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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[749] 牝鹿の脚の話
伝統 - 2015年07月28日 (火) 03時39分

このスレッドでは、スレッド「[715] 魔術の話」
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=92)
の冒頭の記事の中で紹介がありました、「牝鹿の脚の話」を紹介してまいります。


『牝鹿(めじか)の脚』

             *「叡智の断片」(P306〜307)より

グレン・クラーク氏の本に『牝鹿(めじか)の脚』という象徴物語がある。
詳しくは『善と福との実現』に紹介してあるが、

その意味は牝鹿は山野を歩むとき、前足の通った跡をそのまま後足で踏んで行く。
それだから決して後あしで岩角をふみ外して崖から転落するような事はない
のである。

牝鹿は自分の努力によって、
後足で前足の歩いた跡を踏もうとつとめているのではない。
ただ《そのまま》歩いているのである。

即ち神の意志がそのまま現れているのである。


人間に喩えれば、牝鹿の前足は現在意識である。
牝鹿の後足は潜在意識である。

現在意識の欲する通りのことを潜在意識が「善し」として、
そのまま随って行くようになった時、いかなる事でも成就せないものはない。

神は牝鹿にさえも《そのまま》に正しい歩き方を教え給うたのである。
まして人間が《そのまま》に神の導きに従うとき
無限に幸福な生活が出来ないと云う筈はないのである。

幼な児は大人よりも寧(むし)ろ素直に神の導きに随っているのである。


・・・

初出は、「『 白 鳩 』 誌  昭和22年9月号  7頁」
    → http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18881678.html


<参考Web>

(1)谷口雅春 牝鹿の足1 (SEICHO-NO-IE)
     https://www.youtube.com/watch?v=pbRcLrhTCq4

(2)谷口雅春 牝鹿の足2 (SEICHO-NO-IE)
     https://www.youtube.com/watch?v=d2JQPQx5hSg

(3)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「[288] 「 牝鹿の脚 」 の話」
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=41

              <感謝合掌 平成27年7月28日 頓首再拝>

[756] 「牝鹿の脚」の話
伝統 - 2015年08月06日 (木) 17時54分


           *Web:橙灯望記(2012-04-08)より

谷口雅春先生のご著書に「善と福との実現」というご本があります。

田舎の親元にいたころ、真理への思い胸いっぱいで、いつも手元にご本をもち、
沢山のご本を読ませていただいていた中に、このご本がありました。

まだまだ若く、真理への理解も浅いわたしには、
「むずかしいご本」、という印象でした。

このなかにある「牝鹿の脚」のお話の意味がわからなかったのです。

読まれたかた多いとおもいますが、主人公のクラーク氏が汽車のなかで、
隣の席に座った白い髭の老人に 「牝鹿の脚」 の話を聞きます。

老人は青年のころ、商社に勤務し、また、別会社もつくり、沢山のお金をもうけ、
ついに健康を害し、スペリオル湖のロイヤル島で静養をおくる日々をすごします。

健康も恢復してきた頃、日没近く、ボートに乗って漕ぎ出、
なんだか眠くなって眠ってしまい、数時間後気がついてみると、
はるかに陸地も見えない、水また水の縹渺とした湖面にただよっている自分を発見します。

スぺリオル湖は、時々強風が起こってボートが覆り、溺れた者は
決してその死体が発見されることがないことを思い出し、
パニックのような恐怖に襲われた彼は、神に祈ります。

「神様、若しあなたが私を救って下さるならば、これ以降の私の生涯の半分を神様の仕事に、
人類を救うためにささげます。特に青年を救うために」。

そのとき、空に突然、イエスの降誕の場所を示したベツレヘムの星とはこんなものかと
思わせるような、月の大きさの四分の一ほどもある大きな星があらわれ、
彼が出発した島の船乗り場へ導きます。

その後、彼は神様との約束どおり、商売の旅ごとに汽車のなかで、
神様の導きのまま、その話をするべき誰かひとりに自然に話しだすようになります。

そして、その日はクラーク氏に話してくれます。

「彼はわが脚を牝鹿の脚のごとくならしめ、いと高きところに吾を立たしめ給う」。

そして言います。「高きところに登って行く最もよき道は 主の祈り です」 と。



天に在します吾らの父よ  願わくば

み名のあがめられんことを

みくにのきたらんことを

み心の天になるがごとく地にもならしめ給え

吾ら日々の糧を 今日も与えたまえ

吾らにおいめあるものを

吾らの赦したるごとく

吾らのおいめをも赦したまえ

吾らを試みに遭わせず

悪より救い出したまえ



「主の祈り」と「牝鹿の脚」のはなし。

クラーク氏は、そのときよく理解ができず、その後9年の歳月を過ごします。

彼は、ワイオーミング州の或る農場で一匹の馬に乗ったとき、
「牝鹿の脚」の話を理解します。

彼の乗った馬は俊足であるけれど、数年間市場で馴らされたたため、
天与の天分を失い、後脚が前脚の踏んだあとを 二、三インチ狂って踏むため、
危険なすべりやすい嵯峨たる岩のこつりつせる山腹をのぼることができない。

そして牝鹿です。

牝鹿は、一度踏み外したら永遠に死の世界へ墜落するような、
山腹の峻しい石道を、前足が踏んだあとをしっかり確実に後ろ脚が踏むことによって、
安全に山頂に行くことができる。



でも、わたしは、このお話を読んだとき意味がわかりませんでした。

前脚は脚元が見えますので、安全な山の背をしっかりと踏みます。

その同じ場所を後ろ脚が踏めば安全なのです。

牝鹿は、神のつくり給える中でも、最も完全なる物理学的完全さでそれができる。

そこまではわかります。


でもそれと、実際の日常での、真理への生き方の意味をつなげることができなかったのです。

わたしはその後、「善と福との実現」のご本は親元においたまま、
「生命の實相」だけを持って、釧路、札幌、と転勤してまいりました。

その間何度か、このお話を思い出したのですが、
その度に「やっぱり、わからない…」でした。

最近になって、「牝鹿の前脚は神様、うしろ脚は私達のこと…???」、
ふっと考えがよぎりました。

あらためて、教化部でご本を買わせていただき、再度勉強です。

ぜんぜん違いました。

牝鹿の前脚は現在意識で、うしろ脚は潜在意識と書いてあります。

「動物が高所に登るには、前脚とうしろ脚が完全なる相互作用をもっていなければ
ならないと同じように、人間も高き自由なる境涯に上るには、
現在意識と潜在意識との間に最も完全な相互作用をもっていなければならない。」

意識の中で、現在意識は全体の5%です。

運命を動かすのは、95%の潜在意識です。

現在意識で願うことに、潜在意識が完全な相互作用をもって動くことができれば、
現在意識の望む「思いどおりの人生」ができあがることになります。

でも、どうしたら現在意識の思念と潜在意識とを一致させることができるのでしょうか。

ご本では「主の祈り」と書いてあります。 

神様への絶対の信頼と全托。

この真理を理解するのに、クラーク氏は9年でしたが、
わたしの場合40年の長い年月がかかりました。

今でも、「ほんとうに解ったか?」 と言われたら、なんと答えるべきでしょうか?

毎日の神想観に、あたらしい祈りのことばが加わりました。

「わたしの生活の今日一日の一瞬一瞬が、神の国の生活でありますように。
そして他の人々の生活の一瞬一瞬が、神の国の生活でありえるよう 
神よ霊を注ぎたまえ。」(320p)


ところで、神様への全托で、ご本では、
アンデルセンの童話「おじいさんの言うことにまちがいはない」によく似た
隠元豆の寓話がのっています。


昔々、ジャックという王子があった。

ある日、巨大な鬼が王様を殺して、年老いた妃と小さき王子とを追放した。

年老いた妃と王子は、只一匹の牝牛と少しの地面で、
生活のために、激しく働かねばならなかった。

そのうちに金がだんだんなくなり、
ついに妃は牝牛を金にかえるために、王子を市場へやった。

市場にいく途中、王子のジャックは羊を連れてくる一人の男にあい、
旨くだまされて自分の連れてきた牝牛を羊に換えてしまった。

次には豚を連れてきた男には豚と、その次の男には鵞鳥に、鵞鳥を雌鳥に、
次々に換えてしまい、やがてその雌鳥を次には一握りの隠元豆と取換えて帰ってきた。

母の王妃は怒ってその一握りの隠元豆を窓の外に捨ててしまった。

そしてその晩、王妃たちは充分に眠ってしまい、翌朝めを覚まして驚いた。

その隠元豆から芽が出、
天にもとどく高さにすくすくと延び、蔓を網の目のように拡げていた。

王子は、その隠元豆の茎を昇っていって
空中にある、不思議な大きな大地をみいだした。

そこは、彼の王様を殺した鬼と、その妻が住んでいる世界だった。

鬼が王子を見つけたら、彼を捕らえて殺してしまったかもしれない。

しかし、幸いなことに鬼の妃が、
いつかは王様から奪った三つの宝物を、
真の持ち主が来て要求したならば返したやろうと考えていた。

王子は鬼の住家へそっと入って行き、父が盗み取られた宝を一つずつ取り返した。

一つは毎日黄金の卵を産む赤い鳥、
そして一つは人間が手を触れないでも自然に鳴るインスピレーションの竪琴、
三っつめは身に纏うと何処でもゆける魔法の神足通のカーペット。

ここで、彼らは隠元豆を大地にゆだね、そして眠った。

我々は自我の殻を破り、外に飛び出す。

大地は我々を抱擁し育んでくれる。

雨は降るかもしれない。

風は吹くかもしれない。

それは、一見困難なる外界の世界に晒される。

しかし、雨は却って我々を潤してくれるものであり、
風は却って我々から害虫を払ってくれるものである。

大地とは神様の譬喩だ。
風雨はその摂理の象徴である。

かくて風雨のはからいによって豆の種子「我々の個生命」は大地のなかに、
神の大いなる慈手のなかに抱かれる。(329p)


牝鹿の脚がどう歩むかということは、神様が そのまま に教えてくださっている。

そのままにかえること、そのままに神の生命をわがものとし、
神の智慧をわがものとし、神の叡智をそのままに、一挙手一投足をまかせ切ればよい。

そのままになるにはそのままの世界と、
人間のそのままの生命とが既に完全なることを知らねばならない。

神の完全なるみこころは既に「天」即ち実相の世界に、
其処に住める実相の人間に既に成っているのである。
それを知ること。それを見る事。観ずること。想念すること。言葉にあらわすこと。(220p)

精神を弛緩し、神に心を集中し、「我をなくならしめ給え」と祈ること。

浮世の煩労を捨て、常に良き言葉を黙然し、それを心の奥底に浸透せしめること。

このご本の最後のページに示された言葉どおりに、毎日を生きてもみよう思う。

(http://blog.goo.ne.jp/tonnko_2013/e/dfa772072f83c450cdcb083b3836d19b)


              <感謝合掌 平成27年8月6日 頓首再拝>

[758] 「善と福との実現」序文
伝統 - 2015年08月09日 (日) 04時53分


          *「善と福との実現」(P1〜3)より

善と福とは何処にあるか。
善人が不幸になり、悪人が栄えているが如く見える事実は如何に解釈さるべきであるか。

多くの善人はこの疑問につまづいて悪の世界に顛落して行きがちである。
これはまことに悲しむべきことである。

しかし善人が不幸になるのは、その善の要素のためではないのであって、
彼は多くの善を有(も)つがゆえに善人と称せられるのであるけれども、
自己のうちに尚、存在する或る悪の要素のために不幸に陥るのである。

そこから「善人なほもて救わる、況や悪人をや」の親鸞の逆説も出て来るのである。
多くの善人は自己が善人であると云う自信のゆえに高慢になり、
「人を容れなくなる」のが、一つには善人が不幸になる原因である。

彼は狭量になり、自己の定めた「善」の規準のみから他を批評する。
この「審判(さば)き心の強さ」が彼が福を得ることが出来ない原因の二である。

彼は「全」にとらわれ、善に執し、善という型にとらわれて自分の自由自在生命の
動きを自縄自縛する。これが彼が福を実現することが出来ない原因の三である。

善人はみずから善人と思うが故に、その善にほこって自力的精進に堕し、
無限力なる神(又は仏)の力に頼ることをわすれ、いつまでも「自我」の力に固執する。
それゆえ無限の力が神より流れ入ることを拒絶するのである。
これが彼が福を実現することが出来ない原因の四である。

吾々が善であると同時に福を実現せんと欲すれば、「牝鹿の脚」に乗っていと高き所に
登ることが必要なのである。牝鹿の脚とは一体何であろうか。


読者は先ず第9章の「牝鹿の脚の話」を読み、然るのち第13章の「幸福の世界に出る法」
を読み、その要領を体得して置いて、第1章から順次飜読せられるならば、その善と福とを
実現する根本原理を獲得せられるに近いものがあることを信ずる。

今ほど善人が福を実現する必要の切なる時はないのである。
何故なら善人が福を実現し得なければ道徳は頽廃するほかはないからである。

この緊急の機に際して諸賢が本書の示唆するところに従い善と同時に福をも実現する
ことを得られれば著者の悦びこれに過ぐるものはない。


                              著  者  識

              <感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>

[761] 「牝鹿の脚」の話〜その1
伝統 - 2015年08月11日 (火) 03時25分


           *『善と福との実現』第9章(P153〜154)より


私は『生長の家』に、「幸福の世界へ出る法」と題して、
北海道の誌友の浅野君がタイプに打って送って下さった
グレン・クラーク氏の著書の一部を紹介したことがある。
(註・第十三章に再録)


同氏の本名は何かの間違いでブレーン・クラークと印刷されたりしていたが、
浅野君の手紙も逸散してしまったし、その英字綴りも不明であった。

其の後あの記事を読んだ誌友横田次男氏から、
その原著は生長の家の思想と全然同一で真理は洋の東西を問わず一つである。
この真理によって今後日米一つの真理信仰で手をつなぐべきであると恵送して下さった。

これは誠に心の底深く祈り求むるものは自然に得られると云う
真理の実証のようにして私の手に入ったのである。


それを読んでその原著者名はグレン・クラーク(Glenn Clark)氏で、
元米国イリノイス大学の文学教授であることもあきらかになったのである。

あの当時のタイプで印書した一部の紹介では、吾々を天国へ伴れていってくれる
Hind's Feet(牝鹿の脚)と云うものが一体何であるか不明であって、
「何か神秘的な翼を象徴したものだろう」と私は注釈を加えておいたにとどまったのである。

ところで今、幸いにその原著を得たので、
幸福の天国へ翔けのぼるこの神秘の翼なる「牝鹿の脚」について
稍々詳しく紹介して見たいと思うのである。

              <感謝合掌 平成27年8月11日 頓首再拝>

[764] 「牝鹿の脚」の話〜その2
伝統 - 2015年08月12日 (水) 04時04分

           *『善と福との実現』第9章(P154〜155)より

或る日グレン・クラーク氏が或る小さな料亭で、
窓から見るともなしにぼんやりと外を見ていた。

氏は自分の註文を受けに来る誰かを待っていたのであるが、
何か心のうちに落ち着かない気持がしていて、窓の外に吹いている風の渦も、
雨の重吹(しぶき)の響も氏の心を引き立てなかった。

その時、突然ドアが開いてダン・マクアーサー氏が其の部屋へ入って来たのだった。


ダン・マクアーサー氏は町はづれの小さな教会でコツコツやって来た精力家の青年で
教会の書記であったが、人好きのする性格の男で何でもやりかけたらトコトンまで
やりぬくだろうと云う種類の人であった。

グレン・クラーク氏とは大学時代からの友達であったので、
氏は急にヤアと云った調子で立上ったが、

彼は以前のような冗談一杯の調子では答えないで、
クラーク氏の反対側の椅子にかけるとテーブルの上にその手を突き出して
強い強い握手をした。

何だか以前とちがう不思議な新しい力強さが彼の雰囲気に感じられるのであった。
その不思議な力が何処からか自分の中へ入って来て骨の髄までジーンと伝わってくる
かのような感じである。

クラーク氏は彼の目を見入ったが、
何と云う事だ、彼全体の顔色が明るく輝いて見えるのである。

              <感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>

[767] 「牝鹿の脚」の話〜その3
伝統 - 2015年08月14日 (金) 03時32分


           *『善と福との実現』第9章(P155〜156)より


彼はメニューに見入っていたが鷹揚に何か2人前註文して、
一緒に食べようというのである。

どう云うものか彼の雰囲気には以前と異る尊厳さと
人を威服するような人格の力とが感じられるのであった。

 「大変景気がよさそうではないか、百万弗の遺産でも譲り受けたかね。」

とクラーク氏は突然云はざるを得なくなった。

 「そんなちっぽけなものではない。僕は《生命の水》を発見したんだからな。」

 「レオン・ボンスかね。それとも猿の生き膽(きも)かね。」

とクラーク氏は冗談を云った。

 「僕は君を驚かせたようだね。
  それは無理もないさ、僕は自分自身に驚いているんだからね。
  僕は新しく生まれかわったのだ。この新生は最近6ヶ月の内に起ったんだがね。

