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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[277] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話(昭和15年10月23日)
伝統 - 2014年11月16日 (日) 08時43分

教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その1

《新たに生まれる 〜 教育勅語渙発五十周年に方りての講話》

          *「信の力」(P297〜344)より

本日は 明治陛下が教育勅語を御渙発あらせられましてから五十周年の記念日に
当るのでございます。今日の佳き日に当りまして、教育勅語を戴きました吾々の感想を
ここで申述べたいと思うのでございます。

明治陛下が『朕惟フニ』と斯う仰せられましたのは、是は決して 
明治陛下御一人の私見というような、私的考えというようなものではないのであります。

天皇は宇宙の御《いのち》そのものでいらせられるのでありまして、 
陛下が『朕惟フニ』と斯ういうように仰せられましたのは、
それは宇宙と倶に惟っていらっしゃる事が表されいるのであると拝察し奉るのでございます。

日本の神話『古事記』を開きますと、どういう風に書いてあるかといいますと、
『天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天之御中主神』
 ― 斯ういう風に書かれております。

『古事記』は是は支那から歴史が入って来た時に、日本には歴史がないから、
一つ日本にもそういう似たものを拵えてやろう、そうでないと国家の体面に係るとして
創作したのだというような説をなす人もありますけれども、決してそうではないのであります。

 
『古事記』は日本民族の《いのちのいのち》、魂の魂、日本民族が《いのち》の底で、魂の底で、
どうしても斯くの如きものを信ぜずにおれない、表現せずにおれない、思わずにおれない、
という奥底の《いのち》の流れそのもの、血の叫びそのもの、魂の叫びそのものというものが
それが表現されているのであります。

 
ですからあの『古事記』に書かれておりますところの天地創造説というものは、
是は日本民族の《いのち》の相(すがた)である ― 斯う見てもいいのであります。



そこで日本民族は如何なる天地創造のすがたを信じ、斯く表現せずにおれなかったのか
ということを、あの『古事記』の最初の言葉に由って考えて見まするに、

『天地の初発の時』斯う書いてありますが『天地の初発』 ― というのは
『一(はじめ)』であります。

『一』が初めでありますが、天地が未だ『一』なる時であります。
天地を全一と観たのが日本人であります。

『天』は『高』 ― 『縦』を以て象徴することが出来るのであります。
『地』は、水平に『横』を以てして、それを象徴することが出来るのであります。

『天』とそれから『地』と |(たて)と―(よこ)とが一つに十字交叉したその中心、
是が『初発(はじめ)』であります。『一(いち)』であります。『一(ひと)つ』であります。

『一(ひと)つ』といっても一、二、三、四と相対的に数が展開してゆく
相対的数の序列の『一』ではないのでありまして、一切の数(すう)を一つに集めて
一切の数(すう)が発現する契機を内に孕んでいるところの『一』であります。

此の講壇の前面に掲げてありますところの日章旗の、あの『一つ』のまん円(まる)い形、
あれも『一』であります。『零(ゼロ)』といってもいいのであります。

日章旗の◯(まる)も矢張り『零』の形とも云えるのでありますが、
『一つの円(えん)』とも云えるのであります。『一つ』と云っても零(ゼロ)と云っても
好いのであります。

それが天地の初発(はじめ)で、天地が一つである。
まだ天割れず地割れざる天地を内に孕(はら)む無時間無空間の世界であります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月16日 頓首再拝>

[278] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その2
伝統 - 2014年11月17日 (月) 04時50分

さて、此の縦は時間であるとも見ることも出来ますし、
横は空間であるとも見ることも出来るのであります。

時間と空間と、それが十字交叉して、未だ時間空間が分れ出でざるところの
『初発(はじめ)』であります。

そこに『成りませる神の名(みな)は、天之御中主神』と古事記には書かれているので
ありまして、天之御中主神様が高天原に鳴り成り給うのであります。

高天原というのは、『高(たか)』というのは縦である、時間を現している。
或は火の燃える相(すがた)、縦に燃え上る相でありますから、陽(よう)の原理であります。

それから『原』は横ひろがりの相(すがた)『空間(くうかん)』でありますが、
是は又水の流れる姿『一(すいへい)』であり、水は冷たいから冷たさであり、
陽に対する陰であります。

陽と陰と、冷たさの原理と暖かさの原理とが十字に交って『あま(天)』として
まん円(まる)く一切を包容しているのが、是が『高天原(たかあまはら)』であります。
現代の言葉を以ていえば宇宙であります。天文学上の言葉で云えば天球であります。

此の宇宙に成りませるところの神様が天之御中主神様であるというのであります。

時間空間未だ分れず、天地陽陰未だ分れず、『一(ひとつ)』にして『一(はじめ)』であり、
而も一切がその中に既にある ―― その大宇宙と、表と裏と表裏一体の存在、
大宇宙を表面とし、人格を内容として坐(まし)ますが、渾然『一(ひと)つ』のもの ――
 高天原なる大宇宙と一(ひと)つであるところの神様が、天之御中主神であります。

この天之御中主神が大日本 ―― 宇宙日本 ―― の最初の 天皇であらせられた
のでありまして、宇宙は天之御中主神の御《いのち》のひろがりであります。

『成りませる』と古事記には書いてありますが、
天之御中主神様は天之御中主命即ち『みこと』であらせられる、ミコト即ち言葉であります。
天之御中主神様のミコトノリ、時間空間的にひろがったのが宇宙であります。

換言すれば、天之御中主神のミコトノリ即ち御《いのち》のヒビキが宇宙なのでありまして、
 天皇即ち宇宙、宇宙即ち 天皇であるというのが、日本人の宇宙観・天皇観・国家観なの
であります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月17日 頓首再拝>

[279] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その3
伝統 - 2014年11月18日 (火) 22時21分


日本人は昔から此のような国家観を持っておったのでありまして、
実に素晴らしい民族であると誇るに足るのであります。

此の天之御中主神様から 天照大御神様へそして現在の 今上陛下にずっと
直系をひいて連綿(つなが)って一体でいらせられるのでありまして 
明治陛下が今上陛下であらせられた時にあの教育勅語が渙発されたのであります。

斯くの如き天皇観によって拝察奉るところによりますと、 明治陛下が
『朕惟フニ』と斯ういう風に仰せられましたのは、それは 明治陛下が
私の個人として被仰ったのではないのでありまして、

