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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[613] 【 聖詩 】
伝統 - 2015年04月16日 (木) 04時39分


・・・

以前、別の掲示板に掲載いたしまいたが、すでに消滅しておりますので、
ここに、あらためて掲載してまいります。

・・・

《生命の歌》

 ある日

 輝く光明が

 わが胸に降って来た。

 頭にも、

 手にも、

 足にも、

 花が降るようにおちて来た。

 わたしは光のうちに埋(うずも)って

 呼吸(いき)苦しいほど光明を吸う。

 やがてそれがわたしに「生命(せいめい)」だとわかった。

          <感謝合掌 平成27年4月16日 頓首再拝>

[615] 《天使の声》
伝統 - 2015年04月17日 (金) 04時05分


 ある日、わたしは心の窓を開いて、

 大生命のみ空から光線のように降りそそぐ生命の讃歌に耳を傾けた。

 ああ! 声のない奏楽、声を超えた合唱

 けれどもわたしはその声を聞いていた。

 宇宙の囁き、神の奏楽、天使のコーラス。

 わたしの 魂は虚空に透きとおって真理そのものと一つになった。

 なんという美しい旋律だろう。


 「これが真理そのものか!」とわたしは恍然(こうぜん)として嘆声を漏らした時、

 「お前は実在そのものだ!」

 わたしはこう言って天使たちがわたしを讃える声を聞いた。 

          <感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>

[617] 《太陽の讃歌》
伝統 - 2015年04月18日 (土) 04時05分


 私が昔見た光は
 月光を浴びて幽谷を流れる水であったのに、

 今、わたしの見る光は
 旭日(きょくじつ)を映した大海洋になっている。

 いつのまに、
 こんなに大きな海原に出て来たのか私は知らない。

 ただわたしは
 海の波のその一つ一つが、
 唇をそろえて太陽をたたえる、
 その讃歌を聞くのみだ。


 ああわたしも
 太陽を讃えたくなった。

 太陽をほめる千万(ちよろず)の波の唇と共に
 わたしも声をそろえて
 生命の讃歌をうたおう。


 太陽を讃えているうちに
 わたしは波の歌う歌詞ににあわせて踊りたくなった。

 太陽の光を斜(はす)かいにうけて、 
 海の上を辷(すべ)っていく
 あのあかね色に染んだ帆かけ船のように、
 わたしも海の上を辷って行きたくなった。


 帆かけ船の上には
 一人のたくましい赤銅色の肌をした漁夫(りょうし)が
 歌いながら踊っているのだ。

 その漁夫の顔を見詰ていると
 それがわたしであった。
 わたしはただ歌って踊っているだけで好いのであった。


 生命の大海洋が
 わたしを乗せた帆かけ船を
 やっぱり生命の讃歌をうたいながら

 押しながしてゆく海の上に
 烈々たる太陽が砕けて、
 海洋一めんに火が燃えているのであった。

          <感謝合掌 平成27年4月18日 頓首再拝>

[619] 《花園にて》
伝統 - 2015年04月19日 (日) 02時45分


 ほのかにも匂う
 朝の香り
 紫の香り
 さがりふじ
 あがりふじ


 藤棚に
 もくもくと葉が栄えて
 藤蔓(ふじづる)は天に向う、
 わたしは伸びるほかは知らないと云うように
 藤蔓は渦巻きて天に向う。


 花びらが地に落ちている。
 真赤な花びらだ。
 真黒な土の上に
 地のような赤さだ。
 落ちてもなお生きている生命だ。


 雛菊(ひなぎく)が
 花園で呼吸している。

 太陽を思うさまあびて
 友達の色々の草花と
 ゆらゆらと
 一斉に揺れている。 

 生命の歓喜だ。

 太陽の讃歌だ。 

          <感謝合掌 平成27年4月19日 頓首再拝>

[623] 《生長の家々》
伝統 - 2015年04月20日 (月) 04時23分


 今日から
 誌友の家々を
 「生長の家々」と呼ぼう。


 わたしは信ずるのだー
 「生長の家々」はさかえるぞと。

 一ぺんに大木ならないからとて
 あなたの家(うち)はもう生長する家(いえ)に定められているのだ。

 この仕事は、
 人間の家々を皆な「生長の家々」にする為に
 神がはじめた仕事なのだ。


 わたしは「生長の家」の教祖ではない。
 「生長の家々」の一軒だ。

 わたしの内にいます神が、
 書けと云うとおりに
 私は書いているだけだ。

 私は神が書かせた通りに
 行なうと努力しているだけなんだ。

 私は神を信じて
 ただ結果を待っているだけなんだ。

 「生長の家々」のことを思うと
 わたしは嬉しさで一ぱいだ。

          <感謝合掌 平成27年4月20日 頓首再拝>

[625] 《朝の太陽》
伝統 - 2015年04月21日 (火) 04時11分


 
 早晨(そうしん)

 日光が樹間(このま)からさしのぼる。

 生命(せいめい)そのもののような光だ。

 うれしい!

 自分が一個の生命(せいめい)であることが

 うれしい!

          <感謝合掌 平成27年4月21日 頓首再拝>

[627] (《あらゆるところに神を見出す》)
伝統 - 2015年04月22日 (水) 04時31分



  神は光である。
  わが室(へや)の窓の外に、
  神の光は待つてゐるのである、
  倦(う)まず撓(たゆ)まず。

  私はいつまで神が其処に居ることに気が付かなつたらう。
  神は私がその窓を開くのを待つてゐるのだ。
  神はゐないのではない。
  私が心の窓を開かなかつたのだ。
  ― 光は私の内にある


  誰かが戸を叩いてゐる。
  神が私の家の門口に来て戸を叩いてゐるのだ。
  私は神を求めなかつたのに、
  神は私を求めてゐ給うたのだ。
  私は何と云ふ親不孝者だつたのだらう。
  私が神の膝に跳び付きさへすれば全ては与へられてゐるのだ。


  神のないところに生命はない、
  神のないところに美はない、
  神のないところに智慧はない、
  神のないところに愛はない、

  其処に生命があり、美があり、智慧があり、愛があると云ふことは、
  其処に神が在(いま)すと云ふことである。
  斯くて私は凡ゆるところに神を見出す。

  すべてのものに、自分の外に、自分の内に。
  まことにも神詰ります世界である。

          <感謝合掌 平成27年4月22日 頓首再拝>

[630] 捨身の讃え
伝統 - 2015年04月23日 (木) 04時20分



 身を捨てて 
 浪の上に、
 まかせ切って、 

 蒼空(あおぞら)を見る時、 

 何もない! 

 そしてすべてがある。 

 空にして実、 
 実にして空、 

 そして生きていて、 

 沈まない、 
 不思議な存在 

 それが「私」である。

          <感謝合掌 平成27年4月23日 頓首再拝>

[632] 朝(ちょう) 讃 歌 
伝統 - 2015年04月24日 (金) 03時21分


 朝 東方に面して
 合掌礼拝して

 霊々
 妙々
 円満の大生命を観ずれば

 心身清浄(しょうじょう)
 微妙(みみょう)の大生命は
 雰囲気となって

 我が身 我が心をひたす。


 吾れと その雰囲気と
 一体にして界(さかい)なし

 ああ 讃(たた)うべきかな生命
 われが生命である歓(よろこ)びよ。

 生かされている!

 生かされている!

 生かされている!

 生かされている此の歓びを
 心にみたして眼(まなこ)をひらけば

 眼前に
 朝の太陽は微妙(みみょう)の光をはなち
 庭の木(き)の若葉に生命が照り輝く。


 若葉の生命の中を
 別にまた一つの生命が躍(おど)っている。

 雀(すずめ)が金色(こんじき)に輝いて枝から枝へ飛びうつる。

 空気が躍っている。

 内も外も
 燦然(さんぜん)たる生命の大光明世界だった。

          <感謝合掌 平成27年4月24日 頓首再拝>

[634] 野の百合の生きる道
伝統 - 2015年04月25日 (土) 04時33分

 野の百合の如(ごと)く自分は生きたい。
 野の百合は労(つと)めず紡(つむ)がない。
 野の百合に野心はない。
 野の百合は平和である。


 野心のあるところに平和は来(きた)らない。
 世界に平和を持ち来(きた)したいと云(い)う野心にしてもだ。
 野心によって平和が来ると思うのは、
 木に縁(よ)って魚をもとむるの愚に等しい。


 自分も世界救済の導師になろうと思ったことがある。
 世界救済の導師となるには、
 自分はひろく世間にみとめられねばならない。
 自己宣伝、手段、方便、策略が続出する。


 おお見よ、吾が敬愛する『懺悔の生活』の導師にしても、
 かれは『懺悔(ざんげ)の生活』を説きながら、
 かれは『謙(へりくだ)りの生活』を説きながら、
 その機関誌の第一頁(ページ)を飾るものは、
 自己吹聴(ふいちょう)のほかに何があるか。


 みずからを謙(へりくだ)るものは、
 黙々として『道』にある。
 野の百合は高座から『道』を説かない。
 かれは唯『道』を生きている。


 『道』は近きにある。
 野の百合は与えられた谷間に安住して、
 与えられた養いを吸いながら、
 みずからに許されただけの美しい花を開いて、
 枯れる時が来れば黙って枯れる。


 かれは与えられた谷間から出ようとは思わないし、
 与えられない養(やしな)いを吸おうとも思わない、
 与えられたままの色と形との花を開いて、
 天命からハミ出そうとは考えない。
 茲(ここ)に『道』がある。
 野の百合は『道』を生きている。


 野の百合は人を救おうとは思わない。
 かれは自分で『道』を生きるだけである。
 『道』を問うものがあれば、
 黙って自分の『生活』そのもので答える。


 自分は千万円を手に入れて、
 あらゆる世界の貧民をば、
 もう再び困らないような施設を造ってやりたいと、
 はずかしいがこんな野心をもったことがある。


 それには先ず金をこしらえねばならない。
 どうしたらそれだけの金が出来るか。
 考えると夜の目も眠られないで、
 貧しい人の生活が目にちらつく、
 富豪の豪奢(ごうしゃ)な生活が目にちらつく。


 貧民への憐憫(れんびん)、
 富豪への呪詛(じゅそ)、
 それが愛であるにしても憎しみであるにしても、
 それが煩悩である限りに於(おい)て、
 自分を縛(しば)る枷(かせ)であることに於ては一つであった。


 煩悩のあるところに平和はない。
 みずからさえ平和を得られないで、
 世界に平和がもち来せるか。
 −−多くの社会革命がその目的を達し得なかった理由が此処(ここ)にある。


 されど見よ、茲(ここ)に真に平和の道がある。
 野の百合は貧民を救うための
 運動費を儲けようとは思わない。

 試みに野の百合の前に立って、
 『兄弟よ、俺は飢えている、救って呉れ』と呼んで見よ、
 百合は唯自己のもてる限りの球根を差し出して、
 『兄弟よ、これで満足して呉れ』と云うであろう。


 茲に真の『道』がある。
 茲に真の『安住』がある。


 野の百合は『道』を説かず、
 また千万円を『貧民』のために施そうとは思わない。
 かれは与えられた谷間で、
 与えられた養分に満足して、
 天命のあるだけの生活を営みつつ、

 虚偽も策略も権謀も術数も大乗も小乗もなく、
 社会改革者になろうとも思わないで、
 又世界救済の大導師になろうとも思わないで、
 凡人の如く生きている。

 その生活そのままが大導師である。
 茲に『道』がある。
 それは凡人の生くる道である。
 誰にでもしようと思えば今から出来る道がある。
 誰にでも出来る道でなければ道ではない。
 野の百合の生きる道−−おお茲にその道がある。


 自分は今からこの道を歩みたい。
 自分は今からこの道を歩みたい。


 『けれども世の中には色々の役者が要(い)る。
 皆なが野の百合になって了(しま)ったのでは
 世の中が成り立たない。
 進歩は野の百合でありたくない人から生まれたのではないか。』
 こう云って自分の妻は尋ねる。


 『おゝ進歩?
 お前は夢を見ているのだ。
 この世の中が人間の野心によってどれだけ進歩したか。


 高い高層建築物、
 これが進歩か?