  この素晴らしい位置は、
  百万長者の位置と取り換えてやろうと云う人があっても
  それは中々取り換えたくないね。」とダン・マックアーサー君は云った。

 「君が ―― ? 」と、叫んでクラーク氏はおどろいた。

と云うのはダン君は前々から金を非常に愛している男であり、
その男が百万長者の位置とでも取り換えたくないと云うような富裕な位置にいる
と云うのは信じがたいことだったからだ。

 ダン君はロールにバターを塗りながら、

 「そうだともよ。百万長者には新鮮なる意欲がない。僕のは意欲百パーセント。
  何でも吾が掌中にある。まあ謂わば天地を掌握したと云うような感じだね」

と云うのだ。

 「吃驚させるじゃないか。」

とクラーク氏は彼が葡萄酒に酔っ払っているのじゃないかと疑いながら

 「その天地掌握の秘密と云うのはどんなものか知らして貰いたいものだね。」

と云った。

 「それは極めて簡単だよ。君の脚を牝鹿の脚のようにするだけで好いんだよ。
  あとは神様がやってくれるのさ。」

 「牝鹿の脚だって、牝鹿の脚だって?
  何のことだか僕にはわからないね。説明してくれないか? 」

此処にクラーク氏の著書にはじめて「牝鹿の脚」なる語が出ているのである。

              <感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>

[772] 「牝鹿の脚」の話〜その4
伝統 - 2015年08月16日 (日) 03時07分


           *『善と福との実現』第9章(P157)より

突如として「牝鹿の脚」だなどと云われてもそれは誰にも判らないが、
「生長の家」の《真の》誌友で、何でも自由自在に思うことが成就すると云う人は、
既に「牝鹿の脚」を得ている人であるのである。

  
話は日本のことに帰るが、
私は、3月13日の午前11時半カッキリに此頃珍しい自動車が
迎えに来た銀座の「平和グリル」で昼食を食べさせようと云うので、出掛けた。

私を招待しようと云うのは古い生長の家の誌友で、戦災にも何一つ焼かないし、
何をしてもトントン拍子で、焼け野原に、早速「平和グリル」と云う料亭と、
喫茶店ジープと云うのを戦災復興の魁(さきがけ)にこしらえている男で、

「毎日毎日が奇蹟の連続です。どうしてこんなに都合がよく行くのか、
自分でも不思議になってくる位です。これは全く生長の家のお蔭です。

先生の被仰る通りに実行していれば、何もかも好都合にいくのです。
自動車でも先生の必要なときにはいつでも差し向けます。
近い内に新宿に劇場をこしらえて映画と劇とを交々やるつもりです」と云う。

こう云う人たちが即ち「自分の脚を牝鹿の脚にした」人たちなのである。

諸君は恐らく其の方法を知りたいだろうが、
ダン・マックアーサー君をして暫くその方法を語らしめよだ。

              <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

[774] 「牝鹿の脚」の話〜その5
伝統 - 2015年08月17日 (月) 06時56分


           *『善と福との実現』第9章(P157〜159)より


「僕は喜んでこの秘訣を全世界に語りたいと思う」と云ってダン君は話し出した。

「僕は数ヶ月前までは、まるで行き詰まった途方に暮れたような気持でいたんですよ。
この気持から自分を抜け出させてくれるものは天にも地にも何処にもない。
何処も彼処も陣痛の混迷とでも云うような状態だった。

ところが天の一角から僕は一つの説話を聞いたのです。

僕はボストンからポートランド行きの汽車に乗っていました。
その汽車の中に、白い髯の紳士がいて、僕に1時間その話をしてくれたのです。
たった1時間ですよ。

其の1時間の話が私を内的にも外的にも変化させてくれたのです。

その話は貴方をも変化せしむるに違いない。
その話がどんな変化を私に与えたかは君には見当がとれんだろう。

其の話をきいた後では人間に不可能なと云うことは何もない。
それは何事でも平易なABCたらしめてくれるのですよ。」 


「どうして、そんな一つの話が奇蹟を演じるのだろう。」

 
「それは至極簡単さ。まあ聴きたまえ。
先ず何かが、私の内部に起こったのです。
先ずそれを得るんですね。

自分の内に、深い深い自己の底に。
ひそかに、黙々として流れている内部生命の中にですよ。
君、わかるかい? 」

 
「わかる。」とクラーク氏は答えた。

 
「で、そこに其の話の不思議なる部分があるのです。
君が迚(とて)も信じられないような奇蹟的な部分があるのです。
内部に変化が起ったら、外部に於いても、すべてのことが変化しはじめるのですよ。」

              <感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>

[777] 「牝鹿の脚」の話〜その6
伝統 - 2015年08月19日 (水) 04時06分


           *『善と福との実現』第9章(P159〜161)より

光明思想にまだ触れていなかったクラーク氏は、
このダン君の談がどうも呑み込めないのである。

「そう云う論理を信ずることは出来ないね。内と外と何の関係がある。」

大抵の人たちは、外界の出来事は物質的な外部関係で自然に動いているものであって、
心の内部が変わろうが変わるまいが、運の悪い人は依然として運が悪いし、
運の好い人は運が好いのだ位に考えている。

こう云う人はまだ『自分が自分の運命の主人公だ』と云うことを知らないのである。
即ち未だ完全に自覚の上に自主権を確立していない非民主的な人に過ぎないのである。


「心配するな、君に其の話をきかしてやれば判ってくる。
君がその話をきいて直ぐそれを実行するのだ。
それを実行することが極めて必要だよ。」


「ところで、君はその内部の変化で、外部はどうなったと云うのだい。」

とクラーク氏はきいた。

 
「君の内部に変化が起ったと云うことは君の眼を見ればわかるがね。」

 
この問いに答えるかの如くダン君の眼は星の様に輝いた。

「君も知っての通り、僕は前には極めて小さな仕事しかしていなかった。
其の仕事はべつに苦にならなかったが、僕が苦になったのは、教会の書記と云う
あまりにも小さい仕事に自分が勿体無いと云うことだった。

ところがさ。
其の汽車の中での1時間の話の後にはじめて真に人類に貢献し得るようになれた。
と云うのは、天空の一角から声があって、
私は合衆国最大の教会に配属するように命じられたのさ。」

 
其の教会の名は書いてないが、
どの点から見ても合衆国で最も有名な教会であるとクラーク氏は書いている。

 
「まあ、君が今アメリカ最大の教会の副牧師であるとは? 」

とクラーク氏は其の時思わず叫んだそうだ。

 
「副牧師じゃないよ。」とダン君は訂正した。「主任牧師だよ。」

 
愈々もってクラーク氏はそれを信ずる事が出来なかった。

「何だか、狐につままれているようで、信じられないね。」

と、もう其の不信をかくそうともしなかった。

 
このクラーク氏の無耻(むち)な不信の態度にも
ダン君は少しも腹立ったような様子を見せないで微笑した。

そして「それが、その話が効果をあらわした訳だよ。」と静かに云った。

 
「何て素晴らしい話なんだろう。その話を是非聴きたいものだ。」

とクラーク氏の好奇心は満点である。


              <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

[778] 「牝鹿の脚」の話〜その7
伝統 - 2015年08月21日 (金) 08時33分

           *『善と福との実現』第9章(P161)より

ところがその著書には早速とその秘密が書いてないのである。

その秘密を知るためには長々とクラーク氏の英書を読んでいかなければならない
のであるが、生長の家の誌友だったら、すぐこれだなと感銘せられる
「あるもの」があると信ずる。


「よろしい。其の話をしてあげよう。
併し、その話は君が直接、白い髯のおじいさんから聴けば最も好いんだがな。
併し、僕に話せるだけ君に話そう。実はこうなんだ。」

とダン主任牧師は話し出した。そこへ折悪しく給仕がやってきて、

 
「電話でレヴェレンド・ダン・マックァーサーとお呼びでございます。」と云った。

ダン君は最早、ただのダン君ではなく、
「レヴェレンド」と敬語をもって呼ばれるようになっているのだ。

日本では大僧正貌下(げいか)とでも云うところであろう。

 
貌下(げいか)は

「失礼します。直きにかえって来ます。」

と電話にかかって何か話していたがすぐ戻って来て、

「まことに君、済まないが、
思いがけない用事で直ぐそれをやってくれと云うので失礼します。」

と慌(あわただ)しく出て往った。

まだクラーク氏はその神秘な説話をきく機縁が熟していなかったのである。
併しその白い髯のおじいさんと云うのは一体何者だろう?

              <感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>


[781] 「牝鹿の脚」の話〜その8
伝統 - 2015年08月22日 (土) 04時50分


         *『善と福との実現』第9章(二)(P162〜163)より

その数週間のち、クラーク氏はニューヨーク市のブロードウエイを歩いていた。
氏は23番の街角ではげしい群衆の中で旧友のジョー・ベンゾン君を見出した。

どんな群衆の中からでも神は必要な時に必要なものを見出さしめ給うものである。
それが摂理と云うものである。

神は「牝鹿の脚」でクラーク氏の神秘に対する好奇心を釣って置き、
しかもまだその神秘のカラクリについては説明しないで愈々好奇心の絶頂になって
其の秘密を明かし給うのである。

何でも満腹のときに与えてもそれは充分消化し得られない。
食欲が百パーセント昂進したときに与えられてこそ、真理の料理も消化し得るのである。
凡そ「牝鹿の脚」の料理もそんなものかも知れないのである。

 
ところでクラーク氏が群衆の中で見出したジョー・ベンゾン氏は、
いとも深切な目付きで、先刻からクラーク氏を微笑みながら見つめていたらしいのである。

クラーク氏は未だ嘗てベンゾン氏を、
「寛容な深切な老紳士」だなどと思ったことなどはなかった。
ところが今遇った印象はまことにも、そう云う立派な老紳士に見えるのである。

尤も、ジョー氏はたしかに前々から確実な才能を有っていたのであるが、
未だにその才能を発見してくれる人に出遭ったことがなかったのである。

然し、今、微笑みながら近付いてくる氏の風丰(ふうぼう)を見ると甚だ尊厳な、
威風堂々あたりを打ち払うと云うようなドッシリとしたあるものが漂うている。

氏が手を伸ばして「ヤア」と云って握手したときには、どうしたことか、
クラーク氏の人格の底まで震撼せしめるような深い感銘を与えるものがあるのである。

ジョー氏はジーッと《まとも》にクラーク氏の眼に見入ったが、
その顔色は頗る明るく輝いていた、彼の周囲にはどこか重々しい力が、
人間的な自己を超えた力が、隠そうとしても隠しきれない状態で
溢れ出ているとでも云うような有様であった。

「やっぱり、あの町の音楽隊(バンド)で演(や)っているのかい。」

とクラーク氏は訊いた。

「まあ来たまえ。」とジョー氏は丁度通りかかった喫茶店の扉を押しながら、
「君には随分と沢山話したいことが積っているんだ。」と云った。

              <感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>

[783] 「牝鹿の脚」の話〜その9
伝統 - 2015年08月23日 (日) 07時44分

         *『善と福との実現』第9章(二)(P163〜165)より


喫茶店の脇テーブルに向かい合って二人は四方山(よもやま)のことを話していた。

「君は僕のうわさを何かきいたかね? 」

とストローでレモンソーダ水を吸いながらジョー氏は云った。

クラーク氏はストローで吸うのはきらいだったので、
二た飲みにグッとレモンソーダを飲みほした。
それは夏の暑い日だった。

「君がある有名な楽団員になろうとして運動していたが、
うまく行かなかったと云うことはきいたよ。」と云った。

「その通りだ。」とジョー氏は笑いながら叫んで、

「そのあとの話は、君きいたのかい?」と声をおとした。

クラーク氏は、「いや」と首を掉(ふ)ると、

「それがこうなんだよ。」とジョー君は話し出した。

その話と云うのはこうなのである。


ジョー氏が紐育(ニューヨーク)駅で、ニューヘヴン・ハートフォード間の汽車に乗ると、
其処に白い髯のおじいさんが隣の席にかけていて、
一瞬間の躊躇もなしに話しかけたと云うのである。

「君は失望しているね、若い人。君は失望などする権利はないよ。」とその老翁は云った。


何と云う素晴らしい言葉でしょう。
今、日本には無数の失望している人達がいるのである。

そうした人達に、この白い髯のおじいさんに遇わせてやり、
その失望する権利がない所以を知らせてやれば、
日本の再建ぐらい何でもないのだと思われるのである。


「いや、僕はたしかに失望する権利があると思うのです。
僕は長い間の時間と、労力と、そして夥しい費用とをかけて、
熱心に熱心に勉強して来たのです。

ところが其の準備がことごとく報いられないで、凡(あら)ゆる扉が自分に対して
閉鎖されていると云うのでは失望するほかはないじゃありませんか。」

とジョー氏は云った。

白い髯の老翁は愉快そうな微笑を顔いっぱいに湛えながら

「君の脚を牝鹿の脚に変えるんだよ、若い人、そうすれば君の運命はかわってくる。」

と云って一條の「牝鹿の脚」の話をしてくれたと云うのである。

              <感謝合掌 平成27年8月23日 頓首再拝>

[785] 「牝鹿の脚」の話〜その10
伝統 - 2015年08月24日 (月) 08時31分


         *『善と福との実現』第9章(二)(P165〜167)より

クラーク氏は全く驚いて了った。
「牝鹿の脚だって? 
その話のつづきをしてくれたまえ、何が一体それから起こったんだ。」
ときいた。

「いや別に、僕はその牝鹿の話には大して気にもとめませんでしたよ。

それを聴き流して僕は自分の目的地へついたのですが、
其の話をきいて数週間後に、真夜半(まよなか)に目が覚めましたが、
その時とつぜん『牝鹿の脚』の意味がわかって来たのです。

コレだと思うとその朝一番列車で、ニューヨークへ行き、其の同じ会社
 ―― そうです、
その僕を採用しなかった同じ楽団に、僕は飛び込んだのです。

そして楽団の小さい部分でも好いから、自分がどれだけの仕事が出来るか
チャンスを与えてくれないかと申し込んだのです。

すると其の支配人、自分が題名をつけた有名な曲がある。
そのセロの演奏が出来るなら機会を与えようと云ってくれました。

丁度その楽団のセロ奏者の主役をやっていた人が重病にかかって
2ヶ月間は演奏に出られないと云うところへぶつかったのです。

『君が出来ればその代理をやって貰いたい』と云う《うってつけ》の申し出です。
『いつからです』と僕は全く自分の耳を疑うような気持で訊き返しましたが、
支配人は『明日の晩から』と云うのです。僕は殆んど気絶するほど喜んだですよ。」

「君はレモン・ソーダに酔っているんじゃあるまいな。」とクラーク氏は云った。
それほど氏は驚いたのであった。
あの有名な楽団の主任セロ弾きにジョー君がなろうとは全く信ぜられなかったからだ。

「そこがあの牝鹿の脚に乗ったのですよ。」とジョー氏は云った。
まったくジョー談でもないらしいので、「その牝鹿の脚がそれとどう云う関係が
あるのか話してくれたまえ。」とクラーク氏は云った。

「それがね、君、長い話なんだよ。ところで、僕は2、3分間のうちには
遠いところへ出掛けることになっているので詳しく話している暇がないのです。
では直ぐ会社の事務所へ僕と一緒に来てくれませんか、すぐ大通りを横切った処です。
みちみち話すことにしましょう。」

で、二人は一緒に出かけたが、ニューヨーク市の大通りの雑踏では
話が充分聞き取れないままに話しながら、ある高層ビルディングに入って行った。

その時ジョー氏はクラーク氏の方を振り向いて、

「君が牝鹿の脚を得たら、何よりも先ず内部の静謐と云うこと、
深い深い深い魂の奥底の静謐を得なければならぬことがわかりますよ。
わたしの云う意味がわかりますか。」と云った。

そのとき二人はエレヴェーターの中に入った。

「その内部の変化はどうして起こるのですか。それを私は知りたいのです。」

とクラーク氏は云った。


「其処に秘密があるんですよ。併しもう到着しました。」とジョー氏は云った。
クラーク氏とジョー氏が部屋へ到着したとき、秘書役があわててやって来て、

「ベンゾンさん、もう1時間も貴方を探していたのですよ。
はるばるあの人たちがデトロイトから貴方を迎えに来ているのです。
明日、あなたにセロの独奏をやって貰うことになっているのです。
汽車が直ぐ出るんです。」

