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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[429] 曜日ごとの反省
伝統 - 2015年02月01日 (日) 09時10分

《日曜日の反省〜「光明と暗黒」》

  *「聖光録」(毎週の反省)より

君は絶えず暗黒を撒いて歩く
不快な人間を見たことはないか、

君は眉をひそめた
悲しい表情の人々に接したことはないか、

君は表情が、
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


悲しい表情をした人間は
悲しみを撒いて歩く、

不快な表情をした人間は
不快を撒いて歩く、

それは黴菌を撒いて歩くよりも
尚大きな罪悪である。


また君は絶えず光明を撒いて歩く
愉快な人間を見たことはないか。

君は絶えずその唇に
幸福な微笑(びしょう)をだだよわし
逢う人毎に
幸福をうつして歩く人間を見たことはないか。

君は表情が
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。

君は与えるものがないことを
嘆いてはならない。

君は与えるものがなくとも
幸福な表情を与えることが出来るのだ。

子供の顔を見るとき
良人の顔を見るとき
妻の顔を見るとき

兄弟の顔を見るとき
姉妹の顔を見るとき

八百屋に挨拶するとき
風呂場で知った人に遇うとき

君が幸福な表情さえすれば
君は幸福を与えて歩く。


幸福な表情をした人間は
幸福を撒いて歩く、

愉快な表情をした人間は
愉快を撒いて歩く

それは物を与えるよりも
一層好い贈物であるのだ!

        <感謝合掌 平成27年2月1日 頓首再拝>

[431] 月曜日の反省 〜 「朝の時間を生かせ」
伝統 - 2015年02月02日 (月) 02時19分

          *「聖光録」(毎週の反省)より

諸君よ、諸君自身が生長の家の人となり諸君の家を
「生長の家」としようと思うならば朝の時間を巧みに生かせ、
凡そ時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かすものである。

何故なら吾々の生命は時間的継続そのものであるからである。

私のように朝の時間を巧みに利用することによって二重に生きることが出来る者は
仮りに50年の生涯でも百歳を生きたと同様となるであろう。
かりに70歳を生きれば、140歳を生きたと同様の価値を生きることが出来るであろう。

米国の豪商ジェ・ピー・モルガン氏は嘗て友人に語って
「自分は自分の生活の一刻を数千万ドルの価値あるものだと思っている」
と言ったそうである。
此れを知る彼にして始めて世界一の富豪と成り得たのである。

諸君はこの貴き刻々を無駄に浪費しつ々いないであろうか。

時間の浪費だと言えば、自身に何らかかわりのない「時間」と云うものが勝手に流れている
ように感じる人があるかもしれぬが、浪費した時間は自分の貴重な「生命」を
無駄に切って棄てた血みどろな死骸なのである。

諸君よ、死にたくない者は時間を巧みに生かさなければならぬ。
特に朝の時間を生かさなければならぬ。

吾が生命なる時間を「死骸」に化して了いたくない者は
特に最も効果多き朝の時間を巧みに生かさなければならぬ。

モルガン氏は自分の「時間」の刻々をば数千万ドルの高価に見積もったが、
眞の「時間」の価値は数千万ドルと云うような安価なものでないのである。

「時は金なり」と云う諺があるけれども、時は決して金でないのである。
時は決して金銭のような安っぽいものとは段ちがいで全然比較にならないのである。

若し諸君が金銭を捨てたく思うならば、これを捨てよ。
しかし決して朝の時間を捨てるな。

若し諸君が己が所有する土地、建物、衣装など捨てたく思うならば、
何ん時でもこれを捨てよ。
併し、決して朝の時間を捨てるな。

金、土地、建物、衣装などは又自分に戻ってくることがあるであろう。
併し、如何なる力をもってするも失われたる朝の時間を回復する道はないのである。

諸君が仮りに往来をあるいているとき、
手に一杯の金銭を握って、その金貨だけの値いのあるものを何一つ得ないでいながら、
その金銭を溝の中へ矢鱈(やたら)に捨てて歩いている人を見るならば、
諸君はその人を屹度気が狂っているに相違ないと思うであろう。

しかし、大抵の人は金銭以上に貴き価値ある時間を
両手に一杯もって捨てて歩いている人々を見ても気狂いとも思わないのだ。

そして自分自身も、その大気狂いの仲間入りして何とも思わず
この金貨よりも何十倍貴き寳を刻々瞬々捨ててあるいているのである。

彼等の生活が「生長の家」の生活を遠ざかること甚だ遠く、彼等自身が間断なく
生長し得る人とならず、能力が中途で止まって了い、いつまでも碌碌として
常人の水準以上にのぼることが出来ないのは当然のことわりなのである。

