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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[413] 天皇絶対論とその影響
伝統 - 2015年01月28日 (水) 18時29分

「天皇絶対論と其の影響」は以前、本流掲示板(?)に掲載いたしましたが、
現時点では、消滅致しております。ここに再掲載を行なっていきます。
 
・・・


『天皇絶対論とその影響』 

目次

謹序(谷口雅春)

天皇信仰(谷口雅春)<P3〜P7>

第1篇 荻原俊三氏の『天皇信仰』鼓篋集覧<P11〜P66>

第2篇 尾関貞一氏の『新日本学樹立への努力』<P67〜P175>

第3篇 田中子葉氏の『日本教育学樹立への貢献』<P177〜P274>

第4篇 大崎勝澄氏の『天皇絶対論を根基とする臣民教育』<P275〜P335>

第5編 矢野酉雄氏の『忠一元・臣道無窮論』<P337〜P371>

皇運扶翼生長の家青年会規約<P372〜P374>


昭和16年3月23日 発行   編著者 谷口雅春
                発行所 光明思想普及会

・・・


天皇絶対論

謹序

天皇は宇宙神にましまして、同時に現人神として個身(こしん)を現じたまう大君
として宇宙に臨み給う。個身と宇宙と相対するが如くなれども、個身は宇宙と相対
するに非(あら)ずして、個身即宇宙なるなり。

宇宙の中に個身があるに非ずして、個身その儘が大宇宙なるなり。
「個」即絶対なるなり。

天皇の個身を仰ぎ見て、ただ五官的有限身にましますとのみ観じて、絶対實在を
仰ぎ見ること能(あた)わざるものは霊感なきなり。誠にも慨かわしきかな。

或は云う 『天照大御神は日本民族の族長なり、これを宇宙神と云う空漠の理念として
尊崇するは、民族の具体的族長にまします 天照大御神を抽象的理念に昇華するものに
して、その烈々たる尊崇の心は以って多とすべきも吾等日本人は 天照大御神を具体的
族長として仰ぎ来たれる歴史を尊重せざるべからず』と。

是、一を知ってニを知らざるものなり。
是、個身即絶対の真理を知らざるものなり。
個身そのまゝに宇宙に満ちたまえる大生命そのまゝが天照大御神にましますなり。

天照大御神が宇宙神にまします事は同時に大御神が日本民族の具体的族長に
あらせられることを何等妨げるものには非ず。

須らく知るべし、多即一なり、一即多なり、一時(じ)即一切時なり、一切時即一時なり、
久遠即『今』なり、『今』即久遠なり、一所即一切所なり、一切所即一所なり、
『此処』の一点そのまゝ普遍にてあるなり。

現身(げんしん)そのまゝにして宇宙に満ちて常に久遠に宇宙を総攬し給うなり。

空間無、時間無、物質無(仏教=色即是空又は五蘊皆空)の哲学は、
現身そのまゝにして宇宙に遍満したまう真理を開くところの鍵としての哲理なり。

肉体ありながらあるがまゝに其の儘無きことを知るとき個身そのまゝに
宇宙に満つることを知り得るなり。

釈迦は之を説けるなり。華厳の一時一切時、一所一切所、一仏一切仏の哲学も、
法華の「我常に此処にありて説法す・・・此の世の焼くると見るときにも吾が浄土は安穏
なり、天人常に充満す」の如来寿量品の「常今(つねいま)」又は「常茲(つねここ)」
の哲学も、

天皇が単なる時空的滅盡の流れに浮ぶ個身のみにあり給わずして、個身その儘にして
宇宙に満ち給い、我等日本民族の族長にてあり給うと同時に宇宙神として、宇宙一切の
内的生命として、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものを総攬し遊ばさるゝ真理を
開く鍵として説かれたるなり。

一切の宗教は、天皇即大宇宙 大宇宙即天皇 の真理を闡明(せんめい)するところの
鍵にして、豈(あに)それ個人の霊魂(たましい)の救いのためのみならんや。

個人自身の霊魂の救いを欲する者は声聞、縁覚の徒に過ぎず、
他人の霊魂の救いを欲するものは稍(やや)上乗なれども菩薩乗に過ぎず、
仏(ぶつ)の正覚(しょうがく)は宇宙の成仏をそのまゝ此の世界に観るなり。

釈迦が悟れるときに山川国土悉皆成仏と観たるは、山川国土悉く
天皇の恩徳の顕現にあらざるものなきを観たるなり。
天皇が宇宙に満ちて成りませる實相を観奉(みたてまつ)りたるなり。

大宇宙(たまあまはら)に天之御中主大神が成りませる法体を観奉(みたてまつ)りたるなり。
大宇宙(だいうちう)と天之御中主大神とが表裏一体なることを観奉(みたてまつ)りたるなり。
天皇即大宇宙(だいうちう)なることを観奉(みたてまつ)りたるなり。

物質世界の山川国土を見ながら、最早物質なき世界、
天皇の御徳(おんとく)のみの現成(げんじょう)せる世界を見たるなり。

即ち釈迦の悟りは個人のみを救うにはあらず、山川国土そのまゝに、
天皇の御徳現成の世界として大宇宙全体を自覚せしめたるなり。
そは大宇宙の救いなり。


キリストは『みこゝの天に成るが如く地にも成らせ給え』と祈りたり。
これ個人の救いの祈りにあらざるなり。
既に成れる金婆羅華の世界現成を祈りたるなり。

白馬に跨り給うミコトが天上(實相界)のみならず、
全地上をも治(しろ)しめし給う日の実現を祈りたるなり。

我れ嘗て、天皇絶対神論を「いのち」誌に掲げたることあり。
今その一文は「驀進日本の心と力」に収録されあり。

その後、これに対して甲論乙駁(こうろんおつばく)あり。
その反駁者は概ね、天皇を個身としてのみ仰ぎ見て、宇宙神として仰信し得ざる徒のみ。
されど又吾が 天皇絶対神論は多くの日本を愛する忠義の志士の共鳴を得たるを喜ぶ。

本書に収録せるはその一部に過ぎざれども、多くの忠君愛国の士、
わが 天皇絶対神論より雲の如くならび起れり。

(中略)


われは如何なる反対あらんも敢然として、
大日本天皇は宇宙神にましますことを絶叫せんと欲す。
われは昭和維新の北畠親房たらんことを欲するなり。

神戸新聞嘗て神戸の史蹟を書きて烏原村(からすはらむら)の谷口氏の事を書く。
曰く『谷口氏は××を奉じて湊川に苦戦せし大楠公に呼応して立ちし新田義貞の残党が
再挙せんが為に暫く世を忍びて谷口氏を称せしなり』と。

真偽の歴史的考証は操觚(そうこ)者に委ねるも、
吾が血の中には××の忠臣の烈々たる大義の血流れたるを覚ゆ。
これ吾が実感なり。

今や大日本帝国が神国なる事を明らかにせざるべからざる秋(とき)なり。
萬民立って 大日本天皇が絶対神にまします事を高唱せざるべからず秋なり。
一日このこと早ければ一日早く全世界が大日本国となるなり。

言葉は創造力なるが故なり。一人(いちにん)多くこの事を伝うれば全世界の
民草(たみぐさ)一人(いちにん)多く 日本天皇を仰信するなり。

三界唯心なり、世界は仰信の展開なり。
思想は力なり、仰信は更に力なり。
吾を黙せしめば、石叫ばん。

同志よ、同志に語りつたえよ。大日本帝国は神国なり。
大日本天皇は絶対神にまします。

大日本民族はその赤子なり、天(あめ)が下を救わんがために
天孫と共に天降り来れる諸諸の命(みこと)たちの子孫なり、と。

(後略)

 皇紀2601年3月               著者識

・・・・・・・・・・・

         <感謝合掌 平成27年1月28日 頓首再拝>

[421] 天皇信仰
伝統 - 2015年01月30日 (金) 18時54分

天皇信仰  谷口雅春 謹書


 天皇への歸一の道すなはち忠なり。
忠は 天皇より出でて 天皇に歸(かへ)るなり。

 天皇は一なり。ハジメなり。
一切のもの 天皇より流れ出で 天皇に歸るなり。

わが『忠(ちゅう)』、わたしの『忠』、我輩の『忠』などと云ひて、
『我(が)』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。
私なきが『忠』なり。



 天皇は 天照大御~(あまてらすおほみかみ)と一體なり。
天照大御~(あまてらすおほみかみ)は 天之御中主~と一體なり。
斯くして天皇はすべての渾(すべ)てにまします。

『忠』の本源は天之御中主~の『御中』の理念より發して
再び天之御中主~に復歸するなり。

 天皇を仰ぎ、 天皇に歸一し、私なきが『忠』なり。
わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我(が)』となるなり。



すべての宗教は、 天皇に歸一する為の前提として存在の意義があるなり。
すべての宗教が、『我(が)』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、
『無所有』を説くは、『この世は何にも無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。

すべてのものは 天皇の一元(げん)より發現することを教へたるなり。
すべての森羅萬象 天皇の大御(おほみ)”いのち”の顯現ならざるはなきなり。
 天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。



わたくしの『生命(せいめい)』を愛護すること勿れ。
『生命』が尊きは 天皇の大御”いのち”の流れであり、岐(わかれ)であるが故に尊きなり。
寸時も、『天皇(てんのう)のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。