 美しい模様ビロードのリオン・ショール、
 これが進歩か?

 驚くべき多数の医学博士、
 これが進歩か?

 世間はお前の云う通り進歩したが、
 お釈迦さまの生まれた三千年の昔から、
 その進歩にも拘らず人間の悩みがどれだけ減ったか。


 進歩すればするほど人間の悩みは増すのだ。
 その原因をお前は考えて見たことがあるか。
 それはその進歩が人間の野心によって支えられた進歩だからだ。

 野心を放下せよ。
 そこに進歩でない進歩、魂の進歩がある。


 自分は野の百合の如く生きたいと云うけれども、
 自分の云うのは万人に野の百合になれと云うのではない。
 お前はお前であれ、
 そこに平和と安住とがあると云うのである』


 野の百合は薔薇の花を咲かそうとは思わない。
 野の百合は自分に許されただけの花を開く。
 そこに無理がない。


 野の百合はその根に馬鈴薯(ばれいしょ)を生もうとは思わない。
 野の百合は自分に許されただけの百合根を生む。
 そこに無理がない。


 これは野の百合でないものについても同じことだ。
 薔薇が薔薇の花を咲くのは当然過ぎる。
 薔薇が自分の云う『野の百合』的に生きる時、
 無理も野心もなしに薔薇の花が咲ける。


 社会革命家よ、
 世界救済の大導師よ、

 無理と野心とを捨てても尚、
 百合がおのずから百合の花を開くように、
 薔薇がおのずから薔薇の花が咲けるように

 何の無理もなしに素直に
 君が革命や救済に成就し得るならば、
 それもまた『野の百合』の生きる道である。

          <感謝合掌 平成27年4月25日 頓首再拝>

[635] 爾のうちの神を生かせ
伝統 - 2015年04月26日 (日) 03時03分


貴方(あなた)はもっと深切にならなければならない。
何事にももっと行届(ゆきとど)いた愛を有(も)たなければならない。
小さなことでも慎まねばならない。

貴方の性格上の欠点は
常にこれ位のことは善(よ)かろうと
何でもも好い加減のところで済まして置く所にあるのだ。

ちょっとぐらいどうでも好い。
ちょっとぐらい汚れ(よご)れても好い。
ちょっとぐらい皺(しわ)がよっていても好い。
ちょっと位乱暴でも好い。

私は、このちょっと位が嫌いなのだ。

神は愛であるから、
神は深切であるから、

貴方がほんとに神を信ずるならば、
何をするにも、その仕事を愛しなければならぬ。
何をするにも、その仕事を深切にしなければならぬ。

行届いた愛で仕事をするとき、
深切な心で仕事をするとき、
貴方の内にある神が生きて来る。

「ちょっとぐらいどうでも好い」

毎日貴方はこう云って
貴方の内にある神を殺してはいないか。

          <感謝合掌 平成27年4月26日 頓首再拝>

[637] 神の御手
伝統 - 2015年04月27日 (月) 04時27分


神は吾々に指し伸ばされた救いの手だ。

いつまでも、
いつまでも、
その両手を開いて待っている。

すべての神の子よ吾に来(きた)れと。
併し、神の子はみ声が聞こえないのか眠っている。


神は吾々の戸口をコトコトと訪(おとな)う手だ。

コトコトと、
コトコトと、
その訪う物音が聴こえている。

すべての神の子よ、内より戸を開けよと。
併し、神の子はみ声が聞こえないのか眠っている。


神は吾々の病を医(い)やす薬の手だ。

内部から、
内部から、
神の医やす手は間断なく吾らに働く。

すべての神の子よ、吾れに頼れと。
併し、神の子はみ声が聞こえないのか眠っている。


神は吾々の行手を導く案内の手だ。

暗のなかを、
暗のなかを、
神の叡智の光が一白道(ぴゃくどう)を描いて吾らを導く。

すべての神の子よ、われに従えと。
併し、神の子はみ声が聞こえないのか眠っている。


見よ、ただ見よ、
ただ汝自身の實相を。

「實相、實相」と念ぜよ!
念じ念じて實相に一致せよ。

光明さんらんたる
なんじ自身を見出すであろう。

          <感謝合掌 平成27年4月27日 頓首再拝>

[638] 光への道
伝統 - 2015年04月28日 (火) 02時48分


もっともっと気高く生きよう。
最も気高いことのほか何事も考えまい。
最も気高いことのほか何事も為すまい。


他(ひと)を助けよう、
他のためになろう。
他に愛を注ごう。


愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。


悪い人と云うのは本来一人もいない。
地獄というものも決してない。

悪いことが其処に語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。


汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、

天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥って地獄へと墜落せん。


          <感謝合掌 平成27年4月28日 頓首再拝>

[640] 光明と暗黒
伝統 - 2015年04月29日 (水) 03時21分


君は絶えず暗黒を撒いて歩く
不快な人間を見たことはないか、

君は眉をひそめた
悲しい表情の人々に接したことはないか、

君は表情が、
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


悲しい表情をした人間は
悲しみを撒いて歩く、

不快な表情をした人間は
不快を撒いて歩く、

それは黴菌を撒いて歩くよりも
尚大きな罪悪である。


また君は絶えず光明を撒いて歩く
愉快な人間を見たことはないか。

君は絶えずその唇に
幸福な微笑をだだよわし
逢う人毎に
幸福をうつして歩く人間を見たことはないか。

君は表情が
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


君は与えるものがないことを
嘆いてはならない。

君は与えるものがなくとも
幸福な表情を与えることが出来るのだ。

子供の顔を見るとき
良人の顔を見るとき
妻の顔を見るとき

兄弟の顔を見るとき
姉妹の顔を見るとき

八百屋に挨拶するとき
風呂場で知った人に遇うとき

君が幸福な表情さえすれば
君は幸福を与えて歩く。


幸福な表情をした人間は
幸福を撒いて歩く、

愉快な表情をした人間は
愉快を撒いて歩く

それは物を与えるよりも
一層好い贈物であるのだ!

          <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

[641] 生命群像
伝統 - 2015年04月30日 (木) 04時09分


此の生命群像の美しさ、

始めに言葉ありき、
言葉は即ち神なりき、

されど吾は今も尚言葉は神なりと云う。

一切のもの言葉によって成る、
言葉にいのちあり、
言葉は常在久遠のいのちなり、

釈迦なり、キリストなり、
名号なり、題目なり、

如何なる貧しき者にも
悲しめる者にも嘆ける者にも
ひとしく汝曹(なんじら)すべての者のうちに

久遠の言葉は宿る、
久遠の釈迦は宿る、
久遠のキリストは宿る。

          <感謝合掌 平成27年4月30日 頓首再拝>

[642] 裸身の讃え
伝統 - 2015年05月01日 (金) 06時17分


海水浴からあがったとき
すべての人間が
極めて愛すべき
憎めない
兄弟だと云う考えが

ポッカリと私の頭の中に
浮びあがった。


ああ!
海の水は私を裸身にしたのだ。

裸身になったとき、

私の實相があらわれて、
みんなが愛すべき兄弟である
實相が判ったのだった。

          <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

[643] 新年の太陽
伝統 - 2015年05月02日 (土) 04時14分


太陽 ――
はじめて見る、ぽっかりと昇る太陽。

それはまん円い朱盆(しゅぼん)のような姿のみの太陽ではない。
それは虚空に無辺際に満ちている光だ。


そうだ、それは無礙光である。
真理である。 
智慧である。

すべての善きものは彼より流れ出て、
すべての生命(いのち)は彼より生れ出ずる。


この大いなる生命の源への
礼讃、歓喜、渇仰・・・・・

わたしは此の力満ちた光に
永遠の日本の国の姿を見る。

太陽はまだ昇り始めたばかりだ。

          <感謝合掌 平成27年5月2日 頓首再拝>

[647] 「ブラジル建国百五十年を祝ふ詩」
伝統 - 2015年05月03日 (日) 03時21分


 *この詩の初出は「生長の家」(昭和47年10月号)です。



われ遥かに、われら日本民族の
第二の祖国ブラジル国を憶(おも)う。

多くの日本民族この国に来たりて
此の国の興隆と繁栄の為に力をつくせり。

この国は嘗て地上にいまだ現れざりし理想の国、
唯一の包容力の偉大なる国なり。

あらゆる地上の異民族を自国の内に包容して、
而も民族的争いを見ることなく大同団結してブラジルを祖国となす。

ブラジルこそ人類の理想とする世界連邦の
可能性を自国の内に立証する唯一の国なり、

その包容せる国の面積、
日本国の二十数倍に及び

行けども行けども限りなき豊かなる緑の
原始林には数え切れなき宝を埋蔵し
開拓するに従ってその算出する資源は、

ゴム・コーヒー・ココア・綿・胡椒 等
無量無限なり。

緑をたたえて峨々として聳(そび)ゆる重巒(ちょうらん)の
岩壁を縫って無数の渓谷は刻まれ
その渓底には金剛・砂金・黄玉・青玉・紅玉等自然に敷きつめられ
その無数の清流をあつめて世界第一の
アマゾン河は流る。

その延長実に六千三百六十キロ、
河幅三百哩(マイル)に及び
その包容力の大なること、

世界すべての民族を集めて人種の差別なく
大和せしむる偉大なる建国の精神にも似たり。

両岸に聳ゆる青巒(せいらん)には種々の美しき山鳥(さんちょう)・
野鳥等珍しきものその数を知らず。
色とりどりの翼をひろげて舞い遊び、
ブラジル建国百五十年祝福の歌を唄う。

