[677] 繁栄を招く神想観 ( 一 ) |
- 明鏡 - 2015年05月29日 (金) 21時20分
本稿は、昭和四十九年三月十七日のラジオ放送 『 幸福への出発 』の録音テープから
起こしたもので、昭和五十七年十一月号の『 精神科学 』 誌に発表されました。
谷 口 雅 春 先 生
おはようございます。
今日は 『 真理の吟唱 』 をテキストとしてお話し申し上げます。
まず 『 真理の吟唱 』 の37頁(聖経版では53頁) “ 神と融合するための祈り ” を
朗読いたします。
【 神と融合するための祈り 】
私は今、神を想(おも)い、ひたすら神を念じ、神と融合するのである。
神は愛の火である。愛の水である。神は火と水との完全な融合であり、
そこより一切のものを生ずるのである。
今私は神と融合して神我一体であるのである。神われにあり給い、われ神にあり給う。
私は神と一体なのである。わが内に神はあり給い、神の内にわれはあり、
われは“ 初め ”であり“ 終り ”であり、すべてである。
われは“ 生 ”であり“ 死 ”であり、生きることも自由であり、死することも自由である。
死するといっても無くなるのではないのである。何故なら、我れは“ 実在 ”であるからである。
“ 実在 ”が我れであるからである。死はわが生命の動きが方向をかえるために一時動きを
停止したに過ぎないのである。永遠の停止はないのである。私は停止することも自由であれば、
動き出すことも自由である。「 死 」という存在が‘ ある ’のではないのである。
生命の動きが“ 前向き ”になるのと“ 後向き ”になるのとの相違に過ぎないのである。
現実界から見たら“ 前向き ”であるときには、霊界から見たら“ 後向き ”であり、
現実界から見たら“ 後向き ”であるときには、霊界から見たら“ 前向き ”である。
いずれにせよ、人間は神の生命そのものであるから、自己の内に “ 無限 ” を包蔵しており、
時間的序列の中に、常に一層美しきもの、善きものを展開してくるのである。
だから人間は常に生長し進歩するのであって 決して退歩するということはないのである。
従って私は如何なる時にも悲観することはないのである 』
【 中心真理を自覚したとき 内なる “ 無限 ” が堀り出される 】
『 いずれにせよ、人間は神の生命そのものであるから、自己の内に “ 無限 ” を包蔵しており、
時間的序列の中に、常に一層美しきもの、善きものを展開してくるのである 』
こういうように書かれているのであります。
この、 『 いずれにせよ、人間は神の生命そのものである。自己の内に “ 無限 ” を包蔵している 』 ―
これが真理の中心になるところの ‘ 中心真理 ’ とでもいうべきものであります。
イエスが、
「 汝は真理を知らざるべからず。真理は汝を自由ならしめん 」
と言った、その真理の中心となるべきものなんであります。
その真理の中心となるものを自覚したときに、健康だけじゃない、あらゆるものが、
職業、能力というようなものでも、自己の内に一層よきもの、美しきもの、豊かなるものが
展開してくるんです。
その無限の神の内容が自分の内に埋蔵されているのだけれども、それを自覚することによって
掘り出されてくるということになるのです。
その無限が掘り出されてきたとき、職場における成績でもよくなる、繁栄も自ら得られるということに
なってくるわけであります。
つづく・・・
|
|