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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[506]  『 生長の家 』 昭和25年3月号法語 谷口雅春先生(1)〜 (28)
明鏡 - 2015年03月01日 (日) 02時22分




( ※ 一日の法語 〜 二十八日の法語 謹写予定 )



【 一日の法語  神は到(いた)る処(ところ)に在(いま)す 】


神は到る処に みちみちていられるのである。

神は 無限の愛であり 無限の智慧であり 無限の生命であり、

常に吾らを その無限の愛をもって 護(まも)っていられるのである。


だから、神の無限の智慧と無限の力とは

いつでも自由に自分が利用する事ができるのである。


神は法則であり 法則は到る処にみちみちているのであって、

吾々が食事をする時にも、空気を吸う時にも、仕事をする時にも、

常に神は吾々の生活に利用される形でい給うのである。

法則は 吾々の内にあり、又 同時に外にあって、内の智慧なる法則を知る事ができるのである。




【 二日の法語  人間は神の意識的顕現 】



神は創造の力である。

常に間断なく一切のものを創造し給うていられるのである。


大規模な、大まかな大自然的現象は、自然界の法則によって神はそれを造り給うのであるが、

こまかい行きとどいた秩序的な方面は、人間を通して神の創造力が働き給うのである。


だから人間は神の創造力の最も精巧なる現れであり、神の最高顕現として、

また意識的顕現として一切の現象を支配する力を与えられているのである。


神だけでも宇宙の創造は完成しないのであって、

神と人間と相よって宇宙の創造は完成するのである。





[509] 三日の法語 ・ 四日の法語
明鏡 - 2015年03月02日 (月) 20時01分




【 三日の法語 】  法則は受動者であり 人間が主動者である



人間は自然界の法則を駆使して事物を創造する。


法則は 神の 「 受動的現われ 」 であり、

人間は 神の 「 能動的な現われ 」 である。


人間は主動者となって法則を支配して

一切の事物を自己の欲するままに創造することができる。


法則を支配するということは、

法則を無視するということではないのである。


法則の本性を活(い)かしながら

その法則によって自分の欲する事物を創(つく)り上げる。


人間は彫塑家であり、

法則は 粘土のようなものである。


彫塑家は 粘土の本性をそのまま利用しながら

自分の欲する肖像を造り上げるのである。





【 四日の法語 】  物質は法則の現われ



法則は材料であり、人間が創造者である。


だからどんな物質でも、それ自身は法則の現われであって、

毒になるとか薬になるとかというような自性(じしょう)はないのである。


砒素(ひそ)といえども それは必ずしも毒薬ではないのである。

それはその使いようによっては強壮剤ともなるし、害虫の駆除剤ともなるのである。


物質は自分自身で 「 自分は毒薬だ 」 と自分自身の本性(ほんせい)をきめることはできない。

人間がそれを毒薬にもし、強壮剤にもするのである。


だから物質には自性はなく、人間が主動者であるのである。




[514] 五日の法語 ・ 六日の法語
明鏡 - 2015年03月04日 (水) 20時59分




【 五日の法語  法則も智慧も神から来る 】



法則を駆使する所の力は 吾々の智慧から出て来るのである。

その智慧は 神から出て来るのである。


神は 自分自身を 「 法則 」 という受動的なものとして 吾々に提供せられるとともに

それを支配する所の智慧として吾々に宿って来ておられるのである。


法則と智慧とは 本来 「 神 」 に於(お)いて一体であるが故に、

智慧は 法則を理解することができるのである。


だから心をすまして静かに神の声をきけば 智慧が自(おのず)から湧(わ)き出て来、

法則を利用してどんな立派な発明でもできるのである。





【 六日の法語 】  神を内に自覚する時、力が湧き出(い)でる



神は 常に吾と ‘ とも ’ にあるのである。

いつでも吾々がそれを自覚する時、

神の力が湧き出て来るのである。


求めよ さらば与えられん。たずねよ さらば見出(いだ)さん。

叩(たた)けよ さらば開かれんと教えられているのも、そのためであるのである。


神は一見不幸と見えるものから幸福を引き出し給(たま)う力である。


冬枯れの荒涼たる山野から 燃えるように色鮮かな緑を萌(も)え出だし

美しき赤や紫の花を咲かし給う力があるのである。


