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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[411] 神想観の神髄
伝統 - 2015年01月28日 (水) 18時11分

      *「神と偕に生きる真理365章」第2篇(P47〜P89)より
       (”S32年4月号の神誌”が初出)

《神は今此処にあり給う》


神の国は今此処にある。
そして神は自己に於いて顕現している。

神は余所にあるのではない、「爾(なんじ)の内にある」


それを見出さないで今此処を物質の国土と観(み)、
人間を単なる物質の塊だと見る、其処に迷いがある。

その迷いを取去らなければ、人間は自縄自縛されている。


人間は物質ではない、肉体ではない、霊的実在である。
この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。

神を頭脳で知っただけでは、神が”わがもの”とはならないのである。

全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。
それをなすのが神想観である。

神想観を必ず怠らず行ぜよ。

         <感謝合掌 平成27年1月28日 頓首再拝>

[416] 《謙遜と自覚による高揚》
伝統 - 2015年01月29日 (木) 17時18分

神想観を怠らず行じているうちに「人間・神の子」の真理が、
頭脳的な知識から、感情的な把握となり、更に進んで、
全生命的な把握になって来るのである。

大抵の人は「神」を単に、理論的に、
又は「文字」の上で知っているのである。

それが単に「文字」や「理論」である限りにおいて、
その神は「自己」の全存在から離れたものに過ぎないのであって、
生活の上に何の力をも現すことはできない。

神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって、
自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、
私たちの生活は変貌しはじめるのである。

それは「吾れみずからにては何事も為し得ず」と云う謙遜(へりくだり)と、
「天の父(神)われにいまして御業(みわざ)を成さしめたまうのである」
と云う高らかな明るい自覚との、不思議な組合せができるのである。

其処に於いて魂の神秘な安息(やすらぎ)が得られる。

         <感謝合掌 平成27年1月29日 頓首再拝>

[420] 《神への聖なる憧れ》
伝統 - 2015年01月30日 (金) 18時45分


肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、
何か一層高き神秘的なものが働いていると云う感情的な自覚、
すべての宗教的な体験は其処から生まれて来るのである。

併し其の自覚に達する迄には頭脳的な追求も、知的な追求も必要である。

神への追求、神への探求

・・・それがたとい頭脳的な知的なものであるにしても、
神への追求又は探求の奥には既に自己の本質が
「神である」ことのおぼろげなる自覚があるのである。

そのおぼろげなる自覚を探求の緒(いとぐち)として
手繰って行けば、其処についに内在の神を見出し、
内在の神に到達する大通りを見出すことができるのである。

煙草を一度も経験しない人が、煙草を追求しないごとく、
未だ一度も神を経験しない人が神を追求しようと云う
衝動をかすかながらも感ずる筈はないのである。

既に神は自己の内にましますから神への聖なる求めが生まれて来るのである。

         <感謝合掌 平成27年1月30日 頓首再拝>

[425] 《聖なる追及とその彷徨》
伝統 - 2015年01月31日 (土) 18時02分


こうして人類の神への聖なる追及と、神をたずねる聖なる巡礼とがはじまる。

或る人は神を「仏」の名に於いて仏教を見出す。
或る人は神を「慈悲」の名に於いて慈善的な行為や隣人への愛行に於いて見出す。

或る人は、神を教会に於いて見出し、教会の礼拝の中に神と自己との
接触点を見出そうとする。

しかし教会や寺院での神や仏は、それを教える牧師や僧侶の排他的な、
縄張り的な狭い心でゆがめられ、本当の神を見失わしめられ、

「その教会や寺院を去ったならば、神罰や仏罰で恐るべき災禍(わざわい)に
見舞われる」などとおどされ、神を求めたがゆえに、却って神に縛られて
自由を失うような結果になり勝ちである。

併し本当の神は決してそのような神罰や仏罰で人間を威(おど)したりする
方ではないのである。それは神を求める道に迷って何時の間にか、
「外」に神を求めていたからである。