と云うのだった。

「お気の毒さま」とジョー氏はクラーク氏に云った。

「お聞きの通り僕は行かねばなりません。
またいつか僕のヒマのあるとき来て下さい。
その時、あの『牝鹿の脚』の話の一部始終を申上げましょう」と云った。

こうしてクラーク氏は、心の内部の変る秘密を聞く機会を
ついに失してしまったのであった。

              <感謝合掌 平成27年8月24日 頓首再拝>

[786] 「牝鹿の脚」の話〜その11
伝統 - 2015年08月25日 (火) 03時28分


         *『善と福との実現』第9章(三)(P168〜169)より

それから、クラーク氏はある風の激しい、
ミシガン湖の水がみんな吹き飛ばされてしまいそうな暴風(あらし)の日に、
シカゴへ帰って来たのだった。

氏が講師をやっているイリノイス大学ではまだ授業が再開されていないので、
その晩、何か、講演か、劇か、音楽会へでも行きたいと思って新聞を見ると、

最近、最も売れ行きの好い小説の著者であるミス・マリアン・グローが
ある有名な講堂で講演すると云うことが出ていた。

そこでクラーク氏はその講話を聴きに行くことにしたのである。


それは極めて興味ある講演であったが、その講演が殆んど終わりに近づいたとき、
驚いたことが起こったのである。
突如として、彼女は演壇の正面へ歩み出して来てこう云ったのだった。――

「そこでどうして私がこの本を書くに到ったかを皆さんに話したいと思います。
私は一個のうらぶれたる学校教師として、一文の金もなく、一人の知友もなく、
しかも肺結核に悩める者としてコロラドへ往ったのでした。

私は腕だめしに書いて見ました。しかしだめでした。
それから或る日の事、グリーリー・デンバー間の汽車に私は乗ったのです。
その時、私の隣の席にかけていたのが白い髯のおじいさんでした。

そしてその人が私に、『低い世界』で生きることを止めなさい。
人間はすべからく、『牝鹿の脚』に打ち乗って、
高所に翔けのぼるべきですよと云ってくれました。

私はこのおじいさんの勧告に従ったのです。
私は小説の構想を製造する工場であることをやめてしまったのです。
そして天から流れ入ってくる構想の流れの唯パイプになることにしたのです。

その結果がこの本です。
ベスト・セラーになったこの本が結果です。」


マリアン・グロー嬢の講演は終った。
白い髯のおじいさんの話がクラーク氏の心を刺激したので、
氏は講演者に何か云おうとして演壇の近くまで急いで突進して往ったが、
もう彼女は壇上にいなかった。

聞いて見ると、著者は次の講演会場へ行くためにすぐ汽車で発つのだそうである。
クラーク氏の心の底に、潜在意識の底深く、あの白い髯のおじいさんに
めぐり遇いたい思いが湧き出て来たのも無理はないのであった。

              <感謝合掌 平成27年8月25日 頓首再拝>

[789] 「牝鹿の脚」の話〜その12
伝統 - 2015年08月26日 (水) 03時35分


         *『善と福との実現』第9章(四)(P169〜171)より

次の日、クラーク氏はイリノイス大学で創作の書き方、読み方の講義をするために、
そちらへ赴任したのであるが、それから3ヶ月後の或る寒い12月の日に、
クリスマス休暇で帰省するために、イリノイス州のアレド及びアィオーワ州のドモイネ間の
汽車に乗ったのである。

そのクリスマスを機会にクラーク氏は結婚の儀式を挙げることになっていたのである。

雪が降っていた。
クラーク氏は汽車の窓から外の雪を見ていたのである。

そして気がついて見ると、白髪の老人が列車の中をゆっくりゆっくり歩きながら、
親しげな眼つきで旅客一人々々の顔を覗き込むようにして歩いているのである。
そしてその老人はクラーク氏の座席の側まで来たときに歩みを止めた。


「御免なさいませ。恐れ入りますが、
貴方のお側の席にしばらく掛けさせて頂けないでしょうか。」

「ええ、どうぞ。」とクラーク氏は云った。

この白髪の老人は、クラーク氏の側に腰をおろすと、

「あなたは何か宗教的な仕事をやっていられるんじゃありますまいか。」と訊いた。

「いいえ、僕はただの文学の教師であり、学校では運動競技のコーチをやっています。」
とクラーク氏は笑いながら答えた。

老人は一瞬躊躇(ちゅうちょ)したように見えたが、

「だけど、何でしょう、あなたはその関係していらっしゃる青年たちに
精神的な影響を与えてはいらっしゃるのでしょう。ね?」と云った。

「さあ。」とクラーク氏は躊躇しながら答えた。「どんなものですかな。」

「私は商売をやっている者なのです。
その関係でわたしは米国中どんなところへでも始終旅行している者です。
その旅行の旅ごとに私は誰か一人に私の話を自然に話し出すようになっているのです。
神様がその話をするべき相手の人のところへ常に導いて下さるんですね。
そして今日は貴方に話をせよと被仰るようなんですが。」とその老人は云った。

「どうぞ話して下さい。喜んで承りましょう。」とクラーク氏は云った。

             <感謝合掌 平成27年8月26日 頓首再拝>

[793] 「牝鹿の脚」の話〜その13
伝統 - 2015年08月28日 (金) 04時39分


         *『善と福との実現』第9章(五)(P171〜173)より

その老人の語るところは大体次のようである。

・・・彼は青年のころ、希望に燃えた精力家としてオハイオ州のアルコンに来て
ある商社に勤務し、一所懸命商売に熱中した。

その商売は予想以上に好成績を収めたので、間もなく、
その商社の支配人になったのである。

彼は一会社の支配人になっているだけで満足することなく、
又別会社をつくってそれを主管し、更にまた諸多の会社の重役となった。

そして溢るゝばかりに金を儲けたのであるが、
朝から晩まで、金、金、金とばかり思ってそれに突進してきたのである。

それは丁度、一本の蝋燭(ローソク)を両端から燃やし尽してしまう様な具合で、
とうとう彼は生命の破綻に直面したのである。

破綻と云うのは彼が著しく健康を害したことであった。

医師の云うには、「もう貴方の働ける命数は尽きたのです。
生活を全然変更して湖畔にでも往って、何ヶ月も何ヶ月も、静養するほか
何もしないことが、まあ貴方に残されたる唯一の希望ですね」と云うのであった。


そこで彼はスペリオ湖のロイヤル島に往って静養することにした。
体力も次第に快復して来たので、或る日、
ボートに乗って湖を数時間ぶらついて見たいと思った。

夏の青空の下にある豊かな水が、何となしに彼の心を和やかにして呉れた。
内部からも外部からも、何か新しいものが芽ぐんで来るような
新しい平和が彼の中に流れ込んで来るように思われた。


丁度、日没近く彼は一人ボートに乗って漕ぎ出たのであるが、
何だか睡くなって、いつの間にか彼は眠って仕舞っていたのである。

数時間後気がついて見ると、遥かに陸地も何も見えない、水又水の縹渺とした湖面に、
何方が島の北か、南か、東か、《かいもく》見当のつかないところに漂っているので
ある。

スペリオル湖には、時々強風が起こってボートの覆へされることがある。
この最も寒い時期、湖水に溺れた者は決してその死体が発見されたことがない。
そう考えると彼はパニックのような恐怖に襲われて来たと云うのである。

彼は神に祈りはじめた。
併しどうしても神に祈ることが出来なかった。
何故かと云うと、自分は何ら祈るに価せぬものであると思われたからである。

すべての彼の過去の生涯が一度に記憶に甦って来た。

「この自分のような人間を助ける価値があるだろうか。
自分のために金をかき集めるほかに何事もしなかったようなこの自分を、
この自分がこのままこの世に帰ってこなかったにしても世界は何を失うだろうか?」

このとき、彼は神に約束しはじめたのです。

「神様、若しあなたが私を救って下さるならば、それ以後の私の生涯の半分を神様の
仕事に、人類を救うためにささげます。特に青年を救うために」
こう云って祈ったとき、神からの答が来たのだった。・・・

             <感謝合掌 平成27年8月28日 頓首再拝>

[795] 「牝鹿の脚」の話〜その14
伝統 - 2015年08月29日 (土) 03時50分


         *『善と福との実現』第9章(五)(P173〜176)より

ここまで語り出したときに其の老人はあわただし気にポケットをま探りはじめた。
一枚の絵葉書をつかみ出してクラーク氏の面前に差し出した。
その絵はまさしく写真そのもののように見えた。

それには湖の上に一隻のボートが浮いている。
そしてそのボートにたった一人の人間がいる。
その上に月と星とが輝いている。

その無数の星の中に、他の星の十倍もの大きさ、
月の大きさの四分の一ほどもある大きな星が、
ひときわ、あざやかに光っているのであった。

イエスの降誕の場所を示したベツレヘムの星とは
こんなものかと思わせるような大きな星であった。

「その時ですな、空に突然この星が現れて来たのですよ」と
老人は絵葉書の中のこの大きな星を指さしながら云った。

「それは未だ嘗て見たこともないような巨大な星でした。
私は、その神秘さに圧倒され、夢でも見ているのではないかと最初は疑いましたが、
いやいやこれは神様のお示しに違いないと思って、その星をシッカリと見定めて、
常にその星をボートの軸と一直線に保ちながら一所懸命、漕いで漕いで漕ぎました。

ところが不思議ではありませんか。
私は出発した島の船着場のその場所へピタリと帰り着いたことがわかりました。
これが私の話のすべてです。」

こう云って老人は話を突然やめて、

「この話をどうぞ憶えていて下さい。
それを貴方の魂の中に植えつけて置いて下さい。
いつかそれが貴方の生活に根をおろして果を結ぶでしょう。

何時、如何にしてかと云うことは私は存じません。
しかし私の知っているのはこれだけなのです。
神様から来たものは永遠だと云うことです。

神様の植えないものは引き抜いて捨てられます。
しかし神様の植えたものには百倍の果を結ぶのです」

こう云って座席を起っていこうとした。

「失礼ですが、もう1分間」とクラーク氏は呼びとめて

「その後、貴方はどうなすったのです」と訊いた。


「私はただエレヴェーターに乗っただけです。
そして、別の階層へ上がって往っただけです。

当たり前の商売、教会での生活、それは前通り、平常そのままに継続しておりましたが、
全く別の世界で生活しているのです。

わたしは愛と平和と幸福が私のいるところにつきまとう
天国のような世界に生活している自分自身を見出しました。
それは商売の友人との関係でもまた旅行中偶然遭った知り人との関係でも同じことです」

こう云ってその老人は私に対して微笑するのであった。

「しかし、どうして貴方はその高い階層にのぼったのですか」とクラーク氏は尋ねた。

「それは神秘ですよ。
偉大なる、不可思議なる神秘ですよ。
若し、貴方が直にその神秘を知りたいと被仰るならば申しましょう。
それは斯うです。

『彼はわが脚を牝鹿の脚の如くならしめ、いと高きところに吾を立たしめ給う』

と云うことなのです」(註1)


   (註1)「神はわが強き城にてわが道を全うし、わが足を牝鹿のごとくなし、
       我をいと高き所に立たしめ給う」(サムエル後書第廿二章三三、三四)


クラーク氏は驚いた。「牝鹿の脚」「牝鹿の脚」その言葉は
氏の脳裡をまるで耳近く鳴る鐘の様に離れなかった言葉であった。

「ついに、あの白い髯のおじいさんが、神秘の人が、自分の眼の前にあらわれたのだ。
もっと其の事について聴きたい」と思っていると、

「それでおしまいです」と又しても老人は立ち上がろうとした。

「其の牝鹿の脚と云うのは一体どう云うことなのですか説明して頂けませんか」
とクラーク氏は懇請した。

「神様が鹿にはどのように脚を使わねばならぬかをちゃんと教えておられます」と云って、
老人は謎のように「教えているじゃない、ちゃんと脚を使っていますよ。さあ鹿ちゃん、
行きなさい。四本の脚を使うんですよと云う所ですな。」と附け加えた。

「もう一つ尋ねさせて頂けませんか」とためらい勝ちにクラーク氏は尋ねた。

「さあ、どうぞ」

「では、その鹿は高い所へ登って行くのに何(ど)の道を通っていくのですか」

「私の見出した最もよき道は『主の祈り』ですよ」こう云うと愈々老人は起ち上がった。
そして自分の名刺を差し出して、さっさとあちらへ往ってしまった。


クラーク氏は何か魔法の国からでも出て来そうな神秘な名前でも見つかるかと
思って見たが、それにはオハイオ州エークロン市、ミスター・フィビーガーと
書いてあって、全く当たり前な散文的なものであった。

             <感謝合掌 平成27年8月29日 頓首再拝>

[797] 「牝鹿の脚」の話〜その15
伝統 - 2015年08月30日 (日) 04時13分


         *『善と福との実現』第9章(六)(P177〜178)より

クラーク氏はそれからグリンネルと、ドモイネスへ行き、
数日後にグリンネルに帰って其処で結婚式を挙げ、花嫁と相たづさえて、
イリノイスの大学のある町へ戻って来たのである。

あれやこれやで忙しいクラーク氏はあの白髪の老紳士と、
其の語ってくれた話を殆んど思い出さなかった。

実際、このすべての出来事をただの夢として、そしてこの老人を自分の空想の所産として
心の世界から追放したいような気になっていたともいえるのである。
併し、そう出来ない事件が、大学のある町に着くと直ぐ起って来たのである。

 
それはどんなことかと云うと、クラーク氏が、新夫婦の最初の家として借りた家は
ゴタゴタした取り乱した家だったが、その家にとりつけてあるオクトーバスの腕のある
大きな石炭炉に、クラーク氏がショベルで石炭を先ず一杯くべ、二杯目をくべようとした
ときに、

氏はその暖炉の扉の上に名前板(ネームプレート)があって
フィービーガー・アクロン暖炉会社と書いてあるのを見出して驚いて
ショベルを持った手をやめて、じっと物をも云えず突っ立ったままでいた。

たしかにあの老人の名前なのである。
老人は自分の空想した白日夢でもなく、実在の人だったのだ。

新婚の最初の冬を暖めてくれるストーブの製造会社の名前を知って置いても、
それは決して無駄なことではないと云うことである。

しかもそれ以上にこの老人の魂から出た言葉がそれ以来、
自分の家庭を暖めつつあるのである!

それが実在の人物であったと知ることは喜びでなくて何であろう。

 
其の後、オハイオ州アルコン市第一メソヂスト教会、
世界最大のメンズ・バイブル・クラスの指導者フィービーガー氏から
「西部クリスチャン・アドヴォケート」と云う雑誌を、一冊送ってきた。

しかしそれ以来、「牝鹿の脚」の問題は遂に進歩を見せなかった。
併しそれから9年後になって愈々其の全貌を明らかにする時が来たのである。

             <感謝合掌 平成27年8月30日 頓首再拝>

[799] 「牝鹿の脚」の話〜その16
伝統 - 2015年08月31日 (月) 04時48分


         *『善と福との実現』第9章(七)(P178〜180)より

それからクラーク氏は長い間、この老紳士のことも「牝鹿の脚」の話も
いつとはなしに忘れてしまっていたが、或る日周囲の事情から自然に
ワイオーミング州の或る農場に数日間生活することになったのである。

クラーク氏の乗馬用として氏の求むる儘に一匹の馬が差し向けられたが、
カウボーイたちと一緒に、どんなに荒っぽく乗っても差し支えないと云う
特権を与えられていたのである。

乗って見ると嬉しいことには其の馬は仲間のうちでも最も速力の迅い馬であった。
何故自分にこのような光栄が与えられたのかクラーク氏には不明であった。

やがてそれは広い平原ではスピードと云うものが最も重要な要素であり、
又山においては尚一層特殊の重要な要素であると云うことが判って来た。

 
或る日、この高原地帯に放牧してある馬どもを馴らすために山腹の険しい石道を
5人の者が乗って行くことになった。最初萬事はうまく往ったが、
とうとう差しかかったのは危険な辷りやすい嵯峨(さが)たる岩の
兀立(ごつりつ)せる道であった。

もし一歩ふみはずしたら永遠に死の世界へ墜落すると云うところである。
そのときクラーク氏は皆の者からもっと傾斜の少ない危険のない廻り道をして
頂上へ行くように勧められた。

何故自分だけが、安全な路を勧められるのかとクラーク氏は尋ねた。

 
すると世話役の頭が云った。

「旦那の馬は山のぼりには確実性がないからです。そのほかの馬は皆、
真に山登りの馬なんです。
その前脚が踏んだ脚あとをしっかり確実に後脚が踏むのです。
前脚は見ながら歩くのですから安全な山の背をしっかりと踏みます。
その同じ場所を後脚が踏めば安全なのです。