      (『光明の生活法』より)(「生命の實相 生活篇 第七巻」<P13>) 

        <感謝合掌 平成27年2月2日 頓首再拝>

[435] 火曜日の反省 〜 「背水の陣を布け」
伝統 - 2015年02月03日 (火) 02時50分


       *「聖光録」(毎週の反省)より

「背水の陣」を布けとは本書の『智慧の言葉』の中に見出される金言である。
諸君よ一旦「吾れ此れを為さう」と決して起ち上がったならば、
「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも必要である。

逃げ路を豫(あらかじ)め準備しておいて事にのぞむやうなことでは
何人も全力を発揮することは出来ないのだ。

歴史にこれを見るもジュリアス・シ−ザ−の英国侵入軍が目的地に上陸したとき
彼は將卒に命じて海峡を越えて味方を運んでくれた愛すべき船――
若し味方の戰ひが不利に終ったならば、海峡を越えて逃げ帰る時の
助けとなるであろうところの愛すべき船――
これらの船に悉く火をつけて焼き捨てさせたのであつた。

「進むほかに道なし」の覚悟は吾々に平常の肉體以上の力を発現させるものである。
それは小さなる我を減して、「無限の生命」から力を汲む一つの方法であるのである。

「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が大切だと云っても
実際心を誘惑する逃げ路があつては本当の覚悟が出来て来ないものである。

そこで心がまだ本当に定まらない者には是非とも背水の陣が必要となるのである。

「背水の陣を布け」と云う言葉は、英語では
“ Burn your behind you ”  と言う。
訳せば、「汝の背後の橋を焼き落とせ」と云うことである。

一旦渡って来た橋を焼き落として了つたとき吾らはもう退却するにも退却の道がない。
ただ吾らに残されたる自由は進むことのみとなるのである。

進むほかに道がない!!!!!!

これほど吾らにとつて強いことがあらうか。
一歩でも動けば、それは退歩ではなく進歩であるのだ。
げに「背水の陣」のうちには萬物が備わつているのである。

                 「光明の生活法」より…

        <感謝合掌 平成27年2月3日 頓首再拝>

[437] 水曜日の反省 〜 「生命の両輪」
伝統 - 2015年02月04日 (水) 02時58分

      *「聖光録」(毎週の反省)より

聖書の中にキリストの言葉として、「蛇の如く叡(さと)く、鳩の如く穏やかであれ」と
云う言葉がある。蛇のように鋭いのは可けないが、単に温良なのみであって、朗らかな智慧
がなければ、其の人は力なき善人となって愛が蹂躙(ふみにじ)られ、屏息(へいそく)
せしめられるのである。

智慧と愛といずれが尊いかと云うと兄たり難く弟たり難しである。

『生命の實相』を読むと何を教えられるかと云えば、第一に智慧の方面から吾々の心の眼を
開くのである。この時には智慧が主になっている。

『生命の實相』を読んで病気が治るのも智慧の眼が開くからである。
慧眼が開けて迷いが除かれれば自然と病気が治るのである。

この場合の智慧は世智とか知識とか云うのではなく、
慧眼が開くと云う場合の智慧の中には愛も智慧も、その他の一切の徳が含まれているのである。

慈悲と云うのも甘やかす働きではなく、如来の智慧の働きと見ることが出来る。
だから慈悲即ち恵みの最大なるものを無畏施と言って無畏施即ち何物にも恐れざる智慧を
施す事が最大の慈悲だと言われている。

智慧を施されて無明が摧破(さいは)され終わった時に、今迄自分の生命を覆いおりし
ところの一切の障礙(しょうげ)が除かれて、生命本然の働きと云うものが出てくる。
生命の本然が出て来れば、一切が施されたと同じであるから、最大の施与となるのである。

その逆に人間最大の不幸は智慧なきことである。
『生命の實相』の中にも、釈迦に対して弟子が「知って犯す罪と、知らずして犯す罪とどちらが
重いか」と問うた時に、釈迦は「知らずに犯す罪が重く、知って犯す罪は軽い」と答えたと
書いている。