         <感謝合掌 平成27年1月31日 頓首再拝>

[428] 《神を全身全霊をもって体感するには》
伝統 - 2015年02月01日 (日) 04時27分


正しく「神」を知り、本当の「神」に接するには神罰や仏罰を説かない、
偏りのない「愛の神」を説く経典又は著述を読まなければならない。

しかし読書だけでは、頭脳がその方向に振り向くだけであって、
必ずしも全生命が神と一体感を得るとは限らないのである。

もっとも『生命の實相』を読んでその文章の力、言葉の力によって、
忽然脊椎カリエスが治ったと云う人の中には、
ただ読書だけで自己内在の神を体感し得た人もあるけれども、

万人が万人とも読書だけで、「内在の神」を全身全霊をもって
体得する訳には行きかねる。

其処で神想観の実修が必要になるのである。

私たちは「神があらわるれば乃(すなわ)ち善となり、義となり、
慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物ところを得て争うものなく、
相食むものなく、苦しむことなく、乏しきものなし」と教えられている。

神を顕わすのが神想観である。

         <感謝合掌 平成27年2月1日 頓首再拝>

[432] 《既に迷いなく 既に完全である》
伝統 - 2015年02月02日 (月) 02時24分



「迷いは何処から来たか」とか「神の子が何故迷うか」
などと云うことを質問する人がありますが、
それは人間の感覚的認識から来た質問であって、

霊的直観によるとき、

「悟り」に対する「迷い」とか、
「光」に対する「暗」とか、
「善」に対する「悪」とか、
「完全」に対する「不完全」とか

云うような神に対する反対観念のものなど全然”ない”。

「何故、”ない”ものが”ある”ように見えるのか」という質問も出て来るが、

霊的直観によれば、
それらの「無いもの」は決して「”ある”ように見えない」のだから仕方がない。

「不完全な地上世界の存在」を仮りに肯定して、
「地上は人間の霊魂が向上するための学校だ」と云うのは、
現象としての観方である。

未完成の現象は或る意味ではあるが、
実相に於いては「既に完成せる世界」のみがあるのである。

未完成は「認識の形式を通過する際の歪(ゆが)み」に過ぎない。

         <感謝合掌 平成27年2月2日 頓首再拝>

[436] 《既にある完全の世界の扉を叩くこと》
伝統 - 2015年02月03日 (火) 02時54分


神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべて一つの神の示現であり、
従って「一切の生物処を得て争う者なき大調和の世界」である。

すべてが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者によって、
辛(や)っと築き上げた如き自力の世界ではないのである。

すべてが神の示現であるから、それは他力の世界であり、絶対慈悲の世界であり、
ただ恩寵によって完全に生かされている世界である。

随って、人間的なはからいによって、「この善」「この幸福」を求めることは不要である。
ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」よい世界である。

まことにも「叩けよ、さらば開かれん」とはよく言われたものである。
「先ず神の国と神の義(ただしき)をと求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」
とはよく言われたものである。


         <感謝合掌 平成27年2月3日 頓首再拝>

[438] 《「内なる無限」から求めよ》
伝統 - 2015年02月04日 (水) 03時03分



既に「形」として、「物質化」しているものは有限であり、
それを求め願うのは或る場合は争いの元になる。

私たちは事物の「聖なる本源」そして「無限の本源」である神に、
その供給を仰いで其処から「既に完全なるもの」の展開をこそ
願うべきであるのである。

芸術家も人間的工夫よりも「内なる無限」よりそのインスピレーション
を求むべきであり、発明家も人間的工夫よりも「内なる無限」より
そのインスピレーションを求むべきであり、

病人もその治癒力の源泉を「内なる無限」より求むべきであり、
而(しか)もその「内なる無限」は、自分の自力で掘り出すのではなく、
神の恩寵によって、仏の本願によって、汲み出すべきである。

