生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第四十六話> (745)
日時:2013年04月08日 (月) 14時11分
名前:信徒連合




< 第四十六話 >「わたしは、ヤッターマンなのよ!純子拝」

(平成22年6月15日『恵味な日々』より)


<<原稿の締切日が講習会と重なると、どうしても遅れてしまいます。私の場合は、大分早めに締め切りをセットされているようなので、時間的に余裕はあるようですが、やはり締め切りを過ぎると、気分は重いです。今日は何が何でもという気持で、一日原稿を書いていました。先ほどようやく送り、(ヤッター)という気分です。そんなわけで、朝食とお弁当の写真だけです。>>




(講評)


本当に、何をか況や!であります。三代目純子(自称)白鳩総裁の生長の家・月刊誌への原稿を書いている態度は全く不真面目であると言わざるを得ないのであります。(ヤッター)と云う叫びの気分の背後にあるものは――


(1)彼女は「生長の家」の月刊誌は単なるマガジンではなくて「神誌」と誰言うとなく呼ばれていた“レベルの高い純宗教誌”であったという歴史的認識がないのであります。


(2)開祖・谷口雅春先生はその「神誌」のお原稿を書かれるときは、自心を無にして自らを神様からの言葉・思いが通過するパイプと認識してペンを走らせておられたのであります。このことへの認識など少しもなく自分の肉体頭脳の現在の価値観で考えた事を書いているのが三代目雅宣・純子両(自称)総裁の文章なのであります。だから、いつのまにか「神誌」という呼称が姿を消し、三代目雅宣(自称)総裁自らが世間の常識感覚でとらえた“マガジン”と呼ぶものとなってしまったのであります。


(3)三代目雅宣・純子両(自称)総裁にとっての生長の家月刊マガジンの原稿書きは、「株式会社・生長の家」のサラリーマン社長・副社長の必ずこなさなければならない一つの“仕事”なのであります。昭和五年の「生長の家出現の精神」に基ずく“使命感”を感じた真剣な気持をもっての神様からのパイプの自覚に基ずく原稿書きではなく、毎月のこなすべき“ノルマ”としての原稿書きであります。


 三代目純子(自称)白鳩総裁のこのような潜在意識内の無意識の作用によって“ヤッター”という無意識的叫びが沸きあがったのであると感ぜられるのであります。本当は<神様から私に与えられた使命を今日も十分に果たせますようにと祈りながら「神誌」のお原稿を書き上げる事が出来ました>という表現であって欲しいと思いますが、さにあらず。かかる気持で出来上がった文章でありますから、学者的解説文・左翼的評論文・誰でも書ける単なるエッセイとなり、宗教本来の使命たる人々の病・悩・苦の解決に役立つ内容からは大きくかけ離れたものとなってしまって行っているのであります。


これも無理のないことであって、両(自称)総裁二人とも恵まれた環境の中で育ち、錬成道場での真剣な下座の行の修業も十分でなく、誌友会場主になっての真剣な真理宣布活動の体験も戸別訪問伝道の体験もなく、さらに教化員(地方講師・本部講師)としての真剣な個人指導の体験を持たずに“お孫さまご夫妻”と云う七光りだけで三代目を自作自演して継承と称しているに過ぎない。従って、頭でっかちになるのは止むを得ない事であります。






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