弟子が訝(いぶか)るので、釈迦は譬を以て説明して、
「焼火箸を握って、知らずに握った時と知って握った時とはどちらが余計火傷をするか」
と弟子に反問している。

弟子曰く、 「知らずに握った方が余計火傷を致します」と。
釈迦曰く 「斯くの如く、知らずに罪を犯したらそれだけ多く傷つくのである。
智慧のなき事は人生不幸の最大原因である」と。

焼火箸を知らずに握って大火傷するように
吾々は知らずに何百人殺しているかも知れないのである。

どんな悪鬼羅刹(あっきらせつ)でも、知って人を殺そうとする場合には、
何百人もの多勢を殺すわけには行かない。

併し無智の所行は何億人でも殺すのである。
人類発生以来、無智のためにどれだけ多くの人が殺されたかを思うとき、
我らは此の「光明思想」をどんなにでもして広く人類に伝えずにはいられないのである。

諸氏よ、協力して下さい。
協力するのは愛の実現である。
愛は智慧を施す行の方面である。

       (「一流の人・妻・子を作る」より)

        <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>

[441] 木曜日の反省 〜 「生きた生命(せいめい)」
伝統 - 2015年02月05日 (木) 03時58分

      *「聖光録」(毎週の反省)より

名乗れ、境遇に屈従する卑怯者は誰だ。
誰がわが生命を食べて物でこねあげた塊だと思っているのだ。
生命は蝋細工ではないぞ。
石膏細工でもないんだぞ。

おれは旋風だ。
颶風(ぐふう)だ。
渦巻だ。

おれは環境を
徐々にわが望みのままに
飴のように
捻じまげる。

俺は宇宙を造った大いなる力と一つの者だ。

おれは空中電気を雷に変じ、
太陽の光を七色に変じ、
真黒な土から燃えるような赤い花を咲かし、
火山を爆発さし、

あの不思議な星雲から、
太陽系を生んだところの大いなる力と一つの者だ。

環境が何だ。
運命が何だ。

おれはおれの好きな時が来れば
鰻(うなぎ)が石垣の間から脱け出すように、
どんな苦い運命からでも脱け出すのだ。


おれは銑鉄ではない。
粘土ではない。

生命だ。
生きたエナジーだ。

境遇や運命の型に押しこめられて
黙って引込んでいる様な死物ではないのだ。

圧迫すれば圧迫するほど
恐ろしい爆撃力となって
鉱山を掘鑿(くっさく)するところの
空気圧搾機の空気のように

どんな境遇でも、
運命でも、
時が来れば
猛然粉砕するを得る生命だ。

またおれは何がおれを堰き止めようとしても
結局は大いなる海洋とならずにはおかない水だ。

大いなる巌によっておれを堰きとめれば、
おれは奔流となり、
激流となり、
瀑布(ばくふ)となって
落ちるだろう。


少しも出口がないように
おれを堰き止めれば
おれは地の中にもぐり込む。

俺はしばらく地下に沈着して姿をみせないが
おれは消えもなくなりもしないのだ。

やがて吹きたぎる泉となって
旅人の咽喉(のど)をうるおさずにおかないのだ。

おれが地下にしみ込むことすら遮るならば、
おれは霧となり、
雲となって
虚空へと舞い上がる。

時が来ればおれは

旋風を呼び
雷電を呼び
沛然(はいぜん)たる猛雨となり

如何なる大堤(たいてい)をも決する洪水となって、
結局は大なる海洋とならずにはおかないのだ

              (「ひかりの語録」より)

[442] 金曜日の反省 〜 「今」を生かせ
伝統 - 2015年02月06日 (金) 04時00分


       *「聖光録」(毎週の反省)より

「生長の家」の兄弟よ。今があなたの時なのだ。
今!  実に今だ!  今のほかに時はない!

兄弟よ、今あなたに与えられているすべてのことを今断々乎として敢行せよ。
今あなたに可能であると見えることを何のためらいもなしに今実行せよ。
これが「生長の家」の生き方だ。そして生命の生長の法則にかなう道だ。

今出来ることは今出来るのであって、ほかの時に出来るかどうかはわからない。
今が懸命だ。今の可能にのっかかれ。「今」をあなたの思うままに占領せよ。
そこから未来の展望がひらけて来るのだ。

躊躇したり、グヅグヅしていて何になろう。
躊躇逡巡は時間を失うばかりだ。
時間を失うことは生命を失うことだ。

今よりも一層便宜なときが来るかも知れぬと思うな。
今が、今与えられている可能に対しては一等便宜な時なのだ。

「機会」という神様は前額にだけ髪の毛があって、後頭部には髪の毛がないと言われている。
「機会」の神様と正面衝突して、その神様の前額の髪をひっ掴め、
これが生長の秘訣であるのだ。

