生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「初心者」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定する! <その31> (804) |
- 日時:2013年04月14日 (日) 10時37分
名前:四万十分析官
「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣(自称)総裁」と言われているのである。そして、彼、雅宣(自称)総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。
以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。
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「トキ掲示板」より
1064 :初心者:2012/10/18(木) 09:49:07
<<・・・生長の家の排他的な性格にしても、一神教の思想によってもたらされた不寛容であるということがいえそうです。「真の生長の家」の発言が不寛容の好例ですね。真と偽とをわけ、ホンモノとニセモノとをわけ、ニセモノと見なした相手は徹底した不寛容の姿勢で排除しようとする心的傾向(じっさいは欲望なのですが)が、「真の生長の家」の発言にはあらわれているともいえます。生長の家でも「一即多、多即一」とていのよい表現はもちいられておりますが、じっさいには「多様性」を認めようとはしていないようです。自分が信じるものとは異なる考えは、すべてが「虚説」とされ、自分が信じるものとは異なる発言をするものは、すべてが「迷った人」とされます。自分の「基準」だけが、物事の成否を判断するゆいいつの尺度であり、他の尺度はいっさい受け入れようとしない。これが「真の生長の家」の真のあり方というものでありますが、その「基準」がいくら間違った基準であったとしても、その「基準」しか知らないものは、その間違いに気づくことさえできない、ということになりますね。 >>
1082 :初心者:2012/10/18(木) 18:13:17 >1079
<< 生長の家の知的レベルがどういうものか、・・・なぜあれほどまでに「人間知」を否定しなければならないのか、・・・世間の水準とはおそろしくかけ離れているとしかいいようがありません。>>
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<問題点>
上記二つの文章によると「初心者」なる人物は「生長の家」自体が大変嫌いであるようである。「初心者」は次のように書いている。
@ 「真の生長の家」の思想は不寛容の思想である。真と偽(ホンモノとニセモノ)とをわけ、ニセモノと見なした相手は徹底した不寛容の姿勢で排除しようとする思想(心的傾向)である。
A 「一即多、多即一」と言いながら、実際には「多様性」を認めようとはしていない。
B 自分が信じるものとは異なる考えは、すべてが「虚説」とされ、自分が信じるものとは異なる発言をするものは、すべてが「迷った人」とされる。自分の「基準」だけが、物事の成否を判断する唯一の尺度であり、他の尺度はいっさい受け入れようとしない。
C なぜ「人間知」を否定しなければならないのか、「人間知」を否定するのは世間の水準とはおそろしくかけ離れているとしかいいようがない。このことは生長の家の知的レベルの低さを表わしている。
上記4点のことは、「本流」掲示板の投稿者のみなさんから、雅宣(自称)総裁の『御教え』に対する考え方のマチガイとして指摘されたことへの反発的回答である。「初心者」の名前で精一杯抵抗を示したつもりであろうが、却って雅宣(自称)総裁自信が如何に『御教え』を理解していないか、『生命の實相』を熟読しないでマチガイ探しの目でクレームを付けることを主眼として読んでいたかを如実に表わしたことになるのである。
雅宣(自称)総裁の心を覗いて見れば、
@ 「今の教え」が“虚説”と断定されたことに心のイラダチ、腹立たしさを感じているが、元来が“虚説”なるが故に、“真説”には歯が立たないのである。
A 自分(雅宣)が未だ「無の関門」を超えていないことはわかっているのに、大理屈・小理屈を捏ね回して『御教え』批判を書けば、<それは人間知に過ぎぬ!>と一刀両断される。このことは残念ながら反論できない。分かっているが、腹の虫はおさまらず、このイラダチと腹立たしさ。
B 現代は価値観の“多様性”を認めるべき時代にもかかわらず、この主張を展開して書いた「小閑雑感」や「唐松模様」や「恵味な日々」さらに「ポスティング・ジョイ」などは「本流」信徒からボコボコにやっつけられている。ブログ記事の更新もままにならない。書きたくても書けないこのモドカシサ。ハラダタシサ。