『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は惡逆無道の迷妄の徒とあるなり。


愈々日本も政治新體制の曙は近づけり。一切の政黨は解黨せり。
新たに黨を結ばんがための解黨にては意味を成さず。
この事(こと)胆(きも)に銘ずべきなり。
挙國一黨なりとも、黨のある限りは『無我』に非ざるあり。

大(おほ)みごころあるのみなり。大みごころへの無我随順あるのみなり。

若し新黨を樹(た)つるとも、新政體を建(た)つるとも一点の『我(が)』ありて、
大みごころを蒙(くら)ます時、天皇の御徳を晦(くらま)して、
自分の都合をはかる無道(ぶどう)の徒(と)となり了(をは)るなり。


無道(ぶどう)とは、道の無きことなり。

道は宇宙にミチてあれども、『我(が)』のあるところには、道は遮られてあらはれぬなり。
大海原に海水(かいすゐ)は満ちたれども岩石の固まりたるところには
海水は滿ちをること能はざるが如きなり。

『我(が)』なくなりて、はじめて『道』は生きるなり。
私の『善』、私の『道』、私の『宗教』などと云ふものあるべからざることなり。


すべての宗教は、天皇より發するなり。
大日如来も、釋迦牟尼佛も、イエスキリストも、天皇より發する也。
ただ一つの光源より七色の虹が發する如きなり。

各宗の本尊のみを禮拜して、 天皇を禮拜せざるは、虹のみを禮拜して、
太陽を知らざる徒(と)なり。

すべてのもの太陽にて生くるが如く、
すべてのもの 天皇の大御(おほみ)”いのち”にて生くるなり。


生長の家が、一宗一派を樹(た)てざるは、宗派と云いて黨を樹て、閥に籠(こも)りて、
相爭うことが『忠』に非ざることを知る故なり。

特に『一宗一派に非ず』と云ふことを教義の『七つの光明宣言』に記入して、
宗教であることを許されしは、文部當局の賢明なる處置なり。
文部當局が一宗一派にあらざる宗教をみとめたるなり。

宗教が正しくなりたるなり。
すべての宗教は私のものにあらざるなり。
すべてを 天皇に歸一し、 天皇に奉還し奉る宗教なり。


宗はオホモトなり。 天皇なり。
すべての教(のり)も則(のり)も範(のり)も矩(のり)も規(のり)も法(のり)も、
悉くスメラミコトより發するなり。

宗教が宗派と云ふものに立ち籠(こも)りて、宗祖と云ふ一人の國民に過ぎざる人間を尊崇
するは邪道なり。されば我(われ)は夙(つと)に喇叭に過ぎずと云ひたるなり。

すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。
宇宙の大教祖は 天皇にあらせられるなり。
ミチとノリとは悉く スメラミコトより出づればなり。



釋迦在世のとき、金婆羅華(こんぱらげ)を拈(ねん)じて衆に示すに、
迦葉(かせう)のみ微笑(みせう)す。

金婆羅華は『空(くう)』の象徴に非ず、
宇宙がコスモスであり、中心歸一である象徴なり。
日本國體の象徴也。

迦葉(かせう)のみ微笑(みせう)す、とは悲しいかな。
ほかの大弟子皆解せざる也。

今の佛教者はいかほど金婆羅華の祕密を解せりや。
佛教を以て『空(くう)』を説くとなす者、百尺竿頭に坐する底(てい)の者なり。
百尺竿頭に達せざる者よりは優(まさ)れり。

されど『空(くう)』の百尺竿頭より進一歩して、中心歸一世界を見ざるものは、
外道の佛教にして、日本佛教にあらざるあり。



東大寺の大佛は、中心歸一の蓮華藏世界を彫刻にあらはせるなり。
中心座にましますは、光明遍照者(ヴェーローシヤナ)にましまして、

それを守護し奉るために、千葉(せんえふ)の蓮華その御足(みあし)の下(もと)に
ありて、各々の蓮華に、悉く釋迦牟尼佛いまして、
光明遍照者(ヴェーローシヤナ)の御コを讃ふるなり。

ヴェーローシヤナと云う梵語をば、大日如来などと、佛教が如来の如く譯したるは
誤謬にはあらざれども、人をして外國(外国)の佛樣(ほとけさま)の如く
誤解せめしたるや久し。


ヴェーローシヤナとは、單に『光明遍照(くわうみやうへんぜう)』の意なり。
宇宙の中心座に在(ましま)す『光明遍照(くわうみやうへんぜう)』なり。
畏(かしこ)くも天照大御~(あまてらすおほみかみ)にましますなり。

 天皇は天照大御~と一身にましますが故に、釋迦は 天皇信仰を教へたるなり。
それを知らずして、迦葉のみ微笑(みせう)す。
善い哉、迦葉微笑(みせう)せり。

今は日本人悉くが微笑せざるべからざる時なり。
 天皇信仰を知らざるべからざる時なり。

今はすべての宗教が 天照大御~(あまてらすおほみかみ)を禮拜すべき時なり。
そのほかに宗教ある筈はなきなり。



承るに、滿州國皇帝陛下は、去る皇紀二千六百年七月十五日早暁(そうげう)、
滿州帝國に建國廟を御創造遊ばされ、天照大御~(あまてらすおほみかみ)を祭祀する
崇嚴なる鎭座祭を御擧行(ごきょかう)遊ばされたる由(よし)なり。

今後、全世界各國にこの御儀が續々擧行せらるべきは、
日本は世界のスメラミクニなる故なり。

天照大御~(あまてらすおほみかみ)を以て
單に日本民族~なりと考ふる如き小乗時代は去れるなり。 

今後は宇宙~として全世界各國に於て、全世界各國民より
仰ぎ祭祀せらるべき大乗時代來(きた)るなり。
こゝに於て全世界に一君萬民、永遠平和の世來(きた)らん。

これ宇宙の約束なり。
萬教を和せしめ此の宇宙的眞理を炳(あきら)かにせんがために誕生せるもの
生長の家なり。

         <感謝合掌 平成27年1月30日 頓首再拝>

[434] 『天皇信仰』鼓篋集覧〜その1
伝統 - 2015年02月03日 (火) 02時46分

(『天皇絶対論とその影響』)
第1篇 荻原俊三氏の『天皇信仰』鼓篋集覧<P11〜P66>

(1)「生長の家の教え」の道を進むほかなし

   生長の家の教えは、楽行道とも易行道とも謂われている。
   また『至道無難』と云って何もむつかしいことではないとも教えられているのですが、

   併し、『これを仰げば愈々高く、これを鑽(き)れば愈々堅く』
   測り知るべからざるその深さ、その高さは、常人の容易に到り得べく
   究め得べき教えではありません。

   ともあれ私達は傍目(わきめ)もふらずひとすじにこの道を進むほかはないのです。

(2)『忠とは何ぞや』

   ・・・・・・・・・・
   『天皇信仰』第一節

   天皇への帰一の道すなわち忠なり。
   忠は 天皇より出でて 天皇に帰るなり。

   天皇は一なり。ハジメなり。
   一切のもの 天皇より流れ出で、天皇に帰るなり。

   わが『忠(ちゅう)』、わたしの『忠』、我輩の『忠』などと云いて、
   『我(が)』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。
   私なきが『忠』なり。
   ・・・・・・・・・・

   (『忠とは何ぞや』)

・・・・・・「驀進日本の心と力」第3章「日本学的大乗仏教の樹立」(P111〜112)より

   誰でも”今”宇宙の實相に”中する”とき、『大初(はじめ)に道(コトバ)あり』の
   其の『道(コトバ)』に触れることが出来るのである。

   宇宙の實相に”中する”の『中(ちゅう)』とは命中の『中(ちゅう)』である。
   心が宇宙の實相に命中し、打ち貫き、宇宙の實相にグサッと一つになって了うとき、
   『今(いま)』は『永遠(えいえん)』と一つになる。

   『今』にして『永遠』、『永遠』にして『今』である。

   釈迦が『無慮無辺百千萬億那由他劫前から悟を開いている佛が”わし”じゃ』と
   法華経で説いたのは、『永遠』に中(ちゅう)して『永遠』を刺し貫いて
   『今』の生命を自覚した言葉であった。

   此の永遠に『中(ちゅう)』する『心』を『忠』と云うのである。

   それは『大初(はじめ)に道(コトバ)あり』の本源の道(みち)に命中した
   『心』である。即ち『實相(じっそう)に中(ちゅう)する心』であり、
   中心(ちゅうしん)であり、マコトである。

   宇宙即ち『天球(あめ)』に中(ちゅう)した心であるから
   天之御中主神の心を心とする心である。
   此の天之御中主神の心に中(ちゅう)した心が悟(さとり)を開いた心である。

・・・・・・とあるのです。

   即ち『忠(ちゅう)』とは”今”、宇宙の實相に中(ちゅう)すること。
   『今即永遠』の『永遠』は中(ちゅう)する心を云うのであります。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P11〜P16>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年2月3日 頓首再拝>

[480] 『永遠』に中(ちゅう)
伝統 - 2015年02月22日 (日) 07時49分

(3)『今即永遠』の『永遠』に中(ちゅう)するとは? 