宇宙のいのちが、宇宙のミコトノリが、即ち宇宙の真理がそこに
『今上』として発現し給えるところの、そのすがたに於て、斯く仰せ給うたのであります。

 
『朕惟フニ』という事は『天之御中主神惟フニ』という事にも当るのであります。
また『大宇宙惟フニ』ということにも当るのであります。

ですから此の教育勅語に書かれておりますところの真理は宇宙の真理である。

『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』と仰せられておりますが、
古今を通じて謬(あやまら)らないのは、それは時間を超えたところの絶対存在の真理が、
 『今上』の『今』の一点に表現されておりますから、どの時間に持って行っても
それは当嵌らないということがないと云うこど仰せられたのであります。

又『中外ニ施シテ悖(モト)ラス』と斯う仰せ給うておりますのは、
それは 明治陛下が宇宙の《いのち》そのものとして御表現遊ばれて、
すべての空間を一つに孕んでいられるところの其の宇宙生命が

『今上』の『上(ここ)』の一点に於て、その真理を表現されたのでありますから、
ですから『之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』如何なる中外に於てそれを教育として応用しても、
どこへ当嵌めても当嵌らないというところはないのである。

斯くの如き絶対的な御立場に於て 明治陛下はこの教育勅語を御渙発遊ばれたのであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月18日 頓首再拝>

[280] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その4
伝統 - 2014年11月19日 (水) 06時05分


抑々(そもそも)教育勅語は 明治陛下が今上陛下として
詔(みことの)り遊ばれたのでありますが、
今上の『今(きん)』は今(いま)であります。

此の『今(いま)』というのは、非常に深い意味があるのであります。
『今(いま)』と云うのは時間上の一点を指示する語(ご)ではありますが、
宇宙のすべての時間がそこに凝縮して、そして一切時間を一つに中(あつ)めて、
そしてそこに表現されておられる御(お)すがたが『今(いま)』であります。

それは一瞬に久遠を含み、無限と一瞬とが一つであり、
絶対時間と相対時間とが『一つ』になっている『今(いま)』であります。

その『今(いま)』の御立場に立ち給う 今上陛下は有限の御姿として
遊ばされおられましても、《その侭》無限であり久遠であり、
時間以前の天之御中主神様と一体であらせるのであります。

次に今上の『上(じょう)』と申しますのは『空間上の一点』とか、
『遍く閻浮提上をたづぬるに』とか云う語に使われる『上(じょう)』でありまして、
全空間を一点上に凝縮する語でありまして

 今上陛下が、時間上にも空間上にも今茲の一点に時間を超え空間を超えたところの
無限と有限と、久遠と一点とが一つになり、絶対相対即一の荘厳極りなき御姿に於て
宇宙の真理を詔(みことの)り遊ばれまして、そして教育勅語そのものが出来たのであります。

ですから『古今ニ通ジテ謬ラス中外ニ施シテ悖ラ』ざるところの大真理が
そこに渙発されているのは当然のことであります。

それでありますから『朕惟フニ』と仰せられたのは、
宇宙と一つであるところの 天皇が、天之御中主神なる宇宙大のお方様が、
今『今上』のお姿に於て発現なさいまして、

『朕がいのち斯く惟ふ』『吾がいのち斯く詔りする』と仰せられることになるのであります。

詔(みことのり)、みことは神であり言葉であり、《のり》であり述べるであります。

すべてのものは神の言葉に依って成立っておるのであります。
すべてのものは天之御中主天皇の詔勅(みことのり)で成立っておるのであります。
 天皇がいまさずば宇宙はない。

宇宙は、 天皇の獨在であると常々生長の家で申しておりますのは此の意味であります。 

『天皇即宇宙』の宣(みことの)り給うところのコトバ、それはミコトノリでありますから、
《のり》、即ち法則があるのであります。

教育勅語には吾々の遵守すべき法則を述べ給うたのであります。
教育の『教(きょう)』と云う字は『ノリ』と読む字であることに
注目せられたいのであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月19日 頓首再拝>

[281] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その5
伝統 - 2014年11月20日 (木) 00時31分


さて宇宙の大生命が『今上』の一点に御顕現遊ばされまして第一に
どう仰せられたかといいますと、『皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ』と
斯ういう風に仰せられました。

皇祖とは天之御中主神を申上げます。
更にまた天之御中主神から天照大御神に至る間を称して皇祖と斯ういう風に
謂われておりまして、それから後の歴代の天皇様は皇宗と斯ういう風に
解釈せられているようでございますが、兎も角『皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ』であります。

是は神武天皇の建国からは二千六百年でありますが、日本の国の肇(はじめ)は
二千六百年よりもまだまだ遡り、宏遠の世界に国肇(くにはじま)りがあったのであると
いうことを、畏くも 明治陛下がはっきりと表現遊ばしているのであると拝察し奉るので
ございます。

『宏遠』というのは単に長いというような、そういう浅い意味ではない
と私は思うのでありまして、宏遠と云うのは時間を超えたところの絶対界 ―― 
絶対と相対とが直接せる『一(はじめ)』なる大生命から国が肇っていることを
仰せられたものだと拝察されるのであります。

詰り天地の初発(はじめ)の時、時間空間未だ剖(ひら)かざるところの、
そこから国が肇(はじま)っているのであります。

『国』というのは、日本では宇宙と書いて『クニ』と読むのであります。
『國稚(わか)くして浮脂の如くして・・・・・・』とか
『是の漂へる國を修理(つくり)固成せ』とか云う表現を拝しますと、

『国』と云うのは、どうしても宇宙全体と解すべきであると思いますが、
宇宙全体が始まったのはどうして始まったのであるかと云いいますと、
天之御中主神様の詔に依ってはじまったのであります。

『高天原に成りませる神の名は天之御中主神』斯ういう風に『古事記』に書かれておりますが、
天之御中主神の、その《いのち》の鳴り坐せる(ミコトノリましませる)世界が
大日本國であります。大日本國 即(すなわち)大宇宙であります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月20日 頓首再拝>

[282] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その6
伝統 - 2014年11月21日 (金) 04時37分

そこで日本民族は、宇宙の唯一つ、天之御中主神様の御表現(ミコトノリ)であると、
斯ういうように解するのであります。

是が日本の哲学であります。
これが日本の世界観であるのであります。 

天皇の他にどなた様もいらっしゃらない。 
天皇のみが本当に《ある》実在であって、 
天皇の御稜威(みいつ)の鳴り渡れる拡りが、凡(すべ)ての森羅萬象である。

吾々のいのちも矢張り 天皇の御いのちの《分れ》である。
だから『ワレ』と云うのであります。
天皇の御生命(おんいのち)を戴かずば吾々のいのちは《ない》のである。

吾々だけではない。
どんな樹木でも空を飛ぶ鳥で地を匐(は)うところの毛虫でも、
凡て天之御中主神の御いのちの現れとして、そこに森羅萬象のすがたが現れましますのである。