その声、峰にこだまし、谷に反響し、
荘厳(しょうごん)なる大自然の交響楽をかなでる。

まことにブラジルこそ、
大自然が此処を地上の極楽と定めて、
あらゆる美をもて厳飾(ごんじき)せる国なり。

その都は神の定め給える神定(しんてい)の土地
ブラジリヤなり。

嘗て預言者ドン・ボスコあらわれて、
ブラジリヤの地を祝福して、
この地こそ神定の首都なれば、
ここに必ず都うつすべき時来たれり、

その時こそ
ブラジル国の隆(さか)える周期に入る時なりと。
今こそ、その時来たれるなり。

この巨大なるブラジルの都づくりの計画も
着々と完成して
此処に建国百五十年祭を迎う。

遥かにわが第二の祖国の弥栄(いやさか)を仰ぎ見て
悦ぶこと限りなし。

悦びの極(きょく)、ここに心の限り、
筆の限り、力をつくして、
世界最大の徳を讃う国を
祝う詩をつくりて、
遥かなるこの日本の国より合掌す。

          <感謝合掌 平成27年5月3日 頓首再拝>

[650] 光は暗を消す
伝統 - 2015年05月04日 (月) 05時07分


子供は暗(やみ)を恐れる。
しかし本当は恐るべき何物もないのである。

光をとぼせば暗は消える。
光をとぼさないでいて、”暗を恐れるな”といっても、
それは子供には無理なのである。

人類はまだ子供である。
彼らには光が必要なのだ。
真理の光が必要なのだ。

真理の光をもっているのはあなたではないか。

          <感謝合掌 平成27年5月4日 頓首再拝>

[651] 新しき沃土
伝統 - 2015年05月06日 (水) 07時55分


白鳩は高く翔(かけ)らい
大空に輪を描けば
日輪は廻(めぐ)る
日輪はめぐる。


月輪のなかに
白兎は餅搗(つ)けどなお
新たなる土は生れず
白鳩の翔らい来るを待つは白兎。


白鳩の天翔り来て
曙(あけぼの)の空茜(あかね)させば
日輪はめぐり
新たなる土は生まれん。


ああ白鳩こそは
大空の使者(つかい)
日輪の使者
新しい沃土の使者。


その昔日輪に棲(す)まいし鳥は
鴉(からす)とこそ知られたれど
そは太陽の黒点を
誤りて伝えしならん。


日輪は万物に照り
万物は日輪を反照し
鴉は種子(たね)を啄(ついば)めど
白鳩は新しき沃土に種子を植えん。


荒鷲の掘り返したる
新しい沃土の中に
新生の生命(いのち)の種子(しゅし)を
空翔り蒔(ま)くは白鳩。


万物の白鳩よ聯合(れんごう)せよ
日輪の使者(みつかい)よ聯合せよ
聯合して大空を翔(か)けめぐり
光明の円相(えんそう)を大空に描かんかな。


かくて、新しき天と地とは
今将(まさ)に白鳩と共に天降(くだ)らんとす
白鳩の数は殖(ふ)えたり
一斉に並びて羽叩(はばた)きするは日輪の使者達(みつかいたち)。

          <感謝合掌 平成27年5月6日 頓首再拝>

[653] 生きた生命
伝統 - 2015年05月07日 (木) 03時11分

名乗れ、境遇に屈従する卑怯者は誰だ。
誰がわが生命を食べて物でこねあげた塊だと思っているのだ。
生命は蝋細工ではないぞ。
石膏細工でもないんだぞ。

おれは旋風だ。
颶風(ぐふう)だ。
渦巻だ。

おれは環境を
徐々にわが望みのままに
飴のように
捻じまげる。

俺は宇宙を造った大いなる力と一つの者だ。

おれは空中電気を雷に変じ、
太陽の光を七色に変じ、
真黒な土から燃えるような赤い花を咲かし、
火山を爆発さし、

あの不思議な星雲から、
太陽系を生んだところの大いなる力と一つの者だ。

環境が何だ。
運命が何だ。

おれはおれの好きな時が来れば
鰻(うなぎ)が石垣の間から脱け出すように、
どんな苦い運命からでも脱け出すのだ。


おれは銑鉄ではない。
粘土ではない。

生命だ。
生きたエナジーだ。

境遇や運命の型に押しこめられて
黙って引込んでいる様な死物ではないのだ。

圧迫すれば圧迫するほど
恐ろしい爆撃力となって
鉱山を掘鑿(くっさく)するところの
空気圧搾機の空気のように

どんな境遇でも、
運命でも、
時が来れば
猛然粉砕するを得る生命だ。

またおれは何がおれを堰き止めようとしても
結局は大いなる海洋とならずにはおかない水だ。

大いなる巌によっておれを堰きとめれば、
おれは奔流となり、
激流となり、
瀑布(ばくふ)となって
落ちるだろう。


少しも出口がないように
おれを堰き止めれば
おれは地の中にもぐり込む。

俺はしばらく地下に沈着して姿をみせないが
おれは消えもなくなりもしないのだ。

やがて吹きたぎる泉となって
旅人の咽喉(のど)をうるおさずにおかないのだ。

おれが地下にしみ込むことすら遮るならば、
おれは霧となり、
雲となって
虚空へと舞い上がる。

時が来ればおれは

旋風を呼び
雷電を呼び
沛然(はいぜん)たる猛雨となり

如何なる大堤をも決する洪水となって、
結局は大なる海洋とならずにはおかないのだ。

          <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

[654] 未知の世界
伝統 - 2015年05月08日 (金) 05時02分


明るくあれ、
勇気を出せ、
恐るものは何もないのだ。

あなたは”神の子”であって、
全能のちからを授かっているではないか。

未知の世界を恐れてはいけない、
未知の世界には地下の宝庫のように
勇気をもって掘って行けば
無限の輝く資源が掘り出されて来るのである。

もっとも光輝あるダイヤモンドは
大抵幽谷の深い地下に埋蔵されているのである。

それは神が、それを
勇気を以て努力を持続する者のみに与えるためのものなのだ。

          <感謝合掌 平成27年5月8日 頓首再拝>

[655] すべての困難を栄養に変える詩
伝統 - 2015年05月09日 (土) 04時30分


すべての経験
すべての試練
すべての重荷
すべての苦痛

かなしみも、口惜(くや)しさも
わが魂を肥やすために
神がわれに与え給うた
天の配剤である。

なにものも、
どんな苦いものでも、
あなたの魂を肥やすところの
栄養にならないものはないのである。

何故なら、あなたの魂の胃袋は

非常に健啖であって
どんな困難の岩石でも
噛みくだいて、自分の魂の
血となし肉となす力をもっているからだ。

          <感謝合掌 平成27年5月9日 頓首再拝>

[656] 黄金の薔薇
伝統 - 2015年05月10日 (日) 04時39分

黄金の薔薇(ばら)三輪空中に咲き出でぬ、
黄金は久遠金剛不壊を象徴す。
三輪は智慧と愛と生命なり
それを踏まえて立ち給えるは**マリヤ!


**マリヤは純潔を象徴す。
**こそ全てのものの真(まこと)の母なり。

**懐妊こそ
肉欲の子にあらず
不染者の受胎なり
久遠人間の受胎なり
聖霊の受胎なり
吾等すべて**より生る!


「悔改めよ、天国は近づけり」
少女ベルナルドネは眼をあけぬ。

彼女の眼を強く射るものは
女神マリアの二の腕の
桃色の膚に輝ける**マリヤの
黄金の十字架!


桃色の美しき腕(ただむき)は
肉体を象徴す。

黄金の十字架のそれに懸(かか)れるは
肉体の久遠抹殺(エターナル・クロス)を象徴す。

「悔改めよ、天国は近づけり」
ふたたび聖声(みこえ)きこえきぬ!


「悔改めよ、天国は近づけり」
みたび聖声のきこえしとき
ベルナルドネは土を掘り

湧き出ずる泥水にて
浅猿(あさま)しき相(すがた)にまで顔漱(すす)ぎぬ


少女ベルナルドネの顔は
泥にて覆われ、
群衆は叫ぶ ――
ベルナルドネは狂せりと。

されど、
ベルナルドネは狂せりに非ず
何人も自己の顔には泥を塗るべきなり。
他(ひと)の顔には泥を塗るべからず。


自己の顔に泥を塗るは
旧(ふる)き自己の抹殺(まっさつ)なり
旧き自己を抹殺してのみ
我こそは浄(きよ)められたる者と言い得ん。


みずから泥を塗りたる顔は
やがて女神、聖少女ベルナルドネとして輝き

泥水を噴出せしその跡より
滾々(こんこん)として湧き出ずる清水(しみず)は
是れ万人の罪を浄むる聖泉!


今もなおこの聖泉に浴する者は
すべての難病悉く癒え
跛者(あしなえ)は立ち
盲人(めしい)は眼を開き
聾者は聞え
唖者は物言う。――


これ佛蘭西(フランス)ルールドの奇蹟なり。
現代に今もなおある奇蹟なり。


この奇蹟の根源は
みずからの顔に泥を塗ること!

吾れらすべからく
自分の顔に泥を塗らざるべからず
敢(あえ)て他の顔に泥を塗るべからず!


          <感謝合掌 平成27年5月10日 頓首再拝>

[657] 今・此処
伝統 - 2015年05月11日 (月) 04時53分


神はあなたを必要としているのである。
それであればこそ、あなたを地に生んだのである。

今・此処、あなたのいる所が、
神があなたを遣わした任地である。

あなたはもっと高い位置につくべき人であるけれども、
すべては第一歩から始めねばならぬ。

第一歩を進まなかったら、
二歩、三歩、四歩、五歩も・・・・・
すこしも前進しないではないか。


それゆえに、その第一歩を、勇敢に
いのちの足を踏みしめて進むがよい。

はじめが大切である。

はじめに正しく足を運べば
あとはその方向に
ズンズン進んで行けば目的地に達するのだ。

今・此処があなたの任地である
そこをおろそかにしてはならぬ

今・此処を中心として
第一歩を勇敢に踏み出すのだ。

神はそのために、あなたを
今・此処に遣わされたのである。


          <感謝合掌 平成27年5月11日 頓首再拝>

[658] 光明の国
伝統 - 2015年05月12日 (火) 04時28分

或る日「生命」の長老が
「生命」の子供たちを集めて話し出した。


聞け、「生長の家」の子供よ、
「生命」の子供たちよ、
今日はあなたがた皆なのために
「生命」が生長をとげる秘訣を話して聞かそう。


聞け、「生命」の子供よ、
これを聞くものは幸いだ、
聞いて之を実行するものはなお幸いだ。
何故なら生命がスクスクと伸びるからだ。

 (この時「生命」の長老の白い銀の様な顎髭(あごひげ)には
  太陽の光がサンサンと輝いた)


さて
生命の子供たちよ、
自分自身を有限だと思うな。

自分の力はこれ切りでお仕舞いだと思うな。
自分の力を出し惜しみするな。
節約と云う言葉は実に生命にとってはふさわしくない。

答えよ、
生命の子供たち、
貴方達は生命か物かどちらだ。

 (此時<このとき>、生命の子供たちは起き上がり一斉に手拍子
  とりつつ長老の周囲を歌いつつ舞う)