   今というのは時間的な今ではない。時間を超越した今であり、
   自分と云うものを時間空間に束縛せられない絶対自由の世界に解放することである。
   自己の本当の相(すがた)、實相を悟ることである。

   そこで『”今”、宇宙の實相に中(ちゅう)する』と云うのは、時間空間に制限
   される肉体の自分、現象の自分というものを超越し、その奥にある本当の自分、
   時間空間を絶した霊なる自己が宇宙の實相とピタッと一つになることです。

   これが『今即永遠』の『永遠』に中(ちゅう)することなのでした。

   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P16〜P17>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年2月22日 頓首再拝>

[484] 宇宙の実相とは
伝統 - 2015年02月23日 (月) 03時26分


(4)宇宙の実相とは如何云う(どういう)ものか

   宇宙の實相、本体というのは天之御中主神にましますのである。
   だから『天之御中主神の心を心とする』これを『忠(ちゅう)』と云うのでした。

   宇宙とは、「古事記」に書いてあるように、

   『天之御中主神の御いのちの鳴りませる、(ミコトノリましませる)世界』と

   先生が書かれた世(せ)が日本国であり、宇宙であります。


・・・・・・「驀進日本の心と力」第3章「日本学的大乗仏教の樹立」(P113)

   宇宙の本体は高天原命(たかあまはらみこと)であって、宇宙全体に鳴り響いて
   いるコトバである。

   『高天原(たかあまはら)』と云う場合は、實在の客観的(体)展開であり、
   主観的(用)神格として其のまゝ宇宙(アメ)に中(ちゅう)してい給う御本体が、
   天之御中主神であらせられるのである。

   『古事記(こじき)』にある通り、『天地(あめつち)の初発(はじめ)の時
   高天原に成りませる神の名(みな)は天之御中主神』である。

   宇宙に充ち満ちて鳴り響いているところのコトバ界が天之御中主神なのである。

・・・・・・とある如くです。


   天之御中主神のミコトバ、即ち『御中(みなか)』の理念が宇宙の本体であり、
   森羅万象はそのミコトバ、『御中(みなか)』の理念の展開である。


(5)聖書にいう「コトバ」との一致   


・・・・・・『生命の實相』萬教帰一篇(空の巻68頁、或は携帯版「日本の世界的使命」
       の12〜13頁)

   聖書には『始(はじめ)にコトバあり。コトバは神なり。総てのもの言葉によって
   造らる』と書いてあります。『コトバ』は『神』である。
   ・・・・一切の存在は神即ちコトバによって展開したのであります。

   <然しながらーーー編者(谷口雅春)注>
   その一切事物の根元なるコトバは、どう云うコトバであるかと申しますと、
   一切を『統べている言葉』ーー即ち『スメラミコト』なのであります。

   『スメラミコト』とは、日本語では『天皇(てんのう)』と云う字を当て嵌めて
   おりますが、『天皇(すべらみこと)』は取りも直さず、
   一切萬象を『統ベル御(み)コト』の意味であって、

   萬象を総攬し給う 天皇(てんのう)こそ、時空、陰陽、男女を始めとして
   一切萬象が其処より発する根元であり、同時に一切萬象を支配する中心者である
   のであります。

   『古事記』を見ますと、
   宇宙最初のスベラミコトを天之御中主神と申し上げるとあります。

   此の天之御中主天皇(あめのみなかぬしすべらみこと)こそ一切の『主(しゅ)』で
   ありまして、基督教などで、『主(しゅ)』『主(しゅ)』と云っているのは、
   実にアメノミナカヌシスベラミコトの事であって、そのほかに『主(しゅ)』はない
   のであります。

   『天之御中主神』と云う御名称を考えて見ますと、アメと云うのは『天(あめ)』の
   ことで、ミナカと云うのは『真中(まんなか)』のことで、ヌシと云うのは
   『主(しゅ)』のことであります。

   茲に『天(あめ)』と申しますのは”至大天球”即ち宇宙全体のことを
   『天(あめ)』と云いますので、その真中の主(ぬし)《統一者》が、
   この天之御中主スベラミコトなのであります。

・・・・・・・・とあります。


   そこで『忠』とは、”今宇宙”の実相に中(ちゅう)すること。
   宇宙の実相とは即ち天之御中主神のミコトバがそのまゝ展開した相(すがた)
   である。


   而して、『天皇は 天照大御神(あまてらすおほみかみ)と一体なり。
   天照大御神(あまてらすおほみかみ)は 天之御中主神と一体なり』
   (天皇信仰第2節)とありますように、

   久遠皇位の御表現、即ち、天之御中主神、天照大御神の宣(の)らせ給うた久遠金剛
   不壊實在の皇位の御表現であらせられるのが、天皇である。

   従って、『すべての教(のり)も則(のり)も範(のり)も矩(のり)も
   規(のり)も法(のり)も、悉くスメラミコトより発する』(天皇信仰第9節)

   即ち、天皇より発する、これが宇宙の實相であり、
   この實相に中することが『忠』である。

   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P17〜P19>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年2月23日 頓首再拝>

[485] 眞の『忠』とは?
伝統 - 2015年02月24日 (火) 02時45分

(6)眞の『忠』とは?

  @天皇信仰(谷口雅春先生)より

   『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して
   再び天之御中主神に復帰するなり。(第2節)


   わが『忠(ちゅう)』、わたしの『忠』、我輩の『忠』などと云いて、
   『我(が)』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。
   私なきが『忠』なり。  (第1節)


   天皇を仰ぎ、 天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。
   わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我(が)』となるなり。
               (第2節)

   ・・・・・・・・・

   大抵の人は、『忠』と云うものを『私』が有っていて、
   その『私』が『忠』を尽すのであると、思っている。

   私は喜んで犠牲になりますと云う、流儀である。

   しかし、そう云う考え方をする人の『忠』はみな、わが『忠』、わたくしの『忠』、
   我輩の『忠』ということに帰着してしまうのです。みんな落第です。
   結局のところみんな『ニセモノ』の『忠』なのです。


  A天皇信仰(谷口雅春先生)より

   天皇への帰一の道すなわち忠なり。
   忠は 天皇より出でて 天皇に帰るなり。

   天皇は一なり。ハジメなり。
   一切のもの 天皇より流れ出で、天皇に帰るなり。


   ・・・・『教育勅語を拝承し奉りて』(「信の力」298〜301)では、

   『古事記』の最初の言葉に由って考えて見まするに、
   『天地の初発(はじめ)の時』 斯う書いてありますが、

   『天地(あめつち)の初発』ーーというのは、『一(はじめ)』であります。
   『一』が初めでありますが、天地(てんち)が未だ『一』なる時・・・(中略)
   『一(ひと)つ』であります。

   『一(ひと)つ』と云っても、相対的数の序列の『一』ではないのでありまして、
   一切の数(すう)を一(ひと)つに集めて、一切の数が発現する契機を内に孕んで
   いるところの『一』であります。

   (中略)時間と空間と、それが十字交叉して、
   未だ時間空間が分れ出でざるところの、
   その『初発(はじめ)』であります。

   そこに『成りませる神の名は天之御中主神』と古事記には書かれているので
   ありまして(中略)・・・時間空間未だ分れず、天地陰陽未だ分れず、
   『一(ひと)つ』にして『一(はじめ)』であり、

   而も”一切がその中に既にある”

   その大宇宙と一つである所の神様が、天之御中主神であります。

   此の天之御中主神が、大日本(宇宙日本)の最初の、天皇(てんのう)で
   あらせられたのでありまして、宇宙は天之御中主神の御(おん)”いのち”の
   ひろがりでもあります」

   ・・・・と説いて居られます。



・・・・・・・・・・・

   森羅万象、宇宙間の総てのものにしてこの『一(ひとつ)』にして
   『一(はじめ)』、同時にすべてのすべてなる天之御中主神 即 
    天皇(てんのう)の御(おん)いのちの展(ひろ)がりならぬものはない。

   而して”既に在るものの実体は神の御いのち”であり”ミコトバ”である。
   『一(はじめ)』ミコトバの内に一切のものがある。

   換言すれば一切のものは神の御いのちに支えられて成ったものなのです。


   こゝに於いて私達は、『私(わたし)』という『私(わたし)』の
   無いことを知るのです。

   私達は、肉体は心の反映(かげ)に過ぎないものであったと教えられる。
   本当の『私(わたし)』は肉体ではなく、『心』である、『霊』なるもの、
   『いのち』である。それならば、本当の『私』というものはあるのか。

   肉体は無と否定された。そして、その奥に真我が肯定された。
   神の子なる本当の『私(わたし)』である。
   『私(わたし)』の本当の相(すがた)である。

   併しもう一歩踏み込んでいかなければならぬ。

   神の分霊(わけみたま)、分生命(わけいのち)としての
   『私(わたし)』である。
   だが、それを『私(わたし)』と云うことが許されるのであろうか。

   それは皆”なれる”ものであった。
   鳴れる、即ちミコトノリの展開が即ち『私(わたし)』であった。

   『私(わたし)』であるが如くにして『私(わたし)』ではない。

   『真我』と云って、『真』と云っても『我(われ)』を認めていたのでは、
   『神のみ真にいます』とは云えないのではないか・・・。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P20〜P24>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年2月24日 頓首再拝>

[490] 一切の『私(わたし)』はないのです。〜その1
伝統 - 2015年02月25日 (水) 04時46分

(7)一切の『私(わたし)』はないのです。〜その1

  @・・・・谷口雅春先生は『信の力(P308)』で、

   天皇の他にどなた様もいらっしゃらない。
   天皇のみが本当に”ある”實在であって、天皇御稜威(みいづ)の”分れ”で
   鳴り渡れるひろがりが凡ての森羅萬象である。

   吾々のいのちも矢張り 天皇の御(おん)いのちの”分れ”である。
   だから『ワレ』と云うのであります。
   この御いのち頂かざりせば吾々のいのちは”ない”のである。