ところが、旦那の馬は不幸にして数年間、市街で馴らされました。
そのために天与のその天分を失ったのです。

他の動物と同じように近代文化にあまり晒され過ぎましたので、
後脚が前脚の踏んだあとを二、三寸狂って踏むのです。
吾々が登って行く険しい突兀(とつごつ)たる山道は、後脚が一寸踏みちがえると、
死の谷へ真逆様に落ちるおそれがあるのです。」

             <感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>

[802] 「牝鹿の脚」の話〜その17
伝統 - 2015年09月03日 (木) 07時35分


         *『善と福との実現』第9章(七)(P180)より


「成る程」とクラーク氏は答えた。
「君達の乗っている馬は、鹿とかカモシカとかに類する脚を
持っている訳なんですねぇ」

「まったくそうです。
高い所へ登るには山羊のような確実な後脚を持っていなければならないのです」

その「高い所へ登るには山羊のように確実な後脚が要る」と云う言葉が、
パッと光のようにクラーク氏の頭へ入って来て、
氏は全体の真理が啓示されたように思へたのである。

何故なら、白髪の老人の語った牝鹿の後脚の謎がついに解けたからです。

氏には深くその神秘に入っていけば行くほど
それは驚嘆すべき真理を蔵しているように思われた。

それからそれへ偉大なる目眩めくばかりの真理が
黙示のように殺到して来るように思われるのだった。
その二、三を次に掲げよう。


どんな他の動物も鹿の前脚と後脚ほどに
完全な相互作用をもっているものはないのである。

牡鹿(おじか)もその点では脅威に価するものではあるが、
牝鹿(めじか)のそれに到っては、神の創造し給える中でも
最も完全なる物理学的完全さをもっているものである。

             <感謝合掌 平成27年9月3日 頓首再拝>

[806] 「牝鹿の脚」の話〜その18
伝統 - 2015年09月05日 (土) 02時30分


         *『善と福との実現』第9章(七)(P181〜182)より


それから来る、目眩めくばかり輝かしい啓示と云うのは、

牝鹿の脚が山登りをするときにあるように、
人間も、その生活の高層に登るには、
その心が「牝鹿の脚」のようであらねばならないのである。

後脚が前脚の行ったあとをぴったり踏むように、
人間の潜在意識は現在意識の欲するところを、
ぴったりと信じ進まなければならないのである。

そして動物が高所に登るには前脚と後脚との関係が最も完全なる相互作用を
もっていなければならないと同じように、人間も高き自由なる境涯に上るには
現在意識と潜在意識との間に最も完全な相互作用をもっていなければならないのである。・・・


こう考えて来たとき、あの白髪の老人が云った

「彼はわが脚を牝鹿の脚の如くにならしめ吾を高き所に伴いたまう」

と云う言葉の意味がハッキリして来たのである。

聖書にあるところの、

「神を信ぜよ、われ誠に汝らに告ぐ、若し信じて此の山に移りて海に入れよと云うとも、
彼のHeartに於いて疑うことなく、信じて云えばその言葉の如く必ず成らん。
汝若し芥子種ほどの信だにあらば、汝の欲するものを求むるに、
何事といえども成らざるもの無けん」

と云うようなイエスの言葉の真理がクラーク氏にはっきりと開顕されて来たのである。


人間の唇は現在意識の想念を語るのである。
ただ Heart(ハート・真実感情)のみが吾々の潜在意識の想念を語るのである。

「汝が Heart に於いて信ずる如く汝にまで成るのである。
ハート即ち潜在意識の後脚が、現在意識の前脚の踏むところを、
ピッタリとその通り信じて行けば、何事と雖も、山に登ることも、
山をして海に入らしむることも不可能なことではないのである。

現在意識の言葉と潜在意識の感情とがピッタリ一致することが必要なのである。

             <感謝合掌 平成27年9月5日 頓首再拝>

[809] 「牝鹿の脚」の話〜その19
伝統 - 2015年09月08日 (火) 03時08分


         *『善と福との実現』第9章(七)(P182〜183)より

吾々は人生の最大の祝福を、単に数寸の後脚の踏みどころで逸して了う。
この見たところ何でもない数寸が人間を地獄の谷へつき落とし、
また眺めひろき山頂へと誘ってもくれるのである。

まことにそれは数寸又は十分の何寸かの狭き門である。
「狭き門より入れ」の啓示も深刻にその深い意味がわかった気がするのである。

併しそれではその後脚はどうしたら前脚の踏んだ道を正確に歩むことが出来るか、
山登りの先達は云う。「あまりこの動物は近代文化にさらされ過ぎたのです」と。

また白髪の老人は云った。
「牝鹿の後脚がどう歩むかと云うことは神様が、《そのまま》に教えて下さっているのです」と。

そうだ! 《そのまま》に帰ること、そのままに神の生命をわがものとし、
神の智恵をわがものとし、神の叡智をそのままに一挙手一投足をまかせ切れば好いのである。

《そのまま》になるには《そのまま》の世界と、
人間の《そのまま》の生命とがすでに完全なることを知らねばならない。

それには白髪の老人の言った「主の祈り」が、
「みこころの天になるが如く地にもならせ給へ」の祈りが最も力をあらわすのである。

神の完全なみこころは《既に》、「天」即ち實相の世界に、
其処にすめる《實相の人間》にすでに成っているのである。

それを知ること、とそれを見ること、観ずること、想念すること、言葉にあらわすこと
―― それらのはたらきが「一」に成っているものが真の正しき祈りなのである。

「まず神の国と、神の国の義(ただ)しきを求めよ。其の余のものは汝らに加えられん」
とイエスは云った。

神の国は、神の人は既にあるのである。
ただ、それを毫厘(ごうりん)でも踏みはづして、疑いをさしはさめば、
それだけ谷底へ墜落するのであると云いたいのである。

(完)

・・・

次回以降は、谷口雅春先生が”「善と福との実現」の序文”で述べられているように、
第13章「幸福の世界に出る法」へと続きます。

             <感謝合掌 平成27年9月8日 頓首再拝>

[811] 幸福の世界に出る法〜その1
伝統 - 2015年09月09日 (水) 04時34分


「牝鹿の脚」の関連として、

記事「[761] 「牝鹿の脚」の話〜その1」の冒頭で紹介されている
「幸福の世界へ出る法」(「善と福との実現」第13章)の謹写を始めてまいります。


          *「善と福との実現」第13章(P253〜254)より

生長の家の信仰は実際生活に実証を伴うものであって、単なる架空の信仰ではないのである。
それはアメリカのニューソートやメンタルサイエンスと真理を等しくするサイエンス(科学)
でもある。

吾々の宗教は日本に誕生したのであるけれども、
アメリカの自由主義といわれる思想にも共通している。

吾々は日本の宗教を信じながらキリストの真理を信奉して、
それで今まで信じて来た真理と矛盾しないのである。
ここに真理が真理によって調和する道があるのである。

今まで仏教に心酔していた日本人に、にわかにキリスト教になれと云っても、
急にキリスト教になれる訳ではない。

そこで超宗派的な仏教もキリスト教にも共通した真理によって、仏教経典及びキリスト聖書の
真解によれば、結局「万教」はただ一つの真理を説いているのだと云うことが判れば、
如何なる仏教好きの日本人でもキリスト信者と手をつないで、仲好くただ一つの真理を
礼拝することが出来るのである。

その役目が出来るのが、万教帰一を従来から説いて来た生長の家なのである。
その生長の家というのはアメリカの光明思想と全く同一である。

その証拠に紹介しようと思うのは、グレーン・クラーク氏 の
 “I will open our eyes” 〈『吾れ、吾が心眼を開かんと欲す』〉 
と云う著書の紹介である。

             <感謝合掌 平成27年9月9日 頓首再拝>

[813] 幸福の世界に出る法〜その2
伝統 - 2015年09月10日 (木) 04時35分


          *「善と福との実現」第13章(P254〜255)より
 
この書は、アメリカの捕虜収容所へアメリカ本国から慰問のために
送って来た書物であったが、日本の図書検閲官の一人がそれを検閲中、
あまりにも生長の家の説く真理と同じことが書いてある好い本だと云うので、
その一節をタイプライトして私の手許ヘ送って来られたのである。

 
この書の前半にはどんなことが書いてあるかわからぬ。 
著者の名前もグレーン・クラーク氏と日本の仮名で書いてあって、
英字ではどんなスペルであるか知らない。 

併しそんなことはどうでも好い、私の紹介しようと云うのは、その中味である。 
その思想である。 その信仰である。 
それはキリスト聖書を根拠とした思想であるが、生長の家の思想と全く同じなのである。

著者のグレーン・クラーク氏が光明思想を発見するまでは、
氏の生活は困難と災厄に満たされたものだったのである。 

それは恰度、多くの誌友が生長の家の思想に触れるまでは
人生が病苦と人生苦とに充満したものであったのに似ている。

氏は自分の仕事に満足感が得られなかったし、住んでいる都市も面白くなかったし、
自分の周囲をとり巻いている運命も甚だ香しからぬものだったと
みずから書いているのである。 

と云って氏は決して 自己憐愍(※1)に陥っているのではなかった。 

若し氏の魂の底に深くきざまれている深い信仰があるとするならば、
自己憐愍している人間は罪人のうちで最も大なる罪人だと云うことである。 

と云って、氏は皮肉屋でも人間嫌いであったと云う訳でもないのであった。 
氏自身には何か自分自身に間違ったところがあるのだと云うことはわかっている。 
しかしその 「何か」 が判然しないのである。

氏はどこまでも自分自身の美と善との理想にしがみついて生活しているのに、
その善美の生活が何ら効果をあらわさないで、まるで坂道をころげ落ちる石塊のように
生活が懊悩の谷底へと墜落して行くのである。

心臓は低く沈吟して一体鼓動などしているかどうか判らない。 
生命の塩はその鹹味を失って了ったように見え、
信仰の灯は桝の下に閉じ込められたように、急速に将に消えようとしつつあった。 

まったく生活は灰色であったのだ。

 〈※註1〉 自己憐愍をするものは何事にも成功しないと云うことが 
 『生命の實相』に書いてある。 それは何故かと云うと、自己を憐れむためには、
 自己を不幸の境涯に置いとかなければならぬからである。 
 他人から憐れんで欲しい心境に至っては、益々自己を不幸に突き落すであろう。


             <感謝合掌 平成27年9月10日 頓首再拝>

[815] 幸福の世界に出る法〜その3
伝統 - 2015年09月11日 (金) 04時25分


          *「善と福との実現」第13章(P256)より

ところが、クラーク氏の生活は突如、殆ど一夜のうちに、すべてが変化したのであった。 
それは氏に光明思想の光が射し込んで来たからである。

氏は自分自身に対って 

『何故自分はアリスが姿鏡を覗き込みながら、牝鹿の脚に飛びのって突然神の国へ
歩み入ったように、自分も突然転身して別の世界へ、この憂鬱な、空虚な、
無感激の世界から、光明輝く別の世界へ飛び込まないのか』 と呟いたと書いている。

書物の前半がないので、アリスとは誰のことか、『牝鹿の脚』 とは何のことか
ハッキリわからぬが、兎も角、アリスと云うのはお伽譚の女主人公で
神秘的な神通力によって神の国へ転身して往ったものらしい。

グレーン・クラーク氏は一夜のうちに憂鬱な空虚な無感激の世界から
どうして明るい世界へ飛び込んだのであろう。 
それを氏はこれから語ろうと云うのである。

以下「氏」と書いてあるのはグレーン・クラーク氏のことであると知って頂きたい。
以下は私がタイプで得たものの概略である。
その後クラーク氏の原本を得たのでいずれ和訳して諸君に送りたいと思う。

             <感謝合掌 平成27年9月11日 頓首再拝>

[817] 幸福の世界に出る法〜その4
伝統 - 2015年09月12日 (土) 04時38分


          *「善と福との実現」第13章(P256〜257)より

《読者に与えられたる恩寵》

まったくのところ、クラーク教授が光明の世界に出たのは、あまりにもたやすいことであって
それは単に朝起きて、寝床の此方の側から彼方の側へ起きて坐ったようなものだと
書くことが出来るほどの全く易しいことだったのである。

氏は自身の考え方を間違った側から心と頭の正しい側へ置き換えたに過ぎなかったのだ。
換言すれば、氏は自身の感情と意志と知性とを、そしてその意識的なものたると無意識的
なるものとを問わず、神なる大生命の超意識的心にすっかり委せ切ってしまったに
過ぎないのであった。そうしたら幸福が来たのである。(註2)


 〈※註2〉
   宗教的感情の最も中心となるものは此の「全托」即ちまかせ切りの心境である。
   我(が)の力で、斯うしたら助かるか、ああしたら救われるかと
   左顧右眄している間は救われない。

   それではまだ現象の苦しみの世界にいるのであって、
   心がまだ完全に転回していないのである。

   神への全托とは完全に「神に引渡す」ことなのである。
   米国では surender(無条件降伏)の字を使ってある。
   自身を完全に明け渡して神にまで無条件降伏することが必要なのである。

             <感謝合掌 平成27年9月12日 頓首再拝>

[819] 幸福の世界に出る法〜その5
伝統 - 2015年09月13日 (日) 04時33分


          *「善と福との実現」第13章(P257〜258)より

新しい歓喜と新しい聖悦の放射が私に照り輝いて来た。
この放射する光は外側から私に新しい同志を引き寄せ始めたのである。

そして内部から輝く歓喜の光は、氏の心の中に新しい構想を引き寄せ始めたのである。
新しい同志と新しい構想とが一つになって驚くべき幸福な世界がそこに展開し始めた
のである。(註3)

 〈※註3〉
   終戦後わたしは何を為すべきかと云うことが問題であったのである。
   其の頃の私の祈りは

   「神よ、《国を救うために》、そして《国民を飢餓より救うために》、
   我に流れ入り給いて、その全き智慧を実現し給え、その完き愛を実現し給え」

   と毎夜、夜半に起きて神想観して祈ること1時間又は2時間つづけたものだ。

   すると引き続いて私の原稿は出ることになるし、英米光明思想紹介の新しい構想や
   『生長の家社会事業団』の仕事の構想が出来るし、海外からニュー・ソート聯盟の
   光明思想家や印度の宗教家たちが続々生長の家本部を訪問してくれることになり、

   生長の家思想を紹介する英文出版も出ることになり、全世界に人類光明化運動の
   友達ができ、海外にも講師を派遣するなど、私にとっても生長の家本部にとっても、
   全く驚くべき幸福な生活が開かれて来たのである。
   これはグレンクラーク氏の言う通りである。


全く思いが変化すると同時に新しい同志と、新しい構想とが、一緒になって氏を訪れ、
地上に真実の神の国が造られはじめたのである。


             <感謝合掌 平成27年9月13日 頓首再拝>

[821] 幸福の世界に出る法〜その6
伝統 - 2015年09月14日 (月) 04時30分


          *「善と福との実現」第13章(P258〜259)より

クラーク教授の周囲に動く一切のものが美しい調和をもって展開した・・・
「しかし如何に難しいことであろう、此の私の生活の変り方を自分以外の他の人々に
説明しようとすることが。」 とクラーク氏は云っている。


クラーク氏は母校の大学のトラック競争のチームをコーチしていたのであった。
恰度この頃競技季節(シーズン)に振り当てられた旅費給与と云うものが200弗に
制限しなければならぬと氏は言い渡されたのである。

此れに反して対校競技の相手方の大学では其の額の十倍もの予算がとってあった。
けれども氏は、今度は前期の運動シーズンのようには憂鬱な顔を重くるしい心臓とを
もっては此仕事に近づかなかった。

氏は愉しい心持で此の挑戦を受けとった。
そして此の重荷を「神」なる父に取去り給えと祈ったのである。


対校競技の他大学と同じ長さの旅程を吾が大学チームも走らねばならぬのだが、
而もクラーク教授にとって其の道は既にひらかれていたのである。

他大学にくらべると或る旅程では素晴らしい額の節約が出来て、実際上著しい旅費の
節約が出来たのである。4回にわたる長いコースの旅行は、普通ならば2千弗にも及ぶ
費用がかかる筈なのに実際の費用は190弗を使っただけであった。

それ以来、年々、神の導きと恩寵とは愈々益々明らかに示現されることになった。

             <感謝合掌 平成27年9月14日 頓首再拝>

[824] 幸福の世界に出る法〜その7
伝統 - 2015年09月17日 (木) 08時28分


       *「善と福との実現」第13章(P259〜260)より

享受のコーチしているトラック・チームの一学生が、氏を把えていた信仰に
いつの間にか引き込まれた。すると此の学生の顔貌から輝きが見えはじめた。

そして他の学生たちがこう云うようになった。
「先生と朝一緒に歩いていると先生の輝かしい顔が吾々の一日中を幸福にしてくれる」
と云い出した。


クラーク氏は或る時ウイスコシン大学に招ばれてトラック・チームの学生たちに
此の若者の話をした。

氏は「神の叡智による人間運命の修正」の話をして、競技を如何にして待つかと云う
問題については講話しなかった。如何にしたら神の心に調子を合わすことが出来るか
と云う問題を話して、敵手を倒すと云うことに就いては話さなかった。(註4)