わたし達は生命の子だ。
太陽の子だ。
光の子だ。

雲が低く地を這うときも、
雷霆(らいてい)が真黒な地上を威嚇するときも、
なおその雲の上には、
雷(いかずち)の上には
青空があろうように、

わたし達はいつも曇りを知らぬ青空の子だ。

嘆きも、
悲しみも、
憂鬱も、

ただひと時の
うわつらの雲のうごきだ。

たとい
雲があればとて
地に陰が落ちようとも
雲の上には
なお光が輝いていればこそ落ちる影だ。

わたし達は物ではない、
生命の子だ、
光の子だ、
いつ迄も消えることを知らぬ太陽の子だ。

 (舞い終りて生命の子供達一同座につけば、
  生命の長老はいと満足げに言葉をつぐ)


さて生命の子供たちよ、
生命の生長の秘訣は
生命を出し惜しみする事ではなく使う事だ。

生命を「物」だと思うな。
使って耗(へ)るのは「物」の世界のことだ。

汝ら、生命を与えきれ、
出し切れ、
ささげ切れ。

一粒の麦でさえ地に落ちてその全生命を捧げ切るとき
幾百粒の麦の実となって生長するものだと云うことを知る者は幸いだ。


生命の世界では
与えると云うことは
生長すると云うことだ。

大きく与えれば与えるほど
汝らの生長も大となるのだ。

無限に与えたものは
無限に生長するー
その人は神だ仏だ。


汝らよ、
汝らに与えられた生命力を、出し惜しみするな。

どんな能力でも
力でも
もしそれを使わずに
抽斗(ひきだし)に入れて置いたならば
こんど抽斗をあけて見たとき、
見ちがえるように小さくなっているのを見出すだろう。

与えれば与えるほど
使えば使うほど
ささげれば献(ささ)げるほど
生長するように出来ているのが
汝らの生命だ。


力士の隆々たる筋肉を見よ。
拳闘士の驚くべき搏力(はくりょく)を見よ。

毎月ちがう話がいくらでも泉のように湧いてくる
かの物語り作者の不思議な頭脳の力を見よ。

使えば使うほど
必要に応じて滾滾(こんこん)と湧出(わきい)でてくるのが生命だ。


大抵の人間は
生命はつかい過ぎたら
それだけ使いちびて、

自分の生命力が弱って了うものだと恐れているが、
生命は「物」ではないぞ。

自分の力をコレだけ切りだと
小さいことを思うな。

人間は思っただけの力だけの者だ。
恐れたら屹度生命は減るぞ。

過労でこの世に神経衰弱となる者は一人もないのだ。
神経衰弱になる者は皆な恐怖心の強い者ばかりだ。

働きすぎたから可(こ)怖(わ)いとか、
明日の試験がこわいとか、
誰か自分の悪口(わるぐち)を云ったとか、

上役が自分を馘(くび)にしやしないかとか、
明日にでも革命が起きて自分の財産が零(ゼロ)になりやしないかとか、
いらぬ思い煩いをしない者で
神経衰弱になった者は手をあげろ。

誰も手を挙げる者がないのは当り前だ。

生命力の生長の秘訣は
生命力をはたらかせつつ
この働きで自分の生命のスバラシイ勢いで生長しつつあるのだと信ずることだ。


信ぜよ。
信ずる通りになるのが生命の法則だ。

自分の心を無限だと告げよ。
内なる無限から生命は滾滾と湧いて来るのだ。

自分の心に自分を有限だと告げる者は、
無限の泉から有限しか汲まない者だ。

臆病に自分の減った力ばかりを秤(はか)っているものは禍だ。
減ったことを秤るな。
如何に伸びたかを尺(はか)れ。

目のつけどころを間違えるな。

若し余分に仕事が与えられたら、
有難いわが生命の生長する機会が来たと思え。
どんな仕事でも自分には重すぎると思うな。
自分をそんな弱い者だと思うな。

明日の生命力を伸ばす秘訣は、
今日の生命力を使い切るにあるのだ。

 (この時、生命の子供らはまた立ち上り
  長老の周囲に手をつないで輪を造りて歌う)


わたしたちは生命の子だ。
無限の力の泉の子だ。

わたし達はそれを知ったのだ。
知ったとおりになる世界!
望みどおりになる世界!

 (生命の子供たち激しく長老の周囲を舞う。
  愈々急速力で舞えば生命の子供たち ただ光の渦巻きのように見え
  舞台一めんに光明化し、ただ声のみ聞える)

知ったとおりになる世界!
望みどおりになる世界!

          <感謝合掌 平成27年5月12日 頓首再拝>

[659] 愛は相互に
伝統 - 2015年05月13日 (水) 03時58分


神は愛である。
神は愛であるから、
神の子であるあなたは必ず
愛したい願いと
愛されたい願いとを
もっているのである。


愛したい願いは男性的願いであり、
愛されたい願いは女性的願いである。

どちらの願いも
すべての人間に備わっているのだけれども

イザナギが先に進むのが
宇宙の法則であるから

先ず愛したい願いを満足させるために
先ずあなたから愛しなさい。

世界は自分の心の鏡であるから
あなたが本当に切実に愛したら
屹度相手の人もあなたを本当に愛してくれる。

          <感謝合掌 平成27年5月13日 頓首再拝>

[660] 半身の愛
伝統 - 2015年05月14日 (木) 04時26分


愛されたい願いだけが先に立って
あまり執拗に相手に獅噛(しが)みつけば
相手はうるさくなって
あなたから却って逃げてしまう。

愛の第一段階は同情である、
同情が昂(たかま)って恋い慕う。

その間は苦しみもあれば悦楽もある、
しかし執着の愛には
常にその悦びにも悩みと苦しみとかが附き纏(まと)う。


苦しみも悩みもない絶対の悦楽は
愛がもっと、成長したときにのみ得られる。

それは執着を断ち切って
相手を自由に放した時にのみ得られる。

そして相手を自由に放したとき
相手は自由意志をもって
純粋の愛をもって自分の許(もと)に還(かえ)って来る。

何故なら、あの人は本来、
自分の魂の半分だったからである。

          <感謝合掌 平成27年5月14日 頓首再拝>

[661] 實相を想う
伝統 - 2015年05月15日 (金) 03時54分


あなたは今、目を瞑(つむ)って静かに観ずる
”自分は神の子であって神と一体である”と。

今あなたは神との一体感を得て
静かにそして敬虔に神の生命の中に融(と)け込む。

神の生命間断なく流れ入って
あなたの全存在を満たし、
あなたの全存在を生かしているのである。

どんな”我の心”の緊張も今はないのである。
あなたは今すべての問題を心から放ち去ったのである。

空の雲が流れ去って跡をとどめず
永遠の蒼空(あおぞら)が澄み切った實相をあらわすように
あなたの永遠の生命が澄み切った神の生命である實相をあらわすのである。

永遠の蒼空には混乱もなく闘争もない
あなたの永遠の生命には混乱もなく闘争もない。

久遠実在の根本生命に満たされており、
互いにすべての生命が生かし合い、
すべての生物が扶(たす)け合い
欲するもの好ましきものおのずから整うのである。

          <感謝合掌 平成27年5月15日 頓首再拝>

[662] 希望の祈り
伝統 - 2015年05月16日 (土) 04時43分


(ゆたかに時間と能力とを得る祈り)

もしあなたが自分の希望を成就するために、
時間が足りないと思われるならば、
仕事にかかるまでに数分間次の如く念じなさい。

”これは神が私に託された希望であり仕事である。
これを実現することは神の御心である。
神の世界には無限の時間があるのである。
私は神と偕(とも)にこの仕事をするのであるから
この仕事を成就するに必要な時間は無限にあるのである”


もしあなたが自分の希望を実現するために、
能力が足りないと思われるならば、
仕事にかかるまでに数分間次の如く念じなさい。

”これは神が私に托された希望であり仕事である。
この希望を実現することは神の御栄(みさか)えである。
神の世界には無限の能力があり
私は神の子として無限の能力を授(さず)けられているのであるから、
この仕事を成就するために必要なる
智慧と力とはその場合の必要に応じて
いくらでも湧き出て来るのである”

          <感謝合掌 平成27年5月16日 頓首再拝>

[663] 或る日の生命の国@
伝統 - 2015年05月17日 (日) 04時25分


けさ──
「生命」の長老はいつもより特別ごきげんが好いのであった。

長老の周囲にあつまった「生命」の子供たちに
今日は世界でいちばん大きな工場の話をして聞かせてやる、とおっしゃるのだ。

「生命」の子供たちが思うのに、
世界でいちばん大きな工場とは
何処の工場のことだろうか。

独逸(ドイツ)のクルップ会社のことだろうか。
アメリカのスチール会社のことだろうか。
それともフォード自動車会社のことだろうか。
それともまたニュージャーシーのスタンダード石油会社のことだろうかと。


「生命」の長老はニコニコ笑ってみんなの顔を見廻して
そのご機嫌の好い上品な口元の白い髭に
いかにも満足気な輝く太陽の光を反射させながら

いやいやお前たちの思っているような
そんなちっぽけな工場ではないぞとおっしゃるのである。


だってそれよりも大きな工場が世界のどこにあるでしょうかと
「生命」の子供の中でも
一等利口そうな緑色の着物を着た子供が云うのであった。


わしが皆なに話してきかせるのは、

クルップ会社も
チール会社も
フォード会社も
スタンダード会社も
世界中の大会社みんなを一手に製造したほどの大工場の話だよ。

 (こいつは大分話が大きいぞと「生命」の子供達は緊張する)