先ず自己の内に「無限」があること、それを素直にみとめること、
そして幼な児の心になって、それに呼びかけることである。

         <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>

[440] 《天国を受くる者は「幼な児」の心を持つ者である》
伝統 - 2015年02月05日 (木) 03時45分


「素直」と「幼な児の心」とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。
この「幼な児の心」を恢復することが「新たに生まれる」と云うことである。

理屈を言わずに、「人間は神の子である」と言われれば、
それを素直に承認して「ありがとうございます」と感謝することである。

「人間は神の子であり、本来病はないのだ」と教えられれば、
たとい現象的に病があらわれておろうとも、そんな病は無いのであって
それは恰も「夢」を見ているようなものである。

夢は体験としてあっても、夢にある内容は実際起っていないのである。

その如く病の苦痛は体験として感じられていても、実際にはその病いは
存在しないのであると、完全にその病を心の内から否定するのが
「幼な児の心」と云うものである。

「何故、無いものが”ある”として感じられるか」などと理屈を言うのが
”知恵の樹の果”をたべる事である。

         <感謝合掌 平成27年2月5日 頓首再拝>

[443] 《神想観は自力の行ではない》
伝統 - 2015年02月06日 (金) 04時04分


神想観を行ずるものは必ず「幼な児の心」になることが必要である。

神想観とは決して自力の思念ではないのである。
それは「既にある実相の完全さ」を素直な心で受けることである。
遮二無二自己暗示的に「神」の観念を注ぎ込むことではないのである。

真に幼な児の心になって「神」と神のつくり給いし実相の完全さを
完全に潜在意識の底までも受入れるとき、現象的にも曲がれるは正しくなり、
不調和は調和し来(きた)り、一切の人間処を得て、争う者なく、相食む者なく、

それぞれの個性に従って賦(あた)えられたる善きものが、
互いに調和した相(すがた)に於いて得られると云うことになるのである。

この時、最早その人は単に「自分のはからい」や不安や昏迷(こんめい)のなかに生きず、
神の恩寵によって生かされていることになり、人事関係の調和、豊かなる供給、
事業の発展、よき神徠(インスピレーション)等相ついで来(きた)るのである。

         <感謝合掌 平成27年2月6日 頓首再拝>

[446] 《内部的「生まれ更(かわ)り」》
伝統 - 2015年02月07日 (土) 03時18分


何よりも先ず、現象に先だって内部に「幼な児の心」が来なければならない。
それが内部的「生まれ更(かわ)り」である。

内部的「生まれ更(かわ)り」があってこそ、
やがて現象的に外部的生まれ更りを生ずるのである。

現象を目蒐(めが)けて、現象の利益を追求しているようなことでは
内部的「生まれ更(かわ)り」というものはあり得ない。

現象界のある事物を得んがために、又はある目的を達せんがために、
神想観するのは神を求めているのではなく、現象的な目的を達成せんがために、
神を利用しようとしているのである。

其処には「神の恩寵」はあり得ない。
何故なら、人間が先に立って、神を利用しようとするものだからである。

だから厳重に言うならば、病気を治すために、金を儲けるために、
自動車を得るために・・・等々の目的で神想観すべきではないのである。

神想観と世俗の「祈り」とはその点が非常に異なるのである。

         <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>

[447] 《神想観の本質は唯「神」を素直に受けるにある》
伝統 - 2015年02月08日 (日) 03時54分


神想観は「内部的生まれ更り」をするためにこそ行ずべきである。

「神」を自己の内に素直にみとめるのである。「神」は既に汝の内にあるけれども
幼な児の心で素直にみとめない時はあらわれないのである。

神想観は「神がわが内にありたまい、われ神の内にある」実相即ち真実を観るのである。
神は一切の”善き物”を自己の内に蔵したまい、それを我らが素直に受けることによって、
その「善き物」が現象的にも展開するのである。

神を自己の内に素直に見出し、
それを受けることが最初の出発であり、最後の決着でなければならない。


神と別なるもの、神の善意に相反するもの、他を押しのけて自分が利得を得るもの、
それらのものを神想観中に求めたりするならば、
それは神想観の本質を破壊してしまうことになるのである。