C 雅宣(自称)総裁が、本部職員の前では“平静”を装っているが、一人になると“渋面”となっているとのこと。やはり、彼は常に内心ではイラダチとハラダチの心の状態である。(参考:4月13日の光明掲示板への投稿文では、< 本部会館や原宿の路地で時々谷口雅宣先生とすれ違いますけど、どうしていつも渋面なのでしょうか、会うたびこちらの心が暗くなります。 > と書かれている。)
本当に「初心者=雅宣(自称)総裁」は開祖・谷口雅春先生の『御教え』の肝心な点については何も分かっていないのである。だから、上記引用のような「初心者」の名前での投稿文しか書けないのである。難解な用語だけはふんだんに使っているが中身は『御教え』から見れば的外れな内容で現象中心の左翼的な唯物価値観に過ぎぬ。
次に「初心者=雅宣(自称)総裁」のマチガイを正しておくことにする。
@ 「初心者=雅宣(自称)総裁」の主張は、――
<< 「真の生長の家」の思想は不寛容の思想である。真と偽(ホンモノとニセモノ)とをわけ、ニセモノと見なした相手は徹底した不寛容の姿勢で排除しようとする思想(心的傾向)である。>>
『生命の實相』第13巻倫理篇に回答が書いてある。次の通りである。
<< 虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳がないように思うのはまちがいであります。また虚説を容(い)れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちいであります。虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。・・・虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す……。どうかみなさんも虚説(=ないもの)に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(=罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(=その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。・・・要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大のまこと誡命(=いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。>>
「初心者=雅宣(自称)総裁」は、真理を探究し自分のものとする求道の道はまことに厳しいと言うことが解っていないのである。『生命の實相』を心を無にして読まず、批判の心をもって読んでいるのであるから「生長の家」の思想は“不寛容”の思想と思うのである。この様な読み方では自称にしろ“総裁”の資格なし!
A 「初心者=雅宣(自称)総裁」の主張は、――
<< 「一即多、多即一」と言いながら、実際には「多様性」を認めようとはしていない。>>
であるが、この主張は文部科学省の中央教育審議会の山崎正和氏の考え方、即ち現代社会は価値観の多様性の時代だから、○○スベシ、アラネバナラヌ式の個人の多様な価値観を規制する画一的道徳教育は復活させるべきではない、という主張と同一線上にある。
聖経『甘露の法雨』にあるごとく、「この全能なる神、完全なる神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る」。このように唯一絶対神の生命は多様性のある萬物となって展開する。そして萬物は完全な調和の関係にある。唯一絶対神展開して多神(萬物の生命)となり、多神(萬物の生命)は唯一絶対神に収斂している。實相世界の国家理念は、色々な多様性ある国家として展開して顕われており、その多様なる国家は独立を保ち発展しながら世界連邦という一段と高められた止揚形態を造る。これが、日本建国の理想である「八紘為宇」の考え方である。個人の自由なる思想(多様性ある価値観)を野放図に認めたままにしておけば、利害衝突が起こり混乱が生じる。個人個人の多様性ある価値観を規律を以て伸ばしながら調和ある家庭、社会を築くためには道徳教育や教育勅語の精神の体得が必要である。すなわち、個人の多様性ある価値観を日本精神(大和の心)に収斂させていかなければ共同体は破壊され自壊する。
「“一”なるものは“多”として展開し、“多”は“一”に収斂する」ことを理解しなければならないのに、「初心者=雅宣(自称)総裁」は、「一即多」を主張するが「多即一」を認めようとはしないのである。権利は大いに主張すれども義務は履行せず、という戦後日教組教育の考えと同じで、『生命の實相』の読み方が完全にズレているのである。この様な読み方では自称にしろ“総裁”の資格なし!
