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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[648] 相倚りたすける(四月の光明道中記)
伝統 - 2015年05月03日 (日) 03時25分

【燦爛輝く桜花】〜四月「相倚りたすける」はじめの言葉

観る世界は観られる世界である。
能観(のうかん<あるもの>)の中に所観(しょかん<みられる>)の世界があり、
所観の世界の中に観る人の心がある。

観る者と観られるものとは本来一体であるのである。
これを吾々は心の影と言っている。


日本に美しい桜の花が多いのも、日本人の心が桜の花のように美しく潔いからであり、
執拗でなく淡白であるからである。

本居宣長の『敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』
と云う歌は日本精神を詠んだものとしてその内容に就て色々と解釈せられているが、

『朝日に映(は)えている爛漫たる相(すがた)』が日本精神だとか、
散りぎわの潔い相(すがた)が日本精神だとか、互に言い争って、
その解釈の優劣を決定する必要はないのである。

観る世界が観られる世界であると云う真理が本当に解るならば、
日本の国の相、日本の樹木の相、日本の風光の相、すべて、日本人の心を
現していないものはひとつもないのである。

風土が人間を感化するとも言えるが、桜も生命であり、心の表現であり、
人間も生命であり、心の表現であるから、

日本人が桜を感化し、桜が日本人を感化し、日本人の中に桜があり、
桜の中に日本人があるのである。

差し昇る朝日に映える桜花を鑑賞する日本人の心には、
差し昇る朝日に映える桜花の心があるのである。

[649] 上旬
伝統 - 2015年05月03日 (日) 03時37分

天地の開くる音を聴く日

           *「光明道中記」(4月1日)より

【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
                           (生命の實相第十一巻)】 
    
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、何かもう現在には何の関係もない、

たとい関係があるにしても、それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに
過ぎないので、今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。

創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。

一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、原始(はじめ)であり、
終末(おわり)であり、一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの
「一」である。


「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。

「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。

併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、而(しか)も
アインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。

・・・

霊的世界を悟る日

           *「光明道中記」(4月2日)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。(『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに何故(なぜ)色々の様式をあらわすので
あろうか。それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、ただ霊的波動を、
吾々が仮に静止面空間に置き直して、物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

・・・

動的天地の実相を知る日

           *「光明道中記」(4月3日)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                           『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めない
と云う人は、「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易いのであるが、
万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、その物質(茲では電子)が
あるのか不明であると云うことが発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような固定したものではなく運動している
のである。運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

・・・

顛倒妄想を去る日

           *「光明道中記」(4月4日)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

・・・

人に宿る美を知る日

           *「光明道中記」(4月5日)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」
なる理念と合致するから、その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、今視えているような
肉体の形は肉体そのものの形ではなく、吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも相対的には本当であって、
絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

・・・

喜んで献ぐる日

           *「光明道中記」(4月6日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                        (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。

太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。

吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。
然(しか)るに今では他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

一個の何の功労もない女性が、一家の主人公に身を献(ささ)ぐれば、彼女は一家の
主婦としてその一家を自由に処理し、又は管理するところの権力を得る。
身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、
実は、男性を自由自在に支配する力を得る。

伸びるとは与えることである。

・・・

必ず知人一人を光明化する日

           *「光明道中記」(4月7日)より

【五官に顕れる状態で喜悲(きひ)する者は五官を信じているので神を信じていない。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

眼は物を視(み)ない、耳は音を聴かない、脳髄は《もの》を考えない。
視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのは心である。
心は自分の便宜のために眼を創造し、耳を創造し、脳髄を創造したのである。

ここに言う「心」とは脳髄から出る作用ではない。
脳髄を設計したところの「心」である。
それは脳髄以前の「心」であるから「生命」と同意義に解しても可(よ)い。

「生命」は《常に》ある。
併し脳髄は破壊する。眼球も破壊する。聴官も破壊する。
併し、破壊するものは《常にある》ものではない。

途中から造られたもの、暫定的なもの、ただの機関に過ぎないもので、
「生命」そのものではない、「人間」そのものではない。

人間は死なないものである。

常に破壊しつつある機関の中にあってそれを操縦しながら、
永遠に死なないところの機関手が「人間」なのである。

その機関の材質は、「固定的な物質」で出来ているものならば、
それが摩滅し、摩損したときに取換に不便であるかも知れぬが、

それは「エーテル」と一時科学者が名付けたところの
「無」を材質として、それを心の波でどんな形にでも造構したものであるから、
どんな破損でも摩滅でも「心」でそれを修繕し得るのである。

