[450] 『 生長の家 』 昭和26年2月号法語 谷口雅春先生(1)〜(28) |
- 明鏡 - 2015年02月09日 (月) 19時52分
『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 法 語 谷 口 雅 春 先 生
【 一日の法語 微小体は最も想念に感応し易い 】
人間が救いに到る道は無数である。
しかしそれには近い道と遠い道とがある。
一直線に到る道は 「 人間・神の子 」 と端的に覚えることである。
反対の方向へ向っていてさえも、やがて真理に到達することが出来るのは、
地球を東へ廻っていっても西へ廻って行ってもアメリカに到達することが
出来るようなものである。
物質科学を研究して研究し尽す時、ついに 「 物質は無である。それは想念の影である。」
と云う真理に到達するのである。
素粒子のような、微小体は 無の世界から 想念によって作られるのであるから、
「 中間子がある 」 と信じて実験していると 「 中間子 」 があらわれて来る。
【 二日の法語 愛を実現するのが人間の使命である 】
脚下照顧と云う言葉がある。
自分の生命が今何処(どこ)に立っているかと云うことを
省みよと云うことである。
自分の生命の立っているところが判(わか)らなければ、
何(ど)の方向へ向って行くのが 最も近道であるかと云うことが
わからないのである。
自分の生命が今立っている所が 「 神の子 」 と云う 「 場 」 であると云うことがわかると、
自分はただ 「 善 」 の方へ、 「 愛 」 の方へ、人々を助ける方へ、人々を悦(よろこ)ばす方へ、
人々にサービスする方へ向って行けば好いと云うことがわかるのである。
何人(なんぴと)の生命の奥底にも 「 愛したい 」 と云う念願が宿っているのである。
これを満足しない限り、人間は落着くことは出来ない。
【 三日の法語 神の生活を今生きよ 】
色々の物質的なもの、肉体的なものを得たならば
幸福が得られるであろうと思って、その一つを得て見ると、
暫(しばら)くは喜ばしい気持になれるけれども、
いつの間にか物足りなくなって他のものを求めたくなる。
五官の欲望はついにその程度のものであって、
根本的、十全的な幸福を得ることは出来ないのである。
本当に完全な飽くことを知らぬ幸福は
「 神 」 をわがものとすることによってのみ得られるのである。
神をわがものとすることは、
祈りによって神の叡智(えいち)と一体となり、
神の欲したまう如(ごと)く生き、
神の生活をわが生活として、
神の愛をわが愛とすることである。
【 四日の法語 類は類を招(よ)ぶ 】
人は動(やや)もすれば、自分の愛する人に対しては美点のみをみとめて賞賛するし、
自分の愛しない人に対しては欠点のみをみとめて非難しようとするけれども、
吾々が心に描いた姿は 「 類は類を招ぶ 」 という法則に従って、
欠点をみつければ、欠点が集って来るし、
美点を見つければ美点が集って来るのである。
そして結局、自分自身の運命に美点が集ってくる者は幸福になり、栄えるが、
自分自身の運命に欠点が集って来る者は不幸になり、衰微するのである。
想念が創造力をもっていると云うことを知るならば、
如何なる場合にも、人の悪を思い、且(か)つ噂(うわさ)することを慎まなければならぬ。
【 五日の法語 美点を選ぶか欠点を選ぶか 】
どんな人間にも、環境にも、美点があり、善き処があるのである。
又、どんな人間にも、環境にも悪しき処、みにくい処があるのである。
甲は周囲の人間及び環境から、よき処のみを認め、その善き処を吸収し、
善き想念のみを起しているのに、
その同じ環境にいて、乙は悪しき処のみを認め、悪しき処のみを心に吸収して、
悪しき想念感情のみを起しているとしたならば、
やがて甲の運命と乙の運命との間には大いなる相異が起ることは当然である。
人間の幸福というものは、ほんの僅(わず)かな やさしい言葉によって得られるのと同じように、
