生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第三十話> (543) |
- 日時:2013年03月20日 (水) 13時38分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第三十話(通算第356話)
西田哲学との比較に於ける人間論 <その十二>
(『人間死んでも死なぬ』P.360−363)
<<仮相が抹殺されたが故に實相が顕現し、「土の塵」が抹殺されたが故に「神の生気(いのちのいき)」なる真の人間が生き、「仮存在(ニセモノ)の肉の人間」が十字架につけられたが故に「真の人間」が復活したのである。
これがキリストの復活であって、その復活によってキリストは創世記の第二章の「土の塵の人間」を抹殺すれば本当の人間が顕現する事を教えたのである。
キリストが「十字架を負いて我に従え」と言ったのは「肉の人間」を<偽存在の人間>として存在の自覚から抹殺し去ったとき、ここに此の儘神の理念であるところの「真の人間」を見出すと言ったのである。
此の消息はヨハネ伝第二章にキリストがニコデモに対して「肉より生まるるものは肉なり」と言った言葉に見出される。「土の塵」より生まるるものは依然として「土の塵」であるほかはない。
人は新たに生まれなければならないのである。新(あら)たに生まれるとは一度土の塵に還ってもう一度生まれ更わって来ることではない。「霊によって生まれる者のみ霊である」(ヨハネ伝第三章)吾等はすべからく「土の塵」から「霊なるもの」へ転生しなければならないのである。
我等は「土の塵」と「生気(いのちのいき)」との二元的存在から、「土の塵」なるものを抹殺し、「物質的肉体的存在なる自覚」を磔殺にかけて消去した時にのみ、キリストと共に復活し転生するものである。
斯くの如くしてのみ人間存在の根本矛盾は解決されるのである。
斯く「土の塵」的人間の一面を<無し>と断固として十字架につけた時にのみ、キリストと共に人は天国に転生するのである。
併し、斯く物質的一面を自覚の世界で抹殺し去るならば、もう物質的空間と、それに関係してある時間の超えがたき隔たりは共に消える。
此処は此の儘「<超時の今>」として此処が此の儘天国であり、此処に此の儘その人は天国に転生しているのである。換言すれば此処が天国浄土となる。
法華経の寿量品に「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして」である。在る人は私の此の「生命の實相」哲学によって、病気が治り、運命が好転したと云う。
事実を見ない者は何か譎詐(きっさ)ででもあるかのように思う。キリストは真理であり、生命であり、道であり、復活であるが故にキリストの足跡の及ぶところの斯くの如き奇蹟が伴っている(新約聖書)。
現代のキリスト教が奇蹟を伴わないのは、レッテルがキリスト教であるけれども中味がキリストの教え其の儘ではないのである。
キリストは「土の塵」なる肉体的部分を人間から抹殺して、霊の人間として転生すべきことを教えたのである。新訳聖書を私のヒントに従って読んで見ればその事がハッキリ判るであろう。そして転生した人には奇蹟が起こっている。
名前の知られている人で例を挙げて見れば歌人で学習社の社長である西村陽吉氏の如きはその一人である。同氏は「土の塵」なる物質的人間から、朽ち果つることなき霊の人間にまで、私の『生命の實相』を読むことによって転生したのである。
すると突然近眼が治り、豪酒家であり同時に毎日多量の煙草(たばこ)がなければ生きられなかった氏が、突然酒が飲めなくなり、煙草を不要とするに至った。以前「土の塵」であったところの氏は眼鏡に頼り、煙草に頼り、物質の奴隷であるほかに生きられなかったところの奴隷的存在であったのである。
今や氏は「肉体本来無し」の自覚の上に立って「土の塵」的部分を人間から抹殺し<霊なる>自主的存在として転生したのである。
氏は人相までも変わってしまった。仄(ほの)かに聞けば、氏は現在では煙草を奴隷的立場(何事によらず、それが無くてはならないようになったとき人は、そのものに隷属し、そのものの奴隷となったのである)でなしに、、楽しむと云うような立場に於いて、少量の煙草に無限の楽しさを感ずる様になったと云うことであるが、氏が「生命の實相」に触れて以来の自覚の転生と、それに伴う実生活の転生と健康の転生と、境遇の転生と、近頃までの経過と、------そのほか折に触れてものした諸々の随筆とをまとめて『いのちの自覚』と題して其の頃厚生閣からでたのであった。
出版に先立ちて私の序文を求められたが、氏の尊い転生体験記に私が序文を書いた為に、其の書が私の『生命の實相』を宣伝する出版であるなどと間違える人があっては氏の尊い体験記を涜(けが)すことになると思うので序文を書くことはお断りしたのである。
兎も角、西村氏のみならず、人間の物質的存在方面を自覚の上から抹殺した人には異常なる奇蹟が現実に伴っている。哲学が単なる理性や思索の遊戯である時代は終ったのである。実際生活を、境遇を、肉体を、実際改変するような哲学を現代はもとめて覓(もと)めているのである。
而(しか)しその為には、今迄絶対優強性をもって人間の精神力の上に君臨していた物質なるものの存在を、一度「無」にまで貶黜(へんちゅつ)して、悟りの精神力をもって此の物質世界を支配する方法を学ばねばならないのである。私はこの問題の詳細については全集『生命の實相』を読んで頂くことを希望するのである。>>
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