[277] 教育勅語渙発五十周年に方りての講話(昭和15年10月23日) |
- 伝統 - 2014年11月16日 (日) 08時43分
教育勅語渙発五十周年に方りての講話〜その1
《新たに生まれる 〜 教育勅語渙発五十周年に方りての講話》
*「信の力」(P297〜344)より
本日は 明治陛下が教育勅語を御渙発あらせられましてから五十周年の記念日に 当るのでございます。今日の佳き日に当りまして、教育勅語を戴きました吾々の感想を ここで申述べたいと思うのでございます。
明治陛下が『朕惟フニ』と斯う仰せられましたのは、是は決して 明治陛下御一人の私見というような、私的考えというようなものではないのであります。
天皇は宇宙の御《いのち》そのものでいらせられるのでありまして、 陛下が『朕惟フニ』と斯ういうように仰せられましたのは、 それは宇宙と倶に惟っていらっしゃる事が表されいるのであると拝察し奉るのでございます。
日本の神話『古事記』を開きますと、どういう風に書いてあるかといいますと、 『天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天之御中主神』 ― 斯ういう風に書かれております。
『古事記』は是は支那から歴史が入って来た時に、日本には歴史がないから、 一つ日本にもそういう似たものを拵えてやろう、そうでないと国家の体面に係るとして 創作したのだというような説をなす人もありますけれども、決してそうではないのであります。
『古事記』は日本民族の《いのちのいのち》、魂の魂、日本民族が《いのち》の底で、魂の底で、 どうしても斯くの如きものを信ぜずにおれない、表現せずにおれない、思わずにおれない、 という奥底の《いのち》の流れそのもの、血の叫びそのもの、魂の叫びそのものというものが それが表現されているのであります。
ですからあの『古事記』に書かれておりますところの天地創造説というものは、 是は日本民族の《いのち》の相(すがた)である ― 斯う見てもいいのであります。
そこで日本民族は如何なる天地創造のすがたを信じ、斯く表現せずにおれなかったのか ということを、あの『古事記』の最初の言葉に由って考えて見まするに、
『天地の初発の時』斯う書いてありますが『天地の初発』 ― というのは 『一(はじめ)』であります。
『一』が初めでありますが、天地が未だ『一』なる時であります。 天地を全一と観たのが日本人であります。
『天』は『高』 ― 『縦』を以て象徴することが出来るのであります。 『地』は、水平に『横』を以てして、それを象徴することが出来るのであります。
『天』とそれから『地』と |(たて)と―(よこ)とが一つに十字交叉したその中心、 是が『初発(はじめ)』であります。『一(いち)』であります。『一(ひと)つ』であります。
『一(ひと)つ』といっても一、二、三、四と相対的に数が展開してゆく 相対的数の序列の『一』ではないのでありまして、一切の数(すう)を一つに集めて 一切の数(すう)が発現する契機を内に孕んでいるところの『一』であります。
此の講壇の前面に掲げてありますところの日章旗の、あの『一つ』のまん円(まる)い形、 あれも『一』であります。『零(ゼロ)』といってもいいのであります。
日章旗の◯(まる)も矢張り『零』の形とも云えるのでありますが、 『一つの円(えん)』とも云えるのであります。『一つ』と云っても零(ゼロ)と云っても 好いのであります。
それが天地の初発(はじめ)で、天地が一つである。 まだ天割れず地割れざる天地を内に孕(はら)む無時間無空間の世界であります。
(つづく)
<感謝合掌 平成26年11月16日 頓首再拝>
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