と、一人の美青年である学生(少しばかり脚の曲がっている)が、クラーク教授の
ところにやって来て、氏の手を握って云った。「僕はその心境になりたいです。」

それから2週間のちに10大学の室内競技大会がひらかれた。
選手権はイリノイス又はアイオーワ、又はオハイオの3者の争奪戦であるとその朝の
新聞紙は報道していた。

ところが翌朝の新聞には、此の少しばかり脚の曲った青年が主将であるウイスコシン
が優勝したと云うのである。

 〈※註4〉
   敵を仆すことを考えないで、如何にせば神の心と調子を合わすことが出来るか、
   と云うことのみを心掛けていることが、却って勝利の秘訣なのである。
   
   凡ての運動競技に於いて此心境でいるならば必ず『神の叡智による人間運命の
   修正』(Divine Adjustment)が行なわれて選手は勝てる筈である。

   然るに普通選手たちは敵を憎むこと、敵を仆すことのみに重点を措いていて、
   神の心と波長を合わすことを忘れているのである。
   敗北の精神的原因はこんな処にもあるのである。

   米人の書いた光明思想の本に、この必勝の秘訣が語られているのを読むときに、
   此の点でも日本は米国に劣っていたと痛感させられるのである。


          <感謝合掌 平成27年9月17日 頓首再拝>

[826] 幸福の世界に出る法〜その8
伝統 - 2015年09月18日 (金) 02時58分


          *「善と福との実現」第13章(P261〜262)より

クラーク教授が祈ったのは、その選手たちが歓喜の感情に満たされることであった。
神は歓喜であるからだ。

教授は戦勝の功徳が来る様に祈った訳ではない。
氏は単に歓喜を祈り、あるべきありようを、
スッカリそして完全に神に委せたに過ぎないのである。

氏は神に対する調和とまかせ切りの「信」について、
心の態度のあり方を人々に伝えただけであったのである。

而も神は、そして神が、奇蹟を演じ給うたのであった。(註5)


 〈※註5〉
    神は、そして神が奇蹟を演じ給うのであって、
    人間が為すのではないと云うことを充分理解して置く必要がある。

    クラーク氏の原文には『神』の語は一字しか使ってないが、特に此一句を
    花文字で書いて強調してあるので、訳する場合に、力を強めるために
    『《神は、神が》奇蹟を演じたまう』と神の文字を二つ重ねたのである。


クラーク教授が神の国の新しい生活を始めるようになってからの恐らく最も驚くべき
出来事は、必要に応じて時々依然として時間の領域の中に生活しているにも拘らず、
「永遠」の超空間的領域へ飛び込むことが出来るような瞬間的な魂の出遊の経験を得た
ことである。

「その短かい瞬間には時として預言者の羽衣を着せられたように現象界の前途が透明に
見すかされるのであった」と氏は云っている。

或る晩、教授は隣家の持主から貸借していたガレージに氏の自動車をしまい込んで
今将に錠を卸そうとしていたときであった。

いつもその場所の見張りのために繋いであった
獰猛なブルドックが氏を目がけて飛びかかって来た。

いつも氏が猛犬に近づくときにはそうなのだが、
其の瞬間繋いであった鎖がピンと伸び切る。
恰度その戸に錠前をおろしていた氏は、突然内部の声が聞こえて来た。

それはあまりにハッキリと聞こえるのだった。

――「次の瞬間、犬の鎖が切れるから注意せよ」と。
もう数ヶ月の間、例によって此の犬は其処に繋がれていたのであって、
まだ一度も鎖など切れたことはないのである。

併し氏はその導きの声を信じて急に掛けつつあった錠前を外すと
ガレージの中に飛び込んで、内からピッシャリと戸を閉めた。

その瞬間、犬の鎖は切れたのである。
猛犬が身体の全重量を叩きつけるようにその戸にぶつ衝って来た音が聞こえた。


             <感謝合掌 平成27年9月18日 頓首再拝>

[829] 幸福の世界に出る法〜その9
伝統 - 2015年09月20日 (日) 04時36分


同じ年の、もう少し後のこと、二人の学生が何故先生は、米国と日本とはまだまだ
戦争しないとそんなに確言するのかと訊いたのだった。
(註。これは関東大震災前のことである。)

氏は神の御声に、その導きのみ声に傾聴しようとする気になった。

突然氏は自分の口が斯う答えている声を聞いたのである。

「何故なら、軍国主義の日本は地震によって破壊されるからだ」学生たちは訊いた
――「それは何時のことですか」 「もう6ヶ月以内だよ」
吾れにも非ず氏は鸚鵡返しにこう答えている自分の声をきいてみずから驚いたのである。

その日付から5ヶ月たった。
本当に関東大震災が怒ったのである。

一夜のうちに日本は軍国としての第一流国第四流国にまで墜落し、
諸々の造船設備や資材は破壊され、10万の生霊は殺戮されたのである。


「何故日本は此の震災を神の力によって免れることが出来なかったのであろうか。
恰度、前記の猛犬から私が免れることが出来たようにだ。
恐らく全日本国民が祈りに於いて神の方へ心がクラリと向いていたならば、
震災の方向を他へ外らすことが出来ていたに相違ない」
と氏は真面目に信じると云っている。(註6)

氏の信ずるところによれば、「時間」の世界に展開する災禍というものは、
「空間」の世界で墜落する橋のようなものである。それは必ずしも吾々が頭を真逆様にして
その災禍の中に墜落してゆかなければならないようなものではないのである。

空間の世界で、橋が落ちると云うことが予め予知出来るならば、吾々は必ずしもその橋を
渡らないで、別に安全な回り路をとることも出来るのではないか、そこにこそ神が
時々我々に預言的霊感の導きを与え給う理由があると信ずるのである。

そうでなかったら、神は何故吾々に予知能力を与えたまうたか理由がない
と云うことになるであろう。


 〈※註6〉
    「祈りによって震災の方向を外らすことが出来る」と云う
    アメリカ光明思想の信念には、我々は頭が下がるほかはないのである。

    この著者は聖書にある『若し芥種ほどの信あらば此の山に彼方に行きて海に入れと
    云うと雖も必ず成らん』と云うキリストの語を如実に信じているのである。

    アメリカを唯の物質の数と量との国だと宣伝した人たちの愚かさは
    此処に再び猛反省を要するのである。

    若し日本国民の殆ど全てが神を信じ、神の心と波長を合わすような
    心境であるならば、頻繁な地震の襲来や、天候の不順や暴風雨の被害も
    来らないと云い得るのではあるまいか。

             <感謝合掌 平成27年9月20日 頓首再拝>

[832] 幸福の世界に出る法〜その10
伝統 - 2015年09月22日 (火) 04時58分


          *「善と福との実現」第13章(P264〜266)より

「最近数年間私は、集団祈祷がどんなに素晴らしい感応のあるものであるか
と云うことを体験した」とクラーク教授は云っている。
集団祈祷と云っても2人か3人の集まりのことも70人も集団しての祈祷会のこともある。

イエスの名に於いて一致して求むるものを与え給えと祈るのである。
是等の祈祷会のあるまおのは個人的必要のためであったものもある。
併し国家的又は国際的事項についての祈祷会の方が屡々(しばしば)催されたのである。

その体験によるならばシーアウッド・エディ氏が「若し十二人が完全に無我になって神に
祈るならばアメリカの全貌を変化することは可能である」と云ったことは真実である
(註7)


 〈※註7〉
    吾等が集団祈祷会を催さないと云うことは信心ある人の生活ではないと思う。
    同志よ、吾等生長の家の家族たちよ、同時一斉に神に対して祈ろうではないか。
    毎朝午前5時より30分間、祈りの言葉は
    次の如く一斉にそれが現実になるまで続けようではないか。

    「神よ、日本国を御心の如く再建し給え。
    神の無限智、無限愛、無限供給を実現せしめ給え。

    既に、『自分』は無いのである。
    すべてを神にまかせ奉ります。

    神はその智慧と愛と供給とを既に今、日本全国に充たし給うているのである。」



私(クラーク氏)は、若し70人の人々が祈りを力を真に、積極的に信じて、集団祈祷
するならばすべてのアメリカの問題は解決すると深く信ずるものである。(註8)


 〈※註8〉
    私は日本の全ての問題も此の集団祈祷によって解決すると信ずるものである。
    ただ戦時中の神社の祈祷のように神官が単に大声でノリトを唱え、参列者は
    頭を下げて他の事を考えているようなやり方では駄目であるし、他国の犠牲に
    於いて自国のみが勝とうと云うような利己的な祈りでは駄目である。

    黙念に心を集注すること。
    神の国に全然無条件に自己を投げ出して自己が全然無くなり、
    神の智慧と愛とが自働的に働くそれに委せ切らなくてはならぬのである。


とは云うものの、自分は斯う云うことを発見したのである。
自分の祈りの経験では祈っているにも拘らず、妙な制限が感じられることがあるのである。
その制限と云うのは人が造ったものであって無論神が造ったのではない。

例せば私の祈りを求めない人の為に祈るときには甚(はなは)だギコチない感じがするし、
絶対に祈りの効果を信じない人のために祈ることは殆ど不可能でさえある。

そして支払わねばならぬ負債(おいめ)の償却を無視したり、拒んだりする人のために
経済的好転を祈ってあげると云うことは不可能であることも体験された。また互いに
憎み合っている人と《一緒に》祈ったり又その恨みのまだ消えぬ人の《為に》祈っても
効果がない。

また其の次に効果がないのは、彼の全存在が恐怖と心配とに充たされ、祈りの波長の
入って行く「静寂の領域」が心の世界に全然存在しない人への為の祈りである。

まことに痛感されるの葉、どんなに忙しい生活にも神の救いの霊波が自己の魂まで
入って行くための「静寂の領域」をもっと多く吾等は持ちたいものである。


自分が毎日規則正しく日課のように祈っている唯一つの祈りがある。
そしてそれは斯うである。

「私の生活の今日の一日の一瞬一瞬が、神の国の生活でありますように。
そして他の人々の生活の一瞬一瞬が神の国の生活であり得るよう神よ霊を注ぎたまえ。」

此の祈りは他のあらゆる種類の祈りを包容し、且つそれを完結するものであり、正しい
理解ある信仰をもって祈るとき必ずそれが成就しないことはない祈の言葉なのである。


             <感謝合掌 平成27年9月22日 頓首再拝>

[834] 幸福の世界に出る法〜その11
伝統 - 2015年09月25日 (金) 03時21分

          *「善と福との実現」第13章(P266〜269)より

神の国に到るには2つの道がある。
その一つは「生」の道と呼ぶことが出来るのである。
而して他の一つは「死の道」と呼ぶことが出来るのである。

地上圏に生活して居る吾々にとっては、「生」の道こそより幸福な道であると思われるが、
それと同じ理由によって、神の意志(みこころ)のまにまに死の谷即ち死のうす暗い影を
通して彼方の世界へ連れられて行った人々にとっては、霊界こそ一層光明輝く世界だと
法悦に浸っているかも知れないのである。

そうではないと、決定的に証拠立てる所のものは何もないのである。

総べて真の基督信者が唯物主義と利己主義とを暴露しているとして、忌み嫌うところの
祈りの言葉がある。

「吾々の此の国、此の世国をして常に正しくあらしめ給え、
此の世の国をして悪より救い出さしめ給え」

という言葉である。

此の祈りの言葉を、無我とそして天国的な光とで打ち顫(ふる)えているところの祈りの
言葉に、吾々は変化しなければならないのである。即ち

「神よ、先ずあなたのみ国を、ここにも彼処(かしこ)にも来らしめ給え。
わが心を成さんとするのではありません。ただ常にあなたの御国を実現せしめ給え」

とこそ祈るべきであるとクラーク教授は云っている。(註9)


「若し天国に到ることが此の世の国の幸福を受くことではなく死の道によってのみ
達成することができるのであり、それが神の御心であるならば、私は喜んで私自身を、
否、私の最も親しき友達をも、私自身の子供さえも捨てることを惜しむものではない。

然し幸なことには、我々は必ずしも死の扉を通らないでも、もう一つの道から神の国へ
通ずることが出来るのである。その道はあまり単純で馬鹿らしい位である。

皮肉な批評家達はそれを嘲笑い、物質主義者はしれを嘲(あざけ)るかも知れないが、
その道は『幼な兒の如くなれ』唯それだけである」と。


 〈※註9〉
    グレン・クラーク氏の祈の言葉を読んで、利己的祈願をしている習慣の人は
    辱かしくならないであろうか。

    『神よ先ずあなたのみ国を。ここにも彼処(かしこ)にも・・・・・・・・
    常に貴方の御国を』祈れる人は幸いである。


幼兒と云うのは常に神に任せ切りの生活をしている人のことである。
氏にとっては、意識と、潜在意識と、そして超越意識とは渾然と一つになっている
のである。

『幼兒(おさなご)の如くに神の国を受くる者に非ざれば神の国に入ること能わず。』
と聖書は録している、その通りを行なえば好いのである。


氏は「私自身の中年者にありがちな、頑(かた)くなになった心の金属を、幼兒の
柔らかい撓み易い金属の性質に融かし直す為に、幾度か私自身を叩きのめし、
打ち砕いたか知れない」 と云っている。

また氏は、氏の友達を幼兒の如くならしめんが為に、幾度議論し、説明したか
知れないのである。併し、ああ悲しいかな、如何に度々それは無駄であったことで
あろうと氏は嘆いている。

併し、氏がそれらの人々を説服するのに成功した一つの例を次の如くあげている。

それはクラーク教授が人々と一緒に何気なく、キャンプの炉縁(ろぶち)に坐って
居る時に、そしてまた湖や海の波の静けさを見つめながら、自然と出る話の中に
お伽噺を偶然に話し出した時だった。

肩の凝らないお伽噺と云うものは無痛の外科的手術の様なものである。

それは第一に、常に気取った議論や世俗の智慧で武装していて中々吾々の言う事を
きかぬ皮肉屋の身構えを解きほぐす為の鎮痛剤となるのである。

それは青年の時以来永く忘れられたる数行を喚(さけ)びさまし、幼兒の頃の心と
態度とに吾々を還らしめ、人々をして、人生の春の新鮮さに若返らしめ、議論好き屋
や唯物主義者の心の中に煙草のヤニのように溜まった毒素を、何時か知らぬ前に
掃除してしまうのである。

斯様にしてお伽噺の効果は、人々をして幼兒の如くならしめ、まったく新しき人間
として新に出発せしめることを得しむるのである。

然り、あなたが幼兒として再出発したならば、神の国に入ることに就いて之以上
あなたに話をする必要は何もないのである。

私はこの短かい話を閉じるまでに炉の傍にあなたの椅子を近づけて、
教授がその書で語っているお伽噺を次に紹介しよう。

             <感謝合掌 平成27年9月25日 頓首再拝>

[837] 幸福の世界に出る法〜その11
伝統 - 2015年09月26日 (土) 05時02分


          *「善と福との実現」第13章(P269〜272)より

昔々、ジャックと云う王子があった。

彼はある王様と結婚した年老いた妃(きさき)の子供であった。

巨大な鬼が其の王様を殺して妃(きさき)と彼女の小さき王子とを追放したのである。

そして今やこの年老いた妃(きさき)は只一匹の牝牛と少しの地面を残しただけで、
生活するために妃(きさき)は王子とともに身体も魂も、ともに激しく働かさねば
ならなかったのである。その中にこの2人は金がだんだんなくなった。

遂に妃(きさき)は牝牛を金に換えるために王子を市場へやらなければならなかった。
その金でほんの僅か暫くの間生計が維持出来るのであった。

市場へゆく途中で王子のジャックは羊を連れて来る一人の男にあった。その男に王子は
旨く欺されて、とうとう自分の連れて来た牝牛を羊に換えてしまったのである。

次には豚を連れて来た男に会った。この男も前の男と同じように饒舌が達者であった。
そうして、とうとう王子の羊を豚に換えてしまった。

その次に王子はそれを鵞鳥(がちょう)に、鵞鳥を雌鶏(めんどり)にと次々換えて
しまったのである。やがてその雌鶏もその次には一握りの隠元豆と取り換えて、
それを母の王妃に見せる為に帰って来たのである。


其の時、母の王妃が癇癪を起してその一握りの隠元豆を窓の外に捨ててしまったと
云っても、其の母を責めるものはないであろう。恐らく私も同じことをきっとしたで
あろうと考える。併し彼女は次に起こることについて殆ど何も知らなかった。