さて長老は「生命」の子供達の緊張を見はからって、
その世界中ので一番大きな工場と云うのは
人間の心のことだ。

と愈々心の神秘力を話されるのだ。
人間の心ほど不思議な大きな工場はほかには無いぞ。

此の工場にはあらゆる種類の不思議な機械職工がそろっていて
どんな欲しいものでも
努力一つでつくることが出来るのだ。

どんな大きな会社だって、
どんな天才だって、
どんな芸術だって、
どんな発明だって、
どんな哲学だって、
みんなそれは心の工場で製造した生産品だ。

心の大きさは宇宙にひろがり
其(その)小ささは顕微鏡で見る黴菌の中をも潜(くぐ)る。

分子原子は勿論のこと、
電子と云う電気エネルギーの小体の中へすら
この工場は這入(はい)ることが出来るのだ。


この大きくして小さい
無限大にして無限小の
あらゆる種類の機械と職工とを
備えた「心」という工場の
諸君は社長であり工場主であるのだ。

諸君はこの貴い工場を、
貴ばなくてはならないぞ。
無茶な経営をしてはならないぞ。
出鱈目に放任して置いてはならないぞ。

          <感謝合掌 平成27年5月17日 頓首再拝>

[664] 或る日の生命の国A
伝統 - 2015年05月18日 (月) 04時41分


「心」の工場を管理することは
どんな工場を管理するよりもむつかしい。

むつかしいと云えば難しいが
また、やさしいと云えば易しくもあるのだ。

「心」の工場の職工たちは、
遊ぶことがきらいで、
暇があれば
どんなものでも作るのだ。

この仕事をせよと云って、
或る仕事を命じない限りは、
どこからでも
外から来るどんな印象でも
おかまいなしに持って来て
自分の製造仕事の模型にするのだ。

悪い印象でも、
悲観の印象でも、
病気の印象でも、
貧乏の印象でも、
そんなことは頓着なしだ。


だから「心」の工場で
尊い品物を作りたいなら
「心」の工場の職工たちに、

この仕事に精神を集中せよと
君たち工場主の方から
製造の模型(ひながた)を出してやるべきだ。

「心」の工場の製造の模型と云うのは
諸君が心に思い浮かべて
いつも離さないでいる観念(かんがえ)だ。


明るい観念の模型を出せば、
「心」の工場の職工たちは
明るい運命と境遇とを作るのに一所懸命だ。

暗い観念を模型に出せば
「心」の職工たちは
暗い運命と境遇とを作るのに一所懸命だ。


若し諸君が神経過敏に、
とんでもない失敗(しくじり)をやるかも知れないぞと
戦々恐々として唯(ただ)これ失敗なからんことを希(こいねが)いつつ仕事をするばらば、
どこかで必ず失敗をやらかすものだ。

何故わたしは此麼(こんな)に注意深く
一事(じ)も忽(ゆる)かせにせずに仕事をしているのに
いつの間にか此麼失策をやったものだろうと
あとになってから後悔しても駄目の皮だ。

諸君が失敗(しっぱい)のことを思えば、
諸君は心の工場に
この模型通りの品物を作れと
「失敗」と云う模型を出したのと同じことだ。

「心」の工場で出来上がった品物が
その模型通りに出来るのは当り前だ。

(つづく)

          <感謝合掌 平成27年5月18日 頓首再拝>

[665] 或る日の生命の国B
伝統 - 2015年05月19日 (火) 03時53分

諸君よ
何物も恐れるな。

何事をも懸念するな。
懸念すれば懸念する通りに物事が出て来るぞ。

ひとりの力で生きていると思うから不安になるのだ。
諸君のうちひとりでも
自分で生まれようと思って
生まれてきたものはないぞ。

生まれようと思って
生まれて来た自分でないならば、
これを生かす力もまた
自分の力ではない筈だ。

何ものか不思議な力で生かされている、
その不思議な力にまかせ切れ。


諸君は如露で水を撒いているのを見たことはないか、
如露のほそい噴水口から
猛烈な力でたばしって出る水の力を、
あなたの手のひらで受けて見たことはないか。

その猛烈なほどほとばしる力は、
一滴一滴の水の力ではない。

一滴一滴を量って見れば、
1グラムにも足らぬ無力な水滴だのに
猛然として手のひらを圧する噴射水の力は、
水源になみなみと湛えた源があるからだ。


諸君の生きる力も、
この如露から噴射する水のたとえのとおりのものだ。

諸君の生きる力を
その熱量からはかって見れば
全力を出したからって
たかだか2、3千カロリー程のものではないか。

諸君の生きる力は、
これを熱機関として計算するときは、
1馬力のエンジンにも及ばない。


けれども諸君は幸いにして
物質で造った熱機関ではない。

また諸君は滋養物をこね合わして造った肉塊ではない。

生命だ。
霊だ。
心だ。

融通無礙にして
小さくて大きく、
目に見ゆる形は五尺数寸に過ぎざれども、

それはただ如露の噴射口から出る水がほそいのと同じことで、
なお本源にはなみなみと湛えた無限の生命の源があるのだ。

君たち、「大生命」と云う無限大の如露からふき出てくる生命の噴射水よ、
自分の力だけで噴射しようとあせるな。

自分の力だけを見るものは
自分ひとり切りの力しか出ないのだ。

これが心の法則だ。
生命の法則だ。

諸君よ、
無量寿なるものに帰命せよ。
無量寿なるものに廻向せよ。
背後にある無限生命に委せ切れ。

無限を見、
無限にゆだねる者のみが心に本当の平和を得るのだ。

(つづく)

          <感謝合掌 平成27年5月19日 頓首再拝>

[667] 或る日の生命の国C
伝統 - 2015年05月20日 (水) 04時29分

諸君よ、
心に朗らかな平和がなければ
恐怖するほかはない。

五尺の身体(からだ)にたよる者は
恐怖するほかはない。

五尺の身体(からだ)にたよる者は
恐怖するほかない。

生命の源に無限を見ない者は
恐怖するほかない。

そして恐怖する者は
「心」の工場に
「恐怖」の模型(ひながた)を与えるものだ。

「心」の工場では
たちまちその模型通りに造りはじめる。

諸君が病気を恐怖すれば、
諸君の全身の細胞は
活力を失い
勇気を失い
抗病力を失って

ただ無条件に
外来の
病毒素に降伏し、
恐れた通りの病気になるのだ。


また諸君が貧乏を恐怖すれば、
八方ふさがりの経済界に
何一つ手出しの出来る事業がないであろう。

緊縮緊縮の掛け声に
操業短縮、業務縮小
その上何の事業も起こさなければ
失業者は殖えるばかりだ。

失業者が日本に殖えると云うことは
生命を徒費(とひ)する者が日本に殖えると云う事だ。

生命を徒費する者が日本に殖えると云う事は
日本の国がそれだけ貧乏になると云うことだ。

結局諸君は恐れた通りの貧乏を造り出すのだ。

「心」の工場の職工のはたらきは
畢竟かくの如きものだ。

これに反してもし諸君が
常に絶え間なく
心に健康の念を描き、
心に調和の念を高く掲げ、

自己の生命の背後に無限の生命を見るならば
「心」の工場の職工たちは
諸君にその模型どおりの
健康なる肉体を調和せる性格と
無限に充実する生命とを
現実につくり出す。

(つづく)

          <感謝合掌 平成27年5月20日 頓首再拝>

[668] 或る日の生命の国D
伝統 - 2015年05月21日 (木) 03時47分


また諸君が
自己の成功を信ずること厚く、
常に絶え間なく「成功」の信念を心に把持し、

どんな困難や蹉跌がやって来ようとも
これこそ永遠成功の輝きだと
「心」の工場の職工たちに
断固として「成功」の観念のみを示すならば、

「心」の工場の職工たちは
その「成功」の模型に従って
「成功」に必要なる一切のものを造り出す。

すなわち、
その心は
まだ実現しない前から
成功の歓びにみたされているので

意気既に事業を呑み、
困難に対しても
心の平静を失わず、

失敗に際しても
深く悲しみに捉われず、

機にのぞみ、
時に応じ、
智謀縦横、
神作機略の尽くる所を知らず、

愈々難関に処して
精力百倍し、

陰きわまって陽転すべき
最後の五分間まで
よく耐えしのび得るが故に

結局希望した「成功」は
心にえがいて待った通りに現れる。


だが、
わが愛する「生命」の子供たちよ

「心」の工場にて完全な作品を得るには、
此の「最後の五分間」と云うことが何よりも大切である。

キリストも「最後まで忍ぶものは救われん」と云われしように、
最後のギリギリまで、
「心」の工場にあなたが提出した目的物の模型を撤回するな。

成敗のわかれるのは
何事も最後の五分間にあるのだからな。

多くの人間のやることを見ていると
始終「心」の工場へ提出した模型を取りかえている。

今明るい健康な考えを抱いているかと思うと
1時間もたたないうちに
もう暗い考えをいだいている。

きょう成功の期待で喜び勇んでいるかと思うと
次の日には失敗の「恐怖」でおののいている。

こんなに、
とっかえ引っ替え模型を取りかえられては、

「心」の工場で出来る作品は
半製品ばかりで
完成品は一つもない。

こんな人間にかぎって、
「心の力」を力説する人に対(むか)って
「俺もいろいろ善い事を空想して見たけれども結局は駄目であった」と
不足を云う輩(てあい)である。


諸君よ、
「心」の工場の職工たちは、
働くだろうかと心配して見ていると
実に彼らは懶(なま)け者だ。

一定の模型さえやって
みないでほって置くと
実に彼らは働き手だ。

いつのまにか気がついた時には
もう模型通りのものが出来上がっている。

(つづく)

          <感謝合掌 平成27年5月21日 頓首再拝>

[669] 或る日の生命の国E
伝統 - 2015年05月22日 (金) 03時33分

諸君は
畑に種を蒔いて
いま生えて来るかと見つめているうちに
むくむく芽が生えて来たのを見たことは滅多にあるまい。

しかし一晩見ないで置くと
いつのまにか二、三分(ぶ)も芽を出している。

子供でも
植物でも、
見ない間に伸びる ──

これが生命の法則でもあり
「心」の工場ではたらく職工の習慣でもある。

「心」の工場の職工たちには、
一定の模型さえやって置けば、
動くだろうかと見詰めぬことだ。

かれらを信じて、
諸君は諸君のすることだけのことさえすれば、
結果はパッと最後の一瞬にあらわれる。

例えば、
片栗粉に湯を注(さ)せば
最後の一滴の湯で透明になるけれども、
夫(それ)は最後の一滴の湯だけが働いたのではない。

それまでに注した湯の力は
見えないでも働いている。

大抵の人間のやることを見ていると、
はじめに注した湯だけで
片栗粉が透明にならないと、

もう湯の力を疑って
水を注すやら、
メリケン粉を混ぜて見るやら、

そんなことでは
いつまでも片栗粉は透明にはならないのだ。

「心」の工場で事物をつくるのも同じことだ。

明るい気持を一たん「心」の職工の製作の模型に与えたならば、
いつまでも明るい気持を保て。

たえず喜べ。
たえず陽気を失うな。
たえず心を朗かに有(も)て。

そして「心」の工場が有っている
無限の生産力を信頼せよ。

疑っては「心」の職工は働かないぞ。
見ていない間にずんずん仕事を運ぶのが彼らの癖だ。


「心」の工場での模型職は
あなたの有っている想像力だ。

先ず想像力をして
あなたの欲するものの姿を描かしめよ。
ハッキリと強く描かしめよ。

若しあなたが健康を欲するならば、
瞑目静坐して調息精神を統一し
全身を心で凝視し想像せよ ──

「われ吾が全身を見るに
霊々妙々無量光の生命にして
病なし」と観ぜよ。

この凝視を毎朝夕(まいちょうせき)30分間継続せよ。
毎朝夕これを繰返して、
あとの製作を自然にゆだねるときは、

「心」の工場の職工たちは
色いろの地金(じがね)を大生命の山々から斫(き)り出し、

坩堝に入れて
フイゴも吹けば、
コークスもくべて

やがて与えられた模型通りの
完全な健康体をつくり上げる。

健康が更(あらた)まらぬと嘆く者よ、
それは今ある通りの不健康をば
吾が常態として心に描いているからである。

今ある不健康を眼界より放逐せよ。
不健康を見るな。

自己の健康を想像して
現実のごとく
ありありと
自己が健康であるさまを心で見よ。

見るとおりに現れるのが
心の法則だ、
生命の法則だ。

君たち わが愛する「生命の」の子供らよ。
生命の法則にしたがって、
生きよ、
栄えよ。

── 云い終って「生命」の長老は
深き光明三昧に入り給うか
その眉間より燦然たる霊光を照射したまうのであった。

(つづく)