その如(ごと)く 悲しみを喜びに変え、不幸を幸福に変え、

貧しさを豊かに変貌(へんぼう)し給うのが神である。





[519] 七日の法語 ・ 八日の法語
明鏡 - 2015年03月06日 (金) 21時27分




【 七日の法語 】  失業は他(ほか)の地盤に魂の栄養を見出(みいだ)さんがため



失業を恐れてはならない。

神が今までの仕事を停止せしめ給うたのは

他にもっと重要な仕事があるからである。


もうすでに今迄(まで)の職業から得られる限りの養分を

あなたの魂は 吸収し得るだけ吸収し尽くしたからである。


だから神は新たに尚(なお)一層 栄養多き地盤(じばん)にあなたの魂を

培(つちか)わんがために今迄の職業の所からひきぬき給うたのである。


もしこの時あなたが絶望して心の波長が神の導きと合わなくなるならば

あなたは本当に幸福を失う。


然(しか)し失業の中に 神の導き と 祝福 とを感じて感謝することができるならば、

あなたは間もなく新しき職業を発見する。





【 八日の法語 】  職業を得るには心を明るくせよ



職業を得(え)んとする者は まず明るい雰囲気をもたなければならない。

その人が ただいるだけでも、周囲の人の能率をあげ得るような明るい雰囲気をもつ人は、

誰(たれ)でも その人を雇いたくなるのである。


又(また)そういう人が独立して商売するならば

誰でも そんな店へ行って買いたくならずには いられないのである。


更に職業を得る道は 今ある事物に忠実であるということである。

小さな日常茶飯事(さはんじ)に感謝して誠実につとめ得るものは、

人がみとめて職業を与えずにはいられないのである。




[523] 九日の法語 ・ 十日の法語 
明鏡 - 2015年03月08日 (日) 21時19分




【 九日の法語 】  明るさは最大の美徳である



明るさは何よりも最大の美徳である。


グレン・クラーク教授がある大学で運動のコーチをしていた時、

一人の選手が打ちつづく失敗にしょげかえって、

憂鬱(ゆううつ)な表情をしてかがみこんでいる時に、


「 君は何も悲観するには及ばない。吾々のチームは君一人だけが失敗しても

全体の得点が多ければ勝利することができるのだ。

君は 他の選手達に明るい気持ちを吹きこんでやる役目になれ。

愉快に選手達の背中をたたいて喜んでやるようにするのだ 」 と教えた。


するとその選手は その次の競争の時に第一着を得たのである。





【 十日の法語 】  明るい心が幸福の根元である



心が愉快であれば 心臓が充分活動し、呼吸は深くなり、

血液が浄(きよ)まり、筋肉は疲労せず、頭脳の働きも にぶらない。


従って 運動競技には 優勝を得、精神的な仕事にも よき考えが浮んで

人生の勝利者となることができる。


明るき心には 波長の共鳴の原理によって、明るきもの、楽しきもの、愉快なるもの、

凡(およ)そ 見て楽しく喜ばしきもののみが集って来る。


神は 「 喜び 」 であり、神の喜びが自分を通して表現されつつあるのである。

喜びを表現しないものは 自己に宿る神を窒息せしめつつあるものである。





[526] 十一日の法語 ・ 十二日の法語
明鏡 - 2015年03月10日 (火) 22時16分




【 十一日の法語 】  彼を神の御手に預けるよう祈れ



自分の愛するものが失敗しようとしており、それによき忠告を与えてやろうと

しているのに、その忠告に従わず 遂(つい)に愚かなる破滅の淵(ふち)に沈もうと

しているのをみることは まことに吾らにとって堪(た)えがたき悲しみである。


然しながら そんな場合にも思い煩ってはならないのである。

吾々も亦(また)目上の者からみたら、そのようなあぶない墜落しそうな道を

幾度歩いて来たかも知れないのである。


然し神はいつの間にか吾々をその危険の淵から導き出し、

現在の安泰なる境遇に置き給うことができたのである。


神は決して誰一人をも見逃し給うことはないのである。

彼も亦神の救いの御手の中にあるのである。





【 十二日の法語 】  神は一羽の雀(すずめ)も見戍(まも)りたまう



「 吾々の髪の毛の一本一本だに神によって見逃されるということはないのである。

一羽の雀も 神の赦(ゆる)しなくしては 地におちない 」 とキリストは教えているのである。


愛する者が失敗しようとしているのを嘆くことは いらぬのである。

その人は失敗するようにみえていても 神が導いて訓練していられるのである。


神は決して その人から目を放ち給うことはないのである。

あなたの智慧の導きよりも 神の導きは もっと正しく彼を導くのである。


神に祈れ。 「 彼をあなたの完全なる智慧によって導き給え 」 と。