・・・

釈迦新生の日

           *「光明道中記」(4月8日)より

【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今 
 ―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】


「お前は何を求めているのだ? 」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「《この》私が永遠か? 」

「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸である。

各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。

是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。

・・・

善事のみ心に描く日

           *「光明道中記」(4月9日)より

【心そのものは吾らの本体にして病気になることはない。(『生命の實相』第四巻)】

心に描くことが第一の創造である。
心に描いた通り形にあらわれるのは第二の創造である。

家は建ち上ったとき初めて建ったのではなく、
それは設計家の心に出来上がったとき既に立ち上がったのである。

それよりも更に遡(さかのぼ)れば、漠然たる建築主の心の中に何となく家を
建てたくなったとき、既にその家は建っているのだとも言えるのであろう。

或る地方では食事のときにする遊戯に「茶柱が建つ」と云って、
湯呑(ゆのみ)に注(つ)いだ茶の茎(くき)が縦になって浮き上るのを楽しんで、
左手で箸で拾い上げて袂(たもと)の中に祝福しながら入れる風習がある。

盛んに茶柱が立つときには、その人の運勢は盛んであり、家なども盛んに建つ。

昭和10年どこへ往っても私の茶碗に注がれる茶には不思議に「茶柱」が立ったと
言っていると、本部の改築が出来上る、光明思想普及会の新社屋が出来上がる、
原宿の学生寮が新築される、家庭光明寮の第三寄宿舎「愛泉寮」が新築される、
研究室の新設等・・・建つ、建つ、建つ・・・

形あるものは、その奥にその形に相応する心の波動(アイディア)が動いているのである
から、自分の心の世界に「すべて立つ」アイディアが動き出すと、
現象界の事々物々にそのアイディアが映し出されて具象化するのである。

・・・

幸福相(あい)踵(つ)いで来る日

           *「光明道中記」(4月10日)より

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。(『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」であると云う意味であった。
併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在すると云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、三次元的に翻訳して
視ているのであるが、半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの
三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に
減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、平面的存在の如く写真に写されて
いるからとて、その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば其処に映し出された写真に
映像ムラが出来たり、ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)
された場合に不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

[652] 中旬
伝統 - 2015年05月07日 (木) 02時58分

必ず成功する日

           *「光明道中記」(4月11日)より

【天地に満つる大きな清浄な空気 ―― それが得られるのに何故
 吾々は狭い室内からのみ空気を吸う必要があるでしょうか。(『百事如意』)】


不成功な人間が常に呟(つぶや)く言葉は「自分には運がない」という言葉である。
「運さえあれば自分だって立身出世も出来れば高位高官にもなれるのだが」と言う。
そしてとうとうこんな人は生涯呟きながら不成功で終って了(しま)うのである。

併し本当に成功する人は「運は常に自分の掌中にある」と言う。
「時々刻々自分を磨き、自分を伸ばす運だ」と言う。

そして斯う云う人々は常に自分を磨いて時々刻々自分の能力を増大し、
自分をば高い位置にまで伸(の)し上げる。

常住楽観主義、常住成功主義の人はこんな人である。

運は外にあり、環境にあると思う者はついに成功を失って了(しま)うものである。
運は内にあり、環境は自分の心の反影なのである。

自分の内にある「運」を育てないものは、
ついに外に何らの「運」がないことを見出すであろう。
自分の内に深切の心を養わない者は、環境も亦その人に対して不深切であろう。

大抵の人は「私は金が欲しい」と言う。
そんな人は金の方から逃げて行く。

「金が私を欲しがる」ようにならねばならぬ。
その人は諸方から引張り凧(だこ)である。

・・・

当り前の事が当り前に出来る日

           *「光明道中記」(4月12日)より

【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
                             (『百事如意』)】