          <感謝合掌 平成27年5月22日 頓首再拝>

[670] 或る日の生命の国F
伝統 - 2015年05月23日 (土) 03時30分


この時緑色の着物を着たひとりの「生命」の子供が
前に進み出て問うのであった。

「今現に不健康であります者が
如何にして自分が健康であると
心にえがくことが出来ましょうぞ」と。

すると「生命」の長老は
深き光明三昧より出でたまいて答えたまう──

「今現に不健康であると云う者は
物を見て
『生命』を見ないものだ。

影を見て
『實相』を見ないものだ。

あらわれを見て
『本質』を見ないものだ。

『生命』は病むことが出来ないものだ。
『實相』は病むことが出来ないものだ。
『本質』は病むことが出来ないものだ。

物に捉われず、
影に捉われず、
あらわれに捉われず、

あなたが『生命』を見
『實相』を見
『本質』を見るならば

いま病苦のまっただ中にいようとも
自己の健康を見ることが出来るのだ。

自己の『生命』が五尺数寸の身体から来るものではなく、
無限の生命の流れに達する
無量寿、無量光なるものと
本質に於て等しきものであることを見ることが出来るのだ」


語り終わって「生命」の長老は
深く光明三昧に入りたまえば、

長老の全身はただ光明化し
生命化し、
實相化し、
霊化して、

雰囲気の如く陽炎の如く、
真空管内のX線の如く、

霊々妙々、不可思議なる
「生命」の波動的實相を
まのあたりに示現し給うのであった。


(或る日の生命の国を終ります)

          <感謝合掌 平成27年5月23日 頓首再拝>

[671] 自然の宝石
伝統 - 2015年05月24日 (日) 03時22分


夏の朝露(あさつゆ)は
その一つ一つが宝石
その宝石の中に
全世界が宿っている。

その澄んだ瞳から蒼空(あおぞら)が物云い
生命がその神秘を囁(ささや)いでいる。

太陽がさしのぼれば
そのひとつひとつが
燦爛(さんらん)として乱舞する。

          <感謝合掌 平成27年5月24日 頓首再拝>

[672] 雉 鳩
伝統 - 2015年05月25日 (月) 04時19分


霧を劈(つんざ)くような
血を吐くような鳥の声だ

此の神秘な声を聴きながら
私は山峡に眠る思いで目を覚ます

啼くのは雛を呼ぶ雉(きじ)か何鳥か私は知らない
誰もその正体を見たものはない。


或る日、伝書鳩に与えた餌を
雉のような鳩のような
美しい鳥が来て啄(ついば)んでいた

私は懐しいものにめぐり合った気がして
その跡を追ったがそれはもう見えなかった。

          <感謝合掌 平成27年5月25日 頓首再拝>

[673] 花咲く丘
伝統 - 2015年05月26日 (火) 03時04分


花咲く丘に私は登って行った。
真夏にも蝶々がいる。
ここは常住(じょうじゅう)の花の世界だ。

蝶々がつがっている。
黄金虫(こがねむし)もつがっている。

おお、不可思議の世界だ。

燕(つばめ)が鰈(かれい)のようにひらりと空に翻(ひるがえ)る。

雀が矢のように
また弾丸のように飛ぶ、
その飛んで行く先を見れば
お伽噺(とぎばなし)の絵にあるような雀の巣がある。

そこに小雀が親雀の運んでくる餌(え)待っている。

          <感謝合掌 平成27年5月26日 頓首再拝>



[674] 生長の火
伝統 - 2015年05月27日 (水) 03時02分


   生長のお家は
   日當たりが好い。
   お庭がひろくて
   藤の棚があります。

   生長のお家に
   ブランコが出来ました
   多勢の子供が來て
   さわいでよろこびます。

   大人も子供も
   生長のお家に來る人たちは
   みんな一しょに
   伸び伸びと成長します。

   生長のお家で
   私たちは生長の火をとぼします
   人類の魂を燃やす火です。

   私は自分の火が
   大きいか小さいか判りません。
   だけど小さい火でも
   大きな蝋燭に火を點けることが
   できます。

   私の生長の火よりも
   大きな蝋燭も集つて下さい
   何百何千の大厦高樓が
   小さな燐寸の火でやけるかも知れません。
   私はそれを期待してゐるのです。

   火がつかなければ
   何度でも燐寸を擦ります。
   燐寸がなくなるまで
   私は人間の魂に火をつけて見たいと
   思ってゐるのです。

          <感謝合掌 平成27年5月27日 頓首再拝>

[675] 祝福
伝統 - 2015年05月29日 (金) 03時07分


あなたの生活に、幸福の扉を開くためには、
先ず他の人々の幸福を願う祈りをするがよい。

他の人を祝福すれば
自分がまた祝福されるのである。

祝福する者が祝福せられ、
呪詛する者が呪詛せられる、
これが宇宙の平衡(バランス)の法則である。

          <感謝合掌 平成27年5月29日 頓首再拝>

[678] 人間の魂の重心は神である
伝統 - 2015年05月30日 (土) 03時40分


宇宙の心はバランスを欲するのである。

バランスを得ないものは倒れて壊(くだ)ける
今は、力のバランスで
辛うじて世界の平和が維持されている。

月が地球を旋(めぐ)っていて
急降下して地球と衝突しないのも、
遠心力と求心力とのバランスが得られているからである。


船が傾いて沈没しないのも、
船には水荷があってバランスを得ているからである。

あなたが2本の脚で道を歩いていて倒れないのも
バランスを得ているからである。

あなたが自転車に乗っていて倒れないのも、
バランスを保っているからである。


重心が大切である。
重心がはずれたら
すべてのものは倒れてしまう。

人間も重心が大切である。
人間の心が重心を踏み外すとき
重大な悲劇がそこに起るのである。

人間の魂の重心は神である。

          <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

[679] 《与えると受けると》
伝統 - 2015年05月31日 (日) 03時55分


人間には、この世に生まれたら
誰でも2つの幸福が約束されているのである。

それは与える幸福と
受ける幸福との2つである。

この2つの幸福は車の両輪のように、
一方だけでは旨く進むことができないのである。

受けてくれる者がなければ
与える幸福を味わうことはできないし、

与えてくれる者がなければ
受ける幸福を味わうこともできない。

それゆえに、与えた者は受けてくれた者に
感謝しなければならないし、
受けて者は与えた者に感謝しなければならない。

与える者と、受ける者とは、
神に於いて本来
ひとつのいのちであるからだ。

          <感謝合掌 平成27年5月31日 頓首再拝>

[681] 孤独
伝統 - 2015年06月01日 (月) 03時51分


”誰も私を認めてくれない、
みんな自分に無関心なのだ。
私は孤独である”


”誰も私を称(ほ)めてくれない、
私は誰からも愛されていない。

誰も私が此処に生まれてあることを
祝福してくれる人はないのだ。
自分など此の世にあっても無くともよいのだ”


このように考えて、
孤独感に悩まされている人はないか、
あなたが誰からも認められないのは、
あなたの方が誰をも認めてあげず、

称めてあげず、
愛してあげず、
祝福してあげず、
その人のために何らかの役に立つことを
無条件にしてあげないからに他ならない。


世界は鏡である。

世界という鏡は、
形のない心の象(かたち)を
形にあらわして見せてくれる”心の鏡”であるのである。

そこに醜い象(かたち)があらわれていたならば、
それを自分のすがただと思い
脚下照顧して自分の心を転ずるがよい。

孤独な人は、
ほかの人が疎外するのではなく

自分自身の心が孤独なのだ。

          <感謝合掌 平成27年6月1日 頓首再拝>

[682] 環境はその人の心の顔
伝統 - 2015年06月02日 (火) 02時51分


自分が変われば世界が変わる

この真理をさとって
実行する人は
必ず幸福になる。

その人の人生は、
その人の”心の顔”である。

その人の”心の表情”が
自分自身の環境となってあらわれる。

          <感謝合掌 平成27年6月2日 頓首再拝>

[685] 困難の急流
伝統 - 2015年06月04日 (木) 03時59分


おおむね人生にあらわれる困難は
鬼の仮面を被(かむ)った
観世音菩薩の大慈大悲の示現である。

悲しみの奥には聖池(せいち)があり
苦しみの奥には魂の教訓がある。


この聖池に浴し
困難の急流を漕(こ)ぎ溯(のぼ)り
その水源に到達するとき、

観世音菩薩はその姿をあらわし給い、
”わが児よ、よく此処まで
急流をのぼり来たった”と称(ほ)め給い、

その宝座の半分をわかちて、
”此処に坐せ、わが、愛(めぐ)ぐし児よ。
われ汝と一体なり”と宣(のたま)うのである。


困難の急流を漕ぎのぼり
いのちの水源に到達するとき、
身も心も浄(きよ)まりて
わが實相が”神”なることを知るのである。

          <感謝合掌 平成27年6月4日 頓首再拝>

[687] 問題
伝統 - 2015年06月05日 (金) 04時03分


どんなに問題が複雑に見えようとも
どんな問題も解決のできない問題はないのである。

問題という問題は
みんな解決されるために姿をあらわしているのである。

どんな人間でも、
裸にして風呂へ入れて
洗ってやれば正味の肌が見えるように

どんな問題も裸かにして
迷いの雲を浄(きよ)め去って対決すれば、
どこに頭がありどこに尻尾があるかが
ハッキリと判るのである。

自分の心の迷いを除(と)り去ることが必要だ

          <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

[689] 過去と今
伝統 - 2015年06月06日 (土) 03時50分


過去になずむこと勿れ
過去は既に過ぎ去ったのだ。

過ぎ去ったものだけれども
”今”それを思えば、
過去が”今”に変貌する。

牛は過去に食べた食物を
腸に送るまでに反芻して
もう一度”今”に戻して咀嚼するそうだが、

過去の悲しみでも
それを”今”にもどして反芻すれば、
過去が過去でなくなって、
今ある悲しみにそれは変貌する。

過去を素直に放つ者のみが、
新しい喜びを素直にそのまま受けることができるのである。

          <感謝合掌 平成27年6月6日 頓首再拝>

[690] 自覚の燈
伝統 - 2015年06月07日 (日) 04時13分


あなたが”神の子”であるということを自覚すれば、
何処(どこ)へ往こうとも其処が”神の国”であり、極楽浄土である。

”神の子”たる いのち の頂点に立つとき、
南極の中心のポイントに立てばどの方向を向いても北であると同じように、
どの方向を向いても神と偕(とも)にあるのである。