天皇のみが実在で《ある》のであって、他のものは、皆《なれる》ものである、
『鳴る』即ちミコトノリのひろがりが展開しているところのすがたなのであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月21日 頓首再拝>

[283] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その7
伝統 - 2014年11月22日 (土) 03時01分

天之御中主神の御いのちの、その『みことのり』とその稜威(みいつ)というのは、
『ミ』というのは尊ぶ言葉『御』で『稜威』というのは『出でる』ということであります。 

天皇の御いのちの権威が六合に放射して現れていますのが、
森羅萬象の荘厳なるすがたであります。

それなのに此の世を穢れたる世界 ― 穢土であると考えたのは、外国から入って来た
ところの考え方であって、本来の日本人の考え方ではないのであります。

日本人に云わせると、この世界はヒノモトの世界であります。
ヒノモト即ち光明一元の世界であります。
光一元、 天皇一元、稜威一元の世界であります。 

天皇の御(おん)いのちが出で現れているのが是が全世界であり全宇宙であるのであります。
ですから『國ヲ肇ムルコト宏遠ナリ』と仰せられましたように実に宏遠なのであります。

ここまで宏遠に考えなかったならば 
明治陛下の本当の御心というものは解っていないだろうと恐懼(きょうく)する
次第でございます。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月22日 頓首再拝>

[284] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その8
伝統 - 2014年11月23日 (日) 03時27分

斯くの如く日本の国は『國を肇ムルコト宏遠』でありますが、
『徳ヲ樹ツルコト』もまた『深厚』なのであります。

『徳』というのは、人間が社会的生活の便宜上勝手に作為したものではない。
既に宇宙の初発からそこに徳が樹(た)っているのであります。
決して途中から、私的理由で出来たものではない。

便宜だから斯うするの、斯うしたのが得になるから『徳』を行い、
徳を行ずるとかいうのではないのでありまして、
徳とは宇宙の初発から既に樹っているもりであります。

その『徳』たるやどういうものであるかということを 明治陛下は次に説明して下さいまして
『我が臣民克ク忠ニ克ク孝ニ』というように仰せられたのであります。

先ず一切の徳の本源として『忠』を挙げ給うた。
『忠』というのは『徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ』と仰せられましたところの
其の『深厚なる世界』から出て来たものであります。

途中から出て来たものではないのです。
実に深き本源の世界から発現して来た『中心帰一理念』であります。

私の一文『天皇信仰』というのにも、今度発行の『無門関の日本的解釋』の序文にも
載せられておりますが、あの一文に書かれておりましたように

『私の忠』『僕の忠』『俺の忠』などという、そういう『私』という所有格の
附いているような『忠』は本当の『忠』ではないのであります。

それは手垢のついたところの『忠』であってニセモノであります。
我執であります。我慢であります。
一切のものは『私の』という所有格が附いたら、みんな穢れてしまうのであります。

『けがれ』というのは、本当の生気が枯れて無くなってしまう、
本当のいのち《そのまま》のすがたが枯れるのが『けがれ(気枯)』であります。
『私の』と所有格を附ければ、全てのものは気枯れてしまうのであります。

本当のいのちのそのままのすがたが出たら、
それは『けがれ』なきところの荘厳極りなき稜威そのままの現れになるのであります。

自分の行った功績に『私の』とか『僕の』とか云う語を附け、
私は是だけ忠義したのに勲章呉れぬとか、そんな心をもったらそれはもう既に穢れている、
手垢が附いたところの『忠』となってしまうのです。

『徳』というものが人間から、内面から出て来たように思うことが
大変な間違いなのであります。

『徳』は『皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニシテ、徳ヲ樹ツルコト深厚』なる
其の宏遠深厚なる世界から出て来たものなのであります。

『忠』は人間が何処から生れて来たかの本源に因由があるのでありまして決して途中から
主従の関係が出来て、忠義を尽した方が便利だから忠義を尽すのだ、というような、
そういう浅はかなものであったならば『深厚ナリ』とは仰せ給う訳はないのであります。

ですから道徳の本(もと)というものは深厚なる世界から天降って来たものであって、
既に天地の初発の時にその時に、天地と偕に樹てるものなのであります。

では徳は何処に始まり、何処にあるかというと、天之御中主神様の、
その『御中みなか』の理念が『忠』であって、その『御中』の理念が循環して
御親より出でて吾々子に来り、再び御親に復(かえ)るのが忠であります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月23日 頓首再拝>

[285] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その9
伝統 - 2014年11月24日 (月) 02時55分

天之御中主の『天(あめ)』というと宇宙でありますが、宇宙を『○』を以て表しますと、
『御中(みなか)』は○を|(つらぬ)く中心一貫の理念であります。
中(ちゅう)であります。

宇宙の真ん中の、中(ちゅう)の一点にすべてのものが統一されているのであります。

『真ん中』と謂っても必ずしも幾何学的の中心ではない、
innermost(内奥の『中ちゅう』)であります。
この内奥の中心がなかったら宇宙は砕けてしまうのであります。

それは目に見える幾何学的中心という意味ではありませんが、
もっと深い意味に於いて『中心』であります。 

一切が《そこ》に平衡を得、中心を得、砕けないところの結びを
そこに確立しているのが『忠(ちゅう)』であります。

かくの如くして『忠』とはその天之御中主神の理念から稜威としてそれが現象界にひろがり、
吾々の心の世界に流れ入って、それがもう一遍本源の『中心』に帰っているすがたが、
『忠(ちゅう)』であります。

ここで真宗の信仰を以って譬えて申しますならば、真宗で絶対力という言葉を以ちまして、
阿弥陀仏の佛を拝む心にならせて戴くのは、阿弥陀仏の本願力 ―― 
『私の名を念ずる者は救わずにおかないぞ』という阿弥陀仏の本願の力が
吾々の衆生の中に入って来て、それが又廻り廻って、

今度は阿弥陀仏の方へ吾々の心が廻向するのが『信心の心』だというように
解釈されておりますが、この『信心の心』は絶対他力から廻施(えせ)されたものが
循環したのであって、私の計らいで阿弥陀仏の方に心が行き向うのではないのであります。

矢張りそれと同じように『忠』の心は天之御中主の『忠』の心が吾々に宿って、
そして自然と天之御中主神・天照大御神 ―― その直系でいらせられるところの
 天皇に対しての『忠』の『まこと』を尽さずに置けないところの心が
自然と湧き起って来るのであります。