何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。

「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。

またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。

「幸福」と云うものも同じようなものである。

「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。

・・・

招かずして幸福来る日

           *「光明道中記」(4月13日)より

【貨幣を与えると労働力が動き出して価値創造が始まるのであります。(『百事如意』)】


何でもあまり追っ駈け廻すと嫌われる。
恋人にさえもあまり執着するならば、その人は嫌われるであろう。
執着と云うものは相手にまつわり着き、
相手を心で縛って窮屈な感情を起こさしめるからである。

「金」を追っかけると「金」は逃げて了(しま)うか、
「金」から来る「幸福」は逃げて了う。
「儲けよう」と思ってそればかりを追っかけている相場師に、
結局儲けた人も幸福になったひとも一人もない。

「眠り」を追っ駈け廻して「是非眠らねばならない」と「眠り」を追っ駈け廻す時は
「眠り」は逃げて了う。―― 心の法則は何事に当て嵌めても同一効果である。

夜よく眠る法は、寝床は眠くなるところだ、と知らなければならない。

人生も同じことである。
幸福に《なろう》とするよりも、
人生と云うところは幸福な所だと気が附けば幸福がおのずから来るのである。

今晩はまた眠れないだろうと予想することは寝床とは眠くならぬ所だと
予想することになるから、不眠の原因となる。

今晩は眠れないだろうの感情は恐怖を伴った感情である。
恐怖は外敵に対峙する感情であるから、
外敵がある場合眠らないでいることが必要であるから、不眠は自然の自衛作用である。

自衛作用を病気だと取違する者は愚か者である。

・・・

幸福の声を聴く日

           *「光明道中記」(4月14日)より

【誰でもあらゆる物を有(も)って出発する。全てが吾がうちに在るんですからな。
                              (百事如意)】


「幸福」の天使(てんのつかい)が出て来まして或る日私に斯(こ)う言いました。――

「私は常にあなたの後を追っ駆けて走っているのですのに、
あなたは何故(なぜ)そんなに逃げるのですか。もっと緩(ゆっく)り歩きなさい。

急ぐことは要らないのです。当たり前に歩いていさえすれば
私は屹度あなたに追着くことが出来るのです。
それだのにあなたはそんなに私から逃げて走って行くのですか」

私は答えました ――

「幸福さん、私は貴方(あなた)から逃げているのではありません。
私は貴方に近附こうとして一所懸命走っているのです。
それだのに貴方は私が走れば走る程逃げて行くのです」

「幸福」は斯う答えました。

「私は逃げていません。私も貴方に追着こうとして走っているのです。
それだのに私は貴方に追着けないのです。
あ、判りました。私たちは人生と云う円周の上を走っているのでした。
どちらかが緩(ゆっく)り歩いたら、すぐ二人は一緒のところへ来るのでした」

「斯うですか? 」私は人生の歩みを止めました。
と同時に「幸福」の天使の姿は見えなくなり、

「止まっては可(い)けません。
止まってはどう云うものか私にはあなたの姿が何処(どこ)にいるか見えなくなるのです」
と云う声だけが聞こえました。――

・・・

喜びに招かれる日

           *「光明道中記」(4月15日)より

【・・・この力と接触する道は、最大多数の人間には最大多数の善を為そうと思って
 自己の生活を正しくすることです。『百事如意』】


「幸福」はあなたを愛人のように追駆けて走っており、
あなたも亦「幸福」を愛人のように追駆けて走っており、
そうして互いに相逢ことが出来ないのは、

「幸福」と同一円周上にいながらあなたが「幸福」をあまりに追駆け廻している
からだと云うことに気がお着きになったことでしょう。

一所懸命に「幸福」を追賭け廻している限り、
ついに吾々は「幸福」に追着くことが出来ないのです。

では停止して了(しま)ったら、「幸福」の方から追着いてくれるでしょうか。

吾々が人生の働きの歩みを停止したら、「幸福」の眼には吾々の姿が見えなくなるのです。
何故なら各人は、「生命」であり、「生命」は活動している時だけ、
その姿が顕れているからです。
「生命」が活動を止(や)めたときに、そこに吾々はもういない。