神はすべての「善」である。
神以外のものを求める必要はないのである。

         <感謝合掌 平成27年2月8日 頓首再拝>

[449] 《唯、神と神との触れ合いが本当の祈りである》
伝統 - 2015年02月09日 (月) 02時45分


神は霊であるから、霊に対しては霊をもって祈るべきである。
物質を目的に祈ってはならないのである。

物質は霊の投影であるから、霊の方がととのったならば、
その投影であるところの物質の方もととのうのである。

だからキリストは「先ず神の国と神の義(ただしき)とを求めよ、
その余のものは汝らに加えらるべし」と教えられたのである。

「神は霊であるから、霊に対しては霊をもって祈るべきである」と言うのは、
本当の祈りは(形式は如何にともあれ)肉体の人間が祈るのではなくて
「我が内にある霊が、普遍霊なる神に対して祈る」のであるということである。

本当の神想観は、肉体の脳髄が観ずるのではなく、
「内なる神」が「神」を観ずるのである。

「唯物与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうぐうじん)」の境地である。
唯、仏と仏のみがカチカチと触れ合い火花を発する境地である。

         <感謝合掌 平成27年2月9日 頓首再拝>

[451] 《純粋の神想観について》
伝統 - 2015年02月10日 (火) 04時02分


「わが内にある神」が「普遍なる神」に直接接するのが本当の神想観である。
「幼な児の心」になるということは、「わが内にある神」が魂をひらいて
「普遍なる神」に接触するためにその障壁をとり除くことになるのである。

「我(が)の心」をもって「物質的なアレ、又はコレを与えたまえ」と祈ること
とは大変なちがいであるのである。

純粋な神想観は、「わが内なる神」が「普遍なる神」に対して直接対面し、
「わが”みおや”なる神よ、汝語りたまえ」と、素直に相対し、
素直に神そのままの御言葉をきくことであり、実相そのままを受取ることである。

完全なる自己放棄と、完全なる自己の扉の全開である。
その扉の入り口に「物質的な要求」がデンと坐って、
その入り口をふさいでしまってはならない。

完全な自己放棄が行なわれたとき、
「普遍なる神」と「内なる神」との契合(けいごう)が行なわれる。

         <感謝合掌 平成27年2月10日 頓首再拝>

[454] 《神は常に御業を成したまう》
伝統 - 2015年02月11日 (水) 03時40分


「われみずからにては何事も為し得ず、
天の父われにいまして御業を成さしめたまうなり」

御業をなすのは、肉体の人間ではなく「普遍なる神」(天の父)がわれに宿って
「内在の神」となっている其の「内在の神」である。

それなのに何故「内在の神」は今まで働き給わなかったのであろうか?

”否、常に働いていたまうのである。”

しかしその表面に物質的欲望が層をなして、
その表現を邪魔していたに過ぎないのである。

喩えば、それは、映写機は回転している。
しかしそのレンズの上に不透明なレンズ・フードが幾枚も覆っていて、
それが現象界のスクリーンに完全な映像がうつるのを妨げているようなものである。

この妄念の不透明なレンズ・フードを私達は打ちくだくことが必要である。
その妄念を取り去る方法が「幼な児の心」になることである。

         <感謝合掌 平成27年2月11日 頓首再拝>

[455] 《病気や貧乏をなくするには》
伝統 - 2015年02月12日 (木) 03時45分


「若しこの病いを癒し給うたならば神の存在を信じます」と言ったり、
「若しこの貧しさを救いたまうならば神の存在を信じます」と言ったりする人が
あるけれども、神は病気治しでも、貧乏直しでもないのある。