丁度母親が赤ん坊を産みますと其の赤ん坊を抱いてお乳を飲ませたい思うのであります。
赤ん坊は親から生れて来たものであって親とは別のものではない。
赤ん坊がお乳を飲みたくなって親に縋りつく心は親のいのちから廻施されたものであります。

それと同じように吾々の生命は 天皇から生れて来たものであって、
別のものではないのであります。 天皇の御慈愛の御心が吾々に宿って参りますと、
自然とそれが 天皇に対して『忠』を尽さずにおれなくなって来るのであります。

このように『忠』の心は『深厚』なる世界から湧き出て来る深いものでありますが、
言い方がちょっと分りませんが、兎も角深厚なところから『忠』の心が湧き出て来て、
丁度親がお乳を飲ませたいと思うと、自然と親の乳房に喰い付きたくなる赤ん坊の心のように、

吾々は 天皇の大御《いのち》が流れ入って来て、それが循環して来て又、 天皇に
向わずにおれないという心が自然と湧いて来る。是が『忠』の心であります。
途中から出て来たのではないのであって、始めからあるものなのであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月24日 頓首再拝>

[286] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その10
伝統 - 2014年11月25日 (火) 03時54分


『忠』という字は『まこと』と日本では訓(よ)むのであって、
『忠』というのは支那の文字が輸入されて来て、その発音を唯その侭使ったというに
過ぎないのでありますが、本来は『まこと』と訓(よ)むのであります。

日本の国は『まこと』一筋の国であって、
決して『忠』と『孝』とが別々になっているような国ではないのであります。
孝も『親』と云う本源の中心に帰一する心であることは皆さま御存知の通りであります。

日本ではあらゆる徳を『まこと』をいう言葉を以て現しているのであります。

『まこと』というのは語源から考えて見ると『ま』は円(まる)いのであります。
『全(まった)い』であります。円満完全な《こと》がマコトであります。

日章旗はマコトを表しております。日章旗は円(まる)いのであります。
是は全部を包容しているすがたであります。大宇宙であります。
大宇宙が『ま』であります。

『こ』というものは、それは皆さんも親の子でいらっしゃるが、小さいのが『子』であり、
『小(こ)』であり、『粉(こ)』であります。
『コノ』と云うのも小さき一点を指し示す意味であります。

このように『こ』は小さいと云う意味でありますが、
『ま』は大きい全部包容している意味であります。

梵語でも『摩訶般若』などの『摩訶(まか)』であります。
『摩訶』というのは『大(だい)』という意味である。

或は『威厳』というような意味も有るし、『輝く』とか、『権威』あるとか
いろいろの意味を有っておりますが、一言にいえば『大』と云う意味であります。

『マ』は『大』で完全である、一切を包容している。
『コ』は小さく一点であります。

『マ』は一切を包容する無限大であり、
或る人の表現を籍りますと至大無外(しだいむがい)であります。

『コ』は是は時間空間未発の何もない一番小さい一点であり、
至小無内(ししょうむない)であります。

至大無外と至小無内と、どちらもひろがりを超えたところの
『大(だい)』と『小(しょう)』とであります。

『ま』は全部を包容する大であり、『こ』は全部がその内に収まる幽微であります。
その『ま』と『こ』とが『と』即ち『止まる』意味に於いて一つになっているのが
『まこと』なのであります。

『と』は『一つ』に止まることであります。即一であります。至大至小即一であります。
宇宙の御親とその子と、大神と臣下、『全体』と『個』とが即一している ―― 

この深厚なる哲学を理窟を云わずに、ただ『まこと』と云う言葉で表現した
日本民族の優秀性は以て知るべきであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月25日 頓首再拝>

[287] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その11
伝統 - 2014年11月26日 (水) 04時06分

天之御中主神は宇宙に充ちていらっしゃって、同時に『御中(みなか)』であります。
遍在即御中であります。遍在を見ないで、ただ『中心体』としての役割だけを観ます
ときにはそれは人体に於ける脳髄のように機関となります。

『全個即一』『遍在即御中』『一即多』『多即一』『全円即中心』これが判らないために
今迄国体明徴に不充分なところがあったのであります。

天之御中主神の『まこと』のすがたが個生命に発現して参りまして、

そして吾々は『忠』の心というものが湧き起って来るのであります。
『忠』の心は天爾惟神(てんにかんながら)のものであって、決して吾々臣下が
勝手に発明した心でも、勝手に計らって出来た心でもないのであります。

御親の神の大御心が吾々に現れて、それが成就しているところのすがたが『忠』で
ありますから、此の『忠』の心は宇宙を包容する意味○と、その真ん中に生れた
一点である子供とが一つになっている心◎であります。

◎此の形を見ていますと、全個即一、遍在即中心、全円即中心の意味がハッキリしてまいります。

忠』の心を本当に行ずる時に、そこに宇宙の真理が行ぜられている、知行合一であります。
『忠』を尽すとき、宇宙の真理が吾々を通してそこに実現し成就し行ぜられる最大の真理行
でありますから、吾々の生活にとり、こんな素晴らしい出来事はないのであります。

吾々はその時にもう既に肉体たるところの、小さい存在を超えたところのものになっている。
だから日本軍人が戦場に於いて戦死をする時には『天皇陛下万歳』と唱えて ・・・・・・ 
いや臨終速やかにして唱える暇がなくとも同じことであります。

『天皇陛下万歳』の心であって、 天皇陛下の大御《いのち》と一つになって
久遠の世界に飛び込んでしまうのであります。是が『天皇陛下万歳』であります。

詰りその時臣下なる吾々臣民の一点が、宇宙大のものと一つになり、宇宙大の真理が
吾が身の一点に実現し成就するのであります。

凡そ『価値』とは真理が其処に実現することであります。これにも優して価値あることはない。
吾々が幾らお金を儲けても、成功しても、宇宙の生命が其処に成就しなかったら、
そんなことは小さな価値であります。

それは経済的価値とか、社会的価値とか云う相対的価値しかないのであります。

ところが此の『忠』は天之御中主神、大宇宙そのままのいのちが『個』を通して
そこに成就するのでありますから、それは素晴らしい価値実現であり、価値成就であります。
ですから、その時、法悦極りなき状態がそこに現れて来る。 

天皇陛下万歳の法悦であります。是は日本の宗教である。日本本来の宗教である。
而も本来の宗教は決して外国の宗教と衝突するものではないのであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月26日 頓首再拝>

[290] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その12
伝統 - 2014年11月28日 (金) 02時43分


天之御中主神は、宇宙のすべてのすべてでいらっしゃいますから、
外国の宗教といえども、釈迦の宗教も、或はキリストの宗教も、マホメットの宗教も、
その他どんな宗教であっても、凡そ真理の教えであるものは、真理は一つでありますから、
それは太陽の光を受けて輝いているお月様という様なものであります。

