働きは、それ自身が生命の自己実現であるから尊いのである。





[212] 十九日の法語  ・  二十日の法語
明鏡 - 2014年10月19日 (日) 10時10分



【 十九日の法語  仕事を俗務とするのは自分の仕事の受け方である 】


働きがなければ生命は自己を実現することができない。

多くの人達は働きを以(もっ)て 「 俗務(ぞくむ) 」 であると考えて

その働きの尊さを見ないのである。


諸君が自分の仕事を単なる 「 俗務 」 とするか 「 芸術 」 とするかは

諸君が自分の仕事に対する態度によって異るのである。


もし、吾々が、自分の仕事をただ賃金を得るための 「 俗務 」 であると考えれば、

どんな価値ある仕事も自分自身を賃金という圧政力を以て縛る所の

重苦しい縄(なわ)となって感じられる。





【 二十日の法語  仕事を芸術化せよ 】


自分の仕事を芸術であると考えてするならば、

仕事場は まことに楽しい優美の世界となるのである。


芸術とは何であるか。それは生命の表現である。


従って もし諸君が仕事を生命の表現すべき好機会であると思って、

それを熱心に行うならば、仕事はたちまち芸術的魅力をもってくるのである。


何事をするにも、 「 面倒くさい仕事 」 と考えずに、

「 自分は これらのことを美化せんがためにつかわされたのである 」 と信じて

できるだけ巧みになるように練習するならば、


自分の生命も仕事をする毎(ごと)に その能力が伸びて来て

自己自身の偉大さがそれだけ多く現われて来ることになる。




[218] 二十一日の法語 ・ 二十二日の法語
明鏡 - 2014年10月21日 (火) 08時03分



【 二十一日の法語  生命力は 働く人に湧(わ)き出(い)でる 】



生命力の根源は 働かない人に対しては とざされてしまうのである。


この世界に生きて、生き甲斐(がい)を感じ、

吾 何かをなす所の力があるとの自信ある喜びを見出(みいだ)そうと欲する人は

働かなければならないのである。


出せば出すほど 湧き出るのが 生命力である。





【 二十二日の法語  仕事の能力ある人は 常に機会を見出す 】



仕事の出来ない人は、如何にその生活が豊かであっても、

どこかふらふらした脆弱(ぜいじゃく)な所があって、

一朝(いっちょう)経済界の変動が来たような時には、

もろくも倒れてしまって再び起き上ることができないようになるのである。


もし不断に、仕事を以て鍛えられていた人ならば、経済的変動が如何に起ろうとも、

自由にその環境に対応して縦横自在の才能を奮って、

時代の押し流す力に溺(おぼ)れてしまうということはないのである。





[225] 二十三日の法語 ・ 二十四日の法語
明鏡 - 2014年10月23日 (木) 08時30分



【 二十三日の法語  仕事は精神力を増加する 】


筋肉的仕事が 吾々の筋肉を強健ならしめるのと同じように、

吾々の精神的仕事は、吾々の精神力を強健ならしめ、

何事に遭遇しても驚かない所の自信力を たくわえておくことができるのである。


仕事は仕事それ自身が、 「 生命の活躍状態 」 であるのであって、

丁度 野球が金銭的報酬のために行われるのではなく

唯(ただ)野球ゲームそのものの面白さのために行われるのと同じように

行われるようにならなければならない。




【 二十四日の法語  仕事によって生命は真の価値を獲得する 】



仕事の報酬として与えられた所の金銭は

いつかはそれが消耗されてしまうに違いないけれども、


仕事によって獲得した所の、自分の生命の強さ、深さ、複雑さというようなものは

生命の続く限りなくなるものではないのである。


だから これこそが真の価値であって、

金銭の如(ごと)きは まことに一時的の仮の価値にすぎないのである。




[229] 二十五日の法語 ・ 二十六日の法語
明鏡 - 2014年10月24日 (金) 22時37分



【 二十五日の法語  毎夜みずから省みること 】


諸君は 夕方食事を終った後に自ら省みて今日の機会に、

自分は人と生れて如何なる仕事をなしたのであるか反省してみなければならない。


人の地上に生を享(う)けたるは、

仕事によって自己表現を完成するためであるから、