「神に於いては病気がない」であり、「神に於いては貧乏がない」のである。


ほんの一寸した考えの違いのようだけれども、
この二つの考えには千里の開きがあるのである。

前者は病気の存在や貧乏の存在をみとめるけれども、
後者に於いては病気や貧乏の存在をみとめないのである。


私たちにとって必要なことは「病のない神」を、そして「貧乏のない神」を
自己の内に目覚めしめるだけである。


「暗(やみ)」をつかんで抛(な)げ出すのではなく、
「暗」のない光を照り輝かしさえすれば、「暗」は消えるのである。

それと同じく神の光(自覚)を輝かしさえすれば、病気も貧乏も消えるのである。

         <感謝合掌 平成27年2月12日 頓首再拝>

[458] 《自己の神性を自覚する近道》
伝統 - 2015年02月13日 (金) 04時19分


私たちの心を、内在の神のみに振り向けよ。

病に振り向けるな、貧乏に振り向けるな。
これが自己の神性を自覚する最勝最善の捷径(ちかみち)である。

「汝、心をつくし、精神をつくし、魂をつくし、力をつくして汝の神を愛せよ」
とキリストが言ったことは、自己の神性を自覚するための最も近道であるのである。

現象界の形ある何物かを求めるよりも、「神」そのものを求める方が、
根源を求めることになり、その余のものは根源より流れ来たって
おのずから調(ととの)うことになるのである。

しかも「形あるもの」を最初から求めた人の如く、形ある事物に執着し、縛られ、
それを失うまいと恐怖する必要もなく、唯流れる滝の水を必要に応じて汲むが如く、
執着なくして、豊かなる生活を享受することができるのである。

ひとたびこの境地に達したならば「持たずして豊富に享受する」
という聖境を味うことができる。

         <感謝合掌 平成27年2月13日 頓首再拝>

[459] 《唯、神のみに心を振り向けよ》
伝統 - 2015年02月14日 (土) 03時49分


神想観に於いては、ただ心の扉を開いて、神の与えたまいし実相の完全な状態を、
素直に受け、観じさせて頂くよりほかに何らの仔細もないのである。

それは神の恵みを受け観ずるのであって、自分の精神力によって実相の完全な
状態を遮二無二製造するのではないのである。

誌友会に列席して人の聖(とうと)き信仰体験をきいたり、『生命の實相』を
読んだりするのは、神を理解し、自分の心境を、神と実相世界とに波長を合わせ得る
ような状態にまで向上させるに役立つのであるけれども、

愈々神の与え給いし実相の完全さを受けるのは概ね、
神想観によって、心を唯、神のみに、実相のみに振り向けることによってである。

仏教で言うならば平生業成(へいぜいごうじょう)の念仏のほかに、
「別時の念仏」があるようなものである。

今が臨終の念仏と思いて、ただひたすら宇宙の本源に心を振り向けよ。

         <感謝合掌 平成27年2月14日 頓首再拝>


[464] 《人間の本質は久遠不滅である》
伝統 - 2015年02月15日 (日) 04時17分


”人間は「金の指輪」のようなものである”と言った人がある。

「金の指輪」の”金”は、指輪から取り離すことができないように、
それは指輪の本質を成している。

それと同じように”神性”は人間から取り離すことができないように
人間の本質を成しているのである。

”金”を離れて「金の指輪」は存在し得ないように、
”神性”を離れて「人間」は存在し得ないのである。

「金の指輪」が”金”そのものであるように
「人間」は”神性”【そのもの】であって、
それ以外の何ものでもあり得ないのである。

「金の指輪」の「指輪」としての形は一時的のものに過ぎない。
「神なる人間」が「肉体的形態(かたち)」をしているのも一時的であるに過ぎない。

指輪としての形はくだけても「金」はくだけないのである。
それと同じように「肉体的な形」はくだけても
「人間そのもの」(神性)は永遠にくだけるものではないのである。