方向を気にすることも要(い)らないし、
相性を気にすることも要らないし、
姓名判断を気にすることも要らないし、
暗剣殺(あんけんさつ)も鬼門も三隣亡(さんりんぼう)もないのである。

”生命の實相”の燈(ひ)が、
あなたのいのちに照り輝くとき、
あなたの行くところにひとつも闇はないのである。

          <感謝合掌 平成27年6月7日 頓首再拝>

[692] 秩序と自由
伝統 - 2015年06月08日 (月) 04時09分


人間の幸福は”調和”から得られる。
美というものも”調和”から得られる。

調和を破った世界には
幸福も美もないのである。


人は自由を求めて迷う。
秩序を破ることによって屡々(しばしば)自由を得ようとする。

しかしながら、
自由を得せしめるものは秩序である。


地球圏外に自由を求めて
月世界にロケットで旅行できても、

そのロケットの中の機構が
どんなに複雑な精巧な秩序によって組み立てられているかは、
智慧ある者なら想像するだけでも解るだろう。

ロケットの中の機構の唯一ヵ所でも
秩序が破壊されたら、
そのロケットは月に到着することも、
地球に帰って来ることもできないのだ。

秩序を破壊するところに
人間の自由はない。

          <感謝合掌 平成27年6月8日 頓首再拝>

[693] 自縄自縛
伝統 - 2015年06月09日 (火) 03時30分


取り越し苦労を止めよ、
持ち越し苦労を棄てよ、

不安恐怖を彼方(かなた)の世界に抛擲(ほうてき)して
あなたの生命と心とを身軽にして
自縄自縛の愚かなる桎梏(しっこく)から脱け出し、
本来のあなたの生命の実相の自由を奪還せよ。

持ち越しや取り越しの不安恐怖は
他の誰かがあなたにもって来たものでは無い。
ただあなたの心の状態のひとつに過ぎない。

自分の心の状態なら自分で自由に出来る筈だ。
今その自縄自縛を解(ほど)いて、
実相のあなたの自由を恢復せよ。

          <感謝合掌 平成27年6月9日 頓首再拝>

[694] 高き蒼空
伝統 - 2015年06月10日 (水) 04時00分


たとい一方の途(みち)が塞(ふさ)がっていようとも
何も心配することはない。
また別の途が開いているのである。

たとい八方ふさがりで
あらゆる方角の途が塞がれていようとも、
神の子には行き詰まりということは無いのである。

仰いで高き蒼空(あおぞら)を見よ。

そこにはあなたの実相の宝座があり、
七宝が充満して
天使たちがあなたを招く。

そこには完全な自由があり、
無限の財宝があり、
無限の幸福があなたの来るのを待っているのである。

          <感謝合掌 平成27年6月10日 頓首再拝>

[695] 《神われに語りたまう詩》
伝統 - 2015年06月11日 (木) 03時22分

神はわれに語り給う

あなたが私を必要とするあらば
わたしは既にあなたの其処(そこ)にある

あなたは私を見ることはできないが
あなたは私の光によって万物を見ることができるのだ

あなたは私に触れているとは知らないが
わたしはあなたの手の中で働いている

どんな方法で私があなたの中で働くかを
あなたは理解することができないが
わたしはあなたの中で働いている

あなたは私をみとめることはできないが
わたしはあなたの中で働いている


わたしは単に不可思議な霊象(れいしょう)でもなければ
神秘的な存在でもない
ただ絶対の寂静(じゃくせい)である

自我を去れ その時に
あなたは、私が”本当のあなた”だということがわかるのである

それはただ感じるのだ 信仰だ
しかし其処に私はいる

私は聴くことができ、答えることができる
あなたが私を必要とする時に
わたしは既に其処にある

たといあなたが私の存在を否定しようとも
わたしは既に其処にある


たといあなたがどんなに孤独の感に襲われるときにも
わたしは常にあなたと偕(とも)にある

わたしはあなたの父であり、母である
常にあなたと偕にある

わたしは愛であり、愛そのものである
あなたが愛するとき
わたしは常に其処にある

わたしは平和であり、何人(なんぴと)も憎まない
たといあなたが憎しみの感情を起こしているときにも
わたしはあなたの内にあって
その敵でさえも愛している


わたしは平和であり
其処に戦いが演ぜられているように見えているときにも
此処に無限の平和がある

あなたがわたしの内に深く沈潜して来るとき
其処には常に無限の平和が用意されている


あなたがわたしを信じない時にも
わたしはあなたが”神の子”で、
かならず立派なものであることを信じている

目覚めるがよい
あなたの”神の子”たる実相に

あなたの信仰がグラツクとも

わたしがあなたを信じる信仰は
決してぐらつくことはないのである

・・・

<上記の詩に関連し>

『神われに語りたまふ詩』は昭和40年8月12日の法語として 発表されました。

さらに、『生長の家』誌 40年8月13日の法語には、次のようにあります。


《悲しみの奥にも神は慰め給ふ》

  この詩にあるやうに神は常にあなたと偕にあるのである。

  悲しみの来るときにも、寂しさが見舞ふときにも、
  その奥には神があつて、わたしたちの魂が鍛へられることを、
  じつと愛の眼(まなこ)をもつて見詰めてをられるのが、神なのである。

  悲しみの来(きた)るとき、寂しさ見舞ふとき、
  神はあなたの心が完全に神に向かはないことを、
  悲しんでゐられるのであり、寂しく思つてゐられるのである

  (平成23年2月24日、”童子 さま”の記事より)        


          <感謝合掌 平成27年6月11日 頓首再拝>

[697] 《常に神一元・善一元の世界を観る》
伝統 - 2015年06月12日 (金) 03時28分


神は常にあなたの側にい給うのである

どんなに事業が悪化するように見えても
どんなにすべてがく壊(くだ)けるように見えても
それは化膿した腫物(はれもの)が破裂するようなものだ

悪化のような仮面をかぶりながら
究極は、ただ善の方向にのみ延びて行く

恐れることはない
疑うことはない
神はあなたの父であり母である

あなたに必要なるすべてのことは
この世界に実在するものは
ただ善なる神と
神のつくりたまえる善なる生き物と
善なるすべての事物とだけだと知ることである

行け
勇敢にあなたの与えられた人生の行路を

そこに
花園が華麗な装いをつけて
あなたを待っているのである

          <感謝合掌 平成27年6月12日 頓首再拝>

[698] 【 新天新地の歌 】
伝統 - 2015年06月13日 (土) 02時45分


 往昔(そのむかし)第一の世界浄化(きよめ)の
 洪水(おおみず)の時にてありき、
 海原(うなばら)の主宰(つかさ) 素戔嗚尊は
 言依(こよ)され給いし現(うつ)し国を
 え治め給わずして泣きいさちる。


 かれ速(はや)素戔嗚尊は
 現し国の御位(みくらい)を辷(すべ)り給いて
 天照大御神に
 海原の統治(すべよ)の権(ちから)を
 譲らまして御空(みよら)へと参上(まいのぼ)る。


 その勢い猛々(たけだけ)しく
 山川(やまかわ)国土(くにつち)悉く震(ゆ)り撼(うご)き
 海原の水ことごとく
 尊(みこと)に随(したが)い御空にのぼる。


 御空にのぼりし海原の水
 悉く沛然(はいぜん)たる雨となりて
 地上は四十日四十夜
 小歇(おや)みもなく大雨降る。


 その大雨の水量(みずかさ)は
 丘を蔽(おお)い山を蔽い
 全地ことごとく
 洪水を被(こうむ)りたりき
 これ第一の世界浄化なり


 そのとき一人の翁(おきな)ありき
 名を塩土翁(しおつちのおうじ)と云う
 又の名をノアと云う

 No(ノ)は無字(むじ)をあらわし
 A(ア)は阿字(あじ)をあらわす。

 ノアは一切の物質の否定と
 阿字即ち摩訶(まか)毘盧遮那(びるしゃな)の
 華蔵(けぞう)世界君臨とを象徴す。


 塩土翁は目無堅間(めなしかつま)の御船をつくり
 ノアは「ノアの方舟(かこぶね)」を作り、
 すべて蒼生(あおひとくさ)の一つ一つを
 その御船(みふね)―― 方舟の中に収(おさ)めて
 金剛實相の国、龍宮海に避難せり。


 目無堅間の御船の構造は
 横は無字 縦は阿字にて成る、
 目無とは洩(も)れ無きなり
 堅間とは金剛不壊なり

 金剛不壊、無字阿字の船
 これノアの方舟なり、華厳経なり。


 このとき方舟の中の蒼生のみ救われき
 これ第一の世界浄化なりき、
 雨歇(や)みて乾ける土を
 指示すべく遣わされたるは白鳩なりき、
 これぞ伝書鳩の濫觴(はじめ)なる。


 第二の世界浄化も
 第一のそれと同様なり。

 その救いの願船は
 横は無字にして本来空
 三界唯心の真理にて成る。

 縦は阿字にして
 久遠實成(くおんじつじょう)の不滅の生命の自覚(さとり)なり
 それを作り給えるも塩土翁なり。

 塩土翁は新しき乾ける土を
 人類のために見出さしめんとして
 白鳩を先ず遣わす。
 これ第二の世界浄化の使命なり。


 白鳩は日輪の使者
 塩土翁に導かれて
 新しき乾ける沃土(よくど)、地上天国へと導かん。


 万国の白鳩たちよ連合せよ
 汝(いまし)たちの行くところに
 必ずや新しき地上天国は現れん。

        <初出・・「白鳩」昭和14年1月号>
         

          <感謝合掌 平成27年6月13日 頓首再拝>

[699] 夢を描け
伝統 - 2015年06月14日 (日) 04時11分


若きと老いたるとを問わず
兄弟よ、夢を描け、
蜃気楼(しんきろう)よりも大いなる夢を。

夢はあなたの肉体を超えて虚空にひろがり、
ひろくひろく宇宙にひろがる雲となって、
あなたをより高き世界へ
あま翔(か)けらす大いなる翼となるであろう。


この翼こそ世にも奇(くす)しき翼である。
夢の奇(くす)しき翼に乗るとき
若きものは向上し
老いたるものは若返る。


兄弟よ、夢の翼を休めるな、
自己を出来るだけ偉大であると想像せよ。

あまり高く翔けのぼることを恐れるな、
躊躇するな、
尻込みするな、
自分自身を限るな。

あなたは夢の翼によって肉体の制限(さかい)を超える。

たといあなたが地球にわいた黴(かび)よりもその肉体が小さくとも、
あなたの心は夢をえがくことによって
天地を造った偉大なる心と一つになるのだ。


兄弟よ、
悲しみに打たれるな。
打たれても起き上がれ。

描いた夢が破れても
あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。

自分にはまだ偉大な力が残っていると想像せよ。
夢を描くものにとっては
この世界は常に新天新地である。


兄弟よ倒れるな
倒れても起き上がれ、
希望を失っても試みが破れても
倒れ切るな。

夢は希望の苗床(なえどこ)である。
大いなる夢の苗床から
希望の芽がまた萌え出でる。

希望の芽は夢につちかわれて生長する。
夢は希望の苗床である。


兄弟よ、出来るだけ明るい大きな夢を心に描け。
自分を暗い悲しいものだと想像するな。
あなたの「心」が全能の創造者(つくりぬし)だと云うことを知れ。

あなたは自分の心で自分を想像した通りのものにするのだ。
自分を暗い悲しいものだと想像したら
その通りにあなたはなるのだ。

自分を明るい偉大な人間だと想像しても
その通りにあなたはなるのだ。
何故(なぜ)なら心は全能者であるからだ。


兄弟よ、
偉大なる夢を描かないで
偉大となったものが嘗てあるか。

この世に偉大と名のつく一切のものは、
みんなあなたの夢の産物ではないか、
コロンブスがアメリカ大陸を発見したのも
あなたの夢の帆掛け舟で
人生の荒波を超えたからではないか。