   どんな樹木でも空を飛ぶ鳥でも地を匐(は)うところの毛蟲でも、
   凡て天之御中主神の御いのちの現われとして、
   そこに森羅萬象の相(すがた)が現われてましますのである。

   天皇のみが實在であるのであって他のものは皆”なれる”ものである。
   鳴ス即ちミコトノリのひろがりが展開しているところのすがたなのであります。

   ・・・・・・・と述べられております。

   ・・・・・・・・・・・・・・

   一切の『私』はないのです。ニセの『私』はもちろん無いし、本當の『私』も
   『私』というものはない、すべて『私』なるものはない、のでした。

   ”ある”ものは唯 天皇のみ、 天皇の大御いのち のみ。

  A・・・『無門關の日本的解釈(P183)』に

   由來日本人は、『無我』に於てはすぐれたる民族であって、西洋流に云うならば
   自己犠牲と云って、『自己』を先ず肯定して置いてから、自己を犠牲にすると云う
   のであるから、自己分裂と自己相克との自己葛藤を免れない。

   印度思想に於いては西洋思想よりも優れていて、『無我』と云う、
   犠牲にすると云わず『無い』と云うのである。

   併し、『無我』なる熟語の存する所以は矢張り『我』を一度肯定して、
   それに『無』を冠した如き嫌いがある。

   ところが、日本民族には『自己』も無ければ、從って『自己』を犠牲にする
   と云うこともない。『我』もないから『無我』と説く必要もない。
   そのまゝ素直である。

   是を『惟~(かんながら)』と云ってゐる。
   惟~(ただかみ)のみ在(ま)しますのである。

   ただ 天皇のみ在(ま)しますのである。
   
   『我』を 天皇に捧げると云うやうな『我』もないのである。
   唯(ただ)『ハイ』のみがある。ただ絶對歸一があるばかりである。

   『私が 天皇に捧げる』のではなく、 
   天皇の大御命(おおみいのち)の高天原(たかあまはら)成就の
   轉回があるのみである。

   ・・・・・といみじくも教へられるのです。

   ・・・・・・・・・・・

   すべて『私』なきが故に私の『善』もない。私の『愛』もない。

   『私の内に内在する無限の善きもの、無限の美しきもの』
   みな~の御(おん)いのち、天皇の大御(おおみ)いのちの分れであって、
   『私』と云って『私』すべきものは何ひとつない。

   即ち總ての徳は、『天皇より出でて 天皇に歸る』ものであるのです。

   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P24〜P26>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年2月25日 頓首再拝>

[492] 一切の『私(わたし)』はないのです。〜その2
伝統 - 2015年02月26日 (木) 04時30分

(7)一切の『私(わたし)』はないのです。〜その2

  B・・・『生長の家』誌昭和15年12月号『生活の悦びの手紙』
   12月11日の項に於いて、谷口雅春先生は端的に次のごとく垂示されるのでした。


   大宇宙の徳樹(とくた)ちて天地の徳樹(とくた)つ。人間の徳樹(とくた)つ。
   人間の徳樹(とくた)ちて、萬づ生物の徳立つ。徳は人が人為に建つるには非ずして、
   宇宙と倶(とも)に建つのであります。

   大宇宙は無生物なる時間空間で成立する『容器(いれもの)』に非ずして、
   大宇宙即天之御中主神であり、天皇(てんのう)即大宇宙と申し上げても
   差し支えなきことは先日まで申上げたところであります。

   大宇宙の徳建ちて、天地の徳樹(た)ち、天地の徳樹(た)ちて人間の徳立つと
   云ふことは、天皇即大宇宙と云う眞理から拝察いたします時、

   一切の徳は天之御中主神より流れ出で、
   一切の徳は 天皇より流れ出づる事が明らかに成るのでございます。

   諸徳の根元は 天皇に在り、 天皇より諸徳流れ出でて吾々に入(い)り、
   かくて吾々に顕(あらは)れたる人倫(じんりん)と成(な)るのであります。

   徳の根元斯くの如く深厚なるものでありますから、私の『忠』僕の『忠』などと、
   私的な所有格の着いた徳などと云ふものは一切存在しないのであります。

   『私の』と云ふ所有格に附する時、もう既に徳は徳でなくなるのであります。
   凡て『私』無きが徳であります。

   一切の徳は私人より流れ出づる事なく、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおほかみ)
   より出でて天之御中主大神に還流するのであります。
   天皇より出で 天皇に還流するのであります。

   かくの如く深厚の世界に發現せるものであるが故にこそ『徳』の價値観が
   生ずるのであります。

   『私(わたくし)』的な計らひから來るものでありましたら、
   それは『徳』でもなく、價値観をも伴はないでありませう。

   ・・・・・熟讀玩味すべき深遠なる言葉です。
   
   ・・・・・・・・・・・

   古い倫理學を根本から覆してこれに新しい生命の息吹を吹き込んだ先生獨特の
   倫理學です。

   『本當の私』があると云ふことは、
   それだけでもう『ニセモノの私』への轉落であったのです。


   ・・・・・『生命の實相』地の巻・實相篇312頁では、

   本當の人間、(神が造ったまゝの人間) 私が常に『眞の人間(リーアルマン)』
   又は『~人(ゴッドマン)』と云ってゐる人間は物質の人間ではないのであります。

   それは圓相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清淨身の人間、虚空身の人間、
   無憂苦の人間、絶對無病の人間ー いくら吾らが上等の最上の言葉をもって説明
   しても、

   この物質界の事物を形容するために出來てゐる現在の吾々の通用語では
   とても説明のしやうがないほど完全な人間であります。

   そんな人間が此の世界に實際にあるものかと疑ふ人もありませうが、皆さん
   各自(めいめい)が”今現に實相の世界に於いては、この靈妙な圓相の人間、
   光明身の人間、自在身の人間、清淨身の人間、・・・等々であられる訳で、
   それが本當のあなたなのであります” 

   ”この『眞の人間(リーアルマン)』を措いて
   その他にあなたは無い”のであります。

   ・・・・とあります。


   ・・・・パウロは、『生命の實相』空の巻倫理篇736頁に、

   『ニセモノの自分はキリストの十字架と共に消えた』と知った瞬間、それ迄に既に
   篩(ふる)ひ別けられてゐた『ニセモノの自分』は剥落して”本來の無”に歸した
   のでありまして、彼の行く處、不思議な奇蹟が伴ひ、

   捉へて牢獄に入るれども牢獄自然に扉ひらけて逃れ出でたり、手を觸るゝもの
   病ひがみな癒えるなど、これ悉く『本物の自分』ー實相の自分の顕現でありました。

   このやうに、『悔改め』には罪の自覺から『本物の我』と『ニセ物の我』とが篩い
   分けられ、その篩い分けに續く罪の本來無の自覺によって、ただ純粋なる
   『本物の自分』のみの實在が認められるやうになることが必要なのであります。

   ・・・・・

   このように教えられことによって、『本物の自分のみ獨在』が理屈の上で皮相的に
   認められゝば認められるほど、却ってこれに引掛って、 天皇獨在、~のみいます
   實相の風光を忘れてゐたのではないか。

   たとひ『本物の我』であっても、その『我(われ)』は~ 天皇より出でて
   天皇に歸るべきいのちであって、決して私すべきものではないのだと云ふ悟りに
   達するには、どうしても理屈では行かぬ。

   理屈や論理を超えて、そのまゝ素直に實相に中(ちゅう)しなければならぬ、
   こゝの所がハッキリしてゐないと、『忠(ちゅう)』が 天皇より出でて 天皇に
   歸ると云ふことも解らないし、本當の『忠(ちゅう)』と思ってゐても忽ち
   ニセモノの『忠(ちゅう)』に轉落してしまふのです。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P26〜P29>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年2月26日 頓首再拝>

[496] 實相の~
伝統 - 2015年02月27日 (金) 03時27分

(8)實相の~

  @天皇信仰(谷口雅春先生)第三節より

   すべての宗教は、 天皇に歸一する為の前提として存在の意義があるなり。
   すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、
   『無所有』を説くは、『この世は何にも無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。

   すべてのものは、天皇の一元(げん)より發現することを教へたるなり。
   すべての森羅萬象 天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。
   天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。

・・・・・・・とあります。

   ・・・・・『人生必ず勝つ』220頁〜221頁では、

   ~は、自由自在であるが故に、義と愛とを一身に體現し給ふのです。
   そして相手によってどんな相(すがた)でも現れるのです。

   此れを應化~(おうけしん)と云ひ、
   宇宙最高の理念である~が相手に随って應化して現れます。

   その應化の働きとして、色々の宗派と云ふものが生まれたのです。
   宗教宗派の別は、~の『義』と『愛』との混合のパーセンテーヂだと
   見られないこともありません。


   ~は時代に随ひ、民族に随ひ、或は民族の教養、文化、習慣、傳統などに随って、
   それに調和した相(すがた)をもって相手を救ふ為に今迄もあらはれたし、
   今も亦あらはれてゐるのです。

   二千年前(ぜん)のユダヤ民族にはキリスト教と云ふ相(すがた)が必要であったから
   イエス・キリストと應化(おうけ)して現れ、

   又二千五百年前(ぜん)の印度(インド)には佛教と云ふ相(すがた)が
   一番相應はしかったから、釋迦牟尼佛として應化(おうけ)して現れたのです。

   各時代を通じて色々の宗教、宗派が現れ、その教祖の説くところの説き方が、
   それぞれ變ってゐるのも、應化(おうけ)の働きであって、必ずしも他宗と
   認めて排斥すべきではありません。