吾々の姿は無くなるのです。

だから「幸福」の天使(てんのつかい)に追着いて貰うためには
吾々は「幸福」を追駆け廻してはならないし、
それだと言って「生命」の歩みを止(と)めてはならないのです。

「幸福は必ず自分に追着いてくれるもの」と信じて、
急がず焦らず悠々と着実に今自分に与えられたる人生の行路を歩む者には
遂に幸福が追着いてくれるのです。 

・・・

元気充満の日

           *「光明道中記」(4月16日)より

【「心が」或る一つの「迷い念」に引っかかって生命本然の自由性を失うところに、
 その「心の影」そして色々の病気があらわれる。(『光明の健康法』)】

不健康とは自然を失った状態である。
健康なのが人間の自然であるから、自然になりさえしたならば、
健康は自然に顕れるのである。

それと同じく、人間の成功も、幸福も、自然なのであるから、
人間が自然になりさえしたならば成功も幸福も自然にあらわれるのである。

健康や、幸福や、成功を何か異常な出来事であるかのように求める心が
間違っているのである。
此の間違った思想の中に誰でも生活している限り於いて
その人は本当に幸福にも健康にもなれる訳ではない。

吾々は人生観を根本的に置き換えなければならないのである。
人間は「神の子」であるから本来幸福に健康に成功するように
最初から定(き)まっているものなのである。

それなのに幸福と健康と成功とを何か特別な少数者だけのもののように、
それが異常な出来事のように考えているから、その考えが具象化して、
それが何か異常な出来事のように、少数者にしか実現しないのである。

吾々の健康の秘訣は、幸福の秘訣は、成功の秘訣は、
健康が、幸福が、成功が常に吾々を追い廻しているということを自覚するにある。

・・・

神想観深まる日

           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、自分の周囲と内部、
悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも
周章狼狽することなく、必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

・・・

全てが成功に変わる日

           *「光明道中記」(4月18日)より

【自己の内に埋蔵されたる無限無尽の供給を知らないものは
 自己に対して罪を犯すものであります。(『百事如意』)】

若し躓きと見える様な事が起っても躓きと云うものは
神の造り給いし世界には無いと信ぜよ。
「躓き」とは本当は「入口」なのである。
どこの家にも入口の門は閉まっているが如く見えるであろう。

吾々は「入口」の前に往って行詰る。
否、行詰ったと錯覚するのである。
併しその時には既に奥座敷に近いのである。

吾々は野原を彷徨(さまよ)っているときには少しも行詰らないと感じる。
而も既に成功の玄関に来たときに、その前に直面した「扉」に対して、
「ハテ、行詰った」と錯覚する。

併し、吾々の前に鎖されている「扉」は決して、
吾々を閉め出すために鎖されているのではないのである。
それは吾々が当り前に開くのを待っている。

その「扉」を開くには秘密の秘伝も何もない。
ただ当り前に「眼の前にある扉を開く」と云う仕事、言い換えれば、
眼の前に「今」与えられていることを百パーセントの忠実さで実行する
と云うことによって、成功の「扉」は開かれるのである。

「今」をおろそかにする者は「扉」を開かないものである。

生命がそれ自身の本然なる自他共栄の相互活動を行なうとき、
健康になるのは当然である。

・・・

相倶(あいとも)に扶(たす)くる日

           *「光明道中記」(4月19日)より

【僕は何でも、過去のことは《過去として》それで善かったと思っています。
 過去は過去だ、後悔したりするのは嫌です。(『百事如意』)】

呟(つぶ)くこと、人の悪い噂をすること、不景気の話をすること、
詰まらない話をすること
―― こんなことに時間を費やしている限り、あなたの事業は衰退する。

そんな事をする暇に光明思想の本を常に携帯していて、
それを読んで心を光明に転向すれば、事業も亦(また)光明に転向する。

健康にしても矢張りそうである。

若し不平を言うこと、呟くこと、憎むこと、人の欠点(あら)を探すこと、
尖った心を起すこと、人を遣(や)っつけたい感情を起すことを止(や)めなければ、
その人の病気は治らないであろうし、