汽車、汽船、自動車は勿論のこと、
飛行機、ラジオに至るまで、
皆なあなたの夢が形と化したのではないか。


新大陸の存在をあなたの夢が心に描く。
するとアメリカが発見された。

あなたの夢が
人間が空を飛ぶことを心に描いたとき
飛行機が発明された。

あなたの心が「動く写真」を夢に描いたとき
キネマが出現したのだ。

そしてあなたが「語る活動写真」を心に描いたとき
トーキーが出現したのだ。


兄弟よ、
夢の勇者たれ、
あなたの夢が万能であるということを自覚せよ。

万能を自覚するとき、
あなた自身は本当に万能となるのである。

夢の勇者も
時としては失敗するように見えるであろう。

しかし如何なるときにも挫折するな、
失敗するように見えた時、
彼は一層希望の実現に近づいているのである。

見せかけの失敗は
成功のきざしである。
陰極は必ず陽転する。

コロンブスを乗せた帆かけ舟の船員が、
待てども待てども新大陸が見つからないで失望して、
今やまさにコロンブスを監禁して
船を引き返そうとしていた時
彼は一層新大陸の間近まで来ていたのではないか。


兄弟よ、
陰極は陽転するのだ。
何事にもこのコロンブスの話を思い出せ。

失敗を恐れるな、失敗のたび毎に
貴方が希望の実現に近付いている事を知れ。

そして人生の荒波に沈んで了(しま)わないように
夢の救命器をしっかり結んで泳ぐのだ。

          <感謝合掌 平成27年6月14日 頓首再拝>

[701] 起て、白鳩の女性  
伝統 - 2015年06月18日 (木) 03時56分


  をんなと云ふをんなは起上らねばならぬ
  起上るとき力が出る。
  神が力を出させて下さるのだ。

  いつもは女性は家の中が仕事場であった
  けれども非常時には非常時の生き方がある
  無論、家を治めることは女性の第一の仕事である。

  而し家を治める〃だけ〃が女性の仕事ではない
  どれだけでも余分に力が出るのである。

  男性は働きに往っているものもある、
  戦場へ往っているものもある、
  何のために日本は戦っているのか
  それを知らぬ人が多い。

  それを知らせて、日本人ひとりひとりに覚悟を与えて行くのが女性の役目だ。

  今度の戦争はそんな生やさしい戦争ではない。
  天地初まってからの大戦争、
  天地初まってから世の終りまで二度とない大戦争、
  ヒノモトが全世界を照らす日の本となる戦争。

  支那だけが相手ではない、
  蒋介石だけが相手でもない。
  漢口を陥れただけで済むのではない。
  漢口を陥れても蒋介石を倒さなければ戦争を止めぬと云う人もある。
  併し蒋介石を倒しても
  全世界を日本の光で照らすまでは止められぬ戦だ。

  人間だけの計画でやっている戦争なら何時でも止められるが、
  人間力ではない、
  天地の初めから計画されて来た
  其の計画が今愈々果を結ぼうとする戦争だ
  止めようと思っても止まる筈がない。

  甘い夢を見てはいけない。
  人類愛だとか
  戦争は愛に反するなどと言っても今度は駄目である。

  人間の戦争なら愛に反するかも知れぬが、
  これは人間のやっている戦争ではない、
  吾々は長期に耐え忍ばねばならないのだ。

  長期に耐え忍ぶ力は
  銃後の力にある、
  女性の力にある、
  国民全体が堅めた覚悟の如何にある。

  国民全体に知らせるのは女性の力にある。

  日本のすべての女性よ、
  往き往きて此の聖戦の意義を伝えよ。

  古事記に預言された
  天鳥船、鳥巌樟船が出る、
  火夜芸速男神
  火具槌神
  岩柝、根柝の神々が荒れくるい、
  やがて大國主命の國譲りが来るまではこの戦いは止まないのだ。

  また黙示録に預言された如く、
  海と地とに跨りて立てる御使は
  天にむかいて右の手を挙げ、
  天および其の中にあるもの、
  地および其の中にあるもの、
  海および其の中にある物を造り給いし
  世々限りなく生きたまう者を指し、
   『この後、時は延ぶることなし
    第七の御使の吹かんとする
    ラッパの声の出づる時に至りて
    その奥義は成就せらるべし』 と誓いて云える

  その奥義の成就せらるべきとき、
  神の國の成就せらるべき時、
  その時が近づいたのだ。

  だから此の戦いは、
  神の計画の戦いであるが故に
  恐るる事は要らないのだ。

  神は日本の味方であることを、
  日本人に神國を知らせることを、
  覚悟を持たせることを、
  生命を捨てても、
  その捨てた生命は
  神が生命を拾ってくれると云うことを、
  人間は不死であると云うことを、
  尊い使命と共に永遠に生きると云う
  生長の家の啓示を、
  往き往きてすべての日本人に知らせるのが
  女性の役目であり、
  白鳩の役目である。

  あゝ永遠なる神の計画に帰一する時
  其処に不死の途がある。

  白鳩の誌友よ、姉妹よ、結束せよ
  己を空しくして
  同志互に争うことなく
  同(ひと)つの理想に起ちあがれ。
  同つの使命に起ちあがれ。

  日本の女性よ
  いま女性の使命に目を覚ませ
  いま白鳩の使命に目を覚ませ。

・・・

(本流掲示板に掲載されておりましたが、現時点では消滅しております)
(『行』16年7月号掲載)

          <感謝合掌 平成27年6月18日 頓首再拝>

[702] 朝の讃歌
伝統 - 2015年06月19日 (金) 04時35分


朝、目覚めたときがその日の出発である。
朝、目覚めたとき貴方は神に感謝するか。
若しあなたが神に感謝したならば神の祝福はその時から始まるのである。
若しあなたが何か不足なことをその朝思ふならば、その朝が不足の出発である。


朝、目覚めたとき貴方がよろこぶならば、
その朝がよろこびの出発である。

朝、目覚めたとき貴方が憂鬱を感ずるならば 
その朝が憂鬱の出発である。

自分の心から出したところのその通りのものが自分に帰って来るのである。

ああ悦びに満ちたこの朝、ああ輝きに満ちた此の朝
ああ豊富華麗なる此の朝、
ゆたかに神の祝福の満ちみちたるこの朝

この朝をどうして讃へずにゐられるだろうか
たからかに私達は朝を讃へる歌を歌はう。


悦びの歌を歌はう。
太陽は吾らに対して微笑みかけるが如く 
私たちも微笑まう。

やさしき美しき言葉を 
家族に隣人に花降るやうに降らせよう。

失望してゐる人々には激励を与へよう。
悲しんでゐる人々をなぐさめよう。


わがもてるすべてのものは 
わがものにあらず神より
与へられ恵まれたれば 
悦びて他に与へなむ。


悦びて他にあたへなば 
悦びの人の思ひは 
かへり来て愈よゆたかに
われみづからをうるほさん。


この日いちにち 
よろこびのほか考へず 
ひとの悪をおもはず
ひとをさばく事なく 
ただすべての人を祝福せん

よきことを思へば 
よきことを種蒔くなり 
よきことを種蒔けば 
よき実りあまた生ぜん


「神様、あの人が幸福になりますやうに 
神様、この人が幸福になりますやうに

 AもBも幸福になりますやうに
 CもDも幸福になりますやうに
 すべての人々が幸福になりますやうに」

これが私の朝々のいのりであり、 
あなたたちの朝々のいのりでなければならぬ。


ああ大いなるかな種蒔く人 
ああ大いなるかな人をさばかぬ人
ああ大いなるかな人をゆるす人 

更に大いなるは他を祝福する人であり、
ひとの幸福のために祈る人である。

これこそがまことの大いなる種蒔きである。


蒔かれたる種は深く大空の 
光みつる世界におちて、
神のめぐみをゆたかに吸ひて
ふくらみて芽をいだし 
萌え出でて大樹とならん。


朝々が吾々の新生である。 
朝々にたからかに新生の讃歌を歌はん。

「われは今新たに生れたる人なり 
新たに生れたる神の子なり
すべての力はわれに豊かに与へられて
あるなり」と。

(一九四八、六、一九)

         (*「こころの旅路」<P228〜P233> より)

          <感謝合掌 平成27年6月19日 頓首再拝>

[703] あらゆるところに神を見出す
伝統 - 2015年06月20日 (土) 04時32分


  神は光である。
  わが室(へや)の窓の外に、
  神の光は待つてゐるのである、
  倦(う)まず撓(たゆ)まず。

  私はいつまで神が其処に居ることに気が付かなつたらう。
  神は私がその窓を開くのを待つてゐるのだ。
  神はゐないのではない。
  私が心の窓を開かなかつたのだ。
  ― 光は私の内にある


  誰かが戸を叩いてゐる。
  神が私の家の門口に来て戸を叩いてゐるのだ。
  私は神を求めなかつたのに、
  神は私を求めてゐ給うたのだ。
  私は何と云ふ親不孝者だつたのだらう。
  私が神の膝に跳び付きさへすれば全ては与へられてゐるのだ。

  神のないところに生命はない、
  神のないところに美はない、
  神のないところに智慧はない、
  神のないところに愛はない、
  其処に生命があり、美があり、智慧があり、愛があると云ふことは、
  其処に神が在(いま)すと云ふことである。
  斯くて私は凡ゆるところに神を見出す。

  すべてのものに、自分の外に、自分の内に。
  まことにも神詰ります世界である。


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)P29〜31 より
     日時:2011年06月16日 (木) 15時34分 ”童子 さま”記事より

          <感謝合掌 平成27年6月20日 頓首再拝>

[708] 光への道
伝統 - 2015年06月24日 (水) 02時57分


もっともっと気高く生きよう。
最も気高いことのほか何事も考えまい、
最も気高いことのほか何事も為すまい。


他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還って来る。


悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。


汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)P158〜159 より

          <感謝合掌 平成27年6月24日 頓首再拝>



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