もしその晩 省みて今日は何事をも なさなかったと気がついたならば

それを恥じて改めなければならないのである。





【 二十六日の法語  真に価値ある物は労なくして得られない 】



人は自ら労して獲得したるもののみが

真の自分の力となるのである。


大富豪の家庭に生まれ、数千万円の遺産をうけついでも、

それは結局 諸君が労せずして 何ものかが得られるという間違った考えを

受けつぐために役立ったにすぎないのである。


労せずしては 真に価値ある何ものをも

父祖からうけつぐことはできないのである。


父祖のもちたりし忍耐力、勇気、意志の強さ、鍛錬し得ざる能力、

事に対して誤まらざる判断力、精微なる観察力 ― 

そのようなものは 労なくしては 決して父祖より受けつぐことはできないのである。


かくの如(ごと)き美質は 唯(ただ)仕事に対して

真剣に取り組むことによってのみ得られるのである。




[236] 二十七日の法語 ・ 二十八日の法語 
明鏡 - 2014年10月27日 (月) 00時25分



【 二十七日の法語  自分の力で上らねば 真の獲得はない 】



諸君が高き魂の王座に座(ざ)して、

万人に対して 「 吾(われ)すぐれたり 」 という自信をもち得るためには、

人から押しあげてもらうようなことでは得られないのである。


ケーブル・カーで山の頂上まで上る事ができるにしても、

それはケーブル・カーが上ったのであって、自分が上ったのではないのである。


それは 唯ケーブル・カーに随伴したというにすぎない。

彼の体力も筋肉力もそれによっては少しも偉大にならないように、


労せずして、高き位置にのぼったにしても

その人の魂の力は 少しも高くなっていないのである。





【 二十八日の法語  真の資産は精神的なものである 】



諸君の真の魂の資産は、諸君の生命によって体験し得たる所の喜び、忍耐力、判断力、

観察力、勇気 その他色々の美徳を包有する所の人格の力である。


どんなに諸君の地位が高くなろうとも、

諸君の経済生活が豊かになろうとも、

人格の内容が空疎であっては 中はがらんどうの唯のブリキ缶にすぎないのである。


外は輝いているが中には何ら価値あるものが存在しないのである。

ただ親から譲られた財産によってのんびりと楽な生活をするが如きは、

自分の人格を不活動な、なまけものの、意志薄弱な無力なる者にするにすぎないのである。





[244] 二十九日の法語 ・ 三十日の法語
明鏡 - 2014年10月28日 (火) 23時00分



【 二十九日の法語  物質的遺産よりも尊いのは精神的遺産である 】



親から財産を譲られることによって、

却(かえ)って自己訓練、自己発達、自己建設の尊き意志が砕けてしまうならば、

親から譲られた資産の大いさは、

却って諸君の人格の邪魔となるのである。


向上の精神は消えてしまい、自己努力の意志力は失われ、

仕事に対する興味は 雲散霧消して 懦弱(だじゃく)な遊惰に流れた性格を

得ることになるのである。


その点、貧しき親をもつ子供よりも豊かなる親をもつ青年の方が

尚(なお)一層危険が多いのである。


されば、豊かなる家に生れた人達は自ら省みて、

刻苦精励の努力を怠らぬようにしなければならないのである。





【 三十日の法語  最善の機会は 刻苦精励である 】



まことにも 刻苦精励こそは 諸君の人格を鍛える所の 学校教師であり

最善の機会である。


如何なる官公私立の学校へ行かなくとも、真に諸君が 刻苦精励して自学自習するならば、

きっと正規の学校教育を受けた人よりも 尚一層大いなる、労力、精神力、人格力を

獲得することができるに違いないのである。




[252] 三十一日の法語
明鏡 - 2014年10月31日 (金) 12時24分



【 三十一日の法語  仕事は 道徳的強壮剤である 】



仕事のない者は怠ける。怠ける所から道徳的頽廃(たいはい)が来るのである。

昔から 「 小人閑居して不善をなす 」 という。


暇があれば 人間の道徳性は、坂道におかれた車の様に 下向する傾向があるのである。

仕事こそは 向上の機会であり、道徳的頽廃を防止する強壮剤である。







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