また病気でない人も、かかる心持を持続する限り
「病気」の方向に向かって突進しつつあることを知らねばならぬ。

成功の秘訣がサービスにあることを知っている人は多いが、
健康の秘訣がサービスにあることを知らぬ人が多いのは、不思議なことである。

サービスは自分が働いて人を喜ばすことによって成立っている。

自分が働いて人を喜ばしたならば商売が繁昌するのは当然であるが、
その人の健康がよくなるのは、健康とは人間の自然の相(すがた)であるから、
人間が自然の道に乗れば健康になる。

・・・

人を必ず救う日

           *「光明道中記」(4月20日)より

【皆の人々の喜びが此処に反射して帰って来てこそ事業は生長するんです。
                         (『百事如意』)】

世間にはただ投機的な活動や、自分が儲けたら他が損をするような職業を営んでいて
巨利を博している人たちがあるにはあるが、そう云う人たちは
精神的には実にみじめな生活をしている。

それは隙を見て奪うにも似たる生活であるから、
その先鋭的な精神状態は自分自身を傷(きずつ)けて、
自分自身が神経過敏状態になるか、身体の各所に病気を持っている。

更にその尖鋭な精神状態は家族を傷け、家族たちがヒステリーに陥るか、
身体の各所に病気を持っているであろう。

労(サービス)せずして得たる金銭は、その人の身につく資格なきものであるから、
それは必ずその人から飛び去ろうとする。

その飛び去る際に、その持主を肉体的快楽の賎奴(せんど)とするか、
執する物に離れる愛別の苦痛を与えて飛び去るのが普通である。
或る場合には金が溜(たま)れば必ず医者にとられる。

考えて見るならば金銭は何処(どこ)がそんなに尊いのであろう。
それは隣人を救う時に利用されるとき、自分を高め勉強さすように利用されるとき、
その時にのみ尊いのである。

隣人から奪ってこれを苦しめ、自分を肉体的快楽の奴隷にまでならしめるような
金銭は却って地獄の使者(つかい)である。

[666] 下旬
伝統 - 2015年05月19日 (火) 08時00分

種子(たね)を蒔くに肝腎の日

           *「光明道中記」(4月21日)より

【兎も角十人の隣人に喜ばれる人は十人の顧客を有(も)つ者です。
 神に喜ばれる人は神を顧客に有つ者です。(『百事如意』)】

勤労も好(よ)い、奉仕(サービス)も好い。
併しながらそればかりが成功の全貌ではないのである。

世の中には石川啄木の歌の通り、
働けど働けど生活が楽にならない人たちも沢山ある。

勤労は耕作であり、掘鑿であるけれども、
いくら耕しても不毛の地では好い作物は出来ないし、
いくら掘鑿しても、鉱物の埋蔵されていないところから鉱石が採取される筈がない。

だから成功とは、見えない世界に埋蔵されている「或る物」だと
言わなければならないのである。
見えない世界に埋蔵されている「或る物」こそ耕作して花開き実を結ぶ種子であり、
埋蔵されている鉱石である。

これは宗教上の語(ことば)で言えば「福田」であり、
心理学上の語で言えば識域下に印象されている観念である。

それは一言で云えば、吾々の先祖と、吾々自身が潜在意識の世界に蓄積して来た業である。

それは意業、口業、身業と云うように3つに分つことも出来るが、
すべての業は念の動かない所に動かないのであるから、
全(すべて)は「蓄積された念」だと云う事が出来る。

「念」が不幸になるように蓄積されている人は、
どんなに耕作しても、どんなに掘鑿しても、そこは不毛の地だと云うことになる。   

・・・

父母を憶い出ずる日(私の実父の祥月命日)

           *「光明道中記」(4月22日)より

【一人でも本当の人間を作ることは天における神様の喜びであります。
                         (『生命の實相』第十七巻)】

私は生みの親の死に目にはどちらも逢っていない不幸者である。
生みの父の亡くなったときには、「オトキチキトク」の電報を受けて
故郷へ還って見るともう生父(ちち)の霊魂は肉体を去っていたのである。

中学へ入学するとき其の戸籍謄本によって此の人が私の生父であると知りながら
一度も生父として名乗ることも出来なかったし、これからも名乗る機会もないであろう。

私の宅の神仏を祭る祭壇の一部には生父の写真があるが、それも或る日、
生父が山へ草刈りに出かけていた時、通りすがりのアマチュア写真家が写して。
あとで1枚くれたのを長い間空気に曝し、蠅の糞などで蔽われ、