B 「初心者=雅宣(自称)総裁」の主張は、――
<< 自分が信じるものとは異なる考えは、すべてが「虚説」とされ、自分が信じるものとは異なる発言をするものは、すべてが「迷った人」とされる。自分の「基準」だけが、物事の成否を判断する唯一の尺度であり、他の尺度はいっさい受け入れようとしない。>>
『生命の實相』第13巻倫理篇には――
<< 仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。・・・……われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまきれてしまうのであります。だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。・・・「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますから、われわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。>>
「初心者=雅宣(自称)総裁」は、難解な哲学用語で論議する事には長けているようであるが、何しろ素直な心で『生命の實相』を読まないのであるから、「真説」と「虚説」というコトバの意味すら的外れの理解の仕方をしているのである。まことに驕慢・傲慢の極に至った人間である。全く、総裁の資格はないといわなければならないのである。
C 「初心者=雅宣(自称)総裁」の主張は、――
<< なぜ「人間知」を否定しなければならないのか、「人間知」を否定するのは世間の水準とはおそろしくかけ離れているとしかいいようがない。このことは生長の家の知的レベルの低さを表わしている。>>
雅宣(自称)総裁には“求道心”は一切無いものと考えてよいのである。「無の関門」を透過して開祖・谷口雅春先生のお悟りの境涯に近づいて行こうとの考えが全然ないのである。一口に“真理”と言っても物質科学上の真理もあれば、精神科学上の真理もある。心霊学的真理もあるが、宗教の世界における「真理」とは、「神」であり、「實相」であり、「霊」である。換言すれば聖経『甘露の法雨』に示されているが如く、「聖・至上・無限なるもの」であり、「最高無限至上の真・善・美」である。「大生命そのもの」、「絶対実在そのもの」である。真実の求道者は霊的真理を自己生命で直接把握することを求める。そのためには肉体、物質、現象ナシとの「無の関門」を透過しなければならない。開祖・谷口雅春先生はこの「無の関門」を透過せられて實相世界に超入せられ、自己生命の直接体験として「真理」そのものと一体の御境涯に達せられたのである。次のように書かれている。
<< 金剛不壊の世界・蓮華蔵世界・・・私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の『空』なる世界ではなく、金剛不壊にして、『実』なる世界なのである。>>(『驀進日本の心と力』P.133)
<<・・・正法眼蔵・・・悟りの光の眼で見たる法体宇宙の実相はなんであるか、涅槃妙心にならなくては分らぬ・・・宇宙の微妙本体と一つになった妙なる心――絶対実在の絶対把握の妙心――を顕した時にのみ解るのだ。・・・「正法」と言い「実在」と言い「妙法」と言い「妙心」と言い、大日本国体であることを知らねばならぬ。・・・「引き寄せて結べば柴の庵なり、解くれば元の野原なりけり」・・・大日本国家はそんな因縁仮和合の国家ではないのである。若し仏教が一切の存在を「無」と見るならば、日本国家も無なのである。私は「生命の実相」<神示を受けるまで>の最後の章に示すが如き過程に於いて、既に「無」の門関を越えて釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである。・・・>>(『無門関解釈』P.71−72)
然るに、「初心者=雅宣(自称)総裁」は、自己の左翼主義的価値観を基準として、< 愛国心は戦争につながるから“悪”である。>とか、< 天皇制はヨーロッパの王権神授説と同じだ。 >とか、< 生長の家では霊界のことは解らないことになっている。>とかいって国家や霊に関する事柄を教えから外してしまった。これ等の所業は「無の関門」を超えて把握した悟りの叡智によるものではなく、雅宣(自称)総裁の肉体頭脳の考えという“人間知”による判断である。開祖・谷口雅春先生のお悟りの否定なのである。開祖・谷口雅春先生の到達せられたお悟りの御境涯と絶対真理の把握レベルは、求道心などを考えに入れないで、全てを戦後教育の価値観で判断する「雅宣(自称)総裁」の及ぶ所ではないのである。「生長の家」の知的レベルの高さが左翼唯物論思想の「初心者=雅宣(自称)総裁」には理解できないのである。彼に謙虚な求道心があればまだ救われるのであるが、その余地は全く無い。まことにこの様な人物は速やかに総裁の座から降りてもらわねばならないのである。
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