[724] (365章シリーズ)はしがき |
- 伝統 - 2015年07月13日 (月) 17時35分
『幸福を招く365章』
はしがき
わたしたちのグループの雑誌に私は光明法語と云うものを毎月書きつづけている。 それは毎日短い1章ごとの文章に、その日その日の生活を明るくし、希望を持たしめ、 生き甲斐の感じを深めしめ、能率があがり、生活の悦びが湧いて来、
従って幸福な健康な人生を営むことのできるように諸君の精神を鼓舞するために 今もなお書きつづけている。
そのように人生に生き甲斐を増し、活力を賦与し、元気をあたえる文章を書きつづけた ことが、多くの読者の悦ぶところとなり、
”桃李もの言わねど下おのずから蹊(こみち)を成す”の諺の通り、多くの読者が集って 来て、それが”生長の家”と云う宗教になってしまった。
私たちは私たちの運動を人類光明化運動と称して宗教とみとめられることを悦ばなかった。
それは寧(むし)ろ迷惑であったのだけれども、人の口には扉をすることもできないし、 私たちは戦争中、愛国運動をつづけてきた関係上、占領軍が上陸して来て日本に軍政を 布(し)いたときに、戦中の愛国運動は概ね解散を命ぜられ、その財産を没収されることに なったけれども、
私たちの運動が公式(自称ではなく、戦前に文部省がみとめたのである)「宗教」と みとめられていたために「信仰の自由」と云う意味で私たちの団体は占領軍の圧力から まぬかれたのであった。
宗教とみとめられたことはこんな利益もあったけれども、戦後、雨後の筍(たけのこ)の ように生じた怪しげな新興宗教と同様に、私たちの運動が一種の迷信の如く誤解された点は マイナスになっているので、この点は今でも遺憾に思っているのである。
しかし私たちの運動は何処までも、文章による人類幸福化運動であって、 一宗一派の信仰を述べつたえることではないのである。 私の書く文章から救われる人々が今も尚続々生じているのである。
読んでみて貰えば判ることであるが、 私の文章は人類を何処までも幸福にしたいと云う祈りを 一句一句に籠めて書かれているのである。
徒言(あだごと)や冗談や、ただの学説や、ただの随筆ではないのである。
人類を悉く幸福にしたいと云う熱願が籠められているために、 「法語」 と云うような多少宗教的匂いがするのは止むを得ない。
けれども此の書の読者は、屹度かならず、読まぬ前より読んだ後は、 何らかの点で、生活の仕方や、人生の考え方で幸福になるにちがいないと信ずる。
私は別に宗教じみたことを書いているのではない。
人間に幸福感を与えるための言語暗示的な語句が無数に見出されるが、 それは決して科学と調和しない思想ではない。
その内容とするところは人生哲学は勿論のこと、物質科学でも論及してあるが、 多くの人々には忘れられている精神科学や心理学や精神身体医学の最近までの知識を 取入れて、出来るだけ平易な達意的文章で書こうとしたのである。
人類總幸福化の熱意がなければ、哲学的なこんな深い問題をこんなに平易に書き綴ることは 出来ない筈で、或る正しい批評家は 「哲学の民主化の完成だ」 と云ってくれている のである。
本書は、こうして書きつづられた数年間に遡(さかのぼ)る私の「幸福生活論」の毎日の 一章の中から、もっとも人生に必要な事項を1年365日に割り当てる為に365章だけ 抜粋し、それを1月から12月までに配列するために、12項目に分けて編纂した のである。
各項目は各々の月の日数と同じ数(すう)の章を包容している。 そして忙しい人には毎朝その短い1章だけでも読んで貰うと、その日の出発に 幸福の光が射し、悦びと「生き甲斐」とで人生が迎えられるように工夫したのである。
しかしなるべく最初の冒頭から全部読んで頂いて此の光明思想を会得し、 それからは毎日1、2章ずつその文章を味わいながら読んで深めて頂くとよいと思う。
若(も)し、あなたの生活に何等かの困難な問題が起こって来たときには、 この書のどの頁でも抽選でもするつもりで披(ひら)いて其の頁を読んで下されば、 必ずその問題を解決するヒントが得られると思う。
それは決して迷信的な意味で言うのではなく、この書は真理を語るのであるから、 キリストが「真理は汝を自由ならしめん」と言った通り、どんな問題に対してでも 解決の糸口が与えてくれるにちがいないのである。
この書を、新年をもう間もなく迎えようとする年の暮れに上梓(じょうし)すると 云うことは意義あることだと思っている。
読者諸賢の幸福と健康とを祈らずにはいられない。
昭和34年12月1日
著 者 識 す
<感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>
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