ですから日本の宗教が世界あらゆるところに映って、それが釈迦の宗教となり、
キリストの宗教となり、マホメットの宗教となり、その他いろいろの小さい宗教にも
現れているのであります。

本(もと)はと云えば宇宙創造者たる大神、
天之御中主神の道がそこに現れているのであります。

これを吾々は信ずるのでありまして、日本の國は宗教がなかったとか、
神道は宗教でないとかそういうような考え方はそれは間違いであります。

今でも宗派神道はさて措き、神社は宗教にあらずとかいう者もありますけれども、
あれは行政の便宜上斯くの如き区分けが立てられているのでありまして、
日本の国は始めから宗教立国の国であります。換言すれば神が肇めた国であります。

後になり神を想像して信仰するようになったところの国ではないのであります。
斯くして日本の国は神より肇まる、道に依って自ら立っている、
だから『國ヲ肇ムルコト宏遠ニ』であります。

道というのは宇宙にミチているから『道』であります。

天之御中主神の御詔が、稜威が宇宙に充満して、そしてそこに自ら規矩(のり)即ち
秩序がある、則(のり)がある、秩序とは則であります。
その則が徳(のり)であり、徳(とく)であります。

滅多矢鱈の混乱状態ではないのであります。
だから日本の国に於いて『徳(のり)』は宇宙の始(はじめ)と倶に樹(た)つのであります。
だから『徳ヲ樹ツルコト深厚』であります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月28日 頓首再拝>

[291] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その13
伝統 - 2014年11月28日 (金) 02時44分


日本の国は如何なる国であるかというと、則(のり)をひろげるところの国であります。

日本民族とは如何なる国民であるとかと云うと、
則(のり)即ち秩序をひろげてゆくところの民族であります。

吾々が世界の新秩序を建設する為の聖戦を遂行しているのもそのためであります。
これが民族の使命であります。

これは『古事記』にちゃんと書かれているのでありまして、
『天津神の諸々の命以て此のただよへる國を修理(つくり)固(かため)成(な)せ』
斯う詔り給うて、伊邪那岐、伊邪那美神様が混沌たる世界を修理(つくり)固(かため)
成し給うたということが書かれているのであります。

外国の神話にはこんなに秩序整然と、
こんなに深い真理が書かれているような神話はどこにもない。

此の『古事記』の神話を何か迷信のような、御伽噺のように詰らないことを
書かれているように思っている人もあったかも知れませんけれども、
決してそのようなものではないのであって、実に荘厳極りなきことが書かれているのであります。


此の混沌たる世界、ただよえる国を神の『みことのり』によって、則(のり)ある世界に、
秩序ある世界にまでそれを修理(つくり)固成(かた)めて行くというのが、
日本民族の天職であります。

その自覚を表現せずにいられない魂の内奥の要求によって書かれている、
民族の自覚そのの、誓いの文とでもいうべきものが是が『古事記』であります。

此の道は天之御中主神の御名に表れておりまする『全個即一』『中心帰一』の理念の
忠孝の次には、高御産巣日神、神産巣日神と仰せられるところの二柱の神様の
お名前にあらわれておりまする『むすび』の法則であります。

教育勅語の中では『夫婦相和シ』斯ういう風に簡単に仰せられているのであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月28日 頓首再拝>

[292] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その14
伝統 - 2014年11月29日 (土) 03時27分

明治天皇は教育勅語に於て『夫婦相和シ』と詔(みことの)らせ給いましたが、
天と地との相(すがた)を人間に顕わしたものが、人間の夫婦であります。
天と地とは相和すべきものであって、それは天と地とが本来一つであるからであります。

古事記に『天地の初発』の時とありますがその『初発』とは『一』なのであります。
天と地とが『一』であって、天之御中主神が、その『一』を中(つらぬ)いて
存し給うのであります。

『御中』とは天と地と、陰と陽とが偏らず真ん中に一つになり、
真柱を得ている理念であります。

是が宇宙の真理のすがたでありまして、本来『一』なるものが陰陽分れ出でて、
再びそれが結び合うとき力となって発現するのであります。

キリスト教では神は『愛』であるといいますが、
日本では『愛』のことを『むすび』と申すのであります。

『むすび』というのは、此の羽織の紐を結んでいるのも此の『結び』でありまして、
此の羽織の紐は左と右とに分れておりますが、こうして両方から結び合わされるので
こういうよき姿になるのであります。

若しこんな絹紐でも、一本切りでありまして、それを結びましたら
斯ういういい姿にならないのであります。

一本の紐でも結べないことはありませんけれども、本当に左右均整を得たところの
好い形に結べるというのは、陰陽分れて、もう一遍結び合うところに、本当に均整を得た
立派なすがたが、そこに現れて来るのであります。

即ち陰陽の分化と結びとは、宇宙によきものを生み出す本(もと)となるのであります。
喩えば宇宙には空中電気が充満していますけれども、それは陰電気と陽電気とが
分かれなかったならば、そして分れてからも、結び合わなかったならば、
電燈として光ること能わず、電熱も動力も、何物をも産み出すことが出来ないのであります。

『結び』ということは一切の『造り出し』の根本原理であります。
『むすび』というものがなかったら一切のものは修理固成されない
―― 姿形の定かならざるままでいるのであります。

古事記に『此の漂へる國を創造り固成せ』とありますが、
文字は『修理固成』と書いて『つくりかためなせ』と読ませてありますが、
漂える国とはバラバラの中心帰一のない有様を云うのであります。

現在の欧州とか、支那大陸のようなものであります。
バラバラの御飯のようなものであります。そのバラバラの御飯を握ると『むすび』と成る。
詰り左の手と右の手で斯うして結ぶところに、完全なすがたのものが現れて来るのであります。

日本の精神は『むすび』の精神であります。
『大和』と云うのも総てのものを『むすぶ』大調和の精神であります。

『むすび』の精神あるものは必ず物を産み出して、永く伸び伸びて生長してどこまでも
無限大に進展してゆくことが出来るのであります。

これが日本民族の理念であります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月29日 頓首再拝>

[296] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その15
伝統 - 2014年11月30日 (日) 01時28分

仏教は日本へ入って来まして以来、その内容理念も変って来ましたけれども、
印度の仏教、支那の仏教と云うものはどちらかというと、
『むすび』の仏教ではなかったのであります。

『ほとけ』の仏教であったのであります。

『ほとけ』(仏<ほとけ>)というのは『解(ほど)け』ということであります。
『結ぶ』反対であって解ける方の働きであります。
印度や支那の仏教では『解ける』方が強調されていたのであります。