         <感謝合掌 平成27年2月15日 頓首再拝>

[465] 《「内なる神性」の聖なる催し》
伝統 - 2015年02月16日 (月) 04時02分


私たちが「自己の神性」を自覚するのは、肉体人間の努力によるのではなく、
「内在の神の催し」即ち他力によるのである。

肉体の「わしの努力」「俺の精進」などによって「自己の神性」を自覚し得るものではない。
この点に於いてはパウロの言ったように「肉は益なし」である。

「神性」が内なる催し、「神性」が内から導くことがなければ結局
私たちは「自己の神性」を自覚することはできないのである。

私たちが或る事業に失敗し、躓き、打ち摧(くだ)かれて、もう力つきて現象的な何物にも
頼ることができなくなって心が神に向かうようになる経過は、実は、そうでもしなければ
肉体の”頑張り”や”気負い”や”傲慢”が打ち摧かれないので、

「内在の神性」が其の人を導いて肉体的傲慢を打ち摧くために、
そのような生活の道筋を導いている事があるのである。

         <感謝合掌 平成27年2月16日 頓首再拝>

[468] 《肉体的傲慢の破壊について》
伝統 - 2015年02月17日 (火) 04時34分


人間の「肉体的傲慢」が打ち摧かれない限りは、
人間は肉体的な「我」の努力によって、色々と手段をつくし、
工夫をこらしてこの世の栄華を求めようとするものである。

そして「霊的なもの」への憧れや、希望は、
夢のような単なる空想を追うところの愚かなる追求に過ぎないと思われるものである。

しかし本当は「霊的なもの」こそ本当に確固としたものであり、
最も具体的なものである。「霊的なもの」のみが「本当に実在するもの」であり、
物質的なものはただその”影”にすぎないのである。

そのことが真にわかれば私たちは”影”を追求するに先立って、
先ず「霊的なもの」のみを追求するようになるのである。

「霊的なもの」を”影”を得る手段として追求する如きは本当ではないのである。
”影”を得る手段として「霊的なもの」を追求するならば
結局その人は”影”そのものをも得ることは出来ないであろう。

         <感謝合掌 平成27年2月17日 頓首再拝>

[469] 《現象的なものに頼ってはならない》
伝統 - 2015年02月18日 (水) 03時55分

現象的なもの、物質的なもの

それらは単に”影”に過ぎないのであるから、単にそれのみを追求し、
それのみに頼って生きている限りに於いて、その”影”はうすれて来、
その浮世的な蓄積や健康や幸福は、次第に色褪せて滅び行くことになるのである。

私たちは、やがて色褪せて消え滅びて行く現象や物質的なものに
自分の生涯の希望をつないではならないのである。

私たちは自分の生涯の希望と目的とをもっと永遠なるもの、
壊(くだ)けないものに結びつけなければならないのである。

”神”のみが永遠に壊けないところの真実なるものである。
私たちは私たちの希望を永遠なる”神”に結びつけなければならない。
肉体的な物質的な欲望を、神に結びつけて欲望満足を得ようとしてはならない。

「永遠なる神」の自己展開を自由ならしめるために、
肉体的自我を空しくならしめて、唯「幼さ児の心」ならしめることである。

         <感謝合掌 平成27年2月18日 頓首再拝>

[473] 《自我を完全に打ち摧(くだ)くこと》
伝統 - 2015年02月19日 (木) 03時35分


本当に肉体の傲慢が消え去った時、肉体はイエスの如くこう言うであろう。

「神よ、われみずからにては何事も為し得ません。
わが語ることはわが語ることではありません。
わが内に宿るあなた(神)が語らしめ給うのです。私は唯ラッパに過ぎません。

私には何の智慧もありません。私には何の力もありません。
私には何の生命もありません。肉体そのものには何の健康もあり得ないのです。

私はただ謙遜に、あなたの生命が流れ入って
私の健康として展開することを待ち望むだけなのです。

私には何の富もありません。私の富と見えるものは実は私の富ではありません。
神の栄光(さかえ)の展開にすぎないのです・・・」

こうして神に全ての栄光(さかえ)と誉れとを捧げ得るとき、
本当に自我がくだけたのである。

自我がくだけ、自我が空無となったとき、
はじめて神があなたの生活を全領するのである。

         <感謝合掌 平成27年2月19日 頓首再拝>

[475] 《神想観と欠乏観とを間違えてはならない》
伝統 - 2015年02月20日 (金) 05時06分


あなたの「貴方」がなくなり、「神のあなた」があらわれることが必要なのである。
これを”悔改め”と称し、コンヴァージョンと謂い、「我(われ)の置き換え」と言う。

神想観はこうして「我を置き換え」させるのが目的であって、病気を去って健康にし、
不景気を去って富裕を来たらしめるというような現象の”影”を追う抹消的なものではない。