王妃たちはその晩充分に眠ったのであった。
彼女は翌朝目を覚まして驚いたことに、その隠元豆から芽が出て家の傍に天にも
とどく高さにすくすくと延び、蔓(つる)を網の目のように拡げていることであった。

王子は他の子供も恐らくやるであろうと思われるように、その隠元の茎をずんずん
昇って行った。隠元の茎の頂上で、王子はそこに大きな台地があると云うことを
見出した。それは空中にある不可思議なる国である。

それは彼の王様を殺した巨大な鬼とその妻が住んでいる世界であった。
鬼は「ヒヒー、ヒ、フォ、フン、人間の匂いがするぞ」と言って居った。
鬼が王子を見付けたならば、彼を捕えて殺していたかも知れない。

然し幸なことに、鬼の后(きさき)が何時かはこの王様から奪った3つの宝物を、
真の持ち主が来て要求したならば返してやろうと考えていた。

この鬼の住家へ王子はそっと入って行くと、
その度ごとに父が盗み取られた宝を一つずつ取返した。

一つは赤い雉であった。そしてそれは毎日黄金の卵を産んだ。
もう一つは人間の手が触れないでも、自然になる堅琴(ハーブ)であった。
そして最後の一つは身に纏うと何処へでもゆける魔法の敷物であった。


さて、教授はこのお伽噺を解釈して

「私にとっては之は只のお伽噺ではない。
人間生活の総ての記録の最も真実なものの一つである。
吾々は総て王様の子なのである。

吾々の人生の総ては牝牛を隠元豆に換えるか、
隠元豆を牝牛に換えるどちらかの商売をしているのである。
吾々のある人々は決して他のことをしないのである。

吾々の全てはいつかは此の隠元豆の茎を攀じ登って行くと
同じ機会にめぐまれているのである」(註10)


 〈※註10〉
    このお伽噺は『お爺さんの云うことに間違いはない』というアンデルセンの
    童話によく似ている。

    併しこれはもう一つ深いものがある。
    それは得たる隠元豆の種子を地に委ねて眠って了ったことである。
    そのまま委せて眠ること其処に神の救いの神秘がある。

    斯う云う真理のこもった寓話を神話と云うのである。


             <感謝合掌 平成27年9月26日 頓首再拝>

[839] 幸福の世界に出る法〜その12
伝統 - 2015年10月01日 (木) 03時10分


          *「善と福との実現」第13章(P272〜274)より

以上、私はグレン・クラーク氏の宗教的お伽噺に於いて、王子が相手に請わるるままに
幾万円にも値する牝牛を段々物質的外形の小さいものと交換し、ついに形の極小なる
併し内部に生命を蔵する隠元豆の種子と交換した寓話の筋書を話したのである。


隠元豆と云う名称も、甚だ相応しい名称である。
内部に「《元》」を《隠》している種子であると云う象徴であるからである。

吾々が得なければならないものは形の大小ではない。
「内に生命を蔵するもの」でなければならない。


隠元豆とは何であるか。
それは吾々個々の人々の生命そのものである。
吾々は自己の生命として、内に大生命の本《元》を《隠》し有っているのである。
自分の生命そのものが隠元豆なのである。

その譬喩的なお伽噺は、日本の「福は内、鬼は外」の追儺(ついな)の行事に於いて
撒くところの大豆の譬喩にも当て嵌る。
うちに生命を蔵する豆を見出すことことによって、鬼が消えてなくなるのである。


王子はそれを窓から捨てて大地にゆだねた。

キリストは「一粒の麦若し地に落ちて死なば多くの実を結ばん」と云ったが、
大生命から頂いた「個生命」をそのまま窓のうちに、閉じ込められたら「自我」の
内に、堅く自己を守ろうとしている限りに於いて、それは多くの実を結ぶことは
不可能なのである。

机の上に置かれたる一粒の豆は芽を出すことすら出来ない。
吾々は百尺竿頭一歩を跳躍しなければならないのである。
自我の殻を破(わ)ることが必要だ。

そして一歩自我の殻の外に飛び出せ。
そこには大地が吾々を抱擁し育(はぐく)むべく待っているのである。

雨は降るかも知れない。
風は吹くかも知れない。
それは一見困難なる外界の世界に晒される。

併し、雨は却って吾々を潤してくれるものであり
風は却って吾々から害虫を払ってくれるものなのである。

大地とは神の譬喩だ。
風雨はその摂理の象徴である。

かくて風雨の自然的なはからいによって豆の種子は、「吾々の個生命」は、
大地の中に、神の大いなる慈手の中に抱かれる。


王子は隠元豆を窓から捨て、それを大地に委ねて眠ったと云うお伽噺の筋は
それを物語るのである。

かくて隠元豆はスクスクと伸びる。
天まで達(とど)くほどに伸びる。
大地に抱かれ、天にまで伸びる。

大地は神の大愛の象徴であり、天は神の大智慧の象徴である。

神の無限の智慧と無限の愛とは、外にあり、内にあり、外と内との関係にあり、
内よりの衝動に導かれ、外より導きに従い行き、ついにそこに嘗ては自己のもので
あったが、いつか見失っていたところの「黄金の卵を生む赤い雞」
「神徠(インスピレーション)の竪琴(たてごと)」および「神足通の絨氈
(カーペット)」を見出すのである。

黄金の卵を生む赤い雞は「エデンの楽園」(実相世界)に棲んでいるところの極楽鳥
であり、吾々の「必要な時に必要に随って、黄金の卵を生んでくれるのである。

黄金の卵とは「供給無限の黄金律」である。
此の無限供給の黄金律さえ手にするならば、
必要に応じて、必要なものは、今此処に、既にあるのである。

《今此処に既にある》――これは生長の家の特殊の表現であり、「永遠の今」に
凝縮されたる「時の論理」であり、「無限にして同時に此処の一点」に凝縮されたる
「場所の論理」であり、「久遠の時」と「無限の空間」とが「《既に》」よって結合
され「《吾れ》」によって実在せしめられている自覚の表現であるのである。

「吾れは神の子なり」とは永遠の今を吾が一点に実現せる
―― 随って、「一切のものが、今此処にある」自覚である。

             <感謝合掌 平成27年10月1日 頓首再拝>

[842] 幸福の世界に出る法〜その13
伝統 - 2015年10月02日 (金) 07時48分

          *「善と福との実現」第13章(P274〜276)より

一瞬一瞬に「久遠の時」が把握される、
一瞬一瞬に久遠の生命が生きられる、
今此処に無限の空間が、無限の供給が《既に生きている》のである。

外から無限の供給が与えられるのではない。
自分が既に「無限供給」なのである。

神は吾がうちにあって、「吾れ有り」(I am)と宣言し給うのである。
吾れのほかに何物もなし。
吾れは、「一切蔵」なりと宣うのである。

神はその独り子を、キリストを、吾々に与え給うた。
それは譬喩ではない、真実なのである。

わが生命(いのち)はキリストである。
わが生命(いのち)は神の子である。
既に吾れは無尽蔵であり、無限の愛であり、無限の智慧であるのである。


若し諸君が神を信ずるならば、
キリストを我に与え給うたことを信じなければならぬのである。

それはイエスがただ吾らの罪の購いのためにのみに来たのであると
信ずるのみならず、

《キリストそのものが我に既に来たり給うていることを》

信じなければならないのである。


既にキリスト吾が内にある。
外を探してもそれは恐らく見出すことは出来ないであろう。

キリストが吾が内に既に来り給うていることは彼が、
『「われは往きて汝らに来るなり」と云いしを汝ら既に聞けり。
もし我を愛せば父にわが往くを喜ぶべきなり』(ヨハネ伝第14章28)と云い、

『我なんじらを遣わして孤児(みなしご)とはせず、汝らに来るなり』
(ヨハネ伝第14章18)と云い、

『我を愛する者は我が父に愛されん。我も之を愛し、之を己を顕すべし』
(ヨハネ伝第14章21)と云っているのでも明らかである。


キリストは既に汝等の内に来り給うているのであるが、
それを顕すためにはキリストを愛しなければならないのである。

          <感謝合掌 平成27年10月2日 頓首再拝>

[844] 幸福の世界に出る法〜その14
伝統 - 2015年10月03日 (土) 02時49分


          *「善と福との実現」第13章(P276〜278)より

それでは「愛する」とは如何なることであるか。
先ずキリスト我にい給うことをしらなければ愛することは出来ないのである。

「我れなんじを遺(のこ)して孤児(みなしご)とはせず、汝らに来るなり」と
云うキリストの誓約を先ず汝らは信じなければならないのである。
然らば既にキリストは今、此処、吾に、い給うと云うことが信じられねば
ならないのである。


先ずキリスト吾れに内在すと、知り認めることがキリストを愛する第一の条件である。
しかし、水の中に油が混じっているようにピッタリ吾れと「一つ」になることなしに
キリストがい給うのでは充分ではない。

キリストと吾と一体にならなければならない。
「愛する」とは、「本来一体の再認識」である。


キリストは磔刑につれられ行く前の最後の祈りの中でこう祈っているのである――

『我かれらの爲のみならず、その言(ことば)によりて我を信ずる者のためにも願ふ。
これ皆一つとならんためなり。父よ、なんぢ我に在(いま)し、我なんぢ(神)に
居るごとく、彼ら(人間)即ち我ら(神と人間)に居らん爲なり、・・・

我は汝の我に賜ひし榮光を彼らに與へたり、是われらの一つなる如く、
彼らも一つとならん爲なり。即ち我かれらに居り、汝われに在(いま)し、
彼ら一つとなりて全くせられん爲なり。 』(ヨハネ伝第17章20−23)


かくて既にキリストは我に来り給うたのであり、
キリストと我とは既に一体なのである。
此の一体を確認することが、キリストを愛すると云うことである。

かくて父と一体なるキリスト ―― そのキリストと一体なる人間はその実相を
信ずることによって、如何なる事も成就することが出来るのである。


『わが言ふことを信ぜよ、我は父にをり、父は我に居給ふなり。もし信ぜずば、
我が業(わざ)によりて信ぜよ。誠にまことに汝らに告ぐ、我を信ずる者は
我がなす業(わざ)をなさん、かつ之よりも大いなる業(わざ)をなすべし、
われ父に往けばなり。汝らが我が名によりて願ふことは、我みな之を爲さん、
父、子によりて榮光を受け給はんためなり。 』(ヨハネ伝第14章11−13)

とキリストはみずから証言し給い、また『汝等もし我に居り、わが言(ことば)
なんぢらに居らば、何にても望に隨ひて求めよ、さらば成らん。 』
(ヨハネ伝第15章7)

と再び証言していられるのである。


父(神)とキリストと我ら(人類)との一体、これを認め知ること、信ずること、
これがキリストを愛する第一の条件なのである。

かくてキリスト我にい給うと知れば、キリストに於いて、
吾らは何事をも成就することが出来るのである。


然らばキリストと我とが一体であるあることはわかった。しかし、一体であると
解っただけではまだ充分キリストを愛しているいると云うことは出来ない。
それはただ基礎条件に過ぎない。


『わが誡命(いましめ)を保ちて之を守るものは、即ち我を愛する者なり。』
(ヨハネ伝第14章21)とキリストは言っているのである。

その誡(いましめ)とは何であるか。

『わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし 』(ヨハネ伝第13章34)

とキリストはハッキリと云っているのである。

パウロは「神は愛なり」と云っている。
仏教では「大信心は仏性なり」と云い、「念仏申す心そのものが如来だ」と
云う風に説かれているのであるが、

キリストは愛がキリストであり、愛の動いているところキリストが動いている
のであると云う風に云っているのである。


然らば「我が名によりて我に願はば、我これを成すべし」と云われたのは、
我らが何を求めるにも「《愛に於いて》」求めることが必要だと云うことが
判るのである。

《我欲に於いて》求めてもそれは得られるものでは決してないのである。

             <感謝合掌 平成27年10月3日 頓首再拝>

[845] 幸福の世界に出る法〜その15
伝統 - 2015年10月04日 (日) 02時15分


          *「善と福との実現」第13章(P278〜280)より

「愛」の語は多く誤用せられている。
弟子の汚れたる足を師でありながら洗ってあげられた愛であり、
万民のためにおのが生命を捨て給いし愛である。

かくの如き求めざる愛を自己抛棄の愛をこそ愛と稱ぶべけれ。

「我れ汝を貪欲す」と云う意味に於いて「愛」と云う語が用いられたり、
(例、我れ金を愛す)「我れ汝を淫欲の対象とせんと欲す」と云うことを
「我れ汝を愛す」と云う言葉で語られているのである。

斯くの如き愛は、仏教で激しくいましめられているところの五欲の愛であり、
執愛であり、自愛であるにすぎない。
それはただ利己主義の別名に過ぎないのである。

これをキリストは『汝等もし世のものならば、世は己がものを愛するならん』
(ヨハネ伝第15章19)と云い、肉に於ける、物に於ける「世俗の愛」を「世」
と云っているのである。

斯くの如き愛は、天界の愛ではなく、民主的な愛ではない。それは
「僕(しもべ)の愛」に過ぎないのであるとして、「僕はその主人より大ならず」
と、他を自己の犠牲に強うる愛を真の愛ではないと宣言し給うているのである。

先ず、キリストを愛するならば、キリストの生命の実相を愛しなければならない
のである。キリストは「神の愛」の自己顕現であり、「自己放棄」の具象化である。

キリストは自分を指して「主よ主よと呼ぶ者必ずしも天国に入るに非ず」と断言した。
「キリストよ、私は貴方を愛する」と百万遍となえても、それによって真にキリスト
を愛していると云うことは出来ないのである。

真にキリストを愛するならば、キリストと自他一体となることである。

キリストと同じように生きなければならないのである。

             <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

[847] 幸福の世界に出る法〜その16
伝統 - 2015年10月05日 (月) 03時06分


          *「善と福との実現」第13章(P280〜281)より

キリストと同じように生きるとはどうするのか、

(一)彼は父(神)との一体を自覚したのである。
    諸君は、父との一体を自覚しているか。

(二)彼は「わが業(わざ)はわが為す非ず、
   天の父われにいまして成さしめ給うなり」と信じた。
    諸君はキリストと同じ様に信ずることが出来るか。

(三)彼は「汝ら審判く者は審判かれん。七十度を七十倍たび赦せ」と云った。
    諸君は真に隣人を審判く事なく赦しているか。

(四)彼は「重荷を負える者よ、我に来れ、我れ汝を休ません」と云った。
    諸君は隣人の重荷の一半を分け擔(にな)って彼らを休ませてやる
    生活上の実践が出来るであろうか。

これらの事が出来て初めて、
諸君はキリストを愛していると云うことが、出来るのである。
キリストは常に、いと小さき者の姿を装うて出現して来られるであろう。

『斯くのごとき一人の幼兒を受くる者は、我を受くるなり。然れど我を信ずる
此の小き者の一人を躓かする者は、寧ろ大なる碾臼(ひきうす)を頸にかけられ
海の深處(ふかみ)に沈められんかた益なり』 (マタイ伝第18章5−6)

『汝ら愼みて此の小き者の一人をも侮るな。・・・
汝らいかに思ふか、百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、
九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか。
もし之を見出さば、誠に汝らに告ぐ、迷はぬ九十九匹に勝りて此の一匹を喜ばん。
斯くのごとく此の小き者の一人の亡ぶるは天にいます汝らの父の御意にあらず。』
(マタイ伝第18章10−14)


キリストの愛は自己放棄に於いて、いと小さき者を愛するの愛である。
真に悩める者、苦しめる者、貧しき者を愛し得なかったならば
キリストを愛していると云うことは出来ないのである。

かかる愛をもって、キリストに求めるとき、はじめてキリスト以上の
より大なる奇蹟を実現することが出来るのである。

             <感謝合掌 平成27年10月5日 頓首再拝>

[849] 幸福の世界に出る法〜その17
伝統 - 2015年10月06日 (火) 03時28分


          *「善と福との実現」第13章(P281〜282)より

これについてグレン・クラーク氏はこう云っている ――

「諸君は、風に靡く、裾まで垂るる衣を着、波立つ髪の毛に頭を装い、美しき鬚髯を
生やし、美しき瞳をしたところの絵に書いたキリストを求めるのであるが、

若しキリストが今日あらわれて来るならば、彼は総ての人が着ているような普通着物
を着て来るであろう。恐らく諸君が看慣れているような美しき鬚髯はなく、当り前の
人間と同じような様子をしてやってくるにちがいない。

諸君はこのときキリストを知らずと云うかも知れないのである。
イエスの時代にもそうであった。

ユダヤ教徒は、モーゼのような着物を着、ソロモンのような厳かな服飾をつけた
救世主(メシヤ)の来ることを待ちのぞんでいたのであるが、そのメシヤがイエスの
ような大工の姿をもって現われたときそれを拒んだのである」と