もっと便宜な機会が来るかも知れぬから、その時にしようなどと思うな。
実際また一層便宜な機会が来るかもしれぬ。しかし一層便宜な機会ばかりを待ちのぞんでいる者は、
最善の機会をさえもっと待っていたら最々善の機会が来るだろうと思って、のがして了う。

そんな人には永久に最善の機会は来ないのだ。
だから「今」を全力を出して戦いとれ。
「今」を充分自分のものとせよ。

吾らが今出来る仕事に全力をあげてぶつかって進む時、恐れることはない。
目先に却って失敗があらわれて来ようともそれが何だ。
失敗だと言うことを止めよ。失敗とは何ぞや!

吾らの望むところは吾らに宿っている「生命の生長」することではないか。
「生命」が出来るだけ豊富な経験を積んで生長することが本当の成功である。

境遇が便利で安穏でノラクラ居眠り出来るような状態になることは
吾らの欲するところではないのだ。

「生命」であるところの吾らにとっては創造が悦びだ。生長が喜びだ。
固い運命の岩石に「自己」を彫刻して行くことが喜びだ。
これが「生長の家」で言う本当の生長だ。

此の生長主義をあてはめて考えるとき、吾らにとっては成功は最早や
未来に遠く約束されている希望ではないのである。

境遇の如何にかかわらず、環境の如何にかかわらず、刻々が生長であり、成功である。
今、何人も生長するように決定されているのである。何たる幸福ぞ!

されば「生長の家」では諸君の今もてる全生命を躊躇なく、
今に集中して活動せよと宣言するのである。

             (「光明の生活法」より)

        <感謝合掌 平成27年2月6日 頓首再拝>

[445] 土曜日の反省 〜 「吾既に世に勝てり」
伝統 - 2015年02月07日 (土) 03時14分

      *「聖光録」(毎週の反省)より

「この世に於て汝等は艱難に会わん。されど喜び勇め、吾既にこの世に勝てり」
とイエスは言い給いました。

これは現象界に於て彼の弟子達に来るであろう所の迫害に就いて言われたのでありましたが、
それにも拘らずイエスは直ぐそれに続けて「喜び勇め、吾既にこの世に勝てり」と言われました。

まことにも、艱難に逢遭せる人類が、唯一の光明を見出すのは、
此の「実相」は永遠に喜びであるからどんな艱難に面しても喜び勇めと言われた
イエスの言葉であります。

人この世に生まれて何の悩みも持たない人はいないのであります。
真に世界に「真理の光」を掲ぐるところの人は、必ず一度は世の中から迫害を受けて
衆愚の嘲笑の的になるのは普通であります。

併し乍ら之等のことは唯一時に過ぎないのです。
それは青空にただよえる浮雲の自壊して驟雨(しゅうう)となるときの雷霆(らいてい)の
”はためく”響きに過ぎないのです。

如何なる轟く雷霆も永遠に壊れない青空を破壊することは出来ないのです。
如何なる艱難よりも尚一層大なるところの善に向かう力なるものが
この世の中にあると云うことを光明思想家は発見しているのです。

神は愛であり秩序であり、調和であり、完全であり、唯一の実在であり給うと云う真理は、
その真理こそ唯一の実在であるが故にそれ自身を実証する時が来るのです。

イエスが「我既にこの世に勝てり」と言い給いし時の「我」とは、
「愛」そのもののことです。「愛」は永遠の勝者であって、如何なる艱難の時にも
「愛」に生き「愛」を生きるものは必ず打ち勝つのであります。

すべて勝者となった者は「愛」に生きたからであります。
すべて敗ける者は、真に愛しないからです。

十字架につけられたイエス・キリストは一時は敗者の様に見えたが、
実は永遠の勝者であったのです。

吾々が打ち勝つことができる時は、「愛」の真理を通してのみであります。
愛は人生の凡ゆる立場に於て道を開く所の鍵なのです。

若し人生の悩み多き苛烈なる経験に直面した時に、
「愛」は何を為すべきかを心の中に訊ねて見れば、
何を行動するのが正しい道であるかと云う事を知ることが出来るのです。

斯くして吾々は「愛」に依って本然の正しき道に導かれ、
正しき事物を為すことが出来、調和は維持せられ、
永遠の勝者なる道を歩むことが出来るのです。

               (「幸福生活論」より)

        <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>



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