   今迄諸派の宗教が互いに他宗的對立を示して相克抗爭してゐたのを、生長の家は
   すべて一つの~の應化(おうけ)の作用と見ることによって帰一和合せしめる
   ことに成功したのです。

   ・・・・・と説かれ、さらに、『人生必ず勝つ』222頁では、

   (實相の神は)時空に縛られると云う事もなければ、消え生じて、又滅すると
   云う事もない。時間的流れ、空間的表現を超越せる理念的存在。

   ・・・・・と説かれております。

   ・・・・・・・・・・・・・・

   この實相の神が即ち『”忠”の本源は天之御中主神の”御中”より発し』とある
   『御中の理念』なのです。

   總ての宗教はこの『御中の理念』が時代に相應して現れたのであって、
   その現れ方は色々であるけれども、その本體、中心は同じである、
   みな天之御中主~の『御中』の理念に”中する”、歸一すべきものである。

   即ち、『一切の徳は 天皇より出でて 天皇に還流する』ものである。

  A天皇信仰(谷口雅春先生)第七節より
   
   すべての宗教は、天皇より發するなり。
   大日如来も、釋迦牟尼佛も、イエスキリストも、天皇より發する也。
   ただ一つの光源より七色の虹が發する如きなり。

   各宗の本尊のみを禮拜して、 天皇を禮拜せざるは、虹のみを禮拜して、
   太陽を知らざる徒(と)なり。

   すべてのもの太陽にて生くるが如く、すべてのもの 天皇の大御いのちにて生くるなり。

・・・・・・・とあります。

   さらに、『甘露の法雨』に、


   神が一切のものを造りたまふや
   粘土を用ひ給はず、
   木材を用ひ給はず、

   槌を用ひたまはず、
   鑿を用ひたまはず、
   如何なる道具も材料も用ひ給はず、

   ただ『心』をもって造りたまふ。
   『心』はすべての造り主、
   『心』は宇宙に満つる實質、

   『心』こそ『全能』の~々にして偏在したまふ。

   
   とある通りに、『心』即ち、『理念』、天之御中主~のミコトバそのまゝの展開が、
   ”實相宇宙の創造”であり、それが惟~(かんながら)の世界なのです。

   生長の家が、『心こそすべてのすべて』とか、『心は宇宙に満つる實質』とか云ふ
   場合の『心』なるものは、それこそ因縁によって煙のやうに消えたり現れたりする
   ”現象の心”ではなくて、

   一切の現象を無と否定し、無と否定する”心”をも否定したその奥に、
   厳然として實在する心である。

   それは因縁によって左右されるやうな儚(はかな)い存在ではない、
   金剛不壊、久遠實成の絶對實在であるのです。



   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P29〜P35>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年2月27日 頓首再拝>

[508] 實相の世界
伝統 - 2015年03月02日 (月) 02時47分

(9)實相の世界

   釈迦が偉大であったのは、現象世界の無常を無常と認識した、(現象を否定した)、
   ことのみにあったのではなくて、その否定の奥に、久遠常楽、金剛不壊の
   大蓮華藏世界を肯定したことにあったのでした。

   最初に宗祖、教祖の説いた教えが、時代の移るに従って、何時の間にか著しく、
   或いは全く相違したものになってしまっているというような例は沢山ある。

   孔子の教えがそうであるし、釈迦の教えも、イエスキリストの教えも
   みなそうである。
   古学復興とか、教祖に復(かえ)れとか云う論の起る理由もそこにあるのでしょう。


   ・・・・『生命の實相』全集第十三巻190頁において、創世記の第一章について、

   これ~の言葉による實相の世界の創造であります。~の發(いだ)し給うた言葉に
   よって現れた實相の世界はすべてよからざるを得ないのであって、悪しきもの一つと
   してなく、一切の生物その所を得て悉く調和した、既に本當の天國淨土なので
   あります。

   既に天國淨土は~の言葉によって創造(つく)られてゐるのであって、~の創造(つく)
   り給うたものは何人といへどもそれを汚(けが)すことも壞(やぶ)ることも
   出來ないのであります。

   ~の創造(つく)り給うた淨土は久遠の天國淨土、實相の天國淨土、不可壞永遠の
   常樂の淨土であって、今更淨土があるかないかを問題にするが如きは愚かしき極み。


   この天國淨土に、既に人間は~の肖像(にすがた)として完全に善き物に造られて
   ゐることが創世記第一章に明らかに宣言してあるのであります。

   ・・・・と説かれてゐるのです。

   谷口雅春先生は、この創世記第一章に書かれた天國淨土、法華経に説かれた久遠實成
   の實相世界こそ、スメラミコトの總攬し給ふ蓮華藏世界即ち大日本眞理國家である
   ことを、或は哲學的に、或は科學的に凡ゆる方面から立論實證せられたのであって、


   ・・・・谷口雅春先生が天皇信仰第七節に、

   『すべての宗教は、天皇より發するなり。
   大日如来も、釋迦牟尼佛も、イエスキリストも、天皇より發する也。
   ただ一つの光源より七色の虹が發する如きなり』

   と宣言された、その宣言に反對して、

   『各宗の本尊のみを禮拜して、 天皇を禮拜せざる』

   が如き佛教徒、基督教徒があるとすれば、それは彼等が創世記第二章以下、
   或は無明縁起説以後の歪められた教へを固執して、唯物論擁護のために共同陣營を
   築いてゐるところの反國家的存在であると断定されても全く辯解の餘地は無いので
   あります。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P36〜P40>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年3月2日 頓首再拝>

[511] 眞の萬教帰一
伝統 - 2015年03月03日 (火) 04時53分

(10)眞の萬教帰一

  @天皇信仰(谷口雅春先生)第三節より

   すべての宗教は、 天皇に歸一する為の前提として存在の意義があるなり。
   すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、
   『無所有』を説くは、『この世は何にも無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。

・・・・・・・とあります。


   佛教が『無』を説き、基督教が『無所有』を説くのも、單に『無』のために『無』を説き、
   『狭き門』に入るために『無所有』を説いただけではなくて、
   實はそれは『天皇に歸一するための前提』として『無』『無所有』を説いてゐたのである。

  A谷口雅春先生が『天皇信仰』その二(『信の力』六三頁)に於て、

   ・・・

   軍~杉本五郎中佐の遺書『大義』に曰く、

   天皇は天照大御~と同一身にましまして、宇宙最高の唯一~、宇宙統治の最高~、
   國憲、國法、道徳、学問、芸術乃至凡百の諸道悉皆 天皇に歸一せしむるための
   方便門なり、と。

   然り。宇宙最高なるが故に、東洋の日本列島のみの~には在(ま)しまざるなり。
   ・・・・・宇宙の大~であらせられる。かくてすべての宗教は、世界すべての人類をして
   天皇信仰に歸一せしむるための方便門なり・・・・・。

   ・・・

   と云はれた如く、世界の諸宗教はそれのみとしてあるのでもなく、それらはみな、
   『天皇信仰に歸一せしむるための方便門』であったのでした。

  B『生命の實相』には、萬教帰一の原理が説かれおります。
   しかし、多くの『生命の實相』の讀者の中には、書いてある部分だけを一面的に解釈して、
   それに甘え、好い加減に受けて、谷口雅春先生の意のあるところ、

   即ち『萬教帰一とは、天皇信仰への帰一なり』といふことを忘れたまま、
   有耶無耶に過ごしてゐる人があるのではないか。

   若しさうであったならば大変な心得違ひであると思ふのです。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P41〜P44>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年3月3日 頓首再拝>

[512] 眞の萬教帰一 〜 その2
伝統 - 2015年03月04日 (水) 03時46分


(11)眞の萬教帰一 〜 その2

   @生長の家は、『生命の實相』全集第二巻の巻頭にあるやうに、普門の働きをして、
    各宗教の眞髄に燈(ともしび)を點ずる教へである。

    その普門の働きとは、各宗教の眞髄を生かす働きである。
    併し、眞髄を生かすといふ事は、生易しいことではない。

    本當に眞髄を生かすには奮(ふる)い殻を破らなければならぬ。
    これからはもう、世界の全人類がみんな大日本眞理国家の天皇に歸一しなければ
    ならぬ時代となってゐるのです。

   A天皇信仰(谷口雅春先生)第十二節より一部抜粋

    釋迦は 天皇信仰を教へたるなり。
    (それを多くの者)知らずして、迦葉のみ微笑(みせう)す。
    善い哉、迦葉微笑(みせう)せり。

    今は日本人悉くが微笑せざるべからざる時なり。
    天皇信仰を知らざるべからざる時なり。

    今はすべての宗教が 天照大御~(あまてらすおほみかみ)を禮拜すべき時なり。

・・・・・・・とあります。

    天皇信仰以外に『宗教ある筈はなきなり』です。
    生長の家の教へは、『人間~の子』にして『肉體無』である。

    それは肉體と云う殻を否定して驀直(まくじき)に
    『~の子』なる本當の人間を觀ることであり、
    『御中(みなか)』の理念に中(ちゅう)することである。

    各宗教に於いても同様に、あらゆる既成的奮殻(きうかく)を破摧し、
    すべての宗派宗門が本當に握手して、驀直(まくじき)に、
    天皇信仰に還らなければならない。