ところどころ表面が剥げて原型をとどめないのを、
家内の発案で強いて修正複写して兄弟たちに頒(わか)った其の1枚である。
もし此の写真がなかったら私の生父の写真はないのである。

生母(はは)の死んだときは、私は関東大震災に逢って神戸の養父母に厄介になっていた。
生母はすぐ隣家(となり)で死んだのだが、私はその臨終の席に招ばれもしなかった。

私は生母のところへ往来(ゆきき)するのを養父母に遠慮していたし、
ほかの人も私の心を察して私を臨終に招ばなかったのであろう。

父母はこうして四人あったので、
その仲に立って非常に神経過敏に心を遣っていた私であった。

・・・

自利利他の善行を積む日

           *「光明道中記」(4月23日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

・・・

祖先の恩を知る日

           *「光明道中記」(4月24日)より

【人間の本性は「愛」でありますから、「愛」を失ったときその人は自暴自棄に陥るのです。
                           (『生命の實相』第十七巻)】

もう一人私に伯母さんがある。
もう此の世にはいないが、好い伯母さんであって私を常に愛していて呉れた。

時々夫婦喧嘩をして逃れて私の家へ来たときなどには、
私は一ヶ月も二ヶ月も此の伯母さんと一緒の布団に寝たものである。

私が一緒に寝ないと言うと、
「伯母さんと一緒に寝たら一晩に1円ずつお小遣銭(こづかい)をあげましょう」
と言った。

私は買い食(ぐい)も何しない子だったので、その金を皆養母(はは)に渡した。
養母はそれを貯金して置いてくれた。ついにその1円ずつが貯蓄されて
三百幾十円かになったものである。
私の大学での費用の一部は此の貯金で賄(まかな)われた。

此の伯母さんは家庭は裕福であったが、
良人は裕福なその「金」を人生のためになる方向に使わず、よく酒ばかり飲んでいた。

従って伯母さんは仏の道に志して四国八十八カ所を十幾度も遍路して
金の納札(おさめふだ)を納めたとか、西国三十三カ所を幾十回廻ったとか、
高野山にも毎年まいることを怠らなかった。

此の伯母さんには子がなかった。
此の伯母さんの唯一の希望は「私」であった。

最も大きな遺産は此の伯母さんが
私に神信心の福田を遺して置いてくれたことだと思う。

・・・

因縁尊き日

           *「光明道中記」(4月25日)より

【貴女の我(が)でこれは善だとか批判してはなりません。
     今日から良人を神様だと思いなさい。(『生命の實相』第十七巻)】

自分の生みもしないしない子を幼い頃から育てるのは大変な骨折(ほねおり)で
あったであろう。
私は可愛がられていたから、養父母のことを実父母だと思っていたのである。
その位私は可愛がられていたのだ。

その事を私は心から感謝するものである。

私の実父母のところで育てられていた私の肉身の兄妹たちは私ほど学校教育を受けなかった。
若し私が生まれた家に育てられて生活していたならば、今日の『生長の家』は存在しなかった
かも知れぬし、私の運命も非常に変わったものとなっていただろう。

子に貰われるも、貰われぬも、養子にやられるのも、みんな神の指図であり、
そして自分自身が前世から持っていた種蒔(たねまき)の芽が生えたのである。

因縁不可思議であり、また不可思議でもない。
ただ斯くあるものが斯くあることが貴いのである。

私は或る誌友から「あなたの今日あるのは両親のお蔭であるから
生長の家の各教化部にあなたの両親の写真を掲げて拝せしむべきである」と
忠告されたときに私はハタと当惑した。私の親の写真は4人ある。

・・・

公に献ぐる日

           *「光明道中記」(4月26日)より

【吾々の徳と云うものは既に吾が実相の中にあるのです。吾が実相が神であって、
 その中に万徳が既に備わっているのです。    (『生命の實相』第十七巻)】


私の写真を頒布するのは私の写真を《拝ましめる》ためではない。
それは、私たち夫婦を懐かしがって時々私たちの写真を見たくなる人たちのお部屋に、
写真となってお伴したいからである。