もっと根本的なものが神想観である。
常に自己の存在の中心であり本質である実相(神性・仏性)にのみ観を集中するのである。

若し神想観中に「病気が治りたい」とか、「富を得たい」とか、現象的な”影”を
追求する観念が少しでも混じると、それは本当の神想観ではなくなるのである。

それは既に”何か”の「欠乏観」である。多くの人たちは「欠乏観」をしながら
「神想観」をしていると思って、「神想観は私には効かぬ」と言うのである。

神想観は病気を治す薬ではないのである。

もっと根本的なもの、「全自我」を入れ換えるのである。

         <感謝合掌 平成27年2月20日 頓首再拝>

[478] 《霊の網をひろげること》
伝統 - 2015年02月21日 (土) 03時41分


多くの人達は地上生活の一層の幸福と調和を求めて神想観をする、
換言すれば物質的な地上的な「善き物」がより多く得られるために、
地上に網を一層広げることを念願するのである。

しかし地上に網を大きく広げても、多くの魚を漁獲することはできないのである。
魚を求めるならば、その魚が肉眼にはまだ見えないでも、
海に網を広げなければならないのである。

それと同じく、霊の世界の良き物はまだ肉眼には見えないが霊の世界に網をひろげてこそ、
やがて肉眼に見える多くの魚(現象的な良きもの)を獲ることができるのである。

霊の世界に網をひろげるには、現象的にさわいではならないのである。
静かなる心こそ、「霊の網」である。

静謐の度が深まるほど、その程度に応じて
「霊の網」はひろがり漁獲高が増加するのである。

         <感謝合掌 平成27年2月21日 頓首再拝>

[479] 《今、此処、久遠の自覚》
伝統 - 2015年02月22日 (日) 04時08分


琵琶湖の水が淀川に於いて流れているときに「淀川の水」と仮りに言うけれども、
本当の意味では「淀川の水」などはないのである。
それは淀川に於いて流れている琵琶湖の水であるのである。

それと同じく、神の生命が「谷口」に於いて流れているときに「谷口の生命」と
仮りに言うけれども、「神の生命」のみであって、「谷口の生命」などという
ものは決してないのである。

「神の生命」のみがある。

一枚の樹の葉にも「神の生命」の不可思議な智慧がはたらいている。
それは人間の知恵をもってつくることは出来ない。

何処にも此処にも神の智慧が人間頭脳の知恵を超えて働いているのである。

今此処に無限があり、久遠があり、悠久があるのである。
一滴の水にも永遠の神が宿る、有限の中に無限を観るのが霊的直観である。

神想観は「今即久遠」「永遠即今」「有限即無限」の霊的直観による自覚修行である。

         <感謝合掌 平成27年2月22日 頓首再拝>

[483] 《自己の内なる「神の国」をひらくこと》
伝統 - 2015年02月23日 (月) 03時16分


「肉体の自我」の中には何の力もなく、何の生命もなく、何の健康もない。
それはただやがて壊(くず)れ行く機械に過ぎない。

私たちはそのような「肉体の自我」に頼ってはならないし、
それを「本当の自分」だと思いちがえてもならない。

私たちはその様な「肉体の自我」(ニセモノの自分)を無視して
「本物の自分」(神)をのみ只管(ひたすら)に神想観中に観じなければならない。

「神」なる「本物の自分」のうちにすべての善きものは既に存在しているのである。
それを「御心は既に”神の国”(天)に於いて成る」と謂い
「神の国は汝の内にあり」と謂うのである。