    これが生長の家に於いて説かれる本當の萬教歸一の精神であり、
    普門の働きとは即ち萬教をして、天皇信仰に歸一還元せしむる働きを云ふのです。

  B『日本の世界的使命』巻頭『はしがき』より

   基督信者をも佛教信者をも、天皇信仰に轉回せしむる精密なる理論體系を備ふるが
   生長の家の萬教歸一論なり。

   萬教歸一とは萬教を生長の家の信仰に歸せしむるに非ずして萬教を
   天皇信仰に歸一せしむるといふ意なり。

   
   畏友江藤嘉吉氏から杉本中佐の遺稿『大義』を送られてきたが、披見するに、
   その萬教歸一的なること生長の家と全く同じである。曰く


   『古コ(ことく)毎日自ら主人公と喚(よ)ぶ、復(また)自ら應諾す、
   乃ち云ふ、惺惺著(せいぜいじゃく)、諾(だく)他時異日(たじいじつ)、
   人の瞞(まん)を受くる莫(なか)れ、諾々(だくだく)。
   自己胸裏の主人公、天皇を常時内省せよとの教示・・・云々』(「大義」)


   これは無門関第十二則にある瑞厳和尚が自己内在の『佛性』を換び出した
   古事に據(よ)るものである。

   杉本中佐はこれを『自己内在の佛性』と稱せずして
   『自己胸裏の主人公、天皇』と稱したのである。

   天皇を外にのみ見奉らず、宇宙に遍満し給う大御心と見奉り、
   その大御心に一元化する事を『忠』と見たのである。

   中佐は『忠』を稱して『一切を 天皇に一元化せんとする無縁大悲の誓願たる
   忠は、箇身のみの奉還に非ず、一切をして奉献せしめんとする佛行是れなり』
   と云って、『忠』の表現に『佛行』なる佛教的表現を用ひてゐる。

   中佐が『佛行』なる佛教的表現を用ひたのは、生長の家と同じく、
   佛教を弘めんがためにあらず、佛教者をして、天皇信仰に轉回せしめん
   とするための方便的に選擇せる用語なのである。

   中佐の『大義』第一章二十三頁に、

   『宇宙悉く 天皇の顯現にして、大にしては上(かみ)三十三天(一)、
   下(しも)奈落の極底を貫き、横に盡十方(二)に亘(わた)る姿となり、
   小にしては、森羅萬象、天皇の御姿(おんすがた)ならざるはなし』

   は、私が『生命の教育』誌昭和十四年三月號の巻頭に書いた
   『天皇獨在』なる巻頭言と全く同一である。

   『三十三天』『奈落』『盡十方』などの佛教用語は仏教を説くために
   中佐が此の語を用ひたのではない。

   佛教的世界觀にて信ぜられてゐる天界も、奈落の世界も、盡十方も悉く、
   それが存在する限り 天皇の御コによって支へられてゐると云うことなのである。

   されば杉本中佐は云う──(「大義」第一章天皇)

   『釋迦を信じ、キリストを仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。
   宇宙一~、最高の眞理具現者、天皇を仰信せよ。萬古 天皇を仰げ』と。

   『垣根に喞(すだ)く蟲の音も、そよと吹く春の小風も皆 天皇の顯現ならざるなし』
   と云った中佐が、『釋迦を信じ、キリストを仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ』
   と云ったのは、

   釋迦、基督を以って『垣根の蟲』よりも『春の小風(をかぜ)』よりも劣れりと
   軽蔑したのではない。また釋迦キリストを排斥せよと云うのでもない。

   釋迦キリストの轉法輪は悉く 天皇一~の御コの垂迹に過ぎないが故に、
   信仰の中心を天皇に歸一せしめ、榮光を 天皇一~に集中せしむべきが
   當然であることを説かれたのである。


   私も『生命の實相』の到るところに、生命とか眞理とかのキリスト教語を用ひ、
   法身とか盡十方無礙光その他の佛教の用語を用ひ、

   その用語を以って天照大御~の御コを稱ふる事も杉本中佐のそれと
   等しく佛教者をして、キリスト教者をして、

   天皇信仰の眞信仰に歸一せしめんが為の意圖に他ならないのである。
   そして現に讀者にその實蹟が挙がってゐるのである。
   意圖のみならず、天皇信仰の堅信の表現なのである。

   用語に周到なる用意があって、全體を讀んでゐるうちにキリスト教徒を 
    天皇信仰に轉回し、佛教徒を 天皇信仰に轉回せしめ得る吾らの
   『生命の實相』こそ思想戦の上々なるものである。

   この意味に於いて私の著書の同一頁に 天皇信仰とキリスト釋迦との名が
   併列してあることを、しばらく諒とせられんことを希望するものである。 


・・・・・以上によって谷口雅春先生の説かれる萬教歸一の根本精神が奈邊にあったかを
     ハッキリと體得することが出来るのであります。   

   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P45〜P51>』からの抽出でした。



・・・

谷口雅春先生が引用された文章の軍神杉本五郎中佐の遺著『大義』については、
以下のWebにてご確認ください。

本流宣言掲示板「天皇一元〜『大義』(軍神・杉本五郎中佐遺著)から (980)」
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=227
 
         <感謝合掌 平成27年3月4日 頓首再拝>

[516] 眞の萬教歸一 〜 その3
伝統 - 2015年03月05日 (木) 06時34分

(12)眞の萬教歸一 〜 その3

  @天皇信仰(谷口雅春先生)第九節より

    宗はオホモトなり。 天皇なり。
    すべての教(のり)も則(のり)も範(のり)も矩(のり)も規(のり)も
    法(のり)も、悉くスメラミコトより發するなり。

    宗教が宗派と云ふものに立ち籠(こも)りて、宗祖と云ふ一人の國民に過ぎざる
    人間を尊崇するは邪道なり。
    されば我(われ)は夙(つと)に喇叭に過ぎずと云ひたるなり。

    すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。
    宇宙の大教祖は 天皇にあらせられるなり。
    ミチとノリとは悉く スメラミコトより出づればなり。

・・・・・・・とある。

   宇宙の大教祖にあらせられる 天皇に一切を奉還、歸一せしめる、
   これが生長の家出現の偉大なる目的である。

  A天皇信仰(谷口雅春先生)第五節より

    愈々日本も政治新體制の曙は近づけり。一切の政黨は解黨せり。
    新たに黨を結ばんがための解黨にては意味を成さず。
    この事(こと)胆(きも)に銘ずべきなり。
    挙國一黨なりとも、黨のある限りは『無我』に非ざるあり。

    大みごころあるのみなり。大みごころへの無我随順あるのみなり。

    若し新黨を樹(た)つるとも、新政體を建(た)つるとも一点の『我(が)』
    ありて、大みごころを蒙(くら)ます時、天皇の御徳を晦(くらま)して、
    自分の都合をはかる無道(ぶどう)の徒(と)となり了(をは)るなり。

・・・・・とあります。

   寸時も、天皇の”みたまのふゆ”なることを忘れないこと、即ち常に
   実相の自分に生き、常に御中の理念に中することであり、
   ”みたまのふゆ”なることを忘れること即ち罪なのです。

   生長の家は『罪』は『ツツミ』即ち、迷ひいを以て~性を隠蔽すること
   であると説かれてあります。

   『わたくしの生命』を尊んで、天皇の”みたまのふゆ”を忘れることは、
   第一の~性隠蔽であり、人としての最大の罪なのです。

   『天皇を説かず、仰がず、無のみを説く宗教』また同じく罪の最大なるので
   あるのです。

   さきに擧げた『日本の世界的使命』巻頭『はしがき』中にも書いてあるように、
   天皇を信仰せよと云ふ事は、決して『釋迦基督を排斥せよと云ふのではない』
   のです。佛教キリスト教を捨て去れと云ふのではないのです。

   『釋迦キリストの轉法輪は、悉く天皇一~の御徳の垂迹に過ぎないが故に、
   信仰の中心を 天皇に歸一せしめ、榮光を 天皇一~に集中せしむべきが當然』
   であり、かつ、これによってこそ釋迦の教へキリストの教へが初めて眞に生きる
   のです。

   佛教やキリスト教は外國渡来の宗教であるから、天皇信仰と背反せざるを得ない
   などと考へるのが抑々(そもそも)迷妄なのです。

   佛教もキリスト教も本質的には 天皇信仰に聊(いささ)かも背反するものでは
   ない、背反しないばかりでなく、その眞髄に目覺めてこれを生かすことは、

   即ち佛教、キリスト教を信じてゐながらそのままで積極的に 天皇信仰運動に
   参加することとなり、

   決して失業の惧(おそ)れがないのみならず、
   彼らの存在価値を愈々明らかに發揮することにさへなるのです。

   (谷口雅春)先生が、『生命の實相』その他に於て數萬言、數十萬言を費やされる
   のも、ただこの一大事を彼等に知らしめんがための大愛の發露に他ならない
   のです。 
 
  Bイエスがエホバ神を否定して汎愛的な神を説いたのは、丁度佛教が時代に即して
   方便として空(くう)を説き無を説いたと同様に、實はいづれも光明一元、
   天照大神一元、天皇一元の中心歸一精~に到達せんが為の準備であったのです。

   佛教でもキリスト教でも本來は日本的あるものを非日本的にしてしまったのは、
   その教祖であり宗祖である釋迦やイエスにのみ罪があるのではなく、

   教祖宗祖の遺鉢を繼いだ一部の信徒が故意にその解釈を歪めて傳えたことに
   大部分の原因があるのです。

   要するに彼等にすべての宗教が 天皇より發するといふ大自覺がないからです。
   大日如来も釋迦もキリストもみな 天皇より發するものであることを知らない
   からです。