[529] 十三日の法語 ・ 十四日の法語
明鏡 - 2015年03月12日 (木) 22時29分




【 十三日の法語 】  目が覚めると先(ま)ず神を思い起せ



毎朝 目が覚めたら まず神を思いおこすべきである。

然(しか)らば 神も亦 あなたを思い起し給(たま)うであろう。


否、寝ている間も 神は吾(われ)らを導き給うていたのであるが、

今や吾らは意識的に神に波長を合わせるのである。


静かに坐(ざ)して感謝の言葉を念じ、神想観をして

「 神の完全なる智慧(ちえ) 吾を導き給う 」 と念ずるのである。


こうして一日の最初を神の智慧に波長を合わして出発する時は、

神は内から 「 自然のよき考え 」 となって導き給い、

外から人々の自然の動きとなって もっとも適当なものを成就せしめ給い、

また、不適当なものを妨げる働きとなって出て来るのである。





【 十四日の法語 】  他(ほか)から妨げられるのも神の導きである



神の智慧に頼るものは、自分の動きが たとい他から妨げられることがあっても、

それに対して不平をおこす事はないのである。


汽車にのり遅れても、あの汽車にのれなかったので何か不測の災に

出くわす事を避けることができたのだと感謝するのである。


自分にとって適当でないものが自(おのず)から妨げられて行く所に

本当の神の導きがあるのである。


自分のする事 何でも彼(か)でもやりとげねば 神の子らしくないと思うのは

「 我 」 の考えにすぎない。





[532] 十五日の法語 ・ 十六日の法語 
明鏡 - 2015年03月14日 (土) 23時23分




【 十五日の法語 】  そのままの心が神に一致する



心が型に捉(とら)われず、偏らず、かたくなにならず、すなおに、

そのままに、のんびりとなっている時に 神の智慧と本当に一致するのである。


湯川秀樹博士が中間子理論を思いついたのも 夕食後 何ら型にとらわれず、

そのままの気持で、のんびりと自由にしていた時に よき考えが思い浮んで来たのである。


力む事は 神の波長に対して不導体になるのである。

そのままが最も善いのである。

道元禅師の身心脱落、脱落身心の境涯である。


「 我 」 という力みが すっかりなくなってしまった時、

宇宙全体の智慧の波と波長が合うのである。





【 十六日の法語 】  神は 光である



神は光である。どこにも暗(やみ)はないのである。

困難な問題に直面した時には、常に

「 神は光である。あなたの光をもって吾を導き給え 」 と念ずるようにすることは

自分の内に宿っている神の智慧を目覚めしめるに 非常に効果ある方法である。


もしあなたが神の智慧の方へ振り向くならば 一瞬の中(うち)に、

神から射(さ)してくる光は 事件の全体を照して、

直ちに その事件を光明化してしまうことができる。


恐怖は暗黒である。

恐怖心をすてなければ 本当に光をみることはできない。

恐怖心がおこるのは まだ本当に神を信じないからである。





[534] 十七日の法語 ・十八日の法語 
明鏡 - 2015年03月16日 (月) 19時41分



【 十七日の法語 】  自己に光を点(とも)すには



キリストは 「 吾は 世の光 として 来れり 」 といっていられるのである。

自己の中にキリストを見出(みいだ)す時、

そこには何らの悲しみの影も 憂鬱(ゆううつ)の影も あり得ないのである。


神の光を受けるには、 「 与えるものは 与えらる 」 の法則に従って、

自分自らが 他の人に光明を与えるものとならなければならないのである。


まず 喜びの微笑(ほほえみ)を与えよ。人に慰めを与えよ。

人々に希望を与えよ。深切を与えよ。

そこからあなたの魂の明るさが生まれて来るのである。





【 十八日の法語 】  神を生きる自分



吾が生活は 神の生活である。

吾が身は 神の身である。


吾が全身の細胞は 頭の先から足の爪先(つまさき)に到(いた)る迄(まで)、

神の霊にみたされているのである。


それ故に永遠に新生し、永遠に復活し、常に若く、常に愉快に、

常に健かなる力が みちみちているのである。


神の癒す力が 我が全身に みちみちているが故に、

自分の全身の如何(いか)なる部分も老いるということはないのである。


神の癒す力は 自分の中に宿ってい給うが故に わが話す言葉は人々の病を癒し、

人々の運命を幸福にする力が宿っているのである。


常に神は わが血液とともに全身をめぐる。

わが全身は常に健やかであるのである。





[537] 十九日の法語  ・ 二十日の法語
明鏡 - 2015年03月18日 (水) 22時33分

 