或は『空(くう)』と称して、『放つ』ことが強調されすぎていました。
その為に結ぶ方が忘れられていたのであります。

その為に結束が小さい、結束がないから国が亡びる。印度が亡び、支那が亡び、
ああいう姿になっているのは一つの『解ける』ことばかり考えていた結果であります。

すべては『空』であるから執着しては可かぬと云われていました。

無論『無執無縛』は自由自在に達する本(もと)でありますが、そこまで達し得ないで
『執着せぬ』と云う事に執着して、親に孝行をしたいと考える事すらも執着だ、
妻を愛することも執着だ、家を大切にすることも煩悩だ、

そういうものを捨てて家出をして山に篭って修行をすることこそ尊いのだと
考えてお釈迦さんは出家せられたのであります。

そして王は皇太子を失い、国は亡びても、釈迦自身が救われたら好い、
出家当時の釈迦は、斯ういう風に考えたらしいところが見られるのであります。

大抵外国の宗教は『個人』が救われるということに重点を置いていました。
国家愛とか、家庭愛とか云うものは、遠離さるべき執着だと考えていたのであり、
先輩の宗教家も概ねそう説いて参りましたから、そう云う宗教を其の侭信じ、
それを実行して来た民族はバラバラになって亡びて了ったのであります。

即ち『お握り』にはならぬ、『むすび』にはならぬのでありました。
一粒一粒のお米が助かったらいいのだと思って、バラバラの御飯になって、
一つの『結び』に団結しなかったのであります。

ですからお米でも国民性があらわれていて、外国のお米はバラバラしている。
あれは矢張り外国精神がお米にも現れている、形なきものが形にまで現れているので
あります。

日本の精神は『大和(だいわ)』の精神で、何でも一つに纏めます。
『結び』の精神であります。

お米でも日本に出来たお米は《ちゃん》と日本精神が宿っているから、
握るとしっかり団結して『お結び』になるであります。

ところが外国の米で握り飯即ち『結び』をこしらえてもすぐにばらばらになります。

日本位『結び』の美を発揮している国はありません。
髪の『結び』方にしても、帯の『結び』方にしても、あれ程複雑に芸術的に、
芳醇絢爛たる美を『結び』に発揮している民族はほかにありません。

外国人のバンドなどは『結び』ではない、孔をあけて金を突き刺しているのであります。
これを見ても外国精神と日本精神との区別が分ります。

何でも便利便利で断髪が流行るなども『結び』の精神を無視したのであり、
波形のウェーヴは『漂へる國』をあらわしているので、そんなものを模倣するのは
以ての外であります。


生長の家は万教帰一でありますから、外国の宗教を必ずしも悪いと云うのではありません。
一切の宗教の原理は、宇宙本源の神、天之御中主神の御徳から発現した、
即ち深厚なる世界から放射し展開して行ったのでありますけれども、

それが映写された面が外国に於ては『個人』という面に映されている、
救いの光は、如何なる光でも天之御中主神から出でる他はないのでありますけれども、

うつされたる面が『個人主義』という国民性の面に映されているのですから、
『個人だけ救われたいいのだ。宗教とは畢竟個人の魂の問題である。
個人だけ救われたらいいのだ。国が勝っても自分の魂が救われなかったらどうなるか。
だから国の興亡を度外して悟を開く為には父王の悲しみもものかは、山に篭って修行しよう。

『国が救われるのがいいのか、自分が悟を開くのがいいのかと若し訊ねられたら、
外国人たちなら、国が救われるよりも自分が悟りを開いて解脱を得て仏になるのが、
その方が先じゃといって答えるだろうと思うのです。

英国などでは『基督教の信仰と相異する』と云う理由で、
従軍を拒絶し得る法律がつい最近まであったのであります。


(つづく)

             <感謝合掌 平成26年11月30日 頓首再拝>

[297] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その16
伝統 - 2014年12月01日 (月) 04時28分

お釈迦さんでも矢張り皇太子でありながらその御位を捨て、山に篭って、
こんな摩伽陀国見たいな国はどうでもいいのだ、自分の魂が救われること、
自分の《いのち》が解脱すること、これが大切なんだと、斯う考えて先ず山に篭られたに
違いないのであります。

そこで外国の宗教の出発点はそういう風に
概ね個人の救いということを主にしているのであります。

これは『結び』の精神でなしに『ほとけ』の精神であります。
換言すればバラバラになる精神であります。

尤(もっと)も『解脱』ということも、『自分』がなくなって、『忠』の心
 ―― 天之御中主神の大御心に一つになってしまったら、それこそ本当の解脱であり、
同時に個人我の『結び』でなく宇宙真理の『結び』が実現するのですけれども、

外国の宗教ではそこまで至らないで、
唯単に自分が四苦八苦の世界から救われたいと云うところに出発している
 ―― 是は『救われたい』と云う心であっても一つの煩悩であります。

煩悩から救われたいと思いながら、
『救われたい』という煩悩の中へ入っている宗教になっているのであります。
ですからそういう宗教が発達した国は皆亡びてしまう。

ところが日本へ来るとそんな宗教でも日本精神が内容に醇化して姿が変る、
大乗日本仏教となり、大乗日本基督教となるのであります。

お米でも日本に来ると『むすび』の出来る粘力の強い米に変るように、
外国の宗教も日本に来ると個人が救われるような宗教でなくなってしまった。
そして国が救われると云う鎮護国家の宗教になって了ったのであります。

華厳宗や、天台宗や、禅宗や、日蓮宗では、
国家の隆昌、王城鎮護の為の仏教を説いています。

尤も『国が救われる』と云う言葉は余り適当ではないのであります。
国は始めから天之御中主神のみ国であって、始めから高天原であり、
光明遍照の世界であって、既に神力(しんりょく)によって救われているのであります。

吾々が救うなどと云うのはおこがましいことであります。
既に天之御中主神の御国である其の本当のすがたを現す  ―― 即ち
皇運を扶翼するのが吾々の使命でありまして、
外国の宗教でも日本へ来ると、この皇運を扶翼し奉る宗教に変って来たのであります。

特にハッキリと幸運扶翼・天皇信仰の内容がハッキリ現れているのが生長の家であります。

日本の国の本来の姿はどういうすがたであるかと申しますと、
蓮華蔵世界 ―― 蓮華の花の美しき姿に作られているところの世界であります。

これは『驀進日本の心と力』の本の中に詳しく書かれておりますが、
蓮華の花にたとえたのは真ん中に『す』がある。
『はちす』といって蜂の巣見たいな中心体(巣・統)があるのであります。