   ただ一つの光明から七色の虹の發するやうなものであることを知らないからです。

   その結果各宗の本尊のみを禮拜して、 天皇を禮拜することを知らず、自ら己が
   信ずる宗教を非日本的、外道の佛教となして自ら墓穴を掘ってゐるのです。

   ・・・

   (天皇信仰)第十節の後半に、

    佛教を以て『空(くう)』を説くとなす者、百尺竿頭に坐する底(てい)の者
    なり。百尺竿頭に達せざる者よりは優(まさ)れり。

    されど『空(くう)』の百尺竿頭より進一歩して、中心歸一世界を見ざるものは、
    外道の佛教にして、日本佛教にあらざるあり。

   とある所以です。

   ・・・

   然らば日本佛教の眞髄とは如何なるものであるか。
   (谷口雅春)先生は第十節前半に於て、

    釋迦在世のとき、金婆羅華(こんぱらげ)を拈(ねん)じて衆に示すに、
    迦葉(かせう)のみ微笑(みせう)す。金婆羅華は『空(くう)』の象徴に非ず、
    宇宙がコスモスであり、中心歸一である象徴なり。日本國體の象徴也。

   と。釋迦の拈じた金婆羅華と微笑をもってこれに應じた迦葉を引いて初めて
   深奥極まりなき宇宙の秘密を釋(と)き明かされるのでした。

   ・・・

   そして續けて、

    迦葉(かせう)のみ微笑(みせう)す、とは悲しいかな。
    ほかの大弟子皆解せざるなり。
    今の佛教者はいかほど金婆羅華の秘密を解せりや。

   と、或は嗟嘆し、或は警告を發せられるのでありました。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P51〜P57>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年3月5日 頓首再拝>

[517] 眞の萬教歸一 〜 その4
伝統 - 2015年03月06日 (金) 03時55分

(13)眞の萬教歸一 〜 その4

  @『無門關』第六則『世尊拈花』の冒頭に

   「世尊、昔、霊山會上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆黙然たり。
   惟迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊曰く、吾れに正法眼藏、涅槃妙心、實相無相、
   微妙の法門あり。不立文字、教外別傳、摩訶迦葉に付囑す。」

   とある。

   この深遠にして妙々なる宇宙の大秘密を、(谷口雅春)先生は如何に説かれるか。

   詳しくは、先生の、『無門關の日本的解釋』『驀進日本の心と力』の中の
   『日本學的大乗佛教の樹立』及び『行』誌昭和十六年一月號に連載(『信の力』
   収録)された『教育勅語渙發五十周年記念に當たりの講話』その他を併せて參考
   せられたいが、

   ・・・・・(伝統注意書き)

   『教育勅語渙發五十周年記念に當たりの講話』については、当掲示板においての、
   「教育勅語渙発五十周年に方りての講話(昭和15年10月23日)」にて、
   確認することができます。是非、再度、熟読されますようお勧めいたします。

     ⇒ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=40

   また、Web「生長の家「今昔物語」」においての「世尊拈花の秘義」も
   参照願います。
   (<真髄中の神髄>第二十六話〜第三十二話)

     ⇒ http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/category/8/

   ・・・・・

   ここでは便宜上『無門關の日本的解釋』から要點のみを引用させて頂けば、
   (同書六十頁以下)


・・・以下は、『無門關の日本的解釋』より

     正法眼藏の『眼藏』とは一切(藏)を照らす光の眼である。
     正法とは正眞の法體、宇宙の實相である。  

     悟りの光の眼で見たる法體宇宙の實相は何であるか、
     涅槃妙心にならなくては分らぬ。
   
     涅槃妙心と云うのは、すべてを空寂と悟って灰身滅智(けしんめっち)の
     ―― 何もかも『空(くう)』であるとして人生の價値を抑損してしまふような
     『空佛教』の悟りではない。

     宇宙の妙法本體と一つになった妙なる心――絶對實在の絶對把握の妙心――
     を顕したときのみ解るのだ。

     今は時期到らず、語るに語られず、語っても人は信じもしないし、
     却って疑(うたがい)を増すやうになるばかりだ。

     そこで釋迦は残念ながら不立文字、教外別傳、ただ金婆羅華を拈るのを見て微笑
     した迦葉尊者に、

     『金婆羅華を拈るのを見て微笑(みしょう)したお前に、正法眼藏をキッと
     付したぞ、宜しく嘱(たの)むと云ったことを後世に傳へて置いてくれ』と、
     ”それとなく、ただ動作によって”【大日本の國體の實相を傳へた】のであった。


     では、金婆羅華とは何を象徴するか、金色の婆羅華である。
     末法の世を過ぎて、弥勒菩薩東方に出現してその皮膚の色金色であるといふ
     その黄金色(こんじき)なのである。

     『大梵天王問佛決疑經』巻上に、『爾(そ)の時、大梵天は即ち若干の眷属を
     引き来り、世尊に□□羅華を献じ奉り、各々佛足を頂禮し、退きて一面に坐す。

     爾の時、世尊即ち献じ奉れる□色婆羅華を拈じ、目を瞬き眉を揚げて諸(もろ
     もろ)の大衆に示す』とあるが、どんな植物か判らない。

     ある佛教大辞典には『一説には瞻蔔(せんぷく)なりとす。
     蓋し瞻蔔にスヴアルナ Svarna 即ち金色華の異稱あり、婆羅は初めのS字を
     略したる語』と書いてある。

     私は金婆羅華が本當は何植物であるかを問題としようとは思はないのである。

     それが黄金色(こんじき)の華なること、そして婆羅がS字を略したる 
     Svarna で(スーハラ。スは皇(ス)であり、婆羅は波羅蜜であり、到彼岸で
     あり、高天ハラであり、スを御中とする實相世界である)あることさへ判明
     すればそれで好いのである。

     即ち、金婆羅華とは中心に葩(はなびら)の統一せられたる黄金色(こんじき)
     燦爛たる『皇(ス)』ハラナの華(はな)

     ―― 華嚴經が宇宙の實相を、御中に『ス』を有する蓮(ハチス)の華(はな)
     に喩へたると全く同じことを象徴せんとしたものである。

     大梵天王問佛決疑經が後世の作であらうと寓話であらうと、お伽噺であらうと、
     宇宙に存在する理念が、此の經典作者の頭にインスピレーションとして感じて
     斯く書かせたところに注目すべきであるのである。

     此のインスピレーションは宇宙の實相が蓮華藏世界であり、黄金色(こんじき)
     の菊花章であり、全宇宙が天照大御~の法體であり、その現人神にまします
     大日本天皇の御所有であることを表現してゐるのである。

     宇宙の組織は蓮華の如く、金婆羅華の如く、組織紋理整然として御中に歸一
     してゐるのであって、『空(くう)』とか『有耶無耶』とか云うやうな漠然
     たるものではないのである。

・・・・・とあるのです。

  A宇宙の一切は天之御中主~の『御中の理念』即ちミコトバ、ミコトの自己展開である
   ことは既に屡々(しばしば)擧げた如くです。

   ミコトは『道(コトバ)』であって、『一切のもの道(コトバ)によって造らる』と
   云うヨハネ傳第一章の言葉は、この眞理を基督教の立場から解いた言葉です。

   コトバが展開して一切萬象となる、『萬象となるのは展開々々してさうなるのである
   けれども、』と『日本學大乗佛教の樹立』一一五頁以下にある。

   けれども、『展開するまでの根本――統(ス)――樞(スウ)――巣(ス)――宇宙
   の樞機を司るところの本源がなければならない。

   そして一切はコトバの展開であるが故に、その展開するまでのコトバ、五十音に展開
   する前の宇宙の樞機を司るところのコトバがなければならぬ。
   萬有の樞機を司るところの”ス”の聲がそれである。

   萬籟一つに収まってスースーと本源に還ってゐる聲がそれである。
   その聲がスである。巣である。

   だから實在世界を象(あらは)すにはスを中心に開くものによって宇宙の組織を象徴
   しなければならぬ。開くと云うこと、葉が開くと云うことを象徴するために華が
   選ばれた』のです。

   しかし、『中心座に皇(ス)のある華でないと宇宙の組織を象徴することは
   出来ない』のです。

   そこで、『中央に蜂巣の形の子房のある華、蓮(ハチス)の華が選ばれ、これに
   よって、蓮華藏世界の組織を髣髴せしめた』(同書)のです。

   だから、『その中心座には光明遍照と云う意味、大日如来と云う意味の毘盧遮那佛が
   説法してをられる』(同書)のです。

  B『天皇信仰』第十一節乃至第十二節に、

     東大寺の大佛は、中心歸一の蓮華藏世界を彫刻にあらはせるなり。
     中心座にましますは、光明遍照者(ヴェーローシヤナ)にましまして、

     それを守護し奉るために、千葉(せんえふ)の蓮華その御足(みあし)の下
     (もと)にありて、各々の蓮華に、悉く釋迦牟尼佛いまして、
     光明遍照者(ヴェーローシヤナ)の御徳を讃ふるなり。

     ヴェーローシヤナと云う梵語をば、大日如来などと、佛教が如来の如く
     譯したるは誤謬にはあらざれども、人をして外國の佛樣(ほとけさま)の如く
     誤解せめしたるや久し。


     ヴェーローシヤナとは、單に『光明遍照(くわうみやうへんぜう)』の意なり。
     宇宙の中心座に在(ましま)す『光明遍照(くわうみやうへんぜう)』なり。
     畏(かしこ)くも天照大御~(あまてらすおほみかみ)にましますなり。


