生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第十四話> (309)
日時:2013年03月04日 (月) 14時43分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第十四話(通算第340話) 光明思想家とマルキストとの対話(13)



歴史的存在としての日本<その三>

(『解放への二つの道』P.155−158)




客:

それはあまりに人間のありかたを大自然に押し付けるのだと思います。自然は自然であり、人間は人間であると思います。誤謬は特殊なものをつかまえて一般的にし、部分のありかたを、全体のありかたに押しひろげる処にあると思います。



主:

自然と人間とが別々のものではなく、自然に対する人間の理解が正しい連関をもっていればこそ、言いかえると、自然の中の「知性」と、人間の中の「知性」とが本来「一つのものであるあらこそ、自然の中にある「知性」即ち「法則」をば、人間の中にある「知性」が見出してそれを理解し、意味づけ応用できるのではありませんか。



客:

それは、そうですけれども--------先生の詩ですか、聖経『天使の言葉』と云うのがありますね。あの中にベートーヴェンの耳が晩年に聾(つんぼ)になったけれども「心の耳開けたれば、心の耳はピアノの鍵盤に触るるに従いてその妙なる奏曲を分別し得たるなり」とありますが、あれなども、特殊の例をもって全般に当て嵌めようとした行き過ぎではありませんか。

ここで注目すべきことは彼の聾(つんぼ)が晩年に起こったのであって、聾になる前にその肉体の耳で、音楽の勉強を充分しておいたからこそ、聾になってからも、頭の中で音楽を想像して記録したり作曲したりすることが出来たのでしょう。若し生まれつきのの聾だったら音楽の作曲は出来ません。これをもって「心の耳できく」などと云うことは行き過ぎだと思います。



主:

音楽を勉強していないでも突然ピアノでプッチニーの名曲を弾奏しだしたというような実例が『生命の實相』第五巻にありますよ。それから日本にも「天華(てんげ)」と云う宗教の教組渡辺薫美氏は習わぬ名曲を自由にピアノで弾いた。心は肉体を道具として使うけれども道具が欠損したりすると、肉体の条件を超えて働くことがある。近頃では聾唖(ろうあ)学校の生徒が足の裏で音楽をきいてダンスすることができる。あなたは心は肉体の頭脳からでる産物だと思われていますか、肉体はどこまでも心の道具である。あなたは、肉体がなくなったら、もう「自分」と考える人間はなくなると考えていますか。



客:

無論私は人間は肉体であって、心は肉体の脳髄のハタラキである。脳髄を灰にしてしまったら自覚している人間は何にもないと考えています。



主:

そう云う人は『生命の實相』の第五巻か、唯今『白鳩』誌に連載中の「幽冥の境を超えて、仲の好い夫婦の物語」と云う実話を読んでごらんなさい。人間の肉体が死んでから人間の心の働きが存在すると云うことがよくわかります。



客:

そんなことが有るものか知ら。あるとしたら、ビキニの灰のように、超原子爆弾の形は破壊してしまっても、その放射能が到る処に姿をあらわすと云うようなものですかな。



主:

そう云う機械的なハタラキの継続ではなくて、高等な精神的能力が、肉体脳髄の知らないようなことでも知る精神的能力が続いているのですよ。それが人間の霊魂であって、その霊魂が或る機会に母親の胎内にやどって、人体を構造するのです。


だから一々の霊魂はすべて個性が異なる。人間が肉体一代で終ってしまうもので、環境の物質的条件で心の性格や能力が定まるのだったら一卵性双生児のように卵も一つで同じ胎内に宿って生まれ、同じ家庭で育った双生児(ふたご)は、その生育、生長、生活の環境条件は全く同一であるから、同じ性格や能力をもっていなければならないのに、各々異なる能力や性格をもっているのはどうしてでしょうか。

即ち同一物質的条件でも異なる能力や性格が出てくるのは、精神が物質を支配するのであるからであり、その同一物質的条件を支配する「心」又は「たましい」が異なるからだと言うことができるのであります。

つまり、「歴史」と云うものが「心」の中に存在し、それが環境条件を利用しながらそれを現実の世界に表現して行こうとするのが「生命」なのであります。

日本人の心の中には、他国民にはないところの特殊の「歴史」が存在して、それが現実的な日本の歴史として、生々発展実現して行くのであって、日本を愛せよと言うことは、この吾々日本民族の心の中にあるところの、他国民にはないところの、特殊の歴史を尊重して、それを尚一層尊きものに完成して行くことなのであります。






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