諸君よ、キリストは今や到るところに満ちているのである。
万人の魂にキリストが宿っているのである。
諸君は万人をキリストの名に於いて愛しなければならないのである。

             <感謝合掌 平成27年10月6日 頓首再拝>

[851] 幸福の世界に出る法〜その18
伝統 - 2015年10月07日 (水) 03時42分


          *「善と福との実現」第13章(P282〜283)より

「キリストは必ずしも人間のつくった教会の中に、その教会独特の教義の中に
ソロモンやモーゼの如き姿をもっているのではない」とクラーク教授は云っている。

この話、生長の家と全く同じ信仰である。
万人にキリストは来り、すべての宗教の教義の中にキリストは宿る。
キリスト(愛)を拒まない宗教は、すべてキリスト教である。
そこにはキリストが説教しているのである。

若し寺院に於いて真に愛(仏陀の慈悲)が説かれるならば、キリストが僧侶の姿を
して説教しているのである。バプテスト教会や、聖公会や、ルーテル教会や、
ホーリネス教会や、一定の特定の教会のみがキリストの教会ではないのである。

仏教もまた基督教である。基督は最早一個の人間ではない。
基督は「われは真理なり、道なり、生命なり」と自ら説いている。基督を語り
道を説き生命を指さし示す宗教教団には悉く基督が説教しているのである。


一定の形をしたキリストだけを愛しようと思っているならば、諸君はソロモンや
モーゼの姿をしたメシヤを待ちのぞみながら、真のキリストを排斥したユダヤ人の
ように、真のキリストを排斥してしまうことになるのである。

クラーク氏は「主よ、主よ、と呼ぶところの数千数万の人々が、真にキリストが
来たときにそれを如何に拒むかを思え。何故なら彼らはキリストの内部精神を見ず、
唯ある外的装い、その外面的服装、教会的な形式が自分の予想通りのものであった
ならば、イエスを受けようとして用意しているからである。

イエス自身はその最後の日に、如何に斯くの如き人々が知らずと拒むことを説いて
いるのである」と云っているのである。


それは仏教に於いても、キリスト教に於いても凡ゆる既成教団が、自宗を守るため
に、キリストが、そして仏陀が『生長の家』の装いをして出現してきたときに
拒んだのである。

             <感謝合掌 平成27年10月7日 頓首再拝>

[852] 幸福の世界に出る法〜その19
伝統 - 2015年10月09日 (金) 03時50分

          *「善と福との実現」第13章(P283〜284)より

グレン・クラーク氏は更に云う ―― 

「諸君は単にイエスの絵を愛するのか。
諸君は単に歴史的イエスのみを愛するのか。

それとも亦諸君はキリストの内部の霊に穿ち入り、生ける神の子なるもの――
一々の行ないに於いて、父なる神を表現している生ける神を見んとするのであるか。

若し諸君がこの内部のキリストを見るならば、キリストは諸君の許に来り、
永遠にあなたと偕に住むであろう」と。

真にキリスト教は正直にそのまま聖書にあらわれたるイエスの言葉と、
行ない(奇蹟)とを受け入れなければならないのである。

自分に奇蹟が出来ないからとて、キリストの奇蹟を拒むのは、
本当のクリスチャンではないのである。

生長の家は全面的にキリストの言葉を受け入れ、

(例えば「汝ら何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ」の聖書を少しの割引もなしに
栄養やカロリーや薬剤について思い煩わないで健康を保っているのである)

そして又全面的にキリストの奇蹟を受け入れ、真に「無にして無尽蔵」の供給を
実現しているのである。

そして「重荷を負える者よ、我に来れ、我れ汝らを休ません」と云っている。

そして来りて教えを受くるものは平安を得、病ある者は醫され、供給乏しき者も
キリストの心に帰るとき無限の供給を生活の上に体験しているのである。

真の幸福の生活は、形の教会や寺院をつかむことではなく、
真のキリストの霊を受けることなのであった。


しかしキリストの霊を受けるためには如何にすべきか。

先ず精神を弛緩して浮世の煩労を捨てることである。
次には神に心を集中することである。
そして「我を無くならしめ給え」と祈ることである。

そして常に善き言葉を黙念し、それを心の奥底に滲透せしめることである。

・・・

(以上で、「善と福との実現」第13章<幸福の世界に出る法> の謹写を終了いたします)

谷口雅春先生は、「牝鹿の脚の話」を『新たに生まれるための講話』の中で、
”第三部下の1”に於いても、その真理を説いておられます。

次回からは、その真理の部分を謹写してまいります。


             <感謝合掌 平成27年10月9日 頓首再拝>

[853] 人間・神の子無限力の真理〜その1
伝統 - 2015年10月10日 (土) 05時03分


「牝鹿の脚」の関連として、
『新たに生まれるための講話』”第三部下の1「人間神の子無限力の真理」”
の謹写を始めてまいります。


      *『新たに生まれるための講話』(P196〜198)より

《”牝鹿の脚”の如き健脚を以て高き世界に昇ること》

皆さんはもうすでにご存じの通り実相においては神の子・無限力なんであります。
しかし、現象においてはまだ無限力が出ていない人がまだ随分あると
思うのであります。


どうしたら無限力が出てくるか、という問題になって来るのであります。

そのためには既に話した通り、人間が物質でできている肉体に過ぎない
という自覚から一転して霊的実在だという人間観に新たに生まれ変らねば
ならぬのであります。


わたしは、たびたび「牝鹿の脚の話」をしたのであります。

この話は常に聴く人になんらかの現実超越の自覚を呼びさまして喜ばれる話で、
『善と福との実現』という本の第九章にあるんですから、
まだ読まない人は自宅にへお帰りになってから読んで下さって、
今日これから話す私の話を心に復唱して頂いて
「神の子、無限力」を本当に発揮して頂きたい。


その”牝鹿の脚”というのは、いまこうして恰度(ちょうど)『旧約聖書』を
ひらきましたら、「サムエル後書」の第22章33節、34節のところが
出て来ましたが、そこに

「神はわが強き堅衆(しろ)にてわが道を全うしわが足を麀(めじか)の如くなし
我をわが崇邱(たかきところ)に立(たた)しめたまふ」

とあるのであります。


さてこの聖書の神示に従って、皆さんが、この人生を歩む脚を”牝鹿の脚”の如く
するということは一体どういうことであるか、それを考えたいと思うのであります。


”牝鹿の脚”の哲理を先ず発見した白い髯のおじさんが、列車の真中(まんなか)
の道をこう歩きながら”今度は誰れにこの話をしようか”と思いながら、左右の席
に掛けている人々の人相をみながら歩いて来て、そしてイリノイ大学の文学部の
教授グレン・クラーク博士の側(そば)へ来ると、

「ここへ掛けても宜しゅうございますか」と慇懃にいう。
そして隣の椅子にかけると、次のように言うのでした。

「私は毎月、商売で旅行しているんですけれども、必ず誰れかにこの私の体験を
話すんですが、話しても宜しゅうございますか」という。


こうして彼は自分の経歴を話し出したが、彼は好成績で大学を出てから或る商社へ
勤めたが、かれは、まことに天才的な実業家的能力をもっておって、非常に会社の
成績を挙げ、間もなく重役になって、支配人になって、

一つの会社で足りないで三つも四つも会社を拵(こしら)えてその社長となり、
重役となって、彼が成すところ必ず金が儲かる、金が儲かる・・・・
金、金、金、金・・・というので、それで一所懸命金を儲けることばかりやって
いる間(うち)に体がくたびれて来たのであります。


《体が衰弱する心的原因は何か》

どうして体がくたびれて来るかというと、”金”という奴は、唯物論の一つの
シンボル ―― 象徴みたいなものなんです。

そして物質にばかり心がしがみついてしまうと、神の生命の波動が自分に流れ入って
来る受信機となる自分の心のアンテナが、神様の霊的波動の方へ向いていないことに
なります。

それだから、生命が涸(か)れかかって、本当に生命が完全に運転しない。
そこから、そういう生命の枯渇現象として体がくたびれて来るんです。

             <感謝合掌 平成27年10月10日 頓首再拝>

[854] 人間・神の子無限力の真理〜その2
伝統 - 2015年10月11日 (日) 03時31分


《物質欠乏の戦争中、癌にかかる人はなかった》

      *『新たに生まれるための講話』(P198〜200)より

近頃日本では、ずいぶん沢山、癌にかかる人がある。
まるで流行病のように癌患者が殖えて来ている。

”癌”という字は、”疒(やまいだれ)”に”品物の山”と書いてある。
品物というのは物質のシンボルです。

日本も高度成長時代以来、物質の魅力に捉われている人が増え、
益々癌にかかる心理状態になる条件が殖えて来ています。


”金、金、金、金・・・”とばかり思うとったら、白髪のおじさん、その時はまだ
青年時代で元気溌剌の筈なのにもう体がくたびれて駄目になったと同じように、

”品物の山”に心をひかれて、物質、物質、物質・・・金、金、金、金・・・と
思って神を忘れる。そして大生命の神様の方へ心のアンテナをふり向けることを
忘れてしまうんですね。

日本も、戦争中は物質が欠乏して、食うや食わずでおったけれども、胃癌で死ぬ
ような人間はいなかった。あの時代には、日本人は、”金、金、金、金・・・”
なんてそんあものには魅力はなかった。

日常生活に必需の鉄瓶までも軍に献納して国を衛るための兵器にしてもらった
ものです。


人間の健康というものは、
単に物質的な栄養とか薬剤というものによって保たれるものではない。
神の生命に波長の合う精神によって病気に罹らない健康は保たれるのです。

その事が、
”牝鹿の脚”に乗っていと高きレヴェルの世界に上がって往くことなんですよ。

魂が一層高きレヴェルの世界に上がって往くには、どうすればよいか、
グレン・クラーク教授は、その白髪の老人に聞こうと思って

「失礼ですが、もう1分間・・・あなたのその病気が治ってから、どうして、
その一層高いレヴェルに昇って行ったのですか」と訊(たず)ねた。

             <感謝合掌 平成27年10月11日 頓首再拝>

[861] 人間・神の子無限力の真理〜その3
伝統 - 2015年10月13日 (火) 04時10分


        *『新たに生まれるための講話』(P200〜201)より

白髪の老人は自分の経験を語りだした。

彼は疲れた残骸のような体をスペキオル湖畔の小さな島で静養をつづけていると
ある日、スペリオル湖が大変な大波で彼の乗っているボートが転覆して死にそうに
なった。

その時に、今まで”金、金、金、金・・・”と思っとった人間が ――
「神様、助けてください! 」と、心が神の方に振り向いたが、

彼はこんな生きとっても誰れのためにもならない ―― そんな人間が、
”生かしていて下さい”と神に頼む ―― 祈る価値が一体あるだろうか、
と思ったら、その瞬間、祈れなくなったけれども、

やはり生命(いのち)が惜しいから、次のように祈りはじめたのでした。

「神様! もしあなたが私を救って下さるならば、それ以後の私の生涯の半分を
神様の仕事に、人間を救うために捧げます。特に青年を善導するためにこの命を
捧げます」と誓いを立てて祈ったのですねえ。

今まで金の方ばかりに向いておった彼の心が、人類を救うために、神様のために
働くためにと、魂がクラーッと向きが変わったのでした。


特に誓いを立てて祈るということは、自分の心を真剣にするので、非常に効験が
あるのもです。そしたら、スペリオル湖の大波が突然シューッと退(ひ)いて
しまって、雲が霽(は)れて来たのです。


お空を見ると、お月様と雲が出ている、そして月の大きさの四分の一ほどもある
大きな星が輝いている。

まるでイエス誕生のとき天文占いをするエジプトの博士が、今し星を目当てにして
厩(うまや)で出産した救世主を”此処だ”と探し当てた時の目じるしの星が
多分この星ぐらいだったと思うほど明るい光をその星は発していた。

彼は見渡す限り水水水で、湖の広さは広し、どこが岸だか判らないスペリオル湖を、
その星を神の導きとして星の示す方向へと一心にボートを漕いだら、彼がボートを
漕ぎ出した元のそのロイヤル島の舟着き場へ、ピタリと着いちゃったんです。

白髯(はくぜん)の老人はこの話をし終わると、

「私の体験はこれで終(しま)いです」と言って、立ち上がって、次の座席のほうへ
歩き出したのでした。

             <感謝合掌 平成27年10月13日 頓首再拝>

[862] 人間・神の子無限力の真理〜その4
伝統 - 2015年10月14日 (水) 02時36分

        *『新たに生まれるための講話』(P201〜202)より

グレン・クラーク教授は、その体験の意義を語ってほしかった。

「失礼ですがもう1分間」と呼びかけて、「その後どうしたんですか」と訊く。

そしたら老人は言う。

「私はただ霊のエレベーターに乗っただけなんです。
そして別の”人生の階層”(レヴェル)へ上がって往ったんです」・・・

魂の向き方がちがんですねえ。
今まではねえ、”物質、物質、物質””金、金、金、金”というねえ、
そのレヴェルの方へ上がって往っておったんですね。

ところが今度は、そうじゃないんですねえ。
神様のレヴェルの方へ上がって往っちゃったんですねえ。


老人は、「別のエレベーターに乗って”別の階層”へ上がったんですか」と
更に問わずにはいあられない。

《ここ》なんですよ。
私の今日の題は<人間・神の子無限力の真理>ということになっている。
人間は”物質的階層”を超えて””別の霊的階層”に昇れば無限力があるんですよ。

無限力が本来あるけれど、これは霊の問題ですから、別の階層へ上がって往く
ように魂が向かなかったら、それは昇ることが出来ない階層なんです。

             <感謝合掌 平成27年10月14日 頓首再拝>

[865] 人間・神の子無限力の真理〜その5
伝統 - 2015年10月15日 (木) 04時48分


        *『新たに生まれるための講話』(P202〜204)より

老人は言う。――

「それは神秘ですよ。偉大なる、不可思議なる神秘ですよ。
あんたがこの神秘を知りたいとおっしゃるなら、それはこうなんですよ。
『神はわが脚を牝鹿の脚のごとくならしめ、いと高きところに吾れを立たしめ給う』

と聖書にあるでしょう。旧約聖書の『サムエル後書』第22章に――。


その時、クラーク教授は、

「その牝鹿の脚ということはどういうことなんですか、
どういうように牝鹿の脚はあるくんですか」と訊く。

そしたら老人がこう答えている。

「神様が鹿にはどのように脚を使わねばならぬかをちゃんと教えておられます」と。

ね、《そこ》なんですよ。

皆さんの《いのち》の中には神様のいのちが宿っている。

《神様のいのち》は、いと高き天界から天降って来たんだから、
そのいと高き世界へ上がって無限能力を発揮するにはどうしたらいいか、
ということは、ちゃんと皆さん自身の《いのち》が知っているんだ。

ねえ、皆さんの本心は知っているですんですよ。
皆さんに宿る神の叡智が知っているんですねえ。

老人は言う。

「神様が鹿にはどのような脚を使わねばならぬかを、ちゃーんと教えておられる。
教えていられるだけじゃない。鹿は、そのままの心でちゃーんと神様の教える
通りに登っていくんですよ。ねえ。4本の脚を使うんですよ、というところですね」

と半(なか)ば冗談みたいに言う。

解ったようで解らないから教授は、もどかしく、

「ところで、その鹿は高い所へ登っていくのに何(ど)の道を通って行くんですか」

と更に突っ込んで訊いた。


もっともこの問答はアメリカ人同士の対話だから
お互いキリスト教を信じているんですがねえ、

「私の見出した最もよき道は『主の祈り』ですよ」と、

こう言うといよいよ老人は立ち上がった。
そして自分の名刺を差し出して、「私はこういう者です」

その名刺にはオハイオ州エークロン市、ミスター・フィビーガーと書いてあった。
そして老人は、

「もう私の言うことはこれで終りです。終(しま)いです」

と言って、今度こそ本当に去って往った。

             <感謝合掌 平成27年10月15日 頓首再拝>

[867] 人間・神の子無限力の真理〜その6
伝統 - 2015年10月16日 (金) 03時10分


        *『新たに生まれるための講話』(P204〜206)より

《”主の祈り”の示す道》

その『主の祈り』というのは、皆さん知っているでしょう。
それはキリストが教えた模範的祈りです。

「天に在(ましま)すわれらの父よ、御名を崇(あが)めしめ給え」という
句を以って始まる祈りです。

この世界は一つの神によって創造(つく)られ、一つの神が支配しておられる。
”天”というのは実相世界のことです。

その支配しておられる実相世界の神様が
「天に在(ましま)すわれらの父」なのです。

それは善なる神様であるという直観的な前提があるんです。
”善の神さま”であるからこそ、御名を崇(あが)めるのです。
善なる神だから、直観的に、その善を信じてもう《そのまま素直に》
崇(あが)めるのです。