『す』はすべての言葉が一つに纏ったところの言葉であります。

宇宙の一切は言葉に依って成ると聖書にもありますが、その言葉によりて成れる世界が、
その凡ての言葉が中心帰一して、『ス』のミコトバ即ちスメラミコトに中心帰一し
奉っていることを象徴的にあらわしたのが仏法の蓮華蔵世界と云う言葉であります。

斯ういう風に仏教も日本へ来ると、変って来たのであります。
今まで仏教家でそう言った人があるかどうか知りませぬ。

余り無かったようでありますが、生長の家ではそう理解しているのでありますから、
仏教は生長の家でハッキリと日本化したと云って好いと思うのであります。


(つづく)

             <感謝合掌 平成26年12月1日 頓首再拝>

[298] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その17
伝統 - 2014年12月02日 (火) 03時17分


『華厳経』は何を説いているかといいますと、日本の国体を説いているのであります。

こうなると仏教も、『ほどけ』と云ってバラバラに成ることを説くのかと思うと
バラバラどころの騒ぎではないのであって、中心帰一世界というものを説いているのが
仏教であるということが生長の家で分ったのであります。


お釈迦さんが或る日、霊鷲山の上で説法をなさっておった。
その時に釈迦に金婆羅華という花を拈(ねん)じて、
そして一寸瞬(まばた)きをなさった。

何のことか弟子の皆には分らない。
すると迦葉尊者のみが分ったような顔をして、
にこにこして先生あの意味を被仰っているのだ、と嬉しそうな顔して笑った。

そしたら、お釈迦さんが、『吾れに正法眼蔵、涅槃妙心、實相無相、微妙の法門あり。
不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱(ふしょく)す』斯(こ)う被仰(おっしゃ)った。

一体何のことだろう、他(ほか)の人には分らなかったのであります。
これが解らないままで今も仏教を説いている仏教家があるのは嘆かわしいことであります。

この釈尊拈華迦葉微笑の悉しい説明は蓮華蔵の世界の話と共に
『無門関の日本的解釈』の本に詳細書いて置きましたから読んで下さい。


(つづく)

             <感謝合掌 平成26年12月2日 頓首再拝>

[300] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その18
伝統 - 2014年12月03日 (水) 04時28分


釈尊は出家のときは『個人が救われたい』と云う個人的動機で出家なさっていましたが、
成道後は中心帰一国家『蓮華蔵世界』をお説きになったのであります。

そしてそれは自分の生れた摩迦陀国ではなかったから、
御自分は再び王位に即くなどのことはせられなかったのであります。

本当は外国の王は仮の王 ―― 人為の王 ―― 過度時代の覇王でありますから、
釈迦にならって王位を捨てる方が、世界が早く救われることになるのであります。

何の為にお釈迦さんが金婆羅華を拈じて瞬きをして『分ったか』というような顔をされたか、
是が大切なことであります。

今迄それは仏教というものは余りに深遠であるから、
言葉を以って言い現すことが出来ない。

例えば『空(くう)』の一語を以ってしても、
全然『無(な)』いでも『有(あ』』るでもないのだ。
曰く言い難しだ。教外別伝である。言詮不及の真理である。

言葉で追い詰めても、それを現すことが出来ないから、華を拈って瞬きをして、
『分ったか? 』と云う表情をするしか仕方がないというように思われておりますが、

仏教の真理は空(くう)なんだから、空(くう)だったら
空気見たいなものであると云うのなら別に華を拈って見せないで団扇(うちわ)でも
持って来て煽(あお)いで見せて瞬目(まばたき)されて『分ったか? 』と云う
表情されても好いのであります。

また単に『現象は無い、空だ』 と云うことを示す為なら紙袋を空っぽにして置いて、
口を詰めて、中に何かあるかのように叩いて見せて、
それから是は空っぽであると中を見せられても好いのであります。

『空(くう)』を示さんが為だったら、金婆羅華を示されたところの
必然性というものがないのであります。
他の物を示されても可かったのであります。

吾々は釈迦が、『仏教は是だぞ』 といって金婆羅華と云う華の姿を示されたのは
その花でなければ象徴することの出来ないところの必然性のある真理を看破しなければ
ならないと思うのであります。

単に空(から)っぽを示すのであったら、
空っぽの水呑(みずの)みでも宜(よろ)しいのでした。

併(しか)しながら釈迦はそうしないで金婆羅華の姿を示された。
それは蓮華の一種で金色(こんじき)の花だそうであります。

金色(こんじき)の中心に帰一の蓮華の花は、蓮華は水中にあって溺(おぼ)れず、
泥中(でいちゅう)にあって溺れず、火中(かちゅう)にあって燃えずと
仏教でされている久遠不滅、中心帰一の花であります。


(つづく)

             <感謝合掌 平成26年12月3日 頓首再拝>

[301] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その19
伝統 - 2014年12月04日 (木) 03時02分


『羅華』という梵語は、『彼岸』ということであります。
金婆羅華とは金色(こんじき)の彼岸の世界の華というのを示されたのであります。
金色の彼岸の花の世界は中心帰一のこのような世界だと示されたのであります。

釈迦は日本国家の相(すがた)を金婆羅華に於いて象徴されたのであります。

日本こそ中心帰一の宇宙的真理を顕現せる真理国家であることを相望して、
それを弟子に示し給い、自己の摩伽陀国は真理国家でないから、どうでも好いので
王位に即(つ)かれなかったのでありますが、時期未だ到らずとして、
日本国家を示すに華を以って象徴されたに過ぎませぬでした。

弟子にはそれが悟れなかったのであります。
そして彼岸というのは十萬億土の彼方遠き世界のことだと思っていた弟子もありました。
彼岸というのは迷いの世界から光の世界を指して彼岸というのであります。

(つづく)

             <感謝合掌 平成26年12月4日 頓首再拝>

[302] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その20
伝統 - 2014年12月05日 (金) 18時24分

伊耶那岐命は黄泉の国に追っかけて行かれて、それから高天原なる光明遍照の世界に
お帰りになりましたが、これが其の彼岸にお帰りになったのであります。

『高天原』『羅華』であります。彼岸であります。暗(やみ)の世界から光の世界を
見るから彼岸と云いますが、光明遍照の世界から見れば此岸(しがん)であります。
この日本真理国家が金婆羅華の世界であります。