ほんの一寸(ちょっと)した憤激の情から破局を導き出して来る。
【 六日の法語 一番根本的な問題は 】
人間の中には、何人(なんぴと)にも 「 神 」 が宿っている。
どんな悪人と烙印(らくいん)を押された人にも 「 神 」 が宿っているのである。
だから、すべての人間は、一個の 「 神社 」 であると云うことができるのである。
神社に参拝して手を合わす人は沢山(たくさん)あるけれども、
人間を 「 神社 」 として合掌しない人は多い。
若(も)しすべての人類が人間互いに、内に神やどり給う 「 神の宮 」 即ち 神社として
礼拝することを始めるならば、世界には どんな種類の争いも、啀(いが)み合いもなくなり、
すべての家庭は幸福になり、すべての人間は健康になり、全世界は平和になる。
此の根本的な問題を忘れていては 凡(あら)ゆる計画も画餅(がべい)に等しい。
【 七日の法語 一念不動、実相の完全さを信ぜよ 】
吾々は如何なる仕事をなすにも、心をそれに集中して右を顧み左を振向きなどして
いてはならないのである。
吾々が神想観をするときには、一念不動ただ一事(じ) 「 吾れ神の子 」
「 われ霊的実在なり 」 の実相に心を集中しなければならない。
「 この ‘ 病気を ’ 今 治しつつある 」 などと、病気が ‘ 現にある ’ などと
考えてはならないのである。
‘ 現にある病気を ’ 想念することは 病想観になっているのであって、
神想観ではないのである。
現象界は、写真の焼付けみたいなものであって、あまり短時間だけ焼付けたのでは駄目である。
一定時間中は、ほかの原版と取換えてはならないのである。
【 八日の法語 最も効果ある祈り方 】
神の最高実現としての人間の使命は、
神が心に描かれた 「 完全人間 」 の像を地上に実現することなのである。
それを実現するためには先ず 「 人間の使命が神の 『 完全人間 』 の理想を実現するに
あるのだ 」 と云うことを自覚しなければならない。
人は自覚しただけのものを実現し得るのである。
しかし自覚が頭脳の表面だけではその実現力は弱いのである。
然(しか)らば 此の自覚を深めるには祈ること、又は神想観を行うことが必要である。
祈る場合には 「 神よ、この自覚を深め給え 」 では弱いのである。
「 神よ、われを神の最高実現として 凡ゆる点に完全に創造(つく)りたまいし事を
感謝します。」 と祈るべきである。
【 九日の法語 神の栄光は斯(か)く受けよ 】
神より来る栄光を受けようとのみ 受動的に待ちかまえるだけでは足りないのである。
「 待つ 」 と云うことは 必ずしも静(じっ)としていることではないのである。
神の子らしく愛を行ずること、神の子らしく清く正しく生きるべく努力すること、
その行と努力そのものが 神の栄光に波長を合わすことになるのである。
そして一方には、喜ぶこと、心を明るくすること、
その他 自分の知り得た光明生活法を実践すること、
現在受けている凡ゆる恵福を、どんな小さな事でも思い出して感謝すること、
これらはいずれも神の栄光を受信するための受入(うけいれ)態勢であるのである。
【 十日の法語 外界の困難は内部の力を招集する 】
人間の内部には、神の無限の可能性が宿されている。
それは自覚されれば 発現の最初の出口がひらかれるのであるが、
自覚するだけでは足りないのである。
出口へ押し出す力がなければならないのである。
それが努力である。
しかし努力は、あまり仕事が楽々としている場合には百%働かないのである。
ただ困難や苦痛に面したとき大いなる努力がなされて、内在の偉大なる力が搾り出される。
従って病苦の中に偉大なる著述をする人や、
牢獄(ろうごく)の中にいて大いなる仕事をする人なども出て来るのである。
外面的に人間が苦痛に面する時、心は内に向って働くからである。
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