【 十九日の法語 】  自分の心が変れば周囲が変る



真の人間は 肉体ではないのである。

自分自身は 「 生命 」 である。


「 生命 」 が動いて 「 心 」 となって現われ

「 心 」 が動いて 肉体となって現われるのである。


されば如何に生命を動かすか、如何に心が動くかということが

大切な問題であるのである。


自分の心の通りの世界が現われるのである。

自分の心が不幸であれば自分は不幸であり、

自分の心が幸福であれば、自分は幸福であるのである。


吾々は 自分の運命を変化するために

他人の心を変えなければならぬことはないのである。

自分自身の心が変れば 周囲が自から変るのである。





【 二十日の法語 】  周囲の光景は自分の心の影



周囲が自分に対して けわしいのは

自分の心の中に けわしいものがあるからである。


周囲が自分に対して荒っぽくあたって来るのは

自分自身の心の中に荒っぽいものがあるからである。


吾々は 自分が幸福になろうと思ったならば、自分の心が輝いて、どんな人に対してでも、

その人の内に宿っている 「 神性 」 又は 「 仏性 」 をみなければならないのである。


立ち向う人は 心の影として現われるのであるから、

吾々は彼の姿をみて、彼の本当の自分を見出すことができないのである。


吾々は、谷に対して叫ぶが如(ごと)く ただ自分の言葉の反響を聞いて

それを相手だと思うにすぎないのである。


自分の口より出(い)ずる言葉が やさしければ

相手から出る言葉も やさしいのである。





[540] 二十一日の法語 ・ 二十二日の法語 
明鏡 - 2015年03月20日 (金) 22時13分




【 二十一日の法語 】  肉体の死は 「 滅ぶべきもの 」 からの脱却である



病気の真っただ中にいても 健康なる自分を見出(みいだ)すのが智慧(ちえ)である。

不幸の真只中(まっただなか)にいても 幸福を見出すのが智慧である。


釈迦(しゃか)は 涅槃(ねはん)に入る時、

自分は永遠に死なないものであるといったのである。

彼は 肉体の死の中に 永遠の生命をみたのである。


肉体の死は ある意味から云(い)えば

「 死すべきもの 」 からの脱却であるということができるのである。


だから肉体の死は 永遠の生命と密接につながっているものである。

肉体の死とともに 人間は 「 滅ぶべきもの 」 から解き放たれるのである。





【 二十二日の法語 】 心の種子(たね)は 蒔(ま)いた時 既に発芽しつつある



吾々の祈りは、それが真に自分の求むる魂の叫びであるならば必ず聴かれるのである。

その祈りが尚(なお)きかれないからといって失望してはならないのである。


種は土の中に蒔かれた時 すぐには発芽しないでも、

もうその種の中には発芽すべき化学変化が行われつつあるのである。


実際に目に見える変化の前に、目に見えない変化が行われるのである。

だから心静かに信じて待って 信念を失わないことが必要である。





[541] 二十三日の法語 ・ 二十四日の法語
明鏡 - 2015年03月22日 (日) 18時24分



【 二十三日の法語 】  不完全な姿は 本来ない



吾れは 吾が願いを 神の愛の み手の中に委(ゆだ)ねるのである。

神の愛は 吾が希望の種子を保護し、あたため、ふくらませて下さるのである。


神の智慧は 何時(いつ)形の世界に その希望が芽をふくのが適当であるかを

知り給(たま)うのである。

神は 常に吾を護(まも)って導いて い給うのである。

吾は 神より その時 その場に 適当な智慧を与えられるのである。


現象に尚 不完全なことが現われて見える時にも、

不完全な姿は 本来ないのであって、

神の善が現われて出ようとする前兆にすぎないのである。

破水するのは出産の前徴である。





【 二十四日の法語 】  すべての人々を礼し敬せよ



吾々は 自分自身を神の子だと認めるだけでは足りないのである。

すべての人々を神の子であると信じて、礼し敬しなければならないのである。