この世界は善なる神様が創造せられ、
その叡智をもって支配していられる世界であるのです。

《御名》というのは、神さまの御本質であり、「ヨハネ伝」福音書の冒頭にある
「言(ことば)は神と偕(とも)に在り、言は神なりき」とある聖句に
照合して、神の創造せられたる一切のものを包容しているのであります。


そこで、「御国を来たらしめ給え」という祈りの句が生きてくるのです、
”御国”が既にあるのです。それを吾々は実相世界と呼んでいるのです。
”天国”とも”龍宮”とも謂い、もうすでに在るんです。


どんな世界かというと、それは善なる一つの神様が中心座にましまして、
その一つの神様がその御心によって全ての生きとし生けるものありとしあらゆる
ものを、その一つの中心の御心に調和した相(すがた)で生かしておられる
円満完全至微至妙(しみしみょう)の世界なのです。

これが「神意(みこころ)の天に成る世界」であり、天国であり、神の国であり、
実相世界なんであります。

その実相の至微至妙円満の世界を地上に実現いたしますようにという祈りが、
「御意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え」
という祈りの言葉なのであります。


これはキリスト教だけの話だと思ったら間違いなのであります。
それは、キリスト教の話でもあるし、イエスの押しででもあるけれども、
この宇宙の中心座にまします”善なる創造神”とは、

仏教においてはヴェローシャナ仏であり、
漢字を当てたら毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)、
また大日如来とも訳されていますが、

仏教ではこの毘盧遮那如来が大宇宙の中心に在(ましま)して、その如来の分身
である仏様が十六方向に顕(あら)われてしらっしゃる、そういう中心帰一の
秩序整然とした世界が「神意(みこころ)の既に成れる実相世界」なのであります。


これは結局、大日如来、日本語に御神名(ごしんめい)を申し上げると
天照大御神(ヴェローシャナ仏)を中心とする天国的国家、言い換えると
”大日本真理国家”と謂うのが「御意(みこころ)の天に成る世界」ですが、

これはまだ肉眼ではわれわれは見ることができなんだけれども、それが、
「御意(みこころ)の天に成る世界」として、すでに在るんです。

実に今既に実在(ある)んです。


             <感謝合掌 平成27年10月16日 頓首再拝>

[871] 人間・神の子無限力の真理〜その7
伝統 - 2015年10月17日 (土) 04時27分

        *『新たに生まれるための講話』(P206〜209)より

《こうして、われわれは「牝鹿の脚」に乗る人となる》

皆さんが、その「御意(みこころ)の天に成る世界を地上にまで成らしめ給え」
と祈る心 ―― これこそが、「牝鹿の脚に乗る心」なのであります。

「牝鹿の脚」というのは、これは最初に、グレン・クラーク教授がその話を聞いた
時にはなんのことか理会できなかった。

しかし ―― 或る日、眠っておって夜半(よなか)に眼が覚めたら、パッと思い
浮かんだ、インスピレーションみたいにその解釈のアイディアが思い浮かんだのです。


それは、教授が或る暑中休暇の時に、誰かに頼まれて、広大なる原野を測量したり
調査したりする仕事を与えられた時でした。

そこは人間の背の高さよりも高いような茅草が生(は)えている処だから歩いては
仕事ができない。それで教授は非常に立派な名馬を貸してもらって、その馬でその
原野を走りまわって測量や調査の仕事をするということになりました。


教授は、其処へ行った時、数人のカウボーイと知り合いになりました。
カウボーイは、馬に乗ることでは専門家で、彼らと一緒に、山登りをして馬を訓練
しようじゃないか、ということになったのでした。


その山というのは、岩が突兀(とっこつ)としている急坂の山なんです。

教授は山の中腹まではカウボーイと一緒に馬に乗って行ったのですが、
カウボーイたちは頂上へと直線的に最短距離をその突兀(とっこつ)とした
峨々(がが)たる磐道(いわみち)を、乗馬のままで登って行くのでしたが、
振返って教授に言いました。

「グレン・クラークさん、あんたの馬は駄目だよ。真直ぐに行ったら墜落するから、
遠まわりだけれどもジグザグ道(コース)で傾斜がゆるくしてあるあの登山路(みち)
を登って行きなさい」と。

「だってこの馬は、君たちの馬より余程立派な馬なんだ」と教授は反駁しました。

「そうなんだ、実に立派な馬だけれどもねぇ、都市の中で3年も5年も生活した馬
というのは、前脚が歩いた処を、寸分違(たが)わず後脚がそこを踏まない、
1インチは2インチがズレた処を踏む。そうすると滑り落ちる危険があるんだ。
精確に前脚が歩いた跡を踏むのは、これは山ばっかり不断に歩いている馬だけなんだ」
と言ってその理由を説明した。


その説明によると、馬が山を登るとき、前脚はどこを踏むかということを馬自身
眼で見ながら前脚を、滑り落ちないように、岩がとび出とって、蹄(ひづめ)が
恰度突起にひっかかって、それで大丈夫滑り落ちないという処を見きわめながら
登って行く。

しかしながら、前脚が踏んだ跡を後脚が《そこ》を踏もうとしても、もし1インチ
でも1センチでも違うところを踏んだら蹄に引っかかる岩角がなく、滑り落ちる。

それで馬の後脚っていうものが、前脚が踏んだ処を精確に踏んで行くのでなければ
ならない。山登りを常にしているカウボーイの馬は、この本態精確さを失って
いないから危険はない。

しかし教授の馬は立派だけれども、都市に3年も5年も生活しておったから、
後脚が精確に前脚の跡を踏む本態が後退していて、前脚の歩いたその脚跡に
ピッタリ歩かないで、10センチや10インチちがう処を踏むから、危険なので
ある。・・・


教授はそう言う説明を聴いても、よくその意味がかわらなかった。

ところが、或る日、教授は夜半(よなか)に眼が覚めたら、
インスピレーションのようにその意味がわかったのです。

             <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

[879] 人間・神の子無限力の真理〜その8
伝統 - 2015年10月19日 (月) 03時22分

        *『新たに生まれるための講話』(P209〜211)より

《前脚は現在意識、後脚は潜在意識の比喩である》

その後脚というのは、眼に見えない世界から自分を導いているところの潜在意識、
潜在意識のまだ奥深く這入(はい)って往くと人類意識、宇宙意識、更に超越意識
(super-consciousness)―― 神の意識で、
吾々の心はそれにつながっているんです。

この隠れたる処にいます神の意識に吾々の潜在意識がもしつながっていなければ、
前脚だけが「この希望を成就しよう」と思って前進して行っても
後脚が従(つ)いて来てくれないで、計画が成就しないで滑り落ちる。

山に生活する野生獣のうちでも、あの牝鹿の脚という奴は、動物の中で一番精確に
前脚が踏んだ跡を後脚が踏む ―― ということを教授は思い出したのです。

それで教授は、はじめてあの白い髯のおじさんの語ったことの意味が解ったと
いうんです。


ところで皆さん、皆さんは、自分は”神の子”として無限力が自分の中に宿って
いるけれども、それを発揮しようと思っても、発揮できない人が多いですねえ、
それはどういうわけですか、わかりますか?


《何故、”神の子”の潜在能力が発揮できないか》

それは、都市の中を数年間生活した馬みたいに、唯物論の”金、金、金”とか
”出世、出世、出世”とか、そんなことばかりを考えている。

そういう世界に常に住んでおったら、われわれは潜在意識の底の底がねぇ、
神様のスーパーコンシャスネス、超越意識につながらないんだ。
それは余り神の意識とは波長が合わめからです。

だから現在意識という前脚の思う通りに潜在意識という後脚が応援してくれない、
ということになるから、無限力がありながら無限力を発揮することができない、
ということになっているというわけなんです。


《人間が幸福になる為には》

先刻(さっき)、私は、お昼の食事時間の前に『美しき日本の再建』という
青年特別教修会全国大会(編注・現在の「生長の家青年会」全国大会の前身)の
プログラムのパンフレットが机の上にあるのに気がついたのです。

それで食堂へそのパンフレットを持って行って、披(ひら)いて見たんです。
なかなか上手に編集してある。
誰が編集したのか知らんけれども、表紙にこう書いてある。 ―― 

  ”あなたは
  人を愛するために
  生まれてきたのです

  人を愛するとき
  国を愛するとき
  人間は幸福なのです”

こうあるんです。

人を愛するとき、国を愛するとき、人間は幸福なんです。


単に幸福だけじゃないのです。 

その時ねぇ、皆さん、本当に「牝鹿の脚に乗っていと高きところに立たしめ給う」
と聖書にある ―― そのいと高き所へ登って往くことが出来るんです。
霊のエレヴェーターに乗って上昇することができるんです。

             <感謝合掌 平成27年10月19日 頓首再拝>

[882] 人間・神の子無限力の真理〜その9
伝統 - 2015年10月20日 (火) 03時57分

        *『新たに生まれるための講話』(P211〜212)より

《”主の祈り”を日本的に意訳すれば》

教授が、「その牝鹿は、どこを通って高い処へ登ったのですか」って訊いたとき、
「それは『主の祈り』ですよ」と、白い髯の老人は言った。

その”主の祈り”を日本的に書き換えれば、次の如くなります。

「天に在(ましま)すわれらの父よ、善なるわれわれの道(御名)を崇めしめ給え。
その神が支配しておわれる御国(実相の世界)を地上に来(きた)らしめ給え。
すでに天照大御神が中心座に在(ましま)すところのその実相世界を地上に実現
せしめ給え」

ということになります。

そういう高い理想の祈りが、”霊のエレヴェーター”にのることになるのです。
これは”国を愛する祈り”です。

そして、更に”主の祈り”はつづいているのです。

それは、

「わたしが全ての人の罪を赦すが如く、神様、あなたもわたしの罪を許して下さい」

という祈りです。

聖書には、”罪”という語の代りに”負債(おいめ)という言葉が使って
ありますけれども”負債”なんていう語(ことば)はちょっと青年には
わかり難(にく)いので”罪を赦す”という語(ことば)を使ったのであります。


             <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

[886] 人間・神の子無限力の真理〜その10
伝統 - 2015年10月21日 (水) 04時25分


        *『新たに生まれるための講話』(P212〜213)より


《他の人の罪を赦したとき自分を縛る罪が消えて自分が自由になる》

「牝鹿の脚」の哲学を発見した白い髯のおじさんは、

「ただエレヴェーターにわたしは乗っただけなんです」といっています。

神様のエレヴェーターには人の過ちを赦す心にならないと乗れないのです。


”赦す”ということばは、”釈放”の”釈”を当てはめることができます。
”愛する”という心が、人の過ちとかいうことの方へ振り向いたときに、
自然にに「釈(ゆる)す」という言葉がでて来るわけでして、
”釈(ゆる)す”とは結局、人を愛することなんです。


そこで、人の過ちを赦し、人の罪を赦して、その赦すようになった時に、その人は
悪というものを掴まなくなるでしょう。赦すとは釈放することで、掴まなくなるから、
何ものにもひっかからなくなる。

それだから神のエレヴェーターに乗ることができる。
すると神のエレヴェーターは自然に動き出すんです。
これは神の智慧によって動き出すことです。

その人の潜在意識を通して超越意識の導きが、スーッと這入って来て、自然法爾に、
いと高き処にのぼることになるんです。
これが神の愛の勝利です。


             <感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>

[889] 人間・神の子無限力の真理〜その11
伝統 - 2015年10月22日 (木) 04時16分


        *『新たに生まれるための講話』(P213〜214)より

《愛は必ず勝利する》

愛は勝利する ―― 「神は勝利する」とこのプログラムには書いてありますが、
その通りであります。

神のエレヴェーターに乗るのには、”御国(みくに)を来(きた)らしめるため”に、
実相世界の毘盧遮那如来、盧遮那仏、毘盧遮那仏、日の大神、天照大御神中心のその
実相世界が地上に顕われるように、自分のいのちを捧げますという、いと高き至高の
理想に、自分のいのちをこう振り向けなければならないのです。


そこへ自分のいのちが振り向いたら、今まで乗っておった自分のエレヴェーター、
自分の力で自分が運転して、《あそこ》を押して《ここ》を回して、そうして
昇ったり降りたりする人間力のエレヴェーターじゃなくて、もう神様が運転して
下さるエレヴェーターに乗りかえる。

そして神様の叡智によって《いと》高きところへ昇らしてくださる、ということに
なるのです。その時に、皆さんは、人間神の子の無限力がいのちの内から湧き出て
くるということになるのです。  

             <感謝合掌 平成27年10月22日 頓首再拝>

[892] 人間・神の子無限力の真理〜その12
伝統 - 2015年10月23日 (金) 03時18分


        *『新たに生まれるための講話』(P214〜215)より

《先天的盲目の少年に学んで》

イエス・キリストが生まれつきの盲目の少年を癒した話が、『新約聖書』の
「ヨハネ伝」に載っているのであります。あの時に、イエスの弟子が、

「この少年が盲目にして生まれたのは、親の罪であるか本人の罪であるか」

と言っているんです。

親の罪という中には、親の親もあって・・・祖先も含まれているんです。

「親の罪にもあらず、本人の罪にもあらず、神の御業(みわざ)の顕われんが
ためである」とイエスは答えているんです。

「お前には、もっといといろなことが出来る力がある。それを顕わすために眼が
見えなくなっているんだよ」

というのが、イエスの答えられた「神の御業(みわざ)の顕われんがためである」
という言葉の意味なんだと私は思うんです。

キリストが、その少年の盲目を癒した時に、少年の方へ集(たか)って来たユダヤ人
たちが「お前、誰にその盲目を癒してもろうとたか」と問うと、

「あの人だ、あの人は神の子だ」と言ったら其処に、イエスが立っている。
すると、ユダヤの人たちが、

「あれは大工ヨセフの息子じゃないか、ただの罪人(つみびと)の息子を神の子だって
いうのは、神を瀆(けが)す者である。神を瀆す者は石にて打ち殺せ! 」

という。それは当時のユダヤ人の習慣になっておって、石をもち上げてそれでイエスを
打ち殺そうとしたその時に、イエスは、

「お前たちは聖書を読んだことがあるであろう・・・」

とこう仰っているんです。

             <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝>

[896] 人間・神の子無限力の真理〜その13
伝統 - 2015年10月24日 (土) 04時31分


        *『新たに生まれるための講話』(P215〜216)より


《「詩篇」第八十二篇に「汝らはみな至上者(いとたかきもの)の子なり」とある》

当時の聖書というのは、現在(いま)の『新約聖書』ではない。
『新約聖書』は、イエスが死んでから弟子たちが書いた。

イエス在世の当時(とき)の聖書は、ユダヤ教の聖書で、
現在(いま)は『旧約聖書』と称(い)われているものであります。


その中に、ダビデの「詩篇」というのがある。
ダビデ王が霊感を得て、書いたところの神の真理が書かれているんです。
イエスはその中の聖句を指摘して、

「その八十二篇にこう書いてあるじゃないか。
”なんじらは神なり。なんじらはみな至上者(いとたかきもの)の子なり”と
書いてあるでははないか。聖書の言葉は時効が来て効力が失われるようなことはない」

といわれたのであります。

”なんじらは”と複数に書いてあるのです。

ねえ、だから人間は《みな》”至上者(いとたかきもの)”すなわち”最高の神様”
の子であるというので、ただ一人の人間だけが”神の子”じゃない、すべての人が
”神の子”であるというんです。

これが、イエスの教えた「主の祈り」の根本なんです。


で、皆さんも、至上者(いとたかきもの)の住み給う高き境地に昇るためには
すべての人を”神の子”として拝む心を起さねばならないのです。

そして神の国、つまり天照大御神(あまてらすおおみかみ)中心のその真理国家が
すでに実相世界に在るのを、《それ》を現実界にあらわしましょう!

そのためには無我献身、私の《いのち》を捧げます!
という、そういう偉大なる決意をする。その時にですよ、皆さんは、新しい別の
霊的エレヴェーターに乗ることになるんですよ。


これは真(まこと)に神秘であって、諸君が実際にその決意をした時に、新しい
霊的エレヴェーターに乗って皆さんは、こう上へあがる。
《そこに》<人間・神の子無限力>を現実に引き出す道がひらけるのです。

無限力がありながら、いろいろの迷いが、例えば憎しみとか、怨(うら)みとかいう
感情の習慣で、また他のいろいろの迷信であるとかいうものが、本来の無限力の
出口を縛って、細めているんです。

その縛りを各々(いちいち)解(ほど)いていくとき、そこに本当の無限力が
顕(で)てくるということになるわけなんですあります。

・・・

以上で、”牝鹿の脚の話”に関した「人間・神の子無限力の真理(下の1)」の
『新たに生まれるための講話』からの謹写を終了いたします。

             <感謝合掌 平成27年10月24日 頓首再拝>



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