釈迦は金婆羅華の『羅華』を以って、高天原の『原(はら)』を象徴し、その高天原なる
彼岸の世界は金色(こんじき)の華(はな)のすがた、十六菊御紋章の世界だ。

これが分かるか、是が大宇宙だ、是が宇宙の本当のすがただ。真ん中に『すめらみこと』
ましまして、一切のものが中心に帰一している光明遍照の金色(こんじき)の世界だ。

誰か分かるか ―― 斯ういわれたのであります。

ところが、それが分からないのですね。大迦葉のみは分かったと云うのですけれども
ほかの弟子にはどうも分からない。阿難尊者にも分からなかった。
他(ほか)の弟子は無論分からなかった。

日本現代の仏教学者も今まで私の云うように説いた方はありません。

そこで或る日のこと、阿難尊者がお釈迦さんが死んで後(のち)のこと

『迦葉、君お釈迦さんに仏教の極意を授かったというそうだが、一体何を授けて貰ったのだ。
君は伝法(でんぽう)の印(しるし)に何か金襴の袈裟と鉢盂(はつう)とを貰ったそうだが、
それだけが極意か、そのほかに何か仏教の極意を受けたか。一体どんな極意を貰ったのだ』

斯う言ったのです。

すると迦葉はそのことには何も答えないで、暫くしてから『阿難』と更(あらたま)った
調子で呼んだ。そしたら阿難が『ハイ』と斯う素直に返事した。

すると『此の説教所に立ててあるあの刹竿(はたざお)を下(お)ろせ』と迦葉が言った
と云うことが無門関に書いてあります。

説教所に立ててある刹竿(はたざお)というのは、まだ説教の意味が徹底していないから、
まだ説教の最中であるという印(しるし)に旗が立ててあるのですが、

『そのお寺の旗を下ろせ』と言ったのは『もう説教完了である。これが仏教極意である』と、
斯う迦葉が云ったことなのです。

阿難は理屈を止(や)めて、唯『ハイ』と答えたのであります。
理屈がない ―― ただ『ハイ』の精神、中心帰一、無我随順 ―― これが金婆羅華世界
を貫いている真理であります。

阿難が『ハイ』と答えたとき『もう説教完了だ、もう説教の必要はない、
寺の刹竿(はたざお)を下(お)ろせ』と迦葉が云ったのであります。


(つづく)

             <感謝合掌 平成26年12月5日 頓首再拝>

[304] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その21
伝統 - 2014年12月07日 (日) 03時10分

阿難が『ハイ』と答えたので、
釈迦が拈華(ねんげ)によって迦葉に伝えた仏法が阿難に伝わった。

どうも仏教は分からない。いよいよ以って分からない、
一体『何』が伝わったかという人があるかもしれませんけれども、
この『ハイ』が真理国家を貫く中心帰一理念であります。

是が『忠(ちゅう)』の精神であります。
『忠(ちゅう)』の精神とはどんな精神であるか。
『ハイ』の心のほかにはない。

上官の命令には素直に、天皇陛下の御命令であると思って、素直にその儘(まま)
『ハイ』という心 ―― 是が中心帰一の心でありまして、此の蓮華蔵世界 ―― 
大日本真理が金婆羅華の華の形であるという事は『ハイ』の一語に尽きているのであります。

ここに釈迦から迦葉へ、迦葉から阿難へと伝えられた中心帰一精神が鎌倉時代に、
『禅』の精神となって日本武士に逆輸入せられたのであります。
元来(もともと)禅の精神と日本精神と一つのものであります。

禅は『単伝(たんでん)』であり、理屈がないのであります。
理屈に依って成り立っている世界ではないのです。

では、此の世界は何で成り立っているかたといいますと、
『みことのり』で成り立っているのであります。
ただ吾々はそれに随順すれば好いのであります。

『高天原に成りませる神の名(みな)は天之御中主神』と古事記にありまする
『なりませる』世界とは『成り』『鳴り』同語源で、
『みことのり』で成り立っているところの世界なのであります。

『みことのり』の鳴り響くそのままのすがたを受けて、
それを行じたらそれが『忠』なのであります。

日本の国体が、日本の真理実相が、人間に現れているのが『忠』であります。

ですから此の『ハイ』の精神が本当に素直に現れた時に、もう仏教は説教する必要がない。
だからお寺の説教の印(しるし)の旗を下ろしてしまえ ―― 斯ういう風に
迦葉は言ったのであります。

是が仏教の極意でありますけれども、この極意がわかったら、仏教は要らぬ、
もう可(い)い加減に旗竿(はたざお)を下ろして好いのであります。


凡そ『ハイ』の日本精神が、仏教の極意であると云うことは、最近に到るまで
晦まされておったのでありまして、仏教というものは空(くう)を説くのだ、

親のことを思うなどというふうな是は煩悩だ、妻恋しいと思うのも煩悩だ、
夫恋しいと思うのも煩悩で、そんなものみんな捨てて山へ籠(こも)らなければ
ならない ―― と、干(ひ)からびた仏教家の骸骨のような仏教が出来上がって、
女人禁制だとか、妻帯は不可だとと云うて『むすび』の仕事をしない。

どんな産業にも従事しないで、それでお寺に籠って、人間が死んだら死骸にのみ
お経を誦(あ)げているというような仏教が出来上がったのであります。
こういう風に仏教が堕落して来たのも此の『むすび』の働きを忘れたからであります。

日本の国は『むすび』が中心になっております。
夫婦相和しが必要であります。

『むすび』というのは産み出す働きですね。
産み出す働きをするのが日本精神なのであります。
バラバラになるのは是は外国精神であります。

独身生活や避妊法や人工流産は外国精神であって、『夫婦相和し』の
明治陛下の教育勅語に背反しているのであります。

医学は科学の中でも最も発達しているところの現代文明の精髄であるとも云われて
おりますけれども、現在に唯物論に偏している大部分はユダヤ的な日本精神に
反したところがあります。

之(これ)は今後大いに吾々の努力によって、
日本医学を樹立しなければならないと思うのであります。


(この後に、具体的な医学者の名前を出し、医学界での活躍を期待しているという
 言葉が数行ありますが、ここでは省略いたします。)



(以下に、『行』昭和15年2月号の原稿の最後尾に記載されている言葉を紹介
 しておきます)

   現実界の偉大なる仕事は悉々(ことごと)く信念の現実化である。
   科学は既に現実にあらわれて来たときにそれを認め、分析し、解釈し、系統づける。
   
   しかし、それが現実にあらわれ来た時に始めて認めるようなことでは、
   時代の先覚者とはなれないのである。
   また新しき世界を建設したり、東亜の新秩序を建設したりする事はできぬ。

         (谷口雅春氏著『無門関の日本的解釈』中の一節)

・・・

以上で、「 教育勅語渙発五十周年に方りての講話」の謹写を終了いたします。

             <感謝合掌 平成26年12月7日 頓首再拝>



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