神を見るということは、瞑目(めいもく)、精神統一中に ある幻を見ることではないのである。

すべての人々の中に 神の姿を見なければならないのである。


自分の身辺にいるすべての人々を、観世音菩薩(ぼさつ)の示現であると見、

イエス・キリストの再臨であると見るのである。


他(ほか)の人を敬する者のみが敬せられ、

他(た)の人を礼する者のみが礼されるのである。


与えるものが与えられ、奪うものが奪われ、

拝むものが 拝まれて仏である。





[544] 二十五日の法語 ・ 二十六日の法語
明鏡 - 2015年03月24日 (火) 19時13分



【 二十五日の法語 】  我は 到(いた)る処(ところ)に唯(ただ)善のみを見る



凡(あら)ゆるものの中に 神がみちみちていられるのであるから、

吾々は 神から逃げだすことはできないのである。

神は善であるから 吾々は善から逃げだす事はできないのである。


されば 心の眼(め)を開いて見れば 吾は到る処に唯 善のみをみるのである。

神は自分の智慧であるが故に、吾は到る処に神の導きを見るのである。


静かに坐(ざ)して考うる時 吾は神の声をきくのである。

神は吾が内に宿って い給うのである。

吾は神の愛を吾がうちに感じ 神を吾が内に抱き 神から又抱かれているのである。

神の愛は決して私を裏切るということはないのである。





【 二十六日の法語 】  神から来る赤信号



もし何かの不調和が外界に現われて来たならば、

それは 何か 自分の心か、言葉か、行いかが神から はなれたものであったからであるのである。


それは神から与えられた 「 一種のストップ信号 」 であるのである。

自動車が十字街を横切ろうとした時、ストップ信号に出あえばその車をとめるように、

吾々の環境に面白からぬことがでて来た場合には、それをストップ信号と思って

今迄(まで)の生活の惰力をやめ、考え方を変え、言葉を変え、生活の動きを

変えるようにしなければならない。


その時、自動車の運転手が 静かに左右を見廻(まわ)すように、

静かに坐して神の声をきかねばならぬ。


どんな困難でも心が静かになる時、解決の方法が見つかるのである。





[554] 二十七日の法語 ・ 二十八日の法語
明鏡 - 2015年03月26日 (木) 19時25分



【 二十七日の法語 】  神の愛は宇宙の到る処にみちみちている



神の愛は 宇宙の到る処にみちみちていて 吾らを護り給うのである。

吾々の一本の毛も悉(ことごと)く神の目から見逃されるということはないのである。

そのことに吾々は信仰をもたなければならない。


何か紛失物があったならば 静かに坐して

「 神の愛の中には 見失われるものは何一つないのである。

私のものは 私と一体にあるから必ず返って来るのである。

神は すでに吾が祈りに応(こた)え給うたのである 」 と念じて


静かに感謝の言葉を念ずるようにすると

思いもうけぬ所からその紛失物が現われて来ることがある。





【 二十八日の法語 】  病気を癒(いや)すには



吾々が何か病気に罹(かか)っているならば それは決して神がこしらえた病気ではないのである。

それは唯 自分の心の影であるから、心を平和に落着けて合掌して


「 神はすべてのすべてである。

神は善であるから神の造り給いし世界には病気はないのである。

自分の体は神の完全なる生命の最高の自己実現であるから

病気になどなる筈(はず)がないのである。

病気は自分の心の迷いである。今自分は心の迷いを去って

神の姿そのものの完全なる姿をみるのである 」


かく心の中(うち)に深く念じて 神の姿そのままに完全な自分の姿を

心に描いてみつめるようにするならば やがてその病気は消えてしまうのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十八日の法語  谷 口 雅 春 先 生 


( ※ 一日の法語 〜 二十八日の法語 了 )






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