写真収入の幾らかは本部維持費に一部になっているのであろう。
信者たちに私の肖像を拝ましめるためならば第一本部道場に掲げて置くべきであるが
本部道場には私の写真は1枚も掲げていないのである。

各地方の教化部に掲げられている私たちの写真もその教化部の責任者が個人として私
を懐かしがって、写真代を出して自発的に求められたものばかりである。

見本を写真部にでも出して置けばもっと申込者があると思うが、写真の善悪良否を
考えて求める人のところへは私は行きたくないので、
私は最も非効果的な宣伝方法で写真を頒布しているのである。

私の養母(はは)は98歳で亡くなられたが、生きているとき
私の肖像写真が頒布されているのを聞いたとき、
「雅春も近頃は身売りしているそうじゃ」と嘆息された。

私は私の写真を拝ましめるところか身売をしているのであった。
ただその身売りが人類光明か運動の経費を造るために使われるので
普通の身売と異(ちが)う。
私は衆(しゅう)のために身売するものである。

・・・

自ら戒めて心を傲(おご)らざる日

           *「光明道中記」(4月27日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

・・・        

心の主人公となる日
 
           *「光明道中記」(4月28日)より

【神と私とは父子の関係だ。本当に愛して愛されている。
                   (『生命の實相』第十七巻)】

愚かなる人と賢者との相違は、愚かなる人は一時の感情に捉えられて失敗するし、
賢者は冷静な智慧によって、その野生的な感情を駆使して一定の方向に利用して行く
のである。

腹の立っている時には人に怒鳴り附けてはならないし、
腹の立っている時には人に手紙を書いて投函してはならない。

耐(たま)らなければ書くだけは書くが好い。
罵(ののし)れるだけその書き物の中で罵るが好い。
併しその手紙を投函してはならないのである。

激情は壁に打(ぶ)っ衝(つ)かったゴムボールのように
吾々の投げたと殆ど同じ力で投げ返されて来るものである。

書きたいだけ書いたならば、その怒(いかり)の念は既に形の世界に顕れた
のであるから、新たな激情も煽(あお)らない限り、その最初の実現力を失って、
耐(た)まらないと云う程にはならないのである。

もうその時赦せば好い。

吾々への神の啓示は、一度吾々の潜在意識面へ照射されてから
現在意識へ反射して出て来るのである。

吾々の潜在意識が「幸福」を吸収して了うならば、
「幸福」になる方法は現在意識面へ浮かび上がって来ないのである。

潜在意識に色々の悪感情を蓄積して置くならば、
どんなに神がその人に「幸福」の光を投げかけても、
その人の現在意識には不幸になる道のみが思い浮かぶだろう。

・・・

感謝報恩の日

           *「光明道中記」(4月29日)より

【富を自分の方へ引き寄せようと思うまでに、
 自分自身を全体のために与えなければなりますまい。(『生命の實相』第十七巻)】

吾々の潜在意識の中には色々のものがある。
その中で最もどう云う種類の観念が優勢を占めているかと云うことによって
其の人の運命は決するのである。

其の人の周囲に集まって来る日常無数の出来事は、
その人の潜在意識中の優勢観念が磁石となって回転するのである。

吾々の潜在意識中の優勢観念が、「人間神の子・万事良くなる」という
大信念であるならば、その人の周囲に起るところの大小無数の事件は必ず
其の人が幸福になるように、その人が発展するように好転好転又好転するのである

―― 若しそれでもその人に幸福がやって来ないならば、その人は傲慢になり過ぎて、
万事が神から来ることを忘れ、自力の信念の効果によるものとして
感謝と報恩との行を忘れて了ったからである。

感謝は「幸福」の機関が回転する心棒に注す油のようなものである。

報恩は「幸福」の機関が生産した物品の配給である。

いくら「幸福」の機関が上等だからとて、油を注さなかったり、生産品を処置しなかったら、
その機関は詰って了い、「幸福」の機関の運転は停止して了うであろう。

・・・

神一元の自覚愈々深まる日

           *「光明道中記」(4月30日)より

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。



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