   とある所以です。

  C即ち、

     毘盧遮那佛とはビルシャナ佛と云う固有名稱の印度(いんど)の一個の佛では
     なく、それは宇宙『蓮華藏世界海』の中心座に在(いま)すところの、
     ”光明遍照なるもの”と云ふ普通名詞であるのである。

     佛教が毘盧遮那佛を説くのに、固有名詞を説いたのであるならば、日本の神と
     衝突するかも知れないが、それは固有名詞ではなく普通名詞であるが故に、
     光明遍照なる天壌無窮の中心者を吾々が見出すならば、

     それは佛教で云ふ宇宙の中心總覽者であるビルシャナであり、光明遍照者で
     あると云ふことが判るのである。(「驀進日本の心と力」一一七頁)

   げに、天照大御~こそ宇宙の中心座に在(ましま)す『光明遍照者』にまします。
   釈迦は天皇信仰を教へたのです。
   衆はそれを知らず、迦葉のみそれを悟って微笑(みせう)したのであります。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P57〜P62>』からの抽出でした。

         <感謝合掌 平成27年3月6日 頓首再拝>

[521] 眞の萬教歸一 〜 その5
伝統 - 2015年03月07日 (土) 05時07分

(14)眞の萬教歸一 〜 その5

  @「驀進日本の心と力」より

    『蓮華藏世界海の中心座にましますスメラミコトのみが一切の教法の中心にまします。
    一切の存在は其處より流れ出で、一切の存在は其處に流れ入る』(P124)

    『ただスメラミコのみ實在にましまして、他の諸佛は、化身又は應報身に過ぎない』
                                  (同上)

  A一切を否定し、否定の極の極に光明燦然たる『實』の世界、金剛不壊の世界、
   蓮華藏世界海、無限荘厳の大日本眞理国家、その中心にいまして實在宇宙の大教主
   に坐(ましま)すところの天照大御神――天皇――スメラミコトの肯定に達するには、
   それは所謂る修行をもってしては

   如何なる修行や、倫理的尋究でも到底達することは出来ない、
   そこの肯定に達するには、一切の論理、懐疑を排して、そのまま素直に跳び込む、
   即ち『實相に中(ちゅう)する』ほかはないのです。

   ここでは一切の所謂る”はからひ心、人間智慧”は全く用を為さない、
   用を為さないばかりではなく邪魔をする。

   人間が考え組み立てる『論理』のごときは、それがどんなに高度のものであっても
   究局のところ實在界に實在する――既に成れる――複雑微妙な『理』、實在界の
   『秩序』の、無限億萬分の一にも當らぬ微妙なものに過ぎないのです。

  B「無門関の日本的解釈」より

   『概念的な、”空”には全體一様の感じがするだけで秩序があり得ない。
   秩序ある世界、――生ける天國淨土――は”空”的實在觀では得られるものではない』
                                   (P338)

   『空』の世界は所謂る『漂へる國』に過ぎない。

   『漂へる國』又はただ天國の素材となるだけで、天國淨土は『此の漂へる國』を
   修理(つくり)固成(かためな)すところの理念の力
   ――天(あめ)の理念鉾(ぬぼこ)によるほかはないである。

   天沼鉾(あめのぬぼこ)に『天(あめ)の理念鉾(ぬぼこ)』と云う文字を當て
   嵌めたのは、『アメノヌボコ』とは天地(てんち)を貫く鉾のことであって、
   『理(り)』こそ天地を貫く一貫せる鉾であるからである。

   この『理念(りねん)』正しく顯現する國家が大八洲(おおやしま)であり、
   日本國家である。

   だから日本國家を大日本眞理國家(だいにっぽんあまつひつぎこくか)と稱する
   のであって、大日本眞理國家(だいにっぽんあまつひつぎこくか)の範囲を擴大
   すればする程、全世界は眞理化されるのである。    (P338)

  Cまことにも迦葉のごとく、「今は日本人悉く微笑せざるべからざる時」です。
   「天皇信仰を知らざるべからざる時」です。
   今は「總ての宗教が天照大御神を禮拜すべき時」なのです。

    ・・・天皇信仰第十三節より

    天照大御~(あまてらすおほみかみ)を以て
    單に日本民族~なりと考ふる如き小乗時代は去れるなり。 

    今後は宇宙~として全世界各國に於て、全世界各國民より
    仰ぎ祭祀せらるべき大乗時代来(きた)るなり。
 
   です。
     
    ・・・天皇信仰その二より

    『日本を狭義に解して『特殊』扱ひすることを止めよ』
    『八絋一宇とは、全世界が日本国であることである。
    全世界が日本国であることが、畏くも神武天皇の大理想にてあらせられた』

   です。

    ・・・天皇信仰第十三節より

    『ここに於て全世界に一君万民、永遠平和の世来(きた)らん。
    これ宇宙の約束なり。
    萬教を和せしめ此の宇宙的眞理を炳(あきら)かにせんがために誕生せるもの
    生長の家なり』

   と宣言せられる所以なのです。

  Dだが、最後に考えなければならないのは、
   『至道無難(しいどうぶなん)』と云うことです。

   色々と理論や説明を挙げて来ましたが、真理はそう云う理屈にあるのではない、
   理論に執われると却って真理は遠くなる。

   『至道無難(しいどうぶなん)』――

    『別に説明を待たずとも、説明を待たずとも、人間は此のまま神の子なのである。
    實相さへ直視(ぢきし)すれば好いのであって、別に文句は要らぬ』
      (『生命の教育』昭和16年3月号、『碧巌録解釈』第三則「馬大師」の項)

   です。
 
   ・・・『碧巌録解釈』第三則「馬大師」より

    釋迦のやうに揚目瞬眉(ようもくしゅんび)、靈鷲山上(りょうじゅせんじょう)
    で輕業師(かるわざし)のやうに金婆羅華(こんぱらげ)を拈(ひねく)り
    廻したり、

    『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、
    摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す』と芝居がかりな聲で
    科白(せりふ)を述べる必要もないのである。

    ところが其の『實相』は、第二則の『至道無難(しいどうぶなん)』の公案の
    ところでも述べたやうに、何も『難しいことは無い』のだ。

    ”ただありのまま”を直下(ぢか)に見れば好いのであるが、
    五官に介して見ようとするから、どうも、其の儘、ありの儘、が見えないのである。

    佛教が概ね『否定の論理』を説いてゐて、
    『さうではない。かうではない、ああでもない。』『無(む)、無、無・・・』
    そして『無(む)も無(な)い』と云ってゐるのは、

    吾々は五官を通して視て、それを”ありのまま”と考へたり、

    『五官を外せ』と云うと、活々(いきいき)とした實相を捉へ得ないで、
    氣の脱(ぬ)けたやうな抽象的『空(くう)』の『概念』だけを捉へて、
    『これが實相』などと寝言を云はうとする。

    然るに實相は感覺的存在でもなければ、抽象概念の存在でもない。
    その活々(いきいき)した活氣臨々乎(かっきりんりんこ)たること、
    感覺的存在以上であり、

    しかも肉眼に見える以上の具體的存在であるのだから、
    吾々の大概(おおよそ)想像し得て

    『恁麼(こんな)のですか』と云って提出し得(う)るすべての概念を否定して
    『さうではない』と云はねばならぬ。

    佛教が否定的文字を使って『空(くう)』とか
    『無(む)』とか云ふのはそのためである。

    併しその『無』をかついでもならないのである。

    兎も角、實相に『入所(いるところ)』の急所を示したいがために、
    禅宗の僧侶は、色々に眼をむいたり、顔を撫でて『此のまま』と云って見たり、
    隻手を出して示し、隻手の聲だの、一本指を竪(たて)て
    『此の、何が、そら!』と云ったりする。

    その一言一句、隻手(せきしゅ)、竪指(じゅし)、揚目(やうもく)、
    悉くが相手の機(こころ)を引出して實相を自覺せしむる對境(たいきょう)
    となるのである。

    對機説法と云う語があるが、機(き)と境(きょう)と一機一境、一言一句が
    肝膽(かんたん)相照らした時に、その揚目(やうもく)瞬眉(しゅんび)が
    無駄にならないで始めて實相に入らしむる好方便(こうほうべん)となる
    のであるが、

    そんなにして悟らしめないでも、人間は始めから『神のいのち』が宿ってをり、
    『佛性』が宿ってゐるのである。

    否、既に『神の”いのち”』『佛(ほとけ)の”いのち”』
    そのものが人間なのである。



  E『至道無難(しいどうぶなん)』!深遠にして霊妙なる宇宙の実相を、

   かくの如く易しく、そのまま、ありのままに直指(ぢきし)把握せしめ、
   総ての人、総ての宗教をして歓喜勇躍、天皇信仰に帰一せしめ、
   この世をこのままに天国浄土たらしむるのが生長の家であって、

   ここに私共はこの漂える宇宙(くに<唯物論の横行に惑わされる世界>)
   を修理(つくり)固成(かため)なす天沼矛(あめのぬぼこ)の理念の
   さながらなる顕現を見るのであります。


   *以上は、『天皇信仰』鼓篋集覧<P62〜P66>』からの抽出でした。

   <以上で、第1篇 荻原俊三氏の『天皇信仰』鼓篋集覧<P11〜P66>からの
    重要部分の抜粋を終了いたします>

         <感謝合掌 平成27年3月7日 頓首再拝>



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