わが存在の本質のうちに、わが存在の実相のうちに、
神の持ちたまえる一切の善きものがすべて実在するのである。

自己に内在する神は、恰(あたか)も香水の瓶につめられた香水のようなものである。
その栓をひらくとき部屋全体がその妙なる匂いにみたされる。

自己に宿る神を自覚し、それが展開(ひら)かれるとき
環境全体が妙なる光景を呈するのである。

         <感謝合掌 平成27年2月23日 頓首再拝>

[486] 《悟りは自力で得られるものではない、神の恩寵による》
伝統 - 2015年02月24日 (火) 02時47分


白隠も「大悟18回、小悟は数知れず」と言う。

神を自己の内に観じ得るにしても、その程度は各人によって、又、同一人でも
その時期によって夫々異なるのであって、それぞれ異なるのは自分の力量に
よるのではなく神がその人の因縁の熟不熟に応じて与え給うギフト(恵み)に
よるのである。

一所懸命努力しても一向その境地に達し得ないような時期もあれば、
それほど努力しないでもスーッと深い境地に入り得ることもあり得る。

「深い」と云ってもそれを最後究極の境地だと考えてはならないのである。
また更に深い境地が出て来るのである。
「大悟18回、小悟は数知れず」は其処から出て来る語(ことば)である。

而も、それを自己の価値によって報いられたと慢心してはならないのである。
如何なる悟りも、「神から」「神の恩寵によって」のみ得られるのであり、
ただ自分がそれに波長を合わし得ただけのことである。

         <感謝合掌 平成27年2月24日 頓首再拝>

[489] 《内在の神を目覚めしめるには》
伝統 - 2015年02月25日 (水) 04時19分


神想観の目的は、自己の内なる仏性(キリスト教的に謂えば”爾<なんじ>の
内なるキリスト”)を目覚めしめるところの方法である。
その内なる仏性を目覚めしめる方法は必ずしも一種類ではないのである。

「南無阿弥陀仏」とひたすれ称名念仏するのも、内に宿りたまう阿弥陀仏を
目覚めしめ、此処がこのまま阿弥陀仏の極楽浄土であることを目覚めしめる
方法である。

座禅し調息するのも、その一つの方法である。
公案を授けられて、一心にそれを解決しようとして精神がギリギリの一点に
到達するのもその方法の一つである。

この精神がギリギリの処に到達するというのは、
人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。

雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、
人間的はからいの完全抛棄(ほうき)であり、其処に神があらわれる。
禅も念仏も一如である。

「自己の内に宿る仏性」又は「爾の内に宿るキリスト」という場合の「内」
とは「肉体の内」ではないのである。

わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、
決して波立たずに深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわす
ところの根源的な存在があるのである。

すべての善きものは悉く、この深く堪える根源より発するのである。

これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします
「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、
「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。

キリストが「我れみずからにては何事も為し得ず、
天の父われに在(いま)して御業(みわざ)を為さしめ給うなり」と
言ったところの「何事もなし得ない我みずから」とは、

波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚して
これを抛棄(ほうき)したとき内面の深く湛(たた)える奥底の自我(天の父)
が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。

         <感謝合掌 平成27年2月25日 頓首再拝>

[491] 神想観の本質について
伝統 - 2015年02月26日 (木) 04時26分

       *「神と階に生きる真理365章」(P133〜134)より


神想観というのは、迷いの煙の出る曇った現象世界を心で?んでいたのを、
その心の向きを変向して神様の造り給うたすべてのものが善であるという実の相(すがた)
の世界に、心を振り向ける修法であります。

神想観というのは、神さまの放送に完全に波長を合すための行事であります。

ラジオ・セットでも放送局に波長を合すためには、部分品を適当の位置に組み立てた
セットを使わなければならないのであります。

我々「人間ラジオ・セット」も我々の肉体の部分品である、
手とか足とか姿勢とかいうものを適当の位置において、
そして神様お放送の波長を受けるようにしなければならないのであります。

<以上で、謹写を完了いたします>

         <感謝合掌 平成27年2月26日 頓首再拝>



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